2026.1.15
朝田詩乃の部屋
新生アインクラッド第28層のフロアボスを撃破してALOからログアウトしてから、既に数時間が経過していた。
仮想世界では大量の肉や魚を食べ、そのまま大人数で迷宮区まで押しかけて一戦を終えたばかりだが、当然ながらゲーム内でどれほど満腹感を味わったところで現実の身体へ栄養が供給されるわけではない。夕方を過ぎれば現実側でも腹は減り、結局いつも通り三人で夕食を取ることになる。
食事をする場所も、退院前からほとんど変わっていなかった。
零奈の部屋は入院によって一時的に無限増殖を止めていた医学書や論文、大学から持ち帰った資料が、退院からまだ大して日数も経っていないというのに再び机や棚から溢れ始めている。床際には分類途中の紙束が並び、ベッドの脇には開いたままの医学雑誌が重ねられ、ソファの片側まで大学関係の書類に占領されているため、三人で落ち着いて食事を取るには明らかに不向きだった。
獅織の部屋も事情は似ており、本人が片付けを後回しにする性格であることに加え、学校関係の教材や零奈から渡された書類を空いている場所へ次々と置いていくため、生活できないほどではないものの、来客を招いて食卓を囲める状態からは遠い。
そのため、夕方になると零奈と獅織が自然にこちらへ集まり、食べ終われば壁一枚隔てた自分たちの部屋へ戻っていくという習慣が、二人の退院後には早くも以前とほとんど同じ形で復活していた。
今夜も小さなテーブルの上には三人分の夕食が並んでいた。
ただし、食事を始めてからの空気は、普段より僅かに静かだった。
獅織はALOから戻った直後こそ、ユウキが使っていたオリジナル・ソードスキルに刺激されたらしく、自分も飛び回りながら斬りつける技を作るのだと随分騒いでいた。
ところが夕食を始めてからは、その話もほとんどしなくなっていた。理由は、おそらく詩乃が先ほどから何度か携帯端末へ視線を落としていることに気づいているからだろう。
零奈も当然気づいていたはずだが、自分から何を受信したのか尋ねることはなく、いつもの速度で食事を進めている。詩乃が話す必要があると判断すれば自分から話すだろうし、そうでなければ他人が先回りして聞き出す必要はない、という程度に考えているらしかった。
やがて食事が半分ほど減ったところで、詩乃が箸を止めた。
「……今日のユウキのことなんだけど」
獅織がすぐに顔を上げた。
「病院にいるって話か?」
「うん。さっきアスナから連絡が来たの」
詩乃は一度だけ手元の端末を見た。
「昼間、あんたたちにも病院にいるって知られたでしょ。それでユウキが、別にそこまで隠さなくてもいいって言ったらしくて。アスナから、本人が話していいって言ってる範囲だけ教えてもらった」
零奈が僅かに視線を上げたものの、何も言わない。
詩乃はそれを確認してから、聞いた内容を思い出しながらゆっくり話し始めた。
「ユウキの本名は、紺野木綿季。生まれた時、難産でお母さんが大量に出血して緊急輸血を受けたんだって。その時に使われた血液製剤がHIVに汚染されていて、ユウキと双子のお姉さんも出生時か、その直後に感染したらしいの」
獅織の表情から、先ほどまで残っていた軽さが消えた。
「生まれた時?」
「うん。本人が何かしたとか、そういうのじゃない」
詩乃自身も、最初に聞いた時にはそこが強く印象に残った。
「感染が分かった頃には、お父さんも含めて家族全員が感染していたみたい。お父さんとお母さん、それに双子のお姉さんがいたんだけど……もう、みんな亡くなってる」
獅織は何も言わなかった。
昼間、ALOの中で見たユウキは、そんな話を少しも感じさせない少女だった。誰よりも大きな声で笑い、肉を食べ、初対面の獅織と競うように迷宮を駆け、フロアボスへオリジナル・ソードスキルを叩き込んでいる。
その姿と、家族を既に全員失い、自分自身も幼い頃から病院で治療を受けてきた少女という情報を重ねるには、どうしても時間が必要だった。
「治療はずっと続けてるって」
詩乃が続ける。
「感染したHIVが、もともと薬剤の効きにくい型だったみたい。それでも薬を組み合わせながら長い間抑えてたけど、だんだん使える治療の選択肢が少なくなっていったらしいの。それでも長い間は何とか抑えられてたけど、何年か前から免疫の状態が悪くなって、もうAIDSを発症してるって」
「……AIDSって、どうなるんだ?」
獅織が尋ねる。
いつものような勢いはなかった。詩乃は少し考えてから、自分が理解している範囲の言葉を選んだ。
「身体を病気から守る力がものすごく弱くなるの。普通なら大きな病気にならないような菌とかウイルスでも、重い感染症を起こすようになるんだって。ユウキも何度もそういう病気になってて、今はずっと病院から出られないみたい」
獅織は箸を持ったまま、自分の皿へ視線を落とした。
「……でも今日、あんなに元気だったぞ」
「そうね」
詩乃は静かに答えた。
「少なくとも、ALOにいる時は」
その言葉を聞いて、詩乃自身も昼間のユウキとの会話を思い出す。
現実にいる自分も、仮想世界にいる自分も、どちらも自分。出来ることが違うだけ。
本人はそれを説明するほどのこととも思っていない様子で、ごく自然にそう言っていた。今になって考えれば、あの言葉が単なる考え方ではなく、長い時間の中でユウキ自身が選んできた生き方なのだということが、昼間より少しだけ分かるような気がした。
「それと」
詩乃が続ける。
「ユウキは今、病室から普通のアミュスフィアでALOに入ってるわけじゃないんだって」
そこで初めて、零奈が僅かに反応した。
「何を使用している?」
「メディキュボイド」
零奈の箸がほんの一瞬だけ止まった。
「……以前君に話した試験機か」
「うん。ユウキ、あれの臨床試験に参加してるんだって。ほとんどそこからダイブしてるらしいよ。今いるところも無菌室みたい」
「臨床試験の被験者ということか」
「そうみたい」
「期間は?」
「そこまでは聞いてない。でも、かなり長いって。アスナが聞いた話だと、試験そのものが始まった頃から使ってるみたいな感じだったと思う」
零奈は数秒だけ黙った。
それ以上メディキュボイドについて説明することはなかった。以前の会話で装置そのものについては既に話している以上、今さら同じ内容を繰り返す必要もないと判断したのだろう。
「なら、現在も通常の治療と並行して使用しているわけだな」
「たぶん。あれ自体で病気が治るわけじゃないって、前に零奈も言ってたでしょ」
「ああ」
零奈は短く答え、再び箸を動かした。
獅織は二人の会話を聞きながら、何か考えるように眉を寄せていた。
詩乃は最後に、最も言いにくかった部分へ話を進める。
「それで……今の状態なんだけど」
一度言葉が止まった。
「かなり悪いみたい」
獅織が顔を上げる。
「どれくらいだ」
「アスナも細かいことまでは言ってなかった。でも、病院ではもう……長くはないって言われてるらしい」
今度こそ、獅織は完全に黙った。
食卓の上にはまだ料理が残っているが、手は動かない。昼間の最後に自分が何と言ったのか思い出しているのだろう。
退院したら現実でも遊ぼう。
元気になったら一緒に遊べばいい。
それを何の疑問もなく言った。
零奈はそんな獅織へ声を掛けることもなく、詩乃へ視線を向けた。
「アスナは、現在の病状について主治医から直接説明を受けたのか?」
「たぶん。ユウキの担当の先生と話したって言ってた」
「その内容を全て君へ伝えたわけではない?」
「そこまでは聞いてない。私も検査の数字とか聞いても分からないし」
「そうだろうな」
零奈はそこで一度食事の手を止め、箸を置いた。詩乃は何となく、その先を待った。
「……零奈は、どう思う?」
その問いに対して、零奈はすぐには答えなかった。数秒ほど考えた後、いつも通り一つずつ条件を並べるように口を開く。
「まず、現時点で確定しているものと、伝聞による概要を分ける必要がある」
声の調子は変わらない。
「紺野木綿季という患者が、出生時の医療行為を契機としてHIVへ感染し、長期にわたる抗ウイルス療法を受けてきた。現在はAIDSを発症しており、複数回の日和見感染を含む重篤な合併症を経験している。入院管理が継続されている。ただし、無菌環境については患者側の感染防御だけでなく、試作型メディキュボイドの運用条件も関与している可能性があるため、それ自体を免疫状態の指標にはできない。また、メディキュボイドの臨床試験へ長期間参加している。主治医からは、少なくとも予後について楽観できる状態ではないと説明されている。今、私が認識できる事実は概ねこの程度だ」
零奈は詩乃の方を見たまま続けた。
「一方、実際の診療判断に必要な情報はほとんど欠けている。直近のウイルス量、CD4陽性T細胞数、これまで使用した抗レトロウイルス薬と耐性変異、未使用の新規作用機序薬が残っているかどうか、既往と現在の日和見感染症と残存病変、肝・腎・肺を含む主要臓器機能、血算、栄養状態、現在行われている支持療法、それらが直近数ヶ月でどう変化したのか。どれも分からない」
聞き慣れない言葉が幾つも混じったものの、詩乃も獅織も途中で遮らなかった。
「加えて、情報の経路も考慮する必要がある。主治医からアスナへ伝わった内容の一部をアスナが君へ話し、その内容を今度は君が私へ伝えている。君たちの説明が誤っていると言っているわけではない。ただし、医師が診療方針を決定するために使用した情報と、家族や友人へ病状を説明するために選択した情報は同一ではない。そこからさらに二段階を経ている以上、私が今持っている情報を診療記録の代替として扱うことはできない」
「それは分かるけど……」
詩乃が僅かに眉を寄せる。
零奈はその反応も含めて見ていた。
「現在の状況から推測できることは一つだ。少なくとも彼女を長期間診療している医療者は、実際の検査結果と過去の治療歴を確認した上で、通常の治療によって病態を大きく逆転させられる状態ではないと評価している可能性が高い。そうでなければ、予後についてそのような説明を行う理由がないからな」
獅織の指が僅かに動いた。
「その上で取り得る態度を比較するなら、現時点では単純だ。第一に、患者を診察し、治療を継続し、実際の検査値を保持している主治医たちの判断を基準とする。第二に、患者本人を一度も診察しておらず、診療記録も閲覧していない第三者が、数分前に聞いた概要だけから別の結論を提示する。前者には少なくとも診療上の根拠が存在するが、後者にあるのは推測だけだ」
零奈はそこで僅かに言葉を切った。
「まして、現在の私は日本の医師免許を取得していない医学生に過ぎない。長期にわたって専門家が治療してきた患者について、本人の診察もせず、検査結果も見ず、この部屋で話を聞いただけの私が、担当医たちの誰も思いつかなかった方法を突然提示すると考える方が不自然だろう」
理屈としては、何一つ間違っていない。
むしろ詩乃にも、それが正しいことは理解できた。それでも、目の前にいるのが零奈だからこそ、少し腹が立った。
「……もうちょっとくらい、何か言い方あるでしょ」
詩乃は小さく息を吐いた。
「何か、良くなるといいな、とかさ」
「私も良くなればいいとは思っている」
「そういう意味じゃなくて」
「なら、君が求めているのは医学的な見解ではなく、楽観的な表現ということになる」
「そこまで分析しなくていいのよ」
詩乃は思わず額を押さえた。
零奈は何がおかしいのか分からないように僅かに眉を寄せる。
「私が根拠なく『治る』と言ったところで、彼女の状態が変化するわけではない。希望を持つこと自体には価値があるが、希望と予測は区別するべきだ。本人が退院後の予定を考えることも、周囲がそれを望むことも否定する理由はないが、医学的な裏付けがない言葉を私が付加すれば、君たちはそこへ私の医学知識まで含めて受け取る可能性がある。それは適切ではない」
「……本当にそういうところだけは容赦ないわね」
「曖昧な言葉を残す方が後で問題になる」
「分かってるけど」
詩乃はそう答えながら、まだどこか納得できない様子だった。
零奈の言葉は正しい。
だが、正しいことと、聞いていて気分がいいことは同じではない。ほんの数時間前まで一緒に遊んでいた少女が、現実では死に近い場所にいると聞かされて、その直後に出てきた言葉が「担当医の判断を基準にするべき」「私はただの医学生だ」では、あまりにも温度が低い。
獅織も似たようなことを感じたらしく、何度か零奈の方へ視線を向けていた。
「……アタシ、あいつに早く良くなれって言った」
詩乃は呟くように言った獅織を見る。
「うん」
「何も知らなかった」
普段なら自分の言葉が正しかったと意地でも主張しそうな獅織が、今夜はそうしなかった。
「病院から出たら遊べばいいって、普通に言った」
詩乃は箸を置いた。
「ユウキ、嬉しかったって言ってたよ」
獅織がゆっくり顔を上げる。
「……本当か?」
「うん。病院にいるって知ると、急にどう接したらいいか分からなくなる人もいるんだって。獅織が全然変わらなかったから、むしろ嬉しかったって」
「そうなのか?」
「そうなの」
詩乃は少し笑った。
「あんた、本当に病院にいるって聞いただけで、怪我したのかって聞いてたじゃない」
「だって病院ってそういうとこだろ」
「まあ、獅織にとってはね」
「それで、治ったら出てくる」
「……うん」
詩乃は一瞬だけ言葉を選び、それ以上否定しなかった。
「少なくともユウキは、あんたにそう言われたことを嫌がってない。だから次に会った時も、変に気を遣いすぎなくていいんじゃない?」
獅織は暫く考えていたが、やがて小さく頷いた。
「じゃあ、次までに技作る」
「結局そこに戻るんだ」
「だって見せろって言われたからな」
「完成するかは別としてね」
「完成させる!」
少しだけいつもの調子が戻った獅織を見て、詩乃もようやく笑った。
その後はユウキの病気について改めて話題へ戻ることはなく、残った夕食を片付けながら、今日のボス戦や、リオが作ろうとしているオリジナル・ソードスキルについての話へ自然に移っていった。獅織は空中で回転しながら斬る技なら最低でも五連撃は必要だと言い張り、零奈は「連撃数を先に決定してから動作を割り当てる設計は因果関係が逆だ」と返し、詩乃は二人がまた始めたと笑いながら食器を流しへ運んだ。
少なくとも食事を終える頃には、部屋の空気はいつもの夜に近いところまで戻っていた。
十十十十十十十十十十
2026.1.15
九重零奈の部屋
食事を終えた零奈と獅織が詩乃の部屋を出ると、壁を一枚隔てただけにもかかわらず、室内の雰囲気は大きく変わった。
詩乃の部屋ではテーブルも床も必要なものだけが置かれていたのに対し、こちらには退院後に大学から持ち帰った書類や医学書が既に各所へ積み上がっている。机の上には読みかけの論文とノートパソコンが並び、ソファの端には印刷された資料が数十枚単位で重ねられ、棚へ収まりきらない専門書が壁際へ直接積まれていた。
零奈はそれらを避けることに慣れているため、足元を確認することもなく机まで進み、途中まで読んでいた書類を手に取った。
獅織は部屋へ戻ってからも、すぐに寝ようとはしなかった。詩乃の部屋から持ち帰ったものを適当な場所へ置いた後も、ベッドへ向かうでもなく零奈の机から少し離れたところに立ち、足元に積まれた書類や棚の上の本へ意味もなく視線を移している。
普段の獅織なら、眠ければ零奈がまだ何をしていようと構わずベッドへ潜り込み、そうでなければ思いついたことをそのまま口にする。ところが今夜はどちらでもなく、何度か零奈の背中へ視線を向けては、何かを言おうとしてやめていた。
零奈も、その様子には最初から気づいていた。
それでも自分から尋ねることはせず、机の前へ座ると、食事へ行く前まで読んでいた資料を手に取って中断した箇所から読み始める。獅織が何を気にしているのかを推測できていないわけではなく、むしろ分かっているからこそ、本人が口にするまではこちらから形を与える必要がないと考えているようだった。
獅織は暫く零奈の背中を見つめていたが、やがて諦めきれなかったらしく、いつもの勢いからは随分遠い小さな声を出した。
「……姉ちゃん」
「何だ?」
零奈は紙面から目を上げなかった。
「その……さっきのユウキの──」
「獅織」
続きが言葉になるより先に名前を呼ばれ、獅織の口が止まった。
零奈は読んでいた行を途中で放り出すことはせず、数行先まで目を通してから資料を机へ置くと、ようやく椅子を僅かに回して獅織へ視線を向けた。
「今夜、これ以上その話を続ける必要はない。詩乃の部屋で聞いた内容から新しい情報は何一つ増えていない以上、同じ材料を使って考え続けても状況そのものは変化しないし、今の段階で得られる結論も変わらない」
「でも……」
獅織はそこで一度言葉に詰まり、それでも何かを続けようとしたが、零奈はその先を待たなかった。
「考えるなと言っているわけではない。ただ、現在時刻と明日の予定を考えれば、今の君が優先するべきなのは睡眠だ。君は明日も学校があるし、今夜ここで同じことを何時間考えたところで、紺野木綿季について新しい検査結果が増えるわけでも、病状が変化するわけでもない。少なくとも今夜の君に出来ることが増える可能性はない以上、睡眠時間を削る方が明日の君にとって明確な不利益になる」
声音は強くなかったが、そこで話を終えるつもりであることだけは明白だった。
獅織はなおも零奈を見ていた。何を聞こうとしていたのか、それを口にすれば零奈がどのような答えを返すと思っていたのかまでは言葉にならず、普段なら思いついた瞬間に感情のまま踏み込む少女が、珍しくその一歩を踏み出せずにいる。
やがて獅織は小さく息を吐くと、僅かに俯いた。
「……分かった。じゃあ、寝る」
「そうするといい」
獅織はまだどこか納得していない顔を残したまま、書類を踏まないよう足元を避けてベッドまで歩いていった。布団へ入り込んでからもすぐに目を閉じることはなく、枕へ頬をつけた状態で暫く零奈の方を見ていたものの、机へ向き直った零奈が再び資料を読み始めると、もう同じ話を持ち出すことはなかった。
「……おやすみ、姉ちゃん」
少し経ってから、背後で声がした。
「ああ。おやすみ、獅織」
零奈は振り返らずに答えた。
それから部屋には、紙を捲る微かな音と、壁越しに聞こえる建物の生活音だけが残った。
獅織は何度か寝返りを打っていたが、退院してまだ間もない身体で、ALOの集まりからフロアボス攻略まで動き回り、その後まで起き続けていた疲れには抗えなかったらしく、時間が経つにつれて布団の動きは少なくなり、やがて背後から聞こえてくる呼吸も一定の間隔へ変わっていった。
零奈は、その寝息を確認してもすぐに行動を変えなかった。
机の上には退院後に大学から持ち帰った資料が幾つも開かれたままになっており、そのうち手前に置かれていた一冊は、入院によって遅れていた講義内容を補うために今夜中に確認しておくつもりだったものだった。零奈は先ほどまで読んでいた位置へ視線を戻し、紙面に記された内容を数ページ先まで追っていたものの、普段であれば一度読めばそのまま整理されるはずの文章が、この時ばかりは妙に頭へ残らなかった。
数分ほどしてから資料を閉じると、机の上に置かれていたノートパソコンへ手を伸ばした。休止状態から復帰した画面には大学関係の文書が表示されていたが、その続きを入力することはなく、一度最小化してブラウザを開く。
検索欄へ最初に入力したのは、紺野木綿季という名前ではなかった。
《メディキュボイド 臨床試験》。
表示された結果の中には、装置そのものを紹介する一般向けの記事や、医療分野へのフルダイブ技術転用について概略を述べただけの資料も多く含まれていたため、零奈はそれらにはほとんど時間を使わず、試験開始時期、実施主体、研究代表者、協力施設のいずれかが確認できる資料だけを選んで開いていった。
メディキュボイドそのものについて調べるのであれば、以前に確認した情報だけでも十分だった。今夜必要なのは装置の出力や構造ではなく、その装置が三年近く続く臨床試験の中で、どの医療機関に置かれ、どの研究者によって管理され、どのような条件の患者へ長期間使用されてきたのかという別の情報だった。
臨床試験という形を取る以上、そこには必ず計画が存在する。計画が存在すれば実施責任者が必要になり、患者へ使用する以上は審査と経過観察が行われ、その結果の全てが公開されないとしても、少なくとも研究成果を外部へ示す過程で何らかの記録は残る。患者本人の診療記録へ直接触れることができなくても、三年間に及ぶ試験の周囲に積み上がった情報まで同時に消えるわけではない。
零奈はまず、試験開始当初から現在まで継続して名前の残っている研究者を拾った。
初期の安全性評価に関する発表、長時間使用時の神経学的影響を扱った論文、重度の身体障害を持つ患者に対する意思疎通支援、入院生活の長期化した患者における仮想環境利用の評価。内容そのものに直接的な共通点がなくとも、著者名と所属施設を比較すると、初期試験から継続して関与している人間と、特定の段階だけ参加している人間の違いが少しずつ見え始める。
そこで検索条件から《メディキュボイド》という語を外した。代わりに研究者名を入れ、その人物が過去数年間に発表した論文を一覧で表示させる。装置そのものを対象とした研究だけを見ていては、対象となった患者側の情報へは近づけないからだった。
神経疾患、重度身体障害、終末期患者の生活支援、長期入院環境における心理的負荷、感染管理を必要とする患者への仮想環境利用。それらを一つずつ確認していくうち、零奈は幾つかの論文だけを閉じずに残し、その参考文献からさらに別の研究へ遡っていった。
そこから先は、最初に入力した一つの単語から単純に検索結果を追う作業ではなくなっていた。
ある論文に記載された共同研究施設から、その施設が過去に行った感染症領域の研究へ移り、そこで名前の重なる研究者を別のデータベースへ入力する。
発表時期が合わないものは除外し、研究対象の年齢層が一致しないものも外し、長期の無菌管理を必要とする患者が含まれている可能性のある報告だけを残す。公開されている患者情報は当然匿名化されているものの、年齢、基礎疾患の分類、入院期間、装置の使用期間といった研究上必要な情報まで消されているわけではなかった。
紺野木綿季という個人へ直接結びつくものは、まだ何一つない。
それでも、詩乃から聞いた話の中には一つだけ、一般的な病歴とは性質の違う情報が含まれていた。
三年前からメディキュボイドの長期試験へ参加している。
その情報から患者本人の診療内容を逆算することはできない。だが、試験を実施している施設と、その施設で同時期に行われていたHIV感染症研究を確認すれば、少なくとも彼女を診療している医療チームが接触可能だった治療法や研究領域を推測する材料にはなる。
零奈は検索結果の一つへ視線を止めると、そこに記された研究代表者の名前から別の論文へ移り、今度はHIV感染症に関する報告を拾い始めた。長期感染例、小児期から抗レトロウイルス療法を継続している症例、複数の薬剤耐性を獲得した患者、AIDS発症後も長期間の生存を維持した例と、検索条件は少しずつ限定されていく。
先ほど詩乃へ説明した通り、零奈が知らないことの方が圧倒的に多かった。
現在のウイルス量も、免疫状態も、薬剤耐性の詳細も、既往の日和見感染症も、主要臓器の機能も分からない。公開論文をいくら読み進めたところで、それらを本人の検査値として置き換えることはできず、零奈もその境界を曖昧にすることはなかった。
ただ、分からないという事実と、調べられる範囲まで調べないという選択は同じではない。
本人の情報が存在しないのであれば、本人を取り巻く環境から見る。臨床試験の参加者であるなら試験を調べ、試験が医療機関で行われているなら施設を調べ、その施設に研究者がいるなら過去の研究領域を確認する。
そこから得られる情報が診療記録そのものではないとしても、どこまでが既に検討され、どこから先が検討されていないのかを切り分ける材料にはなる。
零奈はそうして残った幾つかの論文を並べ、発表年と研究施設、著者名を順番に確認していった。
その中の一つで、指の動きが僅かに止まった。
内容を読み直し、本文中に引用されている研究へ移る。その報告自体はメディキュボイドとは無関係だった。
扱われている治療法そのものも、零奈にとって未知のものではない。
HIV感染者に対する造血幹細胞移植と、その後に生じた長期寛解──医学史上あまりにも有名な症例群であり、それだけなら今さら読み直す理由はなかった。
零奈の指を止めたのは、治療法ではなく、その症例が成立した条件の一つだった。
零奈はそこで何かを書き留めることも、声に出して感想を述べることもしなかった。
代わりに、その論文で使用されていた用語を新しい検索欄へ移し、対象疾患をHIVへ変更して検索を掛け直した。
表示された結果は多くなかった。
古い症例報告が幾つかあり、そのほとんどは紺野木綿季の条件とは一致しない。年齢が違い、基礎疾患が違い、治療を行うに至った事情も異なっている。それでも完全に無関係として閉じるには、一部の経過だけが妙に残った。
零奈は一つ目を読み終えると、そこから引用されている二つ目を開き、さらにその症例を後年追跡した報告を探した。論文ごとに条件が少しずつ違うため、そのまま並べても一つの結論にはならない。しかし、条件が違うのであれば何が違うのかを分離すればいい。年齢なのか、感染期間なのか、臓器機能なのか、使用された薬剤なのか、それとも治療そのものを成立させるために必要となった別の疾患なのか。
それらを一つずつ外していけば、少なくとも残るものが何であるかは分かる。
気づけば、机の上に広げられていた大学の資料よりも、画面上に開かれている医学論文の方が多くなっていた。
壁を隔てた獅織の部屋から聞こえていた物音は既に途絶え、さらに向こうにある詩乃の部屋も静まり返っている。時計の表示はとうに日付が変わったことを示していたが、零奈がその時刻を確認したのは一度だけで、それを理由に画面を閉じることはなかった。
最初に開いたメディキュボイドの臨床試験に関する資料は、今も画面の端に残されていた。
研究代表者、共同研究施設、長期使用試験の対象となった患者群、その中に含まれる感染管理を必要とする症例。
零奈はそこへもう一度視線を戻し、それまで別々に開いていた資料と静かに見比べた。
詩乃の部屋で口にした言葉を訂正するだけの情報は、まだ何もない。患者本人を診察していないことも、診療記録を持っていないことも、自分が日本では医学生に過ぎないことも、数時間前から一つも変わっていなかった。
それでも零奈はブラウザを閉じなかった。
公開されている範囲で辿れるものを一通り確認した後、今度はそれまで使用していたものとは異なる医学データベースを開き、先ほど残した症例報告の著者名と、その研究が行われた施設名を入力する。
新しい検索結果が画面へ並んだ。
零奈はその先頭に表示された資料へカーソルを合わせると、迷うことなくページを開き、そのまま次の文章を読み始めた。
「……少なくとも、まだ結論を置くには早いな」
それ以上の言葉は続かなかった。
零奈は再び画面へ向き直ると、新しく表示された文献の冒頭を静かに読み始めた。
凍てつく世界で願えども、虚しき答えが響くだけ。
冬を疑う者が求むは、溶けぬ氷を溶かす確かな理由。
事実は希望を探し、希望は事実の中に道を求め、
終わりは可能性を閉ざし、可能性は終わりを疑う。
途切れぬ問いが輪唱のように繰り返す。