2026.2.7
ALO内・第28層
木綿季が治療へ入ることを決めてから、数日が経った。
第28層の主街区には今日も夕暮れを模した淡い光が降り注ぎ、石造りの建物の間をプレイヤーたちが絶え間なく行き交っていた。空を見上げれば、狩りへ向かう一団が翅を広げて街の外へ飛び去り、逆に帰ってきた者たちは露店や宿屋へ散っていく。ユウキという一人のプレイヤーがしばらくログイン出来なくなったところで、この世界の風景そのものが変わるはずもなく、街は少し前までと何一つ違わない時間を送り続けていた。
だからこそ、シノンには一人分の不在が妙にはっきりと見えるような気がした。
少し前までなら、アスナがログインしているところへユウキが現れれば、何をするか決めるより先に話が始まり、リオまで加われば何かの拍子に剣を抜いていることも珍しくなかった。特にリオは、ユウキに触発されて自分のオリジナルソードスキルを作ると言い出してから、顔を合わせるたびに何かしら試しては上手くいかなかったところを喋っていたため、その相手がいなくなった今は、本人が普段通りに動き回っていても少しだけ空回りして見えることがあった。
もっとも、そのことを一番強く感じているのはシノンではなく、やはりアスナなのだろう。
先ほどまで三人でフィールドへ出ていた間も、戦闘そのものに普段と違うところはなかった。休憩に入ってからも会話には普通に参加している。ただ、何もしていない時間が少し続くたび、アスナはメニューを開いて何かを確認し、短く操作してから閉じるという動作を何度か繰り返していた。
リオもそれには気づいていたらしく、何度目かにアスナがウインドウを閉じたところで、少し迷ってから尋ねた。
「ユウキから、まだ何も来てないのか?」
普段なら思ったことが先に口から出るリオにしては、慎重な聞き方だった。
「うん。でも、治療が始まったらしばらく連絡出来なくなるかもしれないって最初から聞いてるから、今はこれで普通なんだと思う」
「そっか……」
リオはそれ以上すぐには言葉を続けず、腰掛けていた石段へ両手をついた。
治療へ入る直前、ユウキからアスナへ届いた最後のメッセージについては、シノンも聞いている。
『じゃあ、ちょっと行ってくるね』
危険性を理解していないわけではない。成功する保証がないことも、途中から元へ戻せなくなることも、本人には既に説明されている。それでも木綿季が選んだのは、大げさな別れの言葉ではなく、少し遠くへ出掛けてくる程度の一文だった。
明日奈も、それに長い文章を返さなかった。
『うん。またね、ユウキ』
ただ、それだけだったという。
シノンには、その二つの短い言葉が却って二人らしいように思えた。戻れる保証がないからといって、最初から最後の挨拶として扱ってしまえば、本当にそこで何かが終わってしまう。
ユウキが「行ってくる」と言ったのなら、残される側も「またね」と答えるくらいでよかったのだろう。
「じゃあ、今は待つしかないな」
やがてリオが言った。アスナも小さく頷く。
「うん。待つよ」
誰も「きっと大丈夫」とは言わなかった。
そんな保証を持っている人間はここにはいないし、アスナも根拠のない慰めを求めているようには見えなかった。
そこでシノンは、少し前から気になっていた別のものへ視線を向けた。
「ところで、さっきから何を書いてるの?」
「あっ、これ?」
アスナがもう一度メニューを開いた。
ゲーム内で利用出来る簡単なメモ機能らしく、外側から内容そのものは読み取れない。
「ユウキが戻ってきたら話すこと。今日あったこととか、みんなが何してたとか、忘れないうちに残しておこうと思って。どれくらい長くなるか分からないから。それに、後になって『あの日何してたっけ』ってなるのも嫌だし」
アスナはそう言って笑った。
シノンには、それが単なる記録には思えなかった。
ユウキの帰りを何もせず待つのではなく、彼女がいない間にも流れてしまう時間を少しずつ拾い集め、戻ってきた時にまとめて渡そうとしている。今はユウキに届けられるものがほとんどないからこそ、アスナなりに友人として出来ることを探した結果なのだろう。
リオも少し興味を持ったらしく、アスナの隣から開かれたウインドウを覗き込もうとした。
「アタシのことも書くのか?」
「何かあったらね。それとも、何か書きたいこととかあるの?」
そう聞かれると、リオはかえって困ったらしく、少し視線を逸らした。
「えっと、その……別に大したことじゃなくていい。でも、アタシも待ってるって、それだけ書いといて欲しい」
普段の勢いから考えれば、随分素直な言葉だった。アスナも茶化さなかった。
「あと、リアルで遊ぶ約束も忘れてないって」
「分かった、それも書いとくね」
リオは満足したように頷き、それ以上メモを覗こうとはしなかった。
シノンには、そのくらいで十分なように思えた。
ユウキがいないからといって、この場所まで彼女の不在に合わせて静かにしておく必要はない。ここで誰が何をして、何を考えて、何を待っていたのか、それをいつか本人が聞けるだけ残しておけばいい。
そんなことを考えていると、今度はアスナが周囲へ視線を巡らせた。
「そういえば、今日はエレーナさんもいないんだね」
「今日も、ね」
シノンは答えた。
アスナは既に、シノンの現実側が朝田詩乃であることを知っている。ファントム・バレット事件の後、和人を介し、本人同士の了承を得た上で現実で必要な情報を共有していたためだ。同じように、エレーナとリオが現実では九重零奈と九重獅織という姉妹であることも知っている──もっとも、明日奈が知っているのはそこまでだった。
「エレーナさん、大学そんなに忙しいの?」
「最近はかなり忙しいみたい。研究が佳境だとか言ってたけど、内容までは私も聞いてない」
「姉ちゃん、ここ何日かほとんど帰ってきてないんだよ」
リオが少し不満そうに付け加えた。
「研究室に泊まるって言ってさ。たまに帰ってきても着替え取ったらまた行くし」
「そんなに?」
「うん。姉ちゃん、何か一個始めると、それ以外ほんと適当になるからなぁ……」
リオの言葉には呆れと、少しの心配が混じっていた。
リアルでの詩乃にとって零奈が医学を学び、大学で研究にも関わっていること自体は以前から聞いている。一度集中すると自分の食事や睡眠を後回しにする性格であることも、既に珍しい話ではなかった。
「帰ってきたら、ちゃんと休ませないとね」
アスナが言うと、リオがすぐにシノンを見る。
「シノンが言えば寝ると思う」
「どうして私が寝かしつける前提なのよ」
「だって、アタシが言うより聞くじゃん」
「それはリオが言い方を考えないからでしょう」
「ね、姉ちゃんが聞かないだけだ!」
リオは反論したものの、以前のように声を荒らげるほどではなく、本気で困っているらしいことの方が伝わってくる。
シノンは小さく息を吐いた。
「まあ……帰ってきたら、ちゃんと私からも言っておくから」
木綿季へ聞かせる話は、まだ始まったばかりだった。
十十十十十十十十十十
2026.2.11
朝田詩乃の部屋
朝食を用意し終えても、隣室から零奈が来る気配はなかった。
大学へ行く日なら多少時間がずれることはあるが、詩乃が食事を作ることを知っていれば、不要な日は一言連絡を寄越すようになっている。以前、用意した後になって「今日は必要ない」と言われることを何度か繰り返した結果、詩乃が強く注意したことでようやく身についた習慣だった。
だが、今日はその連絡すらなかった。
先に食べようかと思っているところへ、獅織だけが隣から姿を見せる。
「姉ちゃんの分、今日は要らないと思う」
「もう大学?」
「うん。アタシが一回起きた時には、もう出るところだった」
獅織は椅子へ座りながら答えた。
「何時?」
「四時前かな……まだ外暗かったし」
詩乃は思わず時計を見た。
零奈が必要なら早朝から活動出来る人間なのは知っているが、朝が好きなわけではない。何もなければぎりぎりまで惰眠を貪り、詩乃が食事を用意しなければ朝食すら簡単に抜く。そんなだらしない女が日の昇る前から自分で起きて大学へ向かうというのは、かなり珍しかった。
「ふうん……何か言ってた?」
「研究の続きだって。時間空けたくないところがあるとか、次に何するかは見てから決めるとか……それくらい」
「珍しくちゃんと聞いてるのね」
「最近ずっとその話してるから、アタシだってちょっとくらい覚えるぞ」
獅織はそう言って食事へ手を伸ばした。
以前なら零奈の長い説明を半分も聞かず別のことを始めていてもおかしくなかったが、ここ数日ほとんど帰宅していない姉が何をしているのかくらいは、さすがに気になるのだろう。
獅織自身にも何か予定があるらしい。
「今日はALO行く?」
「行く!……明日は行かないけど」
「出掛けるの?」
「うん、リアルの友達に会ってくる」
「そう」
詩乃はそれ以上尋ねなかった。
獅織に、自分や零奈とは別の交友関係があっても当然である。誰とどこで会うのかまで一つずつ把握しようとは思わない。
「なあ詩乃。姉ちゃん、今日帰ってきたら飯ちゃんと食うと思う?」
「本人に聞けばいいじゃない」
「聞いたら『必要量は確保している』とか言うと思う」
獅織が声真似をしながら言った言葉は妙に具体的で、詩乃は一瞬黙った。
確かに言いそうなことだった。
「帰ってきたら私から聞く」
「うん、頼んだぞ」
「もう、どうして零奈の食事も睡眠も私の担当みたいになってるのよ」
詩乃が言うと、獅織は少しだけ笑う。
「だって姉ちゃん、詩乃にはちゃんと説明するじゃん」
その一言に、詩乃は返事をし損ねた。
確かに零奈は、自分には必要以上と言えるほど説明する。それは詩乃に従っているというより、理解してもらいたい相手には曖昧なまま済ませようとしない、あの女なりの癖なのかもしれない。
そう考えながら食事を終えた詩乃は、零奈の分として作った朝食を冷蔵庫へ入れた。
今日帰るかどうかは分からないが、それでも帰ってきたなら、その時に温めればいい。
最近はそれが、随分当たり前になっていた。
十十十十十十十十十十
2026.2.17
ALO内・第28層
造血幹細胞の移植が予定通り行われたという知らせをアスナが受け取ったのは、その日の午後だった。
伝えられた内容は、ごく限られていた。海外で採取されたドナーの造血幹細胞が問題なく病院へ到着し、予定されていた工程が終わったこと。そして、移植そのものが終わったからといって治療が成功したことにはならず、むしろこれからしばらくは、感染症をはじめとする様々な問題へこれまで以上に注意しながら状態を見ていかなければならないことだった。
ユウキ本人との面会も、連絡も、引き続き出来ない。
昼間に知らせを受けた時には素直に嬉しかったはずなのに、その直後から幾つもの注意点を説明されるうちに、浮かれてはいけないもののように感じ始めたのだろう。夜になってALOへログインしてきたアスナは、普段と変わらないように振る舞ってはいたものの、話し始めてみれば、自分でもどこへ感情を置けばいいのかまだ決めかねていることが分かった。
「移植が終わったって聞いた時は、すごく嬉しかったんだけど……そのすぐ後に『まだここからです』って説明されたから、どこまで喜んでいいのか分からなくなっちゃって」
シノンは隣でその話を聞いていた。
少し離れた石段にはリオも座っている。先ほどまで手元の剣を弄っていたが、アスナが木綿季の話を始めてからはそれも止め、身体ごとこちらへ向き直っていた。
「本人とは、まだ面会とかは無理なのよね?」
「うん。面会もそうだし、連絡も出来ない。今は感染とか、いろんなことにすごく気をつけないといけない時期なんだって」
アスナは、自分が病院で聞いた説明を思い返すようにゆっくり答えた。
その後に続く言葉はなかった。
移植は出来た。けれど、だから何かが決まったわけではない。
そんな二つの事実の間で、アスナ自身もどちらへ気持ちを寄せればいいのか分からなくなっているらしい。
暫く黙っていたリオが、そこで急に眉を寄せた。
「……でもさ」
何か引っ掛かるものがあったらしい。座った姿勢のまま少し前へ身を乗り出し、アスナを見る。
「今日やるって言ってたやつは、ちゃんと出来たんだろ?」
「うん。移植そのものは予定通り終わったって」
「じゃあ、いいじゃん」
あまりにも迷いなく返されたため、今度はアスナの方が少し目を丸くした。
「いいって……?」
「だって、終わったんだろ?そこは嬉しいだろ」
リオは当然のことを言っているつもりらしく、逆にどうしてアスナが迷っているのか分からないような顔をしている。
「いや、まだ全部終わったんじゃないのは分かってるぞ?これから危ないとか、ちゃんとくっつくか分かんないとか、そういうのもあるんだろうけど……」
そこまで言ってから、うまく説明出来ないことにもどかしくなったのか、リオは両手を動かしながら言葉を探した。
「でも、それって次の話じゃん。今日ちゃんと出来たことまで一緒に『まだ駄目』にしなくていいだろ。せっかくここまで来たのにさ」
理屈として整理された説明ではなかった。
移植医療について詳しいわけでもなく、これから何が起こり得るのかを正確に理解しているわけでもない。それでも獅織には、アスナが「まだ危険だから」という理由で、今日感じた嬉しさまで自分から押し込めようとしていることだけは分かったのだろう。
「アタシだったら嬉しいぞ」
そう言ってから、リオは少しだけ言葉を強くした。
「ユウキ、今日のところまでちゃんと来たんだろ?だったら今日はそれで喜んで、明日のことは明日また心配すればいい!」
最後の一言は、獅織自身も口にしてから少し考えたらしい。
「あ……いや、明日ってほんとに明日って意味じゃなくて、その……次のやつって意味だ」
急に説明が怪しくなったことで、アスナの表情が僅かに緩んだ。
「うん、分かるよ」
「な、ならいい」
リオはほっとしたように息を吐いた。
十四歳らしい単純さではある。
けれど、その単純さは何も考えていないこととは違った。先の危険を知らないから喜べと言っているのではなく、危険が残っていることと、今日一つ進めたことを同じ場所へ押し込む必要はないと言っている。
アスナもそれを受け取ったのだろう。
「……そうだね」
先ほどまでより、少しだけ自然な顔で頷いた。
「移植まで進めたことは、ちゃんと喜んでいいよね」
「うん!」
今度のリオの返事には、ようやく普段の勢いが戻った。
「アタシもその話聞いた時、普通に嬉しかったし。本当によかったーって思ったぞ」
そこまで言い切った直後、本人の中で何かに気づいたらしい。
「……あ」
リオの表情が一瞬止まる。
自分が随分素直なことを口にしたと、今になって自覚したのだろう。
「いや、別に、変な意味じゃないからな!ユウキがちゃんと進めたなら嬉しいだろ、普通!それだけだ!」
誰も何も言っていないのに、一人で言い訳を始める。
シノンは思わず口元を緩めたが、ここで笑えば余計に拗れることは分かっていたので何も言わなかった。アスナも同じことを察したらしく、獅織の慌て方には触れずに、いつものメモを開く。
「じゃあ、今日のことも書いておこうかな」
「移植したってこと?」
「それも。それから、リオが今言ったことも」
「えっ!?」
リオの声が一段高くなった。
「そこまで書くのか!?今の全部!?」
「ユウキに話すことだから」
「いや、待て待て!全部そのままは駄目だー!」
今度こそ立ち上がり、アスナの開いたメニューを覗き込もうとする。しかし当然ながら他人の操作画面へ勝手に干渉出来るわけもなく、横から見ようとしても肝心の文章までは読めない。
「ど、どこまで書いたんだ?」
「まだ何も」
「じゃあさっきの、『普通に嬉しかった』まででいい!その後は要らない!」
アスナがとうとう少し笑った。
「ユウキが聞いたら、そっちの方が喜びそうだけど」
「だから駄目なんだー!絶対あとで言ってくる!」
その時のユウキがどんな顔をして、何を言うのかまで容易に想像出来ているのだろう。
リオは暫く真剣に悩んでいたが、やがてアスナが本当に困っているわけではないことに気づいたらしく、少しずつ勢いを失った。
「……じゃあ」
数秒考えた末に、渋々という顔でアスナを見る。
「変に変えるなよ」
「変に?」
「何か、すげー良いこと言ったみたいに書くなってこと。アタシ、そんな姉ちゃんみたいな難しいこと言ってないからな。思ったこと言っただけだから、そのままでいい」
「分かった。そのまま書くね」
リオはまだ少し恥ずかしそうではあったが、それ以上止めようとはしなかった。
アスナが再びメニューへ目を落とし、今日あったことを書き加え始める。ユウキ本人がいつそれを読むことになるのかは、まだ誰にも分からない。それでも明日奈は、今日感じた嬉しさも、その直後に生まれた不安も、獅織がそれを見て口にした言葉も、一つずつ残していくつもりなのだろう。
最初はアスナ一人が、ユウキに渡すために始めた記録だった。
けれど治療が始まってから十日ほどが過ぎた今、その中には少しずつ周囲の人間の時間まで入り始めている。
ユウキがいない日に何をしたのか。
どんな知らせを聞いて、誰が喜んだのか。不安になったアスナに、誰がどんな言葉を掛けたのか。
ユウキが戻ってきた時には、単に自分が知らなかった出来事を並べて聞くだけではなく、自分がいない間にも誰かが自分のことを考えていた時間まで、一緒に受け取ることになるのだろう。
少し離れたところでは、先ほどまであれほど慌てていたリオがもう落ち着きを取り戻し、自分の剣の柄へ手を掛けている。ただ、アスナが書き終えるまで先へ行こうとはしなかった。
そのことも、アスナが気づけばきっとメモへ追加するのだろうと、シノンは思った。
十十十十十十十十十十
2026.2.24
朝田詩乃の部屋
零奈がまともな時間に帰宅したのは、一週間以上ぶりだった。
もっとも、時計は既に午後十時を回っていたため、それをまともと呼んでいいのかについては疑問が残る。詩乃と獅織はとっくに夕食を済ませていたが、零奈の分だけは手をつけずに残してあった。
今日は帰るとも、帰らないとも聞いていない。
ここ数週間は大学へ泊まるという連絡が届く日の方が多く、何も言わず朝まで戻らないことも珍しくなっていた。それでも詩乃は、三人分を作る時には何となく零奈の分まで用意してしまう。
帰らなければ翌日に回せばいい、帰ってきたなら温めればいい。
もう随分前から、わざわざ考えて決めるようなことではなくなっていた。
隣室から玄関の開く音がした時も、詩乃は携帯端末から顔を上げただけだった。
少し遅れて獅織が先に反応し、床へ座ったまま耳を澄ませる。
「姉ちゃん帰ってきた」
「みたいね」
それから一分もしないうちに、詩乃の部屋の扉が開いた。
自分の部屋へ戻って休むより先にこちらへ来ることについて、零奈自身は何とも思っていないのだろう。
退院してからいつの間にかそうなった。
食事があるのも、獅織がいるのも、大抵の場合は詩乃の部屋だからという合理的な理由はある。けれど、大学から何日ぶりかに帰ってきた人間が、自室へ荷物を置くより先に当然のように隣の部屋へ顔を出すことまで合理性だけで説明できるのかは、詩乃にもよく分からなかった。
ただ、それを嫌だと思ったことは一度もない。
姿を見せた零奈は、大学へ出ていった時とほとんど同じ服装をしていた。
長い黒髪は普段より僅かに乱れ、目元には薄く疲労が残っている。肩へ掛けていた鞄を床へ下ろす動作も普段より重く、白衣こそ着ていないものの、研究室の椅子からそのままここまで運ばれてきたような有様だった。
「おかえり」
詩乃が言う。
零奈は一瞬だけこちらを見る。
「ああ。ただいま」
それだけのやり取りだった。
それなのに、ここ数週間はその二言を交わす機会すら少なかったことに、言ってから詩乃は気づいた。
零奈はいつもの席へ向かった。
そこがいつから「零奈の席」になったのか、詩乃にも覚えがない。三人で食事を始めた頃から自然と座る位置が固定され、そのうち誰も確認しなくなっただけだ。
零奈が椅子へ腰を下ろしかけたところで、動きが止まった。
ほんの一瞬だった。けれど、詩乃は見逃さなかった。片手が腰へ回る。
「腰、痛いの?」
零奈がこちらを見る。
「疼痛はある。ただし、少なくとも神経症状を伴うようなものではない。数日間にわたる長時間の座位と、適切とは言い難い睡眠環境によって腰背部へ負荷が蓄積したと考えるのが──」
「痛いのね?」
詩乃が途中で確認すると、零奈は一度口を閉じた。
このやり取りも、今では珍しくなくなっている。零奈が十行使って説明しようとすることを、詩乃が一行に縮める。以前なら零奈も、その省略によって失われた情報について補足しようとしたかもしれない。
今は少しだけ違う。
「……ああ」
「最初からそう言って」
「原因を区別する必要はある」
「私、診断してって頼んでないでしょ」
「それはそうだが」
詩乃は小さく息を吐きながら立ち上がった。
「ご飯、残してあるから温める」
「私が今日帰るとは伝えていなかったはずだが」
「帰ってこなかったら明日食べればいいでしょう」
「そうか」
零奈はそれ以上何も言わなかった。
感謝の言葉を求めているわけでもない。零奈もそれは理解している。だから詩乃も、用意しておいた理由をそれ以上説明しなかった。
台所へ向かう途中で振り返ると、獅織が零奈の顔を下から覗き込んでいた。
「姉ちゃん」
「何だ?」
獅織は一瞬だけ詩乃の方を見た。
湯気の立ち始めた鍋へ視線を戻した詩乃には、その間の意味までは分からない。
少しして、獅織が慎重に尋ねた。
「……今日は?」
それだけだった。
普通なら、何について聞いているのか分からない問いだったが、零奈は聞き返さなかった。
「予定から大きく外れてはいない。少なくとも、今の段階で君が心配する必要はない」
獅織の肩から、僅かに力が抜けた。
「そっか」
二人の間では、それ以上の言葉が必要ないらしい。
詩乃には、零奈がここしばらく没頭している研究の経過について尋ねたのだろうとしか思えなかった。
以前なら、獅織が姉の研究内容をそこまで気にすること自体が珍しかったはずだ。ただ、この一か月近く、零奈はまともに家へ戻らず、帰ってきても今のような状態なのだから、妹として気になるのも当然なのだろう。
詩乃は温め終えた料理を皿へ移し、零奈の前へ置いた。
「熱いから気をつけて」
「ああ」
零奈は箸を取った。
詩乃はそのまま向かいへ座る。本当なら、自分の夕食はとっくに済んでいる。それでも零奈一人だけを残して別のことをする気にはなれず、携帯端末を脇へ置いたまま、何となく食べ始めるのを見ていた。
数口食べたところで、零奈の動きが少し遅くなる。
「眠い?」
「食欲がないわけではない」
「眠いのね」
「……ああ」
「今日はずいぶん素直ね」
「同じ問答を繰り返す合理性がない」
「そう」
詩乃は少し笑った。
零奈がその笑った理由を理解したのかは分からなかった。
「それで、今日はまた大学へ戻るの?」
「その予定だった」
「だった?」
「現在の状況だけを見れば、今夜数時間席を外したことで直ちに取り返しのつかない問題が生じる可能性は高くない。もっとも、だからといって確認すべき事項がなくなったわけでは──」
「そこまででいい」
詩乃が遮る。
「つまり、今夜はここにいても大丈夫なのね?」
零奈は僅かに視線を上げた。
以前なら「帰らなくても問題ないのね」と聞いていた気がする。いつから自分が「ここにいる」という言い方をするようになったのかは、詩乃自身にも分からなかった。
「ああ」
「なら、食べて寝て」
「この後、確認しておきたい資料が──」
「零奈」
名前を呼ぶと、零奈は口を閉じた。
「あなた、自分で疲れてる時に判断を続ける方が危ないって、人には言うでしょう」
「ああ」
「今のあなたに必要なのが頭を使う仕事なら、眠いまま戻る方が余計に危ないんじゃない?」
零奈はすぐには答えなかった。
詩乃には、反論出来る箇所を探しているのだろうと分かった。
それも以前なら推測だった。
今では、零奈が僅かに視線を逸らして黙った時は、大抵こちらの主張を否定する材料を頭の中で探しているのだと知っている。
「……睡眠不足によって注意機能、作業記憶、意思決定能力が低下すること自体は否定出来ない。現在のように継続して複数の情報を比較する必要がある状況なら、その影響を無視する合理的な理由もない」
「なら?」
ほんの少し間が空いた。
「……今夜は休む」
「うん」
今度は「最初からそうして」とは言わなかった。零奈が自分で結論を出したのなら、それでよかった。
すると横から獅織が口を挟む。
「詩乃が言うと本当に聞くよな、姉ちゃん」
零奈が獅織へ視線を向けた。
「私は妥当な指摘を受け入れただけだ」
「アタシが同じこと言っても絶対もっと言い返す」
「君の場合は、根拠を提示する前に『寝ろ』から始めるだろう」
「だって寝ればいいんだから同じじゃん!」
「結論が一致していることと、その導出過程が妥当であることは別問題だ」
「ほら!もう言い返してる!」
獅織が詩乃を見る。
「詩乃にはそんなに言わなかった!」
「知らないわよ」
そう答えながらも、詩乃は少しだけ笑った。
やがて食事を終える頃には、零奈の瞼は明らかに重くなっていた。
「今日はもうお風呂も短くして寝た方がいいわよ」
「ああ」
「髪乾かさないで寝ないでね」
「分かっている」
「この前そのまま寝たでしょう」
「一度だけだ」
「一度でもやってるじゃない」
零奈は少し黙った。獅織が笑う。
「姉ちゃん、全部バレてるなー」
「君も笑える立場ではない」
「アタシはちゃんと乾かしてる!」
「半乾きで終えることを『乾かした』とは言わない」
「細かい!」
いつの間にか、いつもの夜に近い空気へ戻っていた。
その夜、零奈は本当に大学へ戻らなかった。
翌朝になっても隣から物音は聞こえなかった。いつもなら誰より早く起きる必要がある日でもない限り、零奈は寝られるだけ寝る。まして今は、何日分か分からない睡眠不足を抱えて帰ってきたばかりだ。
獅織も起こす気はないらしく、珍しく静かに支度をしていた。
詩乃も呼びに行かなかった。
本人が必要としているのが睡眠なら、今くらいは余計なことをせず眠らせておけばいい。
ただ、朝食だけは一人分多く作った。
起きる時刻は分からない。昼になるかもしれないし、もっと遅いかもしれない。
それでも目を覚ませば、どうせ腹は減る。
零奈が起きた時に食べるものがあるよう、皿に盛って冷蔵庫へ入れておく。
そんなことまで、もう特別に世話を焼いているという感覚はなかった。
自分がいない時の零奈がどう暮らしていたのかを考えれば、たぶん放っておけば朝食くらい平気で抜く。
だから残しておく、ただそれだけだった。
詩乃は冷蔵庫の扉を閉めると、そのまま自分の支度へ戻った。
十十十十十十十十十十
2026.3.8
ALO内・第28層
三月へ入ってから、初めて明確に良い方向の知らせが届いた。
移植された造血幹細胞が木綿季の身体へ生着し始め、新しい血液細胞が作られていることが確認されたという。
その知らせを受けたアスナが、久しぶりに迷いなく嬉しそうな顔をしたことをシノンは覚えている。
もちろん、それで治療が成功したわけではない。
面会はまだ許可されず、本人との通話やメッセージのやり取りも再開されていなかった。病院からは、生着が始まったことと全身状態が安定したことは同じではなく、今なお感染症や移植後の合併症へ厳重な警戒が必要な時期であると説明されているらしい。
加えて、今のユウキには会話や端末の操作そのものが負担となるため、直接の連絡についても状態がもう少し落ち着くまでは見送られているという。それでも、これまで病院から届く話のほとんどが「まだ待つ必要がある」という内容だったことを思えば、今日の知らせは確かに一歩前へ進んだものだった。
その日の夜、珍しくエレーナもALOへログインしていた。
ここしばらくは現実側の大学が忙しいらしく、ログインしても短時間で落ちることが多かったため、アスナ、シノン、リオまで含めて四人が揃うのは久しぶりだった。
だからといって、最初からユウキの治療について話していたわけではない。
むしろ第28層の主街区から少し離れた開けた場所へ出ると、リオが以前から作っていたオリジナルソードスキルをようやく登録出来たと言い出し、三人を半ば強引に見物へ連れていった。
「完成したの?」
アスナが尋ねると、リオは少し得意そうに胸を張った。
「たぶん。いや、ちゃんと登録出来たんだから完成でいい。名前も付いたぞ」
「何ていうの?」
「《フォリーズ・トウル》、アタシの好きなゲームから姉ちゃんが考えてくれた名前だぞ」
英語が得意なシノンはすぐに意味が分かったが、随分と物々しいソードスキル名だった。
「それで、どんな技なの?」
「えっと……」
そこで、それまで勢いよく喋っていたリオの動きが止まった。
本人の中では身体の動きとして完全に出来上がっているのに、それを言葉へ変換する作業はまた別らしい。剣を抜く代わりに右手だけを前へ出し、空中へ軌道を描きながら何度か身体まで動かす。
「最初に横へ斬るだろ。それで、そのまま斜めに二回繋いで……いや、二回目の前に腕がこっちまで来るから、そのまま身体ごと回るんだ。それから上に跳んで、最後は真下に刺す」
「最後はそれで終わり?」
「刺したままだと近すぎるから、抜いた勢いで後ろに回って離れる、そこまで含めたソードスキルだ」
「……やっぱり、すごくリオっぽいね」
アスナが笑う。リオはすぐに眉を寄せた。
「それ、褒めてるのか?」
「褒めてるよ。こう、アクロバティックなのに力強そうな感じとか」
「ならいいけど」
実際に発動させると、本人の説明よりは遥かに分かりやすかった。
最初の一撃は右から左への水平斬り。
剣が左へ流れた勢いを殺さないまま、今度は左上から右下へ斜めに振り下ろす。続く三撃目では、その剣勢へ身体ごと引かれるように大きく捻り、右上から左下へもう一度斜めに斬り抜ける。
そこで一度深く沈み込む。
直後、地面を蹴って敵の頭上まで跳び上がり、剣先を真下へ向けたまま落下。四撃目を標的へ突き立てると、すぐさま剣を引き抜き、その勢いを利用して後方へ宙返りしながら距離を取った。
斬撃の軌跡には風と闇のエフェクトがほぼ半分ずつ混ざり、正面から強引に懐へ入り込み、最後には自分から距離まで作ってしまう一連の動作は、獅織本人の戦い方をそのまま一つのソードスキルへ押し込んだようだった。
「どうだ!」
着地したリオが振り返る。
「すごい。ちゃんと格好いいよ」
アスナが素直に褒めると、リオは満足そうに笑った。
「ふふん、そうだろう!」
ところが、次の瞬間には何かを探すように辺りを見回した。当然ながら、そこに探している相手はいない。
「……ユウキにも見せたかったな」
ぽつりと漏れた声には、完成した喜びと、そこに一人だけいないことへの寂しさが同時に混じっていた。
アスナも聞き逃さなかった。
「戻ってきたら見せればいいよ」
「うん。そのつもりだ」
リオは剣を鞘へ戻す。
木綿季が戻ってきた時に見るものが、また一つ増えた。
暫くしてから、話題は自然と治療へ戻った。
「生着が始まったっていうのは、やっぱり良いことなんだよね?」
アスナがリオの様子を眺めていたエレーナに尋ねる。医学を学んでいる相手が目の前にいる以上、ごく自然な質問だった。
エレーナはほんの少し考えた。
「少なくとも、移植した造血幹細胞がユウキの体内で機能し始めたことを示す材料ではある。移植後の経過を評価する上では、重要な段階の一つだ」
「じゃあ、喜んでいい?」
「喜ぶことと、この先の結果まで確定させることは同じではない」
エレーナはアスナを見る。
「今確認された良い結果を、将来が不確実だからという理由で無価値にする必要はない。ただし、生着したから今後も全て順調に進むと判断するのも適切ではない。今後起こり得る感染症、臓器障害、免疫反応その他の問題については、それぞれ別に評価する必要がある」
一度そこで言葉を切る。
「だが、今日は一つ進んだ。それで十分だろう」
以前のエレーナなら、その先にさらに長い説明が続いていたかもしれない。
今日はそこで終わった。アスナも、それ以上を求めているわけではなかったらしい。
「そっか」
そう言って、少しだけ安心したように笑う。
横で聞いていたリオが、エレーナの方へ視線を向けた。
ほんの一瞬だけ、二人の目が合う。
何かを確かめるようにも見えたが、エレーナは何も言わず、リオも尋ねなかった。
シノンがその僅かな間に意味を見つけるより先に、リオは自分の剣を握り直していた。
「もう一回やっていいか?さっき最後の着地、ちょっと気に入らなかった」
「完成したんじゃなかったの?」
シノンが尋ねると、リオは少し考えた。
「技は完成した。でも、アタシがもっと上手く使えるかどうかは別だろ?こう……リアルで目が見えなくても使えるくらいにはしたいしな!」
「リアルはともかく、目が見えないってどういうこと?幻惑魔法対策とか?」
「……仮面付けてみたいから」
「仮面?」
「うん。目のところまでちゃんと隠れるやつ。絶対そっちの方が格好いい」
あまりにも迷いのない答えに、シノンは一度黙った。
「それ、視界が悪くなるから練習してるってこと?」
「そうだぞ」
「仮面をやめれば?」
「それは嫌だ!」
即答だった。
「せっかく技まで格好よく出来たのに、使う方が普通だったら勿体ないだろ!だから仮面付けてもちゃんと斬れるようになる!」
「……順番が逆じゃない?」
「逆じゃない!格好いい方にアタシが合わせるんだ!」
胸を張って言い切るリオを見て、シノンはもう何も言わなかった。その答えが妙に獅織らしかったからだ。
出来るようになったから終わりではない。完成したものを、もっと自分のものにする。
木綿季が戻ってくるまで、待つ側の時間だって止まっているわけではないのだろう。
十十十十十十十十十十
2026.3.16
ALO内・イグドラシル・シティ
一度良い知らせを聞いたからといって、その後も同じ方向へ進み続けるとは限らなかった。
生着が確認されてから一週間ほど経った頃、病院から明日奈へ届いたのは、木綿季の全身状態が前日より不安定になっているという知らせだった。
何が起きているのか、その医学的な詳細までは明日奈へ伝えられていない。
治療そのものが失敗したわけでも、中断されたわけでもない。
現在起きている問題に対して必要な処置を行いながら経過を見ていること。そして、今の木綿季には会話や端末操作まで含めて余分な負担を避ける必要があるため、今日も面会や直接の連絡は認められないこと。
分かっているのは、その程度だった。
その日の夜、シノンがALOへ入ると、アスナは既にイグドラシル・シティの一角にいた。
狩りへ行く準備をしているわけでもなければ、誰かと待ち合わせをしているわけでもない。ただ現実の自室で病院からの連絡を待ち続けるより、誰かのいる場所へ来たかったのだろう。
リオも近くにいた。
普段なら何もすることがなければすぐに立ち上がって街を歩き始める少女が、今日はアスナから少し離れたところへ座り込み、行き交うプレイヤーたちをぼんやりと眺めている。
シノンも二人の近くへ腰を下ろした。
暫く、誰も話さなかった。街の中央ではいつも通り多くのプレイヤーが行き交い、どこかの店から流れる音楽と、遠くから聞こえる笑い声が混ざっている。
やがてアスナが言った。
「……昨日は、少し良くなってるって聞いたんだけど、今日は悪いって言われて。でも、どのくらいなのかはやっぱり分からないし、病院に行っても会えないし……」
膝の上で組んだ手へ視線を落とす。
「何も出来ないのって、嫌だね」
「……そうね」
シノンは否定しなかった。
今の自分たちには、ユウキの身体そのものへ出来ることは本当にない。薬を選ぶことも、移植された細胞を働かせることも、感染症を抑えることも出来ない。
どれだけ近しい友人であっても、その身体を代わってやることは出来ない。
「でも」
シノンは少しだけ身体をアスナの方へ向けた。
「今、ユウキの身体に対して私たちが出来ることがないのと、ユウキにとってアスナが必要ないことは別でしょう」
アスナが顔を上げる。
「治療を手伝えないからって、戻ってきた後まで何も出来ないわけじゃない。ずっと書いてるものも、そのためなんじゃないの?」
アスナの視線が、自分のメニューへ落ちた。
治療開始から一か月以上が経ち、《ユウキに話すこと》という題名のメモは随分長くなっているらしい。
最初はALOで起きたことばかりだった。
誰が何をしていた。どこへ狩りに行った。リオがまた妙な技を試して失敗した──そんな話だったものが、いつの間にか学校帰りに見つけたものや、街へ春物の服が並び始めたこと、駅前の木に小さな蕾が付き始めたことまで増えているという。
ユウキがいない世界を、出来るだけそのまま後から渡すための記録になっていた。
「……そうだね」
アスナは小さく頷いた。少し離れていたリオも、暫く黙った後で口を開く。
「アスナがずっと待ってること、ユウキは嬉しいと思うぞ」
「そうかな」
「アタシなら嬉しいな」
獅織はほとんど間を置かずに答えた。
「自分がいない間も、帰ってきたら話すつもりで色々残してくれたんだろ?」
「うん」
「だったら、それって最初からユウキが帰ってくるつもりで待ってるってことだろ」
言い切った後で、自分が随分素直なことを口にしたと気づいたらしい。
リオは少しだけ視線を逸らした。
「だから、その……何もしてないってことはないと思うぞ!」
アスナは暫くリオを見ていた。それから、ほんの少しだけ笑う。
「ありがとう、リオ」
「うん」
以前なら、照れ隠しに余計な一言くらい足したかもしれない。今日はそれだけだった。
その夜、アスナはいつものメモを開き、暫く何かを書き込んでいた。
「今日は何を書いたの?」
シノンが尋ねる。
アスナは少し迷った後で画面を閉じた。
「今日は、ユウキのことが心配だったって」
それだけだったらしい。
綺麗な話にしようとはしなかった。楽しかった出来事だけを残す必要はない。ユウキがいなかった時間を後から返すのなら、そこにはアスナが怖かった日も、何も出来ずに待つしかなかった日も、本人がいないところで名前を呼んでいた時間も含まれていていい。
きっと、それも彼女たちが過ごした時間の一部なのだ。
十十十十十十十十十十
2026.3.27
朝田詩乃の部屋
三月も終わりへ近づいた夜だった。
昼間には春らしい陽気を感じる日も増えてきたというのに、日が落ちればまだ冬の名残はしつこく残っており、窓ガラスの向こうでは冷えた風が建物の隙間を抜けている。暖房を弱めに入れた詩乃の部屋には、鍋の中で煮物が温め直される小さな音と、換気扇の低い回転音が続いていた。
夕食は三人分作っていた。
いつからそうするようになったのか、詩乃自身にもはっきりとは分からない。
最初の頃は、隣室で暮らす零奈がまともに食事を取らないから仕方なく一人分増やし、そのうち獅織まで当然のようにやって来るようになったため二人分が増えた。けれど最近では零奈が大学へ泊まり込んで帰らない日が続いても、食材を切り分ける時点で自然に三人分を計算している。帰ってこなければ翌日に回せばいいし、夜中に戻ってくるなら温め直せばいい。それを世話と呼ぶことすら、今では少し大げさに感じるようになっていた。
ただ、この一か月ほどは、その三人目が食卓へ座ること自体が珍しくなっていた。
隣から物音が聞こえたのは、夕食の火を弱めた直後だった。
獅織なら扉を開けてからの方が騒がしいし、そもそも今日は少し前から詩乃の部屋にいて、ベッド脇の床へ座り込んで携帯端末を弄っている。ならば聞き慣れないほど慎重な足音の主は一人しかいない。
詩乃が台所から顔を出すのとほとんど同時に、獅織も端末から顔を上げた。
「姉ちゃん?」
その一言だけで声が明るくなった。
獅織は立ち上がると、そのまま玄関へ向かおうとして、詩乃の部屋へ先に入ってきた零奈と入口で鉢合わせた。勢いを殺し切れず半歩ほど前へ出た獅織の身体を、零奈が片手で肩を受け止める。
「ただいま」
「おかえり!今日はもう大学戻らないよな?」
帰宅そのものを喜んだ直後には、次にいなくなる時間を確認している。ここしばらく姉が家にいなかったことを、獅織なりに随分気にしていたのだろう。
零奈は靴を脱ぎながら、少しだけ獅織へ視線を落とした。
「今夜は戻らない」
「ほんと?」
「ああ」
それだけで獅織の表情が露骨に緩んだ。
言葉では何も足さないまま、今度は零奈の袖を掴む。引っ張るほど強くはないものの、一度掴んだ布地をすぐには離そうとしなかった。
「だったら今日、ちょっと話あるんだ。ALOのやつ、前に言ってた──」
「獅織」
詩乃が呼ぶと、獅織は続きを止めてこちらを見た。
「何だ?」
「まず座らせてあげたら。零奈、立ってるだけでしんどそうだから」
「え?」
言われて初めて気づいたらしく、獅織が慌てて袖を離す。
零奈の顔色は極端に悪いわけではない。目の下に薄い疲労の跡が残り、普段より瞬きが少し遅い程度で、知らない人間が見れば大学で忙しくしていた人間の疲労としか思わないだろう。
ただ、詩乃にはそれだけで十分に分かった。
肩から提げている鞄がいつもより低い位置にあり、右肩だけが僅かに下がっている。靴を脱いだ後、上体を戻すまでにほんの少し余計な時間が掛かったことも、部屋へ入ってからまだ一度も自分から何かをしようとしていないことも気になった。普段の零奈なら疲れていても、まず室内の状態を一度見回し、置かれているものや人の位置を確かめてから動く。
今日は詩乃に言われた通り、黙ってテーブルまで歩いてきた。
「姉ちゃん、大丈夫か?」
獅織も今度は騒がず、零奈の隣へ寄る。
「大丈夫という言葉の定義による。帰宅に介助を必要とする状態ではないし、意識も清明だ。発熱や呼吸器症状もない。ただし、直近の睡眠時間が十分だったとは言い難く、腰背部の疼痛についても完全には消失していないため、休息が必要な状態ではある」
「それ、大丈夫じゃないだろ」
獅織は眉を寄せた。
零奈が反論するより先に、詩乃は椅子を少し引いてやった。
「ほら、座って」
「ああ」
普段なら一言くらい説明を挟みそうなところを、零奈は素直に従った。
椅子へ腰を下ろす時、身体がほんの僅かに慎重になる。以前から痛めていた腰がまだ残っているらしいと分かり、詩乃は零奈の鞄を足元から拾い上げて、邪魔にならない壁際へ移した。
その間にも、零奈は止めなかった。
自分の持ち物を他人に触られることを気にしていないというより、今は詩乃がどう置くのかを確認する必要そのものを感じていないようだった。
それが詩乃には少しだけ嬉しかった。
「ご飯、もうすぐ出来るから」
「分かった」
「手洗ってきた?」
「帰宅時に済ませた」
ほとんど確認作業のような会話を交わし、詩乃は再び台所へ戻った。
背後では、獅織が零奈の隣へ椅子を寄せている。普段のように身体を大きく預けたりはせず、ただ距離だけを近づけると、零奈の横顔を少し下から覗き込んでいた。
「眠い?」
「かなり」
「じゃあ、食ったら寝ろよ。話、明日でいいから」
数分前まで自分から話を始めようとしていたのに、状態が悪いと分かればすぐ引っ込める。その切り替えの速さは、獅織の感情が単純だからではなく、大切な相手に何を優先するべきかを迷わないからなのだろう。
零奈も、そのことは分かっているらしい。
「明日はいる」
「ほんとに?」
「ああ。少なくとも午前中に出る予定はない」
「じゃあ朝から話す!」
「私が起きていればな」
「起こす!」
「それでは休息時間を確保するという目的と矛盾する」
「じゃ、じゃあ起きたら!」
獅織はすぐに訂正した。その答えに零奈の口元が僅かに緩んだ気がした。
詩乃は鍋から皿へ料理を移しながら、そのやり取りを黙って聞いていた。獅織が零奈を慕っていることなど、今さら確認する必要もない。本人がどれほど否定しようと、零奈が帰ってくれば声が一段明るくなり、近くに座りたがり、少し構われただけで一日機嫌がいい。
零奈の方も、妹だからこそ獅織にだけ許している距離が明らかにある。
袖を掴まれても振り払わない。背後から突然寄りかかられても、危険でない限りそのままにする。食事の途中で獅織が何かを思いついて話し始めれば、内容がどれほど散らかっていても最後まで聞く。
それが妹に向けるものだと分かっていても、零奈の時間を少しくらい自分にも向けてほしいと思うことはあった。そんな感情まで獅織へ向けるのは違う気がして、詩乃は普段ならなるべく考えないようにしていた。
三人分の夕食を並べると、獅織が待っていましたとばかりに箸を取る。零奈もいつもより遅い動作で食べ始めた。
食事中、話をしていたのはほとんど獅織だった。
先日完成させたオリジナルソードスキルについて、実際に使ってみると最後の着地をもう少し安定させたいこと。明日奈たちにも見せたこと。自分では上手く説明出来ないため、見た方が早いと言われたこと。普段なら途中で何かしら分析を挟む零奈も、今日はほとんど口を出さずに聞いている。
「でさ、最後に後ろへ離れるところ、もうちょっと速く出来る気がするんだよ。技そのものの動きは変えられないけど、終わった瞬間の姿勢とか、その後どう動くかはアタシ次第だろ?」
「ああ」
「だから今度──」
そこまで話してから、獅織は零奈の箸が止まっていることに気づいた。
「姉ちゃん?」
零奈は少し遅れて顔を上げた。
「聞いている」
「いや、そこじゃなくて。眠いなら無理して食うなよ」
「残りは多くない」
「そういう話じゃないって」
獅織が心配そうに身を乗り出す。
詩乃もテーブル越しに零奈を見た。
「もういいわよ。残ったら明日食べればいいから」
「摂取量としては──」
「今まで何日まともに寝てないの?」
詩乃が静かに聞くと、零奈は言葉を止めた。
「合計睡眠時間だけを算出するなら、完全に不足しているわけではない。ただ、断続的な睡眠が多かったため、回復効率まで含めて評価すれば十分とは言えない」
「要するに?」
「……眠いな」
「じゃあ終わりね」
詩乃は迷わず零奈の皿を少し端へ寄せた。
零奈は手を伸ばさなかった。その素直さが、逆に相当疲れている証拠に思えた。
「姉ちゃん、部屋戻って寝る?」
獅織が尋ねる。
「そのつもりだった」
「じゃあアタシ、布団──」
「今日はこっちで寝かせる」
詩乃の口から出た言葉は、自分で思っていたより早かった。
獅織の動きが止まり、零奈も顔を上げる。
詩乃は二人の視線を受けてから、自分が言ったことを改めて頭の中で確認した。
別に不自然ではない。
零奈は疲れている。腰も痛い。隣室には獅織がいて、久しぶりに姉が帰ってきたとなれば話したいことが山ほどあるに決まっている。こちらで休ませた方が静かなことは事実だった。
少なくとも、理由はいくらでも並べられる。
「……何?」
先にそう返したのは詩乃だった。
獅織は何とも言えない顔で詩乃と零奈を交互に見る。
「いや。別に」
「言いたいことあるなら言えば?」
「詩乃、姉ちゃん今日ずっとそっちに置いとく気なんだなーって思っただけ」
「休ませるだけよ」
「ふーん」
「何よ、その顔」
「何でもないって」
明らかに何でもない顔ではなかったが、獅織はそれ以上追及しなかった。
代わりに零奈へ向き直ると、少しだけ名残惜しそうに肩を落とした。
「じゃあ姉ちゃん、明日はちゃんとアタシとも話してよ」
「ああ」
「絶対だぞ?」
「明日私が起きてからなら構わない」
それだけで獅織の機嫌はすぐ戻った。
立ち上がる前に、零奈の肩へ一度だけ身体を寄せる。抱きつくほど大げさではなく、ほんの数秒、腕を肩の後ろへ回しただけだった。
「じゃあ、今日はちゃんと寝ろ」
「……分かった」
今度の返事は随分素直だった。
獅織は立ち上がると、詩乃へ「おやすみ」と言って隣室へ戻っていった。
扉が閉まる。
部屋の中に残ったのは、食卓と、まだ片付けていない三人分の食器、それから急に静かになった空間の中で座っている二人だけになった。
先ほどまで獅織の声があったせいか、冷蔵庫の作動音や時計の針まで少し大きく聞こえる。
「……何だ?」
零奈が尋ねた。詩乃が自分を見ていたことに気づいたらしい。
「別に」
「そうか」
「何でそこで終わるのよ」
「君が別にと言ったからだ」
「そうだけど」
零奈は少しだけ首を傾げたが、その仕草さえ普段より緩慢だった。詩乃は小さく息を吐き、食器を片付け始める。
「先にお風呂入ってきたら?」
「隣で?」
「どっちでもいいけど、着替えは隣にあるでしょう。入って、髪乾かして、戻ってきて」
「……戻ってくる必要があるのか?」
零奈の質問に、詩乃は洗い物を止めずに答えた。
「ある」
「理由は?」
「あなた、隣に戻したらそのまま何か始めるでしょう」
「開始する予定の作業はない」
「本当に?」
「少なくとも、現時点では」
「その言い方する時点で駄目。今日は私が寝るまでこっち」
自分でも随分強引なことを言っている自覚はあった。
けれど、零奈は反論しなかった。
「分かった」
それだけ答えて立ち上がる。扉を出ていく直前、詩乃はもう一度呼び止めた。
「ちゃんと髪乾かしてよ」
「ああ、分かっている」
返事だけは立派だった。
そして二十分ほど後、戻ってきた零奈の髪を見た瞬間、詩乃は自分が念を押した意味が全くなかったことを理解した。
「零奈、乾いてない」
「完全な湿潤状態ではない」
「乾いてないから」
「水分量は入浴直後と比較して明確に減少している」
「そこに座って」
詩乃がベッド脇を指差すと、零奈は一度口を閉じた。
「……分かった」
今日は本当によく言うことを聞く。
零奈がベッドの縁へ座るのを待ち、詩乃はドライヤーを取り出した。コンセントへ差し込み、背後へ回って髪を手で分けると、まだ根元近くにはかなり水分が残っている。
「これで乾かしたつもりだったの?」
「眠気によって途中で継続する利益が低下した」
「つまり面倒になったのね」
温風を当てる。
零奈の短めの髪が風に揺れ、詩乃の指の間をすり抜けていく。普段なら、自分の身体へ誰かが何かをする時には無意識のうちに相手の手元を確認している人間が、今日は振り返ろうともしなかった。
それどころか数分もすると、少しずつ頭の重みが後ろへ傾き始める。
「零奈、寝ないで」
「起きている」
「今、頭落ちてきたけど」
「頸部筋群の緊張が低下しただけだ」
「それを寝かけてるって言うのよ」
乾き具合を確かめるために髪へ指を通す。
額へ掛かっていた一房を横へ除けると、零奈が僅かに目を閉じた。嫌がる様子はない。
そのまま詩乃の手が頬の横を通っても、顔を逸らさなかった。
触れること自体が珍しいわけではない。
怪我をしていた時には傷の状態を見るために身体に触れたこともあれば、熱がないか額へ手を当てたこともある。零奈自身も詩乃が体調を崩せば同じようなことをするだろう。
それなのに、こんなにも無防備に任されていることの方が、露骨な言葉を向けられるより余程落ち着かなかった。
「……気持ちいいの?」
少し迷ってから聞く。
聞いてから、少し子供へ尋ねるような言い方だったと思った。
零奈は目を閉じたまま答える。
「悪くない」
「それだけ?」
詩乃が半分冗談で言う。
いつもならそこから、温熱による筋緊張の緩和だとか、一定の感覚刺激がどうだとか、それらしい理由を並べてもおかしくない。
今日は違った。
「かなり楽だ」
短かった。
詩乃はドライヤーの風量を一段落とした。
「大学にいる時は、こんなに眠くならないの?」
「なる」
「じゃあ寝ればいいじゃない」
「そう単純ではない。眠気が存在することと、その時点で睡眠を選択出来ることは一致しない。自分が判断しなければならない事項が残っている場合、一定の覚醒水準を維持する必要があるし、短時間で状況が変化する可能性があるなら、睡眠へ移行すること自体が新たな不確実性を生む」
少しずつ、いつもの長い説明へ戻ってきた。
けれど声は低く、速度も遅い。
「一方、ここでは違う。食事は既に済んでいる。明朝までに処理しなければならない問題もない。室温にも問題はないし、獅織も隣にいる。君は私が寝不足だと判断すれば勝手に作業を止めるし、食事を抜けば食べさせる。私が自分で管理するべき生活上の事項について、少なくとも今夜は大半を君が先に処理している」
「それ、私が全部やってるって話じゃない」
「ああ」
「反省して」
「改善すべき点ではある」
その返事にはいつもの零奈らしさがあった。けれど、続く言葉まで同じではなかった。
「ただ、結果として私が判断しなくていいことが増えているのも事実だ」
詩乃の手がほんの僅かに止まる。
零奈は目を閉じたまま続けた。
「何を食べるか、いつ休むか、今この瞬間に何かを見落としていないか。その一つ一つを確認する必要がない」
そこでようやく目を開く。
背後にいる詩乃を見ることは出来ないはずなのに、零奈はごく自然に言った。
「君が見ているからな」
ドライヤーの音だけが数秒続いた。
詩乃は何か返そうとして、言葉を選び損ねた。零奈はそれを求めてもいないらしく、少しずつまた目を閉じていく。
「私が何もしなくても問題が増えない環境は、思っていたより少ない」
長い説明はそこで終わった。数秒だけ、ドライヤーの音しか聞こえなくなる。やがて零奈が、ほんの少しだけ頭を後ろへ預けた。
「ここは楽だ」
詩乃はすぐには返事をしなかった。
普段の零奈が口にする「楽」という言葉は、手順が少ないとか、負担が軽いとか、効率が良いとか、そういう意味へ置き換えられることが多い。
けれど、今の一言はそこへ綺麗に収まらない気がした。
自分が何か特別なことをしているわけではない。
夕食を作り、寝不足なら寝ろと言い、濡れた髪を見つけたら乾かしているだけだ。むしろ零奈の生活能力がもう少しまともなら、必要のないことばかりだった。なのにこの女は、それら全てを自分でしなくていいことに、ここまで無防備に安堵している。
詩乃は少しだけ口元を緩めた。
「だったら、もう少し帰ってくればいいのに」
ドライヤーを止めながら言うと、部屋の静けさが戻った。零奈が少しだけ顔を上げる。
「そうだな」
あまりに簡単に返され、詩乃の方が困った。
「……何よ」
「何がだ?」
「もっと長い説明すると思った」
「必要か?」
「別に」
「なら、しない」
詩乃は乾いた髪を最後に軽く整えた。
耳の横へ残っていた一房を指で払う。零奈はその手を避けなかった。むしろ詩乃が離そうとしたところで、僅かに顔をそちらへ向けたように見えた。
気のせいかもしれない、あるいは眠いだけかもしれない。
どちらでも構わなかった。
「もう寝ていいわよ」
「ああ」
零奈はベッドへ身体を横たえた。
詩乃が使っている一人用のベッドだから、大人一人が横になれば余裕はほとんどない。それでも零奈は端へ寄ることもなく、いつもの詩乃の枕へ頭を乗せた。
「そこ、私の場所なんだけど」
「……知っている」
「知ってて寝るの?」
「君がここで寝ろと言った……」
「ベッド全部使っていいとは言ってないけど」
返事がない。
「零奈?」
詩乃が顔を覗き込むと、既に目が閉じていた。呼吸も、ほんの数十秒前まで話していた人間とは思えないほどゆっくりしていた。
「……早」
本当に眠っていた。
詩乃は暫くその場に立ったまま、呆れ半分に零奈の顔を見ていた。
ここ一か月近く、ほとんど家へ帰ってこなかった。
大学に泊まり、たまに戻ってきても必要なものを持ってすぐ出ていく。ALOにもほとんど現れない。何をしているのか尋ねれば研究だと答えるし、それ以上を無理に聞くような関係でもない。だからこそ、詩乃は口には出さなかっただけで、自分でも思っていた以上にその不在を気にしていたらしい。
零奈の食事を作っても余る日が続くこと、隣から獅織の声だけが聞こえること、朝になってもいつもの時間に零奈が顔を出さないこと、ALOやGGOに入ってもエレーナがいないこと。
それら一つ一つは小さく、どれも我慢出来ないほどのことではなかった。
ただ、積み重なると少し違った。
零奈がどこかで誰かと話していることも、大学で多くの人と一緒に動いていることも、頭では当然だと分かっている。自分だけが零奈の時間を持っているわけではないし、獅織にとっても零奈はかけがえのない存在だ。
そんなことは最初から分かっている。
それでも、今夜くらいは。
詩乃はベッドの縁へ座った。
眠っている零奈は、自分からは決して見せないほど無防備だった。眉間へいつも薄く残っている力も抜け、何かを考え続けている時の硬い表情もない。頬へ掛かっていた髪を指先で横へ除けても、反応すらしなかった。
詩乃はそのまま少しだけ眺めてから、声を落とした。
「……たまには、私のところを優先してくれてもいいのに」
口にしてから、自分で何を言っているのかと思った。
誰に聞かせるつもりでもなかった。ただ、一ヶ月分溜まったものが、相手が眠ったことに安心して少しだけ漏れただけだった。
詩乃はすぐに零奈の顔を見る。
呼吸は変わらない、聞かれていなかった。そのことに安堵したはずなのに、胸の奥へほんの少しだけ不満が残った。
「……帰ってきた時くらい、すぐまたいなくならないでよ」
さっきよりさらに小さく言うが、何も返ってこない。
詩乃は少し待ってから零奈を見るも、やはり完全に眠っていた。僅かな反応どころか、呼吸の間隔すら変わっていない。
「……聞いてないし」
安堵したような、少しだけ腹立たしいような、どちらとも言えない気分になった。
聞かれていたら困ったはずなのに、まったく聞かれていないと分かると、それはそれで少し納得がいかない。
詩乃は眠った零奈の額を指先で軽く押したが、起きる気配はない。
「本当に、こういう時だけ都合いいんだから」
返事の代わりに、零奈の頭がほんの僅かに枕へ沈んだだけだった。
時刻を確認すると、まだ普段寝るには少し早い。
本来なら零奈へベッドを譲り、自分は別の場所で寝る方法もある。隣室へ行けば普段零奈が使っているベッドを貸してもらうことも出来るし、別に床に布団を敷いてもいい。
詩乃は一度立ち上がった。
予備の寝具を出そうとして、数歩進んだところで止まり、振り返る。
自分が毎晩眠っている場所で、零奈はまるでそこが最初から自分の寝床だったかのように眠っている。
「……何で私が床で寝るのよ」
誰に向けるでもなく呟く。
理屈としては十分だった。ここは詩乃の部屋で、詩乃のベッドだ。零奈を寝かせるために自分が睡眠の質を落とす必要などない。しかも零奈自身、つい先ほど睡眠不足による判断力の低下について散々認めている。ならば詩乃まで翌日に疲れを残す選択をするのは合理的ではない。
そこまで考えて、自分がいつの間にか零奈のような理屈を組み立てていることに気づいた。
「……変なところ移ったかな」
詩乃は一人で少し笑った。
部屋の照明を落とす。
ベッドへ戻り、零奈を起こさないよう掛け布団を少し持ち上げる。幸い零奈は細身で、詩乃自身も大柄ではない。一人用のベッドへ二人で横になるには明らかに狭いものの、身体を横向きにすれば眠れないほどではなかった。
壁側へ身体を滑り込ませる。
本当なら背中合わせになるつもりだった。
けれど、零奈の身体を起こさないよう慎重に位置を調整しているうちに、結局二人は互いに向かい合う形になった。
近い。
起きている時なら、まず自分から選ばない距離だった。
暗い部屋の中でも零奈の顔は十分に見える。閉じた瞼も、呼吸に合わせて僅かに動く肩も、つい先ほど詩乃が乾かしたばかりの髪も、手を伸ばさなくても分かるほど近くにある。
詩乃は一度だけ、少し身体を後ろへ引こうとした。
その時、布団の中で手の甲へ何かが触れた。
零奈の指だった。
寝返りを打つような大きな動きではなく、力の抜けた手がほんの僅かにずれただけらしい。
最初は触れただけだった。
詩乃が邪魔にならないよう自分の手を動かそうとすると、その動きに引かれるように零奈の指先が少し曲がり、詩乃の手を緩く包んだ。
意識して握ったわけではない。
眠っている人間が、近くにあったものへ無意識に触れただけなのだろう。
それでも詩乃は動きを止めた。
離そうと思えば簡単に離せる。けれど、わざわざ離す理由もなかった。
この一か月、自分の知らない場所に零奈がいる時間が随分長かった。
誰かと話し、何かを判断し、何かを背負い、そこから短い連絡だけを寄越してまた朝を迎えていたのだろう。詩乃には、その全部を知ることは出来ない。けれど今は、同じ人間が何も考えずに隣で眠っている。
夕食を食べ、獅織の話を聞き、髪を乾かされ、それ以上起きている必要がなくなった途端に眠った。
零奈自身が言った通り、ここでは何も判断しなくていいのだろう。
少なくとも今夜だけは。
詩乃は零奈の指を振りほどかず、自分の手をそのままにした。
握り返すことまではしなかった。
ただ、離さなかった。
暫くすると、零奈が眠りの中で僅かに身体を動かし、二人の間に残っていた隙間がほんの少しだけ狭くなる。それでも目を開けることはなく、触れていた手だけも離れなかった。
詩乃も目を閉じた。
明日の朝になれば、獅織が隣からやって来て、零奈がどこで寝たのか知れば何か言うかもしれない。零奈自身も目を覚ませば、二人で一人用のベッドを使ったことについて睡眠効率や姿勢への負荷を分析し始める可能性がある。
その時は、その時でいい。少なくとも今は、何について説明する必要もなかった。零奈がここにいて、深く眠っている。その手が偶然にせよ詩乃の手へ触れたままなら、朝になるまでわざわざ離してやる必要もない。
詩乃は掛け布団を少しだけ零奈の肩まで引き上げ、そのまま自分も眠りへ落ちていった。
夜の間、二人の手がいつまで重なっていたのかは、どちらも知らなかった。
ただ翌朝、詩乃が目を覚ました時にも、零奈はまだすぐ隣で眠っていた。
十十十十十十十十十十
2026.3.29
東京都内・大学附属病院
日曜日の朝、明日奈のもとへ大学病院から連絡が入った。
木綿季の全身状態が一定の範囲で安定し、感染管理上の条件も整ったため、今日であれば短時間の面会を認められるという内容だった。
文章そのものは簡潔だった。
明日奈は一度読んだだけでは、その意味を現実のものとして受け止められなかった。二月の初めにガラス越しで別れ、その後、治療へ入る直前に最後のメッセージを交わしてから、木綿季本人の声を一度も聞いていない。
移植が行われた、生着が始まった。
一度は良い知らせが届いたと思えば、その数日後には状態が不安定になったと伝えられた。
少し持ち直した後も面会の許可は出ず、その間にも別の問題について経過を見ているという連絡が何度か届いた。何度も、次こそ会えるのではないかと思った。
そのたびに、まだ早いと判断された。
だから『今日なら会える』という文字を見ても、病院へ向かう間でさえ実感は薄かった。
必要な手続きを済ませ、以前と同じ病棟へ向かう。初めてここへ来た時とは違い、もう道を間違えることはない。
そのまま面会受付へ向かった。
病棟では面会時間が短いことや木綿季に疲労が見られれば予定より早く終了すること、会話中も無理をさせないことなど、改めて確認された。
明日奈は全てに頷き、二か月近くぶりにガラスの前へ立った。
木綿季は、以前よりさらに痩せていた。
強力な治療の影響で髪は大半が抜け、残った髪も短く整えられている。頬は細く、腕にはまだ点滴が繋がっていた。ベッドの上半分を少し起こしてもらった姿勢を維持するだけでも、身体に負担が掛かっていることが分かる。
元気になった、とは到底言えない。
治療を始める前より健康そうに見えるわけでもない。むしろ外見だけなら、以前より弱っているようにさえ見えた。
それでも、目は開いていた。
明日奈がガラスの前へ立つと、少し遅れて視線がこちらへ向く。
僅かに目が大きくなる。
その後で、口元がゆっくりと緩んだ。明日奈は通話用の受話器を取った。
「木綿季」
呼び掛けた声が僅かに震えていることに、その時初めて気づいた。ガラスの向こうで木綿季が一度呼吸を整え、それから小さく口を開く。
『……明日奈、久しぶり』
二月以来、初めて聞く声だった。
弱く、以前よりずっと小さい。それでも、間違いなく木綿季自身の声だった。
「うん。久しぶり、木綿季」
この二か月で言いたいことはいくらでも増えたはずなのに、実際に本人を前にすると、最初に出てきたのはそれだけだった。
木綿季も同じだったのかもしれない。暫く二人とも何も言わず、厚いガラスを挟んで互いの顔を見ていた。
『なんか……すごく長かった』
「長かったね」
『明日奈も?』
「私も」
木綿季は、その答えに少しだけ笑った。
『みんな、元気?』
最初に尋ねたのは、自分の病気のことではなかった。
「元気だよ。みんな待ってる」
『そっか』
「それでね。話したいことがすごくいっぱいあるの」
『どれくらい?』
「かなり」
明日奈は携帯端末を取り出し、画面を木綿季へ見せた。
そこには二月から書き続けてきた《ユウキに話すこと》という題名のメモが残っている。
「ユウキが治療に入ってから、ずっと書いてたの」
『ずっと?』
「うん。いなかった間に何があったか、戻ってきたら教えようと思って」
木綿季は少し驚いたように画面を見つめた。
『今日、全部聞けるかな?』
明日奈はメモの長さを思い返す。
「たぶん無理」
『そんなにあるの?』
「二か月近くあるからね」
木綿季は少し考えた。
そして、ごく自然に答えた。
『じゃあ、今度来た時に続きを聞く』
その一言に、明日奈は一瞬だけ返事を忘れた。
今度──次の面会。
今日の後にも同じ時間があることを、木綿季自身が何の気負いもなく前提へ置いた。
二か月前までなら、「今度」という言葉を口にするだけでも、どこか祈るような意味が混ざっていたかもしれない。だが、今は違う。
「……うん、何回でも話すね」
そこから明日奈は、この二か月に積み重なった時間を少しずつ返し始めた。
木綿季が治療へ入った直後のALOのこと。
彼女一人がいないだけで、いつもの場所が思っていたより静かに感じられたこと。それでも誰もそこで遊ぶのをやめず、普段通りに狩りへ行き、話し、木綿季が帰ってくる場所をそのまま残していたこと。
詩乃のこと、獅織のこと。
獅織が、木綿季へ「自分も待っていると書いておいてほしい」と言っていたこと。
『リオが?へえ……』
声の端へ、小さな笑いが混じった。
「本人に言ったら、たぶんちょっと照れるよ」
『じゃあ言う』
あまりにも木綿季らしい返事に、明日奈も笑った。
「それとね。リオ、新しいオリジナルソードスキル完成させたよ」
今度は木綿季の目がはっきりと動いた。
『ほんと!?』
「《フォリーズ・トウル》っていう四連撃。本人に説明してもらったんだけど、途中から『こうやって回って、最後に上から刺す』になって、正直言葉だけだとよく分からなかった」
『リオらしいなぁ』
「でも、実際に見ると本当にリオらしい技だったよ。風と闇のエフェクトが混ざってて、最後は上から落ちて剣を刺した後、後ろへ宙返りして離れるの。戻ったら本人に見せてもらって」
『そっか、デュエルするのが楽しみだなあ』
そう答える声には、ほんの少しだけ《絶剣》らしい張りが戻っていた。
明日奈は、そのことが嬉しかった。さらに、零奈が大学の研究で忙しくなり、ほとんどALOへ姿を見せなくなっていたことも話した。久しぶりにログインした日には少し医学的なことを尋ねただけで、やはり零奈らしく慎重な説明を返し、その後は現実で詩乃から休むよう言われて大人しく寝たらしいこと。
学校であったこと、帰り道で見つけたもの。
街に春物の服が並び始めたこと。
駅前の木々に少しずつ花が増えてきたこと。
どれも治療そのものとは関係のない、ごく普通の話ばかりだった。けれど木綿季がいなかった二か月を返すのなら、むしろそういうものの方が大切なのだろう。
木綿季は途中で何度か目を閉じた。
そのたびに明日奈も話を止める。
以前なら、その沈黙一つ一つに胸を締めつけられていたかもしれない。
今も身体が十分に回復したわけではないし、この先に問題が起こらない保証もない。
それでも今日は、目を閉じた後にもう一度開くことを少しだけ信じて待つことが出来た。
数秒ほどして、再び木綿季の目が開く。
『まだね、全然動けないんだ』
自分の身体へ僅かに視線を落とす。
『歩けるようになるのも時間かかるって。ALOも、まだずーっと駄目だって』
「うん」
明日奈は無理に前向きな言葉へ置き換えなかった。移植が終わればすぐ元気になるわけではないことは、最初から説明されている。むしろここから、失った体力を戻し、新しい免疫系が安定していくまでには長い時間が必要になる。
木綿季自身も、そのことを知っている。
『でもさ』
「なに?」
『前より、先の話しても変じゃなくなったんだ』
明日奈は僅かに目を見開いた。
『まだいつになるか分からないって言われるけど、退院した後どうするかとか、学校はどうするかとか、そういう話も少しするようになったんだよ』
声には、ごく小さな嬉しさが混じっていた。
『前は、そんな話する方が変だったから』
明日奈はすぐには返事が出来なかった。
治ったとはまだ誰も言っていないし、助かったとも保証されていない。それでも今は、医療者の側から「退院した後」という言葉が出るようになった。これまで話題にするだけでも現実から遠かった時間が、少なくとも考えてもいい未来へ変わり始めている。
「じゃあ、考えないとね」
『何を?』
「学校も、ALOも、リアルで遊ぶ場所も。リオの技も見ないといけないし」
『ははは、忙しくなるなあ』
木綿季は、二月三日に似た話をした時と同じように少し笑った。
その表情を見ていた明日奈は、それだけでもう十分だと思った。暫くして、木綿季が何かを思い出したように口を開く。
『ねえ、明日奈』
「うん?」
『治療に入る前にね、ちょっと考えてたことがあるんだ』
先ほどまでより、少しゆっくりした声だった。
『もし戻れなかったら、《マザーズ・ロザリオ》は、明日奈に渡しておこうかなって』
明日奈の指が、受話器を握ったまま止まった。
十一連撃のオリジナルソードスキル。
《絶剣》という存在を象徴する、木綿季自身が作り上げた技──それを他人に譲るということが何を意味するのかは、説明されなくても分かった。
『明日奈なら、ちゃんと使ってくれそうだったし』
木綿季は、悲壮な声ではなく、少し前に考えていたことを打ち明けるように続ける。
『ボクがいなくなっても、残るかなって思って』
明日奈が何かを答えるより先に、木綿季は僅かに笑った。
『でも、やめた』
「……え?」
『渡さない』
今度の声には、ごく僅かな強さがあった。
『まだボクが使うから』
明日奈は、目の奥が熱くなるのを感じた。
失ったものを惜しんで泣くのではない。まだ失われていないものを、本人が自分の手元へ残すと決めた。
この瞬間、《マザーズ・ロザリオ》は誰かへ託されて残る技ではなくなった。木綿季自身が、この先も使うための技のまま残る。
「……うん」
明日奈は一度息を整えた。
「それがいいよ。ユウキの技なんだから、ユウキが使えばいい」
『うん』
木綿季は小さく頷いた。
『戻ったら、また勝負しようね』
「でも、今度は私が勝つから」
『それはどうかなぁ』
その時、面会時間が終わりに近いことを知らせる表示が変わった。木綿季も気づいたらしく、少しだけ残念そうに視線を向ける。
『ありゃ、もう終わり?』
「今日はね」
『まだ全然聞いてないよ』
「だから次があるんでしょ」
明日奈がそう返すと、木綿季は暫くこちらを見ていた。
そして細い腕をゆっくり持ち上げる。大きく振るだけの力はなくても、指先が僅かに動いたことで十分だった。
『またね、明日奈』
治療へ入る直前。
同じ言葉を最後に、一度途切れた時間。その『またね』の先が、ようやく今日へ繋がった。
明日奈も空いている手を上げる。
「またね、木綿季」
今度の「またね」は、次が来るか分からないまま交わす言葉ではなかった。少なくとも二人とも、次に会うつもりで口にしていた。
十十十十十十十十十十
2026.3.30
結城明日奈の自室
翌朝。
目を覚ました明日奈は、枕元に置いていた携帯端末へ新しい通知が届いていることに気づいた。まだ起床予定の時刻より少し早い。
病院から何か連絡があったのかと、一瞬だけ身体が強張った。けれど画面に表示された送信者の名前を見た瞬間、その緊張は別の感情へ変わった。
木綿季。
病院側から許可された範囲で、自分で送ったものなのだろう。文章は短かった。
『おはよう、明日奈』
それだけでも十分だった。
明日奈はベッドの上で身体を起こし、すぐに返信する。
『おはよう、木綿季。体調どう?』
数分ほど待っていると返事が届いた。
『昨日しゃべりすぎたって言われた』
思わず口元が緩む。続けて、もう一通。
『だから今日は短くする。昨日の続き、今度全部聞かせてね』
明日奈は昨日見せたメモを開いた。
二月から少しずつ積み重なった文章は、一度や二度の面会で到底話し切れる量ではない。
しかも、昨日木綿季へ会ってから今日までの間にも、既に新しい話が一つ増えている。
今日を過ごせば、また増える。
明日も増える。
その次の日も、おそらく同じだろう。以前の明日奈なら、そこまで先のことを何の疑問もなく考えることは出来なかった。
木綿季と会うたび、次があることを願っていた。同時に、その願いが当たり前ではないことも知っていた。だから未来を考える時には、いつも自分でどこかに線を引いていた。
あまり先まで想像しない、約束を増やし過ぎない──叶わなかった時、木綿季が傷つくかもしれないから。
そして、自分自身も傷つくから。
今も未来が保証されたわけではない。移植後の治療は続いているし、身体はまだ十分に回復していない。新しい免疫系が安定するには長い時間が必要であり、HIVが再び増えない状態を維持出来るかどうかも、これから何度も確認しなければならない。
それでも、昨日より今日の方が一日だけ先にあって、今はその一日を木綿季自身も同じように迎えている。
明日奈は返信欄へ指を置いた。
『全部聞くなら、何回かかるか分からないよ』
送信する。
今度の返事は少し遅かった。きっと文章を打つこと自体、まだ疲れるのだろう。それでも数分後、画面へ新しい一文が表示された。
『じゃあ何回でも聞く』
明日奈は、その文章を暫く見つめていた。
何回でも──以前なら、木綿季との間でそんな言葉を簡単には使えなかった。
あと何日あるのか。
あと何度会えるのか。
あと何回、一緒に遊べるのか。
考え始めれば、いつもそこには限りがあった。今も、その限りそのものが消えたと断言出来るわけではない。人の時間に本当の意味で限りがなくなることなど、きっと最初からない。
ただ、まだ存在しない終わりの日を先回りして数える必要は、もうなかった。
明日奈はゆっくりと返信を打った。
『分かった。じゃあ何回でも話す』
送信する。その直後、何気なく画面上部へ視線を向けた。そこに表示されている日付を見て、何故だか指が止まる。
2026年3月30日。
木綿季はまだ病院にいる、治療も終わっていない。この先に何が待っているのか、まだ誰にも分からない。昨日までより良くなる日もあれば、また悪くなる日もあるのだろう。
それでも。
3月29日は、もう昨日になっていた。
いつから冬の中だったのだろう?届かない未来は
誰かに託し続けるしかなかったロザリオのよう。
長い眠りの果て、磨き上げられた刃に映る姿。
マクアフィテルが静かに囁きかける。
明日を願い、自分を手に入れろ、と。