木漏れ日が斑模様に揺れるオイサースト北西の原生林は、過去からの来訪者たちが去った後、元の静けさを取り戻していた。
鳥のさえずりと風の葉擦れだけが支配するその森の奥深く、粗末な木造小屋の前に、音もなくひとつの影が立つ。
長い金髪を風に靡かせ、古代の薄い白布を纏った裸足の少女――大陸魔法協会の始祖、ゼーリエ。
彼女が歩く足元からは、草を踏み締める音すら立たない。ただ、大気中の魔力が彼女の存在に平伏するかのように、微かな緊張を孕んで波打っていた。
小屋の簡素な木扉が、ギイ……と音を立てて開く。
出迎えるように姿を現したのは、白いツインテールを揺らす小柄なエルフ――千年後のフリーレンだった。
「ゼーリエ。七百年ぶりくらいだね」
フリーレンは左側だけに残された薄い翡翠の瞳を細め、頭のアホ毛をぴくりと揺らしながら、まるで昨日も会った隣人に声をかけるかのような平坦さで言った。
「……相変わらず、緊張感のない面構えだな」
ゼーリエは小さく鼻を鳴らし、促されるままに小屋の粗末な木製椅子へと腰を下ろした。
フリーレンは残された右手を器用に動かし、使い込まれた鉄瓶と二つの木製カップを並べると、指先に淡い魔力光を灯した。
「……『冷めたお湯を一瞬で飲み頃の温度にする魔法』」
ふわりと立ち上る湯気とともに、爽やかな薬草の香りが小屋の中に広がる。片腕とは思えない無駄のない所作で、フリーレンは注ぎ分けたハーブティーのひとつをゼーリエの前へ滑らせた。
ゼーリエの黄金の瞳が、湯気越しにフリーレンの姿をじっと見据える。
閉ざされた右目の深い傷痕。
そして、ゆったりとした麻の衣服の左肩から空ろに垂れ下がる袖。
その痛々しい欠損を、ゼーリエは驚きもせずに見つめていた。初見ではない。今からおよそ七百年前――北部高原を揺るがした未曾有の大戦において、フリーレンが払った代償の痕跡だった。
あの戦いは、人類の魔法体系の脆弱さを露呈させ、ゼーリエ自身が長年敷いていた『一級魔法使い』『二級魔法使い』という等級制度を根本から解体し、現行の適性管理制度へと移行させる決定的な契機となった事件でもあった。
「あいつら……フェルンたちは元の時代へ帰ったのか?」
ゼーリエが低く問うた。
「うん。女神様の魔法でね」
フリーレンは木製カップを口元へ運び、ふうと息を吹きかけながら答えた。そして、残された目を悪戯っぽく細める。
「どうせフェルンのことが心配で見に来たんでしょ? 心配なら本人に言ってあげればよかったのに」
「戯言を」
ゼーリエは冷淡に視線を逸らし、腕を組んだ。
「私があの程度の小娘を気にかける道理があるか。因果の歪みがこの時代にどのような影響を及ぼしたか、事後確認に来たに過ぎん」
「相変わらず素直じゃないね」
フリーレンは小さく笑い、それから思い出したようにアホ毛を揺らした。
「あ、そうだ」
フリーレンは立ち上がり、壁際の本棚から年季の入った一冊の分厚い魔導書を引き抜いた。丁寧に鞣された革の表紙は無数の旅路で角が擦り切れ、幾重にも補修された跡がある。
「はい、これあげる」
無造作に差し出された魔導書を、ゼーリエは怪訝そうに見下ろした。
「……言っておくが、女神の魔法などという曖昧な奇跡に私は微塵の興味もないぞ」
「違うよ。女神様の魔法じゃない」
フリーレンは椅子に座り直し、空っぽの左袖を揺らしながら言った。
「私が長い旅路の中で集めてきた、たくさんの『くだらない魔法』をまとめた本だよ。私の、旅の集大成とも言えるね」
ゼーリエが細い指先で頁をめくると、そこにはフリーレン特有の癖のある筆跡で、膨大な数の術式がびっしりと記されていた。
『銅像の錆を綺麗に取る魔法』
『甘い葡萄を酸っぱい葡萄に変える魔法』
『服が透けて見える魔法』
『底なし沼から引っこ抜く魔法』――。
人類が体系化したあらゆる攻撃魔法、防御魔法、結界術を知り尽くし、生ける魔導書と称されるゼーリエ。だが、大陸魔法協会の頂点に君臨し、滅多に街から出歩くことのない彼女にとって、名もなき辺境の小村や、路傍の民の間で細々と受け継がれてきたこれら民間魔法の数々、そのほとんどは、いかに全知を謳われる彼女であろうとも知り得ないものだった。
戦いの役には立たず、歴史の教科書にも載らない、矮小な人間たちの生活の知恵の結晶。
ゼーリエが本をパラパラとめくるにつれて、「かき氷を出す魔法」「なくした装飾品を探す魔法」「しつこい油汚れを取る魔法」など呆れるような民間魔法の記述が続く。
――そして、一番最後のページ。少しの空間をあけ、やや丁寧な字で『花畑を出す魔法』と記されているのを見つけ、ゼーリエは静かに目を細める。
ゼーリエはしばしその頁を眺めた後、パタンと音を立てて本を閉じた。
「……ふん、くだらん」
冷ややかに言い捨てながらも、ゼーリエはその魔導書を突き返すことはしなかった。
彼女は机上の木製カップを細い手で持ち上げ、静かに口をつける。
熱すぎず、ぬるくもない。
大気の冷たさに晒されていた喉を、完璧な温度に保たれたハーブティーが柔らかく潤していく。森の香りと微かな甘みが、じんわりと身体の芯へと染み渡った。
とても、美味い。
ゼーリエは伏し目がちにカップを見つめ、小さく息を吐き出した。
「……だが、無価値ではないらしい」
静まり返った小屋の中、二人のエルフの間に、途方もない時の流れを包み込むような穏やかな沈黙が流れていた。
ゼーリエは、手にした革表紙の魔導書を懐に収めると、音もなく立ち上がった。建て付けの悪い木扉の鳴き声だけが響き、彼女は森の出口へと静かに歩みを進める。
「相変わらず、無駄の多い生き方だ」
吐き捨てられた言葉とは裏腹に、その足取りにはどこか微かな緩やかさが宿っていた。
全知を誇る大魔法使いの懐に収まったのは、かつて人間たちと歩んだ果てに集められた、今は名も形も残らぬ村々の、生活の知恵――『くだらない魔法』の集大成。
いかに時代が移り変わり、魔法体系が塗り替えられようとも、そこにはかつて確かに生きた人間たちの温もりと、彼らを愛したエルフの記憶がしっかりと刻み込まれている。
「……ゼーリエ、またね」
小屋の縁側に腰掛けた千年後のフリーレンが、残された右手を小さく掲げて見送る。
左袖が森の風に遊び、閉じられた右目の傷痕が陽光を受けて白く光る。かつての過酷な戦いの傷跡は痛々しく刻まれていたが、その横顔には苦痛も後悔もなく、ただどこまでも澄み切った穏やかさだけがあった。
ゼーリエの気配が完全に森の奥へと消え去ると、あたりには再び、小鳥のさえずりと葉擦れの音だけが残された。
フリーレンは庭の片隅に視線を向け、右手をかざした。
「……『花畑を出す魔法』」
淡い燐光が地面を撫でるように広がると、未来の植物たちの足元から、懐かしく可憐な蒼い花が一輪、また一輪と静かに芽吹き、瞬く間に庭先を一面の青で染め上げた。
かつて勇者ヒンメルの故郷に咲き乱れていたという、あの蒼月草だ。
一度は大陸から姿を消し、絶滅種だと思われていた青く美しい花が、吹き抜ける風にふわりと揺れる。
フェルンと旅に出てすぐの頃、ヒンメルの銅像の前に咲かせるため、共に探し求めたことを思い出す。
「ふふん。やっぱりこの魔法が一番綺麗だね」
フリーレンは満足そうにアホ毛を揺らし、残された翡翠の瞳を細めた。
人間にとっての一千年は、国家を滅ぼし、歴史を風化させ、人々の姿を神話の彼方へと押し流してしまう絶望的な歳月だ。
だが、どれほど時間が流れようとも、共に笑い、怒り、くだらない道草を食いながら歩んだあの日々の記憶は、決して色褪せることはない。
彼らが遺していった温もりは、失われた身体の痛みすら包み込み、この悠久の孤独をどこまでも静かで豊かなものにしている。
「……フェルン、シュタルク。……良い旅をね」
空を見上げれば、一千年前と何一つ変わらない、高く澄み渡った北部高原の青空が広がっている。
遠い過去で、再び旅路を歩み始めたであろう弟子たちの姿を思い浮かべながら、フリーレンは穏やかな笑みを浮かべ、静寂の中へと身を委ねた。
あとがき
本編に続き、エピローグまでお付き合いいただき本当にありがとうございました!
お気に入り登録や評価をいただきまして、感謝の極みです。
読んでもらえているなあという実感が活動のモチベになっております。
本作は原作の過去編が大好きだったことから、「過去と未来の因果律が交錯するif」を自分なりにオマージュして形にしてみた作品でした。構成に頭を悩ませる場面も多かったですが、皆様からいただいたお気に入りや評価、温かいご感想が何よりの原動力になりました。
1000年後のフリーレンの物語、少しでも心に残るものになっていれば幸いです。
改めまして、最後までお読みいただき本当にありがとうございました!
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