白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
王都の南東地区が眠りに沈んだ後も、礼拝堂の奥に設けられた小さな執務室の灯りの下で、アドリアン神父は机を挟んで一人の男と向き合っていた。
男の衣服に、アマリヴィア教会の紋章はない。街を歩いていても、商人の使用人か、夜間の仕事を終えた職人にしか見えないだろう。
だが、その姿が見かけどおりのものでないことを、アドリアンは知っている。
「院長。回収は完了しました」
男は声を抑えて報告した。
「指定された文書はすべて確認済みです。写しが残っている形跡も、今のところはありません」
「関係者は」
「命令どおり、引き続き監視します」
アドリアンは机上の報告書へ目を落とした。
簡潔に整えられた文章の末尾には、教義保全院で用いる印が記されている。公には存在しない組織の、公には残せない仕事を終えた証だった。
教義保全院。
アマリヴィア教会の教えと記録を守るために設けられた秘密組織。その存在を知る者の多くは、単に暗部と呼んでいた。
古い経典や禁書の回収。他宗教の動向調査。表立って裁くことのできない者への監視と対処。
その頂点に立つ教義保全院長が、王都の一角にある小さな地域教会で、住民からアドリアン神父と呼ばれていることを知る者は少ない。
「何か問題はありましたか」
「ありません」
その答えに迷いはなかった。命令された仕事を、命令されたとおりに終えた者の声だった。
アドリアンは報告書を閉じた。
「分かりました。今夜はこれで終わりです」
「はっ」
男は深く頭を下げた。
部屋を出る前に廊下へ人の気配がないことを確かめ、裏口から夜の街へ消えていく。教会を訪れた記録も、教義保全院の構成員がここにいた証拠も残らない。
扉が閉じた後も、アドリアンはしばらく席を立たなかった。
机の上には、今の報告書とは別に、処理を待つ書類が積まれている。
大司教からの命令書。各地の構成員から届いた報告。監視対象の記録。回収した文書の一覧。
黄色い髪をかき上げると、指先が乱れた前髪に引っかかった。壁際の鏡に映る緑色の目には、眠気よりも濃い疲労が残っている。
まだ三十代半ばだというのに、近頃は実年齢より上に見られることが増えた。
アドリアンは新しい命令書を手に取った。
上部には、緊急案件であることを示す印が押されている。
形式に不備はない。
大司教には、会議を待てない危険へ対処するため、教義保全院長へ直接命令を下す権限がある。証拠が失われる恐れがある場合。対象が逃亡しようとしている場合。黒の魔力や他宗教の工作によって、今すぐ人命が脅かされている場合。
本来は、そのための制度だった。
アドリアンは命令書を最初から読み直した。
書かれている言葉は整っている。緊急性も、宗教上の危険も、書面の上では十分に説明されていた。
それでも、読み終えた後に残るものは、アマリヴィアの教えを守らなければならないという使命感ではなかった。
命令を出した者にとって、都合の悪い何かを消しているだけではないのか。
そんな疑念ばかりが残る。
以前なら、ここまで長く考えることはなかった。
命令の正当性を判断するのは大司教であり、教義保全院長の役目は、それを確実に遂行することだと割り切っていた。
だが、同じ形式の命令が重なるたびに、その割り切りは難しくなっていた。
アドリアンは命令書を机へ戻した。
隣には、回収後に焼却するよう指定された古い経典の一覧がある。
現在使われている経典とは、わずかに内容が異なるという。
違うから、消す。
教会の教えと一致しないから、残してはならない。
それが本当に、人を救い、互いを尊重せよと説いた女神アマリヴィアの教えなのか。
答えは出なかった。
出せないまま、長い間ここまで来てしまった。
机の端には、もう一冊、薄い帳面が置かれていた。
教義保全院へ迎える候補者の記録である。
かつて、この教会では、行き場のない孤児の中から教義保全院への適性を見込まれた子供を引き取り、育てていた。教会で読み書きや礼儀を教え、その裏で、暗部に必要な知識と技術を与える。
救われた子供たちは、生きる場所と役割を得たと、少なくともアドリアンは考えてきた。
帳面を開く。
最後に名前が記された頁から、すでに長い時間が過ぎていた。
近年、この教会へ連れてこられた孤児はいない。教義保全院に適性があると判断された子供もいない。
新しい候補が見つからないことは、組織にとって好ましい状況ではない。
それにもかかわらず、空白の頁を見るたびに、胸の奥がわずかに軽くなる。
アドリアンは帳面を閉じた。
自分は安堵しているのだろうか。
もう子供を暗部の人間として育てずに済むことに。
もし明日、才能のある孤児がこの教会へ連れてこられたなら、自分は以前と同じように育てられるのか。
読み書きを教え、食事を与え、眠る場所を用意し、その信頼を受け取ったうえで、人を監視し、欺き、必要なら命を奪う者にできるのか。
答えを考えようとしたところで、深すぎる疲れに思考を遮られた。
アドリアンは椅子から立ち上がった。簡素な司祭服の下で、長く鍛えられた身体が静かに動く。袖口から覗く腕は、住民の相談を聞き、経典を読むだけの神父のものには見えなかった。
机上の書類を整え、教義保全院の記録だけを鍵のかかる引き出しへ収める。
今夜は、これ以上考えても同じところを巡るだけだ。
短い休息を取れば、少しはまともな判断ができるかもしれない。
アドリアンは執務室の明かりを落として隣の部屋へ移り、横になって目を閉じると、意識はすぐに沈んでいった。
どれほど眠ったのかは分からない。
まだ夜が明けきらない頃、アドリアンはかすかな声で目を覚ます。
最初は、眠りの中で聞いたものだと思っていた。
だが、しばらく耳を澄ませていると、同じ小さな声がもう一度、冷えた教会の静けさを揺らす。
人の声だった。
それも、大人のものではない。
アドリアンは身体を起こし、正面入口の方角へ目を向けた。
声は、もう一度聞こえた。
今度は、眠気の名残と取り違えようがない。細く、弱々しい。それでも確かに、何かを求める乳児の声だった。
アドリアンは寝台脇に置いていた上衣を肩に掛け、廊下へ出た。
礼拝堂に人の気配はない。窓も、先ほど構成員を送り出した裏口も閉じたままだった。声は正面入口の向こうから聞こえている。
扉の前で足を止め、外の気配を探る。
大人の話し声も、遠ざかる足音もない。夜明け前の街は静まり返っていた。
アドリアンが鍵を外して正面扉をゆっくりと開くと、冬の気配を含んだ冷たい空気が礼拝堂へ流れ込んできた。
空はまだ暗い。東の端だけが薄く色づき始め、その淡い光の中で、石段の上に置かれた籠が見えた。
ありふれた編み籠だった。中には毛布に包まれた小さな身体がある。
アドリアンはすぐには近づかず、通りの左右と向かいの建物、その陰まで目を配った。だが、籠を置いた者らしい姿はどこにもない。
再び、籠の中から小さな声が漏れた。
アドリアンは石段を下り、籠の前へ膝をついた。
毛布の隙間から、髪が覗いている。
白かった。
夜明け前の乏しい光でも、見間違えようがないほど白い。新生児ではないらしく、色を確かめられる程度には髪が伸びていた。
一瞬、銀髪の王族が脳裏をよぎる。
だが、アドリアンが知る銀髪とは、どこか違って見えた。それに、王家にこれほど幼い子供が生まれたとも、行方が分からなくなったとも聞いていない。
籠の縁や毛布を確かめる。
手紙はない。家名も、紋章も、身元につながる印も残されていなかった。教会を選んで置かれたのか、それとも人目を避けられる場所ならどこでもよかったのか、それすら判断できない。
赤子が毛布の中で身じろぎし、アドリアンへ向かって小さな手を伸ばした。
言葉にはならない声が、かすかに喉から漏れる。
アドリアンは籠を抱え上げ、赤子の顔を覗き込んだ。
触れて容体を確かめようと、指を伸ばす。
その指が、赤子の頬へ届く直前で止まった。
人を傷つけてきた手だった。
命令に従い、武器を握り、時には戻れない傷を与えてきた。
だが、それだけなら、今さらためらう理由にはならない。
アドリアンは、この手で何人もの子供へ触れてきた。
食事を与え、文字を教え、熱を出した額へ手を当てた。眠れない夜には背を撫で、怯える者には大丈夫だと言い聞かせた。
そうして自分を信じた子供たちへ、やがて人を監視し、欺き、必要なら傷つけるための知識を教えた。
行き場のない子供を救ったのだと考えていた。
生きる場所と役割を与えたのだと。
それが間違いだったと、今ここで言い切ることはできない。あの教会へ来なければ生き延びられなかった子供もいれば、教義保全院の中にしか居場所を得られなかった者もいた。
それでも、自分は候補者の記録に長く名前が増えていないことへ安堵していた。その胸のどこかには、もう同じことをせずに済むという思いがあった。
ならば、自分が子供たちへ与えたものを、本当に救いと信じていたのか。
アドリアンは動かない指を見た。
これまでの子供たちには差し出してきた手を、なぜ今さら、この赤子にだけ止めるのか。
無垢な子供へ触れる資格がないとでもいうのか。それほど清廉な人間ではないことなど、自分が最もよく知っている。
今になってためらうことさえ、過去の子供たちに対する裏切りのように思えた。
赤子を傷つけることが怖いのではない。
守るためだと言い聞かせて抱き上げ、その信頼を受け取り、いつかまた別の役割を背負わせることが怖かった。
この手を伸ばした先に、以前と同じ道が続いているような気がした。
ひどく場違いな迷いだった。
夜明け前の冷気の中に、赤子をいつまでも置いておけない。今は一刻も早く、寒さから遠ざけなければならない。
それでも、アドリアンの指は動かなかった。
赤子の方が、小さな手をもう一度伸ばした。
頼りない指が、止まったままのアドリアンの指をつかむ。
握るというにはあまりにも弱い力だった。
それでも赤子は、その手が何をしてきたのかなど知らないまま、離すまいとするように指を丸めた。
赤子の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
次いで、閉じられていた瞼がゆっくりと開く。
現れた瞳も、白かった。
アドリアンは息を止めた。
白い髪に、白い瞳。銀の力を持つ者とも、四大属性のいずれとも一致しない。
けれど、考えるより先に、つかまれた指から伝わる冷たさへ意識が向いた。
赤子の手は冷え切っている。声が弱いのも、眠いからだけではないだろう。
アドリアンは迷いを捨て、赤子の身体へ手を差し入れた。首と背を支え、毛布ごと慎重に抱き上げる。
小さな身体は、思っていた以上に軽かった。
「もう大丈夫です」
届く言葉ではないと分かっていても、そう告げずにはいられなかった。
赤子は答えず、ただアドリアンの指を握ったまま、弱く息をしている。
誰の子なのか。なぜこの教会へ置かれたのか。白い髪と瞳が何を意味するのか。
どれも、今すぐ答えの出ることではない。
まずは、この冷えた身体を温めなければならなかった。
アドリアンは赤子を片腕に抱き、空いた手で籠を持ち上げた。
冷たい明け方の空気を背に、教会の中へ戻る。
正面扉を閉じると、外の寒さと静けさが、重い木の扉の向こうへ隔てられた。
礼拝堂の薄暗がりの中で、白い赤子だけが、アドリアンの腕に抱かれていた。