白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
机の上に、古びた保護記録が開かれていた。
最初の頁へ記されているのは、冬の始まりを控えた明け方に発見された、身元不明の女児についての報告である。
推定年齢は不明。
白い髪と瞳についての記載はない。
魔力漏出が一度も確認できなかったことも、南東大教会へ提出した報告には含めていなかった。
記録の途中から、女児という表記はリヴィアという名前へ変わっている。
体調が安定し、魔力漏出を一度でも確認できるまで。
あるいは、最後まで確認できないままでも、そのことが年齢上の異常として目立たなくなるまで。
そのどちらかの条件が整えば、養育設備の整った別の教会へ移す。
アドリアンは長い間、それをリヴィアの保護方針としてきた。
視線を上げる。
開かれた扉の向こうでは、リヴィアが礼拝堂の長椅子を拭いていた。
身体つきはまだ幼い。
だが、教会の前で拾った頃と比べるまでもなく成長している。正確な誕生日は分からないが、見た目だけなら十歳ほどになっていた。
普通の子供であれば、体外へ自然に漏れる魔力は、すでにほとんど収まる年頃である。
今のリヴィアを別の教会へ移しても、自然な魔力漏出が見られないことを不自然に思われる可能性は低い。
魔力漏出が確認できるまで待つ。
最後まで確認できなくても、そのことが目立たなくなる年齢まで待つ。
そのために手元へ置いておく必要は、もうなくなっていた。
「神父さま」
呼ばれ、アドリアンは顔を上げた。
リヴィアが布を持ったまま、執務室の入口に立っている。
「こちらは終わりました。次は小部屋を掃除してもいいですか」
「ええ。ですが、棚の上はそのままにしてください」
「分かりました」
リヴィアは穏やかに笑い、礼拝堂脇の小部屋へ向かった。
アドリアンは再び記録へ目を落とした。
別の教会へ移すことはできる。
南東地区の通常の手続きを使えばよい。教義保全院の経路を通す必要もない。
リヴィアは自分で身支度を整え、読み書きもできる。乳児を預ける時のような設備や人手も必要としない。
移送を妨げる事情は、何も残っていなかった。
それでも、アドリアンは受け入れ先を探すための書類へ手を伸ばせなかった。
* * *
午後の礼拝が終わった後、教義保全院の部下の一人が教会を訪れた。
以前、街中で偶然リヴィアと出会い、昼食を共にした男である。
いつもの笑みは浮かべていたが、普段より口数が少なかった。
アドリアンは、開いていた保護記録を閉じた。
魔力漏出について記した部分は、南東大教会へ提出した通常報告には含まれていない。机の上へ残してよい記録ではなかった。
鍵のかかる引き出しへ収めてから、リヴィアへ小部屋で書き写しを続けるよう伝え、男を執務室へ通した。
「それほど長い話ではない」
扉が閉じると、男は先にそう言った。
「白い子供の話が広がっている」
「リヴィアのことですか」
「ほかに、院長が手元で育てている白い子供はいないだろう」
アドリアンの表情が硬くなる。
「彼女は教義保全院とは関係ありません」
「私は知っている。少なくとも、あなたがそう言っていることは」
「言っているのではありません。事実です」
「その違いを知らない者が増えた」
男は机の前に立ったまま、声を落とした。
「私たちが話した時点では、後継者と決まったわけではなかった。候補である可能性を否定できない。それだけだった」
「それだけでも誤りです」
「だが、伝わる間に細かな部分が削られた。今では、院長が白い少女を秘密裏に育てているという話になっている」
アドリアンは答えなかった。
予想できなかったことではない。
教義保全院の者は、リヴィアの普通の行動を、自分たちの技術へ当てはめて見ている。
何も教えていないと否定すれば、教育内容を隠していると解釈する。
試すなと命じれば、重要な候補だから守っていると受け取る。
「上層部へも届くと思いますか」
「いずれは」
「彼女を候補として扱う根拠はありません」
「根拠を求める者ばかりではない」
男の笑みが薄くなる。
「院長が十年近く手元で育てている。それだけで十分だと考える者もいる」
「保護していただけです」
「本当にあの子を教義保全院と関係させるつもりがなかったなら、噂になる前に別の教会へ移すという選択もあったはずだ」
「あなたには関係ありません」
「そうだな」
男はあっさり認めた。
「だが、上へ同じように答えても、話は終わらない。候補ではないというなら、なぜ院長が長く手元へ置いているのかを聞かれる」
「彼女はここで暮らしています」
「それを決めたのは誰だ?」
アドリアンは答えなかった。
最初に決めたのは自分である。
一時的に保護する。
体調を確認する。
魔力の状態を観察する。
安全に移せるまで待つ。
条件を一つずつ加え、期限を延ばしてきた。
だが、この教会で正式に育て続けると決めたことはない。
「脅しているわけではない」
男は続けた。
「あなたが本当にあの子を関係させるつもりがないなら、噂が上へ届く前に方針を決めておいた方がいい」
「忠告ですか」
「昔からの知人としては」
男は扉へ向かった。
「構成員としては、院長が何を考えているのか気になる」
「同じことではありませんか」
「少し違う」
男は振り返り、いつものように笑った。
「知人としては、あなたがまた考えすぎているように見える。構成員としては、あなたが考えた末に何をするのか警戒している」
「警戒される理由はありません」
「そうであることを願っている」
男は執務室を出ていった。
正面扉が閉じるまで見送った後、アドリアンは机へ戻った。
鍵のかかる引き出しには、先ほど収めた保護記録がある。
教義保全院の候補にする。
その選択はあり得ない。
別の教会へ移す。
当初の予定どおりであり、今なら危険も少ない。
この教会で育て続ける。
その選択だけは、暫定的な保護という理由では決められなかった。
リヴィアをここへ置くための事情は、もう残っていない。
残っているのは、自分がどうしたいかという問題だった。
* * *
夕食を終えた後、アドリアンはリヴィアを礼拝堂脇の小部屋へ呼んだ。
机を挟んで向かい合う。
リヴィアは、普段の授業が始まるものと思ったらしい。棚から紙と筆を取り出そうとした。
「今日は勉強ではありません」
「違うんですか」
「話しておかなければならないことがあります」
リヴィアは手を止め、椅子へ座った。
アドリアンは、引き出しから取り出した保護記録を机へ置いた。
「あなたを教会の前で見つけた時、私は、ここで長く育てるつもりではありませんでした」
リヴィアの白い瞳が、記録へ向く。
「体調が安定した後、もっと養育に適した教会へ移す予定でした」
「別の教会ですか」
「ええ。この教会は、当時の私には、子供を育てる場所として適切ではないように思えました」
暗部の連絡拠点だったからとは言えない。
夜間に構成員が訪れ、命令書や回収文書を保管する場所だった。
「ですが、あなたには、普通の乳児と異なる点がありました」
「髪と目の色ですか」
「それだけではありません」
アドリアンは慎重に言葉を選んだ。
「幼い子供は、自分の魔力を安定して体内へ留められません。普通は、わずかな魔力が身体の外へ漏れます」
「私には、なかったんですね」
リヴィアは静かに言った。
アドリアンは一瞬答えを止めた。
「一度も確認できませんでした」
「今もですか」
「今もです」
「それが知られれば、詳しい調査を受ける可能性がありました。あなたを守ろうとする者であっても、魔力の状態を確かめるため、上位の教会へ報告したでしょう」
「それで、ここに置いてくださったんですか」
「最初は、そのつもりでした」
「最初は?」
「体調が安定し、魔力の状態を確認できるまで。確認できなくても、そのことが年齢上の異常として目立たなくなるまで。その間だけ、私が保護する予定でした」
リヴィアは少し考えた。
「今は、もう不自然に見えないんですか」
「あなたくらいの年齢になれば、自然に体外へ漏れる魔力は、普通の子供でもほとんど見られなくなります」
「では、別の教会へ移っても、私の魔力が確認できないことは、前ほど不自然には見えないんですね」
「ええ。自然な漏出そのものがほとんど見られない年齢です。幼い頃より、その違いに気づかれる可能性は低いでしょう」
「そうですか」
リヴィアは自分の両手を見た。
アドリアンが伝えたのは、魔力がないという断定ではなく、普通の方法では一度も確認できなかったという事実だけだった。
「つまり、私はもう、ここで預かっていただく必要がないんですね」
間違ってはいない。
その言葉を認めることができず、アドリアンは沈黙した。
「私は、ここで育ててもらっていると思っていました」
リヴィアが続ける。
責める口調ではなかった。
ただ事実を確かめようとしているように、アドリアンには聞こえた。
「朝に起こしていただいて、食事を作っていただいて、文字や買い物の仕方を教わりました。病気の時も、怪我をした時も、神父さまに診ていただきました」
「ええ」
「それは、預かっているだけだったんですか」
「私だけが、そう呼び続けていたのかもしれません」
口に出すと、自分の曖昧さが明確になった。
十年近く食事を与え、眠る場所を用意し、成長を見てきた。
それでも、別の教会へ移すまでの一時的な保護だと考えていた。
「別の教会には、ここより多くの人がいます」
アドリアンは説明した。
「子供を育てるための部屋や設備もあります。同じ年頃の子供と暮らせる可能性もある。あなたにとって、そちらの方がよいこともあるでしょう」
「神父さまは、私をそこへ移したいんですか」
迷いのない質問だった。
アドリアンは、答えを探すために視線を逸らしかけた。
だが、それではいけない。
「いいえ」
言葉は、思っていたよりも容易に出た。
「移したくはありません」
リヴィアが目を細めた。
幼い頃から何度も見てきた癖だった。
その口元に小さな笑みが浮かぶ。普段、アドリアンを安心させようとする時に見せるものより、どこか力の抜けた笑みに見えた。
「では、ここにいてもいいんですか」
「あなたは、ここにいたいのですか」
「はい」
即答だった。
「私は、この教会がいいです」
「ほかの場所を知らないから、そう考えている可能性もあります」
「そうかもしれません」
リヴィアは否定しなかった。
「でも、知らない場所の方がよいかもしれないから、知っている場所を出たいとは思いません」
単純な言葉だった。
それでも、アドリアンには十分だった。
「分かりました」
アドリアンは保護記録へ手を置いた。
「あなたを別の教会へ移しません」
リヴィアは黙って聞いている。
「魔力を観察するための一時的な保護ではなく、この教会で育て続けます」
「今までと同じですか」
「生活は、大きく変わらないでしょう」
「よかったです」
リヴィアはうなずいた。
アドリアンにとっては、十年近く先送りしてきた決断だった。
リヴィアにとっては、今までの日常が明日も続くと確認しただけらしい。
「話は、それだけですか」
「もう一つあります」
アドリアンは少し迷った後、机の端に置かれた経典へ目を向けた。
「以前、黒髪の子供について話したことを覚えていますか」
「はい」
「あなたは、人の子は女神が創ったのなら、黒髪の子供も女神の子ではないかと尋ねました」
「覚えています」
「私は、現在の経典を調べました。黒の魔力を警戒し、実害を防ぐための教えはあります。ですが、黒髪の者を女神の子として扱わなくてよいとは、どこにも書かれていませんでした」
リヴィアは静かに聞いている。
「それでも教会は、長い間、経典に書かれていない扱いを当然としてきました」
「どうしてですか」
「分かりません」
アドリアンは、再び経典へ視線を戻した。
「古い記録には、今の経典と異なる内容を持つものがあります。ですが、古いというだけで、正しいとは限りません」
「古いものも間違っていることがあるんですか」
「あります。過去には、自分に都合のよい教えを書き加え、それを正しい経典として広めた者がいたとも伝えられています」
「本当にいたんですか」
「確かなことは分かりません。残っている記録そのものが、すでに書き換えられている可能性もあります」
現在使われている経典にも同じ疑いを向けていることまでは、口にしなかった。
確証がない。
何より、リヴィアへ背負わせるべき話ではなかった。
「では、違う記録が見つかった時は、どうやって正しい方を決めるんですか」
「書かれた時期や、書いた者、ほかの記録との一致を調べます。一つだけを見て判断することはできません」
「両方を比べるんですね」
「ええ」
「違う記録は、調べ終わるまで残すんですか」
アドリアンはすぐには答えなかった。
「危険な内容が広がることを防ぐため、回収して処分することがあります」
「調べ終わる前でもですか」
「そうなる場合もあります」
リヴィアは経典へ視線を落とした。
「人が勝手に読めない場所へ置いて、調べ終わってから決めることはできないんですか」
アドリアンの指が止まった。
「古い方が間違っているなら、調べた後で間違いだと分かります。でも、先に捨ててしまったら、本当に間違っていたのか確かめられません」
「危険な記録を残すことで、人が傷つく場合もあります」
「それなら、使えないようにしておけばいいと思います」
「それができない場合は」
「本当にできないのか、先に調べます」
アドリアンには、リヴィアが難しい教義を論じているようには見えなかった。
彼女は、記録を管理する制度も、宗教組織の事情も知らない。
二つの記録を比べなければ、どちらが書き換えられたものなのか判断できない。単純に、そう考えているのだろう。
「神父さまは、正しいか分からないものを、先に捨てたいんですか」
「いいえ」
答えは明確だった。
「では、分かるまで残して、調べた方がいいと思います」
リヴィアはそう言った後、不安そうにアドリアンを見た。
「簡単なことではないんですか」
「簡単ではありません」
「すみません」
「謝る必要はありません」
アドリアンは経典の表紙へ手を置いた。
「簡単ではないことと、しなくてよいことは同じではありません」
以前、リヴィアへ自分が伝えた言葉と似ていた。
困っていることと、尋ねてはいけないことは同じではない。
難しいから聞いてはいけないわけではない。
自分はそう教えながら、難しいという理由で答えを先送りしてきた。
教義保全院長として命令を執行しながら、その命令が何を守っているのかを確かめられずにいた。
院長の地位に留まったまま、回収と処分を命じながら、消した記録の真偽を調べることはできない。
「今日はもう休みなさい」
「はい」
リヴィアは椅子から立ち上がった。
扉の前まで進んだところで、振り返る。
「神父さま」
「何ですか」
「ここにいていいと言ってくださって、ありがとうございます」
「礼を言うことではありません」
「でも、私はうれしいです」
そう言って、リヴィアは部屋を出た。
* * *
リヴィアを寝かせた後、アドリアンは再び執務室へ入った。
机の上には、二種類の書面が置かれている。
一つは、南東大教会へ提出する通常の保護記録。
もう一つは、教義保全院の秘密経路を通して上層部へ送る書面である。
アドリアンは、先に通常の書面を引き寄せた。
リヴィアの健康状態と、教会での生活状況を記す。
移送予定の欄で筆が止まった。
これまでは、体調と養育環境を確認しながら、将来的な移送を検討すると書いてきた。
その文言を、今回は使わなかった。
今後も当教会において養育を継続する。
そう記し、地域教会の司祭として署名した。
次に、もう一枚の紙を引き寄せる。
教義保全院長の印が必要となる書面だった。
長年守ってきた機密がある。
返却しなければならない記録、鍵、印がある。
後任へ引き継がなければならない連絡経路と人員がいる。
辞めると決めたからといって、明日からすべてを放棄できるわけではない。
それでも、続けることはできなかった。
アドリアンは筆を取った。
教義保全院長の職を退くこと。
実行任務からも離れること。
必要な機密保持と引き継ぎには応じること。
一行ずつ、書面へ記していく。
リヴィアを預かり続ける理由は、もうなかった。
だからこそ、理由ではなく、自分の意思で、この教会に残すと決めた。
教義保全院長を続ける理由も、すでに失われていた。
アドリアンは最後まで書き終え、二枚の書面を並べた。
一枚では、長く一時的と呼んできた生活を引き受ける。
もう一枚では、長く手放せずにいた役割を終わらせる。
窓の外では、王都の夜が静かに深まっていた。
アドリアンは二枚の書面へ、それぞれ異なる立場の署名を記した。