白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
礼拝堂の方から伝わってきた小さな物音で目を覚まし、リヴィアは暗い天井を見上げた。
何の音だったのかは分からない。
身体を起こし、毛布を肩へ掛けて寝台から下りた。自室の扉を少しだけ開くと、廊下の先にある執務室から明かりが漏れていた。
アドリアンはまだ起きているらしい。
誰かがいる様子もなく、明かりだけが閉じた扉の下から細く伸びていた。
教会本部から戻った日、アドリアンはこれまで夜まで続けていた仕事の一部をほかの者へ引き継ぐと話していた。
夜遅くまで働く日も以前より減るという。
なくなるとは言っていない。
しばらくは引き継ぎがあるとも聞いている。
それでもまた以前と同じように夜まで働いているのではないかと思うと、少し気になる。
リヴィアは執務室へは向かわず、眠り直そうと寝台へ戻って目を閉じた。
しばらくすると正面扉が静かに開く音がし、礼拝堂を横切る控えめな足音が廊下へ近づく。続いて聞こえたアドリアンの声に、聞き覚えのない低い声が短く応じた。
その後も二人は話しているようだったが、言葉までは分からない。
教会の相談者なのか、夜まで続いている仕事のために訪れた者なのか、それとも夜でなければ来られない事情のある者なのか、リヴィアには判断できない。
ただ相談者なら、話を聞かれることを望んでいないはずである。
リヴィアは聞き取ろうとせず廊下から意識を逸らした。
やがて執務室の扉が閉まり、声も届かなくなる。
廊下の方へ意識が向かないよう、リヴィアは翌朝の予定を一つずつ思い浮かべた。
礼拝堂の長椅子を拭き、水を替える。朝食の後片づけを終えたら昨日教わった文字を書き直す。
それでも時折執務室の明かりへ意識が戻ってしまう。
聞き耳を立てないよう毛布を耳の近くまで引き上げ、今度は朝の祈りの文句を初めから思い浮かべる。
どれほど時間が過ぎたのかは分からない。
やがて執務室の扉が開き、二人分の足音が廊下に響く。
短く交わされた低い声の内容を聞き取る前にリヴィアは祈りの続きへ意識を戻す。
正面扉の開閉に続いて、一人分の足音だけが廊下を戻ってきた。
しばらくして執務室の明かりも消える。
以前は、一度目を覚ましてからしばらく経ってもまだ明かりが残っていることがあった。
今夜は以前ほど遅くまで明かりが残っていない。
仕事が完全になくなったわけではない。
それでもアドリアンが言ったとおり、少しは減っているらしい。
明日の朝、疲れているようなら朝食の片づけを自分が多めにすればよい。
そう考えて再び目を閉じた。
* * *
翌日、教会本部の奥にある部屋へ三人の大司教が集まっていた。
扉の外には用途を示す札がない。
教義保全院について知らない者が偶然入ることもない区画である。
長い机の上にはアドリアンの辞任条件をまとめた書面と南東地区の連絡経路に関する報告が置かれていた。
北東地区を上位監督する火の大司教は報告の一枚へ目を落とす。
辞任が認められた日の夕方、旧連絡経路を使用する構成員がアドリアンの教会を訪れている。
アドリアンは封書を受け取った。
その一文だけを見れば、院長職を退いた後も構成員との接触を続けているように読める。
「辞任したその日のうちに構成員が教会を訪れている。これを問題なしとして放置するつもりか」
「旧経路の使用を移行が完了するまで認めたのはこちらです」
北西地区を上位監督する土の大司教が硬い口調で答える。
「報告によればアドリアンは自分がすでに院長ではないことを明言しています。封書も開かず任務についての判断を拒み、指定された連絡役へ渡すと説明しております。協議した条件に沿った対応です」
「報告を書いた者がそう受け取っただけかもしれない」
「その可能性だけを根拠として条件違反と判断することはできません」
「何か起きてからでは遅い!」
火の大司教の声が室内へ強く響く。
「長く院長だった男だ。構成員への影響が一日で消えるはずがない」
「影響力が残ることと、権限を行使することは別の問題です」
土の大司教は声量を変えずに答える。
「現時点では命令を出した記録はございません。構成員へ新しい任務を与えた事実もなく、返却期限を過ぎた記録や鍵もありません」
「まだ一日しか経っていないのだ!」
「ですから、違反があったとも判断できません」
火の大司教は口を閉じ、もう一枚の書面へ視線を移した。
そこにはアドリアンが地域教会でリヴィアの養育を続けることが記されている。
「少女も残したままだ」
「それも辞任条件には反しておりません」
「条件に書かれていなければ、何をしてもよいという話ではない」
南東地区を上位監督する水の大司教が養育記録を静かに引き寄せた。
「問題は個々の行動ではなく、二つの状況が同時に続いていることでしょう」
水の大司教は二枚の報告を並べる。
「旧連絡経路を知る構成員との接点を残し、後継者と噂される少女を同じ教会で育て続けている。院長職を手放しても人脈と候補を手元に残したと見る者はいるでしょう」
「噂は辞任条件違反を示す証拠にはなりません」
「証拠が現れるまで待つべきではないと言っているのだ」
火の大司教は全体重を預けるように、机へ掌を押し付けた。
「監視を一人付ければ済む。命令を続けていないか、少女へ何を教えているかを確認させる」
「正式な監視をお付けになる理由がございません」
「理由なら今述べた!」
「いずれも推測にとどまります」
土の大司教はアドリアンの辞任書面へ目を向けた。
「アドリアンは長年教義保全院長として機密を守り、任務を遂行してきました。辞任を申し出た際にも機密保持と引き継ぎを拒んでおりません。院長印も本部で使用する鍵もその場で返却しています」
「長年院長だったからこそ、持っている情報も多いのだ」
「情報を多く持つことと規則へ違反することは別です」
土の大司教は一度言葉を切った。
「私たちは辞任の条件を示し、それを守るのであれば職を退くことを認めました。その直後に条件違反の事実もないまま監視を付ければ、示した条件を私たち自身が信用していないことになります」
「警戒と不信は違う」
「監視される側から見れば、大きな違いはございません」
室内が静かになった。
火の大司教は机上の報告へ指を落とし、音を鳴らす。
土の大司教の主張は形式上は正しい。
だが形式を守っているように見せながら、別の目的を進める者もいる。
「アドリアン一人が不満を持つだけなら問題ではない」
「一人だけでは済まない可能性がございます」
「教義保全院には長くアドリアンの指揮を受けてきた者がいます。辞任を認めた直後に上層部が彼を監視すれば、構成員はその理由を考えるでしょう」
「理由を知る必要などない」
「秘密組織の構成員へ考えるなと命じても意味はございません」
土の大司教は南東地区の連絡経路をまとめた報告を机の中央へ戻した。
「上層部がアドリアンを排除しようとしていると受け取る者が出るかもしれません。反対にアドリアンが条件を破ったためだと考え、確認されていない疑いを事実として広める者も出るでしょう」
「アドリアンへ従い続ける者がいると言いたいのか」
「可能性を論じるのであれば、いずれも否定はできません」
土の大司教は火の大司教から水の大司教へ視線を移した。
「現在は後任への引き継ぎ中です。旧連絡経路を閉じる前に、アドリアンと構成員の間へ不要な不和を生じさせれば、報告の遅延や連絡断絶につながります。監視によって得られる利益よりも移行を不安定にする危険の方が大きいと考えます」
水の大司教はしばらく報告を読んでいた。
「通常の引き継ぎ報告によって命令や判断へ関与していないことは確認できるでしょう」
「報告する者が正確ならばな」
「その点を疑い始めれば、誰を監視役に選んでも同じことです」
「監視役が正確であることを確かめるため、さらに別の者を付ける必要が生じます」
火の大司教は返答しなかった。
監視を重ね続ければ終わりがない。
それは理解しているが、アドリアンを何もせず放置することが適切だとも思えなかった。
「それでは、現段階では正式な追加監視を付けず、通常の引き継ぎ報告によって状況を確認する。その結論でよろしいでしょうか」
水の大司教が二人を順に見た。
「異論はございません」
土の大司教が答える。
次に水の大司教は火の大司教へ視線を向けた。
ここで反対しても、監視の必要性を示す新しい根拠はない。
「構わない」
「ただし報告に少しでも不審な点があれば、すぐに改めて協議する」
「当然でしょう」
三人の正式な結論は定まった。
現段階ではアドリアンとリヴィアへ新たな監視を付けない。
辞任条件と連絡経路の移行状況は通常の報告によって確認する。
土の大司教は机上の書面を整えると席を立つ。
「次の協議がございますので、これで失礼いたします」
扉が閉じると、水の大司教は足音が遠ざかるまで何も言わなかった。
静けさが戻ると、南東地区の報告へゆっくりと手を伸ばした。
「正式な監視は付けないという結論になりました。ですが、連絡経路の移行確認まで行わないとは決めていない」
火の大司教は水の大司教を見る。
「初めからそのつもりだったのか」
「南東地区の上位監督者として移行が適切に進んでいるかを確認する必要があります」
水の大司教は報告の一箇所を指す。
「現在の教会には返却前の確認符と記録が残っています。新しい担当者への通知も終わっていません。監視ではなく、移行手続きの確認です」
「言葉を変えただけにも聞こえる」
「目的が異なります」
水の大司教の声からは賛成も反対も読み取れなかった。
「誰を送る」
「アドリアンから長く直接指導を受けた者は避けるべきでしょう」
水の大司教は一人の構成員を示した。
教義保全院に所属しているものの、アドリアンとの個人的な関係は薄い。
火と水の大司教から出された緊急命令をこれまで何度か直接受けている者でもある。
「この者であれば、アドリアンの言葉だけで報告を変える可能性は低いでしょう」
「表向きはどうする。少女についても確認させろ」
「アドリアンの教会では一般孤児を受け入れる準備を進めています。南東大教会の孤児保護確認担当として訪問させ、その確認の中で少女の様子も見させます。教義保全院内の命令書では連絡経路の移行確認として扱います」
「構わない。教会にいる以上、見えたものまで報告から外す必要はない」
水の大司教はわずかに間を置いた。
「少女だけを対象とした接触はさせません」
「構わない」
「アドリアンを不必要に刺激する行動も避けさせます。記録の返却、確認符の処理、新しい連絡先の通知状況。それらを確認する過程で構成員が集められていないか、任務相談が続いていないかを見るだけです」
「教育の形跡があれば、必ず報告させろ」
「そのように伝えましょう」
正式な監視ではない。
南東地区の連絡経路が合意した条件どおり移行しているかを確かめるだけである。
少なくとも書面上はそう扱える。
「この者を使う」
火の大司教は迷うことなく、名簿の一カ所を指さした 。
「では、命令書はこちらで整えます」
「任せる」
水の大司教が退出し、部屋には火の大司教だけが残った。
机上にはアドリアンの辞任条件を記した書面が置かれている。
生涯にわたる機密保持。
過去の任務、監視対象、回収した記録について外部へ話さないこと。
アドリアンはその条件を受け入れたが、火の大司教はそれだけで安心することができなかった。
アドリアンへ出した命令のすべてが教義保全院の本来の目的だけに基づいていたわけではない。
それでも自分の判断を後ろめたいものとは考えていない。
必要だったから命じたのだ。
緊急案件として処理した以上、手続きの形も整っている。
だがその必要性を教主や土の大司教が同じように認めるとは限らない。
なぜその対象を選んだのか。
なぜ通常の協議を待たなかったのか。
なぜ教義保全院を動かす必要があったのか。
一つずつ調べられれば、自身の立場を守るための判断が含まれていたことまで隠し通せるとは限らない。
命令を受け、実行へ移したのはアドリアンである。
誰を動かしたのか。
何を回収したのか。
どの報告を上へ回し、どの報告を緊急処理の中へ留めたのか。
アドリアンは知っている。
記録と鍵を返却させても、本人の記憶までは回収できない。
外部へ秘密を広める必要さえない。
教主や土の大司教、あるいは後任の院長へ、過去の命令を再検討すべきだと申し出るだけでも十分だった。
それだけで火の大司教の立場と権限は揺らぐ。
辞任したアドリアンが何もするつもりがないという保証はない。
自分たちが出してきた命令の証拠を集め、適切な時期を待っている可能性もある。
報復を考えている可能性も否定はできない。
そして、白い少女。
アドリアンは普通の子供として育てると言ったが、本当に普通の子供ならば、なぜ辞任を決めた時に養育継続まで正式に決めたのか。
院長職を退けば、教義保全院の規則に縛られず、少女を手元で育てられる。
表向きには何も教えず、必要な時が来るまで少女を育てる目的を隠しておくこともできる。
少女を後継者として使うのか。
別の計画のために育てているのか。
現時点では判断できない。
判断できないからこそ、教義保全院の確認役一人だけへ任せることはできなかった。
構成員の中には、今もアドリアンを院長として見る者がいる。
今回選んだ者でさえ、現地で何を見て、何を隠すかは分からない。
水の大司教が自分に不利な報告までそのまま渡すとも限らなかった。
教義保全院を通さない目が必要だった。
南東地区の通常記録にも残らず、アドリアンへ直接近づかず、自分にだけ情報を届ける者。
火の大司教は呼び出すことのできる一人の名を思い浮かべた。