白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない――   作:不明さん

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第16話 見られた者

 白い少女に見られたと確信してから二日後、サイラスは人払いされた部屋の扉の前で待っていた。

 

 火の大司教へ報告する内容はすでに決めている。

 

 アドリアンに不審な動きはない。

 

 少女にも問題はない。

 

 それだけでよい。

 

 白い少女に見られていたことは話さない。

 

 あの距離からでは、少女には自分が何者なのかまでは分からないだろう。

 

 ならば、こちらに気づいたことまで自ら報告し、これまであの男にも伏せてきた力を探るきっかけを与える必要はない。

 

 そう結論づけても、あの時の光景は何度も思い返された。

 

 遠見鏡は離れた場所にある像を拡大して見せる魔法器具である。

 

 肉眼では表情を見分けられない距離からでも相手の顔や手元を確認できる。

 

 ただし、壁の向こうまで見通せるわけではない。

 

 あの日、サイラスはアドリアンの教会から離れた壁の端へ身を寄せ、遠見鏡を作動させると同時に自身の隠蔽能力を使った。姿と位置、気配、漏れ続ける黒の魔力、器具の作動に伴う魔力まで、すべて外から認識できないよう隠していた。

 

 一度壁の端から顔を出し、遠見鏡で教会の裏手を窺った。アドリアンと少女が木箱を物置の前まで運び、アドリアンだけが中へ入ったのを確認すると、いったん壁の陰へ戻った。

 

 少なくとも、その時までアドリアンがこちらへ気づいた様子はなかった。

 

 問題はその後である。

 

 壁の陰へ戻れば、教会の裏手は見えない。遠見鏡も遮られた景色までは映さない。

 

 アドリアンが再び外へ出たか確かめるため、サイラスはもう一度壁の端から顔を出した。

 

 遠見鏡を覗くと、白い少女はすでにこちらへ顔を向け、目を細めていた。

 

 まるでサイラスが壁の陰にいる間から、その場所を見続けていたかのようだった。

 

 一瞬身体が止まった。

 

 偶然こちらを向いているだけかもしれない。

 

 そう考え、すぐには壁の陰へ戻らず少女の様子を窺った。

 

 だが少女は視線を外さなかった。

 

 数秒が過ぎても顔の向きは変わらない。

 

 目が合っているとしか思えなかった。

 

 隠れているはずの自分が見つかったと思った瞬間、考えるより先に身体を壁の陰へ引き戻していた。

 

 そのまま監視を打ち切り、振り返ることなくその場を離れた。

 

 あの時気が動転していたのは間違いない。

 

 だが、時間を置いて考え直しても少女が偶然こちらを向いていただけとは思えなかった。

 

 顔を出した時には少女はすでに視線を向けていた。

 

 さらに、サイラスが動かずに様子を窺っている間もその視線は外れなかった。

 

 この二つをただの偶然で片づけることはできない。

 

 何を手掛かりに自分を見つけたのかは分からない。

 

 姿を見たのか。

 

 気配を捉えたのか。

 

 漏れ続ける黒の魔力か、遠見鏡の作動を察したのか。

 

 自身の隠蔽能力がどこまで通じなかったのかも判断できない。

 

 それでも自分のいる方向を見続けていたことだけは偶然とは思えなかった。

 

 これまでこの能力によって隠した姿や気配を見破られたことはない。

 

 あの男にもこの能力の存在と本当の強さは知らせていなかった。

 

 あの男は自分が黒の魔力を完全に抑えられるようになったと考えている。

 

 実際には、抑えてなどいない。

 

 漏れ続ける魔力を通常の感知から隠しているだけである。

 

 少女に見つかったと報告すれば、なぜ見つかったのかだけでなく、監視を中断した理由まで調べられる。

 

 再び少女へ近づくよう命じられる可能性も高い。そこで同じことが起きれば、自身の隠蔽方法やどのような調査をしていたのかまで細かく聞かれる可能性が高い。そこから、隠蔽能力や黒の魔力の漏出など隠しているものが露見するのはまずい。

 

 監視を中断した失敗より、その方が問題だった。

 

 あいつへすべてを知らせる理由はない。

 

 少女がどのような力で感知したのかは分からない。

 

 だがこれまで誰にも見つからなかった自分の存在を捉えた可能性がある。

 

 何も分からないまま再び近づくべき相手ではなかった。

 

 やがて扉の内側から鍵が外れ、出てきた聖職者に促されてサイラスは中へ入った。

 

 室内には火の大司教だけがおり、机の上に書面はない。この場で交わす内容を正式な記録へ残すつもりはないらしい。

 

「遅かったな」

 

「申し訳ありません」

 

 サイラスは扉の前で頭を下げた。

 

「アドリアンは何をしている」

 

「孤児を受け入れる準備を進めています」

 

「それだけか」

 

「確認できた範囲では」

 

 火の大司教は椅子に座ったままサイラスを見る。

 

「構成員との接触は」

 

「ありません」

 

 サイラスが見た時間だけを考えれば、嘘ではなかった。

 

「命令や報告を受け取っている様子は」

 

「確認できませんでした」

 

「教会へ人を集めてもいないのだな」

 

「はい」

 

 火の大司教が机の上を指で一度だけ叩いた。

 

「少女はどうだ」

 

「普通に教会の仕事を手伝っていました」

 

「普通に、か」

 

「アドリアンと木箱を運んでいました。周囲を警戒している様子も、誰かと合図を交わしている様子もありません」

 

 少女がこちらを見ていたことには触れなかった。それが警戒だったのかどうかさえ、サイラスには分からない。

 

「教義保全院の教育を受けているようには見えなかったか」

 

「判断できる行動はありませんでした」

 

「危険はないと?」

 

「現時点では問題ありません」

 

 火の大司教はしばらく黙っていた。

 

 疑いを持っている時の沈黙である。

 

 サイラスは表情を変えず、次の問いを待った。

 

「もう一度確認する必要はあるか」

 

 再調査を命じられると思っていたが、問われたのはその必要性だった。

 

「同じ場所を見ても、新しい情報が得られる可能性は低いと思います」

 

「アドリアンがこちらの動きを察した可能性は」

 

「ありません」

 

 少女が自分の存在に気づいた可能性については答えていない。

 

 火の大司教は椅子の背へ身体を預けた。

 

「ならばよい」

 

「はい」

 

「しばらく離れていろ。アドリアンを刺激する必要はない」

 

「承知しました」

 

 サイラスは一礼して部屋を出ると、扉が閉じるまで足取りを変えなかった。

 

 監視を中断した理由は伏せたが、火の大司教は少女に問題はないという報告を受け入れた。

 

 ひとまず同じ少女へ再び近づくよう命じられずに済んだ。今はそれだけで十分だった。

 

 あの少女にはこれまでの相手と同じように近づくべきではない。

 

     * * *

 

 サイラスが退出した後も火の大司教はしばらく机へ視線を落としていた。

 

 アドリアンが孤児を受け入れる準備をしている。

 

 構成員を集めてはいない。

 

 新しい命令を出している様子もない。

 

 白い少女にも目立った行動はない。

 

 サイラスは幼い頃から命令へ従ってきた。

 

 余計な感情を見せず、命じられた範囲だけを確実にこなす。

 

 呼び出せば現れ、問いには必要なことだけを答える。

 

 火の大司教にとって、その従順さは自分がサイラスを完全に支配できている証だった。

 

 教義保全院の構成員とは異なり、アドリアンとの過去のつながりもない。そのサイラスが問題なしと判断したのなら、少なくとも差し迫った動きはないのだろう。

 

 アドリアンが何も企てていないと信じたわけではない。

 

 長く教義保全院長を務めた男であり、何かを隠すと決めれば、短い監視で見つかるような行動はしない。

 

 それでもサイラスの報告には、辞任後もかつてアドリアンの指揮下にいた構成員へ密かに命令を出し、人員や記録を囲い込んで新たな指揮系統を作ろうとしている形跡はなかった。過去の命令を掘り返し、こちらの秘密を上層部へ差し出そうとしている様子も確認されていない。

 

 今すぐ強く介入すれば、土の大司教が言ったとおり不要な不和を生む可能性がある。まずは通常の引き継ぎを終わらせればよい。

 

 少女についても急いで動く必要はない。

 

 火の大司教は確認役から届く正式な報告を待つことにした。

 

     * * *

 

 午後、孤児保護確認担当としてアドリアンの教会を訪れた女性助祭が教会本部の奥にある小部屋へ呼ばれた。

 

 机の向こうには火と水の大司教が座り、土の大司教の姿はない。

 

 正式な追加監視は行わないという三者の結論はすでに出ており、今回の訪問も南東地区の連絡経路の移行と孤児受け入れ環境の確認として処理されていた。

 

 女性は作成した報告書を机へ置いた。

 

 水の大司教はその書面を最初から順に読んだ。

 

 アドリアンの教会には返却期限を過ぎた記録や鍵はない。

 

 確認できる範囲で新たな命令は出されていない。

 

 教義保全院の構成員が集められた形跡もない。

 

 任務相談や秘密の連絡が続けられている証拠もない。

 

 孤児の受け入れ準備は途中だったが、開始前の施設として重大な不足は認められない。

 

「アドリアンの対応に不自然な点はありましたか」

 

 水の大司教が尋ねた。

 

「訪問予定の日付が双方で異なっていました。アドリアン司祭はその点を確認しましたが、施設への立ち入りを拒んではおりません」

 

「準備する時間を求めたか」

 

 火の大司教が問う。

 

「いいえ。準備途中であることを説明した後、そのまま確認を受け入れました」

 

「隠した物は」

 

「確認できませんでした」

 

 女性の返答に迷いはない。

 

「少女について話しなさい」

 

 火の大司教が先を促した。

 

「リヴィアには年齢以上の落ち着きがあります」

 

「教育されているのか」

 

「一般的な生活教育は受けています。それ以外については断定できません」

 

 水の大司教が書面の一箇所へ視線を止めた。

 

「来客と相談者についての応答ですね」

 

「はい」

 

「何と答えたのですか」

 

「来客の用件を自分から聞く必要はないと答えました。相談者についてほかの教会の司祭や助祭から尋ねられた場合にも自分からは話さず、必要であればアドリアン司祭へ確認してもらうとしています」

 

「情報を話してよい相手か、自分で判断しないということか」

 

「そのように受け取りました」

 

 火の大司教の眉がわずかに動いた。

 

「鍵については」

 

「渡されている鍵だけを使い、執務室の引き出しやほかの箱は開けないと答えました。必要な物があればアドリアン司祭へ尋ね、不在で待てない場合は近隣の教会か医師へ相談するそうです」

 

「教え込まれている」

 

「その可能性はあります。ですが、地域教会で生活する子供へ相談者の秘密や薬箱の扱いを教えること自体は不自然ではありません」

 

「普通の子供がほかの教会の聖職者にも情報を話さないのか」

 

「普通という言葉の範囲によるでしょう」

 

 女性は声を変えずに答えた。

 

「同年代の子供より慎重であることは確かです。何らかの資質や意図的な教育の可能性も認めます」

 

「ならば追加で調べるべきだ」

 

 水の大司教は報告書の続きを読んだ。

 

「結論は、追加措置不要となっています」

 

「はい」

 

「理由を説明してください」

 

「教義保全院の教育を受けた証拠がないためです」

 

 女性は火の大司教へも顔を向けた。

 

「秘密の連絡方法、任務上の合図、監視への対応、武器や薬物の知識、構成員との接触は確認できませんでした。年齢以上に落ち着いていることだけで、辞任条件違反や暗部教育の証拠とはできません」

 

「アドリアンが隠している可能性はある」

 

「可能性は否定できません」

 

「それでも調べないと?」

 

「今回の訪問で確認するよう命じられた範囲では、追加措置を求める根拠がありません」

 

 女性は報告書に記した結論を繰り返した。

 

「アドリアン司祭による新たな命令、構成員の招集、秘密任務、辞任条件違反は確認できません。リヴィアには一定の資質がある可能性を認めますが、教義保全院の教育を受けた証拠はありません」

 

 水の大司教が報告書を机へ置くと、短い沈黙の後、火の大司教が先に口を開いた。

 

「ならば問題はない」

 

 水の大司教は隣へ視線を向けた。

 

 火の大司教は報告が届く前まで、少女への教育の形跡があれば必ず知らせるよう求めていた。

 

 正式な監視が認められなくても、何か起きてからでは遅いと主張していた。

 

 それが今は資質の可能性を認める報告を前に、問題はないと結論づけている。

 

「少女には教育を受けた可能性があるそうです」

 

「証拠はない」

 

「先日は証拠が現れるまで待つべきではないとおっしゃっていました」

 

 火の大司教の表情が硬くなる。

 

「状況が変わった」

 

「どのように変わったのでしょう」

 

「確認役が現地を見た。何も見つからなかった。それで十分だ」

 

 水の大司教は報告書へ目を戻した。

 

 女性の報告は少女に何もないとは述べていない。

 

 年齢以上の落ち着きと一定の資質。

 

 意図的な教育の可能性。

 

 ただし証拠がないため追加措置は不要。

 

 水の大司教には火の大司教がその慎重な結論を少女に問題がないという意味だけで受け取っているように見えた。

 

「ほかにも判断の根拠があるのですか」

 

「何が言いたい」

 

「確認役の報告だけであなたがここまで警戒を弱めるとは思っていませんでした」

 

「私が自分の判断を変えてはならないのか」

 

「そのようなことは申し上げておりません」

 

 水の大司教は声を変えなかった。

 

「理由を確認しているだけです」

 

「今述べた。現地で問題が見つからなかったからだ」

 

 火の大司教の声にはわずかに苛立ちが混じった。

 

 女性助祭は二人のやり取りに口を挟まず、静かに控えていた。

 

 水の大司教はそれ以上追及しなかった。

 

「承知しました」

 

 水の大司教は報告書を閉じた。

 

「正式記録には辞任条件違反と暗部教育の証拠はなく、現時点で追加措置は不要と残します」

 

「それで構わない」

 

「リヴィアに一定の資質または教育の可能性が認められたことも報告内容どおり残します」

 

 火の大司教は閉じられた報告書へ一度だけ目を向けた。

 

「好きにしろ」

 

 女性助祭が一礼して部屋を出た後、火の大司教もそれ以上何も言わず、席を立って退室した。

 

 扉が閉じると、水の大司教は机上に残された報告書へ視線を落とした。

 

 火の大司教の警戒が弱まった理由は確認役の報告だけでは説明しにくい。

 

 別の報告を受けたのかもしれない。

 

 教義保全院を通さず、南東地区の記録にも残らない情報源。

 

 それを持っているとすれば、火の大司教がこちらへ知らせていないことになる。

 

 現時点では確証がなく、直接問いただしても認めるはずはない。正式な結論を覆す必要もなかった。

 

 アドリアンに辞任条件違反は確認されておらず、少女が教義保全院の教育を受けた証拠もない以上、追加措置は不要である。その結論自体は水の大司教も否定しなかった。

 

 ただし、火の大司教が何を根拠に同じ結論へ達したのかは別の問題だった。

 

 一つの報告は机の上に残っている。

 

 もう一つがあるのだとすれば、それはどこにも残っていない。

 

 水の大司教は閉じた扉をしばらく見ていた。

 

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