白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
アドリアンは赤子を抱いたまま、礼拝堂の奥へ急いだ。
夜の冷気を閉め出しても、腕の中の小さな身体はまだ冷たい。毛布越しに伝わる熱は弱く、呼吸も浅かった。
この教会では長く孤児を預かっていなかったが、何を先にすべきかは身体が覚えていた。
アドリアンは厨房に近い小部屋へ入り、暖炉へ火を入れた。普段は物置に近い使い方をしているが、かつては幼い子供を休ませるためにも使っていた部屋だった。
壁際の棚を開き、そこで一度だけ手が止まる。
清潔な布と乳児用の衣服を、以前はどの段へ入れていたか。
記憶を探るほどの間もなく、奥に積まれた箱が目に入った。捨て子や急な保護に備え、地域教会へ配られている緊急用の備蓄である。定期的な点検だけは続けていたため、中身は使える状態だった。
乾いた毛布、簡素な乳児服、清潔な布、保存の利く乳。最低限の薬と衛生用品も揃っている。
アドリアンは赤子を寝台へ横たえ、冷えた毛布を外した。
籠に入れられていた衣服は粗末ではあったが、破れてはいない。身体にも、殴られた跡や深い傷は見当たらなかった。
額へ手を当てる。熱はない。
呼吸の乱れ、皮膚の色、目や口元の状態も順に確かめる。
医師ではない。だが、乳児を含む孤児を何人も世話してきた経験はある。少なくとも、今すぐ薬を必要とする病の兆候は見当たらなかった。
主な問題は寒さと空腹だろう。長く泣き続けたのか、疲労も強い。水分も不足しているように見える。
治癒器を使うべき状態でもなかった。
治癒器を通した治癒魔法は、傷ついた肉体の働きを活性化し、再生を促す。切り傷や骨折のように、原因と損傷箇所が分かっている外傷には有効だ。
だが、病や原因の知れない衰弱に使えば、何を活性化させるか分からない。治すべきでないものまで勢いづかせ、かえって症状を悪くすることもある。
外傷のない赤子へ、念のためという理由だけで使う器具ではない。
アドリアンは衣服と毛布を乾いたものへ替えて身体を温め、乳を少しずつ与えた。
赤子は最初、飲み込む力さえ弱かった。急がせず、何度か休ませるうちに、やがて小さな喉が規則正しく動き始める。
十分とは言えない量だったが、それでも先ほどより呼吸が落ち着いた。
「よく頑張りましたね」
返事はない。
白い瞳が一度だけアドリアンの顔へ向き、すぐに閉じられた。
そのまま眠るのかと思ったが、小さな手だけは毛布の外へ出たままだった。アドリアンが中へ戻そうとすると、指先が袖をかすかにつかむ。
偶然だろう。
そう分かっていても、無理に外す気にはなれなかった。
アドリアンは寝台の脇へ椅子を寄せた。
赤子の呼吸を確かめながら、ようやくもう一つの異常へ意識を向ける。
魔力の気配が、はっきりしない。
乳児は、魔力を身体の内側へ安定して留める能力が未熟で、通常は体表付近へ微量の魔力を漏らし続ける。
成長するにつれて漏出は徐々に弱まり、幼児期には断続的なものとなり、やがてほとんど見られなくなる。
魔力に慣れた者なら、乳児のうちは近距離で感覚的に確認できる程度のものだ。
だが、この赤子からは、その漏出を明確には読み取れなかった。
アドリアンは袖をつかんだ小さな手を見下ろした。
呼吸はある。身体も温まり始めている。生きていることは疑いようがない。
それなのに、生命に伴うはずの気配だけが見つからない。
体調が悪く、漏らす余力さえ残っていないのか。
魔力の発達が遅れているのか。
あるいは、通常とは異なる方法で、体内へ完全に留めているのか。
白い髪と白い瞳を思えば、既知の属性では測れない何かを持っている可能性もある。銀の力に近いのなら、普通の乳児と異なっていても不思議ではない。
完全に魔力を持たない。
その考えも浮かんだが、すぐに退けた。
この世界で生きるものが、魔力をまったく持たないなどという例を、アドリアンは知らない。前例のない結論を選ぶより、まずは体調と成長を観察すべきだった。
女神から与えられる祝福が、無に等しいほど弱い可能性ならある。
そう考えた瞬間、胸の奥に重いものが沈んだ。
この子が何をしたというのか。
まだ言葉も持たず、誰かに捨てられ、それでも差し出された指を握っただけの赤子である。
祝福の強さが、生まれた者の価値を示すのなら。
この子は、生まれた時から何を欠いたと見なされるのだろう。
答えを求めるには、あまりにも早い。
アドリアンは思考を止め、眠り始めた赤子へ毛布を掛け直した。
今すべきことは教義について考えることではなく、この子を生かし、正しい保護の手続きへ乗せることだった。
* * *
日が昇る頃には、赤子の体温はひとまず戻っていた。
アドリアンは執務室へ移り、通常の孤児保護報告を机に広げた。
身元不明の女児。
推定年齢は不明。
発見時は身体が冷え、衰弱していた。現在は地域教会で一時保護している。
体調が安定した後、養育に適した受け入れ先を探す予定。
必要な項目を順に埋めていく。
白い髪と瞳について記す欄はなく、魔力の状態も通常の孤児保護報告では必須ではなかった。
書かないことは虚偽ではない。
それでも、アドリアンの筆は一度止まった。
特異な外見と、確認できない魔力。
報告すれば、南東大教会がより詳しい調査を求める可能性がある。そこから話が上層部へ届けば、この子は保護すべき孤児ではなく、珍しい事例として扱われるかもしれない。
祝福の有無を調べるために、知らない者の手を渡り歩くことになる。
その可能性を考えた後では、あえて書き加える理由は見つからなかった。
アドリアンは必要事項だけで報告書を仕上げた。
書類は、暗部の連絡経路ではなく、次の定期文書便で南東大教会へ送る。これは教義保全院長として扱う案件ではなく、地域教会の司祭として処理すべき普通の保護事例だった。
数時間前まで、同じ机で公には残せない命令書を読んでいた。今は、誰が見ても構わない孤児保護報告へ、地域教会の司祭として署名している。
裏口を通る暗部の連絡と、大教会へ向かう通常の文書便。
この教会には二つの流れがある。赤子を乗せるべきなのは、迷うまでもなく後者だった。
受け入れ先の候補も、すでにあった。
同じ南東地区にある、ここより規模の大きな地域教会。孤児のための部屋が用意され、乳幼児の養育に必要な人手も揃っている。
何より、そこには長く孤児の世話を続けてきた、一人の修道女がいた。
南東地区で教会に関わる者なら、その名を知らない者の方が少ない。
身元の分からない子供も、罪人の子も、親に捨てられた子も、子供自身に罪はないと言って受け入れてきた。貴族や聖職者から何を求められても、子供に害が及ぶと判断すれば容易には譲らない。
彼女に預けられたなら、この赤子が白い髪と瞳を持っているというだけで、不当に扱われることはないだろう。
暗部の連絡拠点でもない。
設備だけでなく、子供を守る者がいるという意味でも、この子にとっては自分の教会より明らかに適した場所だった。
それでも、アドリアンは受け入れ先の候補を控えへ書き留めながら、すぐに移すと決めることができなかった。
その修道女は、子供を守る。
同時に、女神アマリヴィアへの信仰が非常に篤い人物でもあった。
子供を守ることを、女神が創った生命を守ることだと信じている。だからこそ、どのような生まれの子供も見捨てない。
だが、その信仰の篤さを思えば、魔力を女神から与えられた祝福とする教えも、当然のものとして受け止めているはずだった。
白い髪と瞳だけなら、珍しい外見として受け入れるだろう。
けれど、乳児なら確認できるはずの魔力の漏出が、この子からは明確に読み取れないと知ったなら、彼女が赤子を見捨てるとは思わない。
むしろ守ろうとするはずだった。
そのために、より高位の聖職者へ相談し、祝福を確認するための調査を求める可能性がある。
本人に悪意はない。
だからこそ、止められるとも限らなかった。
調査が始まれば、この子は保護される孤児ではなく、前例のない事例として扱われる。
アドリアンは、暗部長として、その先に何が起こり得るかを知りすぎていた。
体調が戻れば、魔力の漏出も現れるかもしれない。
一度でも普通の反応を確認できれば、その時点で安心して預けられる。
今は確認できないだけで、明日にでも現れるかもしれない。八歳から十歳頃まで育てる計画を立てているわけではなかった。
それでも最後まで明確に読み取れないまま、自然漏出が通常ほぼ収まる年齢まで成長したなら、移した先でも、その状態を異常として察知される可能性は低くなる。
体調が安定するまで。
魔力の状態を確認できるまで。
あるいは、確認できないこと自体が目立たなくなるまで。
それまでは、この教会で預かるほかない。
アドリアンは報告書の控えに、体調の回復後に受け入れ先を調整するとだけ記した。
短期間の保護であることに、変わりはない。
少なくとも、その時はそう考えていた。
* * *
予定どおりには進まなかった。
赤子はしばらくすると、乳を求める声を出せる程度まで回復した。
だが、冬の寒さが深まるにつれ、再び食事の量が減り、体温が安定しない日が現れた。重い病ではない。薬を使う状態でもない。それでも、移動させてよいほど丈夫とも言えなかった。
春までは置いておくべきだ。
少なくとも、今の状態で移すよりは、その方が安全なはずだった。
候補としていた教会へも、冬季の移送を見送る旨を通常の文書で伝えた。
延びた保護期間の間、アドリアンは赤子の状態を記録し続けた。
食事の量。眠った時間。体温。呼吸。体重の変化。
そして、魔力漏出の有無。
初日も、その後も、記録を重ねても、何も確認できなかった。
体調が戻れば現れると思っていた。
現れないなら、発達が遅れているのかもしれない。
それでも現れないなら、自然漏出が収まる年齢までの間に、一度でも通常の反応があるかを確かめればよい。現れた時点で移せる。
あるいは、反応のないこと自体が年齢上の異常として目立たなくなるまで、手元で守る必要がある。
観察を続ける理由は、いくらでも整えられた。
その間に、赤子はアドリアンの声を覚えたらしかった。
彼が部屋へ入ると、閉じていた目を開くことがある。抱き上げれば、ほかの時より早く泣き止む。
それも乳児として自然な反応である。
世話をする者の声や匂いを覚えただけだ。
アドリアンはそう理解していた。
理解していながら、反応が返るたびに胸が緩むことまでは止められなかった。
* * *
保護記録には、同じ言葉が何度も並んでいた。
身元不明の女児。
健康記録にも、物資の申請書にも、同じ表現を書く。
ある夕方、アドリアンはその文字を見たまま、筆を置いた。
身元が分からないのは事実である。
だが、毎日顔を見て、食事を与え、眠りを確かめている子供を、いつまでも「女児」とだけ呼ぶことに違和感を覚え始めていた。
日常の世話でも、泣いた時に呼びかける言葉がない。
大丈夫だと言うことも、よく眠れたかと尋ねることもできる。けれど、その言葉が誰へ向けたものなのかを示す名前だけがなかった。
受け入れ先へ移るまでの仮の名でいい。
記録上、識別できればそれで足りる。
アドリアンはそう考えながら、寝台の中の赤子を見た。
白い髪は、発見した朝より少しだけ整って見える。
白い瞳がこちらを向いた。
魔力の気配は、今日も明確には読み取れない。
女神アマリヴィアは、人の生命を創り、慈しんだと伝えられている。
もし、この子に与えられた祝福が見えないのなら。
せめて名前の中に、女神の一部を借りてもよいのではないか。
「リヴィア」
アドリアンは、声に出してみた。
アマリヴィアから切り分けた、小さな名だった。
赤子は名前を理解したわけではないだろう。
ただ声に反応して目を細め、毛布の中から手を動かした。
その指が、アドリアンの方へ伸びる。
「あなたの名前です。ひとまずは」
ひとまず。
春までの、記録のための仮名。
そう言い聞かせるように付け加えたが、赤子は何も知らずに、かすかな声を返した。
アドリアンは差し出された手へ指を預けた。
「リヴィア」
今度は先ほどよりも自然に、その名を呼べた。
仮の名のはずだった。
けれど、その晩の健康記録で、アドリアンはもう「身元不明の女児」とは書かなかった。
代わりに、リヴィアと記した。