白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
食事のことでアドリアンと話したあの日から、季節は一度巡り、さらにいくらか月日が過ぎていた。
最近は朝のうちから日差しに暑さを感じる日が増えている。朝の礼拝を終えた教会では、それぞれが次の予定へ向けて動き始めていた。
ノエラは机の上に置いていた帳面をまとめ、ロランは壁際に掛けていた外套を手に取った。
「今日はマルタ修道女のところですか」
「はい。午前の勉強が終わったら行ってきます」
「今日は何をするんですか」
「まだ決まっていません。向こうでできることがあれば手伝わせてもらいます」
そう答える声には、最初に見学へ行った頃のような緊張はあまりなかった。
あれからノエラは何度もマルタの教会へ足を運んでいる。
子供たちの世話だけでなく、記録や準備、そのほか最初の日には見られなかった仕事も少しずつ見せてもらった。そのうえでノエラは修道女になる方向で考えたいとアドリアンへ伝えた。
まだ普通の勉強も続けているし、すぐに修道女になるわけでもない。それでも、以前にはなかった行き先がノエラの一日の中にはもうある。
「ロランも工房ですか」
「うん。今日は木の長さを測る練習。あと、道具の持ち方もまた見てもらう」
「気をつけてくださいね」
「分かってる」
ロランもいくつかの仕事を見たり話を聞いたりしたあと、木工の仕事を覚えたいと決めた。正式に弟子入りする年齢にはまだ早いが、今は定期的に工房へ通い、木の種類や測り方、道具の扱い方、簡単な作業から教わっている。
二人がこの教会へ来てから、もう二年近くになる。来た頃にはどちらにも今のような行き先はなかったが、今ではノエラにはマルタの教会があり、ロランには工房がある。
「リヴィア、これ、こっちでいい?」
声を掛けられて振り向くと、ミアが洗い終えた小さな器を両手に抱えていた。
「はい。そこの棚の二段目にお願いします」
「分かった」
ミアは以前なら棚の前で一度立ち止まり、リヴィアを呼んでいた。今はそのまま棚まで歩き、自分で器を収めた。
少し離れたところでは、テオが掃除に使った布をまとめている。結び目が緩くなり、一度ほどいて結び直していたが、誰かへ頼む様子はない。
できなかったことができるようになる。
行かなかった場所へ行くようになる。
考えていなかった将来を考え、少しずつそこへ向かっていく。
そういう変化が教会の中には増えていた。
リヴィアは自分の手元へ目を落とした。
体調は悪くない。あの日からも、食事が足りないと感じたことはなく、強い疲れが続いたこともない。どこかが痛むこともなければ、眠れない日が増えたこともなかった。今も普段の生活で困ってはいない。
ただ、周りが変わっていくほど、自分に大きな変化がないことは分かりやすくなった。
背丈も、身体つきも、以前と比べてあまり変わっていない。将来何をするのかも、まだ決めていない。それでも、以前とは違って、少し気になる道ならあった。
教会で勉強をして、手伝いをして、ときどき買い物へ出る。それは嫌な生活ではなかった。むしろ好きだった。
けれど――。
自分だけが、まだ同じ場所にいるのだろうか。
そんな疑問が、ふと残った。
* * *
昼を過ぎると、教会の中は少し静かになった。
ノエラはマルタのところへ向かい、ロランも工房へ出ている。ミアとテオは奥の部屋で勉強中だった。
リヴィアは礼拝堂脇の小部屋で、使い終えた紙をまだ裏を使えるものと処分するものに分けて重ねていた。
単純な作業を続けているうちに、朝に考えたことがまた戻ってきた。
前へ進むとは、何だろう。
身体が大きくなることだけではない。それならノエラのように将来を決めることだろうか。ロランのように新しいことを覚え始めることだろうか。自分にも気になる道はある。けれど、まだノエラのように選んだわけではない。
前世では、面倒になりそうなことや、危なそうなことへ深く関わらないようにすることが多かった。困っている人を見れば気にはなったし、できる範囲で手を貸すこともあった。ただ、その先まで踏み込めば自分にも何か起こりそうなら、そこで止まることのほうが多かったと思う。
けれど、この世界では、アドリアンが人へ手を差し伸べる姿を見ながら育ってきた。捨てられていた自分を拾い、育ててくれた。あとから教会へ来た子供たちにも、食べる物や眠る場所を用意し、一人でできないことを助けながら、できることを少しずつ教えている。
アマリヴィア教の経典にも、子供を大切にすることや、困っている者へ手を差し伸べることを良しとする教えがある。
神や祝福については、今も分からないことが多い。それでも、そうした教え自体は良いものだとリヴィアは思っていた。
だから、自分も前世より一歩だけ深く、人に関わってみようと決めていた。
では、その一歩を、今も選べているだろうか。
「リヴィア」
扉の向こうから声がして顔を上げると、アドリアンが折り畳まれた一枚の紙を持って立っていた。
「あなた宛てのものがあります」
「私にですか?」
「ええ。先ほど、入口の書状受けに入っているのを見つけました」
リヴィアが紙を受け取ると、表には不揃いな文字で名前が書かれていた。
リヴィアへ。
それだけだった。
「手紙ですか?」
「そのようです。いつもの文書便で届いたものではありません」
差出人の名前は表には見当たらない。
リヴィアは首を傾げながら紙を開いた。
中の文字も、表と同じように少しずつ大きさが違っていた。何度か書き直したらしい跡もある。
ゆっくりと目で追う。
『リヴィアへ
まえに、薬屋で、妹の薬をかわりに買ってくれました。
妹はたすかりました。
薬を買える店を見つけました。
食べものを買える店も見つけました。
薬屋のあたりから教会をさがして、リヴィアの名前も聞きました。
おれいを言いに行こうと思いました。
でも、わたしは黒いかみだから、会ったらめいわくになると思いました。
だから、手紙にしました。
あのときは、ありがとう。
エルナ』
最後まで読んでから、リヴィアは最初の方へもう一度目を戻した。
薬屋で、妹の薬をかわりに買った。
それだけで、誰からの手紙なのかは分かった。
あの薬屋の前にいた黒髪の子だ。
「妹さん、助かったんだ……」
小さく声が漏れた。
あの日、薬を持って帰ったあと、どうなったのかは知らなかった。薬が間に合ったのかも、その後あの子がどうしたのかも分からないままだった。だから、その一文を見ただけで肩の力が少し抜ける。
薬を買える店を見つけた。
食べ物を買える店も見つけた。
どちらも、あの子が自分で探したものだ。
今も薬が必要になることはあるのかもしれないが、詳しいことまでは分からない。
視線を下へ動かす。
黒いかみだから、会ったらめいわくになると思いました。
理由を考える必要はなかった。最初に会った店では、黒い髪が見えた途端に食べ物を売ってもらえなくなった。薬屋の前でも、あの子はアドリアンの司祭服に気づくと立ち去ろうとした。
黒髪の者がどう見られているのかは、そのあとアドリアンからも聞いている。だから、エルナがそう考えた理由は分かる。
けれど、リヴィア自身は、会いに来られて迷惑だとは思わなかった。
「エルナ……」
最後に書かれた名前を今度は声に出して読む。
そこで初めて、今まであの子の名前を知らなかったのだと気づいた。
エルナ。
あの子には、当然、自分の知らないところで続いていた生活があった。
妹が助かったあとも、自分で店を探し、教会を探し、文字を書いて、ここまで手紙を届けた。
裏返してみたが、返事を送るための場所はどこにも書かれていない。
「知っている子でしたか」
アドリアンが尋ねた。
「はい。前に薬屋の前で会った黒髪の子です。妹さんの薬を買うのを手伝いました」
アドリアンはすぐには答えなかった。
「……あの日、あなたが急に離れたのは、その子を追ったからだったのですね」
「はい。神父さまに気づいて、帰ろうとしていたので」
アドリアンは一度目を伏せた。
「……そうだったのですね」
「妹さんは助かったみたいです」
「それは、よかったです」
リヴィアはもう一度、手紙を見た。
あのとき、自分がしたことだけでエルナの生活が変わったわけではない。エルナは、自分で次の店を探した。自分で動ける場所を増やした。
ただ、薬屋の前で立ち去ろうとした背中を追いかけたことも、あの日、薬を持って帰れたことも、エルナが次へ動くための小さなきっかけの一つにはなったのかもしれない。
朝に考えていたことが少しだけ形を変えた。
背が伸びたかどうかなら、並んで立てば分かる。
新しくできるようになった仕事なら、見れば分かる。
けれど、人との関わり方が以前と同じかどうかは、そう簡単には測れない。
何も変わっていないように見えても、それだけで止まっているとは限らないのかもしれなかった。
それでも、手紙の中には、よかったと思って終わらせられないことも残っている。
子供を大切にすることや、困っている者へ手を差し伸べることをリヴィアは良い教えだと思ってきた。
けれどエルナにとっては、その教えを伝える教会でさえ、黒髪の自分が会いに行けば迷惑になるかもしれない場所だった。
妹が助かったこととは違い、それは何も解決していない。
* * *
夕方になると、外へ出ていた二人も教会へ戻ってきた。ノエラが先に教会へ入り、その後ろからロランも続いた。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
リヴィアが答えると、奥からミアとテオも顔を出した。
「ノエラ、今日は何したの?」
「食事の準備を少し手伝って、それから記録の付け方を見せてもらいました」
「ロランは?」
「測る練習。前よりはましになった」
朝にも見たいつもの教会の光景だった。けれど、今は少し違って見える。
二年近くという時間は、教会の中にいろいろな変化を残していた。ノエラには、教会の外に学びに行く場所がある。ロランにも、覚えたい仕事がある。ミアとテオは、以前より自分でできることが増えている。
リヴィアの身体には、それほど分かりやすい変化はない。これから大きくなるのかも分からない。将来の道もまだ決めてはいない。ただ、修道女の仕事は以前より少し気になるようになっていた。
それでも、朝に考えていたときほど、自分だけが同じ場所に残っているようには思えなかった。
前世なら立ち止まっていたかもしれない場所で、今は一歩だけ先へ出ることがある。
その一歩がいつも誰かの役に立つとは限らないし、何かを大きく変えるとも限らない。
けれど、少なくとも今回、その先にはエルナ自身が進んでいった時間があった。
自分まで何も変わっていなかったわけではないのかもしれない。
そう思うと、もう一つ気になることが残った。
エルナだけなのだろうか。
黒髪というだけで、食べ物や薬を買える場所を探し回ったり、誰かへ礼を言いに行くことさえ諦めたりする子が、ほかにもいるのかもしれない。
今のリヴィアには、それ以上のことは分からない。
「リヴィア、そっち持つ?」
ミアの声に振り向くと、夕食の準備に使う器が机の上に並んでいた。
「大丈夫です。こっちは私が持ちます」
リヴィアは自分が運ぶ分を手に取り、ミアと並んで食卓へ運ぶ。
何ができるかは、まだ分からない。
まず、どういう子がどこで困っているのかをもう少し知りたい。それを知ることからなら、始められる気がした。