白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない――   作:不明さん

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第3話 目覚め

「リヴィア。起きていますか」

 

 扉の向こうから聞こえた声に、リヴィアは目を開いた。

 

 見慣れた天井がある。

 

 白く塗られた壁。小さな窓。寝台の脇に置かれた低い棚。その上には、昨夜アドリアン神父に読んでもらった薄い本が閉じられていた。

 

「起きています」

 

 返事をした声は幼い。

 

 それ自体は、昨日までと何も変わらない。

 

 教会の前で拾われてから、五年ほどが過ぎていた。正確な誕生日が分からないため、自分が何歳なのか、アドリアンにも断言できないらしい。けれど、今では身の回りのことの多くを自分で行い、簡単な手伝いも任され、日常の会話には不自由しない。

 

 変わったのは、声ではなかった。

 

 自分がその声を聞く意識の方だった。

 

 昨夜も夢を見た。

 

 最近、何度も見るようになった夢だった。

 

 今よりずっと高い位置から物を見ていた。手は大きく、足取りも重い。誰かと話す自分の声は低く、鏡の中にいるのは幼い少女ではなかった。

 

 見たことのない文字を、当たり前のように読んでいる。

 

 この世界とは違う道具を使い、この世界とは違う場所で、毎日を暮らしている。

 

 断片は以前からあった。

 

 知らないはずのものを、知っているような気がすることがあった。初めて聞く話なのに、似た考え方をどこかで聞いた気がした。自分の小さな手が、時折ひどく頼りなく感じられた。

 

 けれど、それらは夢と現実の境目に浮かぶ、意味のない景色でしかなかった。

 

 今朝は違った。

 

 ばらばらだったものが、一本の線でつながっている。

 

 あれは夢ではない。

 

 自分の記憶だ。

 

 不思議なほど、怖くはなかった。ばらばらだった違和感に、ようやく理由が見つかったような気がした。

 

 リヴィアは毛布の中で両手を持ち上げた。

 

 短い指。丸みの残る手のひら。以前の記憶にある手とは、形も大きさもまるで違う。

 

 前の自分は、男だった。

 

 それも、子供ではない。少なくとも、一人で生活し、自分の判断で毎日を過ごす年齢にはなっていた。

 

 だが、何歳だったのかは分からない。

 

 何を仕事にしていたのかも、どのように人生を終えたのかも思い出せなかった。記憶をたどろうとすると、日常の感覚だけが残り、その先は白く途切れてしまう。

 

 死んだのだろうとは思う。

 

 そうでなければ、別の世界で幼い少女になっている説明がつかない。

 

 リヴィアは自分の白い髪を一房つまんだ。

 

 前は、こんな色ではなかった気がする。

 

 ただ、それを問題だとは思わなかった。

 

 アドリアンの髪は黄色で、瞳は緑色だ。礼拝に来る者の中には、赤い髪の者も青い髪の者もいる。前の世界では目立っただろう色が、ここでは珍しくない。

 

 白も、その一つなのだろう。

 

 性別が変わっていることの方が、よほど大きな違いだった。

 

 しかし、驚きはあっても、強い拒絶はなかった。

 

 前の自分が男だったという記憶と同じように、この身体で泣き、眠り、転び、アドリアンに抱き上げられてきた記憶も、自分の中にある。

 

 どちらも自分の記憶だった。

 

「入りますよ」

 

「はい」

 

 扉が開き、アドリアンが部屋へ入ってきた。

 

 黄色い髪は、朝の支度を終えたばかりなのか、まだ少しだけ乱れている。手には畳んだ衣服を持っていた。

 

「具合はどうですか」

 

「大丈夫です」

 

 答えると、アドリアンはいつものようにリヴィアの額へ手を当て、熱を確かめた。

 

「熱はありませんね。昨夜は少し眠りにくそうでしたが、怖い夢でも見ましたか」

 

 リヴィアは迷った。

 

 夢ではない。

 

 おそらく、前の人生の記憶だ。

 

 そう説明しようとして、言葉が見つからないことに気づいた。

 

 別の世界で大人の男だった。いつの間にか死んで、今は女の子になっている。

 

 口に出してみれば、それだけの話かもしれない。

 

 けれど、自分でもまだ整理しきれていない。どうしてそうなったのかと聞かれても答えられず、何歳だったのか、何をしていたのかと尋ねられても分からない。

 

 分からないことばかりを話せば、アドリアンを困らせるだけかもしれなかった。

 

 この世界の言葉で、前世や転生という複雑な事情を説明できるほどの語彙は、まだ持っていなかった。

 

「よく分からない夢でした」

 

 結局、そう答えた。

 

 嘘ではない。

 

 アドリアンはそれ以上問い詰めず、静かにうなずいた。

 

「朝食を取れば、少し落ち着くでしょう。着替えられますか」

 

「できます」

 

 リヴィアは勢いよく身体を起こし、すぐに動きを止めた。

 

 前世の身体感覚のまま大きく足を動かしたため、毛布へ引っかけてしまった。手をついて身体を支えようとしても、腕は記憶にあるほど長くも強くもない。

 

 前の記憶が戻っても、身体まで大人になるわけではないらしい。

 

 アドリアンは笑わず、毛布だけを外してくれた。

 

「急がなくて構いません」

 

「……はい」

 

 少し恥ずかしかった。

 

     * * *

 

 朝食を終えた後、アドリアンは礼拝堂の脇にある小部屋で本を開いた。

 

 表紙には、女神アマリヴィアと、人々らしい小さな絵が描かれている。正式な経典そのものではなく、子供にも分かる短い物語を集めた本だと教えられていた。

 

 アドリアンは正式な経典も時折読んでくれる。

 

 ただ、そちらは言葉が難しい。リヴィアには、こちらの薄い本の方が理解しやすかった。

 

 今日の話は、旅の途中で困っていた者と、その者へ水と食事を分けた村人の話だった。

 

 助けられた旅人は、村人と知り合いではない。

 

 それでも村人は、自分に分けられるものがあるなら、困っている隣人へ手を差し伸べるべきだと考えた。

 

 アドリアンはゆっくりと読みながら、指で文字を追っていく。

 

 リヴィアは話を聞きながら、その指先を見ていた。

 

 前の世界では、文字を読むことができた。

 

 どのような文字だったのか、細部は曖昧である。それでも、記号の並びから意味を受け取る感覚は残っている。

 

 目の前の文字は読めない。

 

 形も並び方も、記憶にあるものとは違っていた。

 

 昨日までは、それを不便とも思わなかった。けれど、文字を読めた感覚を思い出した今は、意味のあるものを前にして何も分からないことが、もどかしかった。

 

 リヴィアはアドリアンの指先を追った。

 

 声と、指が止まる位置を結びつける。

 

 同じ言葉が読まれた時には、似た並びが現れる。短い形と長い形があり、何度も出てくる文字もある。

 

 自分の名前と、何度も聞く短い言葉なら、文字の並び全体を一つの形として覚えている。頁の端近くに、その中の一文字と同じ形を見つけた。

 

「神父さま」

 

 アドリアンが読むのを止める。

 

「どうしました」

 

「これ」

 

 リヴィアは一つの文字を指さした。

 

「リヴィアの字です」

 

 アドリアンは、リヴィアの指先と文字を交互に見た。

 

 以前、木の板へ名前を書いてもらった時、名前の最初にあった文字と同じ形だった。

 

「よく覚えていましたね」

 

「同じです」

 

「ええ。同じ文字です」

 

 アドリアンは少し考えるように本へ目を落とした。

 

「名前の板を見ながら覚えたのですか」

 

「はい。神父さまが読むところも見ました」

 

「読むところを」

 

 その言葉を、アドリアンは小さく繰り返した。

 

 叱られたわけではない。

 

 けれど、いつもより少し長く見つめられた気がした。

 

 リヴィアが首を傾げると、アドリアンの表情はすぐに和らいだ。

 

「文字に興味があるのですね」

 

「読めるようになりたいです」

 

「興味があるなら、そろそろ少しずつ始めてもよいでしょう」

 

 教えてもらえる。そのことが、素直に嬉しかった。

 

「読めないと不便です」

 

 答えた後で、五歳か六歳の子供の言葉としては、少し実用的すぎたかもしれないと思った。

 

 アドリアンはわずかな間を置いてから、穏やかに尋ねた。

 

「何が不便なのですか」

 

 リヴィアは考えた。

 

 本が読めない。

 

 アドリアンが書いているものも分からない。

 

 前の自分なら当たり前にできたことが、今はできない。

 

 しかし、最後の理由は説明できない。

 

「神父さまがいないと、本が分かりません」

 

 答えると、アドリアンは一度目を伏せた。

 

「それは確かに不便ですね」

 

 否定はされなかった。

 

「では、少しずつ覚えましょう。ただし、疲れたら終わりです。今日は自分の名前からにしましょうか」

 

「はい」

 

 アドリアンは紙を一枚取り出し、ゆっくりとリヴィアの名前を書いた。

 

 その下に、最初の文字だけを大きく書く。

 

 リヴィアは形を目で追い、指で空中になぞった。

 

 一度見ただけで覚えられるとは思わない。

 

 けれど、仕組みがあるのなら、見つけられるはずだった。

 

 アドリアンはそんなリヴィアを見ながら、何度か口を開きかけた。

 

 結局、口にしたのは「よく見ていますね」という言葉だけだった。

 

     * * *

 

 読み聞かせを再開して間もなく、正面入口から人を呼ぶ声がした。

 

 アドリアンは本を閉じた。

 

「誰か来たようです。少し見てきます」

 

「はい」

 

 リヴィアも椅子を降り、少し離れて後を追った。

 

 入口に立っていたのは、何度か礼拝で見たことのある女性だった。

 

 女性は落ち着かない様子で、夫が熱を出して仕事へ行けず、家の食料と薪が少なくなっていると話した。医師へ診せたいが、何を伝えればよいのかも分からず、相談に来たらしい。

 

 アドリアンは話を途中で遮らなかった。

 

 熱が出始めた時期や、食事と水を取れているかを確認する。自分が治療できるとは言わず、熱が続いているなら医師へ診せるように勧めた。

 

 それから、教会の備蓄から数日分の食料と薪を分けることを約束し、医師へ事情を伝えるための短い書付を作り始めた。

 

 女性は何度も頭を下げた。

 

「返せるようになったら、必ず」

 

「今はご主人のことを優先してください。返す話は、その後で構いません」

 

「でも、神父さまにもご迷惑が」

 

「困っている時に使うための備蓄です。使わなければ、置いてある意味がありません」

 

 アドリアンは特別なことをしている様子ではなかった。

 

 先ほど読んだ話を持ち出すこともない。

 

 ただ、必要なものを確認し、できることを決め、女性が持ち帰れるように準備していく。

 

 リヴィアは、その姿を見ていた。

 

 これまでも、アドリアンが誰かの相談に乗る姿は見てきた。それを特別なことだと思ったことはない。けれど、前の人生を思い出した今は、その当たり前が少し違って見えた。

 

 前の世界は、少なくとも自分が暮らしていた範囲では平和だった。

 

 人が傷つけ合う話を知らなかったわけではない。けれど、それは多くの場合、物語や遠い出来事の中にあるものだった。誰かに殴られたことも、命を脅かされたことも、相手の敵意を読み取らなければならない生活を送った記憶もない。

 

 危険なことを避けていたのも、危険へ敏感だったからではなかった。面倒になりそうな場所へ初めから近づかず、関わりが深くなる前に距離を置いていただけだ。

 

 前の自分も、悪い人間ではなかったと思う。

 

 目の前で誰かが倒れれば助けただろう。道を聞かれれば答えた。少しの手間で済むなら、困っている人へ手を貸したこともあったはずだ。

 

 けれど、そこから先はどうだっただろう。

 

 長く関われば責任が生じる。

 

 自分の予定が崩れる。

 

 問題が大きければ危険もある。

 

 そういう時には、もっと適した人へ任せるのが正しいと考えていた。

 

 それ自体は、間違いではない。

 

 一人でできることには限りがあり、自分を守ることも必要だ。

 

 もし前の自分が、教会の前に置かれた赤子を見つけたなら、放ってはおかなかったと思う。

 

 誰かへ知らせ、安全な場所へ引き渡しただろう。

 

 けれど、その赤子を自分の生活へ迎え、何年も食事を与え、病気を心配し、文字まで教えただろうか。

 

 自信はなかった。

 

 アドリアンは、それをしている。

 

 リヴィアにとっては、あまりにも当たり前になっていた。

 

 朝になれば起こされる。食事が用意される。体調を尋ねられる。転べば傷を洗われ、眠れなければ話を聞いてもらう。

 

 本を読んでもらい、文字を教えてほしいと言えば、疲れない範囲でと紙と筆を用意してくれる。

 

 その一つ一つは小さなことだった。

 

 けれど、それが五年ほど続いている。

 

 先ほどの本では、困っている隣人へ手を差し伸べることは善いことだと語られていた。

 

 リヴィアは、経典の教えをまだ詳しく知らない。

 

 それでも、アドリアンの行動を表す言葉が、その本の中にあることは分かった。

 

 神父が経典を読んだから、こういう人になったのか。

 

 それとも、こういう人だから、経典の言葉を大切にしているのか。

 

 今のリヴィアには判断できない。

 

 ただ、どちらが先でも構わない気がした。

 

 自分は、この人に助けられた。

 

 一度だけではない。

 

 面倒や責任を理由に手を引かず、今も助けられ続けている。

 

 ならば、新しい人生では、前より少しだけ先まで手を伸ばしてみてもよいのではないか。

 

 誰もかれも救うことなどできない。

 

 危険なことは怖いし、面倒なことは今でも面倒だと思うだろう。

 

 それでも、面倒になるという理由だけで、すぐに離れるのはやめてみよう。

 

 神父のようにはできなくても、自分なりに、誰かへもう一歩手を伸ばせる人間にはなりたい。

 

 前より少し積極的に。

 

 できる範囲で、善人として。

 

 今度は、そう生きてみよう。

 

「リヴィア」

 

 書付を終えたアドリアンが、こちらを振り返った。

 

「備蓄を運ぶ間、ここで待っていられますか」

 

 その名が、今の自分を呼んでいる。

 

 前の世界で男として生きていた自分も、今ここで小さな手を持つ自分も、どちらも消えたわけではない。

 

 けれど、これから生きていくのは、リヴィアだった。

 

「はい、神父さま」

 

 リヴィアは、はっきりと返事をした。

 

 アドリアンは少しだけ目を細め、いつものようにうなずいた。

 

 入口から差し込む朝の光へ顔を向ける。

 

 眩しい。

 

 だが、眩しいのは朝日だけではなかった。

 

 礼拝堂の壁の一部には細い光が残り、部屋の奥に置かれた生活器具は内側から淡く輝いている。アドリアン自身も、普通の机や本も光ってはいない。光っているのは、一部の場所と道具だけだった。

 

 これまで当たり前すぎて疑わなかった光景を、前の世界の記憶と比べて、リヴィアは初めて奇妙だと思った。

 

 新しい人生をどう生きるかは、ひとまず決めた。

 

 ただ、この世界は、どう考えても眩しすぎた。

 

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