白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
秘密聴取を終えてから、まだそれほど時間は経っていなかった。
水の大司教が会議室を出ると、廊下の先にアドリアンがいた。先ほど教主から結論を告げられ、教会本部の出口へ向かうところに声をかけた。
「アドリアン司祭。少しよろしいですか」
「はい」
水の大司教は近くの執務室へ案内し、机を挟んで向かい合った。
「リヴィアの件については先ほど決まった通りです」
「承知しています」
「原因が分からないことだけを理由に、本人へ新たな拘束や強制的な調査を行うことはありません」
アドリアンはわずかに目を細めた。否定でも感謝でもなかったが、秘密聴取の最中より肩の力が少し抜けたようには見えた。
「二人はまだマルタ修道女の教会に?」
「ええ。預けています」
リヴィアと、司教室にいたエステルは、事件直後に南東大教会から離され、同じ南東地区にある地域教会へ一時的に移されている。
「リヴィアの認定についても中断したままにはしません。南東地区司教が担当を続けられない以上、上位監督者である私が残る手続きを引き継ぎます。ただし、今日すぐに呼び戻すつもりはありません。少し日を置いて、改めて日時を指定します」
「分かりました。……大司教」
「何でしょう」
「認定に必要なことだけにしてください」
声は穏やかだったが、意味を取り違える余地はなかった。先ほどの秘密聴取で、本人について分からないことがいくつも残ったばかりである。
「そのつもりです」
「承知しました」
アドリアンはそれ以上言わなかった。
水の大司教は机の端に置かれた別の書類へ手を伸ばした。
「それから、あなたから報告を受けていた南東地区司教の件ですが」
アドリアンの視線が書類へ落ちる。
「今回の件について必要な確認は終わっています。教主と大司教会議の裁定も出ました。本人を呼んであります。これから処分を伝えますが、あなたも聞いていきますか」
アドリアンはすぐには答えず、一度扉へ視線を向けた。その向こうに二人がいるわけではないが、おそらくここから離れた地域教会に残してきた二人を考えたのだろう。
「いえ。私は戻ります」
「よろしいのですか」
「必要な報告はしました。確認された事実に沿って処分されるのであれば、私がここに残る理由はありません」
「もっと重い処分を求めるつもりは?」
「ありません」
「軽くするよう求めることも?」
「それもありません。また、私が求めることでもありません」
アドリアンは椅子から立ち、そこでほんの少し言葉を切る。
「今は二人のところへ戻ります」
「分かりました」
水の大司教は止めなかった。アドリアンが一礼して部屋を出ると、閉じた扉をしばらく見つめた。
自分が長く育ててきた少女が正当な根拠もなく異端とされ、二度も天罰へかけられた。それでも、その相手への処分を見届けるより、少女たちのいる場所へ戻ることを選んだ。
少なくとも今見えた行動だけなら、それは元教義保全院長の判断というより、子供を預けてきた養育者の判断に近かった。
ただし、それとあの少女自身が何者であるかは別の問題だ。
水の大司教はそこで考えるのを止め、机上の書類を一枚めくった。ほどなく、扉の外から到着を知らせる声が届く。
「通してください」
水の大司教は答えた。
*
南東地区司教は入室しても椅子へ座らず、水の大司教も勧めなかった。机の向こうに立つ男の顔には、数日前まで南東大教会を預かっていた者の余裕は残っていない。
「裁定が出ました」
前置きはしなかった。
「あなたを南東地区司教の職から罷免します。現在命じている宗教職務の停止も継続します」
司教の顔が強張った。
「お待ちください」
「何をですか」
「あの少女は――」
「リヴィアのことでしたら、今回の処分とは別件です」
言葉が止まる。
「別件などではありません。あれは天罰を二度――」
「生存したことは確認しています」
水の大司教は遮った。
「ですが、それによってあなたが行ったことが消えるわけではありません」
「私は異端の可能性を――」
「あなたが最初に異端とした理由は確認済みです」
机上の記録へ指を置く。
「修道女としての認定に関わる立場を私的に利用したこと。相手が拒否した後も、その地位を背景に行為を続けようとしたこと。それを見たリヴィアがアドリアン司祭へ報告すると告げた後、自分の行為が報告されるのを防ぐために異端認定へ進んだこと」
司教の唇が動いたが、声は出なかった。
「さらに緊急の天罰使用権限を用いました。一度目で過去に例のない生存結果が出た後も上位へ判断を戻さず、今度は最大出力で二度目を起動した」
「術式が正しく動いていなかった可能性がありました」
「そう考えたのですね」
「実際あれは生きています」
「その生存については、あなたの処分とは別に扱っています」
水の大司教は声を変えなかった。
「そして、生存したことはあなたの判断が正しかったことにはなりません」
司教が黙る。
「生存という前例のない結果が出た時点で、上位へ戻すべきでした。あなた自身も就任時にその原則へ目を通しているはずです」
「……実際に使われたことのない規定です」
「だから無視してよいとは書かれていません」
反論は返ってこなかった。
水の大司教は書類を閉じる。
「今回確認できた事実だけで、あなたを司教職へ置き続けることはできません。教主と大司教会議も同じ判断です」
「過去のことまで調べるおつもりですか」
「必要な範囲で」
初めて司教の顔に別の色が浮かんだが、水の大司教は追及しなかった。今この場で扱う内容ではない。
「今回の裁定は、今回確認された事実についてのものです。過去の行為、ほかに被害を受けた者がいるか、王国法上の責任を問う必要があるかについては引き続き調査します」
「私は……」
「本日は処分を伝えるために呼びました」
水の大司教は告げた。
「残る説明は担当者から受けてください」
司教は何かを言おうとしたが、しばらくして口を閉じた。一礼と呼ぶには浅い動きを残し、部屋を出ていった。
扉が閉じた後、水の大司教は再び書類を開いた。
一つ終わっただけで、過去まで含めれば調べることはまだ残っている。だが少なくとも、あの男が司教の立場から認定を行うことはもうない。
水の大司教は、本来ならあの日に手続きを終えていたはずの、南東大教会を訪れた少女の認定書類へ目を移した。
*
それから数日が過ぎた。
水の大司教が改めて指定した日、執務室へ二人の来訪者が案内された。先にリヴィアが入り、その後ろにアドリアンが続く。
少女の白い髪は今日も目についた。年齢の記録だけを見れば十六歳相当だが、こうして正面から見るとそれよりずっと幼く見える。二度の天罰を受けた者だと知らなければ、あの秘密聴取へつながった人物とは考えにくい。
「どうぞ」
水の大司教が席を示すと、リヴィアが正面へ座り、アドリアンはその斜め後ろへ座った。
アドリアンの位置は水の大司教が指定したものだった。今回の認定は通常とは異なる経緯を経ているため、同席を認めること自体に問題はない。そしてそこなら、二人の様子を同時に確認できる。
「先に説明します」
水の大司教はリヴィアへ向けて言った。
「本来あなたの修道女認定は南東大教会で行われる予定でした。しかし担当する立場にあった司教が職務を続けられなくなりました」
リヴィアは静かに聞いている。
「そのため、上位監督者である私が残っている手続きを引き継ぎます」
「はい」
「今日行うのは、修道女としての認定に必要な確認です」
そこでアドリアンが口を開いた。
「大司教」
「何でしょう」
「認定に必要なことだけにしてください」
数日前と同じ牽制だった。
水の大司教はアドリアンを見る。
「そのつもりです」
「……承知しました」
それ以上アドリアンは言わなかった。
水の大司教はリヴィアへ視線を戻す。
「では始めましょう」
「お願いします」
リヴィアは膝の上で両手を重ねた。緊張しているようだったが、後ろを振り返ることはない。
「まず確認します。今回のことがあった後でも、修道女となる意思に変わりはありませんか」
「ありません」
答えは早かった。
「怖くはありませんでしたか」
リヴィアは少しだけ目を伏せた。
「怖かったです。エステルさんにしていたことも、私にしたことも」
「それでも修道女になりたいと?」
「はい。私が修道女になりたいと思ったのは、神父さまやマルタさんたちがしていることを見てきたからなので」
「どのようなところを?」
「子供の世話をしたり、困っている人を手伝ったり、教会の中で必要なことをしたりです。私もそういうことをしたいと思いました」
「ではエステルについて聞きます」
少女の表情に、わずかに心配するような色が浮かんだ。
「あの日まで彼女とは面識がなかったのですね」
「はい。ありませんでした」
「それでも司教との間へ入った」
「助けてって聞こえたので」
「自分には関係のないことだとは思いませんでしたか」
少し長い間ができた。
「……思わなかったわけではないです」
予想していなかった答えだった。
「危ないかもしれないとは思いました。でも助けてと言っているのに、そのまま帰るのは違うと思いました」
「違う、というのは?」
「私がそうしたくなかったんです」
使命でも教義でもなく、自分がそうしたくなかった。それだけの、奇妙に単純な答えだった。
「その後、あなたはアドリアン司祭へ報告すると言いましたね」
「はい」
「なぜアドリアン司祭だったのですか」
リヴィアは少し考えた。
「あの時、頼れる人として思い浮かんだのが神父さまだったので」
「神父さまなら話を聞いてくれると思いました。それに、私には誰に相談すればいいか分からなくても、神父さまなら知っていると思いました」
「では今後も似たことがあった場合はどうしますか」
「似たこと、ですか」
「自分より上の立場にいる聖職者の判断と、あなたが正しいと思うことが食い違った場合です」
リヴィアの眉がわずかに寄り、今度はすぐに答えなかった。
「まず理由を聞くと思います」
「それでも納得できなければ?」
「自分だけで決めないで、別の人にも相談します」
「命令に従わないこともありますか」
後方でアドリアンの視線がわずかに上がった。水の大司教はそれを見たが、リヴィアは正面を向いたまま反応しない。
「……あると思います」
慎重な声だった。
「誰かが困っていて、そのままだと危ないと思ったら。でも私が間違っているかもしれないので、できるだけ誰かに聞きます」
「誰にも聞けない状況なら?」
また少し考える。
「できることだけします」
水の大司教はその答えを聞き、記録へ目を落とした。
数年前の確認報告には、リヴィアに年齢以上の落ち着きと一定の資質があると記されていた。目の前の答えもその印象と矛盾しない。以前なら、後継者として特別な教育を受けた結果だと見ることもできた。
だが今、少女はアドリアンへ一度も答えを求めていない。アドリアンも答えを補わず、質問が少し鋭くなれば反応はするものの、少女の答えを変えようとはしなかった。
「もう一つだけ、今回のことについて確認します」
アドリアンの姿勢がごくわずかに変わったが、リヴィアは正面を向いたままだった。
「あの時」
水の大司教は言葉を選ぶ。
「自分が助かると思っていましたか」
リヴィアが瞬きをした。
「あの光の時ですか?」
「ええ」
しばらく返答はなかった。
「分かりませんでした。何をされるのかも、よく分かっていなかったので。司教さまには、罪を裁くものだと言われました。それから光って……音もすごくて」
そこでリヴィアの手が、膝の上で少しだけ強く重なった。
「怖かったです」
アドリアンの表情は変わらない。ただ、その視線は先ほどよりはっきりとリヴィアへ向いていた。
「一度目の後、これで終わったと思いましたか」
リヴィアは少し考えた。
「……終わったのかな、とは思いました」
「その後、またあのような光が来ると思っていましたか」
「いえ。司教さまが奥へ戻って何かしているのは見えていましたけど、また光るとは思っていませんでした」
水の大司教はそこで質問を止めた。
少なくとも一度目を生き残った時点で、自分には天罰が通じないと理解していた様子はない。そもそも本人には、何が起きていたのかを正確に理解するだけの知識がなかったらしい。
なぜ生き残ったのか。何か自覚している力がないのか。幼い頃から魔力をどうしていたのか。聞こうと思えば、まだいくらでも聞ける。
だが、それは今日ここで行う確認ではない。
「分かりました」
水の大司教は書類へ目を落とした。
少女の答えだけでは、天罰を二度生存した理由は何も分からない。不可解さは残ったままだ。
それでも、一つだけ見方を変える材料は増えた。アドリアンが何かを教え込み、少女がその指示に従っているようには見えない。後継者として秘密裏に育てていたという過去の疑いとも、目の前の二人はうまく重ならなかった。
少なくとも今日、水の大司教に見えた範囲では、少女は自分で答え、アドリアンはそれを補わない。二人を元院長とその後継者として見る理由は以前より薄れていた。
そのことは別の疑問を残す。
ならば、この少女自身は何なのか。
幼い頃から複数の者が年齢に似合わない資質を感じ、乳児期には魔力を明確に読み取れなかった。そして現在は、天罰を二度受けても無傷に近いまま生き残っている。
アドリアンとの共同企図を疑う理由が減るほど、説明できないものは少女自身へ集まっていく。
だが、それも今日の認定とは別だった。
水の大司教は最後の確認欄へ目を通した。
必要な学習、見習い、簡単な実務経験、推薦、本人の意思、そして今日確認した判断。
認定を拒む理由は見当たらない。
「リヴィア」
「はい」
少女の背筋が少し伸びる。
「確認は以上です」
「はい」
「今回の件によって中断しましたが、あなた自身の認定に不備があったわけではありません」
水の大司教は認定書類へ手を置いた。
「修道女として認定します」
リヴィアは一瞬何も言わなかった。聞き間違えたのか確かめるように、白い瞳がこちらを見る。
「……私、修道女になれるんですか?」
「そのための確認をしていたのですが」
「あ、はい。そうでした」
慌てて姿勢を正す。
「ありがとうございます」
リヴィアが深く頭を下げると、その斜め後ろでアドリアンが静かに息を吐いた。ごく小さな変化だったが、水の大司教には見えた。
少女が頭を上げ、今度は後ろを振り返る。
「神父さま」
「おめでとうございます、リヴィア」
アドリアンの声はいつもと大きく変わらない。だが少女は嬉しそうに笑った。
水の大司教はその二人を見た。
分からないことは何一つ解決していない。二度の天罰を受けてほぼ無傷だった理由も、乳児期に魔力を明確に読み取れなかった理由も、この先何が起こるのかも分からない。
ただ少なくとも、今日ここで確認したのはそれではなかった。
修道女として人を支える道を望んでいる一人の少女に、その資格があるかどうか。
その問いへの答えは出た。
水の大司教は、認定を終えた書類を閉じた。