白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
教会本部へ来ることになったのは、書面が届いてから数日後だった。リヴィアはアドリアンと並んで廊下を歩きながら、以前ここへ呼ばれた時のことを思い出していた。天罰の一件のあと、大司教たちから話を聞かれた時だ。
今日は何かを調べられるためではなく、黒髪の子供たちの保護について話を聞くために来た。それでも少し身構えてしまう。
案内されたのは大人数が集まる広間ではなく、それほど広くない会議室だった。中央の長机の向こうには二人の大司教が座っている。一人は南西地区を上位監督する風の大司教、もう一人はリヴィアの修道女認定を引き継いだ水の大司教だった。
リヴィアとアドリアンが席につき、挨拶を終えると、風の大司教が机の上へ一枚の書面を置いた。
「まず確認しておきます。今日ここでお話しすることはあなたへの命令ではありません」
「はい」
「すでに担当へ決まっているわけでもありません。こちらから内容を説明し、そのうえであなた自身に受けるかどうかを決めてもらいます」
書面で聞いていたことと同じだった。それでも改めて最初にそう言われたことで、わずかに肩の力が抜ける。
「分かりました」
「現在教会が保護している黒髪の子供の中には成人の聖職者や職員に対して非常に強い警戒を示す子がいます」
「食事を拒む。声をかけても応じない。逃げようとする。強く反発する。ほかの子供と喧嘩になる。感情が高ぶりやすく、落ち着くまでに時間がかかる子もいます。もちろんすべての子供が同じではありません。しかし現在の保護先では関係を作ること自体が難しくなっている子がいるのも事実です」
大人を信用できない子供。書面にもそうした事情は書かれていた。
「そこで一つ試してみたいことがあります。成人の職員ではなく、その子供たちから見て年齢が近く感じられる若い職員を日常生活で主に接する者として置いてみるのです」
「年齢が近く感じられる……」
「実際の年齢が同じである必要はありません。あなたは教会の記録上では十六歳ほどですが、実際にはそれより幼く見えます。そのことが今回は利点になる可能性があると考えています」
リヴィアは自分の身体へ一瞬だけ目を落とした。小柄であることが仕事の役に立つと言われたのは、たぶん初めてだった。高い棚には手が届きにくく、年下と並んでも身長があまり変わらないことがある。不便はあるが、小さいこと自体を深く気にしたことはない。それが役に立つのは少し不思議な気分だった。
「もちろんそれだけが理由ではありません。あなた自身が孤児として教会で育っています。そして同じ教会で暮らす子供たちの養育を長く手伝ってきたことも確認しています。正式な修道女としての認定も終えている」
ノエラ、ロラン、ミア、テオ。四人の顔が順番に浮かんだ。
「日常の対人対応についても問題はないと聞いています。アドリアン司祭からの人格についての保証もあります」
隣のアドリアンは何も言わず、表情も硬いままだ。その顔を見れば、まだ納得していないことは分かる。
「どのようなことをするのでしょうか」
「主になるのは日常生活です。食事、衣服、生活習慣、相談、簡単な教育の補助。子供と同じ場所で生活しながらその子が困っていることを知り、必要に応じて支援する」
「場所はどこですか?」
「南西地区に近い南東地区の地域教会を予定しています」
「今の教会ではないんですね」
「はい。試行中はそこで子供たちと生活してもらうことになります」
今の教会を離れて暮らす。書面を読んだ時には、そこまで具体的には考えていなかった。
「私がその教会を任されるのですか?」
「いいえ」
答えたのは水の大司教だった。
「施設の運営、会計、物資、記録、安全管理、専門的な判断、中央との連絡には、それぞれ経験のある者を置きます。あなたを地域教会の責任者にする話ではありません」
「では分からないことがあればその方たちに聞いていいのでしょうか」
「当然です。むしろ分からないまま専門外の判断をされる方が困ります」
「……そうですよね」
少し安心した一方で、別の不安も出てくる。話を聞く前は、黒髪の子供の話なのだから、できるなら関わりたいという気持ちが先にあった。けれど説明を聞くほど、それだけで決めてよい話ではないと思えてきた。
逃走や強い警戒、喧嘩、感情の高ぶり。これまで自分が経験してきた養育だけで十分だとは思えず、ノエラたちの生活を手伝ってきたからといって同じようにできるとも限らない。
「私は反対です」
隣のアドリアンが口を開いた。予想していた言葉だったが、風の大司教も水の大司教も驚いた様子は見せない。
「理由をお聞きしても?」
風の大司教が尋ねた。
「すでにお伝えしています」
「リヴィア本人にも聞いてもらった方がよいでしょう」
しばらくアドリアンは答えなかった。やがてリヴィアへ視線を向ける。
「リヴィア。あなたがこれまで子供たちと暮らしてきたことも、その中で十分に役割を果たしてきたことも、私は知っています」
「はい」
「ですがそれと今回の話は同じではありません。あなたは正式な修道女になったばかりです。黒髪の子供を専門的に保護した経験もない。通常の保護先でも対応が難しいと判断された子供を最初の経験として任せる必要があるとは思いません」
リヴィアはすぐには答えなかった。アドリアンの言っていることは正しい。自分が十五でも十六でもきっと心配はするだろうが、今回の反対はそれだけではない。
「同じ意見は中央の協議でも出ています。この試行をあなたへ提案する前に四大司教で協議しました。私が提案し、水と火の大司教が賛成。土の大司教は反対しています」
「土の大司教さまが?」
「理由は今アドリアン司祭が述べたものとほぼ同じです。あなたの人格が不適切だという話ではありません。若いこと。修道女になって日が浅いこと。通常より対応の難しい子供を任せること。そしてあなた自身だけでなく、子供側の安全も考えれば早すぎるのではないかという反対です」
三人が賛成し、一人が反対したから、自分へ話が来た。けれど反対した理由もよく分かり、むしろその方が普通なのではないかという気さえした。
「協議で認められたのはあくまであなたへ提案するところまでです。受けるかどうかはあなたが決めます」
店から追い払われ、妹の薬が必要な時にも自分で店へ入ることをためらい、教会に近づくことにも警戒していたエルナを思い出す。そんな経験を重ねてきた子供が、大人を簡単に信用できなくても不思議ではない。
けれどそれは、リヴィアがこれまで見てきたことから考えているだけだ。実際に保護先で何度も逃げようとする子と暮らしたことも、強く反発している子を落ち着かせた経験もない。
やりたい。それだけなら、たぶん今すぐ言える。だが、自分がやりたいことと、自分に任せても大丈夫なことは同じではなかった。
「対象になる子供は何人ですか?」
「最初は二人か三人を予定しています」
「その子たちはどのくらい対応が難しいのでしょうか」
「一人ずつ事情は違います。まだ最終的な対象者を決定していませんので、個別の説明は開始前になります。ただし重大な傷害を繰り返し、常に隔離や拘束が必要な段階の子を事情を伏せてあなたへ任せることはありません」
「必要なことは教えてもらえるんですね」
「安全に関係する情報は伝えます」
「もしその子が私の言うことも聞かなかったら?」
「それは十分にあり得ます」
水の大司教が答えた。
「あなたを置けば必ず解決するという前提の試行ではありません」
「では私がどうすればいいか分からなくなった時は?」
「監督役へ相談してください」
「その方でも判断できないことなら?」
「必要に応じてより経験のある担当者や医療、警備へつなぎます」
リヴィアは少し黙った。次に尋ねることは少し言いづらかったが、それでも聞いておかなければならない。
「私では駄目だった場合はどうなりますか?」
「駄目というのは?」
風の大司教が問い返した。
「子供が私を嫌がるとか。私がうまくできないとか。続ける方がその子にとって良くないと分かった時です」
「担当を変更します」
「それで失敗したことになるのでしょうか」
「なりません」
今度は水の大司教が答えた。
「今回の目的はあなた一人に何が何でも続けさせることではありません。子供にとって適切でなければ、担当を変える。それも試行の結果です」
「私が疲れてしまった時も?」
「休養を申し出て構いません。その間は交代担当を置きます」
そこでアドリアンが口を開いた。
「持ち場を離れる場合、監督役か交代担当への引き継ぎは必須ですね」
「はい」
そこからアドリアンは、緊急時の連絡先、リヴィアが一人で判断してよい範囲、医療や警備を呼ぶ場合の手順を順に確認していった。水の大司教は一つずつ答え、開始前には必要な連絡先と判断範囲を明確にすると説明した。
「夜間に問題が起きた場合、リヴィア一人で対応させることは」
「ありません」
「休養日や勤務を外れた後本人が現在の教会へ戻ることに制限はありますか」
風の大司教が答えた。
「ありません。正式に引き継ぎを終えているのであれば、どこで休むかまで中央が指定するつもりはありません」
リヴィアは思わずアドリアンを見た。アドリアンもこちらを見て、目が合う。
「……神父さま」
「確認しておくべきことです」
「はい」
少しだけ口元が緩みそうになった。帰ってきてもいい。そのことが思っていた以上に安心につながっていた。
風の大司教が机の上の書面を閉じる。
「今日答えを出す必要はありません。聞きたいことがほかにあれば確認してから決めてください。一度受けた後でも状況が変われば相談することはできます」
「……分かりました」
「返答はアドリアン司祭の教会から届けてもらえば十分です」
これで今日の説明は終わりらしい。まだ答えは出ていないが、来る前よりも自分が何を決めなければならないのかは分かっていた。
* * *
その日の夜、リヴィアは自分の部屋の机に座っていた。窓の外はもう暗い。書面を渡されたわけではないため、机の上に見るものは何もない。ただ、一人で考えていた。
助けたいと思う。その気持ちは話を聞く前から変わっていなかった。幼い頃、黒髪だからという理由で店から追い払われていたエルナは、妹の薬が必要になった時も自分で店へ入ることをためらっていた。ああいう子供がほかにもいるなら、自分にできることはしたい。
けれど、それだけで飛び込んでよいわけではない。
前世の自分ならどうしただろう。
危なそうだ。
面倒になりそうだ。
自分でなくてもいいだろう。
そう思って少し離れたところから見て終わったかもしれない。
今でも危険なことは怖いし、面倒なことをわざわざ増やしたいわけでもない。それでも、その二つだけで決めるのは違うと思っている。
アドリアンは、自分に何でもできるとは教えなかった。分からないなら聞けばいい。できないことまで抱えなくていい。誰かが困っている時、自分にできることがあるなら、その分だけ手を伸ばせばいい。これまで一緒に暮らす中で、そういうことを何度も教えられてきた気がする。
今回も同じなのかもしれない。黒髪の子供たちを自分一人で守ると考えるから重すぎる。実際に求められているのはそこまでではない。
食事を一緒にし、服を用意し、話を聞く。分からないところを教え、困った時には誰かを呼び、できないと分かったら相談する。
それなら。
そこまでなら。
リヴィアは椅子から立って部屋を出た。廊下の先、執務室にはまだ明かりがついている。扉を軽く叩くと、中から声がした。
「どうぞ」
扉を開けると、机に向かっていたアドリアンが顔を上げた。
「神父さま」
「決まりましたか」
最初から分かっていたように聞かれ、リヴィアは少しだけ目を瞬いた。
「……はい」
「私、受けようと思います」
「そうですか」
「でも、神父さまが言っていたことも分かります。私、黒髪の子供を保護したことはありません。専門的なことも分かりません」
「はい」
「だから分からないことを自分で決めないようにします。困ったら監督する人に相談します。危ないことがあったら人を呼びます。疲れた時は休みます。私が続ける方がその子に良くないなら、交代してもらいます」
言葉にすると少し不思議だった。何かを始める話をしているのに、やめる時のことまで話している。けれど、そこを決めておくからこそ始められる気もした。
「子供たちのことを全部私が何とかできるとは思いません。でも私にできるところまで断る必要もないと思いました」
それが今の答えだった。長い沈黙の後、アドリアンが息を吐いた。
「私の考えは変わっていません」
「はい」
「今でも、あなたには早いと思っています」
「……はい」
リヴィアは少しだけ肩を落とした。だがアドリアンは続けた。
「ですが今日確認した条件が守られるのであれば、あなたが決めたことを止めるつもりもありません」
「神父さま」
「一人で判断しないこと。無理を隠さないこと。必要な時には助けを求めること」
「はい」
「そして」
アドリアンの声が少しだけ柔らかくなる。
「帰ってこられる時には帰ってきなさい」
リヴィアは一度瞬き、それから小さく笑った。
「はい」
返事をすると、胸の奥に残っていた重さが少しだけ軽くなった。
何ができるのかも、子供たちが自分を受け入れてくれるのかも、まだ分からない。うまくいく保証もない。
それでも、分からないから何もしないのではなく、分からないことを誰かに聞きながら進むことならできる。リヴィアはそれを自分の答えにすることにした。