白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
出発の朝、リヴィアの荷物は教会の入口近くにまとめられていた。しばらくここを離れるといっても、持っていくものはそれほど多くない。着替えと日用品、それから修道女として必要なもの。足りないものがあれば向こうでも用意できると聞いている。
それでも、いつもの教会から荷物を持って出ていくとなると少し不思議な感じがした。リヴィアが荷物へ手を伸ばすより先に、テオが荷物の中から大きめのものを一つ持ち上げた。
「これ、外まで持ってく」
「自分で持てますよ」
「知ってる。でも俺も持てる」
昔なら何も聞かずに一番大きな荷物へ手を出していたかもしれない。そう思うと少し懐かしかった。
そのまま入口へ向かおうとするテオを見ているうちに、自分もしばらくここを離れるのだとふと意識した。伸ばしかけた手が一瞬止まった。
「……ではお願いします」
「うん」
テオはそのまま先へ出て、その横をミアが追いかけた。
「向こうって、ここからそんなに遠くないんだよね?」
「はい。王都の中ですから」
「お店とかもこっちと同じ?」
「そこまでは見ていないのでまだ分かりません」
「そっか。じゃあ帰ってきた時に教えて。どんなところだったか」
「仕事のことではなく、お店のことですか?」
「両方」
「分かりました。覚えている範囲で話しますね」
「ちゃんと覚えててよ」
「できるだけ覚えておきます」
少し離れたところではノエラが荷物の一つを確認し、結び目へ触れてから手を離した。
「これは大丈夫そう」
「昨日ロランが結び直してくれました」
「ああ、やっぱり」
昨夜、仕事を終えたロランは教会へ顔を出していた。見送りの時間には工房を抜けられないからと荷物を一つずつ確かめ、緩んでいた結び目を直してくれた。長く話すことはなく、帰る時にも気をつけるよう短く言っただけだったが、ロランならそのくらいなのだろう。
「向こうでも分からないことがあったらちゃんと聞いてね」
「はい。分からないことは確認するようにします」
「修道女になったからって何でも自分でできるわけじゃないから」
「それは修道女として仕事を始めてからよく分かりました」
「なら大丈夫だと思う。……ちゃんと食べてね。忙しいからって後回しにしないで」
「分かりました。気をつけます」
「それと休める時には休んで」
「はい。ノエラも無理はしないでくださいね」
「……これ以上言うと神父さまと同じになりそう」
「でもありがとうございます」
昔なら心配した分だけ全部言って、できるなら自分で手伝おうとしたかもしれない。今はリヴィアが向こうで自分でやるのだと分かったうえで送り出そうとしてくれている。
入口の外ではテオが荷物を置き、ミアもその隣で待っていた。アドリアンが最後の荷物を持って出てくる。
「忘れ物はありませんね」
「昨日も今朝も確認しました」
「なら結構です」
「神父さまの方が何度も確認していましたけど」
アドリアンは答えなかった。
何度も通った入口だった。買い物にも行き、別の教会へ手伝いにも行った。修道女になってからは仕事で外へ出ることも増えた。けれど今日は帰る時間を決めずにここを出ていく。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「気をつけて。……帰ってきた時、荷物あったらまた持つ」
「はい。その時はお願いします」
三人へ手を振り、リヴィアはアドリアンと歩き出した。少し進んで振り返ると、三人はまだ入口にいた。ミアが大きく手を振り、テオも片手を上げている。ノエラはその横で静かに立っていた。リヴィアももう一度手を振り、今度こそ前を向いた。
しばらく歩いてから肩に掛けていた荷物の紐を少し持ち直す。一番大きな荷物はアドリアンが持ってくれていた。自分でも持てると言ったのだが、これから向こうで働くのだから今日くらいは任せなさいと言われた。
先ほどまで入口に立っていた三人の姿を思い出すと、しばらく別の教会で暮らすのだという実感が今までよりはっきりした。
「疲れていませんか」
「大丈夫です。……今のところは」
「それで結構です」
無理をして大丈夫と言わないこと。教会を出る前にも言われたことだった。
やがてこれから暮らす地域教会の建物が見えてきた。南西地区に近い場所とは聞いていたが、ここも南東地区の地域教会であることに変わりはない。外から見ただけならこれまで訪れた教会と大きく違うようには見えなかった。
それでも今日は手伝いに来ただけではない。そう考えると、見慣れない建物がいつもより少しだけ大きく見えた。
入口へ近づくと中から女性が出てきた。
「アドリアン司祭ですね」
「はい。本日はよろしくお願いします」
アドリアンが挨拶し、リヴィアも続いて頭を下げる。
「リヴィアです。今日からお世話になります」
「セリーヌ・エル・ヴァルディアです。普段はセリーヌ司祭で構いません」
落ち着いた声で、言葉も丁寧だった。ただリヴィアを見たあと、セリーヌの視線が一度だけ建物の奥へ向かった。そこに子供たちがいるのだろうか。
「まずは荷物を置いてください。そのあと教会の中を案内します」
「はい」
「児童との日常的な対応については今回の試行ではリヴィア修道女が中心となります。もちろん施設の管理や安全上の判断まで任せるわけではありません」
最初からその点をはっきり言われた。この前本部で聞いた説明と同じだった。自分は責任者ではなく、分からないことまで自分で決める必要もない。そう分かっていても、ここへ来て改めて言われると少しだけ安心した。
セリーヌに案内され、リヴィアは自分が使う小さな部屋へ荷物を置いた。寝台と収納棚、机があり、長く暮らしてきた部屋より狭いが一人で使うには十分だった。そこから食事を取る部屋、子供たちが普段過ごす場所、水を使う場所などを順に案内される。
説明の途中でリヴィアは何度か廊下の先へ目を向けた。あちらに三人がいるらしいが、声は聞こえない。
「日中判断に迷うことがあればまず私かヘレナ助祭へ。けがをした、姿が見えなくなった、激しく争っている、ひどく取り乱して一人では安全を保てない。そういう時は自分だけで何とかしようとせず呼んでください」
「はい」
「緊急かどうか判断できない時でも?」
横からアドリアンが確認する。
「相談して構いません。本人だけで判断を続けさせるつもりはありません」
「分かりました」
教会の中を一通り見たあと、別の女性を紹介された。
「ヘレナ・ベルナー助祭です。児童対応の経験があります。実務について分からないことがあればまず彼女に確認してください」
「よろしくお願いします」
リヴィアが頭を下げると、ヘレナも短く頭を下げた。
「それと三人の勉強についてですが、読み書きなどの補助もあなたの担当に入ります。ただ今は新しい場所へ移ったばかりです。大人への警戒も強いので、学習はしばらく後に回します」
「まずここでの生活に慣れる方を優先するんですね」
「ええ。食事や睡眠が安定して、ここでの生活に慣れてからどう進めるかを決めます」
「分かりました」
「三人のことはどこまで聞いていますか」
「大人を強く警戒したり、食事を拒んだりする子がいるとは聞きました。でも今回一緒に暮らす三人については、まだ詳しく聞いていません」
「なら先に説明します」
ヘレナは近くの机へ数枚の記録を置いた。愛想が悪いというほどではないが、必要なことだけを話そうとしているように見えた。
「一番年上がセラ。十二歳前後です。以前保護先が変わった時に逃げようとしたことがあります」
「逃げようと……」
「はい。一度です。ここへ来てからは逃げようとはしていません。ただ出入口や窓をよく見ています。人が出入りすればそちらも気にするので念のため注意して見ていてください。年下の二人の様子もよく気にしています。職員がニナやエリンへ近づくと自分が間へ入ることがあります。無理に退かそうとすれば強く反発することもあります」
逃げる子。そう聞けば自分が外へ出るために出口を探している姿を思い浮かべる。けれど今の説明では少し違う気もした。
「次がニナ。十歳前後。ほとんど自分から頼み事をしません」
「必要なものがあってもですか」
「言わないことがあります。こちらから聞いても返事をしないこともある。食事も出してすぐには手をつけない場合があります」
「嫌いなものだからではなく?」
「それだけとは限りません。以前の保護先では相手によって対応が違っていたようです。詳しい事情ははっきりしていません。返事がないからと何度も問い詰めたり、すぐに食べないからと食事を片づけたりはしないでください」
「はい」
何があったのかまでは分からないらしい。それなら今聞いたことだけ覚えておけばいい。
「最後がエリン。八歳前後です」
「急に近づくと強く拒むことがあります。ただ離れようとした時にも泣いたり怒ったりすることがあります」
「近づいても、離れてもですか」
「状況によります」
「難しいですね」
「難しいです」
「ひどく取り乱した時は一人で何とかしようとしないでください。まず誰かを呼ぶこと。それからその場でできることを考えます」
「はい」
説明が終わったところでセリーヌが続けた。
「夜間はリタ・ランデルが担当します。リヴィア修道女は夜間担当には入りません。休む時間は休んでください。夜中に児童から声をかけられたり、何か異変に気づいたりした場合も、一人で対応せずリタを呼ぶように」
「はい」
夕方になればリタ本人にも紹介してもらえるらしい。
一通りの確認が終わるとアドリアンがセリーヌへ向き直った。
「では改めてお願いします」
「承知しています」
「体調や勤務上の問題があれば本人が言わなくても確認してください」
「……承知しています。その点も責任者として確認します」
「失礼しました」
神父さまも心配しすぎている。そう思う一方、少し前の自分ならその心配にただ「大丈夫です」と答えていたかもしれない。今は、大丈夫かどうかはやってみなければ分からないと思っている。
「リヴィア」
「はい」
「分からないことがあれば?」
「聞きます」
「無理だと思ったら?」
「言います」
「それで結構です」
「神父さまも帰ったらちゃんと休んでくださいね」
「……分かりました」
「ちゃんとです」
「分かりました」
それならよい。
入口まで見送りに出る。今朝は自分が見送られたのに、今度は自分がアドリアンを見送る。少し変な感じだった。
アドリアンが歩き出し、途中で一度振り返る。リヴィアが小さく手を上げると、アドリアンも短く手を上げてそのまま歩いていった。やがて姿が見えなくなる。
帰ってこられる時には帰ってきなさい。数日前に言われた言葉を思い出す。今すぐ帰りたいわけではない。けれど帰る場所がなくなったわけでもなく、今朝自分を送り出してくれた人たちもいる。それが分かっているだけで少し楽だった。
教会へ戻るとセリーヌが待っていた。
「児童への挨拶を済ませておきましょう。ヘレナ助祭、案内をお願いします」
「分かりました」
ヘレナについて廊下を進み、三人がいる部屋へ向かう。扉の前でヘレナが先に中を確認した。
「無理に近づかなくて構いません」
「はい」
扉が開くと、最初に目へ入ったのは黒い髪だった。三人、聞いていた通り全員が女の子だった。
三人の身体の周りには淡い光が滲んでいる。何の魔力なのかは分からない。ただ、これまでにも見てきた身体の外へ出た魔力と同じような光に見えた。
「窓の近くにいるのがセラ。その奥がニナ。セラのそばにいるのがエリンです」
セラが真っ先にこちらを見た。リヴィアが一歩中へ入ると、その視線がすぐに動く。扉、ヘレナ、年下の二人へと順に目を向け、もう一度リヴィアを見たあと、今度は窓へ視線を移した。
ずっとこちらだけを睨んでいるわけではない。逃げるために出入口を確認しているのだろうか。そう思ったが、セラは窓を見たあと、またニナとエリンへ目を向けていた。
「今日からここで一緒に暮らすリヴィアです」
返事はなかった。それで困る必要はない。返事をしないことがあるとさっき聞いたばかりだ。
「よろしくね」
それだけ言ってリヴィアはそれ以上近づかなかった。
しばらくして飲み物を用意する時間になった。リヴィアは三人分の器を盆へ載せて、もう一度部屋へ向かう。
どう渡すのがよいのだろう。まず普通に持っていけばよいか。
そう考えて数歩近づいたところで、セラが一歩前へ出た。ちょうどリヴィアと年下二人の間へ入る位置だった。
「来ないで」
初めて聞いた声だった。強い声ではあるが、叫んだわけではない。リヴィアは止まるしかなかった。
「分かった」
「飲み物を持ってきたんだけど、どこに置けばいい?」
返事はすぐには来なかった。しばらくしてセラが床の近くにある低い台を指した。
「そこ」
「うん」
リヴィアは言われた通りにそこへ盆を置き、それから数歩下がった。
「飲みたくなったら飲んでね」
セラは答えず、ニナも動かない。エリンはセラの後ろからこちらを見ている。
リヴィアはさらに離れて少し待ってみたが、誰も器へ手を伸ばさなかった。
困った。近づかない方がよいことは分かった。ではこのまま飲まなかったらどうするのだろう。無理に飲ませるのは違う気がするが、水分を取らなくてもよいわけではない。
分からない時は聞けばいい。
部屋を出るとヘレナはすぐ近くにいた。
「ヘレナ助祭。飲み物を置いたんですけど、誰も飲まなくて。このまま置いておいていいですか?」
「今すぐ飲ませなくて構いません。少し時間を置いてください。しばらくしても全く飲まないようならまた声をかける。それでも水分を取らない状態が続くなら知らせてください」
「分かりました」
聞いてみれば特別難しい話ではなかった。けれど自分だけで考えていたら、もう一度近づいて声をかけていたかもしれない。それが正しかったかどうかは分からない。だから聞いた。
リヴィアはもう一度部屋へ戻った。先ほど置いた盆はそのままで、三人の様子も大きく変わっていない。
セラはまた扉の方を見たあとリヴィアを見る。ニナはほとんど動かず、エリンもセラのそばにいる。
それでもリヴィアの中では少しだけ印象が変わっていた。話を聞いていた時には対応が難しい子供たちだと思っていたが、実際に会ってみれば少なくとも今は暴れてもいないし、誰かへ危害を加えてもいない。ただずっとこちらを警戒している。
セラは特にそうだった。扉や窓、大人を見るたびに、年下の二人にも目を向ける。
逃げたいだけなら二人の様子まで何度も確かめる必要があるのだろうか。
たぶんと付けるのであれば予測はできる。
ただそれがあっているのか分からない。
けれど、それでよいのかもしれなかった。今日会ったばかりなのだから、急いで近づく必要はない。明日もここにいる。少なくとも明日になれば帰るというわけではない。
分からなければ見て、聞けばいい。
リヴィアは三人から少し離れた場所へ座った。セラが一度こちらを見るが、リヴィアは何も言わない。しばらくしてセラの視線はまた扉へ向かった。
リヴィアも同じ扉を見た。
今の自分にはまだその視線の意味は分からない。それでもこれから知っていけばよい。
そう思いながらリヴィアは静かにそこにいることにした。