白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
それから数日後、リヴィアは礼拝堂の後ろで、祈る人々を眺めていた。
朝の礼拝へ集まったのは、近所に住む十人ほどの男女だった。
アドリアンが経典を開き、女神アマリヴィアへの祈りを読み上げる。その声に合わせて、人々は胸の前で手を組み、静かに頭を垂れた。
人々の身体は光っていない。
アドリアンも、木製の長椅子も、白く塗られた壁の大部分も、普通に見えている。
けれど、何も光っていないわけではなかった。
祈りが続くうちに、組まれた指の間や伏せられた顔の近くから、ごく淡い光がにじむことがある。光はすぐに薄くほどけ、足元や長椅子の縁へ残った。
祭壇の周りには、さらに多くの光が重なっている。
床の一部には細い筋があり、女神像の足元には霞のような光が漂う。祭壇の近くに置かれた儀式用の道具にも、淡い光が残っていた。アドリアンが読み上げている厚い経典も、頁の端と表紙の紋章が淡く輝いていた。
一方、リヴィアへ読み聞かせてくれる薄い教話集には、その光がない。
よく使われる物だから光るのか。
それとも、大切な本だから光るのか。
まだ分からない。
リヴィアは目を細めた。
前の世界の記憶がつながってから、今まで当たり前だった光が、急に不思議なものへ変わっていた。
自分の手は光っていない。
けれど、隣に立つ大人たちも同じだった。淡い光がにじんでも、人の身体そのものが光っているわけではない。光は、何かをした時に現れ、使われた場所や特別な道具へ残るのだろう。
少なくとも、今のリヴィアにはそう思えた。
礼拝が終わると、人々は順にアドリアンへ挨拶し、教会を出ていった。
人が長椅子から立ち、扉へ向かって歩くたび、床や長椅子の近くに残っていた淡い光も揺れた。足や衣服の裾が触れたところから形を崩し、細く伸びたり、周囲へ薄く広がったりしていく。人が通り過ぎた後には、それまでまとまって見えていた光が少し散っていた。
最後の一人が扉を閉じてからも、祭壇の周囲には薄い光が残っていた。
「リヴィア。今日は文字の続きをしましょうか」
「はい」
アドリアンが経典を閉じた時、正面入口が強く叩かれ、続いて男の苦しそうな声が聞こえた。
「神父さま、いらっしゃいますか」
アドリアンの表情が変わった。
「誰か来たようです。少し見てきます」
アドリアンは早足で入口へ向かい、切迫した声が気になったリヴィアも少し遅れてその後を追った。
扉の外にいたのは、何度か礼拝で見たことのある木工職人だった。
隣家の男に肩を借り、左腕を胸元へ抱えている。前腕には布が巻かれていたが、その布は赤く染まり、端から血がにじんでいた。
「作業中に刃が滑ったそうです」
付き添いの男が説明する。
「医師のところへ向かう途中でした。けれど血がなかなか止まらなくて、こちらの方が近かったので、まず診てもらえないかと」
「私はこのまま医師へ行けばいいと言ったんですが、こいつが聞かなくて」
職人は痛みをこらえながら、付き添いの男を見た。
「止血だけでもしてもらった方がいいだろう」
「まず中へ」
アドリアンは二人を礼拝堂脇の小部屋へ案内した。
そこは、以前リヴィアが熱を出した時にも使ったことのある部屋だった。棚には清潔な布や薬が並び、中央に簡素な寝台と机が置かれている。
アドリアンが職人を椅子へ座らせ、巻かれた布を慎重に外すと、前腕の外側に長い傷が現れた。
リヴィアは思わず息を詰めた。これほどの傷を間近で見た覚えはなかった。
血は流れているが、噴き出してはいない。指を動かすように言われると、職人は顔をしかめながらも、すべての指を曲げ伸ばしできた。
「痺れはありますか」
「ありません。痛いだけです」
「刃は欠けていませんでしたか」
「たぶん、大丈夫です」
「たぶんでは困ります」
アドリアンは厳しい声を出したが、手つきは落ち着いていた。
水で傷を洗い、付着した木屑や汚れを確かめる。清潔な布を押し当て、出血が弱まるまで待つ。
リヴィアは少し離れたところから見ていた。
自分も何かした方がよいのではないかと思う。
けれど、傷へ不用意に近づけば邪魔になる。
「神父さま。お手伝いはありますか」
アドリアンは一度こちらを見た。
「棚の下から、新しい布を二枚持ってきてください。傷には触れないように」
「はい」
リヴィアは言われた棚へ向かい、畳まれた布を両手で運んだ。
アドリアンは礼を言い、一枚を机へ置き、もう一枚で傷の周囲の水分を拭った。
傷をもう一度確かめた後、職人へ視線を戻す。
「深い部分までは達していません。縫わずに済むでしょう。ただ、傷が長い。このままでは塞がるまで、しばらく仕事へ戻れません」
職人の表情が曇った。
指は動く。けれど、傷が開かないよう左腕を休ませるなら、木材を押さえることも、道具を支えることも難しい。
「治癒器を使います」
アドリアンが告げると、職人は驚いたように顔を上げた。
「そこまでしていただくほどの傷ではありません」
「軽い傷ではありません。命に関わらないというだけです」
「ですが、あれは教会の大切な道具でしょう。使える回数にも限りがあると聞いています。私などのために、石まで使っていただくのは……」
職人は左腕へ目を落とした。
「何日か休めば治るのでしたら、それで構いません」
「何日で済むかは分かりません」
アドリアンは傷の周囲をもう一度確認した。
「治癒器を使っても、今日から働けるわけではありません。少なくとも数日は腕を休めてもらいます。ただ、使わなければ、その期間はさらに延びます」
「それは……」
「仕事を休む日が増えれば、あなた一人の問題では済まないでしょう。家の者にも、工房の者にも負担がかかります」
職人は答えなかった。
アドリアンは、責める様子もなく続けた。
「治療に使うために、この教会へ置かれている器具です。貴重だからと必要な時にも使わず、治るまでの苦労を増やしては意味がありません」
「ですが、神父さまのお力も使うのでしょう」
「私の疲労まで、あなたが心配する必要はありません」
静かな声だった。
職人はしばらく迷った後、それ以上は断らず、傷をかばいながら深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせてください」
「はい。では、動かずに待っていてください」
アドリアンは壁際の戸棚から鍵を取り出した。
中から、小さな木箱を慎重に運び出す。
机の上で蓋を開けると、内部には金属製の板と、それを囲む細い枠が収められていた。端には透明な覆いのある窪みがあり、その中へ小さな石を収められるようになっている。
器具そのものには、ほとんど光がなかった。
アドリアンが別の箱から取り出した石には、器具とは対照的に、淡いながらもはっきりとした光が宿っていた。
「リヴィア。もう少し下がっていてください」
「危ないのですか」
「正しく使えば問題ありません。ですが、治療中の器具へ子供が近づく必要はありません」
「分かりました」
リヴィアは壁際まで下がった。
アドリアンは石を器具の窪みへ入れ、透明な覆いを閉じた。それから職人の腕を金属板の上へ置き、傷の位置に合わせて細い枠を動かす。
「動かさないでください」
職人がうなずく。
アドリアンは器具の端へ右手を添えた。
その瞬間、光が増した。
それまで光っていなかったアドリアンの指先に、淡い輝きが集まる。
光は掌を通って器具へ流れ込んだ。窪みに収められた石が強く輝き、金属板の表面に刻まれていた細い筋が、一つずつ浮かび上がる。
眩しい。
リヴィアはさらに目を細めた。
目を逸らせば、少しは楽になる。それでも、光の中で何が起きるのか確かめたくて、顔までは背けなかった。
光は器具の中を巡り、枠に囲まれた傷へ集まっていく。
職人の腕そのものが光っているのではない。傷口と、その周囲だけが白く霞んで見えた。
祭壇の周りに残っていた淡い光は、動かなかった。
礼拝用の経典にまとわりつく光も、その場に残っている。
器具へ流れているのは、石とアドリアンの手から出た光だけだった。
なぜ違うのかは分からない。
考えている間にも、傷の縁が少しずつ寄っていく。
すべてが消えるわけではない。長い赤い線は残り、周囲の皮膚も腫れている。それでも出血は止まり、先ほどより浅い傷に見えるようになった。
器具の光が弱まった。
アドリアンが手を離す。
石は、取り出した時より明らかに暗くなっていた。
アドリアンも一度深く息を吐き、指を軽く握ってから開いた。
「今日はこれで十分です」
「もう痛みがだいぶ違います」
「治ったわけではありません」
アドリアンは新しい布と包帯で傷を覆った。
「少なくとも数日は、その腕で仕事をしないでください。熱が出る、痛みが強くなる、傷の周りが赤く広がる。そのどれかがあれば医師へ。器具を使ったからといって、汚れや病まで消えるわけではありません」
「分かりました」
職人は何度も礼を言った。
付き添いの男とともに教会を出るまで、アドリアンは同じ注意を二度繰り返した。
* * *
扉が閉じると、礼拝堂は再び静かになった。
職人の傷が軽くなったことには、ほっとした。けれど、使う前より暗くなった石も、治療の後に深く息を吐いたアドリアンの様子も気になった。
小部屋には、治療の後の光が残っている。
職人が座っていた椅子の近くと、器具の金属板、アドリアンの右手に、ごく淡い輝きがまとわりついていた。
やがて消えていくのだろう。
祭壇や経典の光は、それよりも古く、薄いものが何度も重なっているように見えた。
アドリアンは使用済みの石を取り外し、器具を布で拭いている。
布が金属板をなぞるたび、表面に残っていた淡い光も形を崩した。薄く引き延ばされるように広がっていく様子は、先ほど人々が歩くたびに床の光が散っていった時とよく似ていた。
「神父さま」
「どうしました」
「今のが、魔法ですか」
アドリアンの手が止まった。
驚いたようだったが、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「ええ。治癒魔法と呼ばれるものです」
「神父さまが使ったのですか」
「私一人で使ったわけではありません」
アドリアンは、拭き終えた器具を示した。
「この治癒器が、魔力を傷の回復へ使える形に整えます。先ほどの石にも魔力が蓄えられています。私は器具を動かし、傷へ合わせるために、自分の魔力を加えました」
「石にも、魔力があるのですか」
「あります。魔力石といいます。厨房の加熱器具や照明にも使われています」
リヴィアは、部屋の奥にある照明器具へ目を向けた。
器具の内側にあるのは、治癒器へ入れた石より弱い、前から見えていた光だった。
「魔法は、火と水と、土と風ですか」
「よく覚えていましたね」
以前、髪と瞳の色について、短く教えてもらったことがある。
赤は火。青は水。黄は土。緑は風。
「神父さまは、黄色と緑です」
「私の髪は土、瞳は風の属性を示しています」
「さっきの魔法は、土ですか。風ですか」
「治癒器の働きは、どちらか一つの属性へ当てはめるものではありません。私の魔力を使いましたが、傷を治す形にしたのは器具です」
リヴィアは自分の髪を一房つまんだ。
赤は火。青は水。黄は土。緑は風。
それなら、白にも何かがあるはずではないだろうか。
先ほど傷を包んでいた光は、目を細めなければ見ていられないほど明るかった。
前の世界で見聞きした物語でも、白や光は、傷を治したり、悪いものを遠ざけたりする力と結びついていた気がする。
根拠があるわけではない。
それでも、自分の白い髪と瞳にも、あの力と似た意味があるのかもしれないと思った。
「白は、何の属性ですか」
アドリアンは答えなかった。
ほんの短い間だった。
けれど、普段ならすぐに返ってくる言葉が来ない。
視線が、リヴィアの髪から白い瞳へ移り、それからわずかに逸れた。
「白は、四大属性のどれにも当てはまりません」
やがて、慎重な声で答える。
「銀に近く見える色ではありますが、白と銀は同じではありません。あなたの力がどのようなものなのかは、まだ分かっていないのです」
「治す魔法でもないのですか」
尋ねた声は、自分で思っていたより小さくなった。
つまんでいた髪を離すと、白い髪は何の光も残さず肩へ落ちた。
「治癒魔法は、髪の色だけで使えるものではありません」
アドリアンの返答は優しかった。
それでも、リヴィアは少しだけ肩を落とした。
もしかしたら、自分にも人の傷を治せる何かがあるのではないか。
そう考えた時間は短かったが、その期待が外れたのは少し残念だった。
アドリアンは、その様子を見ていた。
「治癒器を扱うには、傷について学び、器具を動かす訓練を受けなければなりません」
「勉強すれば使えますか」
リヴィアはもう一度、わずかな期待を込めて尋ねた。
アドリアンは再び黙った。
先ほどより、少し長かった。
右手を見下ろし、次に暗くなった魔力石を見る。
「それだけではありません。器具を安定させるためには、扱う者自身の魔力も必要です」
アドリアンはそこで言葉を切り、リヴィアの顔を見てから、さらに慎重な声で続けた。
「ですが、あなたが扱えないと決まったわけではありません。今は、まだ判断できないのです。もう少し大きくなり、あなたの祝福がどのように現れるか分かってから考えましょう」
できるとは言わなかった。
できないとも言わなかった。
けれど、アドリアンが答えに困っていることは分かった。
これは、詳しく聞かない方がよいことらしい。
リヴィアはそう判断した。
本当は、ほかにも聞きたいことがあった。
なぜ魔力は光って見えるのか。
アドリアンにも、同じ光が見えているのか。
どうして魔法を使った後も、傷や手に光が残るのか。
祭壇や礼拝用の経典にある光は、なぜ治癒器へ流れなかったのか。
なぜ、ほかの人は眩しそうにしないのか。
けれど、どの質問も、魔力や祝福の話につながりそうだった。
疑問は残った。それでも、これ以上アドリアンを困らせることの方が嫌だった。
「分かりました」
リヴィアがうなずくと、アドリアンは少しだけ安心したように見えた。
「まだ急ぐ必要はありません」
「はい、神父さま」
それ以上は尋ねなかった。
* * *
夜になると、礼拝堂の照明は落とされた。
普通の灯りがなくなっても、リヴィアの視界から光がすべて消えることはない。
祭壇の周囲には、朝の祈りが残したらしい淡い霞がある。
礼拝用経典の表紙には細い光がまとわりつき、小部屋では、昼間に治癒器を使った場所がかすかに輝いていた。
寝台脇の棚に置かれた幼児向け教話集は光っていない。
普通の本と、光る本。
普通の道具と、内側に光を持つ道具。
魔法を使う前には光らなかった人の手と、使った後に残る光。
違いは見える。
けれど、その意味を説明する言葉を、リヴィアはまだ持っていなかった。
文字を読めるようになれば、いつか自分で調べられるかもしれない。
そう考え、リヴィアは目を閉じた。
世界のすべてが光っているわけではない。
それでも、この世界には、彼女の知らない光があまりにも多かった。