白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない――   作:不明さん

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第5話 経典より先に

 午後の礼拝堂には、窓から差し込む光と、筆先が紙を擦る小さな音だけがあった。

 

 礼拝堂脇の小部屋で、リヴィアは机の上に置かれた紙を見下ろしていた。

 

 紙には、アドリアンが書いたリヴィアの名前と、その下にリヴィアが書き写した文字が並んでいる。

 

 最初の一つがアドリアンの手本で、その隣はリヴィアが最初に書き写したものだった。

 

 形は似ているが、線の長さも傾きも少しずつ違う。三つ目は、自分が最初に書いたものよりましで、四つ目は途中で線が曲がっている。

 

 一度で上手く書けるとは思っていない。

 

 どこが違うのか分かれば、次は直せる。

 

 リヴィアは紙と手本を見比べ、もう一度、細い筆を持ち直した。

 

 向かい側に座るアドリアンは、先ほどから何度か目元へ指を当てていた。

 

 リヴィアが文字を書く間に目を閉じ、筆が止まると顔を上げる。返事が遅れるほどではないが、普段より瞬きが長い。

 

 職人を治療した後、深く息を吐いていた時のことを思い出した。

 

 昨夜もアドリアンは遅くまで起きており、リヴィアが夜中に目を覚ました時、廊下の先には明かりが残っていた。

 

 何の仕事をしていたのかは知らない。

 

 尋ねても、「教会の仕事です」と答えるだけだろう。

 

「神父さま」

 

「どうしました」

 

「この字は、これで合っていますか」

 

 書いたばかりの文字を示す。

 

 アドリアンは紙を見て、少し考えてから答えた。

 

「最後の線を、もう少し短くするとよいでしょう」

 

「ここですか」

 

「ええ。ですが、疲れたのなら、今日はここまでにして構いません」

 

 リヴィアは文字ではなく、アドリアンの顔を見た。

 

「今日は終わりにします」

 

「もう疲れましたか」

 

「いいえ」

 

 リヴィアは首を横へ振った。

 

「神父さまが疲れています」

 

 アドリアンは一度、言葉を止めた。

 

「私は大丈夫です」

 

「昨日も遅くまで起きていました」

 

「気づいていたのですか」

 

「明かりがついていました」

 

 リヴィアが答えると、アドリアンは目を伏せた。

 

 否定する言葉を探しているように見えたが、すぐには何も言わなかった。

 

「続きは明日でもできます」

 

「そうですね」

 

 しばらくして、アドリアンは認めた。

 

「では、今日はここまでにしましょう」

 

「神父さまも休んでください」

 

「少しだけ休みます」

 

 アドリアンは机の上の紙と筆を整え、リヴィアが書いた練習用紙だけを渡した。

 

「部屋で静かに過ごしていられますか」

 

「はい」

 

「何かあれば、必ず呼んでください」

 

「分かりました」

 

 アドリアンは小部屋を出て礼拝堂の奥にある自分の居室へ向かい、リヴィアも練習用紙を持って自室へ戻った。

 

 扉を閉める時も、音を立てないよう慎重に手を添える。

 

 これで、アドリアンは眠れるだろう。

 

 リヴィアは低い机の前へ座り、練習用紙を広げた。

 

 授業は終わったので、新しい文字を書くつもりはない。

 

 手本と自分の文字を見比べ、最後の線がどれくらい長いのかを目で確かめる。指先で紙の上をなぞるだけなら、アドリアンへ質問する必要もなかった。

 

 部屋は静かだった。

 

 窓から差し込む光が床の上へ伸び、棚に置かれた教話集の表紙を照らしている。

 

 しばらく紙を眺めていると、窓の近くで何かが動いた。

 

 薄茶色の羽を持つ、小さな蛾だった。

 

 窓から入ったのか、扉を開けた時に紛れ込んだのかは分からない。

 

 蛾は壁の近くを不規則に飛び、窓枠の下へ止まった。

 

 リヴィアは蛾を見上げた。

 

 放っておいても、すぐに害はない。

 

 けれど、このままでは外へ出られないかもしれない。夜になれば照明の周りを飛び、結局アドリアンが追い出すことになるだろう。

 

 呼べば、すぐに来てくれる。

 

 だが、アドリアンはようやく休んだところだった。

 

 蛾一匹のために起こす必要はない。

 

 この程度なら、自分でできる。

 

 リヴィアはそう考え、音を立てないよう椅子から降りた。

 

 部屋の隅には、掃除や片づけに使う道具が収められている。そこから、空の素焼きの小鉢と、書き損じた紙を一枚取った。

 

 小鉢を蛾の上からかぶせ、その下へ紙を差し込めば、外まで運べるはずだった。

 

 前の世界でも、虫を外へ出す時に似た方法を使った気がする。

 

 蛾は、まだ窓枠の下に止まっている。

 

 今なら届きそうだった。

 

 リヴィアが近づくと、蛾は羽を動かし、少し高い場所へ移った。

 

 窓枠の上だった。

 

 手を伸ばせば届くように見える。

 

 リヴィアは小鉢と紙を一度床へ置き、近くにあった低い椅子を運んだ。

 

 床を引きずれば音が出るため、両手で少しずつ持ち上げる。今の身体には軽くなかったが、運べないほどではない。

 

 窓の下へ置き、ぐらつかないことを確かめた。

 

 左手に小鉢を持ち、右手に紙を持ったまま椅子へ上る。

 

 目の高さが窓枠へ近づいた。

 

 蛾までは、あと少しである。

 

 小鉢を持った左腕を伸ばす。

 

 届く。

 

 そう思ったが、小鉢の縁は蛾の少し下を通った。

 

 リヴィアはさらに身体を伸ばした。

 

 前なら、これくらいは簡単に届いたはずだった。

 

 蛾が急に羽を広げた。

 

 顔の前へ飛んでくる。

 

 リヴィアは反射的に身を引き、同時に、逃がすまいと小鉢を持った手を伸ばした。

 

 足元の椅子が傾いた。

 

 身体が横へ流れる。

 

 踏み直そうとした足は、記憶にあるより短かった。

 

 右手から紙が落ち、そのまま床へ手をついた。

 

 掌に鋭い痛みが走り、片膝を石床へ打ちつけた。

 

 手から離れた素焼きの小鉢は床へ落ち、いくつもの破片へ割れた。

 

 硬い物が砕ける音が、部屋に響いた。

 

「リヴィア」

 

 アドリアンの声がした。

 

 すぐに扉が開き、足音が近づいてくる。

 

 リヴィアは身体を起こしかけたが、周囲に小鉢の破片があることへ気づいて動きを止めた。

 

 蛾は無事だった。

 

 少し離れた壁へ止まり、羽を閉じている。

 

 リヴィアは少しだけほっとしてから、アドリアンを見上げた。

 

「神父さま。小鉢を壊してしまいました」

 

 アドリアンは答えず、リヴィアと床の破片を素早く見回した。

 

「動かないでください」

 

「はい」

 

「どこを痛めましたか」

 

「手と、膝です」

 

 アドリアンは破片を避けて近づき、リヴィアの脇へ両手を入れると、そのまま身体を持ち上げて破片のない場所へ降ろした。

 

「歩けます」

 

「今は歩かなくて構いません」

 

 厳しい声だった。

 

 怒っているのかもしれない。

 

 けれど、アドリアンの視線は、リヴィアの顔ではなく、赤くなった右の掌へ向いていた。

 

 皮膚が擦れ、浅い傷から血がにじんでいる。

 

 膝も痛むが、立てないほどではなかった。

 

 アドリアンはリヴィアを抱えたまま礼拝堂脇の小部屋へ移り、椅子へ座らせて掌を水で洗った。

 

 傷の中に砂や石の欠片が残っていないかを確かめ、清潔な布で水分を拭った。

 

「指は動かせますか」

 

 リヴィアは言われたとおり、指を曲げ伸ばしした。

 

「痛みますが、動きます」

 

「膝は」

 

「少し痛いです」

 

 アドリアンは衣服の裾を少し上げ、膝も確認した。

 

 皮膚は赤くなっているが、傷はない。

 

「大きな怪我ではありません」

 

 その言葉を聞いて、リヴィアは少しだけ息を吐いた。

 

 アドリアンは掌へ薬を塗り、細い布を巻いた。

 

 治癒器を取り出すことはなかった。

 

 あの器具は、これほど小さな傷へ使うものではないのだろう。

 

「何をしていたのですか」

 

 手当てを終えてから、アドリアンが尋ねた。

 

 先ほどより声は穏やかだった。

 

「蛾を外へ出そうとしました」

 

「蛾を」

 

「窓のところにいました。小鉢をかぶせて、紙を下へ入れれば、外まで運べると思いました」

 

 アドリアンはリヴィアの部屋の方へ目を向けた。

 

「そのために、椅子へ上ったのですか」

 

「はい」

 

「何かあれば呼ぶように言いましたね」

 

 リヴィアは少し迷った。

 

 隠すようなことではない。

 

「蛾だけなら、自分でできると思いました」

 

「私を呼べなかった理由は、それだけですか」

 

「神父さまを起こしたくありませんでした」

 

 アドリアンは何も言わなかった。

 

 困った時の沈黙ではない。

 

 何と説明するかを考えているように見えた。

 

「蛾を殺さず、外へ出そうとしたことは間違いではありません」

 

 やがて、アドリアンが言った。

 

「小鉢を壊したことを自分から伝え、怪我についても隠さず答えたのは正しい行動です」

 

「はい」

 

「ですが、私を呼ばなかったことは正しくありません」

 

 リヴィアは巻かれた掌を見た。

 

「起こしたら、神父さまが休めません」

 

「今、私はあなたの手当てをし、割れた小鉢を片づけなければなりません」

 

 アドリアンは責める口調ではなかった。

 

「初めに呼ばれて蛾を外へ出すより、長い時間がかかります」

 

「……はい」

 

「あなたが怪我をすれば、眠っているよりも私は心配します」

 

 それは、そのとおりだった。

 

 リヴィアはアドリアンを休ませようとした。

 

 けれど、結果として起こしただけでなく、手当てと片づけまで増やしている。

 

「頼ることは、迷惑をかけることではありません」

 

 アドリアンは続けた。

 

「自分でできることを増やすのは大切です。しかし、できるか分からないことまで一人で行う必要はありません」

 

「できると思いました」

 

「そうでしょうね」

 

 否定されなかったため、リヴィアは顔を上げた。

 

 アドリアンは、わずかに困ったような表情をしていた。

 

「では、椅子や台へ上る時には、必ず私を呼んでください」

 

「手が届かない時ですか」

 

「手が届かない時に、届かせようとする前です」

 

「分かりました」

 

「私を休ませたいと思うなら、あなたが怪我をしないことも手伝いの一つです」

 

 リヴィアはもう一度、掌の布を見た。

 

「次は、先に呼びます」

 

「そうしてください」

 

 アドリアンはようやく、少しだけ表情を緩めた。

 

「膝も痛むでしょう。しばらくここで休んでいなさい」

 

「片づけは」

 

「私がします」

 

「蛾は」

 

「外へ出します」

 

 アドリアンは立ち上がり、小部屋を出る前に一度振り返って、リヴィアへ念を押すような視線を向けた。

 

 その視線を受け、リヴィアは動かずに座っていた。

 

     * * *

 

 アドリアンがリヴィアの部屋へ戻ると、蛾はまだ壁に止まっていた。

 

 アドリアンが窓を開け、折った紙で進む方向を変えると、蛾は何度か壁と窓枠の間を飛び、やがて開いた窓から外へ出ていった。

 

 アドリアンは割れた小鉢の破片を大きなものから先に拾い集め、細かな欠片が残っていないか、床へ近づいて確認した。

 

 椅子は窓の下に置かれている。

 

 近くには、虫を捕まえるために持ってきた紙が落ちていた。

 

 方法そのものは間違っていない。

 

 蛾が低い位置に止まったままなら、リヴィアは小鉢をかぶせ、紙で蓋をして、何事もなく外へ運んだのだろう。

 

 自分が眠っていなければ、椅子を運ぶ前に気づけた。

 

 アドリアンは最後の破片を布へ包んだ。

 

 リヴィアは、以前から虫を面白半分で殺す子供ではなかった。

 

 まだ今ほど言葉を話せなかった頃、中庭の隅でしゃがみ込んでいたことがある。

 

 何をしているのかと近づけば、落ち葉の上に、丸くなったマルムシが乗っていた。

 

 リヴィアはそれを庭の土へ運び、葉を傾けて下ろした。

 

「なぜ移したのですか」

 

 そう尋ねると、幼いリヴィアは石敷きの道を指さした。

 

「ふまれる」

 

 短い答えだった。

 

 マルムシが踏まれることを悲劇として大げさに捉えていたわけではない。

 

 ただ、踏ませる必要がないから移した。

 

 それだけの様子だった。

 

 水差しを倒した時も隠れず、濡れた袖のままアドリアンのところへ来て、最初に「こぼしました」と告げた。

 

 食事の器を欠けさせた時も同じだった。

 

 叱られないための理由を探すより先に、何をしたかを伝えた。

 

 アドリアンが疲れている時には、普段なら読んでほしい本を持ってくる時間になっても、少し離れた場所で一人で絵を眺めていた。

 

 誰かに命じられたわけではない。

 

 経典の言葉を理解して、教えに従ったわけでもなかった。

 

 今日も同じだ。

 

 害のない虫を殺さず、自分にできることをしようとした。

 

 アドリアンの疲労へ気づき、起こさずに済ませようとした。

 

 失敗すれば、壊した物を自分から伝え、怪我についても隠さず答えた。

 

 善意だけでは、安全な結果にならない。

 

 今日の行動は、手放しに褒められるものではなかった。

 

 それでも、その始まりに悪意がなかったことを、アドリアンは知っている。

 

 片づけを終え、机の上に残された練習用紙へ目を向ける。

 

 不揃いな文字が並んでいる。

 

 一つ書くたび、手本との差を確かめていた。教えられた形を覚えるだけでなく、違いを探し、次へ直そうとしている。

 

 眠っている自分を起こさず、手近な道具を選び、音を立てないよう椅子を運んだ。

 

 失敗した後も、破片の中でむやみに動かなかった。

 

 尋ねれば、したことを順に説明した。

 

 観察する力がある。

 

 状況に合わせて手段を選ぶ。

 

 失敗しても取り乱さず、事実を隠さない。

 

 教えれば、さらに伸びるだろう。

 

 そう考えた瞬間、アドリアンは紙から目を逸らした。

 

 かつて、自分は同じように子供を見ていた。

 

 周囲をよく見る者。

 

 物音を立てずに動ける者。

 

 手近な道具から方法を考えられる者。

 

 失敗を隠さず報告できる者。

 

 教義保全院で使える資質を探し、見つけ、育ててきた。

 

 蛾を殺さずに逃がそうとした子供の行動を、人を欺き、秘密を探る技術へ置き換えて考えている。

 

 そのことへ気づき、胸の奥に重いものが残った。

 

 机の端に置かれた礼拝用の経典に、アドリアンは手を置いた。

 

 経典には、生命を慈しむことが記されている。

 

 過ちを偽らず認めること。

 

 弱い者をいたわること。

 

 自分の持つものを、困っている隣人のために使うこと。

 

 リヴィアは、まだその文章を読めない。

 

 読み聞かせた話も、すべてを理解しているわけではないだろう。

 

 それでも、その言葉の意味を十分に理解し、意識して従うようになるより先に、リヴィアはその教えに近いものを持っていた。

 

 一方で、強い魔力を持ち、女神から大きな祝福を与えられたとされる者たちがいる。

 

 その中には、自分の都合を宗教上の緊急事態と言い換え、他者へ監視や排除を命じる者もいた。

 

 祝福の強さが、女神の意思に近いことを示すのだとすれば、魔力の気配をほとんど感じ取れないリヴィアの善良さは、どこから来たのか。

 

 アドリアンには答えられなかった。

 

 経典が間違っていると断じることもできない。

 

 魔力が祝福ではないと言い切る根拠もない。

 

 ただ、魔力の大きさと、その者が教えを守ることは、同じではない。

 

 その疑いだけは、以前よりも明確になっていた。

 

 小部屋の方へ目を向ける。

 

 リヴィアは言いつけどおり休んでいるのだろう。物音は聞こえない。

 

 あの子の善意を守りたい。

 

 そう思う一方で、その観察力や理解力を、教義保全院のために使えるのではないかと考えた自分もいる。

 

 経典より先に、リヴィアはそこに記された教えに近いものを持っていた。

 

 では、その善意を何のために育てるのか。

 

 問われているのは、リヴィアではなかった。

 

 その子へ道を教える立場にいる、アドリアン自身だった。

 

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