白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない―― 作:不明さん
外へ出る前、アドリアンは必ずリヴィアのフードを整えた。
「少し下を向いてください」
「はい」
言われたとおりにすると、アドリアンの指が額の近くを通り、外套の布を前へ引いた。
視界の上側が少し狭くなる。
正面から見える白い髪は、これでほとんど隠れたはずだった。
すべてを隠しているわけではない。首元や頬の横には短い髪が残り、風が吹けばフードの隙間から見えることもある。
それでも、何も被らないよりは目立たない。
「苦しくありませんか」
「大丈夫です」
「前は見えますね」
「見えます」
アドリアンは布の位置をもう一度確かめ、ようやく手を離した。
蛾を逃がそうとして掌を擦った日から、半年以上が過ぎていた。
その間にリヴィアは、日常で使う短い文章なら一人で読めるようになり、知らない言葉の少ない文章なら、少し長くても時間をかけて意味を追えるようになっていた。文字の練習だけでなく、硬貨の種類や品物の値段、重さと量、店での頼み方も教わっている。
教会の中だけで覚えられることではないため、アドリアンは何度かリヴィアを街へ連れ出した。
今日も食料を買うついでに、店で硬貨を数える練習をする予定だった。
リヴィアは、アドリアンから渡された硬貨の入った小さな財布を両手で持った。
「今日は何を買うんですか」
「豆と穀物を少し。それから、状態のよい果物があれば見てみましょう」
「私が払ってもいいですか」
「金額を間違えなければ」
「間違えたらどうしますか」
「店の方へ謝り、数え直してください」
アドリアンはそう答えて、教会の扉を開いた。
外は晴れていた。
季節は暖かい方へ移り始めていたが、朝の空気にはまだ冷たさが残っている。
リヴィアはアドリアンと並んで歩きながら、片手でフードの縁へ触れた。
寒さのためだけなら、ここまで深く被せる必要はない。
街へ出る時、アドリアンはいつも同じことをした。
白い髪は、あまり見せない方がよいらしい。
理由を聞こうと思ったことはある。
けれど、アドリアンが魔力や髪の色について話す時には、言葉を慎重に選ぶことを知っていた。
聞けば困らせるかもしれない。
今のところ、フードを被ることで困ることもない。
そのため、リヴィアは尋ねずにいた。
南東地区の通りには朝から多くの人が行き交い、店先には籠や木箱が並び、野菜、果物、乾燥させた豆、穀物の袋などが積まれていた。
魔力石を使った看板や店内の器具が、リヴィアの目には光って見えた。
以前より慣れたとはいえ、光が消えたわけではない。
眩しさを避けるように目を細めながら、アドリアンの隣を歩く。
今日向かっている店は、南東地区の端に近い場所にあった。
通りをさらに進めば、貧しい住民が多く暮らす南西地区へ入るという。
店を営んでいるのは、ふくよかな中年の女性だった。
リヴィアが初めて硬貨を使った時には、数えるのに時間がかかっても急かさずに待ってくれた。
以前、少し傷のある果物を見つめていた時には、売り物にしにくいものだからと一つ持たせてくれたこともある。
いつも笑顔で話しかけてくれる、優しい店のおばさんだった。
店が見えてくる。
店先には、一人の子供が立っていた。
リヴィアより少し年上に見える。
身体に合っていない古い上着を着て、頭には色あせた布を巻いていた。足元の靴も傷んでいる。
子供は店先に並ぶ品物の中から、小さな袋に入った豆を指した。
「これをください」
声は小さかった。
片手には、硬貨が握られている。
店の女性は、子供が指した袋を見た。
「それなら、その金で足りるよ」
いつもと同じ声だった。
子供は少し安心したように、握っていた硬貨を差し出した。
その拍子に、頭へ巻いていた布がずれた。
隙間から現れた髪は、黒かった。
女性の手が止まった。
先ほどまで顔にあった笑みが消える。
「その金はしまいな」
子供の手は、硬貨を差し出したままだった。
「でも、足りるって」
「あんたに売るものはないよ」
女性は豆の袋を引き寄せ、子供から遠ざけた。
足りると言ったばかりなのに、なぜ急に売ってもらえなくなったのか分からなかった。
「南西へ戻りな。黒髪を店先に立たせて、騒ぎでも起こされたら困るんだよ」
「騒ぎなんて起こしません」
「どうだかね。ほかの客が寄りつかなくなる前に行っておくれ」
子供は硬貨を握りしめた。
その身体の近くで、店先の光に紛れていた淡い輝きが、わずかに強く揺れた。
何かを言おうとして、口を開く。
けれど、その視線が店の女性を越え、こちらへ向いた。
アドリアンの司祭服を見たらしい。
子供の顔が強張った。
アドリアンが眉間に浅い皺を寄せる。
片手を上げ、子供へ何かを言おうとした。
その言葉が出るより先に、子供は身を翻した。
「待ちなさい」
アドリアンの声が追う。
子供は振り返らず、人の間を抜けて、南西地区へ続く通りの方へ走っていく。
リヴィアも追いかけることはできず、子供が消えた通りを見ることしかできなかった。
アドリアンは子供が走り去った方へ一歩踏み出したが、すぐに足を止めた。
伸ばしかけた手を下ろし、子供が消えた通りを見つめている。
いつもの穏やかな表情ではなかった。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えない。
何かを言わなければならないのに、どの言葉を選べばよいのか分からない時の顔に見えた。
リヴィアは尋ねようとして、やめた。
神父でも、すぐにはどうにもできないことなのかもしれない。
「あら、神父さま」
店の女性の声が明るくなった。
先ほどまで子供へ向けられていたものとは違う声だった。
「今日はリヴィアちゃんも一緒ですか」
「ええ」
「お買い物の練習かい。偉いねえ」
女性は、いつもの笑顔でリヴィアを見た。
その笑顔が嘘だとは思えなかった。
以前、硬貨を落とした時に一緒に拾ってくれた。
雨の日に訪れた時には、身体が冷えてはいけないと温かい飲み物を出してくれた。
教会で風邪をひいたと聞けば、次に会った時、もう元気になったのかと心配してくれた。
そのどれも、本当にリヴィアを気遣ってくれたものだった。
けれど、黒髪の子供へ向けた言葉も、同じ人の口から出た。
リヴィアは足元へ目を落とした。
視界の端に、自分の外套が見える。
白い髪を見えにくくするためのフード。
もしこれがずれたら、店のおばさんはどんな顔をするのだろう。
自分の髪は黒くない。
それでも、アドリアンは目立たないようにしている。
先ほどの子供も、頭へ布を巻いていた。
理由は同じなのだろうか。
「どうしたんだい、リヴィアちゃん」
女性の声が少し低くなった。
「気分でも悪いのかい。顔を見せてごらん」
心配してくれている。
そのことが分かるため、リヴィアはますます何も言えなくなった。
大丈夫だと答えれば、先ほどのことを気にしていないように聞こえる。
どうしてあの子には売らなかったのかと聞けば、おばさんを責めることになる。
あの子がかわいそうだと言えば、先ほど言葉を選べずにいたアドリアンまで困らせるかもしれない。
リヴィアは小さな財布を握ったまま、俯いていた。
頭へ、温かい重みが置かれた。
アドリアンの手だった。
フードの上から、リヴィアの髪を覆うように置かれている。
「今日は戻りましょう」
アドリアンが言った。
「でも、豆が」
「別の日にします」
店の女性は困惑したように二人を見た。
「神父さま、本当に具合が悪いんじゃないですか」
「少し疲れたようです」
アドリアンはリヴィアの頭から手を離さなかった。
「ご心配ありがとうございます。また改めます」
店では何も買わなかった。
帰り道でも、リヴィアは黒髪の子供について尋ねられないままだった。
アドリアンは普段よりゆっくり歩き、通りを渡るたびに振り返って、リヴィアへ視線を向けた。
それ以外は何も言わなかった。
教会へ戻ると、アドリアンは正面の扉を閉じ、リヴィアの外套を脱がせて、フードの中に入っていた白い髪を手で整えた。
それから、自分の外套も壁へ掛けた。
「先ほどの子供について、聞きたいことがあるのでしょう」
リヴィアは顔を上げた。
「聞いてもいいんですか」
「ええ」
「でも、神父さまも困っているように見えました」
アドリアンは少しだけ目を伏せた。
「困っていることと、あなたが尋ねてはいけないことは同じではありません」
リヴィアは小さくうなずいた。
二人は礼拝堂脇の小部屋へ移り、机を挟んで座った。
アドリアンはすぐには話し始めなかった。
教える内容を選ぶ時と同じように、言葉を選んでいるように見えた。
「黒い髪を持つ者は、堕ちた神の影響を受けていると教えられています」
「堕ちた神」
「人を害する存在です」
リヴィアは、幼児向けの教話集で聞いた話を思い出した。
女神アマリヴィアへ背き、人の間へ争いや苦しみを持ち込んだ存在。
詳しいことまでは教わっていない。
「黒髪の者が持つ黒の魔力は、人を傷つけることがあります」
「みんなですか」
「いいえ」
アドリアンはすぐに否定した。
「本人の意思で抑えることもできます。ただ、危険がないとは言い切れないため、警戒されています」
リヴィアは、店先にいた子供を思い浮かべた。
古い服。
差し出された硬貨。
遠ざけられた豆の袋。
「あの子も、誰かを傷つけたのですか」
アドリアンは答えなかった。
分からないことを、どう説明するか考えているようだった。
「……分かりません」
「おばさんは知っていたんですか」
「おそらく、知らなかったでしょう」
「黒い髪だったから、売らなかったんですか」
「そうだと思います」
リヴィアは机の上へ視線を落とした。
礼拝堂から淡い光が差している。
長く使われてきた経典や祭壇に残る光だった。
「神父さま」
「何ですか」
「人の子は、みんな女神さまがつくったんですよね」
「そう教えられています」
自分の白い髪と、街へ出るたびに深く被せられるフードのことが頭に浮かんだ。
「私もですか」
アドリアンは一瞬だけ答えを止めた。
「ええ。あなたも人の子です」
「あの子も、人の子ですよね」
「……ええ」
「なら、あの子も女神さまの子ですか」
アドリアンは動かなかった。
リヴィアは、聞いてはいけないことだったのかと思った。
けれど、アドリアンは質問してよいと言った。
「女神さまの子なら」
リヴィアは続けた。
「おなかがすいた時に、食べものを買ってもいいんじゃないですか」
アドリアンの視線が、机の上からリヴィアへ戻った。
何かを否定しようとする顔でも、正しい答えを知っている顔でもなかった。
「私は、間違っていますか」
「いいえ」
アドリアンは静かに答えた。
「少なくとも、あなたの問いを間違いだとは言えません」
「では、どうして売ってもらえなかったんですか」
今度は、長い沈黙があった。
「警戒することと、食べ物を売らないことは、本来は別の問題です」
「別なんですか」
「そのはずです」
アドリアンの言葉には、普段にはない曖昧さがあった。
「ですが、私は今まで、その二つを分けて考えていなかったのかもしれません」
「神父さまもですか」
「ええ」
アドリアンは否定しなかった。
「確認しなければならないことがあります」
リヴィアは、また困らせてしまったのではないかと思った。
「ごめんなさい」
「なぜ謝るのですか」
「難しいことを聞きました」
「難しいから聞いてはいけないわけではありません」
アドリアンは、先ほど街で置いたのと同じように、リヴィアの頭へ手を置いた。
今度はフードを挟まず、直接白い髪に触れる。
「これは、私が考えなければならないことです」
* * *
リヴィアを寝かせた後、アドリアンは礼拝堂奥の執務室へ入り、扉に鍵をかけて机上の明かりをつけた。
取り出したのは、現在のアマリヴィア教会で正式に使われている経典だった。
毎日の礼拝で使うものとは別の、注釈と参照箇所が記された一冊を開いた。
司祭として教えを説き、教義保全院長として異端や禁書を扱ってきた。
経典の内容を知らないわけではない。
それでも、すべての文章を一字一句記憶しているわけではなかった。
何より、今夜のような読み方をしたことがなかった。
アドリアンは、人の創造に関する箇所を開いた。
女神アマリヴィアは人の子を創り、生命を与えた。
人は互いを尊び、困窮する者へ手を差し伸べなければならない。
弱い者、傷ついた者、飢えた者を見捨てることは、女神が与えた生命を軽んじることにつながる。
何度も読んできた教えだった。
礼拝でも読み上げている。
リヴィアへ聞かせた幼児向け教話集も、その教えを子供向けに言い換えたものだ。
次に、黒髪と黒の魔力に関する箇所を探した。
黒の魔力は、堕ちた神の影響を受けた危険な力とされている。
その力は感情へ働きかけ、怒りや恐れを強め、加害への衝動を増幅することがある。
異常な漏出が確認された場合は教会へ報告し、必要に応じて監督と抑制を行う。
制御不能な力によって実害が生じた場合には、周囲を守るため拘束や隔離を行う。
危険性は否定できない。
アドリアン自身、黒の魔力によって人が傷つけられた現場を知っている。
抑制を失った者を拘束しなければ、さらに多くの犠牲が出ていた事例もあった。
警戒も、監督も、必要な対処だった。
だが、経典の文章を何度読み返しても、別の言葉は見つからなかった。
黒髪の者は人ではない。
女神アマリヴィアが創った人の子には含まれない。
空腹であっても食事を与えてはならない。
罪を犯していなくても、助けてはならない。
生命を慈しみ、隣人を救えという教えを適用してはならない。
そのような記述は、どこにもなかった。
黒の魔力を警戒し、危険な力へ対処せよとは書かれている。
その力を持つ者すべてを、危害を加える前から人として扱わなくてよいとは書かれていない。
アドリアンは経典から手を離した。
店先で豆を求めていた子供を思い出す。
代金は持っていた。
盗もうとはしていなかった。
店主へ暴言を返すことも、黒の魔力を使うこともなかった。
ただ、食料を買おうとした。
それでも、黒い髪が見えたという理由だけで追い払われた。
自分は止められなかった。
正確には、止める前に子供が逃げた。
司祭服を見て。
あの子供にとって、教会は助けを求める場所ではなかった。
姿を見ただけで逃げなければならない相手だった。
その恐れを、アドリアンは責めることができない。
教義保全院が扱う記録には、黒髪の子供と、その保護者や協力者に関する案件がいくつも存在した。
実際に黒の魔力が暴走した案件。
人命へ危険が迫り、緊急の対処が必要だった案件。
それらはあった。
だが、すべてが同じだったと言い切れるだろうか。
危険な行為を確認したから監視したのか。
黒髪の者を匿ったという理由だけで、危険な協力者と判断したことはなかったか。
黒の魔力による被害を防ぐことと、黒髪の子供を人の子から外すこと。
その二つを、教義保全院は正しく区別してきたのか。
アドリアン自身は、区別してきたのか。
答えは、すぐには出なかった。
だが、経典に書かれていないことだけは明らかだった。
経典の中に、黒髪の者を女神の慈愛から除外する言葉はない。
それでも、教会も社会も、自分たちも、黒髪の者だけを例外として扱ってきた。
書き記す必要すらないほど当然のこととして。
アドリアンは椅子へ深く座り直した。
リヴィアは難しい教義を論じたわけではない。
古い経典と現行経典を比較したわけでもない。
ただ、教わったことを順に並べた。
人の子は女神が創った。
黒髪の子供も人の子である。
ならば、その子も女神の子ではないのか。
あまりに単純な問いだった。
単純だからこそ、これまで誰も口にしなかったのかもしれない。
危険であることが当たり前だった。
警戒することも、管理することも、遠ざけることも、すべて同じものとして扱ってきた。
疑う理由がなかった。
アドリアンは閉じた扉の向こうへ目を向けた。
リヴィアは、もう眠っているだろう。
白い髪を目立たせないため、外へ出るたびにフードを被せている。
それが何を意味するのか、あの子は今日、以前より深く察したはずだった。
黒髪の子供を追い払った店主が、リヴィアへは心から優しくした。
人は、一人の相手へ慈愛を向けながら、別の相手を当然のように排除できる。
教会も同じではないのか。
救済を説きながら、救済の対象を自分たちで狭めている。
生命を尊べと教えながら、危険かもしれないという理由だけで、まだ何もしていない子供が救済から外されることを、当然のものとして受け入れている。
そして自分は、その教会の暗部を率いていた。
教義保全院は、教義と記録を守るための組織である。
少なくとも、そう定められている。
だが、経典にない例外を守り、その例外を疑う者を監視し、異なる記録を消しているのなら、自分は何を守っているのか。
教義保全院長を辞める。
その考えが、静かに浮かんだ。
これまでにも、疲労の底で似た思いを抱いたことはある。
命令を処理しきれない夜。
大司教の都合が透けて見える任務。
過去に育てた子供たちのことを思い出した時。
だが、それらは役目から逃れたいという疲れに近かった。
今夜は違った。
辞めれば、すべてが正しくなるわけではない。
自分が去った後、別の者が院長となる。
組織も命令も、そのまま残るかもしれない。
それでも、このまま何も疑わず命令を執行することはできなかった。
院長であり続けるなら、何を守る組織なのかを確かめなければならない。
確かめても変えられないのなら、その地位へ留まる理由を選び直さなければならない。
アドリアンは経典の表紙へ手を置いた。
黒髪の子供を女神の子ではないとする言葉は、どこにもなかった。
それでも教会は、長い間、その言葉が書かれているかのように振る舞ってきた。
そして自分は、その教会の暗部を率いている。
教義保全院長を退くという選択が、初めて逃避ではなく、進むべき道の一つとしてアドリアンの前に置かれていた。