白い少女はただ善く生きたい ――人々の瞳に映る少女は、ひとつではない――   作:不明さん

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第6話 女神の子

 外へ出る前、アドリアンは必ずリヴィアのフードを整えた。

 

「少し下を向いてください」

 

「はい」

 

 言われたとおりにすると、アドリアンの指が額の近くを通り、外套の布を前へ引いた。

 

 視界の上側が少し狭くなる。

 

 正面から見える白い髪は、これでほとんど隠れたはずだった。

 

 すべてを隠しているわけではない。首元や頬の横には短い髪が残り、風が吹けばフードの隙間から見えることもある。

 

 それでも、何も被らないよりは目立たない。

 

「苦しくありませんか」

 

「大丈夫です」

 

「前は見えますね」

 

「見えます」

 

 アドリアンは布の位置をもう一度確かめ、ようやく手を離した。

 

 蛾を逃がそうとして掌を擦った日から、半年以上が過ぎていた。

 

 その間にリヴィアは、日常で使う短い文章なら一人で読めるようになり、知らない言葉の少ない文章なら、少し長くても時間をかけて意味を追えるようになっていた。文字の練習だけでなく、硬貨の種類や品物の値段、重さと量、店での頼み方も教わっている。

 

 教会の中だけで覚えられることではないため、アドリアンは何度かリヴィアを街へ連れ出した。

 

 今日も食料を買うついでに、店で硬貨を数える練習をする予定だった。

 

 リヴィアは、アドリアンから渡された硬貨の入った小さな財布を両手で持った。

 

「今日は何を買うんですか」

 

「豆と穀物を少し。それから、状態のよい果物があれば見てみましょう」

 

「私が払ってもいいですか」

 

「金額を間違えなければ」

 

「間違えたらどうしますか」

 

「店の方へ謝り、数え直してください」

 

 アドリアンはそう答えて、教会の扉を開いた。

 

 外は晴れていた。

 

 季節は暖かい方へ移り始めていたが、朝の空気にはまだ冷たさが残っている。

 

 リヴィアはアドリアンと並んで歩きながら、片手でフードの縁へ触れた。

 

 寒さのためだけなら、ここまで深く被せる必要はない。

 

 街へ出る時、アドリアンはいつも同じことをした。

 

 白い髪は、あまり見せない方がよいらしい。

 

 理由を聞こうと思ったことはある。

 

 けれど、アドリアンが魔力や髪の色について話す時には、言葉を慎重に選ぶことを知っていた。

 

 聞けば困らせるかもしれない。

 

 今のところ、フードを被ることで困ることもない。

 

 そのため、リヴィアは尋ねずにいた。

 

 南東地区の通りには朝から多くの人が行き交い、店先には籠や木箱が並び、野菜、果物、乾燥させた豆、穀物の袋などが積まれていた。

 

 魔力石を使った看板や店内の器具が、リヴィアの目には光って見えた。

 

 以前より慣れたとはいえ、光が消えたわけではない。

 

 眩しさを避けるように目を細めながら、アドリアンの隣を歩く。

 

 今日向かっている店は、南東地区の端に近い場所にあった。

 

 通りをさらに進めば、貧しい住民が多く暮らす南西地区へ入るという。

 

 店を営んでいるのは、ふくよかな中年の女性だった。

 

 リヴィアが初めて硬貨を使った時には、数えるのに時間がかかっても急かさずに待ってくれた。

 

 以前、少し傷のある果物を見つめていた時には、売り物にしにくいものだからと一つ持たせてくれたこともある。

 

 いつも笑顔で話しかけてくれる、優しい店のおばさんだった。

 

 店が見えてくる。

 

 店先には、一人の子供が立っていた。

 

 リヴィアより少し年上に見える。

 

 身体に合っていない古い上着を着て、頭には色あせた布を巻いていた。足元の靴も傷んでいる。

 

 子供は店先に並ぶ品物の中から、小さな袋に入った豆を指した。

 

「これをください」

 

 声は小さかった。

 

 片手には、硬貨が握られている。

 

 店の女性は、子供が指した袋を見た。

 

「それなら、その金で足りるよ」

 

 いつもと同じ声だった。

 

 子供は少し安心したように、握っていた硬貨を差し出した。

 

 その拍子に、頭へ巻いていた布がずれた。

 

 隙間から現れた髪は、黒かった。

 

 女性の手が止まった。

 

 先ほどまで顔にあった笑みが消える。

 

「その金はしまいな」

 

 子供の手は、硬貨を差し出したままだった。

 

「でも、足りるって」

 

「あんたに売るものはないよ」

 

 女性は豆の袋を引き寄せ、子供から遠ざけた。

 

 足りると言ったばかりなのに、なぜ急に売ってもらえなくなったのか分からなかった。

 

「南西へ戻りな。黒髪を店先に立たせて、騒ぎでも起こされたら困るんだよ」

 

「騒ぎなんて起こしません」

 

「どうだかね。ほかの客が寄りつかなくなる前に行っておくれ」

 

 子供は硬貨を握りしめた。

 

 その身体の近くで、店先の光に紛れていた淡い輝きが、わずかに強く揺れた。

 

 何かを言おうとして、口を開く。

 

 けれど、その視線が店の女性を越え、こちらへ向いた。

 

 アドリアンの司祭服を見たらしい。

 

 子供の顔が強張った。

 

 アドリアンが眉間に浅い皺を寄せる。

 

 片手を上げ、子供へ何かを言おうとした。

 

 その言葉が出るより先に、子供は身を翻した。

 

「待ちなさい」

 

 アドリアンの声が追う。

 

 子供は振り返らず、人の間を抜けて、南西地区へ続く通りの方へ走っていく。

 

 リヴィアも追いかけることはできず、子供が消えた通りを見ることしかできなかった。

 

 アドリアンは子供が走り去った方へ一歩踏み出したが、すぐに足を止めた。

 

 伸ばしかけた手を下ろし、子供が消えた通りを見つめている。

 

 いつもの穏やかな表情ではなかった。

 

 怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えない。

 

 何かを言わなければならないのに、どの言葉を選べばよいのか分からない時の顔に見えた。

 

 リヴィアは尋ねようとして、やめた。

 

 神父でも、すぐにはどうにもできないことなのかもしれない。

 

「あら、神父さま」

 

 店の女性の声が明るくなった。

 

 先ほどまで子供へ向けられていたものとは違う声だった。

 

「今日はリヴィアちゃんも一緒ですか」

 

「ええ」

 

「お買い物の練習かい。偉いねえ」

 

 女性は、いつもの笑顔でリヴィアを見た。

 

 その笑顔が嘘だとは思えなかった。

 

 以前、硬貨を落とした時に一緒に拾ってくれた。

 

 雨の日に訪れた時には、身体が冷えてはいけないと温かい飲み物を出してくれた。

 

 教会で風邪をひいたと聞けば、次に会った時、もう元気になったのかと心配してくれた。

 

 そのどれも、本当にリヴィアを気遣ってくれたものだった。

 

 けれど、黒髪の子供へ向けた言葉も、同じ人の口から出た。

 

 リヴィアは足元へ目を落とした。

 

 視界の端に、自分の外套が見える。

 

 白い髪を見えにくくするためのフード。

 

 もしこれがずれたら、店のおばさんはどんな顔をするのだろう。

 

 自分の髪は黒くない。

 

 それでも、アドリアンは目立たないようにしている。

 

 先ほどの子供も、頭へ布を巻いていた。

 

 理由は同じなのだろうか。

 

「どうしたんだい、リヴィアちゃん」

 

 女性の声が少し低くなった。

 

「気分でも悪いのかい。顔を見せてごらん」

 

 心配してくれている。

 

 そのことが分かるため、リヴィアはますます何も言えなくなった。

 

 大丈夫だと答えれば、先ほどのことを気にしていないように聞こえる。

 

 どうしてあの子には売らなかったのかと聞けば、おばさんを責めることになる。

 

 あの子がかわいそうだと言えば、先ほど言葉を選べずにいたアドリアンまで困らせるかもしれない。

 

 リヴィアは小さな財布を握ったまま、俯いていた。

 

 頭へ、温かい重みが置かれた。

 

 アドリアンの手だった。

 

 フードの上から、リヴィアの髪を覆うように置かれている。

 

「今日は戻りましょう」

 

 アドリアンが言った。

 

「でも、豆が」

 

「別の日にします」

 

 店の女性は困惑したように二人を見た。

 

「神父さま、本当に具合が悪いんじゃないですか」

 

「少し疲れたようです」

 

 アドリアンはリヴィアの頭から手を離さなかった。

 

「ご心配ありがとうございます。また改めます」

 

 店では何も買わなかった。

 

 帰り道でも、リヴィアは黒髪の子供について尋ねられないままだった。

 

 アドリアンは普段よりゆっくり歩き、通りを渡るたびに振り返って、リヴィアへ視線を向けた。

 

 それ以外は何も言わなかった。

 

 教会へ戻ると、アドリアンは正面の扉を閉じ、リヴィアの外套を脱がせて、フードの中に入っていた白い髪を手で整えた。

 

 それから、自分の外套も壁へ掛けた。

 

「先ほどの子供について、聞きたいことがあるのでしょう」

 

 リヴィアは顔を上げた。

 

「聞いてもいいんですか」

 

「ええ」

 

「でも、神父さまも困っているように見えました」

 

 アドリアンは少しだけ目を伏せた。

 

「困っていることと、あなたが尋ねてはいけないことは同じではありません」

 

 リヴィアは小さくうなずいた。

 

 二人は礼拝堂脇の小部屋へ移り、机を挟んで座った。

 

 アドリアンはすぐには話し始めなかった。

 

 教える内容を選ぶ時と同じように、言葉を選んでいるように見えた。

 

「黒い髪を持つ者は、堕ちた神の影響を受けていると教えられています」

 

「堕ちた神」

 

「人を害する存在です」

 

 リヴィアは、幼児向けの教話集で聞いた話を思い出した。

 

 女神アマリヴィアへ背き、人の間へ争いや苦しみを持ち込んだ存在。

 

 詳しいことまでは教わっていない。

 

「黒髪の者が持つ黒の魔力は、人を傷つけることがあります」

 

「みんなですか」

 

「いいえ」

 

 アドリアンはすぐに否定した。

 

「本人の意思で抑えることもできます。ただ、危険がないとは言い切れないため、警戒されています」

 

 リヴィアは、店先にいた子供を思い浮かべた。

 

 古い服。

 

 差し出された硬貨。

 

 遠ざけられた豆の袋。

 

「あの子も、誰かを傷つけたのですか」

 

 アドリアンは答えなかった。

 

 分からないことを、どう説明するか考えているようだった。

 

「……分かりません」

 

「おばさんは知っていたんですか」

 

「おそらく、知らなかったでしょう」

 

「黒い髪だったから、売らなかったんですか」

 

「そうだと思います」

 

 リヴィアは机の上へ視線を落とした。

 

 礼拝堂から淡い光が差している。

 

 長く使われてきた経典や祭壇に残る光だった。

 

「神父さま」

 

「何ですか」

 

「人の子は、みんな女神さまがつくったんですよね」

 

「そう教えられています」

 

 自分の白い髪と、街へ出るたびに深く被せられるフードのことが頭に浮かんだ。

 

「私もですか」

 

 アドリアンは一瞬だけ答えを止めた。

 

「ええ。あなたも人の子です」

 

「あの子も、人の子ですよね」

 

「……ええ」

 

「なら、あの子も女神さまの子ですか」

 

 アドリアンは動かなかった。

 

 リヴィアは、聞いてはいけないことだったのかと思った。

 

 けれど、アドリアンは質問してよいと言った。

 

「女神さまの子なら」

 

 リヴィアは続けた。

 

「おなかがすいた時に、食べものを買ってもいいんじゃないですか」

 

 アドリアンの視線が、机の上からリヴィアへ戻った。

 

 何かを否定しようとする顔でも、正しい答えを知っている顔でもなかった。

 

「私は、間違っていますか」

 

「いいえ」

 

 アドリアンは静かに答えた。

 

「少なくとも、あなたの問いを間違いだとは言えません」

 

「では、どうして売ってもらえなかったんですか」

 

 今度は、長い沈黙があった。

 

「警戒することと、食べ物を売らないことは、本来は別の問題です」

 

「別なんですか」

 

「そのはずです」

 

 アドリアンの言葉には、普段にはない曖昧さがあった。

 

「ですが、私は今まで、その二つを分けて考えていなかったのかもしれません」

 

「神父さまもですか」

 

「ええ」

 

 アドリアンは否定しなかった。

 

「確認しなければならないことがあります」

 

 リヴィアは、また困らせてしまったのではないかと思った。

 

「ごめんなさい」

 

「なぜ謝るのですか」

 

「難しいことを聞きました」

 

「難しいから聞いてはいけないわけではありません」

 

 アドリアンは、先ほど街で置いたのと同じように、リヴィアの頭へ手を置いた。

 

 今度はフードを挟まず、直接白い髪に触れる。

 

「これは、私が考えなければならないことです」

 

     * * *

 

 リヴィアを寝かせた後、アドリアンは礼拝堂奥の執務室へ入り、扉に鍵をかけて机上の明かりをつけた。

 

 取り出したのは、現在のアマリヴィア教会で正式に使われている経典だった。

 

 毎日の礼拝で使うものとは別の、注釈と参照箇所が記された一冊を開いた。

 

 司祭として教えを説き、教義保全院長として異端や禁書を扱ってきた。

 

 経典の内容を知らないわけではない。

 

 それでも、すべての文章を一字一句記憶しているわけではなかった。

 

 何より、今夜のような読み方をしたことがなかった。

 

 アドリアンは、人の創造に関する箇所を開いた。

 

 女神アマリヴィアは人の子を創り、生命を与えた。

 

 人は互いを尊び、困窮する者へ手を差し伸べなければならない。

 

 弱い者、傷ついた者、飢えた者を見捨てることは、女神が与えた生命を軽んじることにつながる。

 

 何度も読んできた教えだった。

 

 礼拝でも読み上げている。

 

 リヴィアへ聞かせた幼児向け教話集も、その教えを子供向けに言い換えたものだ。

 

 次に、黒髪と黒の魔力に関する箇所を探した。

 

 黒の魔力は、堕ちた神の影響を受けた危険な力とされている。

 

 その力は感情へ働きかけ、怒りや恐れを強め、加害への衝動を増幅することがある。

 

 異常な漏出が確認された場合は教会へ報告し、必要に応じて監督と抑制を行う。

 

 制御不能な力によって実害が生じた場合には、周囲を守るため拘束や隔離を行う。

 

 危険性は否定できない。

 

 アドリアン自身、黒の魔力によって人が傷つけられた現場を知っている。

 

 抑制を失った者を拘束しなければ、さらに多くの犠牲が出ていた事例もあった。

 

 警戒も、監督も、必要な対処だった。

 

 だが、経典の文章を何度読み返しても、別の言葉は見つからなかった。

 

 黒髪の者は人ではない。

 

 女神アマリヴィアが創った人の子には含まれない。

 

 空腹であっても食事を与えてはならない。

 

 罪を犯していなくても、助けてはならない。

 

 生命を慈しみ、隣人を救えという教えを適用してはならない。

 

 そのような記述は、どこにもなかった。

 

 黒の魔力を警戒し、危険な力へ対処せよとは書かれている。

 

 その力を持つ者すべてを、危害を加える前から人として扱わなくてよいとは書かれていない。

 

 アドリアンは経典から手を離した。

 

 店先で豆を求めていた子供を思い出す。

 

 代金は持っていた。

 

 盗もうとはしていなかった。

 

 店主へ暴言を返すことも、黒の魔力を使うこともなかった。

 

 ただ、食料を買おうとした。

 

 それでも、黒い髪が見えたという理由だけで追い払われた。

 

 自分は止められなかった。

 

 正確には、止める前に子供が逃げた。

 

 司祭服を見て。

 

 あの子供にとって、教会は助けを求める場所ではなかった。

 

 姿を見ただけで逃げなければならない相手だった。

 

 その恐れを、アドリアンは責めることができない。

 

 教義保全院が扱う記録には、黒髪の子供と、その保護者や協力者に関する案件がいくつも存在した。

 

 実際に黒の魔力が暴走した案件。

 

 人命へ危険が迫り、緊急の対処が必要だった案件。

 

 それらはあった。

 

 だが、すべてが同じだったと言い切れるだろうか。

 

 危険な行為を確認したから監視したのか。

 

 黒髪の者を匿ったという理由だけで、危険な協力者と判断したことはなかったか。

 

 黒の魔力による被害を防ぐことと、黒髪の子供を人の子から外すこと。

 

 その二つを、教義保全院は正しく区別してきたのか。

 

 アドリアン自身は、区別してきたのか。

 

 答えは、すぐには出なかった。

 

 だが、経典に書かれていないことだけは明らかだった。

 

 経典の中に、黒髪の者を女神の慈愛から除外する言葉はない。

 

 それでも、教会も社会も、自分たちも、黒髪の者だけを例外として扱ってきた。

 

 書き記す必要すらないほど当然のこととして。

 

 アドリアンは椅子へ深く座り直した。

 

 リヴィアは難しい教義を論じたわけではない。

 

 古い経典と現行経典を比較したわけでもない。

 

 ただ、教わったことを順に並べた。

 

 人の子は女神が創った。

 

 黒髪の子供も人の子である。

 

 ならば、その子も女神の子ではないのか。

 

 あまりに単純な問いだった。

 

 単純だからこそ、これまで誰も口にしなかったのかもしれない。

 

 危険であることが当たり前だった。

 

 警戒することも、管理することも、遠ざけることも、すべて同じものとして扱ってきた。

 

 疑う理由がなかった。

 

 アドリアンは閉じた扉の向こうへ目を向けた。

 

 リヴィアは、もう眠っているだろう。

 

 白い髪を目立たせないため、外へ出るたびにフードを被せている。

 

 それが何を意味するのか、あの子は今日、以前より深く察したはずだった。

 

 黒髪の子供を追い払った店主が、リヴィアへは心から優しくした。

 

 人は、一人の相手へ慈愛を向けながら、別の相手を当然のように排除できる。

 

 教会も同じではないのか。

 

 救済を説きながら、救済の対象を自分たちで狭めている。

 

 生命を尊べと教えながら、危険かもしれないという理由だけで、まだ何もしていない子供が救済から外されることを、当然のものとして受け入れている。

 

 そして自分は、その教会の暗部を率いていた。

 

 教義保全院は、教義と記録を守るための組織である。

 

 少なくとも、そう定められている。

 

 だが、経典にない例外を守り、その例外を疑う者を監視し、異なる記録を消しているのなら、自分は何を守っているのか。

 

 教義保全院長を辞める。

 

 その考えが、静かに浮かんだ。

 

 これまでにも、疲労の底で似た思いを抱いたことはある。

 

 命令を処理しきれない夜。

 

 大司教の都合が透けて見える任務。

 

 過去に育てた子供たちのことを思い出した時。

 

 だが、それらは役目から逃れたいという疲れに近かった。

 

 今夜は違った。

 

 辞めれば、すべてが正しくなるわけではない。

 

 自分が去った後、別の者が院長となる。

 

 組織も命令も、そのまま残るかもしれない。

 

 それでも、このまま何も疑わず命令を執行することはできなかった。

 

 院長であり続けるなら、何を守る組織なのかを確かめなければならない。

 

 確かめても変えられないのなら、その地位へ留まる理由を選び直さなければならない。

 

 アドリアンは経典の表紙へ手を置いた。

 

 黒髪の子供を女神の子ではないとする言葉は、どこにもなかった。

 

 それでも教会は、長い間、その言葉が書かれているかのように振る舞ってきた。

 

 そして自分は、その教会の暗部を率いている。

 

 教義保全院長を退くという選択が、初めて逃避ではなく、進むべき道の一つとしてアドリアンの前に置かれていた。

 

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