マホウトコロ   作:西野圭吾

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第6話 SAMURAI SPIRIT

 鐘の余韻が、まだ地下室の低い天井近くで震えていた。湿った石壁に反響した金属音は、観客たちの耳の奥へ残り、酒と煙草の匂いがこもった空気の中を細い糸のように漂っている。

 

 ――カァン。

 

 その音が消えるより早く、ジェームズの右肩が動いた。

 

 杖を構えた腕が滑らかな半円を描き、白いシャツの袖が空気を切る。これまで四人の日本人魔法使いを立て続けに倒してきた男には、合図と同時に撃ち込めば相手は反応できないという確信があった。実際、これまでリングへ上がってきた術者たちは、地脈へ意識を沈めようとした瞬間を狙われ、あるいは印を結び終える前に杖を弾かれていた。

 

「Stupefy!」

 

 赤い閃光が、奎星の胸へ向かって一直線に走った。

 

 外国人側の観客たちは、すでに勝利を確信したように身を乗り出していた。ジェームズの早撃ちを何度も見てきた者たちにとって、それは見慣れた勝負の終わりだったのだろう。日本人側からも息を呑む気配が広がり、清弦の腕には、思わず力がこもった。

 

 しかし、奎星には遅かった。

 

 止まって見えた、と言えば大袈裟かもしれない。けれど、少なくとも、ジェームズの杖先から赤い光が放たれるまでの一連の動きは、奎星にとって十分に読み取れるものだった。肩が上がり、肘が開き、手首が返る。その動きの終着点へ杖先が届くより前に、何が飛んでくるのかが分かっていた。呪文を聞いてから反応したのではない。ジェームズが口を開いたときには、奎星の身体はすでに動き始めていた。

 

 一年前なら、こうはいかなかった。

 

 魔法が飛んできてから慌てて避け、呪文を一発撃つたびに、それが当たったかどうかを目で追っていた。そのわずかな時間に次の攻撃を受け、楓には杖を飛ばされ、御影には何度地面へ転がされたか分からない。まだ空が白み始める前から訓練場へ呼び出され、走らされ、撃たされ、防がされ、避けさせられ、転ばされ、それでも立たされた。

 

 相手の杖だけを見るな。

 

 肩を見ろ。足を見ろ。指を見ろ。呼吸を見ろ。

 

 魔法が飛んでくる前に、人間の身体は必ず何かを教える。撃ったあとに止まるな。考えるのは、撃たれてからでは遅い。

 

 御影玄一郎の訓練は、奎星の感想だけで言えば、ほとんど拷問だった。けれど、その拷問は確実に身体へ残っていた。苦痛と疲労の中で繰り返した動作は、考えるより先に手足を動かすための記憶へ変わっていた。

 

「プロテゴ!」

 

 神代榊が閃く。

 

 奎星は大きすぎる防壁を作らなかった。必要な大きさだけ、必要な強さだけを、最短の動きで正面へ展開する。白銀の盾が立ち上がった直後、赤い気絶呪文が真正面から衝突した。

 

 乾いた破裂音が地下室へ響き、盾の表面へ赤い光が薄く広がる。その閃光が一瞬だけ奎星の顔を照らし、次の瞬間には斜め上へ弾かれた。赤い光は天井近くの防護結界へぶつかり、ばちん、と火花を散らして消える。

 

 そして、会場が静かになった。

 

 つい数秒前まで怒号と笑い声と酒杯の音で満ちていた地下室が、まるで一斉に息を止めたようだった。ジェームズの顔から笑みが消え、外国人たちは口を半開きにしたままリングを見つめている。日本人側では、腕を組んでいた男がゆっくりと身を乗り出し、清弦だけが一拍遅れて目を細めた。

 

「……速い」

 

 その呟きは、喧騒が消えたからこそ、はっきりと聞こえた。

 

 奎星は清弦の声を聞いていなかった。視線は、ただジェームズだけを捉えている。

 

 百五十年以上という時間は、魔法そのものを別のものへ変えたわけではない。ステューピファイはステューピファイであり、プロテゴも同じだ。杖を使い、呪文を唱え、魔力を通すという根本は変わらない。

 

 変わったのは、その周囲に積み上げられたものだった。

 

 何万人もの魔法使いが失敗し、その記録を残した。決闘技術は整理され、学校で教えられ、安全な訓練方法が作られた。相手の予備動作を読む技術も、防御から反撃へつなぐ足運びも、先人たちが積み上げた経験の上へ、さらに新しい経験が重ねられてきた。

 

 奎星は天才だった。魔力量も規格外だった。

 

 けれど、今このリングで彼を立たせているものは、それだけではない。百五十年以上のあいだに洗練された魔法教育と、その中でも特に容赦のない男から一年間叩き込まれた、実戦の基礎だった。

 

 ジェームズの顔に、初めて警戒が浮かんだ。

 

「Well now……」

 

 小さく何かを呟く。

 

 奎星には意味が分からない。けれど、表情なら分かった。

 

「やっと真面目になった?」

 

 奎星が笑う。

 

 もちろん、ジェームズには通じない。

 

「…………?」

 

「分かんねえよな。俺も分かんねえ」

 

 ジェームズの眉間に皺が寄った。外国人側から笑いが起こりかけたが、先ほどまでの嘲笑とは違っていた。少年を笑っているのではない。何が起きるのか分からないことを、面白がり始めているのだ。

 

 ジェームズが二発目を撃った。

 

「Depulso!」

 

 今度は正面ではない。身体を右へ振り、奎星の左側へ角度をつけて放つ。奎星は盾を出さず、ほんの半歩だけ横へ動いた。青白い衝撃が、白いシャツの脇を掠めて背後へ抜けていく。

 

「おおっ!」

 

 観客から声が上がった。

 

 ジェームズは間を置かずに続けた。奎星は撃たない。避け、前へ出て、また避ける。リングを囲む縄ぎりぎりまで寄ったかと思えば、そこから斜めに中央へ戻る。

 

 ジェームズの目が、次第に険しくなっていった。

 

 速いから当たらないのではない。

 

 先に動かれている。

 

 自分が狙った場所へ、少年がもういない。

 

「何をしている」

 

 清弦が思わず呟いた。

 

 彼の知る戦いとは、術を組み、流れを掴み、相手の術へ別の流れを重ねるものだった。土地の気配を読み、足元から立ち上がる魔力を手繰り寄せ、術式を完成させる。その過程こそが戦いの中心にある。

 

 奎星は違った。

 

 魔法を撃っていない時間の方が長い。ただ相手を見ている。足、肩、杖、空間、自分が立つ位置。そのすべてを同時に捉えながら、戦いの形を少しずつ変えていた。

 

 ジェームズが苛立ったように大きく踏み込む。

 

 右足へ体重が乗り、肩が開き、杖が奎星の胸へ向いた。今度こそ強く撃つ。その意図が、動きの中へ露わになっていた。

 

 奎星の神代榊も動く。

 

「ステューピファイ!」

 

 赤い閃光が走った。

 

 ジェームズが笑う。

 

 待っていたのだ。

 

「Protego!」

 

 防壁が立ち上がり、奎星の気絶呪文が弾けた。外国人側から歓声が上がる。

 

 だが、奎星はもう次へ動いていた。

 

 撃ったあとに止まるな。

 

 昔の自分なら、今の一発を目で追っていた。防がれた。失敗した。そう考えているあいだに、次の攻撃を受けていた。

 

 今は違う。

 

 ジェームズが盾を出した瞬間、視界の一部が遮られる。重心が後ろへ寄り、杖を防御へ使った右腕は、次の攻撃へ戻るまでほんの僅かに遠くなる。

 

 そこだった。

 

 奎星は左へ滑り込んだ。

 

 ジェームズの目が動く。気づいた。盾を解き、右肩を戻そうとする。

 

 だが、遅い。

 

「エクスペリアームス!」

 

 赤い光が、ジェームズの右手だけを捉えた。

 

 ぱしん、と乾いた音が響く。

 

 細身の杖が指から抜け、高く舞い上がった。天井の明かりを一瞬横切り、何度も回転しながらリングの外へ飛んでいく。そして、観客が置いていた空の酒杯へ、見事に落ちた。

 

 からん。

 

 あまりにも綺麗な音だった。

 

 ジェームズが空になった右手を見る。奎星も見る。会場中が見る。

 

 神代榊は、まだジェームズへ向いていた。

 

 撃てる。

 

 相手には杖がない。ステューピファイでも、デパルソでも、インカーセラスでもいい。今なら簡単に当たる。

 

 だが、奎星は撃たなかった。

 

 神代榊をゆっくり下ろす。

 

「終わりだろ?」

 

 ジェームズには伝わらない。それでも奎星は、杖を腰の高さまで下ろしたまま動かなかった。

 

 魔法使いにとって、杖を失うことは、少なくともこの形式の決闘では、ほとんど戦闘不能と同じだった。御影なら、杖を飛ばされた直後に素手で殴ってくる可能性がある。あの男だけは例外として考えた方がいい。

 

 だが、普通は違う。

 

 武器を失った相手へ、さらに魔法を撃ち込む理由はない。殺すためではなく、壊すためでもない。止めれば、それで勝負は終わりだった。

 

 リング脇の係が、一瞬遅れて腕を上げた。

 

「Keisei!」

 

 何か続けて叫ぶ。

 

 勝者。

 

 そういう意味なのだろうと、奎星にも雰囲気で分かった。

 

 それでも、誰もすぐには声を上げなかった。

 

 最初に動いたのは、ジェームズだった。

 

 空の右手を見たあと、奎星を見る。それからリング外へ落ちた自分の杖へ視線を移し、最後に、奎星が追い打ちをしなかったことへ気づいた。

 

 ジェームズの口元が、ゆっくりと上がった。

 

「You had me, boy」

 

「ん?」

 

「Clean and fair」

 

「……クリーン?」

 

 意味が分からず、奎星は首を傾げた。

 

 ジェームズは肩を揺らして笑う。負けた直後とは思えないほど、楽しそうな顔だった。拳を自分の胸へ当て、次に奎星を指す。

 

「Samurai」

 

「え?」

 

「Samurai spirit!」

 

 その言葉だけは、奎星にも分かった。

 

「いや、侍じゃねえよ!」

 

 否定は日本語だった。当然、ジェームズには通じない。

 

 だが、外国人側の誰かが叫んだ。

 

「SAMURAI!」

 

 別の男が酒杯を高く掲げる。

 

「SAMURAI SPIRIT!」

 

 地下室が爆発した。

 

「うおおおおおおっ!」

 

「KEISEI!」

 

「SAMURAI!」

 

「侍じゃねえって!!」

 

 誰も聞いていない。

 

 日本人側も一瞬遅れて我に返り、次々に声を上げ始めた。

 

「坊主!」

 

「やったじゃねえか!」

 

「もう一人行け!」

 

「異人に見せてやれ!」

 

「いや待て、今ので終わりじゃねえの!?」

 

 奎星がリング脇の係を見る。

 

 係は笑顔で指を二本立てた。

 

「Second?」

 

「セカンド?」

 

 嫌な予感がした。

 

 清弦が遠くから言う。

 

「二人目だろう」

 

「分かってるよ!」

 

「なら、なぜ聞いた!」

 

「一応だよ!」

 

 そのとき、観客の奥から大柄な男が立ち上がった。

 

 ジェームズよりさらに肩幅があり、赤茶色の髭を短く整えた男だった。袖を捲った腕には古い傷が何本も走っている。男は自分の酒を隣へ預けると、沸き立つ歓声の中を堂々とリングへ向かって歩いてきた。

 

「Who’s the boy, James?」

 

 ジェームズが笑いながら何かを答える。

 

 男も奎星を見る。

 

 にやり、と笑った。

 

 奎星も笑う。

 

「何か分かんねえけど」

 

 神代榊を握り直す。

 

「来いよ」

 

            *

 

 二人目の男は、一人目より荒かった。

 

 名前はミラーというらしい。奎星がそれを理解したのは、周囲が何度も「Miller!」と叫んでいたからだった。

 

 鐘が鳴る。

 

 今度は奎星も、最初から動いた。

 

 ミラーは速さより威力を取るタイプだった。一発一発の魔法が重く、プロテゴへ当たるたびに防壁全体が大きく揺れる。リングの床板まで振動し、観客たちは衝撃が結界へぶつかるたび、酒杯を掲げて歓声を上げた。

 

「デパルソ!」

 

 奎星も返す。

 

 青白い衝撃がミラーの足元を掠め、男は大きく跳び退いた。

 

「Ha!」

 

「笑ってんな!」

 

 意味は分からなくても、楽しんでいることだけは分かる。

 

 奎星も楽しくなってきた。

 

 御影との訓練では、こうはいかない。あの男は奎星がいい動きをしても「遅い」と言い、上手く防いでも「次」と言う。ようやく一発当てたと思った瞬間には、奎星の方が地面へ転がされている。

 

 ところが、ここでは一度避けるだけで歓声が上がる。盾を張れば酒杯が鳴り、反撃すれば外国人まで「KEISEI!」と叫ぶ。

 

「何これ!」

 

 奎星は笑った。

 

「めっちゃ楽しい!」

 

「遊ぶな!」

 

 清弦の怒声が飛ぶ。

 

「聞こえねえ!」

 

「聞こえているだろうが!」

 

 ミラーの杖が動いた。

 

 奎星は相手の胸ではなく、足元を見た。大柄な男は踏み込むたび右足へ大きく体重を乗せる。攻撃の直前には、ほんの少しだけ前傾する。

 

 それなら。

 

「インカーセラス!」

 

 縄が飛ぶ。

 

 ミラーが腕で払おうとした瞬間、奎星は杖先を床へ向けた。

 

「デパルソ!」

 

 衝撃が足元で弾ける。

 

「Whoa!」

 

 ミラーの重心が崩れ、大きな身体が片膝をついた。

 

 奎星は一歩踏み込む。

 

「エクスペリアームス!」

 

 杖が飛んだ。

 

 さっきより低く、真横へ飛んでいく。観客の頭上を越え、石壁へ当たって床へ落ちた。

 

 ミラーが片膝をついたまま奎星を見る。

 

 神代榊の先は、もう自分へ向いていない。

 

 奎星は杖を下ろした。

 

「終わり」

 

 ミラーには通じないだろうと思いながら、それでも言った。

 

 男は数秒、黙っていた。やがて大きな声で笑い、立ち上がると、奎星の肩をばしんと叩いた。

 

「痛っ!」

 

「Good lad!」

 

「強えよ!」

 

 褒められたことだけは、何となく分かった。

 

「お前もな!」

 

 奎星が日本語で返す。

 

 ミラーには当然通じない。それでも二人は笑った。

 

 リング脇から、また叫び声が上がる。

 

「KEISEI!」

 

「SAMURAI!」

 

「だから侍じゃねえって!」

 

 今度は日本人側も一緒になって笑った。

 

 最初は、外国人側と日本人側に、はっきりと分かれていた。勝てば向こうが騒ぎ、負ければこちらが沈む。そんな空気だったはずなのに、今はその境目が少しずつ崩れ始めていた。

 

 ジェームズが日本人の男と肩を組み、意味の通じない言葉を叫びながら笑っている。その横では、別の日本人が外国人の酒杯を勝手に掲げ、リングへ向かって怒鳴っていた。

 

「もう一人だ!」

 

「行け、坊主!」

 

「三人目!」

 

「まだあんの!?」

 

 奎星が清弦を見る。

 

「聞いてねえ!」

 

「勝ち抜くほど賞金が増えると書いてあっただろう」

 

「読んでたの!?」

 

「貴様と違ってな!」

 

「先に言えよ!」

 

「言う前に上がったのは貴様だ!」

 

 係の男が指を三本立てる。

 

 会場の期待が、さらに膨らんだ。

 

「……まあ」

 

 奎星は神代榊を肩へ載せ、口元を上げた。

 

「金が増えるなら、いいか」

 

「その顔をやめろ!」

 

            *

 

 三人目が倒れたとき、会場はもはや決闘場ではなくなっていた。

 

「エクスペリアームス!」

 

 赤い光が走り、三人目の杖が回転しながら高く舞い上がる。それがリングの外へ落ちるより早く、観客の声が地下室を揺らした。

 

「KEISEI――――!!」

 

「SAMURAI!」

 

「KEISEI! KEISEI!」

 

「やったぞ!」

 

「三人抜きだ!」

 

「坊主、こっちを向け!」

 

 奎星は肩で息をしながら、リング中央に立っていた。髪は汗で額へ張りつき、白いシャツの背中にも薄く汗が滲んでいる。魔力にはまだ余裕があったが、身体は確かに疲れていた。それでも、顔には満面の笑みが浮かんでいる。

 

「っしゃあ!!」

 

 神代榊を高く掲げる。

 

 その仕草だけで、さらに歓声が大きくなった。日本人の男たちが両手を上げ、外国人たちは酒杯を叩き合わせる。誰かが椅子の上へ立ち、別の誰かが卓へ登って係に引きずり下ろされた。

 

 ジェームズはリング脇から拳を突き上げている。

 

「SAMURAI BOY!」

 

「侍じゃねえっつってんだろ!!」

 

 奎星の訂正は、もう歓声に飲み込まれていた。

 

 リングを降りた瞬間、奎星は人の波に呑まれた。肩を叩かれ、背中を叩かれ、知らない日本人から抱きつかれ、外国人には頭をわしゃわしゃ撫でられる。

 

「痛い痛い痛い!」

 

「坊主、やるじゃねえか!」

 

「誰が坊主だ! 十八だぞ!」

 

「十分坊主だ!」

 

「KEISEI!」

 

「はいはい、ケイセイです!」

 

「SAMURAI!」

 

「違うっつってんだろ!」

 

 清弦は少し離れた場所で、その光景を呆然と見ていた。腕には奎星の制服の上着が掛かっている。

 

 ここへ来た目的は、神代以蔵を探すことだった。そのはずだ。

 

 なのに、数十分前まで誰も知らなかった未来人が、今では地下室の中央で日本人と外国人に担ぎ上げられかけている。

 

「何をしているんだ、あいつは……」

 

 心底、分からなかった。

 

 しかし、清弦の視線は、少し前まで奎星が立っていたリングへ向いた。

 

 初撃、防御、回避、武装解除。

 

 三人。

 

 誰一人、大きな怪我をしていない。勝負が決まった瞬間、奎星は必ず杖を下ろし、追い打ちを一度もしなかった。

 

 戦いに慣れていることは、最初から知っていた。妖魔を前にしても怯まず、山賊相手にも動きが速かった。

 

 だが、今日初めて分かった。

 

 奎星の強さは、魔力の大きさだけではない。大きな力を持っているくせに、それをすべて使おうとはしない。必要な分だけを選び、相手を倒したあとには、それ以上の傷を与えない。

 

 簡単そうに見えて、ひどく難しいことだった。

 

「……御影玄一郎、か」

 

 奎星が何度も話していた教師の名を、清弦は小さく呟いた。

 

 妖魔より怖い。未来の化け物。朝から走らせる。そんな話しか聞いていなかった。

 

 だが、あの戦い方を教えた男なら、少しだけ会ってみたいと思った。

 

 もちろん、本人へ言う気はなかった。

 

 そのとき、リング脇の係が賞金を持ってきた。

 

 革袋は、思っていたより大きかった。

 

「おお!?」

 

 奎星の目が輝く。

 

 卓の上へ中身が出される。日本の銀貨、一分銀、それに混じって、見慣れない外国銀貨が何枚も転がった。

 

「何これ!?」

 

「洋銀だ」

 

 近くの日本人が答える。

 

「港じゃ珍しくねえ」

 

「これ全部、俺の!?」

 

「三人抜いたんだからな」

 

「マジで!?」

 

 奎星は銀貨を両手で集めた。

 

「清弦!」

 

「何だ」

 

「金持ち!」

 

「それで人生が変わるほどではない」

 

「今夜の俺らには金持ちだろ!」

 

「まあ……」

 

 清弦が金額をざっと確認する。宿代、食事代、数日分の滞在費、調査に必要な費用。そして昼間、彼が何度も振り返っていた真鍮製の測定器。

 

 そこまで考えたところで、清弦の目が僅かに動いた。

 

 奎星は見逃さない。

 

「測定器」

 

「黙れ」

 

「買える?」

 

「黙れ」

 

「買えるんだ?」

 

「黙れ!」

 

「やったじゃん!」

 

「貴様の金だ!」

 

「調査費だろ?」

 

「……」

 

「欲しい?」

 

「黙れぇ!」

 

 清弦が奎星の頭を叩く。

 

 また会場が笑った。

 

            *

 

 なぜ宴が始まったのか、あとから考えても奎星にはよく分からなかった。

 

 決闘が一段落したからなのか、三人抜きが面白かったからなのか、それとも元々そういう場所だったのか。たぶん、全部だった。

 

 気づけばリングの周囲に置かれていた卓が中央へ寄せられ、焼いた肉、塩漬けの魚、豆を煮たもの、黒っぽいパン、硬いビスケット、日本の漬物、串に刺した何か、見覚えのない香辛料の効いた煮込みが次々と並べられていた。誰が頼んだのか分からないまま、酒瓶まで運ばれてくる。

 

 奎星は食べた。

 

 朝から馬に乗り、港を歩き回り、空腹のまま三人と決闘したのだ。何を食べても美味かった。

 

「これ何!?」

 

「Stew!」

 

 外国人が鍋を指す。

 

「すてゅー?」

 

「Stew!」

 

「ステュー!」

 

「Yeah!」

 

「うまい!」

 

「Good?」

 

「Good!」

 

 英語ができなくても、飯なら通じた。

 

 今度は奎星が漬物を指す。

 

「Tsukemono!」

 

「Tsu……?」

 

「ツ・ケ・モ・ノ!」

 

「Tsk’mono!」

 

「違え!」

 

 大笑いが起こる。

 

 ジェームズが隣へ座っていた。さっきまでリングの上で杖を交えていた男とは思えないほど親しげに、奎星の肩へ腕を回し、「Keisei」「fast」「good」と何度も繰り返している。

 

「うんうん」

 

 奎星も頷く。

 

「全然分かんねえ」

 

 ジェームズが笑う。

 

 奎星も笑う。

 

「SAMURAI SPIRIT!」

 

 また誰かが叫んだ。

 

「侍じゃねえ!」

 

「SAMURAI!」

 

「違う!」

 

「SAMURAI KEISEI!」

 

「だから違うって!」

 

 日本人たちまで面白がっている。

 

「いいじゃないか、侍で」

 

「良くねえよ!」

 

「髷(まげ)はどこだ?」

 

「ねえよ!」

 

「刀は?」

 

「杖!」

 

「なら魔法侍だな」

 

「勝手に増やすな!」

 

 そこへ、一本の瓶が差し出された。

 

 褐色の硝子瓶だった。奎星が初めて見るラベルが貼られている。栓が抜かれると、ぽん、と軽い音がして、淡い琥珀色の液体が厚手の硝子杯へ注がれた。表面には白い泡が立ち、麦と酵母の匂いが、肉や香辛料の匂いに混じって漂う。

 

「Beer!」

 

 外国人が笑う。

 

 奎星の手が止まった。

 

「……ビール?」

 

「Beer!」

 

「ビールじゃん!」

 

 知っている単語だった。

 

 しかし、奎星は差し出された杯を見たあと、自分の胸を指した。

 

「No!」

 

 外国人たちが止まる。

 

 奎星は胸を張った。

 

「I’m teenager!」

 

「…………」

 

 反応がない。

 

「ティーンエイジャー!」

 

「Teen……what?」

 

「ティーンエイジャー!」

 

 ジェームズが隣の男を見る。男も首を傾げた。

 

「何で通じねえんだよ!」

 

 当然だった。百五十年以上未来の言葉なのだから。

 

 英語のできる高瀬が笑いながら近づいてきた。

 

「何歳なんだ、お前」

 

「十八」

 

「Eighteen?」

 

 ジェームズが聞き取る。

 

「Yeah! Eighteen!」

 

 ジェームズの顔が明るくなった。

 

「Eighteen? Why, you’re a grown man!」

 

「ノー!」

 

「A man!」

 

「ノー! 俺の時代だと酒は二十歳から!」

 

「何を言ってる?」

 

「スズメちゃんに怒られちまう!」

 

「Suzume?」

 

 外国人たちが一斉に反応した。

 

 奎星の顔が止まる。

 

「……あ」

 

「SUZUME?」

 

「いや違う」

 

「Who is Suzume?」

 

「違う違う!」

 

 高瀬が腹を抱えている。

 

「こいつの先生だ」

 

清弦が口を挟む。

 

「言うなよ!」

 

 ジェームズが目を丸くした。

 

「Teacher?」

 

「そうだけど!」

 

「Suzume!」

 

 別の外国人が杯を高く掲げる。

 

「To Suzume!」

 

「何でだよ!」

 

「SUZUME!」

 

「やめろ!」

 

 もう遅かった。

 

 一人が立ち上がり、杯を掲げる。

 

「SUZUME!」

 

 周囲が応える。

 

「SUZUME!」

 

 日本人側も意味が分からないまま便乗した。

 

「スズメ!」

 

「スズメ!」

 

「何で乾杯になってんだよ!!」

 

 笑い声が地下室を揺らした。

 

 ジェームズが奎星へ杯を押しつける。

 

「Suzume!」

 

「それ言えば飲むと思ってんだろ!」

 

「SUZUME!」

 

「くっそ……!」

 

 奎星は杯を見た。琥珀色の液体、細かな泡。鼻へ近づけると、麦と酵母の匂いに混じって、未来で嗅いだことのある酒特有の香りがした。

 

 スズメの顔が浮かぶ。

 

 真顔。

 

 静かな声。

 

 ――蓮根君。

 

 絶対に怒る。間違いなく怒る。まず一分くらい黙り、そのあと「あなたは何をしているんですか」と言う。

 

 奎星は杯を見た。

 

 周囲を見る。

 

 全員が待っている。

 

「……一口だけだからな」

 

 誰にも通じていない。

 

「SUZUME!」

 

「はいはい!」

 

 奎星も杯を上げた。

 

「スズメちゃん!」

 

「SUZUME!」

 

 杯がぶつかる。

 

 ごく、と喉が鳴った。

 

 飲んだ。

 

「…………」

 

 苦い。

 

「にっが!」

 

 しかも、未来のビールほど冷たくない。むしろ生温く、炭酸も弱い。

 

「何これ!?」

 

 周囲が笑う。

 

「Good?」

 

「苦い!」

 

「Good!」

 

「良くねえよ!」

 

 それなのに、奎星は二口目を飲んだ。

 

「……あれ」

 

 肉を食べ、もう一口飲む。

 

「…………」

 

 意外と。

 

「うまいかも」

 

「GOOD!」

 

「聞こえてんの!?」

 

「SUZUME!」

 

「その使い方やめろ!」

 

 また杯がぶつかる。

 

 奎星は飲んだ。

 

 未来の烏丸スズメも、まさか自分の名前が幕末の横浜で乾杯の掛け声になるとは、夢にも思っていないだろう。

 

            *

 

 一方、清弦は宴の輪から少し離れたところで額を押さえていた。

 

「何なんだ、あいつは……」

 

 奎星はもう外国人二人と肩を組んでいる。英語はほとんど話せない。それなのに、さっき知り合った日本人とも笑い、ジェームズに何か言われれば意味が分からないまま頷き、ミラーとは腕の太さを比べている。

 

 誰かが「SAMURAI」と言えば「違う」と怒鳴り、誰かが「SUZUME」と言えば杯を上げる。

 

 恐ろしい適応力だった。

 

「清弦」

 

 高瀬が声をかけてきた。

 

「神代以蔵って男を探してるんだったな」

 

「ああ」

 

 清弦の目がすぐに変わる。宴から意識を切り離し、高瀬へ向き直った。

 

「知っているのか」

 

「俺は顔を見たくらいだが、向こうの連中なら覚えてる奴がいるかもしれねえ」

 

「話せるか」

 

「聞いてみるよ」

 

 高瀬が外国人の集団へ入っていく。清弦も続いた。

 

 本来なら奎星にも一緒に来てもらうところだが。

 

「スズメェ!」

 

「SUZUME!」

 

「かんぱーい!」

 

 使い物にならない。

 

 完全に。

 

 清弦は無視した。

 

            *

 

 情報を集め終えた清弦が戻った頃、奎星はかなり出来上がっていた。

 

 頬が赤い。目元も少し赤い。普段から大きい声は、酒のせいでさらに大きくなっている。

 

「清弦ー!」

 

 見つかった。

 

 清弦は一瞬、本気で帰ろうかと思った。

 

「どこ行ってたんだよ!」

 

「調べ物だ」

 

「真面目かよ!」

 

「そのために来たんだろうが!」

 

「座れ座れ!」

 

「私はいい」

 

 奎星が清弦の腕を掴む。

 

「お前も飲めよ〜」

 

「飲まん」

 

「何でだよ〜」

 

「飲みたくないからだ」

 

「うまいぞ!」

 

「さっき苦いと叫んでいただろう」

 

「慣れた!」

 

「慣れるな」

 

「ほら!」

 

 杯を押しつけられ、清弦は身を引いた。

 

「いらん」

 

「一口!」

 

「いらん」

 

「未来から来た子孫の酒が飲めねえのか!」

 

「何だ、その理屈は!」

 

「清弦〜!」

 

「離れろ!」

 

「SUZUME!」

 

 周囲から声が飛ぶ。

 

「何だ、それは!」

 

「乾杯!」

 

「誰が決めた!」

 

「みんな!」

 

「貴様だろう!」

 

 ジェームズが新しい杯を清弦へ差し出した。

 

「For you!」

 

「…………」

 

「飲めって」

 

「それくらい分かる!」

 

「じゃあ飲め!」

 

「お前は黙れ!」

 

 清弦は杯を見る。

 

 琥珀色の液体。泡。異国の酒。

 

 鈴が見たら、たぶん嫌な顔をする。病み上がりで酒など飲んだと知れば、確実に怒るだろう。

 

 清弦は長く息を吐いた。

 

「一口だけだ」

 

「おお!」

 

「騒ぐな」

 

 杯を取り、口へ運ぶ。少しだけ飲んだ。

 

「…………」

 

「どう?」

 

 苦い。

 

 麦の匂いが強く、喉の奥へ今まで飲んだことのない刺激が残る。

 

「……妙な味だ」

 

「だろ?」

 

「貴様はうまいと言っていたではないか」

 

「妙にうまいんだよ!」

 

「意味が分からん」

 

「もう一口!」

 

「飲まん!」

 

 清弦が杯を置こうとした、そのときだった。

 

 奎星が急に清弦の肩を掴んだ。

 

「なあ!」

 

「何だ!」

 

 顔が近い。

 

「こないだ言えなかったけど!」

 

「離れろ」

 

「俺、ほんとにスズメちゃんのこと好きなんだよ!!」

 

「…………」

 

 清弦の動きが止まった。

 

 周囲の一部も、つられるように静かになった。

 

「…………私に告白されてもな」

 

「違う!」

 

「では何だ」

 

「聞けよ!」

 

「聞きたくない」

 

「俺な!」

 

「聞いていない」

 

「スズメちゃんのこと、めっちゃ好き!」

 

「声を落とせ」

 

「好きなんだよ!!」

 

「黙れ!」

 

 外国人たちは内容が分からない。ただ、「Suzume」という単語だけは聞き取った。

 

「SUZUME?」

 

「SUZUME!」

 

 またざわつき始める。

 

 奎星が胸を叩いた。

 

「だけどな!」

 

「黙れ」

 

「俺とスズメちゃんは生徒と教師!」

 

「黙れ」

 

「立場的に好きって言っちゃダメだし!」

 

「黙れと言っている!」

 

「分かってんだよ、俺だって!」

 

「なら言うな!」

 

「本人には言ってねえよ!」

 

「私に言うな!」

 

「清弦だから言ってんだよ!」

 

「なぜだ!」

 

「お前も同じだから!」

 

「何がだ!」

 

 奎星の指が、清弦の鼻先へ突きつけられた。

 

「もちろん卒業したらすぐ言うつもりだぜ!!」

 

「知らん!」

 

「そのために勉強頑張ってるし!!」

 

「それは卒業するためだろう!」

 

「一緒だよ!」

 

「違う!」

 

「進路も決める! 卒業もする! それで先生と生徒じゃなくなったら!」

 

 奎星は両手を大きく広げた。

 

「言う!!」

 

「好きにしろ!」

 

「言うからな!」

 

「私に宣言するな!」

 

「帰るからな、俺!」

 

 一瞬、清弦の怒鳴り声が止まった。

 

 奎星も、笑ったまま少しだけ目を細める。

 

「帰って」

 

 左手首を持ち上げた。

 

 銀色の腕時計が、酒場の明かりを受けて淡く光る。

 

「卒業して」

 

 そして、奎星は言った。

 

「言う」

 

 酒で赤くなった顔をしていても、そこだけは妙に真っ直ぐだった。

 

 清弦は何も言わなかった。

 

 昨夜、焚き火の前で聞いた言葉を思い出す。

 

 ――『また明日』の先に戻りたい。

 

 酔っていても、そこだけは変わらないらしい。

 

 清弦が少しだけ視線を逸らす。

 

「……なら、そうすればいい」

 

「する!」

 

「声が大きい」

 

「でも!」

 

「まだあるのか!」

 

 奎星がまた清弦を指差した。

 

「だけど、お前は何なんだ!?」

 

 清弦の顔が嫌そうに歪む。

 

「何が」

 

「何で鈴ちゃんに好きだって言わねえんだよ!!」

 

「黙っ――」

 

 清弦の口が止まった。

 

 奎星がにやりとする。

 

「ほら」

 

「…………」

 

「反論できねえじゃん」

 

「違う」

 

「何が?」

 

「それとこれとは」

 

「別?」

 

「…………」

 

「言えよ」

 

「…………」

 

「好きじゃねえの?」

 

「…………」

 

「じゃあ嫌い?」

 

「違う!」

 

 即答だった。

 

 奎星の笑みが、さらに深くなる。

 

「ほらぁ!」

 

「うるさい!」

 

「好きなんだろ〜!?」

 

「違う!」

 

「じゃあ、鈴ちゃんが他の男に取られてもいいの?」

 

「何?」

 

 清弦の目つきが変わった。

 

 奎星はもう止まらない。

 

「横浜とか来たらいるじゃん! 男いっぱい!」

 

「だから何だ」

 

「鈴ちゃん可愛いし!」

 

「それは……」

 

「それは?」

 

「…………」

 

「可愛いと思う?」

 

「黙れ」

 

「好き?」

 

「黙れ」

 

「可愛い?」

 

「黙れ!」

 

「好きなんだろ〜!?」

 

「うるさい!!」

 

 清弦は目の前にあった杯を掴み、そのまま一気に飲んだ。

 

「おおおおおおっ!!」

 

 なぜか会場が沸いた。

 

「SEIGEN!」

 

「飲んだ!」

 

「清弦!」

 

「Good!」

 

「SAMURAI TWO!」

 

「誰が二号だ!!」

 

 清弦が怒鳴る。

 

 奎星は腹を抱えて笑った。

 

「お前、ウミツバメ二号の次はサムライ二号じゃん!」

 

「殺すぞ!」

 

「好きなんだろ〜!?」

 

「黙れぇ!!」

 

「SUZUME!」

 

「SUZUME!」

 

「何で今それなんだよ!」

 

 もう誰にも止められなかった。

 

 外国人が清弦の杯へまた酒を注ぐ。

 

「いらん!」

 

「SUZUME!」

 

「その言葉を使えば何でも通ると思うな!」

 

「SUZUME!」

 

「貴様ら、意味を分かっていないだろう!」

 

「スズメ!」

 

 日本人まで加わる。

 

「お前らもやめろ!」

 

「乾杯だろ?」

 

「違う!」

 

「じゃあ何なんだ?」

 

「未来の……」

 

 説明しようとして、清弦は諦めた。

 

 隣では奎星がジェームズと肩を組んでいる。

 

「ジェームズ!」

 

「Keisei!」

 

「お前、強かったぞ!」

 

「SAMURAI!」

 

「そこだけは違う!」

 

「SUZUME!」

 

「それも違う!」

 

 通じていない。

 

 なのに、楽しそうだった。

 

 清弦はまた杯を見る。

 

 苦い。

 

 妙な味だ。

 

 何が美味いのか分からない。

 

 だが、もう一口飲んだ。

 

「おお!」

 

「騒ぐな!」

 

 奎星が清弦の肩へ腕を回す。

 

「楽しいな、幕末!」

 

「私は昨日までここで普通に暮らしていたんだ!」

 

「横浜最高!」

 

「目的を忘れるな!」

 

「分かってるって!」

 

「本当だろうな!」

 

「神代以蔵だろ!」

 

 それだけは覚えていた。

 

 清弦は少し驚いた。

 

「……覚えているのか」

 

「当たり前じゃん!」

 

「なら、明日は早く起きろ」

 

「無理」

 

「おい」

 

「飲んじゃったし!」

 

「誰のせいだ!」

 

「清弦も飲んだじゃん!」

 

「貴様が絡むからだ!」

 

「鈴ちゃんに言お」

 

「殺すぞ!」

 

「『清弦、お酒飲んでました』って」

 

「貴様もだろうが!」

 

「あ」

 

 奎星が止まる。

 

「……それは困る」

 

「だろう」

 

「共犯な」

 

「断る」

 

「言わねえから、お前も言うなよ!」

 

「未来へ帰れば私は言えん!」

 

「じゃあ俺だけ不利じゃん!」

 

「自業自得だ!」

 

「先祖だろ、守れよ!」

 

「こういうときだけ先祖扱いするな!」

 

 その夜、横浜の片隅にある、普通の人間には入口すら見えない魔法使いたちの地下酒場で、未来から来た十八歳の少年を中心に、日本人と外国人が肩を組んで笑っていた。

 

 言葉は十分には通じない。生まれた国も違い、使う魔法も違う。昨日まで敵意を向け合っていた者さえいる。

 

 それでも、決闘で杖を交え、同じ技に驚き、同じ勝負に声を上げ、同じ飯を食べ、同じ酒杯を掲げれば、不思議なことに、その夜だけは何となく通じた。

 

「KEISEI!」

 

「おう!」

 

「SAMURAI!」

 

「違う!」

 

「SUZUME!」

 

「スズメちゃーん!」

 

「貴様まで乗るな!」

 

 地下室に笑い声が響く。

 

 卓の上では洋銀と一分銀が入り混じり、空になった舶来ビールの瓶が少しずつ増えていった。リングの縄には誰かの帽子が引っかかり、日本人の魔法使いと外国人の船乗りが、意味も分からないまま腕を組んで歌っている。

 

 その騒ぎの中で、神代以蔵が数日前にこの町へ来ていたという事実、六本の測量杭を買ったこと、地中を流れる魔力を「曲げる」方法について訊ねていたこと、そしてある外国人術具技師へ会いに行ったことを、清弦は忘れていなかった。

 

 明日、追う。

 

 必ず。

 

 そう思いながら、奎星がまた叫ぶ。

 

「清弦!」

 

「今度は何だ!」

 

「好きなら言えよ!」

 

「まだ言うのか、貴様は!!」

 

 清弦はもう一度、酒を飲んだ。

 

 歓声が上がる。

 

「SEIGEN!」

 

「SAMURAI TWO!」

 

「黙れぇ!!」

 

 こうして、百五十年以上未来へ帰る方法を探して幕末へ飛ばされた蓮根奎星は、横浜へ到着した初日に地下決闘で賞金を稼ぎ、外国人相手に三人抜きをし、侍と勘違いされ、教師の名前を国際的な乾杯の掛け声へ変え、そのうえ生まれて初めて舶来ビールの味まで覚えた。

 

 世界を救うためでも、歴史を守るためでもない。

 

 ただ腹が減って、宿代が欲しかっただけである。

 

 そして未来へ帰った暁には、烏丸スズメに怒られる理由が、また一つ、確実に増えていた。

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