鈴が倒れたのは、その日の昼前だった。
朝から具合が悪かったわけではない。むしろ、奎星と清弦が北の谷から命からがら戻ってきた昨夕の方が、鈴は忙しく動き回っていた。泥と血にまみれた二人を見て顔色を変え、村人を呼び、清弦の脇腹へ布を巻き、奎星の切れた口元を洗い、二人が「大丈夫」と言うたびに交互に睨みつけた。
夜になっても、鈴は何度も清弦の家へ顔を出した。
「痛みは?」
「ない」
「嘘」
「少しだ」
「薬は?」
「飲んだ」
「本当に?」
「奎星」
「飲んでたよ」
「貴様は余計なことだけ即答するな」
そんなやり取りさえあった。
だから翌朝、鈴がいつものように起き、井戸へ水を汲みに行き、近所の老婆の家へ食事を届けたと聞いたとき、誰も特別な異変を感じなかった。身体が弱いとはいえ、鈴はいつもそうして自分の一日を始めていたし、村の者たちもそれを疑わなかった。
異変が起きたのは、昼前だった。
村の中央を、子供の叫び声が駆け抜けた。
「清弦兄ちゃん!」
奎星と清弦は、神代榊の根元で昨日の記録を見直していた。地面へ広げた紙には、霊脈の流れと杭の位置が乱雑に書き込まれている。二人が同時に顔を上げると、十にもならない男の子が、青ざめた顔でこちらへ走ってくるのが見えた。
「清弦兄ちゃん、鈴姉ちゃんが!」
清弦が立ち上がる。
「何だ」
「倒れた!」
その言葉を聞いた瞬間、清弦の手から紙が落ちた。
*
鈴の家には、すでに村人が集まっていた。
「道を空けろ!」
普段なら年長者へそんな口を利かない清弦が、人の肩を押し退けるようにして家の奥へ入っていく。奎星もその後に続いた。
小さな家だった。板敷きの部屋と畳を敷いた寝間が一つあるだけで、竈からは昼餉のために焚いた火の匂いが残っている。鍋の中では粥が煮立ちかけたまま、誰にも構われずに白い湯気を上げていた。
その奥の布団に、鈴が寝かされていた。
「鈴!」
清弦が膝をつき、肩へ手を置く。しかし、返事はない。
黒髪は汗で頬へ張りつき、顔はひどく赤い。閉じられた瞼の下で眼球がかすかに動き、眉間には苦しげな皺が刻まれている。胸は大きく上下していたが、呼吸は浅く、速かった。
「はっ……は……っ……」
息を吸っても、すぐに吐き出してしまう。次の呼吸が追いつかず、喉の奥で細い音が鳴っていた。
清弦が額へ触れる。
「熱い……」
手を離してから、確かめるようにもう一度触れた。けれど、触れるまでもなかった。鈴の身体からは、布団越しにも分かるほどの熱が立ち上っている。
「いつからだ」
清弦の声は低かった。
隣にいた年配の女が、怯えたように答える。
「ほんの少し前だよ。うちから戻る途中で、急に膝をついてね。最初はいつもの立ち眩みかと思ったんだけど、呼んでも返事をしないから……」
「意識は」
「ない。何度呼んでも」
「鈴」
清弦が頬へ手を添える。
「鈴。聞こえるか」
反応はなかった。
「私だ」
それでも、鈴は目を開けない。
「鈴」
奎星は入口近くに立ったまま、その様子を見ていた。
昨日までの鈴は、確かに身体が強くなかった。霊脈の異常が始まってからは特に調子を崩しやすく、長く歩けば息を切らし、急に立ち上がれば眩暈を起こすこともあった。けれど、目の前にいる鈴の苦しみは、それまでの体調不良とは明らかに違っていた。
見た瞬間から分かる。
これは病ではない。
何かが、鈴の身体の内側へ入り込んでいる。
「清弦」
奎星の声が変わった。
「腕」
「何だ」
「鈴ちゃんの右腕を見せて」
清弦が袖をまくる。
細く白い腕の内側に、黒い線が浮かんでいた。
「……何だ、これは」
村人たちが息を呑む。
血管ではない。肘の内側から手首へ向かって、墨を水へ垂らしたような黒い筋が走っている。一本ではなく、途中で枝分かれしながら何本も広がり、その隙間を赤黒い光が脈打つように移動していた。
どくん、と鈴の身体がわずかに跳ねる。
それに合わせて、黒い筋の中の赤黒い光が強くなった。
「昨日の妖魔……」
奎星が呟く。
黒褐色の皮膚の下を巡っていた、あの赤黒い光と同じだった。
清弦も気づいていた。鈴の腕を支えたまま、黒い筋を指で追う。手首から肘へ、肘から袖の奥へ。肩へ続き、首筋にも薄い影が浮かび始めている。
「……呪いだ」
その一言で、部屋の空気が凍った。
「呪い?」
老婆が聞き返す。
清弦は答えなかった。鈴の胸元へ手を翳し、目を閉じる。土地へ触れ、流れを読むときと同じ動作だった。ただ今、清弦が触れているのは地面ではない。ひとりの人間の身体だった。
しばらくして、清弦の眉間が深く寄る。
「何か分かる?」
「霊脈と繋がっている」
「どういう意味だよ」
「呪いが、鈴の中だけで閉じていない」
清弦が目を開く。
「外から魔力が流れ込んでいる」
「外?」
「北だ」
奎星の表情が変わった。
「……あいつ」
昨日、北を指していた測定器。集められた霊脈。谷底に現れた巨大な妖魔。そして、そこに立っていた神代以蔵。
「これ、偶然じゃねえ」
「ああ」
清弦の返事には、一切の迷いがなかった。
鈴の身体がまた大きく震えた。
「っ……ぁ……」
「鈴!」
清弦が身体を支える。意識は戻らない。熱に浮かされているのか、何か悪い夢を見ているのか、奎星には分からなかった。ただ、鈴の唇がかすかに動いた。
「……せい……」
清弦の呼吸が止まる。
「鈴?」
返事はない。
「聞こえるか」
鈴の唇は、それ以上動かなかった。苦しそうな呼吸だけが、狭い部屋の中で繰り返されている。
奎星は拳を握った。
清弦は鈴を静かに布団へ戻した。その顔を見た瞬間、奎星は胸の奥に嫌な予感を覚えた。
さっきまでの清弦とは違う。
怒っているのでも、怯えているのでもない。
何かを決めた顔だった。
「清弦?」
返事はない。
清弦が立ち上がり、村人たちへ向き直る。
「全員、出てくれ」
「え?」
「清弦」
「早く」
声は静かだった。だからこそ、誰もすぐには反論できなかった。
「鈴を診る」
「でも……」
「頼む」
短い言葉だった。年配の女が何か言おうとしたが、清弦の顔を見て口を閉じる。
「……何かあったら、すぐ呼ぶんだよ」
「ああ」
一人、また一人と村人たちが部屋を出ていく。奎星も腰を上げた。
「じゃ、俺も」
「お前は残れ」
「え?」
清弦は鈴を見たまま言った。
「扉を閉めろ」
嫌な予感が、さらに強くなった。それでも奎星は障子を閉める。部屋には三人だけが残された。
外では、村人たちが息を潜めるように待っている。子供を遠ざける小声や、井戸から水を運ぶ足音が、薄い障子一枚の向こうで途切れ途切れに聞こえていた。
清弦は鈴の枕元へ座った。右手を鈴の額へ置き、左手を自分の胸へ当てる。
そして、言葉を唱え始めた。
「……病むものは病まぬものへ。沈む影は立つ影へ」
奎星の眉が動く。
「清弦?」
清弦は止まらなかった。聞いたことのない古い言葉が、一定の節を伴って続いていく。同じ響きが繰り返され、言葉の終わりが互いを追いかけるように重なっていた。
「血より血へ、息より息へ。彼方に掛かる鎖を此方へ――」
「おい」
鈴の腕に浮かんだ黒い線が動いた。
奎星が立ち上がる。黒い筋が、ほんのわずかに清弦の指先へ向かって伸びていた。
「待て」
清弦は止まらない。
「名を渡さず、命を渡さず、ただ痛みのみ――」
「清弦」
「影を移し、熱を移し、呪を――」
奎星が清弦の肩を掴んだ。
「何しようとしてんだ!?」
清弦の詠唱が止まる。
一秒ほどの沈黙のあと、清弦は顔だけを奎星へ向けた。
「離せ」
「何やってんのか聞いてんだよ!」
「鈴の呪いを全て私に移す」
奎星は言葉を失った。
「……は?」
「私なら耐えられる」
「良いわけねえだろ!」
「離せ」
「ふざけんな!」
「時間がない!」
清弦が奎星の腕を振り払おうとする。
「呪いが心臓まで届けば遅い!」
「だから自分に移す!?」
「他に方法がない!」
「あるか探せよ!」
「探している間に死んだらどうする!」
「だからって!」
清弦が再び鈴へ手を伸ばす。奎星はその手首を掴み、強引に引き戻した。
「やめろ!」
「離せ!」
「やめろっつってんだろ!」
「貴様には関係ない!」
その言葉で、奎星の中の何かが切れた。
清弦の胸ぐらを掴む。布地が手の中で大きく歪んだ。
「っ――」
そのまま引き起こし、畳を踏みしめながら二歩、三歩と後ろへ押し込む。清弦の背中が壁へ叩きつけられ、どん、と鈍い音が部屋に響いた。
「奎星!」
「てめえが苦しんで何が変わるんだよ!」
「黙れ」
「鈴ちゃんから呪い取ったら、お前が死ぬかもしれねえんだろ!」
「黙れ」
「あの子のためになると思ってんのか!?」
「黙れ!」
「鈴ちゃんのために死んだら、喜ぶとでも思ってんのか!?」
「貴様に何がわかる!!」
清弦の怒声が部屋を揺らした。障子の向こうにいた村人たちまで、息を呑んだ気配が伝わってくる。
清弦の顔には、奎星が今まで見たことのないものが剥き出しになっていた。怒り、恐怖、焦り。そして、どうしようもないほどの絶望。
「何が分かる!」
清弦が奎星の手を掴む。
「私は!」
声が掠れた。
「あいつが生まれたときから知っている!」
「…………」
「身体が弱くて、冬になれば熱を出して、少し走れば息を切らして、それでも人の心配ばかりして!」
奎星は胸ぐらを離さない。
「昨日だってそうだ!」
清弦の指が震えている。
「私が戻ったら、自分のことより先に怪我はないか、熱はないか、薬は飲んだかと!」
「…………」
「ずっとだ!」
清弦の目が赤くなる。
「ずっと見てきた!」
鈴の荒い呼吸が、二人の間へ聞こえていた。
「だからだ!」
清弦が叫ぶ。
「私で済むなら、それでいいだろうが!」
奎星の顔が歪んだ。
次の瞬間、胸の奥から声が弾けた。
「俺が一番わかってんだよ!!」
清弦が止まる。
奎星自身も、言葉を吐き出したあとで、胸の奥を強く掴まれたような顔になった。
脳裏に、スズメの姿が浮かんだ。
最初は、第零書庫から戻ったあとの病室だった。自分が運び込まれてから、スズメはずっとベッドの横にいた。医療教師に何度休めと言われても、「私は大丈夫です」と答え、ほとんど眠らずに付き添っていた。事情聴取へ呼ばれていたはずなのに、奎星が目を覚ましたと聞くと、普段なら廊下を走るような人ではない彼女が、髪まで乱し、息を切らして病室へ駆け込んできた。
「二度と、あのような真似はしないでください」
死の呪文の前へ立ったこと。自分を庇ったこと。そのすべてを、スズメは怒った。
奎星はそのとき、助けたかったのだと答えた。スズメがいなくなったら困るのだと。
すると彼女は泣きそうな目で、奎星の手へ小さな手を重ねた。
「私は、あなたに生きていてほしいのです」
その言葉が、今も胸の奥に残っている。
「俺もやったんだよ……!」
奎星の声が震えた。
清弦は何も言えない。
「何回も!」
夏、鬼火鳥を追った山で、自分へ向いていなかった魔法へ飛び込んだ。スズメを突き飛ばし、代わりに青白い刃を全身で受けた。肩、胸、腕、脇腹、背中。血が止まらず、途中から何も覚えていない。
けれど後になって、常隠島でスズメの心の中へ触れたとき、彼女の記憶が流れ込んできた。
血まみれになって倒れている自分。
その姿を見つめるスズメの感情。
怖い。
嫌だ。
死なないで。
お願いだから。
起きて。
手が冷たい。
まだ生きている。
目を開けて。
あのとき初めて、奎星は知った。自分が誰かを守ったつもりでいた、その裏側で、守られた人間がどんな顔をしていたのかを。
「自分が危ないとか、後から考える」
奎星は吐き出すように言った。
「スズメちゃん、俺のことずっとそう言ってた」
清弦は黙っている。
「また無茶した。大丈夫は信用できない。怪我に慣れるなって」
何度も、何度も言われた。
「俺はさ、助けられたんならいいじゃんって思ってた」
奎星の指へ力がこもる。
「相手が無事なら、それでいいって。俺が怪我したって、俺が決めたんだからいいって」
左手首の銀色の腕時計が、泥に汚れながらも時を刻んでいる。スズメからもらったものだった。
秒針が一つ進む。
また一つ進む。
「でも違った」
奎星の喉が動く。
「全然、違った」
あの日、彼女の心の中へ入らなければ、知らなかったかもしれない。自分の手が冷たくなっていくのを握りながら、スズメがどれほど怖がっていたのかを。
「助ける側が勝手に死んだら」
奎星は清弦を睨んだ。
「残った方は、ずっとそれを持ってくんだよ」
「…………」
「助かった、良かった、で終わらねえんだよ!」
清弦の目がわずかに揺れる。
「何で俺の代わりにって。何で一人で決めたって」
スズメは、何度奎星が怪我をしても怒った。怖がった。心配した。それでも離れなかった。記憶を失っても、もう一度会いに来た。そして未来を考えるようになった今も、彼女の胸の中には、離れてほしくない、見ていたい、無事でいてほしいという矛盾した願いがある。
奎星は、それを知っている。
「ちょっとは残された相手の気持ちも考えろ……!」
胸ぐらを掴む手が震えた。
「何も解決しねえだろ……!」
清弦が初めて目を逸らした。
その視線の先には、鈴がいる。
布団の中で、苦しそうに息をしている。髪は汗で濡れ、青い硝子の髪飾りだけが枕元へ外されていた。昨日、鈴はそれを手にして、嬉しいと笑った。
もし目を覚ましたとき、清弦がいなかったら。
その想像が、清弦の顔をわずかに歪めた。
奎星はしばらく黙っていた。やがて、低い声で言う。
「冷静になれよ、馬鹿野郎……」
ようやく胸ぐらを離した。
清弦の着物には、奎星の手の跡が皺になって残っている。奎星は一歩下がった。
そのまま、二人とも何も言わなかった。
鈴の呼吸。外を吹く風。竈の薪が一度だけ弾ける音。狭い部屋の中を、長い沈黙がゆっくりと通り過ぎていった。
*
清弦は壁へ背を預けたまま、しばらく動かなかった。奎星も何も言わず、鈴の額へ乗せられていた濡れ布を取り替えた。
清弦はその様子を見ていた。
それから、鈴の腕に浮かぶ黒い線へ目を落とし、自分の手を見て、もう一度鈴を見た。
「……奎星」
「何」
声は、さっきとはまるで違っていた。低く、静かで、ようやく考えることを取り戻した声だった。
「昨日の妖魔」
「うん」
「貴様一人なら勝てたか」
奎星は少し考えた。
「無理」
「私一人なら」
「もっと無理」
「貴様」
「事実だろ」
清弦は否定しなかった。
「二人でも」
「勝てなかった」
「ああ」
清弦は目を閉じた。
あの谷で見た巨大な四肢。黒い奔流。奎星の全力に近いデパルソですら、巨体を半歩しか動かせなかった。清弦の古い術も、奎星の現代魔法も、確かに通った。だが、どちらも足りなかった。
「今のままでは、勝てない」
清弦が言った。
奎星は清弦を見る。
「……ああ、そうだな」
悔しかった。認めたくなかった。けれど、事実から目を逸らしても鈴は助からない。
清弦は立ち上がった。今度は鈴へ手を伸ばさず、部屋の隅に置かれていた紙と筆を取る。
「私も現代魔法を学ぶ」
「…………」
奎星が瞬きをした。
「なに?」
「聞こえなかったか」
「いや、聞こえたけど」
「なら返事をしろ」
「急じゃね!?」
「急ぐ必要がある」
「そっち!?」
清弦はもう考え始めていた。さっきまで鈴しか見えていなかった顔ではない。鈴を助けるために何が必要かを、冷静に組み立てようとする顔だった。
「昨日の戦いで分かった。私の術は遅い」
「全部じゃないだろ」
「戦闘では遅い」
「まあ」
「土地を掴めれば強い。だが、掴むまでに時間が掛かる。場所が変われば、また読み直さなければならない」
「うん」
「お前の魔法は速い」
「おう」
「腹立たしいほどにな」
「最後いる?」
「いる」
清弦は奎星を見る。
「あの武装を飛ばす術」
「エクスペリアームス?」
「それだ」
「妖魔、杖持ってねえけど」
「例だ!」
「怒んなよ」
「防壁も要る」
「プロテゴ」
「拘束も」
「インカーセラス」
「吹き飛ばすもの」
「デパルソ」
「人を眠らせる赤いの」
「ステューピファイ」
「それらだ」
「全部じゃん」
「全部教えろ」
「無茶言うなよ!」
奎星は思わず笑いかけたが、すぐに表情を戻した。それでも、張りつめていた空気がほんの少しだけ緩む。
「つっても」
奎星は腰の神代榊を見る。
「杖いるぞ」
「ああ」
清弦は即答した。
「だから作る」
「作る?」
「村の平坂の爺さんが、杖の類なら作れる」
「初耳なんだけど」
「貴様が聞かなかったからだ」
「村に杖職人いんの!?」
「杖職人ではない。弓や祭具、術具を作る。昔は魔法使いの棒も何本か直していた」
「棒って言うなよ!」
「杖だろうが棒だろうが木だ」
「杖には芯もあるんだよ!」
「芯?」
清弦の眉が動く。
奎星は自分の神代榊を抜いた。
「これ、神代榊の木だけじゃない。中に鬼火鳥の尾羽が入ってる」
「…………」
「知らなかった?」
「当然だ。割って確かめるわけにもいかん」
「割るなよ!?」
清弦は神代榊を見つめた。黒に近い木肌。握り手に走る炎のような彫刻。自分が昨日まで不思議そうに眺めていた、百五十年以上未来の杖。
「貸せ」
「え」
「見本にする」
「これを?」
「ああ」
鈴が苦しそうに息を吐いた。
二人は同時に口を閉じた。清弦の顔から笑いが消える。
「……時間がない」
「うん」
奎星は神代榊を差し出した。
「壊すなよ」
「私ではなく平坂へ言え」
「お前が見張れ!」
「分かった」
清弦は杖を受け取った。その瞬間、神代榊の表面がほんのわずかに温かく光った。
二人は黙ってそれを見た。
「今」
「何も言うな」
「いや、でも」
「今はいい」
清弦は立ち上がった。
「行くぞ」
「鈴ちゃんは?」
清弦の足が止まる。
一瞬だけ、布団へ目を向けた。さっきまでなら、そこから離れることなど考えなかっただろう。
「村の者に頼む」
それでも、そう言った。
奎星は何も言わず、ただ小さく頷いた。
*
平坂の家は、村の南端にあった。
大きな納屋が一つあり、中には木材、鉋、鋸、鑿、弓の部品、祭りで使うらしい木札、細い金属板、用途の分からない術具が所狭しと並んでいる。木屑と油の匂いが混じった空気の中で、平坂の爺さんは作業台へ向かっていた。
「杖を作れ?」
七十を過ぎているように見える老人だった。背は曲がっているが腕は太く、片目には白い濁りがある。もう片方の目だけで、清弦を睨みつけた。
「今日中に」
「馬鹿言え」
「急ぎだ」
「馬鹿言え」
「鈴が呪われた」
老人の顔から、文句を言うための表情が消えた。
「……何?」
「北の妖魔だ」
清弦はそれだけを告げた。
平坂はしばらく黙ったあと、短く言った。
「見せろ」
清弦が奎星の杖を差し出す。
老人は受け取り、軽く振り、木肌を眺め、握りを確かめた。
「ほう」
その目の色が変わる。
「こいつぁ……」
「神代榊」
「見りゃ分かる」
「分かんの!?」
奎星が身を乗り出す。
平坂が片目で奎星を見た。
「誰だ、お前」
「今!?」
「昨日から村中で騒いどる未来の馬鹿だろ」
「認識ひどくない!?」
「馬に清弦の名前をつけた奴」
「そこまで広がってんの!?」
「奎星」
「何」
「今は黙れ」
「はい」
平坂は神代榊を光へ翳した。
「木は古い。相当使い込まれとる」
「未来から来たから」
「黙っとれ。頭が痛くなる」
「みんな同じこと言うじゃん」
老人の指が、杖の握り手へ走る炎のような彫刻をなぞる。
「中に何か入っとるな」
「鬼火鳥の尾羽」
「ほう」
平坂は今度こそ奎星を見た。
「お前、鬼火鳥の尾をむしったのか」
「むしってねえよ!」
「ならいい」
「疑い方!」
清弦が口を挟む。
「同じものを作れるか」
「同じ?」
「ああ」
平坂は神代榊を見て、清弦を見て、もう一度杖へ目を戻した。
「枝はどうする」
「神代榊から落ちたものがある」
「生木を切る気じゃないならいい」
奎星が横を見る。
「切らないんだ」
「当たり前だ」
清弦の返事は速かった。
「借りるんだろ?」
「……ああ」
平坂は一度だけ笑った。
「羽根は?」
清弦が答えようとしたとき、納屋の屋根から、きぃ、と細い鳴き声がした。
三人が上を見る。
鬼火鳥が一羽、梁へ留まっていた。
「いつからいたんだ」
奎星が呟く。
青白い尾羽を持つ鳥は三人を見下ろし、身体を一度震わせた。
一枚の長い羽根が、ゆっくりと落ちてくる。
奎星が受け取った。
青白い羽根の縁を、薄い炎のような光が走っている。
「うそだろ」
清弦も黙って見ていた。
平坂だけが、さほど驚いた様子を見せない。
「決まったな」
「こんな都合よく?」
「欲しけりゃくれと言って取れる相手じゃねえ」
老人は羽根を受け取った。
「向こうから置いていったなら使え」
清弦が鬼火鳥を見る。
鳥は首を傾げ、もう一度短く鳴いた。
「……借りるぞ」
清弦が言う。
鬼火鳥は返事をしなかった。ただ翼を広げ、納屋の外へ飛び去っていく。
奎星はその背中を見送った。
「マジで俺の杖じゃん……」
「まだ作っていない」
「材料完全一致してんだけど」
「黙れ」
平坂が袖をまくる。
「夕方まで掛かる」
「頼む」
「急いで雑になるぞ」
「戦えればいい」
「そういうことを言う奴の道具が、一番面倒なんだ」
老人は文句を言いながら、作業台の上を片づけ始めた。
「置いてけ」
清弦が神代榊を置く。
「これを見本に」
「分かった」
「握りは」
「邪魔だ」
「しかし」
「作るのはわしだ。お前は別のことをしろ」
清弦が止まる。
そして、頭を下げた。
「……頼む」
平坂は答えなかった。ただ作業台の横から、古い鉋を取り出した。
*
「それから」
平坂の家を出た瞬間、清弦が言った。
「まだ戦力が必要だ」
「戦力?」
「ああ」
「つったって、どこにいんだよ、そんなの」
奎星は腕を組み、村を見回した。農作業に慣れた大人たちはいる。古い術を少し使える者もいる。だが、昨日の妖魔と正面から戦わせられる人間が、この村にいるとは思えなかった。
「御影先生を呼べたら一発なんだけどな」
「誰だ」
「未来の妖魔」
「教師ではなかったのか」
「半分妖魔」
「教師に謝れ」
「本人いないし」
「それなら」
清弦が歩きながら言った。
「いるだろう」
「何が」
「一晩で友人になった奴らが」
奎星の足が止まった。
「…………」
清弦はそのまま歩いていく。
「待って」
「何だ」
「一晩で」
「ああ」
「友人」
「ああ」
「酒飲んで」
「ああ」
「決闘して」
「そうだ」
「……もしかして」
奎星の顔が引きつった。
「横浜の連中!?」
清弦が振り返る。
「ああ」
「ジェームズ!?」
「そういう名だったな」
「ミラーも!?」
「呼べるなら呼べ」
「高瀬さんは!?」
「言葉が必要だろう」
「全員じゃん!」
「何人いる」
「知らねえ!」
「友人なのに?」
「一晩だぞ!」
「貴様が言ったんだろう。一晩で友人になれると」
「言ってねえよ!」
「態度が言っていた」
「何だそれ!」
清弦は村の中央へ向かう。
「支度をしろ」
「マジで行くの?」
「他に戦える人間の心当たりがあるのか」
「…………」
「私はない」
奎星は考えた。
ジェームズ。ミラー。地下決闘場にいた日本人たち。西洋式魔法を使える者。古い日本の術を使う者。そして、高瀬。言葉を繋げられる人間。
「でもさ」
奎星が頭を掻く。
「来るかな」
「来させろ」
「無茶言うなよ!」
「昨夜までの貴様なら、酒を一杯出せば来ると言うところだろう」
「酒はもう飲まねえ!」
「信用していない」
「鈴ちゃんと同じこと言うな!」
そこまで言って、二人とも足を止めた。
鈴。
その名が、二人の間へ落ちる。
奎星が先に口を開いた。
「行こう」
「ああ」
「絶対連れてくる」
「全員は要らん」
「友達百人連れてくる」
「妖魔より邪魔だ!」
「じゃ十人」
「多い!」
「注文多いな!」
清弦の口元が、ほんの一瞬だけ動いた。
奎星はそれを見たが、何も言わなかった。
*
問題は馬だった。
「……そういや」
村の端まで来たところで、奎星が立ち止まる。
「馬どこ?」
「…………」
清弦も足を止めた。
「昨日」
「うん」
「森へ置いてきた」
「うん」
「姿くらましした」
「うん」
二人の間に、気まずい沈黙が落ちる。
「忘れてたな?」
「貴様もだろう!」
「ウミツバメ二号ぉぉぉ!!」
奎星が山へ向かって叫んだ。
「声で来るか!」
「じゃ、どうすんだよ!」
清弦は額を押さえた。
「……待て」
口へ指を入れる。
奎星が見る。
「何してんの」
清弦が鋭く息を吹いた。
ぴぃぃぃぃ――!
高い音が、村から山へ伸びていく。
奎星の目が丸くなった。
「指笛できんの!?」
「馬を呼ぶときに使う」
「教えて!」
「今か!?」
「カッコいいじゃん!」
「貴様は緊張感というものを持て!」
清弦がもう一度、山へ向かって指笛を吹く。
返事はない。
三度、四度と繰り返し、間を置いてもう一度吹いた。
「……無理じゃね?」
「黙れ」
「結構遠いぞ」
「黙れ」
「妖魔に食われてたら」
「縁起でもないことを言うな!」
しばらく待っても、何も来なかった。
奎星が肩を落としかけたとき、遠くから蹄の音が聞こえてきた。
「……え」
村人たちも振り返る。
山道の木々の間から、茶色い馬が姿を現した。
「二号!!」
ウミツバメ二号だった。
鞍は少しずれ、脚には泥がついている。鼻息も荒かったが、怪我はない。その後ろから、黒鹿毛の馬も現れた。
「清弦二号!」
「その名で呼ぶな!」
二頭が戻ってくる。
奎星は走り寄り、ウミツバメ二号の首へ抱きついた。馬は迷惑そうに鼻を鳴らす。
「生きてたぁ!」
「嫌がっているぞ」
「よかった!」
「感動の再会なんだよ!」
清弦は黒鹿毛の身体を確かめた。傷はほとんどなく、枝で擦った跡がある程度だった。噛まれた跡も、爪の跡もない。
「……妙だな」
「何が?」
「昨日の妖魔だ」
奎星も馬を見る。
「あの辺にいたなら、こいつらも見つかっててもおかしくない」
「ああ」
「でも無傷」
清弦二号が耳を動かす。
「追わなかった?」
「おそらく」
「何で」
「分からん」
清弦の目が細くなる。
巨大妖魔は、腹を空かせた獣ではない。目につく生き物を無差別に襲う存在でもない。昨日、あれは奎星と清弦を明確に狙っていた。
「……以蔵」
奎星が呟く。
「やっぱ、あいつが動かしてんのかな」
「完全に操っているかは分からん」
「でも」
「ああ」
鈴の呪い。襲われなかった馬。そして、自分たちへ向けられた執拗な攻撃。
偶然だけでは、説明がつかなくなってきている。
「今は行くぞ」
清弦が手綱を取った。
「調べるのは後だ」
「うん」
今必要なのは、勝つ方法だった。
*
出発の準備は、二人だけのものではなくなった。
話を聞いた村人たちが、次々と動き始める。
「握り飯持ってきな」
「こんなに!?」
「横浜まで行くんだろ」
竹皮に包まれた握り飯が六つ。さらに漬物、干した芋、小さな味噌玉まで用意された。
「馬の分もいる」
「こっちに干し草を括ってあるよ」
「水筒は?」
「二つ」
「薬」
「清弦は忘れるから、奎星さんが持って」
「何で俺の信用が上がってんの?」
「清弦よりは飲ませるでしょう」
「まあ」
「何を納得している!」
別の家からは、清潔な布、傷薬、火打石、雨除け、縄が運ばれてきた。
「これも」
「何?」
「針と糸」
「何に使うの」
「服が破れたら直せる」
「俺らにできると思う?」
老婆が奎星と清弦を見た。
「……帰ってきてから直す」
「諦めんなよ!」
「お前もできんだろう!」
いつもなら、ここで笑いが起きる。今日も、ほんの少しだけ笑い声が上がった。
けれど、誰も鈴の家の方角を気にしない者はいなかった。
昨日まで横浜のビスケットを奪い合っていた子供たちも、今日は大人しく、家の前から遠く鈴の家を見つめている。
鈴は、村全体の子供だった。
清弦も両親を失ったあと、誰か一人に育てられたのではない。この村のいくつもの手に支えられ、育ってきたのだ。
「清弦」
白髪の老人が呼びかけた。
清弦が振り返る。
「何だ」
「お鈴の面倒は、わしたちが見る」
「…………」
「お前たちは、するべきことをしなさい」
清弦は一瞬、何か言おうとした。
「でも」
「お前」
老人が杖をついたまま睨む。
「自分だけであの子を育てたつもりか?」
清弦が黙る。
「赤ん坊の頃、夜泣きした鈴を背負ったのは誰だ」
「…………」
「お前が熱を出したとき、粥を作ったのは誰だ」
「…………」
「畑で倒れた鈴を家まで運んだのは?」
横から別の老婆が口を挟む。
「私だね」
「そうじゃ」
「清弦はそのとき、自分も熱を出して寝てたけどね」
「言うな!」
今度は、少しだけはっきりと笑いが起きた。
老人は清弦を見る。
「村ってのは、そういうもんだ」
その言葉に、清弦の顔が止まった。
村。土地。鬼火鳥。神代榊。
誰か一人が所有するものではない。誰か一人が、すべてを管理するものでもない。
困ったときには助ける。困ったときには助けられる。
それは、清弦がずっと以蔵へ言っていたことだった。
なのに鈴のことになった瞬間、自分だけで全部を背負おうとした。
「……ああ」
清弦は頭を下げた。
「感謝する」
「必ず帰ってこい」
「分かっている」
老人が眉を上げる。
「本当か?」
清弦は、ほんの少しだけ奎星を見た。奎星も清弦を見返す。
「……今度は」
清弦が答えた。
「分かっている」
奎星は何も言わなかった。ただ、口元だけを少し上げた。
*
出発前、清弦は一度だけ鈴の家へ戻った。
奎星は外で待った。中へは入らず、二人きりにしておいた。
部屋では、鈴の苦しそうな呼吸がまだ続いている。額の布は新しく替えられ、老婆が二人、枕元に付き添っていた。
「少しだけ」
「いいよ」
二人が席を外す。
清弦は枕元へ座った。
「鈴」
返事はない。
黒い線は、さっきより増えていた。胸が締めつけられる。
今すぐ、あの術を使えば、自分へ移せる。苦しみも、熱も、呪いも、鈴から奪える。
手がわずかに動いた。
しかし、止めた。
――ちょっとは残された相手の気持ちも考えろ。
「……うるさい奴だ」
清弦は小さく呟いた。
鈴の手を見る。細い指。昨日、青い髪飾りを持って、嬉しいと笑っていた手。
「戻る」
清弦が言った。
「聞こえていなくても言っておく」
返事はない。
「横浜へ行く」
鈴の呼吸だけが返ってくる。
「人を連れて戻る」
清弦は一度、言葉を止めた。
「杖も作る」
自分で言っておきながら、少し妙な気分になった。
「西洋の魔法を覚える」
もし意識があれば、鈴は驚いただろうか。それとも、清弦ならやると思っていたと笑うだろうか。
「だから」
清弦の指が鈴の手へ触れる。
その手を、ほんの少しだけ握った。
「待っていろ」
そう言って、手を離す。
立ち上がる。
今度は、振り返らなかった。
*
村の外では、二頭の馬が待っていた。
ウミツバメ二号には食料と薬。清弦二号には測定器と簡単な荷物が積まれている。
奎星が馬へ乗り、清弦も鐙へ足を掛けた。
「杖なしで大丈夫?」
「貴様がいる」
「うわ、信頼されてる」
「盾にする」
「取り消せ!」
「冗談だ」
「お前が冗談言った!?」
「うるさい!」
清弦二号が驚いて耳を動かす。
「ほら、清弦二号もビビってる」
「馬へ謝れ!」
「名前は認めた?」
「認めていない!」
少しだけ、いつもの二人だった。
村人たちが見送っている。
「清弦!」
誰かが呼ぶ。
「奎星さん!」
奎星が手を上げる。
「行ってくる!」
「気をつけて!」
「酒飲むなよ!」
「飲まねえよ!!」
なぜそこだけ念を押されるのか。奎星は不満そうだったが、清弦は少し笑った。
「有名だな」
「お前も飲んだだろ!」
「一口だ」
「嘘つけ!」
二頭が街道へ進み出す。
向かう先は横浜だった。異国の言葉と日本語、古い術と新しい魔法、酒と歓声が入り混じっていた町。そこで一晩のうちに奎星を侍にした男たちのもとへ、二人は向かう。
昨日までは、二人だけだった。
一人は未来の魔法を使い、もう一人は昔の魔術を使う。それぞれの力を持ち寄って、あの巨大な妖魔へ挑み、そして負けた。
なら、次は増やせばいい。
学べばいい。
借りればいい。
助けてもらえばいい。
清弦は、それをようやく自分自身にも許した。
村を出る直前、奎星が一度だけ後ろを振り返った。
神代榊。巨大な枝。その下に広がる小さな村。鈴が眠っている家は、ここからでは見えない。
「清弦」
「何だ」
「絶対、間に合わせようぜ」
「言われなくても分かっている」
「あと」
「何だ」
「横浜に着いてジェームズへ説明するとき、高瀬さんがいなかったらどうする?」
清弦が止まった。
「…………」
奎星も止まる。
「俺、英語できねえぞ」
「知っている」
「妖魔って英語で何て言うの」
「私に訊くな」
「モンスター?」
「知らん」
「ビッグ・モンスター?」
「知らん」
「ベリー・ビッグ・モンスター?」
「貴様」
「何」
「前回と何も成長していないな」
「うるせえ!」
二頭の馬が、街道を駆け出した。
その頃、村の南端にある平坂の納屋では、鉋が神代榊の枝を削り始めていた。薄い木片が一枚、また一枚と床へ落ちていく。
作業台の横には、百五十年以上先から来た一本の杖。そして、青白く光る鬼火鳥の尾羽。
まだ名もない新しい杖が、少しずつその形を現そうとしていた。
未来の写真の中で、蓮根清弦が握っていた、あの一本へ。
街道の先では、奎星と清弦が、今度こそ二人だけで戦わないために横浜へ向かっていた。