マホウトコロ   作:西野圭吾

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第9話 残されたものの気持ち

 鈴が倒れたのは、その日の昼前だった。

 

 朝から具合が悪かったわけではない。むしろ、奎星と清弦が北の谷から命からがら戻ってきた昨夕の方が、鈴は忙しく動き回っていた。泥と血にまみれた二人を見て顔色を変え、村人を呼び、清弦の脇腹へ布を巻き、奎星の切れた口元を洗い、二人が「大丈夫」と言うたびに交互に睨みつけた。

 

 夜になっても、鈴は何度も清弦の家へ顔を出した。

 

「痛みは?」

 

「ない」

 

「嘘」

 

「少しだ」

 

「薬は?」

 

「飲んだ」

 

「本当に?」

 

「奎星」

 

「飲んでたよ」

 

「貴様は余計なことだけ即答するな」

 

 そんなやり取りさえあった。

 

 だから翌朝、鈴がいつものように起き、井戸へ水を汲みに行き、近所の老婆の家へ食事を届けたと聞いたとき、誰も特別な異変を感じなかった。身体が弱いとはいえ、鈴はいつもそうして自分の一日を始めていたし、村の者たちもそれを疑わなかった。

 

 異変が起きたのは、昼前だった。

 

 村の中央を、子供の叫び声が駆け抜けた。

 

「清弦兄ちゃん!」

 

 奎星と清弦は、神代榊の根元で昨日の記録を見直していた。地面へ広げた紙には、霊脈の流れと杭の位置が乱雑に書き込まれている。二人が同時に顔を上げると、十にもならない男の子が、青ざめた顔でこちらへ走ってくるのが見えた。

 

「清弦兄ちゃん、鈴姉ちゃんが!」

 

 清弦が立ち上がる。

 

「何だ」

 

「倒れた!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、清弦の手から紙が落ちた。

 

            *

 

 鈴の家には、すでに村人が集まっていた。

 

「道を空けろ!」

 

 普段なら年長者へそんな口を利かない清弦が、人の肩を押し退けるようにして家の奥へ入っていく。奎星もその後に続いた。

 

 小さな家だった。板敷きの部屋と畳を敷いた寝間が一つあるだけで、竈からは昼餉のために焚いた火の匂いが残っている。鍋の中では粥が煮立ちかけたまま、誰にも構われずに白い湯気を上げていた。

 

 その奥の布団に、鈴が寝かされていた。

 

「鈴!」

 

 清弦が膝をつき、肩へ手を置く。しかし、返事はない。

 

 黒髪は汗で頬へ張りつき、顔はひどく赤い。閉じられた瞼の下で眼球がかすかに動き、眉間には苦しげな皺が刻まれている。胸は大きく上下していたが、呼吸は浅く、速かった。

 

「はっ……は……っ……」

 

 息を吸っても、すぐに吐き出してしまう。次の呼吸が追いつかず、喉の奥で細い音が鳴っていた。

 

 清弦が額へ触れる。

 

「熱い……」

 

 手を離してから、確かめるようにもう一度触れた。けれど、触れるまでもなかった。鈴の身体からは、布団越しにも分かるほどの熱が立ち上っている。

 

「いつからだ」

 

 清弦の声は低かった。

 

 隣にいた年配の女が、怯えたように答える。

 

「ほんの少し前だよ。うちから戻る途中で、急に膝をついてね。最初はいつもの立ち眩みかと思ったんだけど、呼んでも返事をしないから……」

 

「意識は」

 

「ない。何度呼んでも」

 

「鈴」

 

 清弦が頬へ手を添える。

 

「鈴。聞こえるか」

 

 反応はなかった。

 

「私だ」

 

 それでも、鈴は目を開けない。

 

「鈴」

 

 奎星は入口近くに立ったまま、その様子を見ていた。

 

 昨日までの鈴は、確かに身体が強くなかった。霊脈の異常が始まってからは特に調子を崩しやすく、長く歩けば息を切らし、急に立ち上がれば眩暈を起こすこともあった。けれど、目の前にいる鈴の苦しみは、それまでの体調不良とは明らかに違っていた。

 

 見た瞬間から分かる。

 

 これは病ではない。

 

 何かが、鈴の身体の内側へ入り込んでいる。

 

「清弦」

 

 奎星の声が変わった。

 

「腕」

 

「何だ」

 

「鈴ちゃんの右腕を見せて」

 

 清弦が袖をまくる。

 

 細く白い腕の内側に、黒い線が浮かんでいた。

 

「……何だ、これは」

 

 村人たちが息を呑む。

 

 血管ではない。肘の内側から手首へ向かって、墨を水へ垂らしたような黒い筋が走っている。一本ではなく、途中で枝分かれしながら何本も広がり、その隙間を赤黒い光が脈打つように移動していた。

 

 どくん、と鈴の身体がわずかに跳ねる。

 

 それに合わせて、黒い筋の中の赤黒い光が強くなった。

 

「昨日の妖魔……」

 

 奎星が呟く。

 

 黒褐色の皮膚の下を巡っていた、あの赤黒い光と同じだった。

 

 清弦も気づいていた。鈴の腕を支えたまま、黒い筋を指で追う。手首から肘へ、肘から袖の奥へ。肩へ続き、首筋にも薄い影が浮かび始めている。

 

「……呪いだ」

 

 その一言で、部屋の空気が凍った。

 

「呪い?」

 

 老婆が聞き返す。

 

 清弦は答えなかった。鈴の胸元へ手を翳し、目を閉じる。土地へ触れ、流れを読むときと同じ動作だった。ただ今、清弦が触れているのは地面ではない。ひとりの人間の身体だった。

 

 しばらくして、清弦の眉間が深く寄る。

 

「何か分かる?」

 

「霊脈と繋がっている」

 

「どういう意味だよ」

 

「呪いが、鈴の中だけで閉じていない」

 

 清弦が目を開く。

 

「外から魔力が流れ込んでいる」

 

「外?」

 

「北だ」

 

 奎星の表情が変わった。

 

「……あいつ」

 

 昨日、北を指していた測定器。集められた霊脈。谷底に現れた巨大な妖魔。そして、そこに立っていた神代以蔵。

 

「これ、偶然じゃねえ」

 

「ああ」

 

 清弦の返事には、一切の迷いがなかった。

 

 鈴の身体がまた大きく震えた。

 

「っ……ぁ……」

 

「鈴!」

 

 清弦が身体を支える。意識は戻らない。熱に浮かされているのか、何か悪い夢を見ているのか、奎星には分からなかった。ただ、鈴の唇がかすかに動いた。

 

「……せい……」

 

 清弦の呼吸が止まる。

 

「鈴?」

 

 返事はない。

 

「聞こえるか」

 

 鈴の唇は、それ以上動かなかった。苦しそうな呼吸だけが、狭い部屋の中で繰り返されている。

 

 奎星は拳を握った。

 

 清弦は鈴を静かに布団へ戻した。その顔を見た瞬間、奎星は胸の奥に嫌な予感を覚えた。

 

 さっきまでの清弦とは違う。

 

 怒っているのでも、怯えているのでもない。

 

 何かを決めた顔だった。

 

「清弦?」

 

 返事はない。

 

 清弦が立ち上がり、村人たちへ向き直る。

 

「全員、出てくれ」

 

「え?」

 

「清弦」

 

「早く」

 

 声は静かだった。だからこそ、誰もすぐには反論できなかった。

 

「鈴を診る」

 

「でも……」

 

「頼む」

 

 短い言葉だった。年配の女が何か言おうとしたが、清弦の顔を見て口を閉じる。

 

「……何かあったら、すぐ呼ぶんだよ」

 

「ああ」

 

 一人、また一人と村人たちが部屋を出ていく。奎星も腰を上げた。

 

「じゃ、俺も」

 

「お前は残れ」

 

「え?」

 

 清弦は鈴を見たまま言った。

 

「扉を閉めろ」

 

 嫌な予感が、さらに強くなった。それでも奎星は障子を閉める。部屋には三人だけが残された。

 

 外では、村人たちが息を潜めるように待っている。子供を遠ざける小声や、井戸から水を運ぶ足音が、薄い障子一枚の向こうで途切れ途切れに聞こえていた。

 

 清弦は鈴の枕元へ座った。右手を鈴の額へ置き、左手を自分の胸へ当てる。

 

 そして、言葉を唱え始めた。

 

「……病むものは病まぬものへ。沈む影は立つ影へ」

 

 奎星の眉が動く。

 

「清弦?」

 

 清弦は止まらなかった。聞いたことのない古い言葉が、一定の節を伴って続いていく。同じ響きが繰り返され、言葉の終わりが互いを追いかけるように重なっていた。

 

「血より血へ、息より息へ。彼方に掛かる鎖を此方へ――」

 

「おい」

 

 鈴の腕に浮かんだ黒い線が動いた。

 

 奎星が立ち上がる。黒い筋が、ほんのわずかに清弦の指先へ向かって伸びていた。

 

「待て」

 

 清弦は止まらない。

 

「名を渡さず、命を渡さず、ただ痛みのみ――」

 

「清弦」

 

「影を移し、熱を移し、呪を――」

 

 奎星が清弦の肩を掴んだ。

 

「何しようとしてんだ!?」

 

 清弦の詠唱が止まる。

 

 一秒ほどの沈黙のあと、清弦は顔だけを奎星へ向けた。

 

「離せ」

 

「何やってんのか聞いてんだよ!」

 

「鈴の呪いを全て私に移す」

 

 奎星は言葉を失った。

 

「……は?」

 

「私なら耐えられる」

 

「良いわけねえだろ!」

 

「離せ」

 

「ふざけんな!」

 

「時間がない!」

 

 清弦が奎星の腕を振り払おうとする。

 

「呪いが心臓まで届けば遅い!」

 

「だから自分に移す!?」

 

「他に方法がない!」

 

「あるか探せよ!」

 

「探している間に死んだらどうする!」

 

「だからって!」

 

 清弦が再び鈴へ手を伸ばす。奎星はその手首を掴み、強引に引き戻した。

 

「やめろ!」

 

「離せ!」

 

「やめろっつってんだろ!」

 

「貴様には関係ない!」

 

 その言葉で、奎星の中の何かが切れた。

 

 清弦の胸ぐらを掴む。布地が手の中で大きく歪んだ。

 

「っ――」

 

 そのまま引き起こし、畳を踏みしめながら二歩、三歩と後ろへ押し込む。清弦の背中が壁へ叩きつけられ、どん、と鈍い音が部屋に響いた。

 

「奎星!」

 

「てめえが苦しんで何が変わるんだよ!」

 

「黙れ」

 

「鈴ちゃんから呪い取ったら、お前が死ぬかもしれねえんだろ!」

 

「黙れ」

 

「あの子のためになると思ってんのか!?」

 

「黙れ!」

 

「鈴ちゃんのために死んだら、喜ぶとでも思ってんのか!?」

 

「貴様に何がわかる!!」

 

 清弦の怒声が部屋を揺らした。障子の向こうにいた村人たちまで、息を呑んだ気配が伝わってくる。

 

 清弦の顔には、奎星が今まで見たことのないものが剥き出しになっていた。怒り、恐怖、焦り。そして、どうしようもないほどの絶望。

 

「何が分かる!」

 

 清弦が奎星の手を掴む。

 

「私は!」

 

 声が掠れた。

 

「あいつが生まれたときから知っている!」

 

「…………」

 

「身体が弱くて、冬になれば熱を出して、少し走れば息を切らして、それでも人の心配ばかりして!」

 

 奎星は胸ぐらを離さない。

 

「昨日だってそうだ!」

 

 清弦の指が震えている。

 

「私が戻ったら、自分のことより先に怪我はないか、熱はないか、薬は飲んだかと!」

 

「…………」

 

「ずっとだ!」

 

 清弦の目が赤くなる。

 

「ずっと見てきた!」

 

 鈴の荒い呼吸が、二人の間へ聞こえていた。

 

「だからだ!」

 

 清弦が叫ぶ。

 

「私で済むなら、それでいいだろうが!」

 

 奎星の顔が歪んだ。

 

 次の瞬間、胸の奥から声が弾けた。

 

「俺が一番わかってんだよ!!」

 

 清弦が止まる。

 

 奎星自身も、言葉を吐き出したあとで、胸の奥を強く掴まれたような顔になった。

 

 脳裏に、スズメの姿が浮かんだ。

 

 最初は、第零書庫から戻ったあとの病室だった。自分が運び込まれてから、スズメはずっとベッドの横にいた。医療教師に何度休めと言われても、「私は大丈夫です」と答え、ほとんど眠らずに付き添っていた。事情聴取へ呼ばれていたはずなのに、奎星が目を覚ましたと聞くと、普段なら廊下を走るような人ではない彼女が、髪まで乱し、息を切らして病室へ駆け込んできた。

 

「二度と、あのような真似はしないでください」

 

 死の呪文の前へ立ったこと。自分を庇ったこと。そのすべてを、スズメは怒った。

 

 奎星はそのとき、助けたかったのだと答えた。スズメがいなくなったら困るのだと。

 

 すると彼女は泣きそうな目で、奎星の手へ小さな手を重ねた。

 

「私は、あなたに生きていてほしいのです」

 

 その言葉が、今も胸の奥に残っている。

 

「俺もやったんだよ……!」

 

 奎星の声が震えた。

 

 清弦は何も言えない。

 

「何回も!」

 

 夏、鬼火鳥を追った山で、自分へ向いていなかった魔法へ飛び込んだ。スズメを突き飛ばし、代わりに青白い刃を全身で受けた。肩、胸、腕、脇腹、背中。血が止まらず、途中から何も覚えていない。

 

 けれど後になって、常隠島でスズメの心の中へ触れたとき、彼女の記憶が流れ込んできた。

 

 血まみれになって倒れている自分。

 

 その姿を見つめるスズメの感情。

 

 怖い。

 

 嫌だ。

 

 死なないで。

 

 お願いだから。

 

 起きて。

 

 手が冷たい。

 

 まだ生きている。

 

 目を開けて。

 

 あのとき初めて、奎星は知った。自分が誰かを守ったつもりでいた、その裏側で、守られた人間がどんな顔をしていたのかを。

 

「自分が危ないとか、後から考える」

 

 奎星は吐き出すように言った。

 

「スズメちゃん、俺のことずっとそう言ってた」

 

 清弦は黙っている。

 

「また無茶した。大丈夫は信用できない。怪我に慣れるなって」

 

 何度も、何度も言われた。

 

「俺はさ、助けられたんならいいじゃんって思ってた」

 

 奎星の指へ力がこもる。

 

「相手が無事なら、それでいいって。俺が怪我したって、俺が決めたんだからいいって」

 

 左手首の銀色の腕時計が、泥に汚れながらも時を刻んでいる。スズメからもらったものだった。

 

 秒針が一つ進む。

 

 また一つ進む。

 

「でも違った」

 

 奎星の喉が動く。

 

「全然、違った」

 

 あの日、彼女の心の中へ入らなければ、知らなかったかもしれない。自分の手が冷たくなっていくのを握りながら、スズメがどれほど怖がっていたのかを。

 

「助ける側が勝手に死んだら」

 

 奎星は清弦を睨んだ。

 

「残った方は、ずっとそれを持ってくんだよ」

 

「…………」

 

「助かった、良かった、で終わらねえんだよ!」

 

 清弦の目がわずかに揺れる。

 

「何で俺の代わりにって。何で一人で決めたって」

 

 スズメは、何度奎星が怪我をしても怒った。怖がった。心配した。それでも離れなかった。記憶を失っても、もう一度会いに来た。そして未来を考えるようになった今も、彼女の胸の中には、離れてほしくない、見ていたい、無事でいてほしいという矛盾した願いがある。

 

 奎星は、それを知っている。

 

「ちょっとは残された相手の気持ちも考えろ……!」

 

 胸ぐらを掴む手が震えた。

 

「何も解決しねえだろ……!」

 

 清弦が初めて目を逸らした。

 

 その視線の先には、鈴がいる。

 

 布団の中で、苦しそうに息をしている。髪は汗で濡れ、青い硝子の髪飾りだけが枕元へ外されていた。昨日、鈴はそれを手にして、嬉しいと笑った。

 

 もし目を覚ましたとき、清弦がいなかったら。

 

 その想像が、清弦の顔をわずかに歪めた。

 

 奎星はしばらく黙っていた。やがて、低い声で言う。

 

「冷静になれよ、馬鹿野郎……」

 

 ようやく胸ぐらを離した。

 

 清弦の着物には、奎星の手の跡が皺になって残っている。奎星は一歩下がった。

 

 そのまま、二人とも何も言わなかった。

 

 鈴の呼吸。外を吹く風。竈の薪が一度だけ弾ける音。狭い部屋の中を、長い沈黙がゆっくりと通り過ぎていった。

 

            *

 

 清弦は壁へ背を預けたまま、しばらく動かなかった。奎星も何も言わず、鈴の額へ乗せられていた濡れ布を取り替えた。

 

 清弦はその様子を見ていた。

 

 それから、鈴の腕に浮かぶ黒い線へ目を落とし、自分の手を見て、もう一度鈴を見た。

 

「……奎星」

 

「何」

 

 声は、さっきとはまるで違っていた。低く、静かで、ようやく考えることを取り戻した声だった。

 

「昨日の妖魔」

 

「うん」

 

「貴様一人なら勝てたか」

 

 奎星は少し考えた。

 

「無理」

 

「私一人なら」

 

「もっと無理」

 

「貴様」

 

「事実だろ」

 

 清弦は否定しなかった。

 

「二人でも」

 

「勝てなかった」

 

「ああ」

 

 清弦は目を閉じた。

 

 あの谷で見た巨大な四肢。黒い奔流。奎星の全力に近いデパルソですら、巨体を半歩しか動かせなかった。清弦の古い術も、奎星の現代魔法も、確かに通った。だが、どちらも足りなかった。

 

「今のままでは、勝てない」

 

 清弦が言った。

 

 奎星は清弦を見る。

 

「……ああ、そうだな」

 

 悔しかった。認めたくなかった。けれど、事実から目を逸らしても鈴は助からない。

 

 清弦は立ち上がった。今度は鈴へ手を伸ばさず、部屋の隅に置かれていた紙と筆を取る。

 

「私も現代魔法を学ぶ」

 

「…………」

 

 奎星が瞬きをした。

 

「なに?」

 

「聞こえなかったか」

 

「いや、聞こえたけど」

 

「なら返事をしろ」

 

「急じゃね!?」

 

「急ぐ必要がある」

 

「そっち!?」

 

 清弦はもう考え始めていた。さっきまで鈴しか見えていなかった顔ではない。鈴を助けるために何が必要かを、冷静に組み立てようとする顔だった。

 

「昨日の戦いで分かった。私の術は遅い」

 

「全部じゃないだろ」

 

「戦闘では遅い」

 

「まあ」

 

「土地を掴めれば強い。だが、掴むまでに時間が掛かる。場所が変われば、また読み直さなければならない」

 

「うん」

 

「お前の魔法は速い」

 

「おう」

 

「腹立たしいほどにな」

 

「最後いる?」

 

「いる」

 

 清弦は奎星を見る。

 

「あの武装を飛ばす術」

 

「エクスペリアームス?」

 

「それだ」

 

「妖魔、杖持ってねえけど」

 

「例だ!」

 

「怒んなよ」

 

「防壁も要る」

 

「プロテゴ」

 

「拘束も」

 

「インカーセラス」

 

「吹き飛ばすもの」

 

「デパルソ」

 

「人を眠らせる赤いの」

 

「ステューピファイ」

 

「それらだ」

 

「全部じゃん」

 

「全部教えろ」

 

「無茶言うなよ!」

 

 奎星は思わず笑いかけたが、すぐに表情を戻した。それでも、張りつめていた空気がほんの少しだけ緩む。

 

「つっても」

 

 奎星は腰の神代榊を見る。

 

「杖いるぞ」

 

「ああ」

 

 清弦は即答した。

 

「だから作る」

 

「作る?」

 

「村の平坂の爺さんが、杖の類なら作れる」

 

「初耳なんだけど」

 

「貴様が聞かなかったからだ」

 

「村に杖職人いんの!?」

 

「杖職人ではない。弓や祭具、術具を作る。昔は魔法使いの棒も何本か直していた」

 

「棒って言うなよ!」

 

「杖だろうが棒だろうが木だ」

 

「杖には芯もあるんだよ!」

 

「芯?」

 

 清弦の眉が動く。

 

 奎星は自分の神代榊を抜いた。

 

「これ、神代榊の木だけじゃない。中に鬼火鳥の尾羽が入ってる」

 

「…………」

 

「知らなかった?」

 

「当然だ。割って確かめるわけにもいかん」

 

「割るなよ!?」

 

 清弦は神代榊を見つめた。黒に近い木肌。握り手に走る炎のような彫刻。自分が昨日まで不思議そうに眺めていた、百五十年以上未来の杖。

 

「貸せ」

 

「え」

 

「見本にする」

 

「これを?」

 

「ああ」

 

 鈴が苦しそうに息を吐いた。

 

 二人は同時に口を閉じた。清弦の顔から笑いが消える。

 

「……時間がない」

 

「うん」

 

 奎星は神代榊を差し出した。

 

「壊すなよ」

 

「私ではなく平坂へ言え」

 

「お前が見張れ!」

 

「分かった」

 

 清弦は杖を受け取った。その瞬間、神代榊の表面がほんのわずかに温かく光った。

 

 二人は黙ってそれを見た。

 

「今」

 

「何も言うな」

 

「いや、でも」

 

「今はいい」

 

 清弦は立ち上がった。

 

「行くぞ」

 

「鈴ちゃんは?」

 

 清弦の足が止まる。

 

 一瞬だけ、布団へ目を向けた。さっきまでなら、そこから離れることなど考えなかっただろう。

 

「村の者に頼む」

 

 それでも、そう言った。

 

 奎星は何も言わず、ただ小さく頷いた。

 

            *

 

 平坂の家は、村の南端にあった。

 

 大きな納屋が一つあり、中には木材、鉋、鋸、鑿、弓の部品、祭りで使うらしい木札、細い金属板、用途の分からない術具が所狭しと並んでいる。木屑と油の匂いが混じった空気の中で、平坂の爺さんは作業台へ向かっていた。

 

「杖を作れ?」

 

 七十を過ぎているように見える老人だった。背は曲がっているが腕は太く、片目には白い濁りがある。もう片方の目だけで、清弦を睨みつけた。

 

「今日中に」

 

「馬鹿言え」

 

「急ぎだ」

 

「馬鹿言え」

 

「鈴が呪われた」

 

 老人の顔から、文句を言うための表情が消えた。

 

「……何?」

 

「北の妖魔だ」

 

 清弦はそれだけを告げた。

 

 平坂はしばらく黙ったあと、短く言った。

 

「見せろ」

 

 清弦が奎星の杖を差し出す。

 

 老人は受け取り、軽く振り、木肌を眺め、握りを確かめた。

 

「ほう」

 

 その目の色が変わる。

 

「こいつぁ……」

 

「神代榊」

 

「見りゃ分かる」

 

「分かんの!?」

 

 奎星が身を乗り出す。

 

 平坂が片目で奎星を見た。

 

「誰だ、お前」

 

「今!?」

 

「昨日から村中で騒いどる未来の馬鹿だろ」

 

「認識ひどくない!?」

 

「馬に清弦の名前をつけた奴」

 

「そこまで広がってんの!?」

 

「奎星」

 

「何」

 

「今は黙れ」

 

「はい」

 

 平坂は神代榊を光へ翳した。

 

「木は古い。相当使い込まれとる」

 

「未来から来たから」

 

「黙っとれ。頭が痛くなる」

 

「みんな同じこと言うじゃん」

 

 老人の指が、杖の握り手へ走る炎のような彫刻をなぞる。

 

「中に何か入っとるな」

 

「鬼火鳥の尾羽」

 

「ほう」

 

 平坂は今度こそ奎星を見た。

 

「お前、鬼火鳥の尾をむしったのか」

 

「むしってねえよ!」

 

「ならいい」

 

「疑い方!」

 

 清弦が口を挟む。

 

「同じものを作れるか」

 

「同じ?」

 

「ああ」

 

 平坂は神代榊を見て、清弦を見て、もう一度杖へ目を戻した。

 

「枝はどうする」

 

「神代榊から落ちたものがある」

 

「生木を切る気じゃないならいい」

 

 奎星が横を見る。

 

「切らないんだ」

 

「当たり前だ」

 

 清弦の返事は速かった。

 

「借りるんだろ?」

 

「……ああ」

 

 平坂は一度だけ笑った。

 

「羽根は?」

 

 清弦が答えようとしたとき、納屋の屋根から、きぃ、と細い鳴き声がした。

 

 三人が上を見る。

 

 鬼火鳥が一羽、梁へ留まっていた。

 

「いつからいたんだ」

 

 奎星が呟く。

 

 青白い尾羽を持つ鳥は三人を見下ろし、身体を一度震わせた。

 

 一枚の長い羽根が、ゆっくりと落ちてくる。

 

 奎星が受け取った。

 

 青白い羽根の縁を、薄い炎のような光が走っている。

 

「うそだろ」

 

 清弦も黙って見ていた。

 

 平坂だけが、さほど驚いた様子を見せない。

 

「決まったな」

 

「こんな都合よく?」

 

「欲しけりゃくれと言って取れる相手じゃねえ」

 

 老人は羽根を受け取った。

 

「向こうから置いていったなら使え」

 

 清弦が鬼火鳥を見る。

 

 鳥は首を傾げ、もう一度短く鳴いた。

 

「……借りるぞ」

 

 清弦が言う。

 

 鬼火鳥は返事をしなかった。ただ翼を広げ、納屋の外へ飛び去っていく。

 

 奎星はその背中を見送った。

 

「マジで俺の杖じゃん……」

 

「まだ作っていない」

 

「材料完全一致してんだけど」

 

「黙れ」

 

 平坂が袖をまくる。

 

「夕方まで掛かる」

 

「頼む」

 

「急いで雑になるぞ」

 

「戦えればいい」

 

「そういうことを言う奴の道具が、一番面倒なんだ」

 

 老人は文句を言いながら、作業台の上を片づけ始めた。

 

「置いてけ」

 

 清弦が神代榊を置く。

 

「これを見本に」

 

「分かった」

 

「握りは」

 

「邪魔だ」

 

「しかし」

 

「作るのはわしだ。お前は別のことをしろ」

 

 清弦が止まる。

 

 そして、頭を下げた。

 

「……頼む」

 

 平坂は答えなかった。ただ作業台の横から、古い鉋を取り出した。

 

            *

 

「それから」

 

 平坂の家を出た瞬間、清弦が言った。

 

「まだ戦力が必要だ」

 

「戦力?」

 

「ああ」

 

「つったって、どこにいんだよ、そんなの」

 

 奎星は腕を組み、村を見回した。農作業に慣れた大人たちはいる。古い術を少し使える者もいる。だが、昨日の妖魔と正面から戦わせられる人間が、この村にいるとは思えなかった。

 

「御影先生を呼べたら一発なんだけどな」

 

「誰だ」

 

「未来の妖魔」

 

「教師ではなかったのか」

 

「半分妖魔」

 

「教師に謝れ」

 

「本人いないし」

 

「それなら」

 

 清弦が歩きながら言った。

 

「いるだろう」

 

「何が」

 

「一晩で友人になった奴らが」

 

 奎星の足が止まった。

 

「…………」

 

 清弦はそのまま歩いていく。

 

「待って」

 

「何だ」

 

「一晩で」

 

「ああ」

 

「友人」

 

「ああ」

 

「酒飲んで」

 

「ああ」

 

「決闘して」

 

「そうだ」

 

「……もしかして」

 

 奎星の顔が引きつった。

 

「横浜の連中!?」

 

 清弦が振り返る。

 

「ああ」

 

「ジェームズ!?」

 

「そういう名だったな」

 

「ミラーも!?」

 

「呼べるなら呼べ」

 

「高瀬さんは!?」

 

「言葉が必要だろう」

 

「全員じゃん!」

 

「何人いる」

 

「知らねえ!」

 

「友人なのに?」

 

「一晩だぞ!」

 

「貴様が言ったんだろう。一晩で友人になれると」

 

「言ってねえよ!」

 

「態度が言っていた」

 

「何だそれ!」

 

 清弦は村の中央へ向かう。

 

「支度をしろ」

 

「マジで行くの?」

 

「他に戦える人間の心当たりがあるのか」

 

「…………」

 

「私はない」

 

 奎星は考えた。

 

 ジェームズ。ミラー。地下決闘場にいた日本人たち。西洋式魔法を使える者。古い日本の術を使う者。そして、高瀬。言葉を繋げられる人間。

 

「でもさ」

 

 奎星が頭を掻く。

 

「来るかな」

 

「来させろ」

 

「無茶言うなよ!」

 

「昨夜までの貴様なら、酒を一杯出せば来ると言うところだろう」

 

「酒はもう飲まねえ!」

 

「信用していない」

 

「鈴ちゃんと同じこと言うな!」

 

 そこまで言って、二人とも足を止めた。

 

 鈴。

 

 その名が、二人の間へ落ちる。

 

 奎星が先に口を開いた。

 

「行こう」

 

「ああ」

 

「絶対連れてくる」

 

「全員は要らん」

 

「友達百人連れてくる」

 

「妖魔より邪魔だ!」

 

「じゃ十人」

 

「多い!」

 

「注文多いな!」

 

 清弦の口元が、ほんの一瞬だけ動いた。

 

 奎星はそれを見たが、何も言わなかった。

 

            *

 

 問題は馬だった。

 

「……そういや」

 

 村の端まで来たところで、奎星が立ち止まる。

 

「馬どこ?」

 

「…………」

 

 清弦も足を止めた。

 

「昨日」

 

「うん」

 

「森へ置いてきた」

 

「うん」

 

「姿くらましした」

 

「うん」

 

 二人の間に、気まずい沈黙が落ちる。

 

「忘れてたな?」

 

「貴様もだろう!」

 

「ウミツバメ二号ぉぉぉ!!」

 

 奎星が山へ向かって叫んだ。

 

「声で来るか!」

 

「じゃ、どうすんだよ!」

 

 清弦は額を押さえた。

 

「……待て」

 

 口へ指を入れる。

 

 奎星が見る。

 

「何してんの」

 

 清弦が鋭く息を吹いた。

 

 ぴぃぃぃぃ――!

 

 高い音が、村から山へ伸びていく。

 

 奎星の目が丸くなった。

 

「指笛できんの!?」

 

「馬を呼ぶときに使う」

 

「教えて!」

 

「今か!?」

 

「カッコいいじゃん!」

 

「貴様は緊張感というものを持て!」

 

 清弦がもう一度、山へ向かって指笛を吹く。

 

 返事はない。

 

 三度、四度と繰り返し、間を置いてもう一度吹いた。

 

「……無理じゃね?」

 

「黙れ」

 

「結構遠いぞ」

 

「黙れ」

 

「妖魔に食われてたら」

 

「縁起でもないことを言うな!」

 

 しばらく待っても、何も来なかった。

 

 奎星が肩を落としかけたとき、遠くから蹄の音が聞こえてきた。

 

「……え」

 

 村人たちも振り返る。

 

 山道の木々の間から、茶色い馬が姿を現した。

 

「二号!!」

 

 ウミツバメ二号だった。

 

 鞍は少しずれ、脚には泥がついている。鼻息も荒かったが、怪我はない。その後ろから、黒鹿毛の馬も現れた。

 

「清弦二号!」

 

「その名で呼ぶな!」

 

 二頭が戻ってくる。

 

 奎星は走り寄り、ウミツバメ二号の首へ抱きついた。馬は迷惑そうに鼻を鳴らす。

 

「生きてたぁ!」

 

「嫌がっているぞ」

 

「よかった!」

 

「感動の再会なんだよ!」

 

 清弦は黒鹿毛の身体を確かめた。傷はほとんどなく、枝で擦った跡がある程度だった。噛まれた跡も、爪の跡もない。

 

「……妙だな」

 

「何が?」

 

「昨日の妖魔だ」

 

 奎星も馬を見る。

 

「あの辺にいたなら、こいつらも見つかっててもおかしくない」

 

「ああ」

 

「でも無傷」

 

 清弦二号が耳を動かす。

 

「追わなかった?」

 

「おそらく」

 

「何で」

 

「分からん」

 

 清弦の目が細くなる。

 

 巨大妖魔は、腹を空かせた獣ではない。目につく生き物を無差別に襲う存在でもない。昨日、あれは奎星と清弦を明確に狙っていた。

 

「……以蔵」

 

 奎星が呟く。

 

「やっぱ、あいつが動かしてんのかな」

 

「完全に操っているかは分からん」

 

「でも」

 

「ああ」

 

 鈴の呪い。襲われなかった馬。そして、自分たちへ向けられた執拗な攻撃。

 

 偶然だけでは、説明がつかなくなってきている。

 

「今は行くぞ」

 

 清弦が手綱を取った。

 

「調べるのは後だ」

 

「うん」

 

 今必要なのは、勝つ方法だった。

 

            *

 

 出発の準備は、二人だけのものではなくなった。

 

 話を聞いた村人たちが、次々と動き始める。

 

「握り飯持ってきな」

 

「こんなに!?」

 

「横浜まで行くんだろ」

 

 竹皮に包まれた握り飯が六つ。さらに漬物、干した芋、小さな味噌玉まで用意された。

 

「馬の分もいる」

 

「こっちに干し草を括ってあるよ」

 

「水筒は?」

 

「二つ」

 

「薬」

 

「清弦は忘れるから、奎星さんが持って」

 

「何で俺の信用が上がってんの?」

 

「清弦よりは飲ませるでしょう」

 

「まあ」

 

「何を納得している!」

 

 別の家からは、清潔な布、傷薬、火打石、雨除け、縄が運ばれてきた。

 

「これも」

 

「何?」

 

「針と糸」

 

「何に使うの」

 

「服が破れたら直せる」

 

「俺らにできると思う?」

 

 老婆が奎星と清弦を見た。

 

「……帰ってきてから直す」

 

「諦めんなよ!」

 

「お前もできんだろう!」

 

 いつもなら、ここで笑いが起きる。今日も、ほんの少しだけ笑い声が上がった。

 

 けれど、誰も鈴の家の方角を気にしない者はいなかった。

 

 昨日まで横浜のビスケットを奪い合っていた子供たちも、今日は大人しく、家の前から遠く鈴の家を見つめている。

 

 鈴は、村全体の子供だった。

 

 清弦も両親を失ったあと、誰か一人に育てられたのではない。この村のいくつもの手に支えられ、育ってきたのだ。

 

「清弦」

 

 白髪の老人が呼びかけた。

 

 清弦が振り返る。

 

「何だ」

 

「お鈴の面倒は、わしたちが見る」

 

「…………」

 

「お前たちは、するべきことをしなさい」

 

 清弦は一瞬、何か言おうとした。

 

「でも」

 

「お前」

 

 老人が杖をついたまま睨む。

 

「自分だけであの子を育てたつもりか?」

 

 清弦が黙る。

 

「赤ん坊の頃、夜泣きした鈴を背負ったのは誰だ」

 

「…………」

 

「お前が熱を出したとき、粥を作ったのは誰だ」

 

「…………」

 

「畑で倒れた鈴を家まで運んだのは?」

 

 横から別の老婆が口を挟む。

 

「私だね」

 

「そうじゃ」

 

「清弦はそのとき、自分も熱を出して寝てたけどね」

 

「言うな!」

 

 今度は、少しだけはっきりと笑いが起きた。

 

 老人は清弦を見る。

 

「村ってのは、そういうもんだ」

 

 その言葉に、清弦の顔が止まった。

 

 村。土地。鬼火鳥。神代榊。

 

 誰か一人が所有するものではない。誰か一人が、すべてを管理するものでもない。

 

 困ったときには助ける。困ったときには助けられる。

 

 それは、清弦がずっと以蔵へ言っていたことだった。

 

 なのに鈴のことになった瞬間、自分だけで全部を背負おうとした。

 

「……ああ」

 

 清弦は頭を下げた。

 

「感謝する」

 

「必ず帰ってこい」

 

「分かっている」

 

 老人が眉を上げる。

 

「本当か?」

 

 清弦は、ほんの少しだけ奎星を見た。奎星も清弦を見返す。

 

「……今度は」

 

 清弦が答えた。

 

「分かっている」

 

 奎星は何も言わなかった。ただ、口元だけを少し上げた。

 

            *

 

 出発前、清弦は一度だけ鈴の家へ戻った。

 

 奎星は外で待った。中へは入らず、二人きりにしておいた。

 

 部屋では、鈴の苦しそうな呼吸がまだ続いている。額の布は新しく替えられ、老婆が二人、枕元に付き添っていた。

 

「少しだけ」

 

「いいよ」

 

 二人が席を外す。

 

 清弦は枕元へ座った。

 

「鈴」

 

 返事はない。

 

 黒い線は、さっきより増えていた。胸が締めつけられる。

 

 今すぐ、あの術を使えば、自分へ移せる。苦しみも、熱も、呪いも、鈴から奪える。

 

 手がわずかに動いた。

 

 しかし、止めた。

 

 ――ちょっとは残された相手の気持ちも考えろ。

 

「……うるさい奴だ」

 

 清弦は小さく呟いた。

 

 鈴の手を見る。細い指。昨日、青い髪飾りを持って、嬉しいと笑っていた手。

 

「戻る」

 

 清弦が言った。

 

「聞こえていなくても言っておく」

 

 返事はない。

 

「横浜へ行く」

 

 鈴の呼吸だけが返ってくる。

 

「人を連れて戻る」

 

 清弦は一度、言葉を止めた。

 

「杖も作る」

 

 自分で言っておきながら、少し妙な気分になった。

 

「西洋の魔法を覚える」

 

 もし意識があれば、鈴は驚いただろうか。それとも、清弦ならやると思っていたと笑うだろうか。

 

「だから」

 

 清弦の指が鈴の手へ触れる。

 

 その手を、ほんの少しだけ握った。

 

「待っていろ」

 

 そう言って、手を離す。

 

 立ち上がる。

 

 今度は、振り返らなかった。

 

            *

 

 村の外では、二頭の馬が待っていた。

 

 ウミツバメ二号には食料と薬。清弦二号には測定器と簡単な荷物が積まれている。

 

 奎星が馬へ乗り、清弦も鐙へ足を掛けた。

 

「杖なしで大丈夫?」

 

「貴様がいる」

 

「うわ、信頼されてる」

 

「盾にする」

 

「取り消せ!」

 

「冗談だ」

 

「お前が冗談言った!?」

 

「うるさい!」

 

 清弦二号が驚いて耳を動かす。

 

「ほら、清弦二号もビビってる」

 

「馬へ謝れ!」

 

「名前は認めた?」

 

「認めていない!」

 

 少しだけ、いつもの二人だった。

 

 村人たちが見送っている。

 

「清弦!」

 

 誰かが呼ぶ。

 

「奎星さん!」

 

 奎星が手を上げる。

 

「行ってくる!」

 

「気をつけて!」

 

「酒飲むなよ!」

 

「飲まねえよ!!」

 

 なぜそこだけ念を押されるのか。奎星は不満そうだったが、清弦は少し笑った。

 

「有名だな」

 

「お前も飲んだだろ!」

 

「一口だ」

 

「嘘つけ!」

 

 二頭が街道へ進み出す。

 

 向かう先は横浜だった。異国の言葉と日本語、古い術と新しい魔法、酒と歓声が入り混じっていた町。そこで一晩のうちに奎星を侍にした男たちのもとへ、二人は向かう。

 

 昨日までは、二人だけだった。

 

 一人は未来の魔法を使い、もう一人は昔の魔術を使う。それぞれの力を持ち寄って、あの巨大な妖魔へ挑み、そして負けた。

 

 なら、次は増やせばいい。

 

 学べばいい。

 

 借りればいい。

 

 助けてもらえばいい。

 

 清弦は、それをようやく自分自身にも許した。

 

 村を出る直前、奎星が一度だけ後ろを振り返った。

 

 神代榊。巨大な枝。その下に広がる小さな村。鈴が眠っている家は、ここからでは見えない。

 

「清弦」

 

「何だ」

 

「絶対、間に合わせようぜ」

 

「言われなくても分かっている」

 

「あと」

 

「何だ」

 

「横浜に着いてジェームズへ説明するとき、高瀬さんがいなかったらどうする?」

 

 清弦が止まった。

 

「…………」

 

 奎星も止まる。

 

「俺、英語できねえぞ」

 

「知っている」

 

「妖魔って英語で何て言うの」

 

「私に訊くな」

 

「モンスター?」

 

「知らん」

 

「ビッグ・モンスター?」

 

「知らん」

 

「ベリー・ビッグ・モンスター?」

 

「貴様」

 

「何」

 

「前回と何も成長していないな」

 

「うるせえ!」

 

 二頭の馬が、街道を駆け出した。

 

 その頃、村の南端にある平坂の納屋では、鉋が神代榊の枝を削り始めていた。薄い木片が一枚、また一枚と床へ落ちていく。

 

 作業台の横には、百五十年以上先から来た一本の杖。そして、青白く光る鬼火鳥の尾羽。

 

 まだ名もない新しい杖が、少しずつその形を現そうとしていた。

 

 未来の写真の中で、蓮根清弦が握っていた、あの一本へ。

 

 街道の先では、奎星と清弦が、今度こそ二人だけで戦わないために横浜へ向かっていた。

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