マホウトコロ   作:西野圭吾

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第14話 届いた魔法

 誰も、すぐには動かなかった。

 

 つい数秒前まで、谷には笑い声があった。巨大妖魔は消え、杭は砕かれ、霊脈を歪めていた道も断たれた。十三人は満身創痍だったが、それでも全員が生きている。あとは村へ帰ればいい。鈴のもとへ戻り、傷を治し、腹いっぱい飯を食べる。そんな未来が、確かに手の届くところまで来ていた。

 

 だが今、清弦とジェームズは地面に倒れ、清弦の手を離れた新しい神代榊は、二人から少し離れた土の上に横たわっている。その向こうには、神代以蔵が立っていた。

 

 谷を吹き抜ける風が、男の着物の裾を静かに揺らしている。巨大妖魔が残した黒い塵は、まだ空中を漂っていた。その不吉な灰の中で、以蔵だけが不自然なほど綺麗だった。息一つ乱れていない。傷もない。魔力も、ほとんど消耗していない。

 

「てめえ……」

 

 奎星は地面に肘をついたまま、以蔵を睨んだ。立ち上がろうとしたが、腕が震え、身体は持ち上がらない。

 

 以蔵は、そんな奎星の姿を静かに眺めていた。

 

「驚きました」

 

 声音は以前と変わらない。丁寧で、穏やかで、だからこそ腹が立つ。

 

「何がだよ……」

 

「あなた方が」

 

 以蔵の視線が、巨大妖魔の消えた場所へ向いた。岩は砕け、谷底の地面は深く抉られ、清弦の術が走った跡には淡い青白い残光が残っている。

 

「あれを倒すとは」

 

 一瞬だけ、以蔵の目から笑みが消えた。

 

「正直に申し上げれば、想像していませんでした。霊脈との接続を切るところまでは、可能性として考えていましたが、そのあとに残る魔力だけでも、あなた方を殺すには十分だと思っていた」

 

 甚八が地面へ手をついた。額から流れた血が頬を伝い、顎から落ちる。

 

「勝手に……殺すなよ……」

 

 以蔵が甚八を見る。ほんの僅かに眉が動いた。

 

「まだ動けるのですか」

 

「誰に……言ってんだ……」

 

 甚八は指先で土を掻き、すぐ横に落ちていた杖を掴んだ。片膝を立てるだけでも苦しそうだったが、それでも身体を起こそうとする。

 

「甚八……」

 

 奎星が呼ぶ。

 

「寝てろよ……」

 

「お前にだけは……言われたくねえ……」

 

 甚八は笑った。笑ったつもりだったのだろう。実際には、痛みに顔が引きつっただけだった。

 

 以蔵は、谷に倒れている者たちを順に見回した。

 

片方の短い杖だけを握っている宗次郎、脚を押さえた秋月、札を半分以上使い切った弥平、岩壁にもたれている源兵衛、脇腹を押さえたミラー、立ち上がることもできず座った姿勢のまま杖を握るトーマス。

 

崩れた斜面の下からようやく身体を起こしたウィリアム、負傷者の間を走り続け、もはや顔色まで失っているエドワード。そして高瀬。

 

 誰一人、まともな状態ではなかった。

 

 以蔵は小さく息を吐き、杖を上げた。先端に淡い光が灯る。

 

「確かに、厄介です」

 

 その目が細くなる。

 

「ですが――今のあなたたちを殺すのは、容易いことです」

 

 空気が冷えた。

 

「……やってみろよ」

 

 甚八が言った。

 

 以蔵が彼を見る。

 

「何と?」

 

「聞こえただろ」

 

 甚八は、完全には伸びない膝を抱え、左右に揺れる身体を無理やり立たせた。それでも杖を構える。

 

「やってみろって言ったんだよ」

 

「Jinpachi……」

 

 エドワードが止めようとするが、甚八は聞かなかった。

 

「お前ら二人だけに、いいとこ持ってかせるかよ」

 

 倒れた清弦とジェームズへ視線を向ける。

 

「甚八!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

 その横で、宗次郎も立ち上がった。

 

「一本ありゃ撃てる」

 

 右手には短い杖が一本だけ握られている。左腕は肩から力が入っていない。

 

「二本なくても、一発は撃てる」

 

「俺もだ」

 

 秋月が立とうとした。しかし脚が崩れ、片膝をつく。

 

「秋月!」

 

「うるせえ!」

 

 秋月はその姿勢のまま杖を上げた。

 

「ここまで来て、見てろってのかよ」

 

 弥平も札を抜き、源兵衛は岩壁から背中を離した。

 

「こりゃ、帰ったら酒が必要だな」

 

 源兵衛は痛みに顔を歪めながら笑う。

 

「まだ言ってんのかよ……」

 

 奎星が掠れた声で言うと、源兵衛は肩をすくめた。

 

「生きて帰る気がある証拠だ」

 

 ミラーもゆっくりと身体を起こした。

 

「Still……not done.」

 

 トーマスは座ったまま杖を上げ、ウィリアムは土まみれの顔を拭う。

 

「Yeah」

 

「Not yet」

 

 エドワードは、しばらく仲間たちを見ていた。本来なら治療するべきだった。止めるべきだった。それでも最後には、自分の杖を抜いた。

 

「You’re all idiots」

 

「何て……?」

 

 奎星が高瀬を見る。高瀬は息を切らしながら笑った。

 

「今は……訳す余裕ねえ……」

 

 そう言いながら、高瀬自身も立ち上がった。

 

「高瀬さんまで……」

 

「俺だけ座ってられるか」

 

「戦闘得意じゃないんだろ……」

 

「知ってる」

 

「じゃあ……」

 

「だから何だ」

 

 高瀬は以蔵を睨んだ。

 

「十三人で来たんだよ」

 

 その言葉だけは、以蔵の顔から笑みを消した。

 

 甚八が杖を構える。

 

「行くぞ!」

 

 最初の赤い光が走った。

 

「ステューピファイ!」

 

 以蔵は半歩だけ身体をずらして避ける。続けて宗次郎が杖を振った。

 

「ステューピファイ!」

 

 二発目の光が迫る。以蔵の杖が小さく動いた。

 

「プロテゴ」

 

 薄い防壁が現れ、赤い光が弾ける。

 

「今だ!」

 

 弥平が札を投げた。四枚の札が以蔵の周囲の地面へ突き刺さり、紙に描かれた印が一斉に光る。

 

「捕まえろ!」

 

 地面から細い光の線が立ち上がり、以蔵の足を囲んだ。

 

 秋月が片膝のまま杖を振る。

 

「デパルソ!」

 

 衝撃が防壁へ叩きつけられ、以蔵の袖が揺れた。ほんの一歩だけ、以蔵の身体が後ろへ下がる。

 

「押せ!」

 

 源兵衛が叫ぶ。ウィリアムも杖を向けた。

 

「GO!」

 

 二人の魔法によって地面がせり上がり、以蔵の退路を塞ぐ。

 

「いける!」

 

 奎星の目が開いた。

 

 しかし、以蔵は笑っていた。

 

「遅い」

 

 杖を横へ振る。白い光が広がった。

 

 最初に甚八が胸へ衝撃を受けた。身体が地面へ叩きつけられる。

 

「ぐっ!」

 

「甚八!」

 

 宗次郎が二発目を撃とうとした。

 

「ステュ――」

 

「エクスペリアームス」

 

 赤い光が走り、宗次郎の短い杖が手から弾き飛ばされる。

 

「なっ――」

 

 続く一撃が胸へ直撃した。

 

「ステューピファイ」

 

 宗次郎の身体が崩れ落ちる。

 

「宗次!」

 

 秋月が怒鳴り、杖を振り上げた。しかし、彼は片膝をついたままで、逃げることもできない。

 

 以蔵は杖を向けた。

 

「デパルソ」

 

 秋月の身体が地面を滑り、背中から岩へ叩きつけられる。

 

「秋月!」

 

 弥平の札が動いた。

 

「まだ――」

 

 以蔵の杖先が先に弥平へ向く。

 

「インセンディオ」

 

 小さな炎が灯り、札だけを焼いた。火が紙を舐め、弥平が反射的に手を引く。

 

「なっ……!」

 

 その隙に赤い光が飛んだ。

 

「ステューピファイ」

 

 弥平も倒れる。

 

「弥平!」

 

「次!」

 

 源兵衛が前へ出た。広い盾を張る。

 

「プロテゴ!」

 

 以蔵が無言で杖を振った。衝撃が一度、二度と盾を揺らし、三度目で亀裂が走る。

 

「まだ……!」

 

 四度目の衝撃で盾が砕けた。

 

「ぐぁっ!」

 

 源兵衛が膝をつく。

 

「もう一発……来い……!」

 

 以蔵は応じなかった。杖を少しずらし、源兵衛の足元へ向ける。

 

 地面が爆ぜた。

 

「っ!」

 

 土と一緒に身体が浮き、そのまま転がっていく。

 

 ミラーが横から走ろうとした。一歩、二歩目で脇腹の痛みに顔が歪み、速度が落ちる。

 

「っ……!」

 

 以蔵は振り向いた。

 

「Stupe――」

 

「遅いですよ」

 

 赤い光がミラーを捉え、彼も地面へ倒れた。

 

「Miller!」

 

 トーマスが座ったまま杖を向ける。

 

「INCARCERUS!」

 

 縄が走り、以蔵の右腕、杖を持つ手、足へ三方向から絡みついた。

 

「ほう」

 

 以蔵の目が僅かに動く。杖を下へ向けた。

 

「ディフィンド」

 

 縄が一斉に切れた。

 

「You son of――」

 

「トーマス!」

 

 高瀬の声が飛ぶ。赤い光がトーマスの胸へ当たり、彼はその場に倒れた。

 

 ウィリアムが前へ出る。

 

「Protego!」

 

 その後ろからエドワードが撃った。

 

「Stupefy!」

 

 赤い光は盾に弾かれる。

 

「Again!」

 

 エドワードがもう一度杖を振る。

 

「Stupefy!」

 

「エドワード!」

 

 以蔵の攻撃がウィリアムの盾へ当たった。一枚、二枚、三枚と防壁が砕け、四発目で完全に崩れる。

 

「――っ!」

 

 ウィリアムが吹き飛んだ。

 

 エドワードが振り返る。

 

「William!」

 

 その一瞬を、以蔵は見逃さなかった。

 

「ステューピファイ」

 

 エドワードも倒れる。

 

「エドワード!」

 

 高瀬が走ろうとした。しかし一歩目から足がもつれ、それでも清弦の方へ向かおうとする。

 

「清弦!」

 

 以蔵が気づいた。杖が高瀬へ向く。

 

「やめ――」

 

「デパルソ」

 

 衝撃を受け、高瀬の身体が横へ飛んだ。

 

「高瀬さん!」

 

 奎星の声が谷へ響いた。

 

 静かになった。

 

 巨大妖魔と戦ったあと、立っていた仲間たちは、今度こそ全員が倒れていた。清弦、ジェームズ、甚八、宗次郎、秋月、弥平、源兵衛、ミラー、トーマス、ウィリアム、エドワード、高瀬。

 

 そして奎星だけが、まだ地面へ手をついていた。

 

            *

 

「……クソがっ……」

 

 奎星は土を掴んだ。指の間から細かな砂がこぼれ落ちる。

 

「本当に、理解に苦しみます」

 

 以蔵の声が聞こえた。

 

 奎星は顔を上げなかった。

 

「もう結果は決まっている。あなた一人が立ったところで、何が変わるのです」

 

「……うるせえ……」

 

「仲間は倒れた」

 

「うるせえ……」

 

「あなた自身も、先ほどの術で魔力の大半を使い切った」

 

「うるせえっつってんだろ……!」

 

 奎星は神代榊を握った。汗と血と泥で手が滑る。それでも握り直す。

 

「やめておいた方がいい」

 

 以蔵は静かに言った。

 

「今なら、苦しまずに終わらせて差し上げます」

 

「誰が……」

 

 奎星は片膝を立てた。右脚が震え、左脚の感覚は鈍い。立ち上がろうとしたが、力が入らず、また膝が落ちる。

 

 以蔵は急かさなかった。わざと待っているのだ。奎星がどこまで足掻くのかを、楽しむように見ている。

 

 奎星の呼吸が荒くなる。

 

「立てよ……」

 

 自分へ言い聞かせる。

 

「馬鹿野郎っ……立て……!」

 

 左手首の腕時計は、泥と血に汚れていた。それでも秒針だけは動いている。

 

 こち。

 

「立て……!」

 

 奎星は地面へ杖を突いた。本来なら、そんな使い方をするものではない。それでも杖を支えにして、身体を押し上げる。

 

 膝が伸びる。

 

「そうだ…」

 

 腰が上がる。

 

「立てよ!!」

 

 奎星は、どうにか立った。

 

 身体は曲がり、肩から血が流れている。口元にも血が滲み、破れた制服には土が絡んでいた。神代榊を握る右手は震えている。

 

 それでも、立っていた。

 

 以蔵は一瞬、何も言わなかった。やがて、感心したように笑う。

 

「素晴らしい」

 

「何が……」

 

「その執着です。実に興味深い」

 

 以蔵は杖を奎星へ向けた。

 

「気持ち悪いな……」

 

「そうですか?」

 

「人がボロボロになるのを見て、楽しそうにすんなよ……」

 

「楽しんでいるように見えますか」

 

「見えるよ……」

 

「では、そうなのかもしれません」

 

 以蔵の笑みが深くなる。

 

「マジで気持ち悪っ……」

 

「残念です。もう少し、あなたを観察したかった」

 

 杖先が光った。

 

「ステューピファイ」

 

「プロテゴ!」

 

 赤い光と白い盾が真正面からぶつかり、乾いた音を立てて弾けた。奎星の腕が大きく後ろへ持っていかれる。それでも盾は残った。

 

 以蔵の眉が僅かに上がる。

 

「ほう。まだ、その精度で出せるのですか」

 

「師匠が……厳しいもんでな……」

 

「師匠」

 

「お前には……関係ねえよ」

 

 以蔵が杖を振る。二発目は斜めから来た。

 

「ステューピファイ」

 

 奎星は大きな盾を張らず、必要な場所に必要な大きさだけの防壁を出した。

 

「プロテゴ!」

 

 赤い光だけを弾き、奎星は一歩横へ移動する。

 

 三発目。

 

 以蔵は何も言わない。奎星は肩の動きを見た。右。杖が振られる。

 

「プロテゴ!」

 

 弾く。

 

 直後、左から光が来た。奎星は身体を捻り、光を脇へ逃がす。

 

 以蔵の目が、楽しそうに細くなった。

 

「いいですね。あなたは本当に、諦めが悪い」

 

 杖が振られる。一発、二発、三発。奎星は防ぎ続けた。

 

「プロテゴ!」

 

 弾く。

 

「プロテゴ!」

 

 盾が割れる。

 

「っ!」

 

 身体が半歩下がる。

 

「プロテゴ!」

 

 また盾を張る。

 

 盾、攻撃、盾、攻撃。反撃する余裕はない。撃てない。身体が遅い。魔力も残っていない。避ければ脚が崩れる。だから奎星は、ただひたすら防いだ。

 

「どうしました?」

 

 以蔵が訊く。

 

「先ほどまでの勢いは」

 

「うるせえ……!」

 

「攻撃しないのですか」

 

「今……考えてんだよ……!」

 

「何を?」

 

「どうやって……」

 

 白い盾と赤い光がぶつかる。

 

「お前を……ぶっ飛ばすか!」

 

 ばきんっ、と盾が割れた。衝撃で奎星は地面へ膝をつく。

 

 以蔵は笑った。

 

「その状態で?」

 

「状態とか……関係ねえ……!」

 

 奎星は再び立ち上がる。

 

「関係があります。あなたは疲弊している」

 

 赤い光。

 

「プロテゴ!」

 

「魔力はほぼない」

 

 白い盾。

 

「っ……!」

 

「仲間は全滅」

 

「死んでねえ!」

 

 以蔵の目が少し動いた。

 

「勝手に……殺すな!」

 

「なるほど」

 

 以蔵は笑った。

 

「そこは訂正しましょう。まだ生きています」

 

 一発。

 

「今のところは」

 

「プロテゴ!」

 

 光を弾いた奎星の足が、さらに後ろへ滑った。

 

            *

 

 どれほどの時間、そうしていたのか、奎星にはもう分からなかった。十秒か、一分か、それとももっと長い時間だったのか。ただ、左手首の腕時計だけは、変わらず時を刻んでいる。

 

 こち、こち、こち。

 

「っ……は……」

 

 息をするたび肺が痛む。

 

「プロテゴ……!」

 

 盾を張る。赤い光がぶつかり、盾が割れる。

 

「っ!」

 

 右腕の感覚は、もうほとんど残っていない。左脚も踏ん張らず、視界は滲んでいた。

 

 それでも、以蔵はほとんど動いていない。数歩、位置を変えただけだ。対して奎星は、谷底を何度も後ろへ追いやられている。

 

「……終わりですか?」

 

 以蔵が訊いた。

 

 奎星は答えなかった。答える力が残っていなかった。

 

「もういいでしょう。十分です」

 

 その優しい声が、かえって腹立たしかった。

 

「あなたはよく戦った。あの妖魔を倒した一員として、十分すぎるほどに」

 

 以蔵が杖を上げる。

 

「もう、諦めてもよいのでは?」

 

 奎星は、その杖を見ていた。

 

「……そうかもな」

 

 以蔵の動きが少し止まる。

 

「何?」

 

「もう……マジで身体動かねえし……」

 

 奎星の手が下がり、神代榊の先端が地面へ触れそうになる。

 

「魔力も……ねえし……みんな……寝てるし……」

 

 奎星は一度、目を閉じた。

 

「俺も……めちゃくちゃ寝てえ……」

 

 以蔵は黙っている。

 

「でもさ……」

 

 奎星の脳裏に、一人の女性が浮かんだ。

 

 黒い髪。真面目な顔。怒っている顔。困っている顔。呆れた顔。そして、ほんの少しだけ笑った顔。水羊羹、花火、銀色の星、雪の夜、病室、時計。

 

 ――私は、あなたに生きていてほしいのです。

 

 ――私から、離れないでください。

 

 ――蓮根君。

 

「……いるんだよ」

 

「何がです?」

 

「待ってる人」

 

 以蔵の眉が僅かに寄る。

 

「ずっと……」

 

 奎星の指が腕時計へ触れた。

 

「ずっとずっと、俺の帰りを待ってる人がいる」

 

 顔を上げる。痛みに歪んだ顔で、それでも笑った。

 

「スズメちゃん……」

 

 その名前だけが、幕末の谷でやけにはっきりと響いた。

 

「だから……帰んねえとな……」

 

 以蔵は、その姿を見て少し笑った。

 

「そうですか」

 

 杖が奎星へ向く。

 

「その方には、残念でしたと伝えておきます」

 

 奎星の目が細くなる。反撃は無理だ。防げるかどうかも分からない。次の一撃で盾が割れるかもしれない。

 

 それでも、杖を上げた。

 

 そのとき、以蔵の背後で何かが動いた。

 

 奎星の目が僅かに開く。

 

 黒い髪。細い身体。片手を地面につき、もう片方の手で身体を押し上げている。

 

「……っ」

 

 清弦だった。

 

 清弦が、立とうとしている。

 

 ふらつき、倒れそうになりながらも、片膝を立て、やがて両足で地面を踏んだ。

 

 奎星は、それを見なかったことにした。視線をすぐに以蔵へ戻す。

 

 以蔵は気づいていない。奎星だけを見ている。

 

「終わりです」

 

 以蔵の杖が大きく振られた。

 

「ボンバーダ」

 

「プロテゴ!」

 

 白い防壁が現れ、その中心で爆発が起きた。炎と土と衝撃が一つになって盾を大きく撓ませる。

 

「ぐっ……!」

 

 奎星の両足が地面を削った。腕が悲鳴を上げる。

 

「割れんな……!」

 

 盾に亀裂が走る。

 

「割れんなよ……!」

 

 爆風が左右へ吹き抜け、地面の小石や土、黒い塵が舞い上がった。

 

 その中で、一本の杖が跳ねた。

 

 清弦の目が開く。

 

 新しい神代榊。先ほど自分の手から落ちた杖が、爆風に煽られて地面を転がり、石に当たって宙へ舞い上がったのだ。

 

 杖は一度だけ空中で回転し、清弦の前へ落ちてくる。

 

「…………!」

 

 清弦は反射的に手を伸ばした。

 

 ぱしっ、と乾いた音がして、杖が手の中に収まる。

 

 清弦は目を見開いた。手の中には、昨日生まれたばかりの自分の杖がある。その向こうでは爆炎が渦巻き、奎星が白い盾を張り続けていた。

 

 奎星は清弦を見た。

 

 盾を維持しながら、何も言わない。言えば、以蔵に気づかれる。

 

 だから、ただ見る。

 

 清弦。杖。以蔵。

 

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

 清弦の呼吸が止まる。

 

 何をすればいいのかは、もう分かっていた。

 

 昨日、最初に教えられた魔法。妖魔には使えなかった。杖を持っていないから役に立たないと思った。地味な魔法だと思った。

 

 だが今、目の前の敵は杖を持っている。

 

 清弦の目が、以蔵の右手を捉えた。杖だけではない。肩、肘、手首、足。相手の動きすべてを見る。

 

 奎星の声が脳裏に蘇る。

 

 ――狙うのは杖だけ。

 

 ――見るのは全部。

 

 ――撃ったあと止まるな。

 

 ――魔力を出しすぎない。

 

 以蔵は奎星へ次の呪文を放とうとしていた。右肩が上がり、指が締まり、重心が前へ移る。

 

 清弦は新しい神代榊を上げた。

 

 力むな。狙う。人ではない。身体でもない。命でもない。

 

 たった一つ。

 

 手の中の杖だけ。

 

「……エクスペリアームス」

 

 声が掠れた。光は出ない。

 

 以蔵の杖がさらに上がる。間に合わない。

 

 清弦は歯を食いしばった。

 

 昨日、何度もやった。木の棒。動く標的。失敗。もう一度。強すぎる。弱すぎる。もう一度。必要な分だけ。

 

「エクスペリアームスッ……!」

 

 赤い光が走った。まっすぐで、細く、速い。完璧だった。

 

 ぱしん、と乾いた音が響く。

 

「――なにっ!?」

 

 初めて、神代以蔵の声が明確に裏返った。

 

 右手から西洋式の杖が抜け、宙を舞う。以蔵の身体には傷一つ増えていない。ただ、杖だけが手から失われた。

 

 以蔵が振り返る。

 

 清弦を見る。

 

「貴様――」

 

「奎星!!」

 

 清弦は撃ったあと、止まらなかった。杖が飛んだ瞬間には、もう奎星を見ていた。

 

 奎星も同じだった。杖が飛んだかどうかを確かめることなく、神代榊を前へ突き出す。

 

「ステューピファイ!!」

 

 赤い閃光が走った。

 

 以蔵が振り返る。だが、もう杖はない。

 

「――っ!」

 

 光が胸へ直撃した。

 

 どんっ、と大きな音が響き、以蔵の身体が初めて宙へ浮く。そのまま地面へ叩きつけられ、土の上を二度、三度と滑って止まった。

 

 静寂が落ちた。

 

 奎星は杖を向けたまま動かない。清弦も杖を向けている。二人とも呼吸が荒く、胸が激しく上下していた。

 

 以蔵は起きない。

 

 奎星の目が、少しずつ開いていく。

 

「……入った?」

 

 清弦が息を切らしながら言った。

 

「見れば……分かるだろう……」

 

「マジ……?」

 

「油断……するな……」

 

「でも……」

 

 奎星は以蔵を見、それから清弦へ視線を移した。口元が上がる。

 

「お前……めちゃくちゃ上手かったじゃん……」

 

「…………」

 

「エクスペリアームス」

 

「今……言うことか……?」

 

「いや……マジで完璧だった」

 

 清弦は手の中の杖を見た。

 

 たった昨日、初めて覚えた魔法。それが神代以蔵の杖を落とした。

 

 百五十年以上先、魔法を始めて二週間の少年へ、一人の元禍祓官が最初に教えた魔法。派手ではない。敵を焼かず、爆発させず、殺しもしない。ただ、相手の手から杖を落とすだけの魔法。

 

 その魔法を少年は覚え、何度も使い、失敗し、助けられ、やがて誰かへ教えた。そして百五十年前、まだ歴史になる前の少年へ届いた。

 

 御影玄一郎が奎星へ教えたものが、奎星を通って蓮根清弦へ渡った。その一発が、今、彼らを救った。

 

「……御影先生」

 

 奎星が小さく笑った。

 

「何だ?」

 

「いや……やっぱ地味じゃなかったわ」

 

「何の話だ」

 

「こっちの話」

 

 奎星は以蔵へ杖を向けたまま、一歩前へ出た。

 

「捕まえるぞ」

 

「ああ」

 

 清弦も動く。しかし一歩目で身体がふらついた。奎星が肩を貸そうとする。

 

「いらん」

 

「強がんな」

 

「貴様も立っているのが不思議な状態だろう」

 

「俺はいいの」

 

「よくない」

 

「あとで喧嘩しようぜ」

 

「今している」

 

 二人は言い合いながら、以蔵へ近づいていく。

 

 以蔵は地面へ倒れたまま動かない。奎星が杖を向けた。

 

「インカーセラス」

 

 地面から縄が伸び、以蔵の腕と脚へ絡みつく。

 

「これで……」

 

 そのとき、以蔵の指が動いた。

 

「――!」

 

 清弦の目が開く。

 

「奎星!」

 

 以蔵が目を開いた。完全には気絶していない。

 

「この……!」

 

 奎星が杖を振る。

 

「ステューピ――」

 

 以蔵の身体の周囲で空気が歪んだ。

 

「待て!」

 

 清弦が叫ぶ。

 

 姿くらまし。杖は必要ない。

 

「逃がすか!」

 

 奎星が手を伸ばす。

 

 以蔵の顔から、初めて完全に余裕が消えていた。口元には血が滲み、着物は土に汚れ、髪も乱れている。穏やかな笑みは、もうどこにもなかった。

 

「……今回は」

 

 以蔵は息を荒くしながら言った。

 

「あなた方の運が良かっただけです」

 

「は?」

 

 奎星の眉が寄る。

 

「霊脈など、一度戻ったところで、また曲げればいい。妖魔も、また用意すればいい」

 

「貴様……!」

 

「次は、こんな偶然では――」

 

「黙ってろ!」

 

 奎星が怒鳴った。

 

 以蔵の口が止まる。

 

「俺たちは負けねえ!絶対だ!何世代渡ろうと、いつの時代だろうとてめえら全員ぶっ飛ばしてやるよ!!」

 

 以蔵の顔から笑みが完全に消えた。

 

「あなたは……本当に不愉快な人ですね」

 

「知ってる!」

 

「奎星、捕らえろ!」

 

「分かってる!」

 

 縄が以蔵へ迫る。

 

「次は――」

 

 以蔵の姿が薄くなった。

 

 ぱんっ、と小さな破裂音が響き、空気が弾ける。

 

 縄は、何もない場所を締め上げた。

 

 そこに神代以蔵はいなかった。残っているのは、風だけだった。

 

 奎星と清弦は、しばらく何もない場所を見ていた。

 

「……逃げた」

 

 奎星が言う。

 

 清弦の拳が震えた。

 

「くそっ……!」

 

 杖を持っていない左手が強く握られる。

 

「あと少しだった……!」

 

「清弦」

 

「あと少しで捕らえられた!」

 

「うん」

 

「また来る」

 

「ああ」

 

「奴は、またこの土地を……!」

 

 清弦の身体が傾いた。

 

「おい」

 

 奎星が反射的に肩を支える。

 

「離せ」

 

「無理」

 

「自分で立てる」

 

「立ててねえじゃん」

 

「立てる!」

 

「俺も立てねえから、お互い様」

 

「では貴様から離れろ!」

 

「何でだよ!」

 

「共倒れになる!」

 

「もう倒れたあとだろ!」

 

「屁理屈を言うな!」

 

 清弦は、それでも奎星の肩を振り払わなかった。

 

 奎星は少し笑った。

 

「大丈夫だって」

 

「何がだ」

 

「以蔵」

 

「…………」

 

「逃げたけど、お前なら、あいつがまた来ても負けねえよ」

 

 清弦の目が僅かに動く。

 

「…………」

 

「今日だって勝ったじゃん」

 

「逃げられた」

 

「でも杖飛ばした」

 

「お前が気絶させた」

 

「お前が飛ばしたから撃てた」

 

「貴様が盾を張っていたから撃てた」

 

「じゃあ二人で勝った」

 

 清弦は答えなかった。

 

「あと、みんな」

 

 奎星は倒れている仲間たちを見る。

 

 そのとき、誰かが微かに手を上げた。甚八だった。

 

「聞こえてるぞ……」

 

「生きてた!」

 

「勝手に殺すな……」

 

「さっき言われたやつ!」

 

 宗次郎も地面へ寝たまま声を出す。

 

「俺らも……入れろ……」

 

「もちろん!」

 

 秋月が呻いた。

 

「俺のデパルソも……」

 

「今それ言う!?」

 

「大事だ……」

 

 源兵衛の声が続く。

 

「酒……」

 

「お前は黙ってろ!」

 

「生存確認だ……」

 

「別の言葉にしろ!」

 

 外国人たちの方からも声が上がった。

 

「Keisei……」

 

 ジェームズは、まだ完全には起き上がれない。それでも親指を立てる。

 

「Good……」

 

「グッド!」

 

 奎星が笑った。

 

「それは分かる!」

 

 ミラーが呻く。

 

「Finally……」

 

「今また馬鹿にした!?」

 

 返事の代わりに、小さな笑い声が起きた。

 

 清弦は、その声を聞いた。

 

 横浜で、昨日までほとんど知らなかった者たち。言葉も違い、生まれた場所も違う。それでも全員がここにいる。傷つき、倒れ、それでも生きている。

 

 清弦は静かに息を吐いた。

 

「……ふ」

 

 ほんの一瞬、口元が上がる。

 

 奎星は見逃さなかった。

 

「今笑った?」

 

「笑っていない」

 

「笑ったじゃん」

 

「笑っていない」

 

「絶対笑った!」

 

「黙れ」

 

「ほら、誤魔化した!」

 

「黙れ!」

 

「痛っ! でかい声出すなよ!」

 

「貴様がうるさいのだ!」

 

「病み上がりみたいな奴が怒鳴んな!」

 

「誰のせいでこんな――」

 

 清弦の声が止まった。

 

 地面の下で、何かが動いた。

 

「清弦?」

 

「静かにしろ」

 

「え」

 

「静かに」

 

 奎星も口を閉じた。

 

 風の音。鬼火鳥の翼が空気を切る音。倒れた仲間たちの呼吸。その奥から、地中を伝うかすかな音が聞こえてくる。

 

 さら、さら、と水が流れるような音だった。

 

「……これ」

 

 清弦は奎星の肩を借りながら、ゆっくり膝をついた。左手を地面へ触れ、目を閉じる。

 

 誰も喋らなかった。

 

 やがて、清弦の表情が変わる。

 

「戻っている」

 

「霊脈?」

 

「ああ」

 

 清弦の掌の下で、淡い青白い光が一本、土の中を走った。続いて別の方向へ、もう一本。杭によって無理やり曲げられ、妖魔へ吸い寄せられていた流れが、少しずつ本来の場所へ戻っていく。

 

「……すげえ」

 

 奎星が呟いた。

 

 谷の隅では、濁っていた細い沢の水面に浮かんでいた黒い油膜が、ゆっくりと割れていた。流れに押されるように、黒い膜は岩の間へ消えていく。枯れかけた木の根元を青白い光が通り抜けた。

 

 すぐに葉が青々と戻るわけではない。黒ずんだ幹も、傷ついた土地も、一瞬で元通りになるわけではない。それでも、確かに流れは戻っていた。

 

「流れてる」

 

 奎星が言う。

 

「ああ」

 

「ちゃんと」

 

「ああ」

 

 清弦の目が少し細くなる。

 

「流れている」

 

 そこへ、一羽の鬼火鳥が降りてきた。地面すれすれを飛び、青白い尾羽が霊脈の光と一瞬重なる。

 

 きぃ、と鳴いた。

 

 もう一羽が続き、さらに何羽もの鬼火鳥が谷の上を旋回する。

 

 清弦はそれを見上げた。

 

 奎星も空を見る。

 

 さっきまで巨大妖魔の黒い身体が塞いでいた空には、今は何もない。青い空が、どこまでも広がっている。

 

「清弦」

 

「何だ」

 

「帰ろうぜ」

 

 清弦の顔がわずかに動いた。

 

「鈴ちゃん待ってる」

 

「ああ」

 

 短い返事だったが、その声には確かな意志があった。

 

「帰る」

 

 奎星が笑う。

 

「その前に、みんな起こさねえと」

 

 二人は周囲を見回した。谷のあちこちに、ほとんど倒れたままの仲間たちがいる。ジェームズだけが、まだ親指を立てていた。

 

「これ」

 

 奎星が言う。

 

「帰る方が大変じゃね?」

 

 清弦は目を閉じた。

 

「考えたくない」

 

「馬、森じゃん」

 

「知っている」

 

「十三頭」

 

「知っている!」

 

「歩ける奴、何人?」

 

「数えるな!」

 

「いや、大事だろ!」

 

「今は!」

 

 清弦が大きく息を吐く。

 

 その足元で、霊脈の光が静かに流れていた。誰かのものではない。清弦のものでも、神代以蔵のものでもない。土地の下を、ただ自分の道へ戻っていく。

 

 奎星の左手首で、銀色の腕時計が一つ進んだ。

 

 こち。

 

 百五十年先から届いた魔法は、敵の命ではなく、たった一本の杖を落とした。

 

 そして、それで十分だった。

 

 霊脈はようやく、帰る道を取り戻した。

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