「だーーーかーーーら!!」
朝の大食堂に、蓮根奎星の声が響き渡った。高い窓から差し込む六月の朝日が、長い卓の上に並んだ炊きたての米や味噌汁を白く照らし、立ちのぼる湯気を淡く透かしている。天井近くでは伝書用の折り鶴が何羽も飛び交い、小妖たちは焼き魚や卵焼きを載せた盆を抱えて、生徒たちの間を忙しなく行き来していた。
何の変哲もない、いつものマホウトコロの朝だった。ただし、その穏やかな空気の中心で、奎星だけが朝から必死になっている。
「マジなんだって!!」
「お前がいきなり百五十年前に飛ばされて?」
向かいに座る日向が、話の内容を確認するように指を一本立てた。
「そう!」
「先祖の蓮根清弦に会って?」
楓が二本目の指を立てる。
「そう!」
「飯食って」
岳が三本目を立てた。
「そう!」
伊織が眼鏡を押し上げる。
「そこだけ急に規模が小さくない?」
「飯は大事だろ!」
「そこは否定しないんだ」
「で、妖魔と戦って」
伊織が、奎星の勢いに流されることなく淡々と続きを並べた。
「うん!」
「関東の霊脈を戻して」
「うん!」
「神代冥司の先祖にも会った」
「そう!!」
奎星は両手で卓を叩いた。食器がかすかに跳ね、味噌汁の表面が揺れる。
「全部マジ!!」
「なわけねえだろ!!」
日向も負けじと卓を叩いた。
「朝から俺らを馬鹿にしてんのか!」
「してねえよ!」
「じゃあ何だよ、その話!」
「実話!」
「実話の規模じゃねえんだよ!」
「魔法学校に通ってる奴が、今さら規模を気にすんなよ!」
「百五十年前は別だろ!」
「別じゃねえ!」
「別だよ!」
二人の声に、近くの生徒たちが一度だけこちらを振り返った。しかし、すぐに何事もなかったように朝食へ戻っていく。蓮根奎星と朝比奈日向が朝から騒いでいる。それだけなら、もう誰も驚かないのだ。
「証拠あるから!」
奎星は制服のポケットへ手を突っ込み、勢いよく一枚の写真を取り出した。
「ほら、見ろこれ!」
写真を卓の中央へ叩きつけようとして、寸前で手を止める。大切なものだということを、ようやく思い出したらしい。奎星は少しだけ気まずそうに手の動きを緩め、写真をそっと卓へ置いた。
「…………」
楓が写真へ目を落とす。
「何よ」
「今、叩きつけようとしたわよね」
「大事なの思い出したんだよ」
「遅いわよ」
写真は、わずかに茶色がかった古いものだった。現代の魔法写真のように人物が動くことはなく、紙の表面には長い年月を経たものだけが持つ、乾いた静けさがある。大きな木を背にして、大勢の人々が並んでいた。子供や老人、村人たち、着物姿の男たち。その中には、見慣れない服を着た外国人の姿も混じっている。
中央付近には、着物と袴を身につけた若い男が立っていた。右手には、大きな神代榊が握られている。
「こいつがジェームズ!」
奎星が写真の後方を指差した。
「こいつがミラー! こっちがトーマス、エドワード、それでウィリアム!」
「待て待て待て」
日向が写真を持ち上げた。
「こいつら全員、誰だよ」
「今、名前言ったじゃん!」
「名前しか知らねえよ!」
「ジェームズは決闘した奴!」
「急に知らない情報を増やすな!」
「で!」
奎星は日向の抗議など聞こえなかったように、写真の中央へ指を移した。
「こいつが清弦!」
四人の視線が、写真の青年へ集まる。
楓が写真を見た。それから奎星を見た。もう一度、写真へ視線を戻し、今度は少し長く見比べる。
「……似てる」
「だろ!?」
奎星の顔が、ぱっと明るくなった。
「顔、めちゃくちゃ似てるだろ!」
「自分で喜ぶところなの?」
「でも性格は全然違う!」
「それはどうかな」
伊織が言った。
「何で!?」
「本人同士だと、自分の似ているところには気づかないものかもしれないよ」
「似てねえって! あいつはめちゃくちゃ頑固だし、口は悪いし、人の話は聞かねえし、すぐ無茶するし!」
四人の視線が、今度は一斉に奎星へ向いた。
「…………」
「何だよ」
日向が写真へ目を戻す。
「いや」
「何だよ!」
「何でもねえ」
「何その感じ!」
「で、隣が鈴ちゃん!」
奎星は清弦のすぐ横に立つ少女を指差した。長い黒髪と、まだ幼さの残る顔。写真というものに慣れていないのか、少し緊張した表情で、清弦の隣に立っている。
「清弦の幼馴染み!」
「へえ」
楓が写真へ顔を近づけた。
「仲良さそうね」
「だろ!?」
「何であんたが嬉しそうなのよ」
「こいつ、鈴ちゃんのこと絶対好きなんだよ!」
「本人のいないところで言いふらすなよ」
日向が呆れたように言う。
「絶対だって!」
「聞いたの?」
「聞いてない!」
「じゃあ分かんねえだろ!」
「見りゃ分かんだよ!」
「何を見たんだよ!」
「色々!」
「便利だな、その言葉!」
日向は写真を表から裏へひっくり返し、紙の端を確かめるように眺めた。それから窓から差し込む光へかざし、しばらく黙り込む。
「……これ、あれだろ」
「何」
「一般社会で流行ってる、えーあい」
「AI」
伊織が訂正した。
「それ! えーあい!」
「何で分かってねえのに疑ってんだよ!!」
「だってお前!」
日向は写真を奎星へ突き返した。
「百五十年前で写真撮って帰ってきました、って方がおかしいだろ!!」
「撮ったんだよ!! ウィリアムが!!」
「誰だよウィリアム!!」
「写真撮ったやつ!!」
「知らねえよ!!」
「さっき教えただろ!!」
「情報が多すぎんだよ!!」
「俺なんか全部体験したんだぞ!」
「知らねえよ!」
「だから説明してんじゃん!」
楓は騒ぎの中心から少し離れるように味噌汁の椀を持ち上げ、湯気の向こうで小さく呟いた。
「朝から元気ねえ……」
伊織は奎星から写真を受け取り、紙の表面を指先でなぞるようにして、しばらく眺めた。
「でも」
「お!」
奎星が身を乗り出す。
「伊織は信じる!?」
「古い写真らしく加工する方法くらい、今ならいくらでもあると思う」
「敵!!」
「僕は写真鑑定士じゃないから」
「でも本物!」
「百五十年前の写真なら、どうしてこんなに状態がいいの?」
「撮った次の日に持って帰ってきたから」
「…………」
伊織の動きが止まった。
日向も止まり、楓も止まる。岳だけが、何事もなかったように味噌汁を飲み続けていた。
「ほら!」
奎星が卓を叩く。
「説明つくだろ!」
「余計おかしくなったわ!」
楓が声を上げた。
「百五十年前の写真なのに一日物って何よ!」
「俺からしたら一日物なんだよ!」
「時間の話がややこしすぎるの!」
奎星は不満そうに写真を取り返し、制服のポケットへ戻した。
「スズメちゃんは信じてくれたけどな!!」
「烏丸先生が?」
楓が顔を上げる。
「うん!」
「この話を?」
「全部!」
奎星は勝ち誇ったように胸を張った。
「清弦の資料も一緒に見たし、写真も見せたし、手記も見た!」
「じゃあ聞けばいいじゃん」
日向が教師席を指差した。
「おう!」
奎星は勢いよく振り返った。
少し離れた教師席では、スズメが静かに朝食を食べていた。白い湯気の向こうで、彼女はいつもと変わらない顔をしている。まるで、こちらの騒ぎなど最初から存在していないかのようだった。
「スズメちゃーーーん!!」
奎星の声が大食堂を横切る。
スズメの箸が、一瞬だけ止まった。
「スズメちゃ〜〜ん!」
奎星が大きく手を振る。
しかし、スズメは顔を上げなかった。何事もなかったように焼き魚へ箸を伸ばし、淡々と朝食を続けている。
「…………」
奎星の手が、ゆっくり下がった。
「え」
それでも諦めきれず、もう一度呼ぶ。
「スズメちゃん?」
返事はない。
隣で朝食を食べていた高宮が、ようやく顔を上げた。奎星たちの卓を見て、それからスズメへ視線を戻す。
「また蓮根が何かやらかしたんですか?」
スズメは味噌汁の椀を持ち上げた。
「いつものことです」
「ああ」
高宮は納得したように頷き、二人ともそのまま何事もなかったように食事へ戻った。
「スズメちゃん!?」
奎星が立ち上がる。
「昨日は信じてくれたじゃん!」
スズメは聞こえないふりをした。
「写真見て、『本当に行ったんですね』って言ったじゃん!」
「おい」
日向が横から奎星の袖を引いた。
「何!」
「先生、めちゃくちゃ他人のふりしてるぞ」
「分かってるよ!」
「何かしたんじゃねえの?」
「してねえ!」
奎星は言い切ったものの、昨日のことを思い出した。
帰ってきて、研究室へ飛び込んで、スズメを抱き締めた。
「…………」
急に黙り込んだ奎星を、日向が怪訝そうに見る。
「何だよ」
「何でもない」
「怪しい」
「何でもないって!」
奎星は椅子へ座り直した。教師席へ目を向けると、ちょうどスズメもこちらを見ていた。ほんの一瞬、視線が重なる。
スズメは静かに目を細めた。
奎星は、何も見なかったことにして前へ向き直る。
「何だった?」
日向が訊いた。
「生存本能」
「何だそれ」
その隣では、何も知らない高宮だけが、いつも通りの顔でご飯を食べていた。
*
「マジなのに……」
朝食の残り時間、奎星は白米を箸でつつきながら、まだ一人でぶつぶつ言っていた。
「ジェームズ、めちゃくちゃいい奴なのに……」
日向は聞いていない。
「高瀬さんも通訳してくれたし……」
楓は食器を片づけ始めている。
「平坂さんなんか、この神代榊を作ったんだぞ……」
伊織は本を読んでいる。
「清弦、俺がエクスペリアームスを教えたら、最後はめちゃくちゃ上手くなったし……」
岳が顔を上げた。
「飯は?」
「え?」
「百五十年前」
「そこだけ聞くの!?」
「美味かった?」
「美味かったよ!」
「何食べた?」
「米とか魚とか鶏とか! 横浜ではパンも肉も食った!」
「肉」
岳の目が、わずかに変わった。
「あと舶来ビール」
「お前、飲んだのか?」
日向が復活した。
「事故!」
「飲んだんじゃねえか!」
「ちょっとだけだよ!」
「十八歳!」
「分かってる!」
「烏丸先生に言った?」
「…………」
奎星の目が泳ぐ。
「言ってねえな」
「事故だから!」
「烏丸せんせーー!!」
「やめろおおおおお!!」
奎星が日向へ飛びついた。
また大食堂へ笑い声が広がる。
百五十年前、奎星は巨大な妖魔と戦い、霊脈を戻し、神代以蔵と刃を交え、歴史に残る男と肩を並べた。それでも帰ってくれば、朝食の時間に友達と喧嘩をしている。
その変わらなさが、奎星には少し嬉しかった。
*
朝食のあと、五人は上級課程三年の教室へ向かった。窓の外には六月の青い海が広がり、潮を含んだ風が薄いカーテンを揺らしている。教室の中には、朝のざわめきと、これから始まる授業を待つ生徒たちの気配が満ちていた。
奎星の周りには、去年と同じように日向がいる。楓がいる。岳がいる。伊織がいる。
黒板の前には、担任の土御門芽衣子が立っていた。
「では皆さん」
土御門は手にした紙へ目を落とした。
「先日お願いした進路希望ですが、全員提出してくれましたね」
教室のあちこちから返事が上がる。
「はーい」
「出しました」
「はい」
奎星も頷いた。
第一志望は禍祓官。第二志望は教師。
一年前、東京の高校で同じような紙を渡されたときには、第一志望の欄へ《海賊》と書いた。それに比べれば、これはものすごい進歩である。少なくとも、本人はそう思っていた。
「それに伴いまして」
土御門が続ける。
「魔法省への就職を希望している皆さんには、夏季休暇中、採用試験へ向けた補習を行います」
何人かの生徒が顔を上げた。楓も背筋を少し伸ばす。
「筆記科目や法規、各職種に必要な基礎知識を中心に、希望先に応じて先生方が担当してくださいます」
奎星は、そっと視線を逸らした。
「参加は挙手制です」
教室のあちこちで手が上がる。その中には、当然のように楓の手もあった。
奎星は手を上げない。両手を机の下へ入れ、何があっても挙手しないという意思を、姿勢だけで示していた。
楓が横目で見る。
「……何してるの?」
「何が?」
「手」
「下にある」
「見れば分かるわよ」
「参加は挙手制だから」
「禍祓官志望でしょう?」
「うん」
「魔法省よ」
「知ってる」
「じゃあ、何で上げないの?」
奎星は、当然のことを説明するように言った。
「俺は自習できるから」
楓の目が細くなる。
「何、その根拠のない自信」
「あるよ!」
「どこに?」
「俺の中に!」
「それを根拠がないって言ってるのよ!」
「自習くらいできるだろ!」
「去年の夏休み、分からないところを聞きに学校まで来たのは誰よ」
「…………」
「誰?」
「去年の俺」
「今年も同じでしょう」
「成長した!」
「どこが?」
「百五十年前まで行った!」
「学力の話をしてるの!」
教室の前から、土御門の声が飛んだ。
「蓮根君」
「はい!」
奎星は慌てて姿勢を正した。
土御門は、いつもと変わらない柔らかな笑顔を浮かべている。
「蓮根君は、必ず参加するように」
「なんで!?」
奎星の声が教室中へ響いた。
「参加は挙手制って言ったじゃん!」
「皆さんは、です」
「俺も皆さん!」
「蓮根君は参加してください」
「特別扱い!」
「ええ」
「認めた!」
「分かっているでしょう?」
「分かんない!」
その瞬間、教室中の生徒たちが揃って、うんうんと頷いた。
奎星は言葉を失った。右を見ても、左を見ても、後ろを見ても、誰もが納得した顔で頷いている。
「なんなんだよ、お前ら!!」
教室に笑い声が起こった。
「何で全員納得してんだよ!」
「蓮根だから」
どこかから声が飛ぶ。
「理由になってねえ!!」
「魔法法規」
伊織が言った。
「ぐっ」
「魔法史」
楓が続ける。
「それはスズメちゃんの補習で――」
「補習されてるじゃない」
「…………」
日向が笑った。
「第二志望、教師なのにな」
「うるせえ!」
「教える側が補習されてどうすんだよ」
「前もそれ言っただろ!」
「状況変わってねえじゃん!」
「変わってるよ! 幕末で教えた!」
「誰に!」
「清弦!」
「百五十年前の奴を実績に入れんな!」
「何でだよ!」
奎星は周囲を見回した。味方を探しているのだろう。しかし、誰も助けてくれそうにはない。
やがて、その視線が隣の大柄な男へ止まった。
「おい、岳!」
「何」
「てめえも出ろ!」
「何で」
「一緒に補習!」
「出ない」
「何で!?」
岳は、いつもと変わらない顔で答えた。
「俺は鷹司先生の実習を受ける」
「…………」
奎星が固まった。
「え……?」
「魔法生物」
岳は続ける。
「夏休みに保護区で実習するって」
「保護区?」
「うん」
「いつ決めたの?」
「この前」
奎星はゆっくりと伊織へ顔を向けた。
「い、伊織は?」
「僕?」
「補習!」
「行かないよ」
「何で!?」
「高宮先生が、術式解析官志望向けの補習をやってくれるって」
伊織は机の中から一枚の紙を取り出した。
「もう申し込んである」
「もう!?」
「うん」
「いつ!?」
「昨日」
「何でそんな早いの!?」
「進路だから」
「その言い方嫌い!」
奎星は慌てて次の相手へ向き直った。
「日向ァ!」
「何だよ」
「お前!」
「俺は夏休み、クィディッチの遠征」
「…………」
「セレクションとかもあるから」
「セレクション!?」
「学校外のチームも見に来るらしい」
「聞いてない!」
「言ってねえもん」
「言えよ!」
「何でだよ!」
「友達だろ!」
「進路全部お前に報告すんの!?」
「するだろ普通!」
「しねえよ!」
奎星は呆然と四人を見た。
楓は魔法省の行政職を目指し、教育管理局の補習へ手を挙げている。岳は鷹司のもとで魔法生物の実習を受ける。伊織は高宮のもとで術式解析官向けの補習へ、すでに申し込みを済ませている。そして日向は、クィディッチの遠征とセレクションを控えている。
誰もが、もう自分の夏を決め始めていた。
「な……」
奎星の口が開く。
「なんでそんな、もう準備してんの!?」
四人が一瞬だけ顔を見合わせた。
それから日向が、あまりにも自然な顔で言った。
「お前が幕末行ってる間に」
「馬鹿にしてんのか!!」
教室が爆笑に包まれた。
「三秒だぞ!!」
「十分だろ」
「何ができんだよ、三秒で!」
「お前は何日も遊んでたんだろ?」
「遊んでねえ!!」
「飯食って」
「戦った!」
「馬乗って」
「必要だった!」
「横浜行って」
「必要だった!」
「写真撮って」
「記念!」
「楽しんでんじゃねえか!」
「大変だったんだって!」
日向が笑いながら、机へ肘をついた。
「まあでも」
「何だよ!」
「俺らも進んでんだよ」
奎星が、ほんの少しだけ動きを止めた。
「お前がいなくても」
日向は窓の外へ目を向けた。青い海の向こうには、夏の気配がすでに滲んでいる。
「進路は待ってくれねえし」
「……うん」
「夏休みも来るし」
楓が続けた。
「卒業も近づいてるしね」
岳は短く頷いた。
「やりたいこと、あるから」
伊織も眼鏡を押し上げる。
「まだ決めたわけじゃないけど、調べることはできるからね」
奎星は、四人の顔を順番に見た。
一年前、みんなで同じ卓を囲んだときには、何になりたいのか、何をしたいのか、誰もはっきりとは分かっていなかった。けれど今は違う。日向はクィディッチへ、楓は魔法省へ、岳は魔法生物の世界へ、伊織は術式解析の道へ、それぞれの足で歩き始めている。
そして自分は。
「…………」
「何?」
楓が訊いた。
「いや」
奎星は少しだけ笑った。
「ちゃんと考えてんだな、お前ら」
「何目線よ」
「俺だけ百五十年前行ってたから」
「三秒」
「俺には長かったの!」
「その話、まだ続けんのかよ」
「本当だから!」
笑い声がまた教室へ広がった。
土御門は、そんな五人を教壇から静かに見ていた。やがて、少しだけ声を大きくする。
「では」
「はい」
奎星が前を向く。
「話を戻しますね」
「夏季補習ですが」
奎星の表情が曇った。
「…………」
嫌な予感がした。
「蓮根君」
「何」
「初日は九時開始です」
「もう俺の参加、決まってんの!?」
「はい」
「挙手制は!?」
「蓮根君以外です」
「横暴!!」
「魔法法規の問題集は二冊用意しておきますね」
「増えてる!!」
「魔法史も」
「スズメちゃん!?」
「烏丸先生にも共有済みです」
「いつ!?」
「先ほど」
「朝飯食ってる間!?」
奎星の顔が引きつった。
教師席で他人のふりをしていたスズメが、まさか裏で補習の手配まで進めていたとは思わなかったらしい。
「裏切られた……」
「何の話ですか?」
「こっちの話!」
日向が机へ突っ伏して笑い、楓も堪えきれず肩を揺らした。伊織は小さく笑い、岳だけが真顔で訊く。
「昼飯、出る?」
「知らねえよ!!」
「出るなら来てもいい」
「お前、実習だろ!」
「実習終わったあと」
「飯目当てで俺の補習に来んな!」
「一人よりいいだろ」
「……それは」
奎星が言葉を詰まらせる。
「ちょっと嬉しいけど」
「じゃあ来る」
「でも飯は自分で確認しろ!」
「分かった」
「何の話してんだよ!」
日向がまた笑った。
いつもの声が、いつもの教室へ広がっていく。
*
窓の外では、六月の海が光っていた。風に揺れるカーテンの隙間から差し込んだ陽射しが、机の上に細長い光の帯をつくっている。その光の中で、埃がゆっくりと舞っていた。
時間は待ってくれない。
百五十年前へ行っていた間も、戻ってきてからも、それは同じだった。一秒が過ぎ、次の一秒が訪れ、そのまた次の一秒が、何も知らない顔で未来へ流れていく。
去年、進路希望調査へ《海賊》と書いた少年は、一年後、禍祓官と教師の間で迷っている。その途中で学校を救い、誰かの記憶を取り戻し、何度も六月十五日をやり直し、百五十年前へ落ち、歴史の英雄と呼ばれる男と出会った。
そして知った。
その男もまた、最初から英雄になろうとしていたわけではなかった。守りたい村があり、守りたい友達がいて、守りたい少女がいた。だから戦った。その結果を、百五十年後の人間が英雄と呼んだのだ。
未来というものは、最初から形を決められているわけではない。
清弦も、奎星も、日向も、楓も、岳も、伊織も、今いる場所から自分で次の一歩を選んでいく。何になるのか、どこへ行くのか、まだ分からなくてもいい。遠回りしてもいい。百五十年ほどの寄り道をしたって、帰る場所を忘れなければ、いつかはそこへ戻ってこられる。
「蓮根君」
土御門の声がした。
「何?」
「聞いていますか?」
「聞いてる!」
「では、夏季補習の申込書を」
「だから俺、申し込んでないって!」
「こちらで記入しておきました」
「何で!?」
教室中から、また笑い声が上がった。
「お前ら笑うなよ!!」
「頑張れ、未来の禍祓官」
日向が言う。
「うるせえ!」
「未来の先生」
楓が続けた。
「お前まで!」
「先生が補習」
岳が言う。
「まだ先生じゃねえ!」
「でも第二志望」
伊織がとどめを刺した。
「分かってるよ!!」
奎星は頭を抱えた。
「俺、幕末で日本救ってきたんだけど!?」
「それとこれとは別です」
土御門が微笑む。
「なんでだよぉぉぉぉぉ!!」
朝の教室へ、蓮根奎星の声が響いた。
百五十年の寄り道を終えても、英雄の兄弟になっても、未来を自分で選び始めても、マホウトコロの日常は驚くほど変わらない。
友達がいて、先生がいて、飯を食い、馬鹿をやり、怒られて、笑って、明日の予定を決めていく。
そして夏休みには、補習がある。
それもまた、奎星が百五十年を越えてまで帰りたかった、未来の一つだった。
マホウトコロ シーズン7「幕末と常世返し」 完
シーズン7はここまでです!
シーズン8は今、構想練ってる途中なので少々お待ちください!
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