マホウトコロ   作:西野圭吾

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最終話 それぞれの明日

「だーーーかーーーら!!」

 

 朝の大食堂に、蓮根奎星の声が響き渡った。高い窓から差し込む六月の朝日が、長い卓の上に並んだ炊きたての米や味噌汁を白く照らし、立ちのぼる湯気を淡く透かしている。天井近くでは伝書用の折り鶴が何羽も飛び交い、小妖たちは焼き魚や卵焼きを載せた盆を抱えて、生徒たちの間を忙しなく行き来していた。

 

 何の変哲もない、いつものマホウトコロの朝だった。ただし、その穏やかな空気の中心で、奎星だけが朝から必死になっている。

 

「マジなんだって!!」

 

「お前がいきなり百五十年前に飛ばされて?」

 

 向かいに座る日向が、話の内容を確認するように指を一本立てた。

 

「そう!」

 

「先祖の蓮根清弦に会って?」

 

 楓が二本目の指を立てる。

 

「そう!」

 

「飯食って」

 

 岳が三本目を立てた。

 

「そう!」

 

 伊織が眼鏡を押し上げる。

 

「そこだけ急に規模が小さくない?」

 

「飯は大事だろ!」

 

「そこは否定しないんだ」

 

「で、妖魔と戦って」

 

 伊織が、奎星の勢いに流されることなく淡々と続きを並べた。

 

「うん!」

 

「関東の霊脈を戻して」

 

「うん!」

 

「神代冥司の先祖にも会った」

 

「そう!!」

 

 奎星は両手で卓を叩いた。食器がかすかに跳ね、味噌汁の表面が揺れる。

 

「全部マジ!!」

 

「なわけねえだろ!!」

 

 日向も負けじと卓を叩いた。

 

「朝から俺らを馬鹿にしてんのか!」

 

「してねえよ!」

 

「じゃあ何だよ、その話!」

 

「実話!」

 

「実話の規模じゃねえんだよ!」

 

「魔法学校に通ってる奴が、今さら規模を気にすんなよ!」

 

「百五十年前は別だろ!」

 

「別じゃねえ!」

 

「別だよ!」

 

 二人の声に、近くの生徒たちが一度だけこちらを振り返った。しかし、すぐに何事もなかったように朝食へ戻っていく。蓮根奎星と朝比奈日向が朝から騒いでいる。それだけなら、もう誰も驚かないのだ。

 

「証拠あるから!」

 

 奎星は制服のポケットへ手を突っ込み、勢いよく一枚の写真を取り出した。

 

「ほら、見ろこれ!」

 

 写真を卓の中央へ叩きつけようとして、寸前で手を止める。大切なものだということを、ようやく思い出したらしい。奎星は少しだけ気まずそうに手の動きを緩め、写真をそっと卓へ置いた。

 

「…………」

 

 楓が写真へ目を落とす。

 

「何よ」

 

「今、叩きつけようとしたわよね」

 

「大事なの思い出したんだよ」

 

「遅いわよ」

 

 写真は、わずかに茶色がかった古いものだった。現代の魔法写真のように人物が動くことはなく、紙の表面には長い年月を経たものだけが持つ、乾いた静けさがある。大きな木を背にして、大勢の人々が並んでいた。子供や老人、村人たち、着物姿の男たち。その中には、見慣れない服を着た外国人の姿も混じっている。

 

 中央付近には、着物と袴を身につけた若い男が立っていた。右手には、大きな神代榊が握られている。

 

「こいつがジェームズ!」

 

 奎星が写真の後方を指差した。

 

「こいつがミラー! こっちがトーマス、エドワード、それでウィリアム!」

 

「待て待て待て」

 

 日向が写真を持ち上げた。

 

「こいつら全員、誰だよ」

 

「今、名前言ったじゃん!」

 

「名前しか知らねえよ!」

 

「ジェームズは決闘した奴!」

 

「急に知らない情報を増やすな!」

 

「で!」

 

 奎星は日向の抗議など聞こえなかったように、写真の中央へ指を移した。

 

「こいつが清弦!」

 

 四人の視線が、写真の青年へ集まる。

 

 楓が写真を見た。それから奎星を見た。もう一度、写真へ視線を戻し、今度は少し長く見比べる。

 

「……似てる」

 

「だろ!?」

 

 奎星の顔が、ぱっと明るくなった。

 

「顔、めちゃくちゃ似てるだろ!」

 

「自分で喜ぶところなの?」

 

「でも性格は全然違う!」

 

「それはどうかな」

 

 伊織が言った。

 

「何で!?」

 

「本人同士だと、自分の似ているところには気づかないものかもしれないよ」

 

「似てねえって! あいつはめちゃくちゃ頑固だし、口は悪いし、人の話は聞かねえし、すぐ無茶するし!」

 

 四人の視線が、今度は一斉に奎星へ向いた。

 

「…………」

 

「何だよ」

 

 日向が写真へ目を戻す。

 

「いや」

 

「何だよ!」

 

「何でもねえ」

 

「何その感じ!」

 

「で、隣が鈴ちゃん!」

 

 奎星は清弦のすぐ横に立つ少女を指差した。長い黒髪と、まだ幼さの残る顔。写真というものに慣れていないのか、少し緊張した表情で、清弦の隣に立っている。

 

「清弦の幼馴染み!」

 

「へえ」

 

 楓が写真へ顔を近づけた。

 

「仲良さそうね」

 

「だろ!?」

 

「何であんたが嬉しそうなのよ」

 

「こいつ、鈴ちゃんのこと絶対好きなんだよ!」

 

「本人のいないところで言いふらすなよ」

 

 日向が呆れたように言う。

 

「絶対だって!」

 

「聞いたの?」

 

「聞いてない!」

 

「じゃあ分かんねえだろ!」

 

「見りゃ分かんだよ!」

 

「何を見たんだよ!」

 

「色々!」

 

「便利だな、その言葉!」

 

 日向は写真を表から裏へひっくり返し、紙の端を確かめるように眺めた。それから窓から差し込む光へかざし、しばらく黙り込む。

 

「……これ、あれだろ」

 

「何」

 

「一般社会で流行ってる、えーあい」

 

「AI」

 

 伊織が訂正した。

 

「それ! えーあい!」

 

「何で分かってねえのに疑ってんだよ!!」

 

「だってお前!」

 

 日向は写真を奎星へ突き返した。

 

「百五十年前で写真撮って帰ってきました、って方がおかしいだろ!!」

 

「撮ったんだよ!! ウィリアムが!!」

 

「誰だよウィリアム!!」

 

「写真撮ったやつ!!」

 

「知らねえよ!!」

 

「さっき教えただろ!!」

 

「情報が多すぎんだよ!!」

 

「俺なんか全部体験したんだぞ!」

 

「知らねえよ!」

 

「だから説明してんじゃん!」

 

 楓は騒ぎの中心から少し離れるように味噌汁の椀を持ち上げ、湯気の向こうで小さく呟いた。

 

「朝から元気ねえ……」

 

 伊織は奎星から写真を受け取り、紙の表面を指先でなぞるようにして、しばらく眺めた。

 

「でも」

 

「お!」

 

 奎星が身を乗り出す。

 

「伊織は信じる!?」

 

「古い写真らしく加工する方法くらい、今ならいくらでもあると思う」

 

「敵!!」

 

「僕は写真鑑定士じゃないから」

 

「でも本物!」

 

「百五十年前の写真なら、どうしてこんなに状態がいいの?」

 

「撮った次の日に持って帰ってきたから」

 

「…………」

 

 伊織の動きが止まった。

 

 日向も止まり、楓も止まる。岳だけが、何事もなかったように味噌汁を飲み続けていた。

 

「ほら!」

 

 奎星が卓を叩く。

 

「説明つくだろ!」

 

「余計おかしくなったわ!」

 

 楓が声を上げた。

 

「百五十年前の写真なのに一日物って何よ!」

 

「俺からしたら一日物なんだよ!」

 

「時間の話がややこしすぎるの!」

 

 奎星は不満そうに写真を取り返し、制服のポケットへ戻した。

 

「スズメちゃんは信じてくれたけどな!!」

 

「烏丸先生が?」

 

 楓が顔を上げる。

 

「うん!」

 

「この話を?」

 

「全部!」

 

 奎星は勝ち誇ったように胸を張った。

 

「清弦の資料も一緒に見たし、写真も見せたし、手記も見た!」

 

「じゃあ聞けばいいじゃん」

 

 日向が教師席を指差した。

 

「おう!」

 

 奎星は勢いよく振り返った。

 

 少し離れた教師席では、スズメが静かに朝食を食べていた。白い湯気の向こうで、彼女はいつもと変わらない顔をしている。まるで、こちらの騒ぎなど最初から存在していないかのようだった。

 

「スズメちゃーーーん!!」

 

 奎星の声が大食堂を横切る。

 

 スズメの箸が、一瞬だけ止まった。

 

「スズメちゃ〜〜ん!」

 

 奎星が大きく手を振る。

 

 しかし、スズメは顔を上げなかった。何事もなかったように焼き魚へ箸を伸ばし、淡々と朝食を続けている。

 

「…………」

 

 奎星の手が、ゆっくり下がった。

 

「え」

 

 それでも諦めきれず、もう一度呼ぶ。

 

「スズメちゃん?」

 

 返事はない。

 

 隣で朝食を食べていた高宮が、ようやく顔を上げた。奎星たちの卓を見て、それからスズメへ視線を戻す。

 

「また蓮根が何かやらかしたんですか?」

 

 スズメは味噌汁の椀を持ち上げた。

 

「いつものことです」

 

「ああ」

 

 高宮は納得したように頷き、二人ともそのまま何事もなかったように食事へ戻った。

 

「スズメちゃん!?」

 

 奎星が立ち上がる。

 

「昨日は信じてくれたじゃん!」

 

 スズメは聞こえないふりをした。

 

「写真見て、『本当に行ったんですね』って言ったじゃん!」

 

「おい」

 

 日向が横から奎星の袖を引いた。

 

「何!」

 

「先生、めちゃくちゃ他人のふりしてるぞ」

 

「分かってるよ!」

 

「何かしたんじゃねえの?」

 

「してねえ!」

 

 奎星は言い切ったものの、昨日のことを思い出した。

 

 帰ってきて、研究室へ飛び込んで、スズメを抱き締めた。

 

「…………」

 

 急に黙り込んだ奎星を、日向が怪訝そうに見る。

 

「何だよ」

 

「何でもない」

 

「怪しい」

 

「何でもないって!」

 

 奎星は椅子へ座り直した。教師席へ目を向けると、ちょうどスズメもこちらを見ていた。ほんの一瞬、視線が重なる。

 

 スズメは静かに目を細めた。

 

 奎星は、何も見なかったことにして前へ向き直る。

 

「何だった?」

 

 日向が訊いた。

 

「生存本能」

 

「何だそれ」

 

 その隣では、何も知らない高宮だけが、いつも通りの顔でご飯を食べていた。

 

            *

 

「マジなのに……」

 

 朝食の残り時間、奎星は白米を箸でつつきながら、まだ一人でぶつぶつ言っていた。

 

「ジェームズ、めちゃくちゃいい奴なのに……」

 

 日向は聞いていない。

 

「高瀬さんも通訳してくれたし……」

 

 楓は食器を片づけ始めている。

 

「平坂さんなんか、この神代榊を作ったんだぞ……」

 

 伊織は本を読んでいる。

 

「清弦、俺がエクスペリアームスを教えたら、最後はめちゃくちゃ上手くなったし……」

 

 岳が顔を上げた。

 

「飯は?」

 

「え?」

 

「百五十年前」

 

「そこだけ聞くの!?」

 

「美味かった?」

 

「美味かったよ!」

 

「何食べた?」

 

「米とか魚とか鶏とか! 横浜ではパンも肉も食った!」

 

「肉」

 

 岳の目が、わずかに変わった。

 

「あと舶来ビール」

 

「お前、飲んだのか?」

 

 日向が復活した。

 

「事故!」

 

「飲んだんじゃねえか!」

 

「ちょっとだけだよ!」

 

「十八歳!」

 

「分かってる!」

 

「烏丸先生に言った?」

 

「…………」

 

 奎星の目が泳ぐ。

 

「言ってねえな」

 

「事故だから!」

 

「烏丸せんせーー!!」

 

「やめろおおおおお!!」

 

 奎星が日向へ飛びついた。

 

 また大食堂へ笑い声が広がる。

 

 百五十年前、奎星は巨大な妖魔と戦い、霊脈を戻し、神代以蔵と刃を交え、歴史に残る男と肩を並べた。それでも帰ってくれば、朝食の時間に友達と喧嘩をしている。

 

 その変わらなさが、奎星には少し嬉しかった。

 

            *

 

 朝食のあと、五人は上級課程三年の教室へ向かった。窓の外には六月の青い海が広がり、潮を含んだ風が薄いカーテンを揺らしている。教室の中には、朝のざわめきと、これから始まる授業を待つ生徒たちの気配が満ちていた。

 

 奎星の周りには、去年と同じように日向がいる。楓がいる。岳がいる。伊織がいる。

 

 黒板の前には、担任の土御門芽衣子が立っていた。

 

「では皆さん」

 

 土御門は手にした紙へ目を落とした。

 

「先日お願いした進路希望ですが、全員提出してくれましたね」

 

 教室のあちこちから返事が上がる。

 

「はーい」

 

「出しました」

 

「はい」

 

 奎星も頷いた。

 

 第一志望は禍祓官。第二志望は教師。

 

 一年前、東京の高校で同じような紙を渡されたときには、第一志望の欄へ《海賊》と書いた。それに比べれば、これはものすごい進歩である。少なくとも、本人はそう思っていた。

 

「それに伴いまして」

 

 土御門が続ける。

 

「魔法省への就職を希望している皆さんには、夏季休暇中、採用試験へ向けた補習を行います」

 

 何人かの生徒が顔を上げた。楓も背筋を少し伸ばす。

 

「筆記科目や法規、各職種に必要な基礎知識を中心に、希望先に応じて先生方が担当してくださいます」

 

 奎星は、そっと視線を逸らした。

 

「参加は挙手制です」

 

 教室のあちこちで手が上がる。その中には、当然のように楓の手もあった。

 

 奎星は手を上げない。両手を机の下へ入れ、何があっても挙手しないという意思を、姿勢だけで示していた。

 

 楓が横目で見る。

 

「……何してるの?」

 

「何が?」

 

「手」

 

「下にある」

 

「見れば分かるわよ」

 

「参加は挙手制だから」

 

「禍祓官志望でしょう?」

 

「うん」

 

「魔法省よ」

 

「知ってる」

 

「じゃあ、何で上げないの?」

 

 奎星は、当然のことを説明するように言った。

 

「俺は自習できるから」

 

 楓の目が細くなる。

 

「何、その根拠のない自信」

 

「あるよ!」

 

「どこに?」

 

「俺の中に!」

 

「それを根拠がないって言ってるのよ!」

 

「自習くらいできるだろ!」

 

「去年の夏休み、分からないところを聞きに学校まで来たのは誰よ」

 

「…………」

 

「誰?」

 

「去年の俺」

 

「今年も同じでしょう」

 

「成長した!」

 

「どこが?」

 

「百五十年前まで行った!」

 

「学力の話をしてるの!」

 

 教室の前から、土御門の声が飛んだ。

 

「蓮根君」

 

「はい!」

 

 奎星は慌てて姿勢を正した。

 

 土御門は、いつもと変わらない柔らかな笑顔を浮かべている。

 

「蓮根君は、必ず参加するように」

 

「なんで!?」

 

 奎星の声が教室中へ響いた。

 

「参加は挙手制って言ったじゃん!」

 

「皆さんは、です」

 

「俺も皆さん!」

 

「蓮根君は参加してください」

 

「特別扱い!」

 

「ええ」

 

「認めた!」

 

「分かっているでしょう?」

 

「分かんない!」

 

 その瞬間、教室中の生徒たちが揃って、うんうんと頷いた。

 

 奎星は言葉を失った。右を見ても、左を見ても、後ろを見ても、誰もが納得した顔で頷いている。

 

「なんなんだよ、お前ら!!」

 

 教室に笑い声が起こった。

 

「何で全員納得してんだよ!」

 

「蓮根だから」

 

 どこかから声が飛ぶ。

 

「理由になってねえ!!」

 

「魔法法規」

 

 伊織が言った。

 

「ぐっ」

 

「魔法史」

 

 楓が続ける。

 

「それはスズメちゃんの補習で――」

 

「補習されてるじゃない」

 

「…………」

 

 日向が笑った。

 

「第二志望、教師なのにな」

 

「うるせえ!」

 

「教える側が補習されてどうすんだよ」

 

「前もそれ言っただろ!」

 

「状況変わってねえじゃん!」

 

「変わってるよ! 幕末で教えた!」

 

「誰に!」

 

「清弦!」

 

「百五十年前の奴を実績に入れんな!」

 

「何でだよ!」

 

 奎星は周囲を見回した。味方を探しているのだろう。しかし、誰も助けてくれそうにはない。

 

 やがて、その視線が隣の大柄な男へ止まった。

 

「おい、岳!」

 

「何」

 

「てめえも出ろ!」

 

「何で」

 

「一緒に補習!」

 

「出ない」

 

「何で!?」

 

 岳は、いつもと変わらない顔で答えた。

 

「俺は鷹司先生の実習を受ける」

 

「…………」

 

 奎星が固まった。

 

「え……?」

 

「魔法生物」

 

 岳は続ける。

 

「夏休みに保護区で実習するって」

 

「保護区?」

 

「うん」

 

「いつ決めたの?」

 

「この前」

 

 奎星はゆっくりと伊織へ顔を向けた。

 

「い、伊織は?」

 

「僕?」

 

「補習!」

 

「行かないよ」

 

「何で!?」

 

「高宮先生が、術式解析官志望向けの補習をやってくれるって」

 

 伊織は机の中から一枚の紙を取り出した。

 

「もう申し込んである」

 

「もう!?」

 

「うん」

 

「いつ!?」

 

「昨日」

 

「何でそんな早いの!?」

 

「進路だから」

 

「その言い方嫌い!」

 

 奎星は慌てて次の相手へ向き直った。

 

「日向ァ!」

 

「何だよ」

 

「お前!」

 

「俺は夏休み、クィディッチの遠征」

 

「…………」

 

「セレクションとかもあるから」

 

「セレクション!?」

 

「学校外のチームも見に来るらしい」

 

「聞いてない!」

 

「言ってねえもん」

 

「言えよ!」

 

「何でだよ!」

 

「友達だろ!」

 

「進路全部お前に報告すんの!?」

 

「するだろ普通!」

 

「しねえよ!」

 

 奎星は呆然と四人を見た。

 

 楓は魔法省の行政職を目指し、教育管理局の補習へ手を挙げている。岳は鷹司のもとで魔法生物の実習を受ける。伊織は高宮のもとで術式解析官向けの補習へ、すでに申し込みを済ませている。そして日向は、クィディッチの遠征とセレクションを控えている。

 

 誰もが、もう自分の夏を決め始めていた。

 

「な……」

 

 奎星の口が開く。

 

「なんでそんな、もう準備してんの!?」

 

 四人が一瞬だけ顔を見合わせた。

 

 それから日向が、あまりにも自然な顔で言った。

 

「お前が幕末行ってる間に」

 

「馬鹿にしてんのか!!」

 

 教室が爆笑に包まれた。

 

「三秒だぞ!!」

 

「十分だろ」

 

「何ができんだよ、三秒で!」

 

「お前は何日も遊んでたんだろ?」

 

「遊んでねえ!!」

 

「飯食って」

 

「戦った!」

 

「馬乗って」

 

「必要だった!」

 

「横浜行って」

 

「必要だった!」

 

「写真撮って」

 

「記念!」

 

「楽しんでんじゃねえか!」

 

「大変だったんだって!」

 

 日向が笑いながら、机へ肘をついた。

 

「まあでも」

 

「何だよ!」

 

「俺らも進んでんだよ」

 

 奎星が、ほんの少しだけ動きを止めた。

 

「お前がいなくても」

 

 日向は窓の外へ目を向けた。青い海の向こうには、夏の気配がすでに滲んでいる。

 

「進路は待ってくれねえし」

 

「……うん」

 

「夏休みも来るし」

 

 楓が続けた。

 

「卒業も近づいてるしね」

 

 岳は短く頷いた。

 

「やりたいこと、あるから」

 

 伊織も眼鏡を押し上げる。

 

「まだ決めたわけじゃないけど、調べることはできるからね」

 

 奎星は、四人の顔を順番に見た。

 

 一年前、みんなで同じ卓を囲んだときには、何になりたいのか、何をしたいのか、誰もはっきりとは分かっていなかった。けれど今は違う。日向はクィディッチへ、楓は魔法省へ、岳は魔法生物の世界へ、伊織は術式解析の道へ、それぞれの足で歩き始めている。

 

 そして自分は。

 

「…………」

 

「何?」

 

 楓が訊いた。

 

「いや」

 

 奎星は少しだけ笑った。

 

「ちゃんと考えてんだな、お前ら」

 

「何目線よ」

 

「俺だけ百五十年前行ってたから」

 

「三秒」

 

「俺には長かったの!」

 

「その話、まだ続けんのかよ」

 

「本当だから!」

 

 笑い声がまた教室へ広がった。

 

 土御門は、そんな五人を教壇から静かに見ていた。やがて、少しだけ声を大きくする。

 

「では」

 

「はい」

 

 奎星が前を向く。

 

「話を戻しますね」

 

「夏季補習ですが」

 

 奎星の表情が曇った。

 

「…………」

 

 嫌な予感がした。

 

「蓮根君」

 

「何」

 

「初日は九時開始です」

 

「もう俺の参加、決まってんの!?」

 

「はい」

 

「挙手制は!?」

 

「蓮根君以外です」

 

「横暴!!」

 

「魔法法規の問題集は二冊用意しておきますね」

 

「増えてる!!」

 

「魔法史も」

 

「スズメちゃん!?」

 

「烏丸先生にも共有済みです」

 

「いつ!?」

 

「先ほど」

 

「朝飯食ってる間!?」

 

 奎星の顔が引きつった。

 

 教師席で他人のふりをしていたスズメが、まさか裏で補習の手配まで進めていたとは思わなかったらしい。

 

「裏切られた……」

 

「何の話ですか?」

 

「こっちの話!」

 

 日向が机へ突っ伏して笑い、楓も堪えきれず肩を揺らした。伊織は小さく笑い、岳だけが真顔で訊く。

 

「昼飯、出る?」

 

「知らねえよ!!」

 

「出るなら来てもいい」

 

「お前、実習だろ!」

 

「実習終わったあと」

 

「飯目当てで俺の補習に来んな!」

 

「一人よりいいだろ」

 

「……それは」

 

 奎星が言葉を詰まらせる。

 

「ちょっと嬉しいけど」

 

「じゃあ来る」

 

「でも飯は自分で確認しろ!」

 

「分かった」

 

「何の話してんだよ!」

 

 日向がまた笑った。

 

 いつもの声が、いつもの教室へ広がっていく。

 

            *

 

 窓の外では、六月の海が光っていた。風に揺れるカーテンの隙間から差し込んだ陽射しが、机の上に細長い光の帯をつくっている。その光の中で、埃がゆっくりと舞っていた。

 

 時間は待ってくれない。

 

 百五十年前へ行っていた間も、戻ってきてからも、それは同じだった。一秒が過ぎ、次の一秒が訪れ、そのまた次の一秒が、何も知らない顔で未来へ流れていく。

 

 去年、進路希望調査へ《海賊》と書いた少年は、一年後、禍祓官と教師の間で迷っている。その途中で学校を救い、誰かの記憶を取り戻し、何度も六月十五日をやり直し、百五十年前へ落ち、歴史の英雄と呼ばれる男と出会った。

 

 そして知った。

 

 その男もまた、最初から英雄になろうとしていたわけではなかった。守りたい村があり、守りたい友達がいて、守りたい少女がいた。だから戦った。その結果を、百五十年後の人間が英雄と呼んだのだ。

 

 未来というものは、最初から形を決められているわけではない。

 

 清弦も、奎星も、日向も、楓も、岳も、伊織も、今いる場所から自分で次の一歩を選んでいく。何になるのか、どこへ行くのか、まだ分からなくてもいい。遠回りしてもいい。百五十年ほどの寄り道をしたって、帰る場所を忘れなければ、いつかはそこへ戻ってこられる。

 

「蓮根君」

 

 土御門の声がした。

 

「何?」

 

「聞いていますか?」

 

「聞いてる!」

 

「では、夏季補習の申込書を」

 

「だから俺、申し込んでないって!」

 

「こちらで記入しておきました」

 

「何で!?」

 

 教室中から、また笑い声が上がった。

 

「お前ら笑うなよ!!」

 

「頑張れ、未来の禍祓官」

 

 日向が言う。

 

「うるせえ!」

 

「未来の先生」

 

 楓が続けた。

 

「お前まで!」

 

「先生が補習」

 

 岳が言う。

 

「まだ先生じゃねえ!」

 

「でも第二志望」

 

 伊織がとどめを刺した。

 

「分かってるよ!!」

 

 奎星は頭を抱えた。

 

「俺、幕末で日本救ってきたんだけど!?」

 

「それとこれとは別です」

 

 土御門が微笑む。

 

「なんでだよぉぉぉぉぉ!!」

 

 朝の教室へ、蓮根奎星の声が響いた。

 

 百五十年の寄り道を終えても、英雄の兄弟になっても、未来を自分で選び始めても、マホウトコロの日常は驚くほど変わらない。

 

 友達がいて、先生がいて、飯を食い、馬鹿をやり、怒られて、笑って、明日の予定を決めていく。

 

 そして夏休みには、補習がある。

 

 それもまた、奎星が百五十年を越えてまで帰りたかった、未来の一つだった。

 

 マホウトコロ シーズン7「幕末と常世返し」 完

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