エララと失われた星の物語   作:湯けむり

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1話

 

 

窓外の石畳を噛む、重い行軍靴の音が地下まで微かに響いていた。 

 

 

1934年11月、東欧の峻険な山脈に囲まれたヴェンドロヴィア帝国の首都ヴェンデグラード。

世界恐慌の泥沼から脱出し切れないイギリスやフランスを尻目に、この国は国際連盟を脱退し、急速な重工業化の煙で星空を塗り潰している。列強諸国がロンドン海軍軍縮条約の対応に追われる中、独自の軍備拡張を進めるこの帝国は欧州の新たな火種として急速に台頭しつつあった。

 

 

外の広場では冷たい夜風の中で数千人の市民が松明を掲げて、偉大なる国と信じて疑わないように軍歌を合唱していた。

ハイパーインフレと失業に絶望していた大衆は、強力な指導者と"かつての帝国の栄光"を掲げる新政権に熱狂し、その総統を讃えるパレードに割れんばかりの歓声を送っていた。熱狂の残響は、総統府の地下深くにある密閉された部屋にまで、地鳴りのように伝わっている。

 

 

 

 

「───で?それで、ハミルトンは死んだのかね」 

 

 

 

地下にある特殊科学工学研究所。非科学的な事を心酔する総統が自らの指揮で立ち上げた組織である。

その最奥にある執務室で、サディアス・ヴァンス博士は机上の書類から目を離さずに言った。完璧に仕立てられたサヴィル・ロウ調の三つ揃えの黒いスーツ⋯⋯それは彼の痩躯を精密機械のように四角く縁取っている。金縁の丸眼鏡の奥にあるぎらつく細い瞳を臆することなく直立不動の姿勢を取るクルツ大佐が低く応じた。

 

 

 

「いえ、ドクター。ロンドンからの報告によれば、アーサー・ハミルトン博士は一命を取り留めたようです。現在もテームズ川沿いの聖トマス病院の集中治療室と報告がきております」

 

 

「しぶとい老人ですが、聞く所だと脳への衝撃が強すぎたようで。二度とまともな言語は話せないでしょう。⋯⋯ともかく、こちらが本命です」

 

 

 

クルツが手袋をはめた手で、革の鞄から一冊の古びたノートを取り出した。煤と人間の皮脂で黒ずんだ羊皮紙の束だ。

大英博物館の元古文書室長、ハミルトン博士の書斎から奪い取ってきた『天体運行異聞』の断片だった。

それを見、ヴァンス博士の手が初めて止まる。万年筆を置くと吸い寄せられるようにノートを奪い、ページをめくった。

 

 

 

「十三番目の楕円軌道⋯⋯。これだ⋯⋯。ハミルトン博士は、これを単なるオカルトとして大英博物館の地下に埋もれさせておく気だったんだな。全く愚かな。歴史の真実に触れながら怯えて目を背けたのだ」

 

 

「我々軍部にとっては、それがオカルトか否かは重要ではありません。これが本当に、我が帝国の発展に繋がるので?あの新型重爆撃機を、重力の呪縛から解放するエネルギー理論に繋がるのですか?」

 

 

「繋がる、ではないんだ。これがそのものだ」

 

 

ヴァンス博士は立ち上がると、製図机に広げられた世界地図の南米の緑の空白地帯を指先で強く叩いた。

 

 

「宇宙の創生期、地球の引力圏に捕らえられた未知の隕石の核であるステラ・クリスタル。そのエネルギーの指向性を制御できれば、あらゆる物質の質量を相殺できる。我が帝国の航空艦隊は重力というしがらみから解き放たれ、いかなる戦闘機も対空砲火も届かない成層圏から、ロンドンやパリを一方的に圧殺できるようになるのだよ。経済封鎖などという生温い手段ではなく、物理的な絶対優位が手に入る」

 

 

「しかしだね、大佐。この地図に記された星の神殿の正確な座標を解くには、もう一つの鍵がいる」

 

 

「鍵、ですか」

 

 

「ハミルトン博士の娘だ」

 

 

「真鍮製のアストロ・コンパスがあるんだ。この手稿の暗号は、そのコンパスが放つ特定の光の屈折でなければ解読できない仕組みになっている。娘のエララが、父親から受け継いでいる筈だ。彼女は自分がどんな力を秘めた物を持っているのか気づいているだろう」

 

 

「では、直ちにロンドンへ後続の追手を」

 

 

「いや、泳がせる。現段階であっちの政府を刺激するのは、下策の極みだ。ロンドンでの強奪は、あくまで大英博物館の資料を狙った素行の悪い古物商による空き巣として処理されることを祈ろう。それにもし、もしもだ。バレたらどうなると思う?そうなればこの天体運行異聞に秘められた真の価値が、あちらの知性派どもに発覚するリスクが生まれるのだよ。最も、不景気に苦しむ奴らにそこまで回る知能はないだろうがね」

 

 

「あえて彼女に謎を追わせ、現地で果実だけを摘み取ると」

 

 

「その通りだ。彼女は父親の無念を晴らすためとやらに、自発的に南米の現地へ向かうだろう。単なるうら若き女性学者の無謀な私的冒険にしか見えん。それに南米は今、外貨獲得に必死だろう。我が国がパラナ川流域の鉱山開拓と地質調査の名目で巨額の投資をちらつかせれば、彼らは喜んで大規模な入国と重機の搬入を容認する。大いなるチャンスが巡ってきた訳だ」

 

 

 

「エララが扉を開けたその瞬間に未開の密林の奥地で、彼女の不運な遭難事故と共にすべてを我が帝国の手に収めるのだ。誰にも気づかれず、完璧にね」

 

 

 

ヴァンスは窓外の闇を見つめた。部屋の隅の振り子時計が重く十一時の鐘を鳴らし、地上からの民衆の狂熱的な歓声と交ざり合いながら、静まり返った地下室に響き渡る。

 

 

 

「大佐、直ちに現地工作員への無線暗号の送信を頼む。神が作った不完全な宇宙の法則を、我が帝国の科学が上書きする時間が来たんだ」

 

 

 

 

 

 

──────────────────────────

 

 

 

 

 

 

ロンドンの街は、石炭の煙とテームズ川から這い上がってきた湿った川霧によって、呼吸を拒むような灰色のベールに包まれていた。 世界恐慌がもたらした不況の影は、労働者階級の街だけでなく、知的権威の象徴である大英博物館の壮麗な円柱にまで泥のようにこびりついている。通りを行き交う人々は一様に、ウールが薄くなった外套の襟を立て、失業と明日の配給への不安を映した暗い石畳を無言で踏みしめていた。

 

 

 

テームズ川の対岸、ランベス地区に位置する聖トマス病院の集中治療室。

私は、かすかに錆び臭い鉄製のベッドの傍らに立ち、意識の戻らない父親の顔を見つめていた。

アーサー・ハミルトン博士。かつてはその膨大な知識と頑固なまでの情熱で、いかなる古代の暗号をも解き明かした私の父親は、今や幾重にも巻かれた包帯と、規則正しく空気を送り込む奇妙な医療器具の金属音の中に埋もれていた。

 

 

 

 

「⋯⋯父さん」

 

 

 

 

小さく呟き、父の青白く震える手を握りしめた。聖トマス病院の医師たちが施した治療は当時の最先端ではあったが、脳への激しい打撃による損傷を埋めるにはあまりにも無力だった。

さっきばかりに来た警察による捜査と見解では、『素行の悪い古物商による、大英博物館の資料を狙った突発的な強盗事件』として処理しようとしていた。

失業者で溢れていて治安が悪化している中での不運な事件だったと、お仕着せの慰めを口にするだけだった。

部屋に落ちていた、ある人物の写真が入った小さなバッジを見せたがあの刑事達はまるで分かっていないようだし、見向きもしなかった。スコットランド・ヤードに見せる?いや門前払いされるだけだろう。この国にもそれを持っている不届き者はいるだろう、と。

世界恐慌は危機管理能力すらも萎ませてしまうらしい。

 

 

単なる物盗りの仕業ではないことを知っている。 父の書斎は徹底的に荒らされていたが、金目の絵画や銀の食器には一切手が付けられていなかった。奪われたのは、父がこの数年間、夜を徹して解読を進めていた羊皮紙の束――天体運行異聞の断片だけだったのだ。

 

 

このバッジに入っている小さな顔写真⋯⋯それはあの悪名高いヴェンドロヴィアの総統だ。工作員が父を襲ったのだろう。

そしてアイツらが唯一見落としたものが、今、私のツイードの上着の右ポケットの中で冷たく沈んでいる。

父の手をそっとベッドに戻すと、踵を返して病室を出た。

 

 

 

 

 

──長い回廊には、カルキの匂いと負傷した労働者たちの低い呻き声が満ちていた。イギリスは栄華の斜陽に喘いでいた。

植民地からの富の流入は滞り、軍縮条約の余波で海軍の軍備は縮小され、海に生きる男たちは港で腐りかけている。

 

そんな閉塞感の中で、父が追っていた未知の宇宙エネルギーの存在が、もしヴェンドロヴィア帝国のような国家に渡ればどうなることか⋯⋯自ずと冷たい戦慄が走るのを覚えた。

 

病院を出た私は、雨を孕んだ冷たい風を受けながらウォータールー駅行きの辻馬車へと乗り込んだ。目指すは、博物館の裏手にあるラッセル・ストリート。その場末の石炭の煤煙で真っ黒に汚れた裏通りに佇むパブ、黒い錨亭だ。

 

 

 

パブの重い樫の木の扉を押し開けると、安煙草の酸っぱい煙と、長年床の板目に染み付いたスタウトの饐えた匂いが、顔を容赦なく打った。

 

昼でも暗い店内では、ガス灯が不吉な音を立てて明かりを灯している。客層はドックの荷揚げ労働者や、植民地での不況に弾き出されて帰国した、衣服の破れた小汚い男たちばかりだ。

ジャケットに身を包み、仕立ての良いスエードのブーツを履いた上品な格好での登場は、その淀んだ空気の中で明らかに異質なのだろう。いくつかの無遠慮な、下品な視線が突き刺さる。

一人の大柄な労働者が、ニヤニヤと笑いながら道を塞ごうと足を伸ばした。私はその男の目を真っ直ぐに見据え、一歩も引かずにその足を跨ぎ越した。論理的な思考は、ここで怯えることが最も非効率的であると告げていたからだ。

 

 

 

 

カウンターの最奥、ガス灯の光すら届かない影の席を見つめた。そこに、目指す男がいた。

 

──ギデオン・バレット。 ロンドンの凍えるような冬にはあまりにも不釣り合いな、酷く汚れ傷ついたカーキ色のサファリシャツを着ていた。その上には、幾つもの不自然な膨らみを持つ分厚いコットンのタクティカルベストを羽織っている。ベストの胸ポケットには、数々の戦場や未開の地を潜り抜けてきたであろう真鍮製のコンパスや、ミリタリー仕様の方位計、さらには奇妙な薬品の小瓶がいくつも差し込まれていた。

 

ギデオンは、目の前に置かれたパイントグラスの泡の消えかけたスタウトを、濁った瞳で見つめたまま微動だにしない。まるで、周囲の喧騒から自分だけを切り離した、鉄の塊のようだった。

 

 

 

 

「──ギデオン大尉。いえ、今はもう探検家ギデオン・バレットとお呼びすべきね」

 

 

「⋯⋯大尉なんて言い方よしてくれ。とうの昔にクビになったんでな。今の俺はただのしがない古物商だ、お嬢さん。人違いなら他を当たってくれ。ここは博物館の閲覧室じゃない。あんたのような、温室で育った上流階級の学者が来る場所じゃないんでね」

 

 

「人違いではないわ。私はアーサー・ハミルトンの娘、エララよ。単刀直入に言うわね。父の最後の調査ノートが奪われたの。そして今、父は病院のベッドで意識を失っている。⋯⋯ヴェンドロヴィア帝国の工作員に襲われたのよ」

 

 

ギデオンのグラスを握る大きな指先が、ほんの一瞬だけ強張った。 彼はゆっくりと顔を上げた。濁ってはいるが、その奥に野生の肉食獣のような鋭さを秘めた眼差しが、顔を値踏みするように私を捉えていた。

 

 

「ハミルトンの⋯⋯。はっ、あの頑固な老いぼれが、ついにヘビの巣を突きやがったか。だがなぁ、お嬢さん。俺は五年前、お前の父親のロマンの尻拭いで左足の腱を切られたちまった訳だ。南米の緑の地獄でな。学者の大言壮語に付き合う義理は、もう俺には一粒も残っちゃいない。ノートが奪われたなら、スコットランドヤードにでも泣きつくんだな」

 

 

 

「言ったわ。けどまるで役立たずね。彼らはこれが国家間の謀略だと気づいてすらいない」 

 

 

周囲の労働者たちに聞こえないよう、声を極限まで潜めながらも、激しい感情を込めて言った。

 

 

 

「これはロマンではないわ。現実の、それも世界を根底から覆す科学の発見よ。父がノートに遺した計算式を完全に起動させるための心臓は、彼らには奪えなかった。⋯⋯私の手元にあるの」 

 

 

右ポケットから、ゆっくりとそれを取り出し、ガス灯の光が届かない机の影で滑らせた。

ギデオンの目が、わずかに細くなる。それは、手のひらに辛うじて収まるほどの、真鍮製のアストロ・コンパスだった。

しかし、いかなる軍用コンパスや航海用計器とも構造が根本から異なっていた。

 

 

 

文字盤には、本来あるべき東西南北(N・S・E・W)の文字は一切刻まれていない。代わりに、古代バビロニアの星位図や楔形文字を思わせる微細な文様が、同心円状の奇妙な歯車の上に刻まれていた。その歯車は、何重にもそれも十三層にわたって複雑怪奇に噛み合っている。

外枠には、並の職人技では到底不可能なほど細密なノギス状の目盛りが施され、中央の厚いガラスレンズの奥では、まるで自律した意志を持つ生き物のように、三つの小さな鈍色の金属球が、互いに衝突することなく不規則な楕円軌道を描いて回り続けていた。

 

 

 

 

「⋯⋯何だ、この化け物じみたもんは」

 

 

「父の書斎から奪われた天体運行異聞には、ケプラーもニュートンも到達し得なかった、太陽系の天体軌道から完全に逸脱した十三番目の楕円軌道の計算式が遺されていたの」

 

 

 

「そして、その軌道が地球の引力圏と交差する唯一の点が、南米の奥地──マトグロッソ地方のさらに先、未だどの測量線も届いていない完全な空白地帯にある。古代人は、その場所に宇宙の創生期に落下した未知の隕石の核、ステラ・クリスタルを祀る神殿を建てたのよ。このコンパスは、その神殿の最奥の扉を開く唯一の鍵なの。⋯⋯そして、ヴェンドロヴィア帝国がこれを狙っているわけ」

 

 

ギデオンはその名を聞いた瞬間、パインのスタウトを一気に喉へ流し込み、空になったグラスをドスンと木の机に叩きつけた。彼の視線は、コンパスの異様な金属の嚙み合わせに釘付けになっていた。

 

 

 

「新聞を見た?彼らは地質調査名目の民間開拓団という偽装を使って、すでに南米へと移動しているわ。公式な軍隊でない動かない限りどの国も静観しているの。イギリス政府も、他国の民間投資を止める余裕なんてない。モタモタしていたら、世界の重力を質量そのものを制御する未知のエネルギーが渡ってしまうのよ?」

 

 

 

「地図にないジャングルを突き進み、あの冷酷な奴らの先を越せるのは、かつて父と共にあの地を踏み、生きて帰ってきたあなたしかいないの。父の無念を晴らし、世界を守りアイツらを地獄に叩き落とすのは私とあなただけ。お願い、助けて⋯⋯」

 

 

 

ギデオンはしばらく無言だった。酔っ払いたちの下俗な笑い声が遠くで響く中、彼はゆっくりと自らの右腰に手をやった。

そこには、ベストの陰に隠されるように長年使い込まれ、無数の戦い傷が刻まれたマチェーテの黒い革鞘が、静かに鎮座している。 そして薄い唇が、低く自嘲気味にしかし確かな熱を孕んで弧を描きだした。

 

 

 

「学者の知性ってやつが、ジャングルの毒蛇や、ヴェンドロヴィアの冷徹な兵士どもを相手にどれだけ役に立つかねえ」

 

 

 

ギデオンはゆっくりと立ち上がり、着古したベストの襟を正した。

 

 

 

 

「ほんじゃまあ、ロンドン発の夜行列車に遅れるなよ、お嬢さん。サザンプトン港から出る貨物船の船底に、あんたとその奇妙な玩具を積む。──人類がまだ見たこともない、宇宙とやらの答え合わせをしに行こうじゃないか」

 

 

 

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