青の記録 ―二つの記憶が交わる時―   作:きままに投稿

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第28話 出会い

 

 

 シャーレの正面玄関をくぐった瞬間。

 

 先生は足を止めた。

 

「…………」

 

 左右を見る。

 

 もう一度、正面を見る。

 

 そのまま天井まで見上げた。

 

「……先生?」

 

 後ろからユウカが怪訝そうに声をかける。

 

「どうしました?」

 

「いや……」

 

 先生は建物の中を見回した。

 

 当然ながら、先ほどまで戦闘が行われていた周辺だ。入口付近には細かなガラス片が散り、壁には流れ弾の痕も残っている。

 

 それでも。

 

 先生が想像していたものとは、だいぶ違ったらしい。

 

「普通だなあって」

 

「何がですか」

 

「中」

 

「そりゃ建物なんだから普通でしょう!」

 

「もっと秘密基地っぽい仕掛けがあるのかと思ってた」

 

「まだ言ってるんですか!?」

 

 ユウカの声が玄関ホールに響いた。

 

「隠し扉とか」

 

「ありません!」

 

「床が開いて地下に降りたり」

 

「ありません!」

 

「ボタン押したら壁から何か出てきたり」

 

「絶対押さないでくださいね!?」

 

「ないんでしょう?」

 

「万が一があるから言ってるんです!」

 

「先生」

 

 横からリンの声が入った。

 

「はい」

 

「ここは連邦捜査部の建物です。遊園地のアトラクションではありません」

 

「分かってるよ?」

 

「では、なぜそんなに残念そうなのですか」

 

「……ちょっと期待してたから」

 

「やっぱり分かってないじゃないですか!」

 

 ユウカが食いつく。

 

 先生は少し肩を落とした。

 

 その様子を見ながら、リンは小さく息を吐く。

 

 つい先ほどまで。

 

 数十人もの武装した生徒を前にして、初対面の四人へ迷いなく指示を出し、正体不明の兵器が現れても即座に対応していた人物。

 

 それと今、秘密基地がどうこうと言っている人物が同一人物だという事実に、まだ少し慣れない。

 

「……とはいえ」

 

 ハスミが周囲へ視線を巡らせた。

 

「内部まで安全とは限りません」

 

 先ほどまで、大勢の不良や脱走者が周辺を占拠していた。

 

 外を突破したからといって、建物内部まで無人だという保証はない。

 

「念のため、内部を確認しましょう」

 

「そうですね」

 

 スズミも頷く。

 

 先ほどまでの緩んだ空気が消える。

 

 アサルトライフルを構えこそしていないものの、いつでも動ける姿勢だった。

 

 チナツも拳銃を手にしたまま、先生の傍を離れない。

 

 リンは玄関ホールを見渡し、壁面に設置された案内表示を確認する。

 

「私は施設の状態を確認します。シャーレ内部の設備がどこまで生きているのかも把握しておきたいので」

 

「代行、一人で大丈夫ですか?」

 

「戦闘をするつもりはありません。危険を感じた場合はすぐ戻ります」

 

 ユウカが頷く。

 

「分かりました」

 

「先生は――」

 

 チナツが口を開くより早く。

 

「ここで待ってる?」

 

 先生が先回りした。

 

「……できれば」

 

 チナツが少し言いづらそうに答える。

 

「先生にはヘイローがありませんから」

 

「うん」

 

 先生も今度は素直に頷いた。

 

 先ほど、正体不明の大型銃から放たれた一撃。

 

 ユウカはまともに受けても立ち上がった。

 

 だが。

 

 自分が同じものを受けたら、そうはいかない。

 

 それくらいは先生にも分かる。

 

「じゃあ、無茶はしないよ」

 

「本当ですね?」

 

「うん」

 

 ユウカがじっと先生を見る。

 

「……なんで私を見るの?」

 

「いえ。何となく信用していいのか不安になっただけです」

 

「ひどい」

 

「今日会ったばっかりですから!」

 

「確かに」

 

「納得するんですか!?」

 

「私も念を押しておきます」

 

 リンが淡々と続けた。

 

「先生。くれぐれも勝手に行動しないようにお願いします」

 

「リンまで?」

 

「今までの先生の言動を考えれば当然かと」

 

「私、そんなに信用ないかなあ」

 

「現時点では判断材料が足りません」

 

「それ、遠回しに信用してないってこと?」

 

「ご想像にお任せします」

 

「厳しいなあ」

 

 ハスミが小さく息を吐いた。

 

「では、簡単に内部を確認しましょう。スズミさんは左側を」

 

「はい」

 

「私は右側を確認します」

 

「私は?」

 

 ユウカが尋ねる。

 

「ユウカは中央をお願いします」

 

「了解です」

 

「チナツさんは、この周辺を。先生からあまり離れないようにお願いします」

 

「分かりました」

 

「私は設備と重要区画を確認します」

 

 リンも携帯端末を取り出した。

 

 五人がそれぞれ動き始める。

 

 ハスミは右手の廊下へ。

 

 スズミは反対側。

 

 ユウカも正面の区画を確認するため、その場を離れる。

 

 リンは壁面の案内図を確認してから、管理設備があると思われる方向へ。

 

 最後まで先生の近くに残っていたチナツも、

 

「先生、本当にここから動かないでくださいね」

 

「分かってるよ」

 

「……本当ですね?」

 

「そんなに信用ない?」

 

「今日会ったばかりですので」

 

「そっかあ」

 

 それでは、とチナツも玄関ホールの周辺を確認するため、少し離れていった。

 

 広い空間に。

 

 先生一人が残される。

 

「…………」

 

 先生は大人しく待った。

 

 ちゃんと言われた通りに。

 

 壁際に立って。

 

 動かず。

 

 静かに。

 

「…………」

 

 数秒。

 

 天井を見る。

 

「…………」

 

 壁を見る。

 

 案内板を見る。

 

「……」

 

 もう一度、天井を見る。

 

「…………暇だなあ」

 

 早かった。

 

 自分でもそう思った。

 

「いや、でも待つだけって意外と難しいよね」

 

 誰にともなく言い訳してみる。

 

 返事はない。

 

「…………」

 

 先生は今度こそ大人しくしようと決めた。

 

 決めたのだが。

 

 その時。

 

 廊下の奥から。

 

 かすかに、何かがぶつかるような音が聞こえた。

 

「……ん?」

 

 先生が顔を上げる。

 

 ハスミ。

 

 スズミ。

 

 ユウカ。

 

 リン。

 

 チナツ。

 

 誰かが向かった方向とは微妙に違う。

 

 気のせいかと思って耳を澄ませる。

 

 もう一度。

 

 小さな物音。

 

「…………」

 

 先生は廊下を見る。

 

 それから、誰もいない玄関ホールを見る。

 

「確認するだけなら……動いたことにはならない、かな?」

 

 数秒考える。

 

「……いや、なるか」

 

 分かってはいた。

 

 けれど。

 

 また物音。

 

「…………」

 

 先生は少しだけ迷ってから。

 

「ちょっとだけ」

 

 そう呟いて、音のした方へ足を向けた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 廊下の奥。

 

 ひとつの扉が、わずかに開いていた。

 

 その向こうに。

 

 一人の少女がいる。

 

 狐を模した面。

 

 長い髪。

 

 手には武器。

 

 そしてその頭上には、淡く輝くヘイロー。

 

「ふふ……」

 

 狐坂ワカモは、楽しそうに部屋の中を見回した。

 

 机。

 

 棚。

 

 端末。

 

 書類。

 

 連邦生徒会に関係する場所だというから、もう少し面白いものがあると思っていた。

 

 けれど。

 

「思っていたほどではありませんね」

 

 期待外れ。

 

 そう思っていたところだった。

 

 連邦生徒会長が消え。

 

 キヴォトス全体が混乱している。

 

 矯正局から抜け出すには十分すぎる騒ぎだった。

 

 せっかく自由になったのだ。

 

 ならば。

 

 少しくらい好き勝手をしても、罰は当たらないだろう。

 

 すでに街のあちこちでは相当な騒ぎを起こしてきた。

 

 ここもその延長。

 

 特別な理由があったわけではない。

 

 連邦生徒会直属の独立捜査部。

 

 そんな場所なら。

 

 何か面白いものがあるかもしれない。

 

 ただ、それだけだった。

 

「……あら?」

 

 部屋の奥。

 

 他の端末とは少し扱いの違うものが目に入る。

 

 タブレットのようにも見える。

 

 けれど、雑に放置された機材とは明らかに違う。

 

 妙に丁寧に保管されていた。

 

 ワカモが近づく。

 

「これは……?」

 

 手を伸ばす。

 

 画面には何も映っていない。

 

 起動させようとしても反応しない。

 

「ずいぶん大切そうにされていますが……」

 

 狐面の奥で、瞳が僅かに細められる。

 

「何が入っているのでしょう?」

 

 端末を持ち上げる。

 

 裏返す。

 

 特に変わったものはない。

 

「開きませんね」

 

 少し振る。

 

 反応なし。

 

「…………」

 

 しばらく考え。

 

「それなら、壊せば――」

 

「それ、壊さないでもらえると助かるかも」

 

「――!」

 

 背後から声がした。

 

 ワカモが振り返る。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 先生は。

 

 音のした方へ向かっていただけだった。

 

 誰かがいるとは思った。

 

 けれど。

 

 まさか。

 

「…………」

 

「…………」

 

 狐のお面をつけて。

 

 武器まで持った少女が。

 

 何やら重要そうな端末を、今まさに壊そうとしているとは思っていなかった。

 

「……」

 

 先生は一度、廊下へ戻ろうかと思った。

 

 いや。

 

 ほんの一瞬だけ、本気で思った。

 

 だがもう遅い。

 

 完全に目が合っている。

 

「……こんにちは?」

 

 とりあえず挨拶した。

 

「…………」

 

 返事がない。

 

 狐面の少女は先生をじっと見ている。

 

「えっと」

 

 先生も困った。

 

「もしかして……先客?」

 

「…………」

 

「違う?」

 

 返事はない。

 

 先生は首を傾げる。

 

 そして。

 

 相手が持っている武器を見る。

 

 もう一度。

 

 狐面を見る。

 

「……もしかして、侵入してきた側の人?」

 

 今更だった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 ワカモは。

 

 最初。

 

 目の前の人物が誰なのか分からなかった。

 

 武器を持っていない。

 

 ヘイローもない。

 

 制服も着ていない。

 

 そして。

 

 自分の姿を見ても、悲鳴を上げない。

 

 逃げもしない。

 

 それどころか。

 

「こんにちは?」

 

 挨拶された。

 

 意味が分からない。

 

 普通なら。

 

 自分の姿を見た生徒は警戒する。

 

 七囚人。

 

 狐坂ワカモ。

 

 その名前を知っている者なら、なおさらだ。

 

 なのに。

 

 目の前の大人は。

 

 あまりにも普通だった。

 

「…………」

 

 そして。

 

 ワカモはようやく気づく。

 

 この人物。

 

 先ほど。

 

 遠くから見た。

 

 四人の生徒と。

 

 その後方にいた連邦生徒会の首席行政官。

 

 大勢の不良たちを突破してきた一団。

 

 その中心にいた人物。

 

(……ああ)

 

 なるほど。

 

 あれが。

 

 連邦生徒会の呼び寄せたという。

 

 噂の――。

 

 先生。

 

「……」

 

 その程度だった。

 

 本当に。

 

 それだけのはずだった。

 

 目の前の人物の顔を。

 

 まともに見るまでは。

 

「…………」

 

 鼓動が。

 

 ひとつ。

 

 大きく鳴った。

 

「……?」

 

 ワカモが僅かに目を見開く。

 

 もう一度。

 

 先生を見る。

 

 また。

 

 胸の奥が跳ねた。

 

(……何です?)

 

 意味が分からない。

 

 熱い。

 

 なぜか。

 

 顔が。

 

 狐面をつけているというのに。

 

 その内側が熱を持っていくのが、自分でも分かる。

 

(何なのです、これは……?)

 

 先生が一歩近づいた。

 

「大丈夫?」

 

「――っ!」

 

 反射的に。

 

 ワカモは一歩下がった。

 

 自分でも。

 

 なぜ下がったのか分からない。

 

「……?」

 

 先生が止まる。

 

「どうしたの?」

 

 さらに。

 

 声を掛けてくる。

 

 怖がっていない。

 

 警戒もしていない。

 

 ただ。

 

 本当に。

 

 自分のことを心配しているような声。

 

(な……)

 

 おかしい。

 

 何かが。

 

 絶対に。

 

 おかしい。

 

「怪我してる?」

 

「…………!」

 

 また。

 

 胸が大きく鳴った。

 

 ワカモは端末を持ったまま固まる。

 

 先ほどまで。

 

 壊してしまおうかと考えていたもの。

 

 今は。

 

 そんなことなど頭から消えていた。

 

「えっと……」

 

 先生が少し困ったように笑う。

 

「喋れない?」

 

「――――っ!」

 

 無理だった。

 

 これ以上。

 

 ここにいるのは。

 

 なぜか分からない。

 

 けれど。

 

 無理。

 

「し……」

 

「し?」

 

「失礼いたします!」

 

「え?」

 

 ワカモが動いた。

 

 速い。

 

 先生が瞬きをした頃には。

 

 端末が机の上へ置かれ。

 

 狐面の少女は窓際へ。

 

「ちょ――」

 

 窓が開く。

 

「そこから!?」

 

 次の瞬間。

 

 ワカモの姿は消えた。

 

 先生が慌てて窓まで走る。

 

「……」

 

 下を見る。

 

 もういない。

 

「…………」

 

 先生はしばらく外を見る。

 

「生徒って、みんなあんなに速いのかな……」

 

 今日キヴォトスへ来たばかりの先生には。

 

 まだ判断がつかなかった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 数棟離れた建物。

 

 屋上。

 

 ワカモが着地する。

 

「っ……!」

 

 そのまま。

 

 数歩歩き。

 

 壁へ手をついた。

 

「…………」

 

 胸が。

 

 うるさい。

 

 戦闘の後とも違う。

 

 走ったからでもない。

 

 心臓が。

 

 先ほどから。

 

 言うことを聞かない。

 

「何……」

 

 狐面の上から、顔へ手を当てる。

 

「何なのです……?」

 

 思い出す。

 

 先生の顔。

 

 先生の声。

 

『こんにちは?』

 

『大丈夫?』

 

『怪我してる?』

 

「……っ!」

 

 また。

 

 熱くなる。

 

「なぜ……」

 

 ワカモは胸元へ手を当てた。

 

「なぜ、こんな……」

 

 理解できない。

 

 今まで。

 

 こんな感覚を知らない。

 

 知らないから。

 

 名前も分からない。

 

「……何なのです」

 

 胸の鼓動は収まらない。

 

 むしろ。

 

 思い出すたびに。

 

 ますます酷くなる。

 

「何なのです……この感情は……!?」

 

 誰もいない屋上。

 

 その声だけが、虚しく響いた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「先生!」

 

 シャーレ内部。

 

 廊下の向こうからユウカの声が聞こえた。

 

「先生、どこですか!」

 

「あ、ここ」

 

「ここじゃありません!」

 

 勢いよく扉が開く。

 

 先頭にユウカ。

 

 その後ろからハスミ、スズミ、チナツ。

 

 そして。

 

 少し遅れてリンも部屋へ入ってきた。

 

「勝手に移動しないでください!」

 

「ごめん」

 

「さっき無茶しないって言ったばかりでしょう!」

 

「いや、そんな遠くまで来てないよ?」

 

「距離の問題じゃありません!」

 

「先生、ご無事ですか?」

 

 チナツがすぐに近づく。

 

「うん。大丈夫」

 

 リンも先生の姿を一通り確認してから、静かに息を吐いた。

 

「先生」

 

「はい」

 

「私は確かに、勝手に行動しないようお願いしたはずですが」

 

「……はい」

 

「何か申し開きは?」

 

「音がしたから、ちょっと確認を」

 

「結果的に何もなかったから良かったものの、次からは近くの生徒を呼んでください」

 

「ごめんなさい」

 

 素直だった。

 

 ユウカが少し意外そうな顔をする。

 

「代行には素直なんですね」

 

「ユウカにも素直だよ?」

 

「どこがですか!」

 

「先生」

 

 チナツが話を戻す。

 

「何かありましたか?」

 

「んー……」

 

 先生は窓を見る。

 

 もう。

 

 狐面の少女の姿はない。

 

「ちょっと先客がいた」

 

「先客?」

 

 ハスミが眉を寄せる。

 

「誰です?」

 

「狐のお面をつけてた子」

 

 空気が止まった。

 

 ユウカ。

 

 ハスミ。

 

 スズミ。

 

 チナツ。

 

 そしてリンまで。

 

 全員の表情が変わる。

 

「…………」

 

「……え?」

 

 先生が五人を見る。

 

「どうしたの?」

 

 最初に口を開いたのはリンだった。

 

「先生。その生徒は今どこに?」

 

「窓から出ていった」

 

「窓から!?」

 

 ユウカが声を上げる。

 

「うん」

 

「どうして止めなかったんですか!?」

 

「止めるって言っても……」

 

 先生は自分の身体を見る。

 

「私が?」

 

「…………」

 

 ユウカが黙る。

 

「……それもそうですね」

 

「でしょう?」

 

 ハスミは窓際へ移動し、外を確認する。

 

「すでに姿はありません」

 

「先生」

 

 スズミが尋ねる。

 

「他に特徴は?」

 

「長い髪で、狐のお面で……」

 

「武器は?」

 

「持ってた」

 

 スズミとハスミが視線を交わす。

 

 だが。

 

「……狐坂ワカモですね」

 

 先に名前を口にしたのはリンだった。

 

「ワカモ?」

 

 先生が聞き返す。

 

「七囚人の一人です」

 

 リンが答える。

 

「矯正局から脱走した中でも、特に危険視されている生徒の一人です」

 

「七囚人……」

 

 先生は少し考え。

 

「七人いるの?」

 

「そこですか?」

 

「だって七囚人って」

 

「いますけど!」

 

 ユウカが即座に返す。

 

「へえ」

 

「感心してる場合じゃありません!」

 

「先生」

 

 リンの声は静かだった。

 

「あなたは、その七囚人の一人と二人きりだったのですよ」

 

「そうみたいだね」

 

「そうみたいじゃありません!」

 

「ユウカさん」

 

「……すみません」

 

 リンに一度制され。

 

 それでもユウカは納得できない顔をしている。

 

「でも何もされなかったよ?」

 

 先生が言う。

 

「それが一番意味分からないんです!」

 

「私もよく分からない」

 

「先生まで分からないんですか!?」

 

「だって急に逃げたし」

 

「逃げた?」

 

 ハスミが僅かに眉を動かす。

 

「ワカモが?」

 

「うん」

 

 リンの目も僅かに細くなった。

 

「先生を見て?」

 

「たぶん」

 

「…………」

 

 五人が先生を見る。

 

「なに?」

 

 先生が首を傾げる。

 

「先生」

 

 ユウカがゆっくり口を開いた。

 

「本当に何したんです?」

 

「挨拶した」

 

「……それだけ?」

 

「あと大丈夫って聞いた」

 

「……」

 

「怪我してないかも」

 

「…………」

 

「それだけ」

 

 誰もすぐには返さなかった。

 

 ハスミが考え込むように視線を落とす。

 

「……狐坂ワカモが」

 

「それだけで退いた……?」

 

 スズミも珍しく困惑している。

 

 リンでさえ、しばらく言葉を選んでいた。

 

「先生」

 

「うん?」

 

「他に何かしていませんか?」

 

「してないよ?」

 

「……そうですか」

 

 リンがほんの少しだけ眉間へ指を当てる。

 

 先生は腕を組んだ。

 

「人見知りだったのかな」

 

「絶対違います!」

 

 ユウカの声が響いた。

 

 今度はリンも止めなかった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「それより」

 

 先生が机の方を見る。

 

「あの子、これ触ってた」

 

 その一言に。

 

 リンが反応した。

 

「……それは」

 

 机の上。

 

 黒い画面の端末。

 

 一見すると。

 

 少し変わったタブレットにしか見えない。

 

 だが。

 

 リンはその端末へ歩み寄る。

 

「見つけましたか」

 

「知ってるの?」

 

 先生が尋ねる。

 

「はい」

 

 リンの表情が僅かに引き締まる。

 

「これが――シッテムの箱です」

 

「……箱?」

 

「はい」

 

「これが?」

 

「はい」

 

「箱……」

 

「先生」

 

 ユウカが横から見る。

 

「そこ、そんなに気になります?」

 

「だって箱って言われたら」

 

「箱だけが箱じゃないでしょう!」

 

「そうなの?」

 

「知りません!」

 

「ユウカさん、話が進みません」

 

「代行まで!」

 

 先生はもう一度、机の上の端末を見る。

 

「これがシッテムの箱……」

 

「連邦生徒会長が残したものです」

 

 リンが続けた。

 

 先生の表情が少し変わる。

 

「生徒会長が?」

 

「はい」

 

 そして。

 

 リンは先生を見る。

 

「あなたへ渡すように、と」

 

「私に?」

 

「そう聞いています」

 

「…………」

 

 先生が端末を見る。

 

 今日。

 

 初めてこの街へ来た。

 

 初めて連邦生徒会へ行った。

 

 そこで初めて「先生」と呼ばれた。

 

 その自分に。

 

 失踪した連邦生徒会長が。

 

 何かを残していた。

 

「……なんで?」

 

「分かりません」

 

「リンも?」

 

「ええ」

 

「そっかあ」

 

 先生は困ったように笑う。

 

「じゃあ私も分からないや」

 

「……でしょうね」

 

「今ちょっと呆れた?」

 

「気のせいです」

 

「そう?」

 

 先生が端末を持ち上げる。

 

 軽い。

 

 見た目以上の重さはない。

 

「これ、どうやって使うの?」

 

「それも分かっていません」

 

「……」

 

「連邦生徒会でも、起動させることすらできませんでした」

 

「それを私に渡すの?」

 

「連邦生徒会長の指示です」

 

「すごい丸投げだね」

 

「否定はしません」

 

 リンが即答した。

 

 ユウカが横から端末を覗き込む。

 

「ちょっと見せてもらっていいですか?」

 

「うん」

 

 先生が差し出す。

 

「こういうのはミレニアムの方が得意ですから」

 

 受け取ったユウカが、端末を表裏へ返す。

 

 側面。

 

 端子。

 

 外装。

 

 画面。

 

 順番に確認していく。

 

 数秒。

 

 十数秒。

 

「……何これ」

 

「分かる?」

 

「分からないから言ってるんです!」

 

「そっか」

 

「普通の規格じゃない……というか」

 

 ユウカが眉を寄せる。

 

「見た目は端末なのに、知ってる構造と全然違う」

 

「電源は?」

 

 先生が聞く。

 

「それもよく分かりません」

 

「壊れてる?」

 

「違うと思います」

 

 ユウカが端末へ耳を近づける。

 

「内部では何か動いてる……?」

 

「どういう意味?」

 

「だから、私にもまだ分からないんです!」

 

「ユウカさんが分からないというのは珍しいですね」

 

 スズミが言う。

 

「珍しいって言わないで!」

 

 その時。

 

 画面が。

 

 一瞬だけ。

 

 光った。

 

「……え?」

 

 ユウカが止まる。

 

 暗転。

 

「今、何か映らなかった?」

 

「私も見ました」

 

 チナツが答える。

 

 ハスミも端末へ視線を向ける。

 

「確かに反応しましたね」

 

 先生が横から覗き込む。

 

「もう一回?」

 

「先生、ちょっと待ってください」

 

 ユウカが触れようとした、その時。

 

 再び画面が点灯した。

 

 今度は。

 

 文字。

 

「……!」

 

 ユウカが目を見開く。

 

「起動した?」

 

 画面中央。

 

 入力欄。

 

 そして。

 

 文字列。

 

「パスワード……?」

 

 ハスミが呟く。

 

 リンも画面を覗き込む。

 

「先生」

 

「うん?」

 

「何か心当たりは?」

 

「…………」

 

 先生は画面を見る。

 

 心当たり。

 

 ない。

 

 あるはずがない。

 

 今日初めて見た端末。

 

 存在すら知らなかった。

 

「ない」

 

「そうですか」

 

「うん」

 

 そう答えた。

 

 はずなのに。

 

「…………?」

 

 不思議な感覚。

 

 何かが。

 

 頭の奥へ引っかかる。

 

 言葉。

 

 聞いたことのない。

 

 でも。

 

 知っているような。

 

 矛盾した感覚。

 

「先生?」

 

 ユウカが顔を覗き込む。

 

「どうしました?」

 

「……分からない」

 

「何がです?」

 

 今度はリンも先生を見る。

 

「分からないんだけど……」

 

 先生の唇が動く。

 

 知らない言葉。

 

 知らないはずの言葉。

 

 なのに。

 

 それが正しいと。

 

 なぜか。

 

 そう思った。

 

「……」

 

 先生が口にする。

 

 短い言葉。

 

 それを聞いた五人が顔を見合わせた。

 

「先生?」

 

 リンにも意味が分からない。

 

 当然。

 

 先生自身にも。

 

「……なんで私、これ知ってるんだろう」

 

 その直後。

 

 電子音。

 

 画面へ文字が浮かぶ。

 

 認証。

 

 完了。

 

「え」

 

 全員が画面を見た。

 

「……通った?」

 

 ユウカの声。

 

「通ったね」

 

「どうして!?」

 

「私が聞きたい!」

 

 先生も驚いていた。

 

「先生、今の言葉はどこで――」

 

 リンが尋ねようとした。

 

 その瞬間。

 

 画面から光が溢れた。

 

「っ!?」

 

「先生!」

 

 白。

 

 視界が。

 

 全部。

 

 塗り潰される。

 

 ユウカが先生の腕を掴もうとする。

 

 チナツも手を伸ばす。

 

 だが。

 

 そのどちらも届く前に。

 

 先生の意識は。

 

 深く。

 

 落ちていった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「…………」

 

 水の音。

 

 先生は目を開いた。

 

「……?」

 

 青い。

 

 最初に思ったのは、それだった。

 

 空。

 

 光。

 

 どこまでも透き通った色。

 

「……ここ」

 

 起き上がる。

 

「どこ?」

 

 ついさっきまで。

 

 シャーレにいた。

 

 リンがいた。

 

 ユウカたちがいた。

 

 シッテムの箱を持っていた。

 

 それが。

 

 今は。

 

「…………」

 

 先生は周囲を見る。

 

 学校。

 

 そう見える。

 

 けれど。

 

 妙に静かだった。

 

 誰の声もしない。

 

 風の音だけ。

 

 水面に反射した光が、天井へゆらゆらと揺れている。

 

「夢……?」

 

 頬をつねる。

 

「痛い」

 

 夢ではない。

 

「いや、夢でも痛い時あるか」

 

 自分で言って。

 

 さらに分からなくなった。

 

「……まあいいか」

 

 先生は立ち上がる。

 

「よくはないけど」

 

 歩く。

 

 廊下。

 

 教室。

 

 どこにも人はいない。

 

 ただ。

 

 ひとつだけ。

 

 扉の向こうに。

 

 気配があった。

 

「……?」

 

 先生が扉を開く。

 

 教室。

 

 そして。

 

 そこに。

 

 一人の少女がいた。

 

 青い髪。

 

 小柄な身体。

 

 机に突っ伏して。

 

 眠っている。

 

「……生徒?」

 

 先生が近づく。

 

 反応はない。

 

「もしもし?」

 

 少し声をかける。

 

「…………」

 

「寝てる?」

 

 もう一歩。

 

「起きてー」

 

「…………ん」

 

 少女の指が動く。

 

「お」

 

 顔を上げる。

 

 ゆっくり。

 

 青い瞳が開く。

 

 少女は何度か瞬きをした。

 

 そして。

 

 目の前にいる先生を見つめる。

 

「…………」

 

 先生も見つめ返す。

 

「こんにちは?」

 

 今日。

 

 何度目か分からない挨拶。

 

 少女は。

 

 一瞬だけ。

 

 目を丸くして。

 

 それから。

 

 ぱっと。

 

 満面の笑顔を浮かべた。

 

「おはようございます、先生!」

 

 

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