青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
シャーレの正面玄関をくぐった瞬間。
先生は足を止めた。
「…………」
左右を見る。
もう一度、正面を見る。
そのまま天井まで見上げた。
「……先生?」
後ろからユウカが怪訝そうに声をかける。
「どうしました?」
「いや……」
先生は建物の中を見回した。
当然ながら、先ほどまで戦闘が行われていた周辺だ。入口付近には細かなガラス片が散り、壁には流れ弾の痕も残っている。
それでも。
先生が想像していたものとは、だいぶ違ったらしい。
「普通だなあって」
「何がですか」
「中」
「そりゃ建物なんだから普通でしょう!」
「もっと秘密基地っぽい仕掛けがあるのかと思ってた」
「まだ言ってるんですか!?」
ユウカの声が玄関ホールに響いた。
「隠し扉とか」
「ありません!」
「床が開いて地下に降りたり」
「ありません!」
「ボタン押したら壁から何か出てきたり」
「絶対押さないでくださいね!?」
「ないんでしょう?」
「万が一があるから言ってるんです!」
「先生」
横からリンの声が入った。
「はい」
「ここは連邦捜査部の建物です。遊園地のアトラクションではありません」
「分かってるよ?」
「では、なぜそんなに残念そうなのですか」
「……ちょっと期待してたから」
「やっぱり分かってないじゃないですか!」
ユウカが食いつく。
先生は少し肩を落とした。
その様子を見ながら、リンは小さく息を吐く。
つい先ほどまで。
数十人もの武装した生徒を前にして、初対面の四人へ迷いなく指示を出し、正体不明の兵器が現れても即座に対応していた人物。
それと今、秘密基地がどうこうと言っている人物が同一人物だという事実に、まだ少し慣れない。
「……とはいえ」
ハスミが周囲へ視線を巡らせた。
「内部まで安全とは限りません」
先ほどまで、大勢の不良や脱走者が周辺を占拠していた。
外を突破したからといって、建物内部まで無人だという保証はない。
「念のため、内部を確認しましょう」
「そうですね」
スズミも頷く。
先ほどまでの緩んだ空気が消える。
アサルトライフルを構えこそしていないものの、いつでも動ける姿勢だった。
チナツも拳銃を手にしたまま、先生の傍を離れない。
リンは玄関ホールを見渡し、壁面に設置された案内表示を確認する。
「私は施設の状態を確認します。シャーレ内部の設備がどこまで生きているのかも把握しておきたいので」
「代行、一人で大丈夫ですか?」
「戦闘をするつもりはありません。危険を感じた場合はすぐ戻ります」
ユウカが頷く。
「分かりました」
「先生は――」
チナツが口を開くより早く。
「ここで待ってる?」
先生が先回りした。
「……できれば」
チナツが少し言いづらそうに答える。
「先生にはヘイローがありませんから」
「うん」
先生も今度は素直に頷いた。
先ほど、正体不明の大型銃から放たれた一撃。
ユウカはまともに受けても立ち上がった。
だが。
自分が同じものを受けたら、そうはいかない。
それくらいは先生にも分かる。
「じゃあ、無茶はしないよ」
「本当ですね?」
「うん」
ユウカがじっと先生を見る。
「……なんで私を見るの?」
「いえ。何となく信用していいのか不安になっただけです」
「ひどい」
「今日会ったばっかりですから!」
「確かに」
「納得するんですか!?」
「私も念を押しておきます」
リンが淡々と続けた。
「先生。くれぐれも勝手に行動しないようにお願いします」
「リンまで?」
「今までの先生の言動を考えれば当然かと」
「私、そんなに信用ないかなあ」
「現時点では判断材料が足りません」
「それ、遠回しに信用してないってこと?」
「ご想像にお任せします」
「厳しいなあ」
ハスミが小さく息を吐いた。
「では、簡単に内部を確認しましょう。スズミさんは左側を」
「はい」
「私は右側を確認します」
「私は?」
ユウカが尋ねる。
「ユウカは中央をお願いします」
「了解です」
「チナツさんは、この周辺を。先生からあまり離れないようにお願いします」
「分かりました」
「私は設備と重要区画を確認します」
リンも携帯端末を取り出した。
五人がそれぞれ動き始める。
ハスミは右手の廊下へ。
スズミは反対側。
ユウカも正面の区画を確認するため、その場を離れる。
リンは壁面の案内図を確認してから、管理設備があると思われる方向へ。
最後まで先生の近くに残っていたチナツも、
「先生、本当にここから動かないでくださいね」
「分かってるよ」
「……本当ですね?」
「そんなに信用ない?」
「今日会ったばかりですので」
「そっかあ」
それでは、とチナツも玄関ホールの周辺を確認するため、少し離れていった。
広い空間に。
先生一人が残される。
「…………」
先生は大人しく待った。
ちゃんと言われた通りに。
壁際に立って。
動かず。
静かに。
「…………」
数秒。
天井を見る。
「…………」
壁を見る。
案内板を見る。
「……」
もう一度、天井を見る。
「…………暇だなあ」
早かった。
自分でもそう思った。
「いや、でも待つだけって意外と難しいよね」
誰にともなく言い訳してみる。
返事はない。
「…………」
先生は今度こそ大人しくしようと決めた。
決めたのだが。
その時。
廊下の奥から。
かすかに、何かがぶつかるような音が聞こえた。
「……ん?」
先生が顔を上げる。
ハスミ。
スズミ。
ユウカ。
リン。
チナツ。
誰かが向かった方向とは微妙に違う。
気のせいかと思って耳を澄ませる。
もう一度。
小さな物音。
「…………」
先生は廊下を見る。
それから、誰もいない玄関ホールを見る。
「確認するだけなら……動いたことにはならない、かな?」
数秒考える。
「……いや、なるか」
分かってはいた。
けれど。
また物音。
「…………」
先生は少しだけ迷ってから。
「ちょっとだけ」
そう呟いて、音のした方へ足を向けた。
* * *
廊下の奥。
ひとつの扉が、わずかに開いていた。
その向こうに。
一人の少女がいる。
狐を模した面。
長い髪。
手には武器。
そしてその頭上には、淡く輝くヘイロー。
「ふふ……」
狐坂ワカモは、楽しそうに部屋の中を見回した。
机。
棚。
端末。
書類。
連邦生徒会に関係する場所だというから、もう少し面白いものがあると思っていた。
けれど。
「思っていたほどではありませんね」
期待外れ。
そう思っていたところだった。
連邦生徒会長が消え。
キヴォトス全体が混乱している。
矯正局から抜け出すには十分すぎる騒ぎだった。
せっかく自由になったのだ。
ならば。
少しくらい好き勝手をしても、罰は当たらないだろう。
すでに街のあちこちでは相当な騒ぎを起こしてきた。
ここもその延長。
特別な理由があったわけではない。
連邦生徒会直属の独立捜査部。
そんな場所なら。
何か面白いものがあるかもしれない。
ただ、それだけだった。
「……あら?」
部屋の奥。
他の端末とは少し扱いの違うものが目に入る。
タブレットのようにも見える。
けれど、雑に放置された機材とは明らかに違う。
妙に丁寧に保管されていた。
ワカモが近づく。
「これは……?」
手を伸ばす。
画面には何も映っていない。
起動させようとしても反応しない。
「ずいぶん大切そうにされていますが……」
狐面の奥で、瞳が僅かに細められる。
「何が入っているのでしょう?」
端末を持ち上げる。
裏返す。
特に変わったものはない。
「開きませんね」
少し振る。
反応なし。
「…………」
しばらく考え。
「それなら、壊せば――」
「それ、壊さないでもらえると助かるかも」
「――!」
背後から声がした。
ワカモが振り返る。
* * *
先生は。
音のした方へ向かっていただけだった。
誰かがいるとは思った。
けれど。
まさか。
「…………」
「…………」
狐のお面をつけて。
武器まで持った少女が。
何やら重要そうな端末を、今まさに壊そうとしているとは思っていなかった。
「……」
先生は一度、廊下へ戻ろうかと思った。
いや。
ほんの一瞬だけ、本気で思った。
だがもう遅い。
完全に目が合っている。
「……こんにちは?」
とりあえず挨拶した。
「…………」
返事がない。
狐面の少女は先生をじっと見ている。
「えっと」
先生も困った。
「もしかして……先客?」
「…………」
「違う?」
返事はない。
先生は首を傾げる。
そして。
相手が持っている武器を見る。
もう一度。
狐面を見る。
「……もしかして、侵入してきた側の人?」
今更だった。
* * *
ワカモは。
最初。
目の前の人物が誰なのか分からなかった。
武器を持っていない。
ヘイローもない。
制服も着ていない。
そして。
自分の姿を見ても、悲鳴を上げない。
逃げもしない。
それどころか。
「こんにちは?」
挨拶された。
意味が分からない。
普通なら。
自分の姿を見た生徒は警戒する。
七囚人。
狐坂ワカモ。
その名前を知っている者なら、なおさらだ。
なのに。
目の前の大人は。
あまりにも普通だった。
「…………」
そして。
ワカモはようやく気づく。
この人物。
先ほど。
遠くから見た。
四人の生徒と。
その後方にいた連邦生徒会の首席行政官。
大勢の不良たちを突破してきた一団。
その中心にいた人物。
(……ああ)
なるほど。
あれが。
連邦生徒会の呼び寄せたという。
噂の――。
先生。
「……」
その程度だった。
本当に。
それだけのはずだった。
目の前の人物の顔を。
まともに見るまでは。
「…………」
鼓動が。
ひとつ。
大きく鳴った。
「……?」
ワカモが僅かに目を見開く。
もう一度。
先生を見る。
また。
胸の奥が跳ねた。
(……何です?)
意味が分からない。
熱い。
なぜか。
顔が。
狐面をつけているというのに。
その内側が熱を持っていくのが、自分でも分かる。
(何なのです、これは……?)
先生が一歩近づいた。
「大丈夫?」
「――っ!」
反射的に。
ワカモは一歩下がった。
自分でも。
なぜ下がったのか分からない。
「……?」
先生が止まる。
「どうしたの?」
さらに。
声を掛けてくる。
怖がっていない。
警戒もしていない。
ただ。
本当に。
自分のことを心配しているような声。
(な……)
おかしい。
何かが。
絶対に。
おかしい。
「怪我してる?」
「…………!」
また。
胸が大きく鳴った。
ワカモは端末を持ったまま固まる。
先ほどまで。
壊してしまおうかと考えていたもの。
今は。
そんなことなど頭から消えていた。
「えっと……」
先生が少し困ったように笑う。
「喋れない?」
「――――っ!」
無理だった。
これ以上。
ここにいるのは。
なぜか分からない。
けれど。
無理。
「し……」
「し?」
「失礼いたします!」
「え?」
ワカモが動いた。
速い。
先生が瞬きをした頃には。
端末が机の上へ置かれ。
狐面の少女は窓際へ。
「ちょ――」
窓が開く。
「そこから!?」
次の瞬間。
ワカモの姿は消えた。
先生が慌てて窓まで走る。
「……」
下を見る。
もういない。
「…………」
先生はしばらく外を見る。
「生徒って、みんなあんなに速いのかな……」
今日キヴォトスへ来たばかりの先生には。
まだ判断がつかなかった。
* * *
数棟離れた建物。
屋上。
ワカモが着地する。
「っ……!」
そのまま。
数歩歩き。
壁へ手をついた。
「…………」
胸が。
うるさい。
戦闘の後とも違う。
走ったからでもない。
心臓が。
先ほどから。
言うことを聞かない。
「何……」
狐面の上から、顔へ手を当てる。
「何なのです……?」
思い出す。
先生の顔。
先生の声。
『こんにちは?』
『大丈夫?』
『怪我してる?』
「……っ!」
また。
熱くなる。
「なぜ……」
ワカモは胸元へ手を当てた。
「なぜ、こんな……」
理解できない。
今まで。
こんな感覚を知らない。
知らないから。
名前も分からない。
「……何なのです」
胸の鼓動は収まらない。
むしろ。
思い出すたびに。
ますます酷くなる。
「何なのです……この感情は……!?」
誰もいない屋上。
その声だけが、虚しく響いた。
* * *
「先生!」
シャーレ内部。
廊下の向こうからユウカの声が聞こえた。
「先生、どこですか!」
「あ、ここ」
「ここじゃありません!」
勢いよく扉が開く。
先頭にユウカ。
その後ろからハスミ、スズミ、チナツ。
そして。
少し遅れてリンも部屋へ入ってきた。
「勝手に移動しないでください!」
「ごめん」
「さっき無茶しないって言ったばかりでしょう!」
「いや、そんな遠くまで来てないよ?」
「距離の問題じゃありません!」
「先生、ご無事ですか?」
チナツがすぐに近づく。
「うん。大丈夫」
リンも先生の姿を一通り確認してから、静かに息を吐いた。
「先生」
「はい」
「私は確かに、勝手に行動しないようお願いしたはずですが」
「……はい」
「何か申し開きは?」
「音がしたから、ちょっと確認を」
「結果的に何もなかったから良かったものの、次からは近くの生徒を呼んでください」
「ごめんなさい」
素直だった。
ユウカが少し意外そうな顔をする。
「代行には素直なんですね」
「ユウカにも素直だよ?」
「どこがですか!」
「先生」
チナツが話を戻す。
「何かありましたか?」
「んー……」
先生は窓を見る。
もう。
狐面の少女の姿はない。
「ちょっと先客がいた」
「先客?」
ハスミが眉を寄せる。
「誰です?」
「狐のお面をつけてた子」
空気が止まった。
ユウカ。
ハスミ。
スズミ。
チナツ。
そしてリンまで。
全員の表情が変わる。
「…………」
「……え?」
先生が五人を見る。
「どうしたの?」
最初に口を開いたのはリンだった。
「先生。その生徒は今どこに?」
「窓から出ていった」
「窓から!?」
ユウカが声を上げる。
「うん」
「どうして止めなかったんですか!?」
「止めるって言っても……」
先生は自分の身体を見る。
「私が?」
「…………」
ユウカが黙る。
「……それもそうですね」
「でしょう?」
ハスミは窓際へ移動し、外を確認する。
「すでに姿はありません」
「先生」
スズミが尋ねる。
「他に特徴は?」
「長い髪で、狐のお面で……」
「武器は?」
「持ってた」
スズミとハスミが視線を交わす。
だが。
「……狐坂ワカモですね」
先に名前を口にしたのはリンだった。
「ワカモ?」
先生が聞き返す。
「七囚人の一人です」
リンが答える。
「矯正局から脱走した中でも、特に危険視されている生徒の一人です」
「七囚人……」
先生は少し考え。
「七人いるの?」
「そこですか?」
「だって七囚人って」
「いますけど!」
ユウカが即座に返す。
「へえ」
「感心してる場合じゃありません!」
「先生」
リンの声は静かだった。
「あなたは、その七囚人の一人と二人きりだったのですよ」
「そうみたいだね」
「そうみたいじゃありません!」
「ユウカさん」
「……すみません」
リンに一度制され。
それでもユウカは納得できない顔をしている。
「でも何もされなかったよ?」
先生が言う。
「それが一番意味分からないんです!」
「私もよく分からない」
「先生まで分からないんですか!?」
「だって急に逃げたし」
「逃げた?」
ハスミが僅かに眉を動かす。
「ワカモが?」
「うん」
リンの目も僅かに細くなった。
「先生を見て?」
「たぶん」
「…………」
五人が先生を見る。
「なに?」
先生が首を傾げる。
「先生」
ユウカがゆっくり口を開いた。
「本当に何したんです?」
「挨拶した」
「……それだけ?」
「あと大丈夫って聞いた」
「……」
「怪我してないかも」
「…………」
「それだけ」
誰もすぐには返さなかった。
ハスミが考え込むように視線を落とす。
「……狐坂ワカモが」
「それだけで退いた……?」
スズミも珍しく困惑している。
リンでさえ、しばらく言葉を選んでいた。
「先生」
「うん?」
「他に何かしていませんか?」
「してないよ?」
「……そうですか」
リンがほんの少しだけ眉間へ指を当てる。
先生は腕を組んだ。
「人見知りだったのかな」
「絶対違います!」
ユウカの声が響いた。
今度はリンも止めなかった。
* * *
「それより」
先生が机の方を見る。
「あの子、これ触ってた」
その一言に。
リンが反応した。
「……それは」
机の上。
黒い画面の端末。
一見すると。
少し変わったタブレットにしか見えない。
だが。
リンはその端末へ歩み寄る。
「見つけましたか」
「知ってるの?」
先生が尋ねる。
「はい」
リンの表情が僅かに引き締まる。
「これが――シッテムの箱です」
「……箱?」
「はい」
「これが?」
「はい」
「箱……」
「先生」
ユウカが横から見る。
「そこ、そんなに気になります?」
「だって箱って言われたら」
「箱だけが箱じゃないでしょう!」
「そうなの?」
「知りません!」
「ユウカさん、話が進みません」
「代行まで!」
先生はもう一度、机の上の端末を見る。
「これがシッテムの箱……」
「連邦生徒会長が残したものです」
リンが続けた。
先生の表情が少し変わる。
「生徒会長が?」
「はい」
そして。
リンは先生を見る。
「あなたへ渡すように、と」
「私に?」
「そう聞いています」
「…………」
先生が端末を見る。
今日。
初めてこの街へ来た。
初めて連邦生徒会へ行った。
そこで初めて「先生」と呼ばれた。
その自分に。
失踪した連邦生徒会長が。
何かを残していた。
「……なんで?」
「分かりません」
「リンも?」
「ええ」
「そっかあ」
先生は困ったように笑う。
「じゃあ私も分からないや」
「……でしょうね」
「今ちょっと呆れた?」
「気のせいです」
「そう?」
先生が端末を持ち上げる。
軽い。
見た目以上の重さはない。
「これ、どうやって使うの?」
「それも分かっていません」
「……」
「連邦生徒会でも、起動させることすらできませんでした」
「それを私に渡すの?」
「連邦生徒会長の指示です」
「すごい丸投げだね」
「否定はしません」
リンが即答した。
ユウカが横から端末を覗き込む。
「ちょっと見せてもらっていいですか?」
「うん」
先生が差し出す。
「こういうのはミレニアムの方が得意ですから」
受け取ったユウカが、端末を表裏へ返す。
側面。
端子。
外装。
画面。
順番に確認していく。
数秒。
十数秒。
「……何これ」
「分かる?」
「分からないから言ってるんです!」
「そっか」
「普通の規格じゃない……というか」
ユウカが眉を寄せる。
「見た目は端末なのに、知ってる構造と全然違う」
「電源は?」
先生が聞く。
「それもよく分かりません」
「壊れてる?」
「違うと思います」
ユウカが端末へ耳を近づける。
「内部では何か動いてる……?」
「どういう意味?」
「だから、私にもまだ分からないんです!」
「ユウカさんが分からないというのは珍しいですね」
スズミが言う。
「珍しいって言わないで!」
その時。
画面が。
一瞬だけ。
光った。
「……え?」
ユウカが止まる。
暗転。
「今、何か映らなかった?」
「私も見ました」
チナツが答える。
ハスミも端末へ視線を向ける。
「確かに反応しましたね」
先生が横から覗き込む。
「もう一回?」
「先生、ちょっと待ってください」
ユウカが触れようとした、その時。
再び画面が点灯した。
今度は。
文字。
「……!」
ユウカが目を見開く。
「起動した?」
画面中央。
入力欄。
そして。
文字列。
「パスワード……?」
ハスミが呟く。
リンも画面を覗き込む。
「先生」
「うん?」
「何か心当たりは?」
「…………」
先生は画面を見る。
心当たり。
ない。
あるはずがない。
今日初めて見た端末。
存在すら知らなかった。
「ない」
「そうですか」
「うん」
そう答えた。
はずなのに。
「…………?」
不思議な感覚。
何かが。
頭の奥へ引っかかる。
言葉。
聞いたことのない。
でも。
知っているような。
矛盾した感覚。
「先生?」
ユウカが顔を覗き込む。
「どうしました?」
「……分からない」
「何がです?」
今度はリンも先生を見る。
「分からないんだけど……」
先生の唇が動く。
知らない言葉。
知らないはずの言葉。
なのに。
それが正しいと。
なぜか。
そう思った。
「……」
先生が口にする。
短い言葉。
それを聞いた五人が顔を見合わせた。
「先生?」
リンにも意味が分からない。
当然。
先生自身にも。
「……なんで私、これ知ってるんだろう」
その直後。
電子音。
画面へ文字が浮かぶ。
認証。
完了。
「え」
全員が画面を見た。
「……通った?」
ユウカの声。
「通ったね」
「どうして!?」
「私が聞きたい!」
先生も驚いていた。
「先生、今の言葉はどこで――」
リンが尋ねようとした。
その瞬間。
画面から光が溢れた。
「っ!?」
「先生!」
白。
視界が。
全部。
塗り潰される。
ユウカが先生の腕を掴もうとする。
チナツも手を伸ばす。
だが。
そのどちらも届く前に。
先生の意識は。
深く。
落ちていった。
* * *
「…………」
水の音。
先生は目を開いた。
「……?」
青い。
最初に思ったのは、それだった。
空。
光。
どこまでも透き通った色。
「……ここ」
起き上がる。
「どこ?」
ついさっきまで。
シャーレにいた。
リンがいた。
ユウカたちがいた。
シッテムの箱を持っていた。
それが。
今は。
「…………」
先生は周囲を見る。
学校。
そう見える。
けれど。
妙に静かだった。
誰の声もしない。
風の音だけ。
水面に反射した光が、天井へゆらゆらと揺れている。
「夢……?」
頬をつねる。
「痛い」
夢ではない。
「いや、夢でも痛い時あるか」
自分で言って。
さらに分からなくなった。
「……まあいいか」
先生は立ち上がる。
「よくはないけど」
歩く。
廊下。
教室。
どこにも人はいない。
ただ。
ひとつだけ。
扉の向こうに。
気配があった。
「……?」
先生が扉を開く。
教室。
そして。
そこに。
一人の少女がいた。
青い髪。
小柄な身体。
机に突っ伏して。
眠っている。
「……生徒?」
先生が近づく。
反応はない。
「もしもし?」
少し声をかける。
「…………」
「寝てる?」
もう一歩。
「起きてー」
「…………ん」
少女の指が動く。
「お」
顔を上げる。
ゆっくり。
青い瞳が開く。
少女は何度か瞬きをした。
そして。
目の前にいる先生を見つめる。
「…………」
先生も見つめ返す。
「こんにちは?」
今日。
何度目か分からない挨拶。
少女は。
一瞬だけ。
目を丸くして。
それから。
ぱっと。
満面の笑顔を浮かべた。
「おはようございます、先生!」