青の記録 ―二つの記憶が交わる時―   作:きままに投稿

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第30話 行方

 

 

 乾いた風が、砂を薄く巻き上げながら道路を横切っていく。

 

 朝だというのに、アビドス自治区の空気にはすでに微かな熱が混じり始めていた。空はどこまでも青く、遮るものが少ないせいか、その広さが余計に目につく。

 

 先生は片手を額にかざし、遠くに見えてきた建物を眺めた。

 

 砂に霞んだその輪郭は周囲の建物と比べれば大きい。しかし、学校らしき規模に反して、人の気配はほとんど感じられなかった。

 

「……あれかな」

 

『位置的には、アビドス高等学校で間違いないと思います!』

 

 手にしたシッテムの箱から、アロナの元気な声が返ってくる。

 

「やっと着いたあ……」

 

『先生、まだ学校には着いてませんよ?』

 

「気持ち的にはもう到着したことにしよう」

 

『駄目です!』

 

「厳しいなあ」

 

 そんなことを言いながら、先生は再び歩き始めた。

 

 足元の舗装にはいくつものひびが走り、その隙間を細かな砂が埋めている。道の両側には閉じたシャッターや色褪せた看板が並び、半ばまで砂に埋まったベンチのそばでは、とうに枯れた鉢植えが乾いた枝を風に揺らしていた。

 

 時折、どこからか転がってきた空き缶だけが、からん、と乾いた音を立てて道路を横切る。

 

「……静かだね」

 

『そうですね……』

 

 D.U.では、どこへ行っても誰かしらの声が聞こえた。車の音、生徒たちの話し声、広告、店の呼び込み。

 

 ここには、それがない。

 

 昨日読んだ手紙の向こうにあった現実が、少しずつ形を持って目の前へ現れ始めていた。

 

 その時だった。

 

「……ん?」

 

 遠くから微かな音が聞こえてくる。

 

 一定の間隔で、何かが地面を蹴る音。

 

 しかも、かなり速い。

 

 先生が振り返ると、砂の混じった道路を一台の自転車がこちらへ向かってきていた。

 

 乗っているのは、青みがかった髪の少女だった。背には銃があり、頭上にはキヴォトスへ来てからようやく見慣れ始めたヘイローが浮かんでいる。

 

 けれど、先生が一番気になったのはそこではない。

 

 少女は自転車を走らせながら、前だけでなく交差点や路地、建物の陰へ何度も視線を送っていた。

 

「……何か探してる?」

 

『そんな感じですね』

 

 自転車はそのまま先生の横を通り過ぎようとする。

 

「あのー」

 

「……!」

 

 声をかけた瞬間、少女の手がすぐにブレーキへ伸びた。

 

 タイヤが砂を噛み、薄い砂埃を巻き上げる。数メートル先で停止すると、少女はこちらへ振り返った。

 

「……何?」

 

 短い返事だった。

 

 冷たいというより、今は余計なことへ時間を使いたくない。そんな焦りが声に滲んでいる。

 

「ごめん。アビドス高等学校って、この先で合ってる?」

 

「……そう」

 

「よかった。ありがとう」

 

「…………」

 

 それだけなら、もう用はない。

 

 少女は再び自転車へ足をかけようとした。

 

 しかし、その視線が先生の手にあるシッテムの箱へ一度止まり、それから先生本人へ向いた。

 

「……学校に何か用?」

 

「うん」

 

 先生は鞄から一通の手紙を取り出した。

 

「アビドスから支援要請をもらってね」

 

「…………支援要請?」

 

「うん。シャーレ宛てに」

 

「……シャーレ」

 

 少女の様子が変わった。

 

 今度は、はっきりと先生の顔を見る。

 

「もしかして、シャーレの先生?」

 

「そうだけど」

 

「…………」

 

「何か変だった?」

 

「……来ると思ってなかった」

 

「あ」

 

 先生は手元の手紙を見る。

 

「受理したって連絡、行ってなかったんだ」

 

「聞いてない」

 

「そっかあ……」

 

 先生は少し困ったように笑った。

 

「じゃあ、いきなり行ったら驚かせちゃうかな」

 

「たぶん」

 

「怒られる?」

 

「分からない」

 

「そっか」

 

『先生、そこを気にするんですか?』

 

「大事だよ?」

 

 先生とアロナのやり取りを、少女は少しだけ不思議そうに見ていた。

 

 けれど、すぐにまた道路の向こうへ視線を向ける。

 

 先生はそれを見逃さなかった。

 

「……何かあった?」

 

「…………」

 

「さっきから、何か探してるみたいだけど」

 

 乾いた風が吹き、少女の髪を揺らす。

 

 少しだけ迷ってから、少女は口を開いた。

 

「仲間がいない」

 

 先生の表情から、さっきまでの軽さが消えた。

 

「いない?」

 

「昨日から連絡がつかない」

 

「名前は?」

 

「セリカ」

 

「最後に会ったのは?」

 

「昨日。学校からバイトに行った」

 

「バイト先は?」

 

「柴関ラーメン」

 

「そこにはまだ確認してない?」

 

「今から行くところ」

 

「連絡は?」

 

「つかない」

 

「帰り道は、いつも同じ?」

 

「大体」

 

 質問は続いたが、問い詰めるような口調ではない。

 

 少女は答えながら、少しだけ先生を見る目を変えた。

 

「……一緒に来るの?」

 

「うん」

 

「学校に行かなくていいの?」

 

 先生が瞬きをする。

 

「だって」

 

 手紙を軽く持ち上げた。

 

「そのアビドスの子がいなくなってるんでしょ?」

 

「…………」

 

「だったら先にそっち」

 

 迷いのない声だった。

 

 少女は数秒ほど先生の顔を見つめ、それから自転車を降りた。

 

「……分かった」

 

 自転車を押して歩き始める。

 

「私はシロコ」

 

「あ」

 

『先生?』

 

「名前聞くの忘れてた」

 

『先生!?』

 

「よろしく、シロコ」

 

「うん」

 

 ほんの僅かに、シロコの表情が緩む。

 

 先生はその隣へ並び、二人は柴関ラーメンへ向かった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 柴関ラーメンは、まだ本格的な営業前だった。

 

 店先には暖簾が掛けられ始めたばかりで、扉の向こうからは湯の沸く音と、食欲を誘う出汁の匂いが流れてくる。厨房からは、調理器具同士が触れ合う小気味のいい音も聞こえていた。

 

 扉を開く。

 

「いらっしゃ――」

 

 振り返った柴大将が、シロコの姿を見て途中で声を止めた。

 

「シロコちゃん?」

 

「柴大将」

 

 シロコは店へ入るなり、まっすぐ尋ねた。

 

「セリカ、昨日何時に帰った?」

 

 前置きはない。

 

 その聞き方だけで何かを察したのか、柴大将の表情が僅かに曇る。

 

「セリカちゃん?」

 

「学校に来てない。連絡もつかない」

 

「え……?」

 

 柴大将の手にしていた布巾が止まった。

 

「……昨日は、いつも通りだったよ」

 

 先ほどまで店主として浮かべていた明るい表情は、もうない。

 

「仕事もちゃんとしてたし、片づけまで手伝ってくれて……それから帰ったはずだけど」

 

「何時?」

 

「いつもとほとんど変わらない時間だね」

 

「一人だった?」

 

「うん」

 

 柴大将は何か思い出せないかと記憶を探るように目を伏せる。

 

「変わった様子もなかった。いつも通り文句を言って、いつも通り働いて……」

 

「文句?」

 

 先生が尋ねる。

 

 そこで柴大将が初めて先生へ目を向けた。

 

「ええと……こちらは?」

 

「シャーレの先生」

 

 シロコが簡潔に説明する。

 

「セリカを一緒に探してる」

 

「シャーレの……そうか」

 

 柴大将は先生を見て、少しだけ頭を下げた。

 

「すみません。こんな時に」

 

「気にしないで」

 

 先生は店内へ視線を巡らせる。

 

 椅子も、テーブルも、厨房も、乱れている様子はない。入口周辺にも争ったような痕跡は見当たらなかった。

 

「昨日、見慣れない人が来たりは?」

 

「いや。少なくとも店の中じゃ見てないよ」

 

「外で待ってた人とか」

 

「気づかなかったな」

 

「セリカが帰る時も?」

 

「いつも通りだったと思う」

 

「そっか」

 

 少なくとも、ここでは何も起きていない。

 

「セリカが店を出てから、家までどれくらい?」

 

「普通なら――」

 

 今度はシロコが答えた。

 

「十五分くらい」

 

「いつも使う道は?」

 

「ある」

 

「じゃあ、そこを見よう」

 

 先生が店の外へ向く。

 

 柴大将は、その背中へ心配そうな声をかけた。

 

「先生」

 

「うん?」

 

「セリカちゃんを……お願いします」

 

 ほんの一瞬、言葉が詰まる。

 

 先生は小さく笑った。

 

「うん」

 

「探してくる」

 

 シロコも短く答える。

 

 二人が店を出た後も、柴大将はしばらく扉の向こうを見つめていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 セリカがいつも使っているという帰り道を辿る。

 

 最初のうちは何もなかった。

 

 砂。

 

 古びた外灯。

 

 閉まったままの店舗。

 

 所々に残るタイヤの跡。

 

 風が吹くたびに、先生とシロコがつけた足跡さえ少しずつ形を失っていく。

 

「セリカって、よく一人で帰るの?」

 

「うん」

 

「危なくない?」

 

「普通なら大丈夫」

 

「普通なら?」

 

 シロコがほんの少しだけ先生を見る。

 

「セリカは強い」

 

「そっか」

 

 先生はそれ以上聞かなかった。

 

 角を一つ曲がり、さらに歩く。

 

 やがて。

 

 シロコの足が止まった。

 

「……先生」

 

「うん」

 

 先生もすでに気づいていた。

 

 道路脇の壁に、いくつもの黒い傷がある。

 

 近づけば、それが弾痕だと分かった。

 

 地面には砕けたコンクリート片と薬莢が散らばり、少し先の路面には車が急激に方向を変えたらしいタイヤ痕が残っている。

 

「ここだね」

 

 先生の声が低くなる。

 

 シロコはすぐにしゃがみ込み、壁に残った弾痕を確認した。

 

「……セリカの弾」

 

「分かるの?」

 

「使ってる銃も、弾も知ってる」

 

「なるほど」

 

 先生はその場に立ったまま眺めるのではなく、ゆっくりと周囲を歩き始めた。

 

 一つ目の弾痕。

 

 次の弾痕。

 

 高さ。

 

 角度。

 

 遮蔽物。

 

「ここから撃って……次はこっち」

 

 数歩移動する。

 

「その後、反対側へ」

 

 シロコが黙って先生を追う。

 

 弾痕は一ヶ所に集中していない。かなり広い範囲に散らばっている。

 

 遮蔽物を使い、位置を変え、敵の射線をずらしながら撃ち返した。

 

 そんな戦い方が、現場にそのまま残っていた。

 

「セリカ、かなり戦ってるね」

 

「……うん」

 

 シロコの声が僅かに硬くなる。

 

「何もできずに連れていかれたわけじゃない。むしろ、相手の方がかなり手こずってる」

 

 先生は路面を見る。

 

 誰かが転倒した跡。

 

 壁へ激しくぶつかったような傷。

 

 落とされた銃器を引きずったような線。

 

 シロコが立ち上がった。

 

「セリカは弱くない」

 

「うん。見れば分かる」

 

 先生が当たり前のように答える。

 

 それを聞いて、シロコの肩からほんの少しだけ力が抜けた。

 

「……ん?」

 

 先生の視線が道路脇の砂へ止まる。

 

 黒い何かが、半分埋まっている。

 

「これ」

 

 しゃがみ、砂を軽く払う。

 

 出てきたのは焦げた機械片だった。

 

 両手で抱えられる程度の大きさで、一部は完全に吹き飛んでいる。円筒状の外装が割れ、その内側から奇妙な部品が覗いていた。

 

『先生?』

 

「アロナ」

 

 昨日見た、ジョーカーによって破壊されていた特殊兵器が頭をよぎる。

 

 形も大きさも違う。

 

 恐らく用途も違う。

 

 けれど、内部に見える細長い構造には妙な共通点があった。

 

「昨日のやつと、似てない?」

 

『確認します』

 

 シッテムの箱に昨日の記録が表示される。

 

 シロコも隣へしゃがんだ。

 

「知ってる?」

 

「知ってる、とは言えないかな」

 

 先生は機械片を見つめる。

 

「昨日、アビドスへ来る途中で、似たような仕組みの武器を見たんだ」

 

「武器?」

 

「たぶん」

 

『先生』

 

「うん?」

 

『やっぱり、一部の構造が似ています』

 

「そっか」

 

 先生が立ち上がる。

 

 昨日、あの黒い仮面の戦士は、この系統の武器を危険だと言っていた。

 

 普通の銃より優先して破壊していた。

 

 そして今、同じ技術を使っているらしい装置が、セリカの消えた場所に落ちている。

 

「偶然かな」

 

「……違うと思う」

 

「私も」

 

 シロコの目が細くなる。

 

「学校へ戻る」

 

「うん」

 

「みんなに知らせる」

 

「そうしよう」

 

 先生は最後にもう一度、現場全体を振り返った。

 

 弾痕と、壊れた装置。

 

 夜のうちにかなり薄くなっているものの、路面には車両が走り去った痕跡も残っている。

 

 ただし、その先では別の車の跡と重なり、さらに砂に消されていた。

 

 追えばそのまま辿り着ける。

 

 そんな都合のいい痕跡ではなかった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「シロコ先輩!」

 

 対策委員会の部室の扉が開いた瞬間、アヤネが椅子を引く勢いで立ち上がった。

 

「どうでしたか!?」

 

「見つけた」

 

「セリカちゃんを!?」

 

「違う。戦った跡」

 

「…………!」

 

「バイト先を出た後」

 

 アヤネの顔が強張る。

 

「やっぱり……」

 

 シロコが少し横へずれた。

 

「それと、この人」

 

 その後ろにいた先生の姿が見える。

 

「……え?」

 

 アヤネが瞬きをする。

 

 ノノミも。

 

 そして、部屋の奥にいたホシノも。

 

 見知らぬ大人へ視線を向けた。

 

「初めまして」

 

 先生が片手を上げる。

 

「シャーレの先生です」

 

 一瞬、部屋が静まり返った。

 

「シャーレ?」

 

 アヤネの声が一段高くなる。

 

「はい」

 

「えっ……シャーレって、あの連邦捜査部の!?」

 

「たぶんそれ」

 

「たぶん!?」

 

『先生!』

 

「冗談だよ」

 

『今の絶対ちょっと本気でした!』

 

「そんなことないよ」

 

 先生は鞄から手紙を取り出した。

 

「これ」

 

「…………!」

 

 アヤネの目が見開かれる。

 

「それ……」

 

「アビドスから送ってくれた支援要請」

 

「届いてたんですか……?」

 

「うん」

 

「本当に……?」

 

「本当に」

 

 アヤネは手紙を見つめた。

 

 自分で書いたもの。

 

 届いたかどうかも、読まれたかどうかも分からなかったもの。

 

 それを今、目の前の大人が持っている。

 

「じゃあ……」

 

「読んで来たよ」

 

「…………先生」

 

「うん」

 

 先生は小さく笑ったが、すぐに表情を戻した。

 

「ちゃんとした挨拶は後でしよう」

 

「え?」

 

「今はセリカを探そう」

 

 アヤネは一瞬だけ言葉を失い、それから強く頷いた。

 

「……はい!」

 

「シロコ、さっきの場所は地図だとどこ?」

 

「ここ」

 

 机の上に自治区の地図が表示される。

 

「アヤネは、この辺りの道路や通信記録に詳しい?」

 

「はい。自治区内の地図や、まだ動いている監視設備ならある程度確認できます」

 

「じゃあお願いしていい?」

 

「もちろんです!」

 

「昨日の夜、この周辺を通った車がないか探したい」

 

「分かりました」

 

「ノノミ」

 

「はい~?」

 

「この辺の道、詳しい?」

 

「そうですね~。一通りなら」

 

「大きめの車が人目につかずに入れそうな場所ってある?」

 

「人目につかず、ですか~」

 

 ノノミが地図を覗き込む。

 

「昔の倉庫や工場なら、いくつかありますね」

 

「後で教えて」

 

「はい」

 

 先生の視線が最後の一人へ向く。

 

 小柄な少女。

 

 眠たげな目。

 

 ショットガン。

 

 そのすぐそばには、大きな盾が置かれている。

 

「ホシノ、で合ってる?」

 

「ん~、そうだよ」

 

 ホシノはいつものような気の抜けた声で答えた。

 

「よろしく」

 

「よろしくねえ、先生」

 

 口調は柔らかい。

 

 けれど、その視線は先生から離れなかった。

 

「いやあ~、それにしても驚いたねえ。まさか本当にシャーレの人が来るとは思わなかったよ」

 

「そう?」

 

「うん。手紙一枚で、こんなところまで来てくれる大人がいるとも思ってなかったし」

 

 冗談めいた言い方。

 

 しかし、その実、先生の反応を見ている。

 

 先生は特に気にした様子もなく答えた。

 

「困ってるって書いてあったからね」

 

「それだけ?」

 

「それだけじゃ駄目?」

 

「いやあ」

 

 ホシノは薄く笑った。

 

「ずいぶん変わった先生だなあと思って」

 

「よく言われる」

 

『まだそんなに長く先生をやってませんよね!?』

 

「じゃあ、これから言われると思う」

 

『予言しないでください!』

 

 ノノミが小さく笑い、アヤネも緊張の中で少しだけ表情を緩める。

 

 ホシノだけは、笑みを残したまま先生を見ていた。

 

「それで、先生」

 

「うん?」

 

「シロコちゃんから聞いたの?」

 

「セリカのこと?」

 

「そう」

 

「聞いたよ」

 

「それで、そのまま一緒に探しに行ったんだ」

 

「そのために来たようなものだからね」

 

「…………」

 

 ホシノの目がほんの少しだけ細くなる。

 

「そっか」

 

 それ以上は聞かなかった。

 

 少なくとも今すぐ信用できない相手ではなさそうだ。

 

 けれど、まだ初対面。

 

 そんな距離を保ったまま、ホシノは先生の言葉と動きを見ている。

 

 先生もまた、ホシノを見ていた。

 

 大きな盾の表面には、無数の傷や弾痕が残っている。かなり使い込まれたものだ。

 

 それを少し前、ホシノは片手で何でもないように位置を変えていた。

 

 床を擦った時の重い音からして、決して軽い装備ではない。

 

「先生?」

 

「ん?」

 

「おじさんに何かついてる?」

 

「ううん。何でもないよ」

 

 先生は笑う。

 

 まだ実際に戦うところを見たわけではない。

 

 それでも、立ち位置や装備の扱い方、それにシロコたちが無意識のうちにホシノを中心にしている様子から、何となく分かる。

 

 この子は、かなり強い。

 

 そして同じ頃。

 

 ホシノもまた、初対面の大人が部屋へ入ってきて数分も経たないうちに、まるで以前から一緒に動いていたかのように必要な情報を集め始めていることへ、密かに目を向けていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 ――声がする。

 

「……ねえ」

 

 遠い。

 

 水の底から聞いているように、誰かの声だけがぼんやりと届いてくる。

 

「これ……本当に良かったんだよね?」

 

「何よ、今さら」

 

「いや、だって……これ、誘拐じゃん」

 

「声大きいって!」

 

「でも!」

 

「依頼主が連れてこいって言ったんだから、仕方ないでしょ」

 

「仕方ないって……」

 

 少しずつ意識が浮かび上がってくる。

 

 頭が重い。

 

 身体も妙に動かしづらい。

 

 セリカは目を開けなかった。

 

 起きたことを悟られない方がいい。

 

「指定された生徒を捕まえて、ここまで連れてくる。それで報酬が出る」

 

「分かってるけどさあ……」

 

「今さら降りられないでしょ。報酬額、見たでしょ?」

 

「それは……見たけど」

 

「今月、本当にヤバかったじゃん。弾だってほとんど残ってなかったし」

 

「寝床の代金も」

 

「それ言わないでよ……」

 

 声が少し弱くなる。

 

「だから受けたんでしょ」

 

「……うん」

 

「私たちだって、好きでやってるわけじゃないし」

 

 自分へ言い聞かせている。

 

 セリカにも、それくらいは分かった。

 

「それに、殺すなって言われてたじゃん」

 

「傷つけすぎるな、とも言われた」

 

「ちゃんと確認したでしょ?」

 

「した。気絶してるだけ」

 

「……ならいいけど」

 

「良くないでしょ」

 

「え?」

 

「いや……何でもない」

 

(何よ、それ……)

 

 セリカが僅かに指先へ力を込める。

 

 動かない。

 

 腕も、脚も、何かに固定されている。

 

 力を入れた拍子に金属が小さく鳴り、すぐに動きを止めた。

 

(最悪……)

 

「それにしても、あの装置すごかったね」

 

「ああ……」

 

 セリカの意識が一気にそちらへ向く。

 

「依頼主が貸してくれなかったら、絶対無理だったよ」

 

「三台壊されたけどね」

 

「それ言わないで!」

 

「弁償って言われたらどうする?」

 

「やめてよ!」

 

「私だって嫌だよ!」

 

 そのやり取りだけ聞けば、どこにでもいる学生の会話と大差ない。

 

 けれど、彼女たちが今やっているのは誘拐だった。

 

「……でもさ」

 

「何?」

 

「なんでこの子なんだろ」

 

「知らない」

 

「普通の学生だよね?」

 

「聞くなって言われたでしょ」

 

「そうだけど……」

 

「こっちは連れてくるまでが仕事。それ以上は知らなくていいの」

 

 足音が離れていく。

 

 やがて扉が開き、閉じる音がした。

 

 辺りが静かになってから、セリカはゆっくりと目を開けた。

 

「…………」

 

 薄暗い。

 

 古い蛍光灯が天井に並び、その半分ほどは消えている。点いているものも時折じ、と音を立てて明滅していた。

 

 コンクリートの壁。

 

 高い位置にある窓。

 

 そこから外の様子は見えない。

 

 自分は椅子へ座らされ、両腕と脚を金属製の拘束具で固定されている。

 

「……あいつら」

 

 声を殺す。

 

 頭の奥で、途切れていた昨夜の記憶が戻り始めた。

 

 柴関ラーメン。

 

 帰り道。

 

 そして――。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

『……何よ』

 

 夜。

 

 街灯の少ない道で、セリカは足を止めた。

 

 前方には数人の少女。

 

 振り返れば、後ろにもいる。

 

 全員がヘルメットを被っていた。

 

『こんな時間に何の用?』

 

『悪いけど』

 

 一人が銃を構える。

 

『ちょっと一緒に来てもらうよ』

 

『……は?』

 

 セリカの眉が吊り上がった。

 

『誰が行くか!』

 

 先に響いたのは相手の銃声だった。

 

 セリカは即座に横へ飛ぶ。

 

 弾丸が壁を削って火花を散らす。

 

 着地と同時に銃を上げ、撃ち返した。

 

『うわっ!?』

 

 一人の銃が弾かれる。

 

 右から別の少女が出ようとする。

 

 その前にもう一発。

 

『きゃっ!?』

 

 相手が慌てて遮蔽物へ引っ込む。

 

『何なのよ、あんた!』

 

『聞いてない! こんな強いなんて!』

 

『うるさい! 囲めば――』

 

『遅い!』

 

 セリカは動きを止めない。

 

 前へ出て、撃つ。

 

 位置を変え、遮蔽物へ入り、次の射線を作る。

 

 相手が態勢を整えるより早く、次の一人へ銃口を向けた。

 

『この程度で私を捕まえられると思ってんの!?』

 

 敵は多い。

 

 それでも、突破できる。

 

 そう判断した瞬間だった。

 

『今!』

 

『え?』

 

 何かが道路脇へ転がった。

 

 筒状の機械。

 

 それが地面へ固定され、低い駆動音を響かせる。

 

『何、それ――』

 

 直後。

 

 身体につけていた装備が強く引かれた。

 

『っ!?』

 

 銃が引っ張られる。

 

 ベルトや金属部品にも異様な力が加わり、身体そのものまで巻き込まれるように体勢が固まった。

 

 目に見えない枷を掛けられたように、動作が一瞬止まる。

 

『な――!』

 

『今だ!』

 

 銃口が向けられる。

 

 だが、拘束は長く続かなかった。

 

『……っざけんな!』

 

 セリカは無理やり腕を動かした。

 

 一発。

 

 装置へ命中。

 

 火花を散らしながら機械が破裂する。

 

『壊された!?』

 

『こんなもので――!』

 

 そのまま走り出す。

 

『二番!』

 

 別方向から声。

 

『え――』

 

 二つ目の装置が起動した。

 

『っ!』

 

 再び装備が引かれ、動きが止まる。

 

『早く!』

 

『分かってる!』

 

 拘束が切れた瞬間、セリカは銃を持ち上げた。

 

 撃つ。

 

 一人が慌てて身を隠す。

 

『三番、起動!』

 

『まだあるの!?』

 

 今度は後方。

 

 また別の装置が作動する。

 

 拘束が切れたと思った瞬間に、次の力が身体を縛る。

 

『くっ……!』

 

 それでもセリカは反撃した。

 

 一基を壊す。

 

 一人の銃を弾き、さらに別の一人の動きを止める。

 

 けれど、装置はまだ残っている。

 

 敵の人数も多い。

 

 動ける。

 

 止められる。

 

 僅かな隙に銃を構えれば、その直後には次の拘束が来る。

 

『この……!』

 

 それでも抵抗を続けた。

 

 何度も立て直し、逃げ道を探し、撃ち返す。

 

 だが、ついに片膝が地面へ落ちた。

 

『今!』

 

『押さえて!』

 

『離しなさいよ!』

 

 何人もの手が伸びてくる。

 

 銃を奪われる。

 

『触るな!』

 

 強引に一人を振りほどく。

 

 少女が地面へ転がった。

 

『だから強すぎるって!』

 

『早くしないと装置が――!』

 

 再び低い駆動音が響く。

 

『っ――』

 

 視界が揺れた。

 

 意識が遠ざかる中。

 

 セリカは最後まで目の前の相手を睨みつけた。

 

『……絶対、覚えてなさいよ……!』

 

 そこで記憶は途切れていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「…………」

 

 現在。

 

 セリカは奥歯を噛み締める。

 

「ほんっと……最悪」

 

 腹が立つ。

 

 悔しい。

 

 怖くないと言えば嘘になる。

 

 けれど、俯いている場合ではなかった。

 

 目だけを動かして室内を確認する。

 

 扉。

 

 窓。

 

 照明。

 

 床。

 

 拘束具。

 

 見張りがいた位置。

 

 先ほど聞こえた足音。

 

 逃げ道になりそうな場所。

 

「……絶対帰るんだから」

 

 誰にも聞こえないように小さく呟き、セリカはもう一度、手首の拘束具へ力を込めた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「これが、昨夜残っていた記録です」

 

 アビドス高等学校。

 

 対策委員会の机いっぱいに地図や複数の画面が広げられ、その中心でアヤネが次々と情報を切り替えている。

 

 先生、シロコ、ノノミ、ホシノも机を囲んでいた。

 

「映像は?」

 

「ほとんどありません。監視カメラが止まっている区画が多くて……」

 

「大丈夫。残ってるものだけでいいよ」

 

「はい。ただ、一台だけ昨夜この道路を通った車両が記録されています」

 

 画面が切り替わる。

 

 粗い静止画。

 

 暗い道路を走る小型トラック。

 

 画質が悪く、ナンバーまでは読み取れない。

 

「時間は?」

 

「セリカちゃんが柴関ラーメンを出てから、二十分ほど後です」

 

「柴関から戦った場所までは?」

 

「歩けば十分前後」

 

 先生の目が地図へ落ちる。

 

「この車が映ったのは?」

 

「そこから東へ少し行った地点です」

 

「進行方向は?」

 

「東です」

 

 先生の指が地図の上を滑る。

 

「この先なら」

 

 ノノミが横から覗き込む。

 

「昔の資材置き場や倉庫が多いですね~」

 

「今も使ってる?」

 

「ほとんど使われてません」

 

「車で入れる?」

 

「場所によります」

 

 シロコが一本の道を指した。

 

「ここは無理」

 

「どうして?」

 

「砂が深い。最近、車はほとんど通らない」

 

「なら除外」

 

 先生の指が別の経路へ移る。

 

「こっちは?」

 

「大通りに出ます」

 

 アヤネが答える。

 

「夜でも、まだ多少は人通りがあります」

 

「誘拐した子を乗せてるなら、わざわざ人目のある方には行かない」

 

 先生が首を横へ振る。

 

 地図の上を戻り、古い脇道へ指を置く。

 

「じゃあ、ここ」

 

 ノノミが地図を見つめる。

 

「そこなら旧工業区の裏側へ抜けられます」

 

「倉庫は?」

 

「あります」

 

 アヤネが検索をかける。

 

「三ヶ所です」

 

「大きさは?」

 

「一つは小さいですね。車両を中へ入れるのは難しいです」

 

「残り二つ」

 

「片方は数年前に屋根の一部が崩落しています」

 

「人を隠すだけなら使える?」

 

「できなくはないですけど……」

 

「でも、あの装置を何個も持ち込むなら面倒」

 

 先生の指が最後の一ヶ所で止まった。

 

 古い物流施設。

 

 大きな搬入口があり、裏手には道路が続いている。周囲の人家も少ない。

 

「……ここ」

 

 部屋の空気が少し変わる。

 

「根拠は?」

 

 シロコが尋ねた。

 

「全部」

 

「全部?」

 

「セリカが消えた場所。車が通った時間と進行方向。それに、人目を避けて通れる道」

 

 先生は地図を指でなぞりながら、一つずつ条件を重ねていく。

 

「この施設なら車を直接入れられるし、人を隠す場所もある。それと――」

 

 今度は、現場で見つけた壊れた装置の写真を表示する。

 

「これ」

 

「昨日の装置?」

 

 アヤネが尋ねる。

 

「うん。セリカが捕まった時に何個使われたかは分からない。でも、現場に壊れた一基が残ってた」

 

 シロコが写真を見る。

 

「一個なら、セリカが壊せる」

 

「私もそう思う」

 

 先生が頷いた。

 

「かなり抵抗した跡があった。もしあれでセリカの動きを止めて連れていったなら、一基だけとは考えにくい」

 

「複数……」

 

「うん。何個も運ぶなら、それなりの車両がいる。人を乗せる場所も、装置を置く場所も必要になる」

 

 先生の指が再び物流施設へ戻った。

 

「今ある情報だけなら、ここが一番条件に合う」

 

 誰もすぐには口を開かなかった。

 

 先生自身も、そこで断定はしない。

 

「ただ、まだ可能性が高いってだけ」

 

『先生』

 

 シッテムの箱からアロナの声がした。

 

「うん?」

 

『その施設、私も少し確認してみていいですか?』

 

「何か分かる?」

 

『現在の利用状況や、この周辺で取得できる情報を確認してみます。公開されている記録や、利用可能なデータの範囲ですけど』

 

「お願い」

 

『はい!』

 

 先生が手元の端末へ視線を落とす。

 アヤネは一瞬だけそちらを見たが、今は尋ねている場合ではないと判断したのか、すぐに地図へ視線を戻した。

 数秒後。

『先生。この施設、現在の正式な利用記録はありません』

「うん」

『でも、昨夜この区画だけ一時的に電力使用量が増えています』

「昨夜?」

 先生の声に、アヤネたちが顔を上げた。

「セリカがいなくなった後の時間みたい」

「……本当ですか?」

「うん。それと、周辺で短時間の通信ノイズも出てるって」

 先生の視線が、壊れた特殊装置の写真へ移った。

 

 改めて地図を見る。

 

 もう指は動かなかった。

 

「絶対とは言わない」

 

 先生はシロコ、アヤネ、ノノミを順番に見て、最後にホシノへ視線を向けた。

 

「でも、セリカがいる可能性はかなり高い」

 

 ホシノはしばらく地図を見ていた。

 

 先生の推理。

 

 アヤネが集めた情報。

 

 アロナの裏取り。

 

 その全部を確かめるように。

 

 やがて、静かに立ち上がった。

 

「……先生」

 

「うん?」

 

「外してたら?」

 

「また探すよ」

 

 即答だった。

 

「見つかるまで?」

 

「もちろん」

 

「…………そっか」

 

 そこで初めて。

 

 ホシノの視線から、先生を探るような色がほんの僅かに薄れた。

 

 完全に信用したわけではない。

 

 けれど。

 

 少なくとも、この大人は途中で投げ出すつもりがない。

 

 それだけは分かった。

 

 ホシノは壁際へ向かい、ショットガンを手に取った。

 

 次に大きな盾へ手を掛ける。

 

 床を擦る重い金属音が響いたが、ホシノはその重量を感じさせることもなく片手で持ち上げる。

 

「ホシノ先輩」

 

 アヤネが呼んだ。

 

「うん」

 

 返ってきた声は、いつもと変わらず眠たげで穏やかだった。けれど、細められた瞳からは普段の気の抜けた雰囲気が消えている。

 

「じゃあ」

 

 ホシノは扉へ向かいながら言った。

 

「セリカちゃんを、迎えに行こうか」

 

 今度は。

 

 誰も異論を口にしなかった。

 

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