青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
黒い大型バイクが、乾いた砂を後方へ巻き上げながらアビドスの街道を走っていた。
旧物流施設を離れてから、すでにかなりの距離を進んでいる。
後方を確認しても、先ほどまで激しい銃声と衝撃波が響いていた建物はもう見えない。あるのは風に削られた荒野と、ところどころ砂に埋もれかけた道路標識、そして遠くまで続く色褪せた舗装路だけだった。
バイクはそのまましばらく走り続け、やがて翔は速度を落とした。
人影はない。
周囲には使われなくなった建物の残骸が点在しているだけで、こちらを見ている者もいない。
念のためさらに後方を確認してから、翔は街道を外れた。崩れかけたコンクリート壁の陰へ黒い車体を滑り込ませ、完全に外から見えなくなったところでエンジンを止める。
低く響いていた駆動音が消えた。
代わりに戻ってきたのは、砂漠を吹き抜ける風の音だった。
翔はバイクから降りると、腰のロストドライバーへ手を伸ばした。
装填されていたジョーカーメモリを抜く。
黒い装甲が粒子となって消え、赤い複眼が失われていく。
やがて、黒い仮面の戦士が立っていた場所に、風間翔の姿が戻った。
「……あの人が、先生か」
誰に聞かせるでもなく、言葉が漏れた。
存在そのものは知っていた。
少し前、連邦生徒会にキヴォトスの外から一人の大人がやってきたらしい。そして、その人物は周囲から『先生』と呼ばれている。
翔が聞いていたのは、その程度だった。
顔も知らない。
声も知らない。
当然、女性だということも知らなかった。
だから旧物流施設へ駆けつけた時も、最初からあの女性を先生だと理解していたわけではない。
だが、戦況を見渡し、アビドスの生徒たちへ迷いなく指示を飛ばす姿。そして周囲から向けられていた呼びかけを聞けば、答えはすぐに出た。
『仮面ライダー!』
先ほどの声が脳裏に蘇る。
『今!』
「……初めて会った奴に、普通あんな指示出すか?」
翔は苦笑した。
先生はジョーカーについて、ほとんど何も知らなかったはずだ。
知っていたとしても、せいぜいどこかで撮影された映像と、黒い仮面の戦士が妙な兵器を破壊していたという情報くらいだろう。
何が得意なのか。
どれほど速く動けるのか。
どこまでの攻撃に耐えられるのか。
そんなことを直接確認したことは一度もない。
なのに、セリカを囲んでいた四基の拘束装置を前にした先生は、ほとんど迷わなかった。
中央の制御器を落とす。
装置へ近づこうとする敵をホシノとノノミが押さえる。
シロコとドローンが一瞬の隙を作る。
そして、その数秒だけを翔へ渡す。
大型兵器との戦いでもそうだった。
ホシノが衝撃波を受け止め、シロコとドローンが装甲を割った。その隙間から中枢が見えた瞬間、先生は翔へ迷いなく合図を飛ばした。
まるで、そこまでの流れが最初から見えていたように。
ゲームをやっていた頃から、先生が尋常ではない指揮能力を持っていることは知っていた。
けれど、画面越しに見るのと、その指揮の中へ自分自身が組み込まれるのとでは、感じ方がまるで違う。
「……とんでもないな、ほんと」
翔は小さく息を吐いた。
もっとも。
あの場で先生の指示へすぐ応じることができたのは、翔の側にも理由があった。
セリカを囲んでいた拘束装置も、大型の衝撃波兵器も初めて見る型だった。
だが――あの妙な技術そのものは、もう初見ではなかった。
翔は隣に停めた黒いバイクへ目を向け、そのハンドルへ軽く手を置いた。
このバイクを手に入れた理由も。
アビドスまで来た理由も。
すべては、少し前からゲヘナで起こり始めていた異変へ繋がっている。
* * *
「翔、右」
「分かってる!」
乾いた銃声が、ゲヘナ自治区の裏通りに反響した。
古い雑居ビルに挟まれた狭い路地。壁には弾痕が増え、地面には壊れた看板や木箱が散乱している。
その向こうで、一人の不良生徒が見慣れない大型銃を構えていた。
通常の銃器にしては不自然なほど厚い外装。
側面には用途不明の機構が張り付き、銃口のさらに奥では赤い光が脈打つように強くなっている。
「来るよ」
ヒナの静かな声が飛んだ。
次の瞬間、銃口から放たれたのは弾丸ではなかった。
空気を塊のまま叩きつけるような衝撃。
爆発にも似た圧力が路地を走り、積み上げられていた木箱をまとめて吹き飛ばす。壁の表面が砕け、細かな破片が周囲へ飛び散った。
だが、その時にはすでにジョーカーは射線を外れていた。
横の壁へ一度足を掛け、その反動で斜め前へ跳ぶ。
「なっ――!」
大型銃を持つ少女が慌てて銃口を振った。
翔は着地すると同時に距離を詰め、銃身へ掌を添える。
相手の腕ごと無理に捻るのではない。
銃口の向きだけを僅かに外へ流す。
再び赤い光が弾けた。
放たれた衝撃波はジョーカーの脇を抜け、誰もいない地面へ叩きつけられる。路面が大きく抉れ、砂埃が一気に舞い上がった。
「っ、離して!」
少女が武器を引こうとする。
翔は奪わなかった。
代わりに銃の側面へ視線を走らせる。
何度か似た兵器を相手にしたことで、見るべき場所はかなり絞れるようになっていた。
外装の継ぎ目。
異常に熱を持っている部分。
出力に合わせて点滅する内部機構。
「……ここか」
ジョーカーの拳が短く走った。
分厚い外装そのものを力任せに叩き割るのではなく、僅かに浮いていた接合部を狙う。
一撃で装甲板がずれた。
その奥に、赤く明滅する小型の制御部が見える。
続く一撃。
内部から火花が弾け、甲高かった駆動音が急速に落ちていった。
「うそ……」
少女が呆然と大型銃を見る。
先ほどまで赤く光っていた銃口は完全に沈黙していた。
その時、別方向から足音が響く。
「翔! そっち一人行ったぞ!」
イオリの声。
見ると、別の不良生徒が路地の出口へ向かって走っている。
「イオリ、逃がしたのかよ!?」
「うるさい! 早く止めろ!」
「はいはい!」
「はいは一回!」
「そこ気にするのかよ!」
翔は苦笑しながら走り出した。
逃げる少女の進路へ回り込もうとした、その直前。
乾いた銃声が数発。
少女の足元と逃走先の壁へ正確に弾丸が突き刺さった。
「ひっ……!」
驚いた少女が立ち止まる。
その先にヒナがいる。
銃口は静かに向けられていた。
「そこまで」
たった一言。
少女は素直に両手を上げた。
『翔さん、あまり前へ出すぎないでください!』
今度は耳元の無線からアコの声が飛ぶ。
「これくらいなら大丈夫だって」
『その台詞を何回聞いたと思ってるんですか!』
「そんなに言ってないだろ」
『言っています!』
「翔さん」
今度は少し離れたところからチナツが呼ぶ。
「終わったら一度こちらへ来てください」
「怪我してないから大丈夫だぞ?」
「確認します」
「いや、だから――」
「確認します」
声音は穏やかなままなのに、退く気は微塵も感じられない。
「……はい」
翔が諦める。
その返事を聞いたヒナが、ほんの僅かに口元を緩めた。
「チナツには弱いね」
「ヒナまで言うなよ」
以前なら、こんなやり取りを戦闘直後に交わすことはなかっただろう。
大きな事件を一緒に乗り越えたあとも、翔と風紀委員会との関係が途切れることはなかった。
むしろ、顔を合わせる機会は少しずつ増えていった。
何でもない用事で風紀委員会へ立ち寄ることもある。
逆にヒナたちが「ひだまり」へ来ることもある。
事件がなければ他愛もない話をするし、何か起これば自然と同じ現場に立つようになっていた。
そして何より。
ゲヘナの一部で妙な兵器が出回り始めてからは、一緒に戦う機会が急激に増えていた。
最初は一件だった。
その次に、また一件。
やがて偶然では済ませられない頻度になった。
武器の姿は毎回違う。
異常な衝撃波を放つ銃。
一瞬だけ周囲へ強い電磁作用を起こす装置。
既存の兵器を不自然なほど高出力で動かす補助機構。
どれも能力はばらばらだった。
それでも何度か現物を見て、戦って、押収品を調べるうちに、翔は同じ違和感を覚えるようになった。
形は違う。
使い方も違う。
だが、根っこの部分に妙な共通点がある。
* * *
「やっぱり、ここだな」
その日の戦闘からしばらく後。
風紀委員会へ持ち込まれた大型銃を前に、翔は低く呟いた。
すでに安全確認は終わっている。
外装の一部は整備班によって取り外され、内部の機構が露出していた。
翔の隣にはアコとチナツがいる。
アコは腕を組んだまま内部構造を見つめ、チナツは端末に表示された測定結果と現物を交互に確認していた。
「何か分かったんですか?」
アコに尋ねられ、翔は少し考えてから答える。
「……前にカイザーの施設で見た技術と、ちょっと似てる」
チナツが顔を上げる。
「人工ガイアメモリですか?」
「いや。そこは違う」
翔は大型銃の内部に収められた小型の制御ユニットを指した。
「人工メモリは、使うなら人間側だった。でもこいつは違う。最初から機械の中に組み込む前提で作られてる」
「では、ガイアメモリそのものではない?」
「少なくとも俺が知ってるものとは別物だな」
翔はしゃがみ込み、内部へ目を凝らした。
地球の記憶を内包した真正のガイアメモリとは違う。
人間をドーパントへ変える人工メモリとも違う。
それでも、異常な現象を一つの機械へ付与し、それを兵器として扱うという発想には覚えがあった。
「でも……メモリの性質を、機械側だけで再現しようとしてるように見える」
「疑似的にガイアメモリの機能を持たせた兵器……」
アコが呟く。
「では、便宜上『疑似メモリ兵器』として整理しておきましょう」
「もう名前つけるのか?」
「いつまでも『最近出てきた変な兵器』で報告書を書くわけにはいきません」
「まあ、それはそうだけど」
「何か文句でも?」
「ないです」
その日から、風紀委員会内部では便宜上、その呼び方が使われるようになった。
疑似メモリ兵器。
そして、対処する件数が増えるにつれて、翔にも少しずつ特徴が見えてきた。
能力こそ違っていても、設計には似た癖がある。
頑丈な外装そのものを正面から壊すより、継ぎ目や制御部を狙った方が止めやすい。
一つの制御装置から複数の機器を連動させている場合でも、本体側に最低限の操作系統が残されていることがある。
異常出力を始めた機械は、不用意に触れれば予想外の挙動を起こしかねない。
何より、敵が持っているのが生徒の身体に作用するガイアメモリではなく、あくまで武器そのものであるなら、止めるべきは使用者ではなく機械だ。
そうやって何度も経験を重ねていたからこそ、今日のアビドスでも迷わなかった。
セリカを囲んでいた四基の装置は初めて見る型だった。
だが、あれを作った側の癖までは初めてではなかった。
* * *
新兵器への対処を続けていた、ある日のことだった。
現場から戻った翔は、風紀委員会の詰所で缶コーヒーを片手に休んでいた。
大きな怪我こそなかったものの、朝から動き回っていたせいで身体にはじわりと疲労が残っている。
向かいではチナツが回収した医療用品を整理していた。
「そういえば」
「ん?」
「連邦生徒会に、外から大人の方が来たらしいですよ」
何気ない一言。
けれど翔の手が僅かに止まった。
「……大人?」
「はい。詳しいことまでは私も知らないんですけど、『先生』と呼ばれているとか」
「先生……」
その言葉だけが、妙にはっきり耳に残った。
チナツが不思議そうに翔を見る。
「何か気になることでも?」
「いや……」
翔は缶を軽く振ってから首を横へ振った。
「ちょっと引っかかっただけ」
「そうですか?」
チナツはそれ以上追及しなかった。
翔も詳しく話すことはできない。
ただ、頭の中ではゲームをしていた頃の記憶が動いていた。
キヴォトスへ外から来た大人。
先生。
聞き間違えるような呼び方ではない。
(……来たのか)
それなら、自分が知っているいくつかの出来事が近い時期に動き始める可能性もある。
そんなことを考えはした。
ただ、その時の翔はまだゲヘナで急増する疑似メモリ兵器の方へ意識を向けていた。
いつか顔を合わせることがあるかもしれない。
その程度に考えていた。
まさか初対面が、誘拐された生徒を救出する真っ最中の戦場になるとは思っていなかったし、自分が仮面を被ったまま指示を受けることになるとも思っていなかった。
* * *
疑似メモリ兵器の流通は、それからも止まらなかった。
風紀委員会が押収する数は増えている。
取り締まりも強化している。
それでも別の場所で、別の型が見つかる。
やがてアコたちが流通経路を調べる中で、一つの問題が浮かび上がった。
兵器の出所が、ゲヘナ自治区内だけでは完結していない。
「翔、頼みたいことがある」
ヒナからそう言われたのは、その頃だった。
風紀委員会の執務室。
机の上には複数の資料が広げられている。
翔はそれを見る前に、少しだけ嫌そうな顔をした。
「また?」
「翔さん」
すぐ横にいたアコの眉がぴくりと動く。
「その言い方だと、私たちがいつも仕事を押し付けているみたいじゃないですか」
「最近ここ来ると、大体何か頼まれるんだけど」
「それだけ頼りにしているということです」
「アコが言うと、仕事増やすための理屈に聞こえるな」
「翔さん?」
「はい、すみません」
ヒナが二人を見ながら、小さく息を吐いた。
「仲良いね」
「どこがだよ」
「委員長も余計なことを言わないでください!」
アコが即座に反応する。
そのやり取りが収まるのを待ってから、ヒナは机の上の資料へ指を置いた。
押収地点。
確認された兵器の種類。
運び込んだと思われる車両。
仲介業者。
そして複数の情報を結んだ線は、途中からゲヘナ自治区の境界を越えていた。
「ここから先を、風紀委員会がまとまって追うのは少し難しい」
「他の自治区だから?」
「それもある」
ヒナは頷く。
「こちらが大人数で動けば目立つ。それに、相手が風紀委員会の動きを警戒しているなら、兵器も流通経路も隠されるかもしれない」
「なので」
アコが続ける。
「学園組織に所属していない翔さんに、自治区外まで流通経路を追ってもらいたいんです」
翔は資料へ視線を落とした。
「正式な依頼?」
「はい」
アコは迷わず答えた。
「必要経費はこちらで負担します。調査に必要な装備も、こちらで準備できる範囲なら用意します」
単なる頼み事ではない。
風紀委員会が正式に翔へ任せる仕事。
それだけ、ヒナたちも今回の流通を重要視しているということだ。
翔は一枚ずつ資料へ目を通す。
今まで相手にしてきた兵器。
カイザーで見た技術。
そこから自治区の外へ伸びている痕跡。
放っておく理由はなかった。
「……分かった」
翔は顔を上げた。
「引き受ける」
「ありがとう」
ヒナが静かに頷く。
「必要なものはありますか?」
アコに尋ねられ、翔は少し考えた。
「今借りてる端末と無線、自治区の外でもそのまま使える?」
「通信自体は問題ありません」
アコは答えながら、自分の端末を操作する。
「ただし、今回の調査資料へアクセスできるよう、翔さんの端末側の権限を更新しておきます。外部から確認できる情報にも制限がありますから、その範囲はこちらで整理します」
「じゃあ、それ頼む。押収品の資料もできるだけ見られるようにしてほしい」
「分かりました。他には?」
「携帯できる測定器が欲しい。電磁波を拾えるやつ」
チナツが少し首を傾げた。
「疑似メモリ兵器を探すためですか?」
「直接見つけられるほど便利じゃないけどな」
翔は頷く。
「あの兵器、動いてる時のノイズに少し癖がある。近くで使われてれば、手掛かりくらいにはなると思う」
「なるほど」
アコは入力を続ける。
「では携帯用の測定器と予備電源も手配します」
「助かる」
必要なものは、それで大体揃う。
そう思ったところで、翔はもう一つ大きな問題が残っていることに気づいた。
「……あとさ」
「はい?」
「移動、どうしよう」
三人の間に、ほんの少しだけ沈黙が落ちた。
* * *
「他の自治区まで?」
「ああ」
その日の夜。
営業を終えた喫茶店「ひだまり」には、昼間までの賑わいが嘘のような静けさが戻っていた。
テーブルは片づけられ、椅子も整えられている。厨房では最後の洗い物も終わり、店内にはまだ微かにコーヒーと焼き菓子の香りが残っていた。
翔はカウンター席に座り、向こう側にいるマスターへ今日の話を伝えていた。
風紀委員会から、疑似メモリ兵器の流通経路を自治区の外まで追ってほしいと正式に頼まれたこと。
まずブラックマーケット周辺を調べることになるだろうこと。
そして、その先にカイザーがいる可能性が高いこと。
今の二人の間では、わざわざ隠すような話ではなかった。
「ブラックマーケットまでは行くことになると思う」
「その先は?」
「痕跡次第だな」
「そうか」
「だから……何日か戻れない可能性もある」
ニャン次郎は短く頷いた。
それを見て、翔は少しだけ言葉を止める。
調査へ行くこと自体に迷いがあるわけではない。
疑似メモリ兵器がカイザーの研究と繋がっている可能性がある以上、放置するという選択肢は最初からなかった。
それでも、引っかかることはある。
「……店、大丈夫か?」
ニャン次郎が顔を上げる。
「店?」
「俺、ここで住み込みで働かせてもらってるだろ」
翔は視線を店内へ向けた。
「何日もいなくなったら、その分マスターの仕事増えるし。朝の仕込みも、接客も、片づけも……」
今の翔にとって「ひだまり」は、単に寝泊まりさせてもらっている場所ではない。
朝になれば起きて店を開ける準備をする。
マスターと一緒に仕込みをする。
客を迎える。
キララやエリカがふらりと遊びに来ることもある。
仕事が終われば、そのままここへ帰ってくる。
キヴォトスへ突然放り出された翔にとって、いつの間にかここは生活の中心になっていた。
働く場所であり。
帰ってくる場所でもある。
だから自分の事情で何日も空けるとなれば、気にならないはずがなかった。
「翔」
「ん?」
「お前がいなかった頃は、誰がこの店をやってたと思ってる」
「……マスター」
「なら問題ない」
「いや、一人になったら大変だろ」
「少し忙しくなるだけだ」
「それを大丈夫って言っていいのか?」
「必要なら営業時間も調整する。仕込みの量も俺が考える」
ニャン次郎は当たり前のように言った。
「店のことは俺に任せろ」
「……」
「お前は、自分で引き受けた仕事をちゃんとやってこい」
翔は黙る。
ニャン次郎はそこで少しだけ声を柔らかくした。
「それとも、店が気になるから調査を断るのか?」
「いや」
そこだけはすぐに答えた。
「それはしない」
「なら決まりだ」
翔はしばらくカウンターを見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……ありがとう、マスター」
「礼は帰ってきてから聞く」
「まだ行ってもないのに?」
「だから無事に帰ってこいと言ってる」
「分かったよ」
「返事が軽い」
「ちゃんと帰ってくるって」
「ならいい」
そこでニャン次郎は話を切り替えた。
「で、どうやって行く?」
「……そこなんだよな」
翔は頭を掻く。
「公共交通だけじゃ追える場所に限界あるし、毎回風紀委員会に車を出してもらうんじゃ、俺を一人で動かす意味も薄くなるし」
「だったら、ちょうどいい」
「何が?」
ニャン次郎は答えなかった。
カウンターから離れると、そのまま店の奥へ入っていく。
「マスター?」
しばらくして戻ってきた黒猫の手には、一本の鍵があった。
見覚えはない。
「何の鍵?」
「来い」
「え?」
ニャン次郎はそれだけ言って、裏口へ向かった。
翔も首を傾げながら後を追う。
店の裏手。
そこには普段ほとんど開けられることのない古い車庫があった。
ニャン次郎が扉を開ける。
軋んだ音とともに、薄暗い内部へ外の光が差し込んだ。
そして。
「……おお」
翔は思わず声を漏らした。
車庫の中に、一台の大型バイクが置かれていた。
黒を基調とした車体。
低く前へ伸びたフロント。
大きなエンジンを抱えながらも、全体の輪郭は無駄なく前方へ絞られている。
ハンドル位置も低く、跨れば自然と身体が前へ傾くだろう。
高速走行を前提とした、明らかなスポーツタイプ。
長く動かされていないのか車体には薄く埃が積もっていたが、放置されていたわけではない。タイヤもひび割れておらず、金属部分もきちんと手入れされている。
「……マスター、バイク持ってたのか?」
「昔乗ってた」
「初耳なんだけど」
「聞かれなかったからな」
「いや、そうだけどさ……」
ニャン次郎が持ってきた鍵を差し出す。
「足が要るんだろ」
翔は鍵を見る。
次にバイクを見る。
そして、もう一度マスターを見る。
「……これ、大型だよな?」
「見れば分かるだろ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
翔は黒い車体へ目を戻した。
「俺が大型乗れるって覚えてたんだな」
「前に話しただろ」
「……そういや、話したっけ」
「普通二輪を取った時、親父さんに安全運転で散々釘を刺されたって話までしてたぞ」
「そこまで覚えてるのかよ」
「大型も取ってるって言ってただろ」
「言ったけどさ……」
何気ない雑談の中で一度話しただけのことだった。
それをマスターが覚えていたことの方が、翔には少し意外だった。
「お前の話くらい覚えてる」
「……そっか」
翔は改めてバイクを見る。
大型車そのものに乗った経験はある。だが、自分のバイクを持ったことはこれまで一度もなかった。
「乗れないなら最初から渡さん」
ニャン次郎が言う。
「……まあ、乗れるけど」
「なら問題ない」
「いや、まだ何も決まってないからな?」
「そうか」
ニャン次郎は鍵を翔へ差し出したまま言った。
「やる」
「……え?」
「このバイクを、お前にやる」
今度こそ翔は言葉を失った。
「いや、ちょっと待って。さすがにこれは――」
「翔」
「……」
「必要なんだろ?」
声はいつもと変わらない。
恩着せがましさもなければ、大げさなことを言うつもりもない。
ただ翔に必要だから渡す。
ニャン次郎にとっては、それだけなのだろう。
「……必要だけど」
「なら使え」
「でも、マスターが乗ってたんだろ?」
「今はもうほとんど乗らん。置いたままにしておく方がもったいない」
翔は再び黒い車体を見る。
簡単に受け取っていい物ではない気がした。
けれど、目の前の相手が半端な気持ちで差し出していないことも分かる。
「……本当にいいのか?」
「ああ」
ニャン次郎は迷わなかった。
「もうお前のだ」
「…………」
翔はしばらく鍵を見つめてから、それをしっかり握った。
「……ありがとう、マスター」
「だから礼は帰ってきてからだ」
「分かったって」
「それと壊すなよ」
「今までいい話だったのに最後それ!?」
「大事にしてたんだ」
「分かったよ。大事に乗る」
翔がそう答えると、ニャン次郎は満足したように短く頷いた。
* * *
翌朝。
開店準備を始めるにはまだ少し早い時間だった。
翔は「ひだまり」の裏手で、昨夜譲られた黒いバイクに跨っていた。
足を着く。
ハンドルを握る。
大型車に乗ること自体は初めてではない。
けれど、同じ排気量帯でも車種が違えば感覚は変わる。
ましてや、この車体に乗るのは今日が初めてだった。
「いきなり飛ばすなよ」
少し離れたところで、ニャン次郎が腕を組んでいる。
「分かってるって」
翔はキーを回した。
エンジンが目を覚ます。
低く太い音が、静かな朝の裏通りに響いた。
「……結構来るな」
「大型だからな」
「それは分かってる」
クラッチを握り、ギアを入れる。
まずはゆっくりと繋ぐ。
車体が前へ出る位置。
アクセルを少し開けた時の反応。
重い車体を低速で支える時の感覚。
翔は一つずつ確かめていった。
店の裏手を出て、人通りのほとんどない短い道路を往復する。
急加速はしない。
深く倒し込むこともしない。
低速で曲がり、停止し、また発進する。
前後のブレーキをそれぞれ軽く使い、効き方も確認する。
数周目になる頃には、最初に感じた車重への戸惑いも少し薄れていた。
翔は再び店の裏へ戻ってくる。
エンジンを切ると、ニャン次郎が尋ねた。
「どうだ」
「……思ったより素直だな」
「だろ」
「何でマスターが得意げなんだよ」
「俺のバイクだったからだ」
「もう俺のなんじゃなかったのか?」
「そうだったな」
「どっちだよ」
翔は笑いながらもう一度車体を見た。
乗れる。
基本操作にも問題はない。
だが、まだ自分の手足のように扱えるわけではない。
それでいい。
父に言われた言葉を思い出せば、むしろ最初から慣れたつもりになる方が危ない。
「しばらく走って、ちゃんと癖覚えないとな」
「それでいい」
ニャン次郎は短く頷いた。
「壊すなよ」
「またそれかよ」
「大事だからな」
「はいはい」
「返事は一回」
「……最近それ言う奴多いな」
翔は小さく笑った。
* * *
「……それで調査に行くんですか?」
その日のうちに。
翔が黒い大型バイクで風紀委員会の施設へ乗りつけると、アコは開口一番そう言った。
「マスターにもらった」
「そこは聞いていません」
「結構いいだろ?」
「格好の話もしていません」
アコはバイクの周囲を歩きながら、タイヤや車体下部へ視線を落とす。
「翔さん、大型は乗れるんですよね?」
「免許もあるし、前にも乗ったことはある」
「この車種には?」
「昨日もらったばっかり」
「……でしょうね」
「何だよその顔」
「いえ。少なくとも、初めて大型に跨った人がここまで普通に来たわけではないと分かったので安心しました」
「そこから疑われてたのか?」
「確認は必要です」
アコは再びタイヤへ目を落とした。
「舗装路を走るだけなら問題ないでしょうけど」
「だけど?」
「今回、ブラックマーケット周辺まで行くんですよね」
「その予定」
「場所によっては荒れ地もあります。さらに調査先がその先へ伸びる可能性もある」
「まあ、そうだな」
「なら、そのまま行かせるわけにはいきません」
「普通に走れると思うけど」
「翔さん」
「はい」
「整備班に回します」
「即決だな」
「当然です」
そこへヒナも歩いてきた。
黒い車体を一度見てから、アコの言葉に頷く。
「私も、その方がいいと思う」
「ヒナまで?」
「途中で壊れて、連絡も取れなくなったら困るから」
「俺が?」
ヒナが一拍だけ止まった。
「……こっちが」
「それどういう意味?」
「心配するって意味です」
アコが横から答えた。
「翔さんは時々、そういうところだけ妙に鈍いですね」
「何で俺が責められてるんだよ」
結局、バイクはその日のうちに風紀委員会の整備班へ預けられた。
完全なオフロード車へ作り替えるのではない。
元々持っている舗装路での高速巡航性能と、スポーツバイクらしい前傾したシルエットはできるだけ残された。
その代わり、任務で荒れ地へ入っても問題が起きないよう、足回りにはかなり手が入った。
サスペンションの調整。
荒れた路面でも食いつきを失いにくいタイヤ。
最低地上高の確保。
車体下部を守るアンダーガード。
吸気系を中心とした防塵処理。
長距離移動を想定した工具や予備燃料の積載。
さらに、すでに翔へ貸し出されていた無線機や携帯端末を移動中でも扱いやすいよう、通信補助機器も追加された。
数日後。
整備を終えた車体を受け取りに来た翔は、その場でしばらくバイクを眺めた。
「……マスターにもらったばっかりなんだけど」
「何ですか?」
「結構変わってない?」
「必要な範囲です」
アコは平然と答える。
「本当に?」
「見た目はほとんど変えていません」
「その『ほとんど』がちょっと怪しいんだよな」
「文句があるなら元へ戻しますか?」
「いや、それは困る」
「なら問題ありません」
アコは満足そうに頷いた。
翔は改めて黒い車体を見る。
マスターから譲られた時の輪郭はそのままだ。
だが、足元や細かな部分には明らかに手が入り、前よりもずっと無骨な雰囲気が増している。
「……乗ってみていい?」
「そのために来たんでしょう」
「じゃあ行ってくる」
「いきなり遠くまで行かないでくださいよ」
「分かってるって」
翔はヘルメットを被り、再びバイクへ跨った。
整備前とは感覚が違う。
車高。
足回りの反応。
低速でハンドルを切った時の重さ。
タイヤから伝わる感触。
最初は施設内の舗装された区画を低速で走り、ブレーキと加速を確かめる。
そのあと整備班が用意した荒れた路面にも入り、砂利や浅い砂の上で車体がどう動くのかを確認した。
「……おっと」
舗装路と同じ感覚で曲がろうとした瞬間、後輪が僅かに流れる。
翔は慌てて力で押さえ込まず、アクセルを戻しすぎないよう気をつけながら車体を立て直した。
危ないほどではない。
けれど、やはり違う。
舗装路で問題なく乗れるからといって、荒れ地でも同じように扱えるわけではない。
戻ってきた翔を、アコが待っていた。
「どうでした?」
「舗装路は前より楽。荒れ地は……慣れが要るな」
「最初からそう言っているでしょう」
「分かったよ」
「調査中に無理をしないでくださいね」
「ああ」
翔は素直に頷いた。
それから実際に自治区の外へ出て、ブラックマーケット周辺を走る日々が始まった。
長い舗装路。
崩れかけた旧道。
砂利。
荒れた路面。
時には短い砂地。
走るたびに、翔は少しずつ車体の癖を覚えていった。
タイヤがどこまで食いつくのか。
路面が荒れている時、どの程度速度を落とせば安定するのか。
重い車体を無理に振り回さず、どこで力を抜けばいいのか。
そうした積み重ねがあったからこそ、アビドスへ入る頃には、最初よりずっと落ち着いて荒れた道を走れるようになっていた。
それでも、まだ完璧ではない。
だからこそ翔は、路面をよく見て走った。
* * *
そこから先の調査は、派手な戦闘とは正反対だった。
ブラックマーケットへ出入りする売人。
名義の違う運送業者。
武器そのものではなく、輸送に使われていた梱包材。
押収品に残された管理番号。
同じ業者が扱っていた交換部品。
一つひとつは、単独なら大した意味を持たない情報だった。
けれど、それらを風紀委員会から受け取った資料と照らし合わせていくと、少しずつ流れが見えてくる。
ゲヘナで出回っていた疑似メモリ兵器の一部は、ブラックマーケットを経由している。
しかも、すべてがゲヘナへ向かっているわけではなかった。
別方向へ送られているものがある。
それも、少量ではない。
ブラックマーケットの片隅。
人通りの少ない場所で支給端末を確認していた翔は、一つの地名で指を止めた。
「……アビドス」
その名前を見た瞬間だった。
それまで調査で集めてきた現実の情報と、翔自身が持っている記憶が重なった。
アビドス。
カイザー。
砂に呑まれつつある自治区。
学校が抱えている莫大な借金。
そこへ食い込んでいた巨大企業。
そして現在、自分たちが追っている兵器は、カイザーが手を出していたガイアメモリ研究とよく似た痕跡を持っている。
その兵器が、まとまった数でアビドス方面へ流れている。
「……カイザーか」
翔の中では、かなり確信に近かった。
ゲームで知っていたことだけなら、ここまで決めつけはしなかっただろう。
だが今回は違う。
実際にゲヘナで兵器を確認している。
構造も調べた。
流通経路も追った。
その先がアビドスへ続いている。
ここまで揃って、すべて無関係だと考える方が不自然だった。
(カイザーが絡んでる。それは間違いないと思っていい)
ただし。
何を目的にしているのかまでは分からない。
ゲームで見た出来事をそのまま当てはめるわけにもいかなかった。
疑似メモリ兵器など、翔が知っていたアビドスには存在しなかったからだ。
(何を変えようとしてるのか……そこまでは現地で見ないと分からないな)
だから翔は、そのまま調査範囲をアビドス方面へ広げた。
そして。
情報だけではなく、実物とも出くわすことになった。
* * *
アビドスへ伸びる街道にほど近い一帯。
そこで翔は、ヘルメットを被った少女たちが見慣れない武器を持っているのを見つけた。
一目で分かった。
ゲヘナで何度も対処してきた疑似メモリ兵器と同系統だ。
翔はすぐには近づかなかった。
生身の自分とジョーカーを結びつけるようなことは避ける必要がある。
一度その場を離れ、人目と視線が完全に切れる場所まで移動する。
そこでロストドライバーを装着した。
ジョーカーとなって戻り、まず武器を置くよう警告した。
しかし、少女たちは見知らぬ黒い仮面の男の言葉を素直に聞くほど無防備ではなかった。
銃口が向けられた。
結果として、戦うことになった。
それでも翔が狙ったのは、少女たちではない。
銃身。
制御部。
外装の継ぎ目。
実戦の中で覚えてきた癖を利用し、疑似メモリ兵器だけを優先して破壊していく。
相手を必要以上に傷つける必要はない。
最後の一つが火花を散らして沈黙した頃には、少女たちは完全に戦意を失っていた。
「……やっぱり、こっちまで来てる」
破壊した武器を見下ろしながら、翔は小さく呟いた。
ブラックマーケットで掴んだ情報は正しかった。
疑似メモリ兵器は、すでにアビドス方面へ実際に流れ込んでいる。
翔はその場を離れ、さらに調査を続けた。
その後、同じ場所をアビドスへ向かっていた先生が通りかかり、ヘルメットを被った少女たちから『仮面ライダー』について聞くことになる。
だが、そのことを翔は知らない。
そして今日。
さらにアビドスの奥で、今までゲヘナで見てきたものとは明らかに規模の違う装置を目にした。
セリカの周囲を囲んでいた四基の拘束装置。
それらを一括で制御する端末。
そして、最大出力の衝撃波を撃ち出した大型兵器。
もう偶然などという言葉では片づけられなかった。
* * *
「……っと」
翔は現実へ意識を戻した。
目の前には、マスターから譲られ、風紀委員会の整備班によって今回の任務向けに調整された黒いバイクがある。
その向こうには、乾いたアビドスの砂漠が広がっていた。
先生がキヴォトスへ来たばかりで。
その先生が、もうアビドスにいる。
それなら――。
(やっぱり、この辺りなんだ)
翔はゲームをしていた頃に見た出来事を思い出す。
アビドスとカイザーの関係が大きく動く時期。
だが現実には、そこへ疑似メモリ兵器という、自分の記憶には存在しなかったものまで入り込んでいる。
知っていることは手掛かりになる。
けれど、答えそのものにはならない。
「……離れるのは、まずいな」
翔は耳に装着していた無線機へ指を触れた。
「アコ、聞こえるか?」
短いノイズ。
すぐに返事が来る。
『聞こえています。随分遅かったですね、翔さん』
「悪い。ちょっと面倒な現場に出くわした」
『……その言い方、嫌な予感しかしないんですが』
「当たり」
『当たりじゃありません』
即座に返された言葉に、翔は思わず笑った。
しかし、報告へ入ると表情を引き締める。
「アビドスで例の兵器を確認した」
『数は?』
「小型の拘束装置が四基。それとは別に大型が一つ」
『大型?』
アコの声色が変わる。
「今までゲヘナで見たのとは規模が違う。衝撃波を撃ち出すタイプだった。出力もかなり高い」
『使用者は?』
「どっちも外部から操作する機械だった。人間にメモリを使うタイプじゃない」
『……やはり、疑似メモリ兵器ですか』
「構造までは回収できてないけど、間違いないと思う」
翔は先ほどの物流施設を思い返す。
「それと、拘束装置の方は複数を一つの制御器で同期させてた。中央制御を潰しても本体側で操作できる構造だった」
『ゲヘナで確認した型と同じ設計思想ですね』
「ああ」
「ブラックマーケットで追った流れとも一致してる」
『では……』
翔は砂漠の向こうへ視線を向けた。
「カイザーが絡んでる。たぶん間違いない」
通信の向こうで少し沈黙があった。
『……分かりました』
先ほどまでの軽いやり取りは完全に消えている。
『現場の詳細は端末から送ってください。こちらで整理して、ヒナ委員長にも共有します』
「頼む」
『では、一度ゲヘナへ戻って――』
「いや」
『はい?』
「俺、このままアビドスに残る」
今度は、先ほどより少し長い沈黙。
『理由を聞いても?』
「大型兵器まで出てきた。あの物流施設一か所だけで全部終わったとは思えない」
『……』
「それに、疑似メモリ兵器があれだけまとまって流れ込んでる。カイザーが何かやってるなら、まだ続きがあるはずだ」
口にしたのは、現実の調査だけで十分導き出せる理由だった。
けれど翔の中には、もう一つある。
先生が来たばかりなのに、すでにアビドスで対策委員会と行動している。
なら、自分がゲームで見た出来事も、この場所で間もなく大きく動く可能性が高い。
ただ、その中身が記憶通りだとは思わない。
今日だけでも、すでに違う。
セリカを狙った拘束装置も。
大型疑似メモリ兵器も。
そこへ自分が介入したことも。
翔の知っていた状況には存在しなかった。
(知ってるから帰るんじゃない)
(知ってるからこそ、ここで実際に何が起きてるのか見ないと駄目だ)
『……分かりました』
やがてアコが答えた。
『現地調査の継続を正式にお願いします』
「いいのか?」
『翔さんがそこまで言うなら、いったん戻してから再度向かわせる方が非効率です』
「助かる」
『ただし』
「……何?」
『毎日連絡してください』
「毎日?」
『当然です』
「そこまでしなくても――」
『翔さん』
「はい」
『毎日です』
「……分かったよ」
『返事が軽いです』
「ちゃんとするって」
『それと、無茶はしないでください』
「分かってる」
『その返事が一番信用できないんですが』
「ひどくない?」
『過去の実績です』
「反論しづらいな……」
無線越しに、アコの小さなため息が聞こえた。
『宿も確保してください。野宿で済ませようとしないように』
「まだ何も言ってないだろ」
『翔さんならやりかねません』
「……信用ないなあ」
『信用しているから言っているんです』
翔は少しだけ黙った。
「それ、ヒナにも似たようなこと言われたな」
『なら二人分ちゃんと聞いてください』
「はいはい」
『返事は一回』
「イオリかよ」
『……もう切りますよ?』
「悪かったって」
そこで通信が切れた。
翔はしばらく無線機へ触れたまま立っていた。
それからバイクを見る。
「……宿、か」
言われてみれば当然だった。
調査が何日続くか分からない。
バイクもある。
ロストドライバーもメモリもある。
風紀委員会から預かっている端末や測定器も管理しなければならない。
野宿を続けながら調査するより、拠点を一つ作った方がいい。
「探すか」
翔は再びバイクへ跨った。
* * *
夕方。
翔はアビドス自治区の外れで、まだ営業を続けている小さな宿を見つけた。
かつてはもっと利用客がいたのだろう。
二階建ての建物にはいくつもの客室が並んでいるものの、外から見える窓の大半は暗い。
看板の文字もところどころ色が抜け、玄関脇には風で運ばれてきた砂が薄く積もっている。
それでも、完全に荒れているわけではなかった。
窓はきちんと磨かれている。
玄関周りも掃除されている。
建物そのものも古いながら、今も客を迎えられるよう手入れされ続けていた。
裏手には、小さいながら屋根の付いた駐車スペースもある。
バイクを置くには十分だった。
翔はひとまず数日分の部屋を取った。
割り当てられた二階の客室は質素だった。
シングルベッド。
小さな机と椅子。
最低限の収納。
壁際には古い空調設備。
簡素ではあるものの、身体を休めるには問題ない。
窓を開けば、夕日に染まり始めたアビドスの街並みが見えた。
翔は荷物を下ろし、まず机の上へ風紀委員会から借りている端末を置いた。
その横に携帯用の測定器。
無線機。
そして、念のため外から見えない位置を確認してからロストドライバーを置く。
ジョーカーメモリ。
ヒートメモリ。
最後に、ブラックマーケットから辿ってきた情報を端末へ表示した。
画面に残っている地名。
――アビドス。
翔は椅子の背もたれへ身体を預ける。
「……しばらく、ここが拠点だな」
そう呟いてから、ふと思い出した。
「……マスターにも連絡しないと」
当初の予定より帰りが遅れるどころか、数日はアビドスへ残ることになった。
店のことを任せろと言われたばかりなのに、何も言わずに帰らなければ、さすがに怒られる。
翔は端末を操作した。
数度の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が返ってくる。
『翔か』
「うん。今大丈夫?」
『店は閉めたところだ。どうした』
「調査のことでさ」
翔は簡潔に今日分かったことを伝えた。
アビドスで、今までより大規模な疑似メモリ兵器を確認したこと。
カイザーの関与がかなり濃くなったこと。
そして、風紀委員会とも相談して、そのまま現地調査を続けることになったこと。
『そうか』
ニャン次郎は最後まで口を挟まずに聞いていた。
「だから、何日か店に戻れない」
『分かった』
「……ごめん。最初に言ってたより長くなりそうで」
『出る前に何を言った』
「え?」
『店のことは俺に任せろと言っただろ』
「……そうだけど」
『なら気にするな』
即答だった。
『必要なことを調べてこい』
「マスター」
『ただし』
「うん?」
『無茶して帰れなくなるなよ』
翔は少し笑った。
「アコにも同じようなこと言われた」
『なら余計に守れ』
「そんなに信用ない?」
『信用してるから言うんだ』
「……そっちもそれ言うのか」
『何の話だ』
「いや、何でもない」
翔は窓の向こうを見る。
「ちゃんと帰るよ」
『ああ』
「バイクも壊さない」
『それは絶対に守れ』
「俺より食いつき強くない!?」
『大事にしてたんだ』
「分かってるって」
通信の向こうから、僅かに鼻を鳴らすような音がした。
『じゃあな。何かあったら連絡しろ』
「うん。おやすみ、マスター」
『おやすみ』
通信が切れた。
静かになった部屋で、翔は少しだけ端末を見つめた。
それから椅子ごと窓の方へ身体を向ける。
今日、実際に顔を合わせた者たちが思い浮かんだ。
巨大な盾とショットガンを自在に使い、攻めながら守り、守りながら次の攻撃へ繋げていたホシノ。
ライフルと小型ドローンを同時に操り、一人で二つの射線を作っていたシロコ。
拘束を解かれた直後だというのに、怒鳴る元気だけは誰よりも残っていたセリカ。
そして、先生。
名前も。
立場も。
どんな人物なのかも。
ゲームを通して知っているつもりだった。
けれど実際に目の前へ現れた彼女たちは、画面越しに知っていた存在とは違う。
声の大きさ。
視線。
呼吸。
戦い方。
誰かを心配した時の表情。
怒った時の言葉。
そんなものまで、ゲームの記憶だけで分かるはずもなかった。
それに。
先生がキヴォトスへ来たばかりで、もうアビドスにいる。
自分の記憶から考えれば、この場所でこれから大きな動きが起こる可能性は高い。
だが、その道筋はすでに変わり始めている。
疑似メモリ兵器。
セリカの誘拐。
大型兵器。
そして、自分。
知っている出来事を覚えていることは、きっと役に立つ。
けれど、それだけを信じて動くわけにはいかない。
「……だったら」
翔は机の上の端末へ目を落とした。
そこにはブラックマーケットから続く流通記録と、何度も目にしたカイザー関連の情報が並んでいる。
「ちゃんと、自分の目で見ないとな」
窓の向こうでは、夕日が砂の街へゆっくりと沈んでいく。
昼間の熱を残した風が、遠くで砂を巻き上げていた。
アビドスの夜は静かだった。
けれど、その静けさの下で何かが動いている。
翔はもう、それを確信していた。