青の記録 ―二つの記憶が交わる時― 作:きままに投稿
「今は、いつなんだい?」
静かな問いが、古びた部屋に落ちた。
目覚めたばかりの少年には、混乱した様子がほとんど見られない。自分を取り囲む見知らぬ人間たちと、記録されている状態から大きく劣化した施設。その二つを見比べ、まずは自分の知る情報と現状の食い違いを確かめようとしているようだった。
先生は、目の前の少年を改めて見た。
「えっと……その前に」
さすがに視線の置き場所に困りながら、先生は少年の肩に掛けられたブランケットを指差した。
「もう少しちゃんと身体を隠そうか」
「身体?」
少年は不思議そうに首を傾げた後、自分の姿を見下ろした。そこでようやく、今の自分がどういう状態なのか理解したらしい。
「なるほど。衣服がない」
「気づいてなかったの!?」
背中を向けたままモモイが叫ぶ。
「衣服の有無は、今のところ活動に支障を与えていない」
「そういう問題じゃないよ!」
ミドリも顔を赤くしたまま言い返す。
少年は二人を交互に見た。彼女たちが何を気にしているのか、まだよく分かっていないようだった。
「……興味深いな」
「何が!?」
「君たちは、僕の身体そのものには危険性を感じていない。なのに直接見ることを避けている。生理的な防御反応ではないようだし――」
「分析しなくていいから!」
モモイの声が研究室に響いた。
「これは分析するまでもありません!」
アリスが胸を張る。
「裸で人前に出ると、みんなが困ります!」
「そうなのかい?」
「はい!」
「なるほど」
少年は素直に頷いた。
「今の情報は僕の記録にはなかった」
「いや、普通そんなの研究資料には書かないからね!?」
先生が思わず突っ込んだ。
少年の視線が先生へ向く。
「つまり社会生活上の常識ということか」
「うん。そう思ってもらえれば……」
「分かった。覚えておこう」
あまりにも素直な返答に、先生は少しだけ面食らった。
知識がない。
けれど、教えれば即座に理解する。
どうやら先ほど読んだ記録の通りらしい。
「服……どこかにないかな」
ミドリが部屋の中を見回す。
「この研究所なら、着替えくらい残ってない?」
「さすがに何百年とか経ってたらボロボロじゃない?」
「何百年かどうかはまだ分からないよ、お姉ちゃん」
「じゃあ何千年?」
「増やしてどうするの……」
「衣類なら、この部屋の隣に保管区画がある」
少年が答えた。
四人と先生の視線が一斉に集まる。
「分かるの?」
「この施設の構造は記録されている。休眠区画を利用する人間用の簡易備品も保管されていたはずだ」
「だったらそれを先に!」
「君たちが聞かなかったからね」
「ぐぬぬ……!」
モモイが言葉に詰まる。
少年は本当に不思議そうだった。嫌味を言ったつもりはなく、尋ねられたことに答えただけらしい。
「じゃあ、まず服を探そう」
先生がまとめる。
「このままでは落ち着いて話せないしね」
「了解です!」
アリスが元気よく返事をする。
少年も頷き、先生たちの後について歩き始めた。
* * *
幸い、少年の記憶していた保管区画は、今もその形を保っていた。
真空に近い状態で密閉されていたおかげか、保管されていた簡易装備の一部は、長い年月を経た今でも使用できる状態だった。少年はその中から衣類を選び、最低限、人前を歩ける格好に着替えることができた。
もっとも、施設の外へ出るまでの仮の服装に過ぎない。本格的な衣類はミレニアムへ戻ってから用意することになるだろう。
「これで問題ないかい?」
着替えを終えた少年が戻ってくる。
「うん! それなら大丈夫!」
モモイがようやく正面から振り返った。
「さっきより百倍話しやすい!」
「百倍?」
「あ、数字は適当」
「……そうか」
一瞬だけ何かを計算しかけたような顔をした少年に、ミドリが苦笑する。
「お姉ちゃんの言葉は真面目に考えなくていいから」
「覚えておこう」
「そこも覚えるんだ……」
ユズが小さく笑った。
先生は部屋の隅にあった椅子をいくつか集め、話をするための場所を整える。少年も促されるまま椅子に腰掛けた。
「じゃあ、改めて話そうか」
先生が全員の顔を見渡すと、少年もこちらへ向き直った。
「僕もその方がいいと思う。現状について確認したいことが多い」
「いっぱいありそうだね」
「少なく見積もっても、現時点で四十二項目ある」
「四十二項目!? 目覚めてからまだ何分しか経ってないと思ってるの!?」
「覚醒してからの経過時間なら――」
「そういう意味じゃない! もうそんなに疑問があるの!?」
「お姉ちゃん、落ち着いて」
ミドリが宥める。
フィリップは少し首を傾げた。どうやら、モモイが何に驚いているのか、まだ理解できていないらしい。
先生はそんな様子を見て、思わず笑ってしまった。先ほど読んだ記録から想像していた姿よりも、目の前の少年はずっと人間らしい反応を見せている。もっとも、その受け答えには少しばかり独特なところがあったが。
「じゃあ、まずはお互い自己紹介からにしよう」
「自己紹介?」
「名前とか、どこから来たとか。そういうの」
「なるほど。個体を識別するための情報交換だね」
「……まあ、間違ってはいないかな」
先生は一度咳払いをした。
「私はシャーレの先生。みんなからは先生って呼ばれてる」
「シャーレ」
少年の目が僅かに細くなる。
「該当情報なし」
「うん。たぶん君が眠った後にできた組織だからね」
「なるほど」
少年は先生を見たまま、さらに尋ねる。
「『先生』は職業名だね。本名ではない」
「そうだね」
「では、君自身の固有名称は?」
「それは秘密」
「どうしてだい?」
「何となく?」
「理由になっていない」
「先生は時々こういう人だから……」
ミドリが困ったように笑う。
「興味深い」
「そこに興味を持たなくていいからね?」
続いて、モモイが胸を張った。
「私は才羽モモイ! ミレニアムサイエンススクールでゲーム開発部!」
「才羽モモイ」
「モモイでいいよ!」
少年が頷く。
「モモイ」
「うん!」
「私は才羽ミドリ。モモイの双子の妹です」
「才羽ミドリ。双子……」
少年はモモイとミドリを見比べた。
「確かに外見的特徴に共通点が多い。遺伝的な――」
「そこまで分析しなくても双子でいいから」
ミドリが苦笑する。
「そうか」
「私は花岡ユズ……同じゲーム開発部です」
「ユズ」
「……うん」
呼び捨てにされ、ユズが少しだけ目を瞬かせる。けれど、特に嫌がっている様子はなかった。
「そしてアリスは、天童アリスです!」
アリスが一歩前へ出た。
「同じくゲーム開発部の部員です!」
「天童アリス」
少年の目がアリスに止まった。
他の三人に向けていた時よりも、少しだけ長くその姿を観察する。
「……君は」
「はい!」
「人間とは異なる構造を持っているね」
「え?」
モモイたちの表情が変わった。
「ちょっと!」
モモイが前に出ようとする。だが、アリスはそれより先に答えていた。
「はい! アリスはロボットです!」
「アリスちゃん……!」
ミドリが戸惑う。
けれど、アリスは気にしていないようだった。
「正確には、アリスにも分からないことがたくさんあります。でも、アリスはアリスです!」
「アリスはアリス……」
少年がその言葉を繰り返す。
「うん。それでいいんだよ」
先生が穏やかに言った。
少年は先生を見る。
「構造上の分類より、本人の自己認識を優先する?」
「少なくとも、人と付き合う時はね」
「……なるほど」
少年の目が再びアリスへ向く。
「君自身がアリスだと定義している。だから君はアリス、か」
「はい!」
「覚えておこう」
アリスが嬉しそうに笑った。
少年は、その笑顔を少し不思議そうに見つめる。どうして彼女が笑っているのか、まだ完全には理解できていないのかもしれない。
「じゃあ次は君の番!」
モモイが少年を指差した。
「僕?」
「そう! 名前!」
「名前……」
少年は少し考えた後、何の迷いもなく答えた。
「PHILIP-01」
「それ、名前なの?」
「正確には個体識別番号だ」
「やっぱり型番じゃん!」
モモイが即座に突っ込む。
「じゃあさ。PHILIPってところは何なの?」
「由来なら記録されている」
少年の返答に、先生も僅かに姿勢を正した。
「僕を構築する際、基礎として使用された遺伝情報。その提供元となった人物に由来する名称だ」
「遺伝情報……?」
ミドリが聞き返す。
「ああ」
少年は、自分自身に関する研究記録を参照するように僅かに目を伏せた。
「園咲来人」
その名を口にした瞬間、先生の表情が僅かに動いた。
「財団Xが保有していた記録に存在する人間だ。僕とは異なる世界に生きていた」
「異なる世界……?」
モモイが首を傾げる。
「この施設の研究員たちが元々いた世界?」
「そう考えていい」
少年は続けた。
「園咲来人は、本名とは別に『フィリップ』という名で呼ばれていた。PHILIP-01という識別番号は、そこから取られたものだ」
「じゃあ……」
モモイが少年を見る。
「その人の遺伝情報を使って、君が作られたってこと?」
「そうだ。少なくとも、僕の生体構造の基礎には彼の遺伝情報が使われている」
「それって、フィリップのコピーなの?」
ミドリが慎重に尋ねる。
「違う」
少年は即答した。そこには迷いがなかった。
「僕は園咲来人ではない」
自分の胸元へ軽く指を当てる。
「彼の人格も、人生経験も、記憶も僕にはない。財団Xが残していた彼についての資料を、知識として参照できるだけだ」
「でも、その人のこと自体は知ってるんだ」
「記録の範囲なら」
「どんな人?」
モモイの質問に、少年は少し考えた。
「ガイアメモリに極めて深く関係していた人物だ。特殊な能力を持ち、財団Xにとっても研究価値の高い存在だった」
そこで一度言葉を切る。
「ただし、それ以上を語ったところで、彼についての記録を読み上げるだけになる。それを僕自身のこととして語るのは正確じゃない」
「……そっか」
ユズが小さく頷いた。
「知ってはいるけど、自分の思い出じゃないんだね」
「ああ」
少年がユズを見る。
「その表現が一番近い」
モモイは腕を組んだ。
「じゃあ、本当の名前は?」
「ない」
「え?」
「PHILIP-01はあくまで個体識別番号だ。人間としての固有名称を与えられた記録は存在しない」
「一度も?」
「少なくとも、僕が参照できる記録にはない」
「うーん……」
モモイが難しい顔になる。
「でもPHILIP-01って毎回呼ぶの長いよね」
「識別上の支障はない」
「そういう話じゃなくて!」
モモイはしばらく考え込んだ。そして、ぱっと顔を上げる。
「フィリップでいいんじゃない?」
少年がモモイを見る。
「……何がだい?」
「君の名前!」
「今の説明を聞いていたかい?」
「聞いてたよ!」
モモイは胸を張った。
「『フィリップ』は元になった人が使ってた名前なんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、そのままフィリップ!」
「論理が一段飛んでいる気がするけど」
「でもPHILIP-01からゼロワンを取ったらフィリップじゃん!」
「お姉ちゃん……」
ミドリが額を押さえる。
だが、モモイは止まらなかった。
「それにさ」
少年を見つめる。
「元の人と同じ名前だからって、同じ人になるわけじゃないでしょ?」
「……」
「君はその園咲来人って人じゃない。でも、君の型番にその名前が使われてる」
一度、自分の言葉を考えるように間を置く。
「だったら、これから君がフィリップって名前を使ったっていいんじゃない?」
少年は黙った。
「アリスだって、名前をもらいました!」
アリスが勢いよく加わる。
「名前があると、みんなに呼んでもらえます!」
「呼んでもらう……」
少年がその言葉を繰り返す。
「そうだよ」
先生が穏やかに続けた。
「研究対象として管理するための番号と、誰かが君を呼ぶための名前は、同じじゃなくてもいいと思う」
「違いは?」
「うーん……」
先生は少し考える。
「名前は、その人自身に積み重なっていくものだから、かな」
「積み重なる?」
「今は元になった人と同じ名前でも、これから君が出会う人たちにとっての『フィリップ』は君になる」
少年の目が僅かに細くなる。
「園咲来人ではなく?」
「うん」
「PHILIP-01でもなく?」
「そう」
先生は笑った。
「君自身のフィリップ」
少年はしばらく何も言わなかった。
自分の内部には、一人の人物についての資料がある。
園咲来人――フィリップ。
自分の基礎となった遺伝情報の持ち主であり、財団Xが記録していた、遥か別の世界に存在した人間。
だが、彼の人生は自分のものではない。彼の記憶も、誰かと交わした言葉も、その時に抱いた感情も、自分のものではなかった。
「フィリップ」
少年が自分で口にする。
一度、音を確かめるように。
「フィリップ」
もう一度。
モモイが笑った。
「うん!」
「どう?」
ミドリが尋ねる。
「気に入った?」
「気に入る、という感覚についてはまだ判断材料が少ないな」
「そこから!?」
「ただ」
少年がモモイを見る。
「PHILIP-01より、君たちが呼ぶには適しているようだ」
「じゃあ決まり!」
「まだ正式に決定したとは――」
「でも嫌じゃないんでしょ?」
モモイが言葉を重ねる。
少年は一瞬黙った。
「……嫌ではない」
「決まりー!」
「お姉ちゃん、強引……」
ミドリが苦笑する。
「それに」
少年は続けた。
「僕は園咲来人ではない」
先ほどよりも、自分自身に確かめるような口調だった。
「ならば同じ名前を使ったとしても、それが同じ人間であることを意味するわけではない」
「うん!」
「君の理屈にも、一応合理性はある」
「一応!?」
「最初の理由が『呼ぶのが長い』だったことを除けばね」
「そこ覚えてたの!?」
「もちろんだ」
モモイが頭を抱える。
ミドリが笑い、ユズも小さく口元を緩めた。アリスも楽しそうに笑っている。
フィリップは、そんな四人を見つめた。
なぜ今、みんなが笑っているのか。まだ完全には分からない。けれど、不快ではなかった。
「……興味深いな」
小さく呟いた。
* * *
「それで」
名前の話がひと段落したところで、フィリップが先生を見る。
「僕の質問に戻ってもいいかな」
「あ」
先生が思い出したように声を上げる。
「そうだった」
「完全に忘れてたでしょ、先生」
「そんなことないよ?」
「目が泳いでいます……」
ユズの指摘に、先生が視線を逸らした。
「まず、現在地についてはある程度推測できる」
フィリップが話を戻す。
「施設そのものが移動していないなら、ここはキヴォトスだ」
「キヴォトスを知ってるんだ」
「当然だ。この施設が建造された時点までに研究員たちが収集し、僕に保存した資料の中には、この世界についての情報も含まれている」
「頭の中に?」
「便宜上、そう考えて構わない」
フィリップは自分の頭を指した。
「研究資料、観測記録、施設情報。それらを整理して、必要な情報を検索し、引き出すことができる」
そこで僅かに間を置く。
「ただし、施設の外について残されている情報は完全なものではない。研究員たち自身が観測したものや、入手できた資料が中心だ」
「じゃあ、昔のキヴォトスのことを何でも知ってるわけじゃないんだ」
モモイが尋ねる。
「そういうことだ」
フィリップは頷いた。
「当時この地に何が存在し、どのような社会が営まれていたのか。断片的な記録はあるが、全体像を復元できるほどではない」
「なるほど……」
ミドリが小さく頷く。
「じゃあ、研究所のデータが全部入ってるの!?」
モモイの目が輝く。
「いや、全部ではない」
すぐに訂正が入った。
「僕に統合されたのは、休眠に入るまでに選別・保存された情報だ。破棄された記録、僕の完成後に発生した出来事、そもそも入力されていない情報は当然分からない」
「じゃあ何でも知ってるわけじゃないんだ」
「そんな存在がいたら、僕も会ってみたいね」
「それは確かに!」
モモイが笑う。
「それに」
フィリップの目に、僅かに楽しげな色が浮かんだ。
「知らないことがあるなら、調べればいい」
「おお……」
モモイが何故か感心した声を出す。
「本を読む。記録を見る。現物を観察する。当事者に聞く。仮説を立てて検証する。知るための方法はいくらでもある」
フィリップは、思いついた方法を挙げるように指を折っていく。
「むしろ、既知の情報しか存在しない方が退屈じゃないか」
「……フィリップ、結構変わってるね」
「そうかい?」
「お姉ちゃんに言われるの、相当だよ」
「ミドリ!?」
先生は小さく笑った。
この少年は知識そのものが好きなのだ。何かを知っていることだけでなく、知らないものを見つけ、それを自分で確かめることに強く惹かれている。
「じゃあ、今のキヴォトスのことも?」
「非常に興味がある」
即答だった。
「僕が持つ断片的な外部記録と、現在のキヴォトスがどこまで繋がっているのか。それすら現時点では判断できない。社会構造、技術水準、人口分布、学術体系、言語の変化――まず現在の情報を集める必要がある」
「また増えた……」
ユズが呟く。
「先ほどの四十二項目を更新する必要があるね」
「今いくつ?」
「六十八」
「増えるの早っ!」
「話している間にも疑問は生じるから当然だろう?」
「このペースだと山を下りる頃には百を超えてそう……」
ミドリの予想に、先生も否定できなかった。
「それで、時間についてだけど」
先生の言葉に、フィリップの表情が少し引き締まる。
先生は、現在キヴォトスで使われている暦と日付について説明した。
しかし、フィリップの持つ時代の記録には、現在の暦と直接照合できる情報が残されていなかった。施設が建造された時期を特定できたとしても、現在までにどれほどの時間が経過したのかを、今すぐ正確に割り出すのは難しい。
「つまり、正確な経過年数はこの場では算出できない?」
「うん」
「施設の劣化状態、地質変化、外部環境、現在の歴史記録を照合すれば推定は可能だろう」
「すぐ調べる気だ……」
ミドリが苦笑する。
「気にならない方が不思議だ」
フィリップは当然のように答えた。
「僕が眠っている間に何が起きたのか。研究員たちはどうなったのか。この施設だけがなぜ残ったのか」
一瞬、声の調子が変わった気がした。
ほんの僅かな違いだったが、先生には先ほどまでの知識を求める時とは、少し違って聞こえた。
「……覚えてるの?」
ユズが尋ねる。
「研究員の人たちのこと」
「記録としてなら」
フィリップは答えた。
「顔。声。名前。研究内容。会話記録。行動ログ。残された私的記録も一部含まれている」
「それって……記憶じゃないの?」
モモイが聞く。
フィリップは少し考えた。
「違うと思う」
「どう違うの?」
「僕自身が経験したものではない」
淡々と、けれどはっきりと言う。
「誰かが見た。誰かが書いた。誰かが記録した。それを僕は知識として参照できる。けれど、その時に感じたものまで僕のものになるわけじゃない」
「……そっか」
モモイの声が少し小さくなる。
「園咲来人について知っているのと同じ?」
ミドリが尋ねた。
「ああ」
フィリップは頷く。
「知っていることと、経験したことは別だ」
そして、彼は研究室の周囲を見回した。
「だから僕は知りたい」
その目が、古びた研究室へ向く。
「記録の先で、彼らに何があったのか」
先生は何も言わなかった。
ただ、その言葉を聞いて、やはりこの少年は、記録を保存するだけの装置ではないと思った。
* * *
施設を出る準備を始めたのは、それからしばらくしてからだった。
ここで確認できる記録は、後日ミレニアム側の協力を得ながら改めて調査することになる。今は、目覚めたばかりのフィリップをこの場所に置いていくわけにはいかなかった。
「フィリップも一緒に来る?」
モモイが、まるで近所にでも誘うような気軽さで尋ねた。
フィリップが彼女を見る。
「どこへ?」
「ミレニアム!」
「ミレニアムサイエンススクール」
フィリップがその名称を繰り返す。
「君たちの所属先か」
「そう!」
「現代キヴォトスの教育機関?」
「まあ、そんな感じ!」
「お姉ちゃん、説明が雑すぎるよ」
「でも間違ってないでしょ?」
「間違ってはいないけど……」
フィリップは少し考える。
「そこへ行けば、現代の資料を閲覧できる?」
「いっぱいあるよ!」
「書籍は?」
「図書館もある」
ミドリが答える。
「技術資料は?」
「たぶんフィリップが喜ぶくらいには……」
「ネットワークは?」
「もちろん!」
モモイが答えるたび、フィリップの表情が僅かずつ変わっていく。
「興味深い」
「あっ」
モモイが指差した。
「今ちょっと行きたくなったでしょ!」
「元々候補には入っていた」
「絶対今ので上がった!」
「客観的な根拠は?」
「顔! 興味持った顔してたもん」
「顔?」
「お姉ちゃん……」
ミドリがため息をつく。
先生は笑った。
「少なくとも、しばらくは私たちと一緒にいた方がいいと思う」
「理由を聞いても?」
「今のキヴォトスのことを何も知らないまま、一人にするのは心配だから」
「僕には相当量の知識がある」
「昔の、それも研究員たちが残せた範囲のものでしょ?」
フィリップが口を閉じた。
「それに、さっき服のことも知らなかったし」
「……」
「お金の使い方は?」
「貨幣制度そのものは理解している」
「今使われている通貨は?」
「不明」
「今の交通ルールは?」
「不明」
「今の法律は?」
「不明」
「キヴォトスでは、生徒が普通に銃を持ち歩いているんだけど、それは知ってる?」
フィリップが先生を見る。
「……何だって?」
先生がにっこり笑った。
「ほら」
「待ってくれ」
初めて、フィリップが明確に食いついた。
「今の発言について詳しく聞きたい」
「そこ!?」
「一般学生が武装している? どの程度の割合で? 制度上許可されているのか? 使用規制は? それに――」
「フィリップ」
先生が止める。
「あとでね」
「しかし――」
「あとで」
「……分かった」
少し不満そうな顔だった。
「今、初めて分かりやすく残念そうな顔したね」
モモイが笑う。
「そんな顔はしていない」
その時だった。
部屋の奥から、小さな電子音が鳴った。
「ん?」
全員が振り返る。
休眠装置の側面。これまで閉じていた収納部のランプが点灯していた。
「フィリップ?」
先生が尋ねる。
フィリップはそちらを見つめ、しばらく状態を確かめるようにしてから口を開いた。
「……なるほど。僕の覚醒を検知して、個人装備のロックが解除されたようだ」
「個人装備?」
モモイが食いつく。
「何それ!」
「僕に割り当てられた装備だ」
フィリップが装置へ近づき、側面に手を触れる。短い認証音の後、収納部が静かに開いた。
その中に収められていたものを見た瞬間、先生だけが息を呑んだ。
一本のメモリ。
鮮やかな緑色のそれと、黒と銀を基調としたベルト型の装置。
「おお!」
モモイが目を輝かせる。
「変身ベルトっぽい!」
「お姉ちゃん、ゲームじゃないんだから……」
「でも見てよ! 絶対それっぽいって!」
「これはロストドライバー」
フィリップが答えた。
先生の目が僅かに見開かれる。
「……ロストドライバー」
「知っているのかい?」
フィリップが先生を見る。
「……少しだけね」
先生は、装置から目を離さなかった。
見覚えがある。あの形を忘れるはずがない。アビドスで翔が使っていたものと同じだった。
けれど、今ここでそれを口にするわけにはいかない。
「そして、こちらは――」
フィリップが緑色のメモリを手に取る。
指先で向きを変えると、そこに刻まれた文字が見えた。
C。
「CYCLONE」
静かに、その名を口にする。
「サイクロンメモリ」
先生の胸の奥で、何かが繋がった。
ガイアメモリ。ロストドライバー。そして、この少年。
「何に使うの?」
モモイが尋ねた。
「護身用だ」
フィリップは、ごく当然のことのように答えた。
「研究員たちは、僕が外部で活動する際に危険へ遭遇する可能性を想定していた。そのために用意された装備らしい」
「その二つで、どうやって身を守るの?」
今度はミドリが尋ねる。
フィリップは手元のロストドライバーへ視線を落とした。
「CYCLONEメモリの情報を、このロストドライバーを介して使用者の身体に反映させる」
「反映?」
「装着者の身体を、戦闘に適した状態へ変化させるんだ」
一拍置いて、モモイの目が大きくなる。
「それって……」
ロストドライバーを見る。
続いてCYCLONEメモリ。
最後にフィリップ。
「本当に変身するやつじゃん!」
「お姉ちゃん、最初は見た目だけで言ってたよね!?」
「結果的に当たってたからいいでしょ!」
「そういう問題かな……」
ミドリが頭を抱える。
その横で、先生だけは笑えなかった。
ロストドライバー。緑色のメモリ。
二つを見つめながら、先生はほんの少しだけ眉を寄せる。先ほどの反応を見られないよう、フィリップがこちらを向く前に視線を外した。
「その装備を使えば、フィリップは今とは違う姿になるのですか?」
アリスが純粋に尋ねた。
「記録上はそうなる」
フィリップが答える。
「使用方法も記録されている」
「では、フィリップは変身できるのですか?」
「できるはずだ」
「見せて!」
モモイが身を乗り出した。
「お姉ちゃん!」
「いいじゃん、ちょっとくらい!」
「必要がない」
フィリップは即答した。
「えー!」
「これは護身用装備だ。現状で使用する理由がない」
「正論……!」
モモイが悔しそうに呻く。
「それに」
フィリップはロストドライバーを見る。
「記録として使用方法を知っていることと、僕自身が実際に使用した経験があることは別だ」
「初めてなんだ」
「そうなる」
フィリップはそれを静かに収納し直した。
「必要になった時に考える」
それだけだった。
装備を手にしたからといって、すぐに使ってみようとするわけではない。彼にとって今のそれは、研究員たちが外で活動する際の安全を考えて用意した道具であり、必要になれば使う。それ以上でも、それ以下でもなかった。
「よし!」
モモイが勢いよく立ち上がる。
「じゃあとりあえず決まり!」
「何がだい?」
「ミレニアムに帰ろう!」
「まだ僕は行くとは――」
「本あるよ!」
「……」
「ゲームもいっぱいある!」
「ゲーム?」
フィリップの目が止まった。
「その単語自体は知っている。だが、現在の娯楽文化についての情報は当然ない」
「よし!」
モモイが拳を握る。
「まずそこからだね!」
「なぜ君がそんなに嬉しそうなんだい?」
「知らないゲームを知るのって楽しいでしょ?」
「……」
フィリップは少し考えた。
そして、小さく頷く。
「確かに。知らないものを知ること自体は、非常に興味深い」
「でしょ!」
モモイが満面の笑みを浮かべる。
「ならフィリップ、ゲーム開発部に来なよ!」
「お姉ちゃん! いきなり勧誘しないの!」
「いいじゃん!」
「まずユウカにも説明しないと駄目でしょ!」
「あ」
「忘れてたの!?」
「ユウカ先輩なら、説明すれば分かってくれると思います!」
アリスが加勢する。
「アリスちゃんまで……」
ミドリが困ったように笑った。
ユズも少し迷ってから、フィリップへ視線を向ける。
「……でも」
「どうしたんだい?」
「来てくれたら……私は嬉しい、かな」
フィリップがユズを見る。
「なぜ?」
「え?」
「僕が行くことで、君にどんな利益がある?」
ユズが困ったように視線を泳がせる。
「利益っていうか……」
しばらく迷ってから、小さく答えた。
「せっかく会えたから」
フィリップは黙った。
「……それだけ?」
「うん」
それだけで、相手に来てほしいと思う。
彼の知っている研究記録や、これまでの説明から導ける合理性だけでは、すぐに理解できる理由ではなかった。
けれど、モモイは自分に名前を付けた。アリスは、名前があるとみんなに呼んでもらえると教えてくれた。ミドリは当然のように自分が外へ出る前提で話をしている。ユズは、会えたから来てほしいと言う。そして先生は、自分を一人にするのが心配だと話していた。
「……そうか」
フィリップは自分の中にある情報を探る。
該当する研究資料はない。完全に一致する行動原理も見つからない。
なら、答えはここにいる彼女たちとのやり取りの中にあるのかもしれない。
「分かった」
フィリップが言った。
「行こう」
「本当!?」
モモイが身を乗り出す。
「ああ」
フィリップは頷いた。
「現代のキヴォトスには、僕の知らない情報が多すぎる」
「そっち!?」
あまりにも真顔で返されて、モモイが一瞬固まる。
そして、すぐに笑った。
「まあいっか!」
フィリップは不思議そうにその笑顔を見る。
名前を呼ばれることの意味も、誰かに来てほしいと言われることの意味も、人と一緒にいることが自分にもたらすものも、まだよく分からない。
けれど、知らないものがあるのなら知りたい。
研究資料には存在しないものを、目で見て、耳で聞いて、自分自身で確かめるために。
「フィリップ!」
出口へ向かいながら、モモイが振り返った。
「早く!」
「……分かったよ」
呼ばれた名前に、今度は迷わず答えた。
古い研究施設の奥で、PHILIP-01は、かつて別の世界で一人の少年が使っていた名を、今度は自分自身の名前として受け取った。
その名前に、これから何を積み重ねていくのか。
それを決めるのは、もう研究員たちではない。
フィリップ自身だった。