よく聞け、いいか、ここをローマ帝国とする! 作:とくめいのネロ
次の話からはネロはしばらくでない予定です。
帝都ローマ、皇帝の執務室。
黄昏時が差し込む刻、執務室の椅子に深く背を預けたネロ・クラウディウスは、ホログラムで浮かび上がる世界地図や資料を、台本でもめくるように眺めていた。
「ネロ様。またそんなお行儀の悪い座り方をして。皇帝になられたからといって、脚の組み方ひとつ教え直さねばなりませんか?」
トレイを手に室内へ入ってきたのは、侍女長のクレアだ。
30代半ばの母のような温かさを持つ彼女は、このローマブリタニア帝国で唯一、ネロに軽口を叩ける存在であった。
「ぬ……クレアか。余は皇帝なのだぞ? もう少し敬意というものを……」
「はいはい、偉い偉いネロ様。
ですが……帝都を陥落させて以降、すっかり雰囲気が変わられてしまって。少し遠くへ行かれてしまったようで、寂しくもあります」
クレアの冗談めかした、けれど切ない眼差し。ネロ(英霊)はそれを静かに受け止めた。クレアは目の前の主が英霊と入れ替わっていることなど知る由もない。だが、幼い頃から愛してきた少女の微細な変化を、直感で感じ取っているのだ。
ネロは心の中で己の深層に眠る「贋作者(もう一人のネロ)」の鼓動を確かめると、不敵な笑みを張り直した。
「ふん、余は余だ! 寂しがる暇があるなら、特注のケーキでも焼いておくが良い!」
「はいはい、仰せのままに、陛下」
軽口を叩いていると、重厚な執務室の扉を叩く音が響き、近衛兵の緊張した報告が届いた。
「皇帝陛下! 旧ブリタニア勢力潜伏地域の探索にあたっていた第参捜索部隊より緊急連絡! 逃亡中であった旧皇族の一人を確保いたしました!」
「ほう、まだ隠れてるものがおったか」
ネロはホログラムの書類から目を離さず、興味なさげに鼻で笑った。
先の帝都陥落の折、ネロは反逆を翻さぬ旧体制の貴族や皇族を容赦なく捕縛・幽閉してきた。敗軍の将を晒し者にするためではない。己の「ローマ」という劇場の安全を脅かす不確定要素を排除し、逃走した旧ブリタニア派への人質として盤上に留め置くためだ。また、オリンポス勢だけでは到底ブリタニアという広大な領土は治められない。懐柔してローマ側とするという目的も勿論ある。
「……皇族は久しぶりであるな、それで、今度は誰だ? また血統の正統性とやらを喚き散らす愚か者か?」
「いえ、……帝都内の学園で一般生徒として身分を隠して通われていたので、発見が遅れておりました。ユーフェミア・リ・ブリタニア皇女殿下にございます。」
その名を聞いた瞬間、ネロの手がピタリと止まった。
ユーフェミア・リ・ブリタニア。
第3皇女。そして——ネロと同い年の異母姉妹であり、かつてネロがブリタニアにいた頃はおそらく最も親しかった少女。
「……なに?」
ネロの黄金の瞳に、微かな光が宿る。
旧ブリタニア派の権力闘争にも加わらず、かといってネロの降臨に迎合することもなく、混乱の帝都から姿を消していた。
近衛兵は少し困ったようにネロに伺い立てる。
「いかがいたしましょう、この間の貴族と同じく、すぐさま取調室へ……」
「尋問にするか、と問いたい顔だな。うつけめ」
ネロは静かに立ち上がり、真紅の外套を払った。
「その必要はない。ユーロブリタニアやニューヨーク(東の旧ブリタニア勢の暫定首都)の貴族どもとはわけが違う。……ユーフェミアを、直接この執務室へ連れてまいれ。余自らが対面しよう」
「イエス・ユア・マジェスティ!」
数刻後。執務室の重厚な扉が開かれ、近衛兵に護衛された少女が一歩を踏み出した。
桃色の美しい髪、優美でありながら芯の強さを秘めた瞳。囚われの身でありながら、その佇まいには皇族としての気品と、どこか世俗から離れた清廉さが漂っていた。
ブリタニア帝都にある学園の生徒服なのはカモフラージュかあるいは。
「……久しぶりですね、ネロ」
近衛兵たちが制する手をすり抜けるようにして、ユーフェミアは真っ直ぐにネロを見つめた。
その声に恐れはない。含まれているのは、眼前の「新皇帝」の真意を探ろうとする強い探究心と、父シャルルを殺害したかつての義姉妹に対する拭えぬ警戒心。そして——ほんのわずかに混ざり合う、再会の喜びであった。
ネロは重厚な執務室の椅子から降りると、ドレスの裾を揺らし、優雅な足取りで彼女の前へと歩み寄った。
かつて同じ時代を過ごした同い年の皇女二人が、今や破滅した旧帝国と新しき『ローマ』の中心として、静かに対峙する。
僅かに緊張感が室内に走る。
「ふむ……傷一つないな。兵どもも、流石に見るからに無害な貴様は丁重に扱ったと見える。良い心がけだ」
ネロはふっと可憐な笑みを浮かべると、傍らにある豪義な椅子を顎で指し示した。
「かけよ、ユーフェミア。貴様は罪人として引きずり出されたのではない。余の客人として、この部屋に招かれたのだからな」
ユーフェミアは一瞬驚いたように大きな瞳を瞬かせたが、やがて悟ったようにネロの進めた椅子へ静かに腰を下ろした。ネロもまたその対面に座ると、優美に脚を組み、深く背もたれに身を預ける。
「さて……まずは再会を喜ぶとするか?」
ネロのあまりにもあっけらかんとした提示に、ユーフェミアの思考は一瞬停止した。
「……え?」
「なんだ、余が姉妹の再会すら喜ばぬ薄情者とでも思ったか?」
呆れたように首をすくめるネロの姿に、ユーフェミアの胸中には渦巻くような混乱が広がる。
目の前にいるのは、帝都を一夜で沈め、父シャルルを死へと追いやった冷酷な新帝国の支配者だ。警戒で身を強張らせていたというのに、投げかけられる言葉と眼差しは、かつて、幼き日に離宮で共に笑い合っていた頃の「姉妹」の温もりそのものだった。
「そんな、ことは……」
動揺を隠しきれず言葉を詰まらせるユーフェミアに対し、ネロは彼女の葛藤をすべて見透かしているかのように、どこか慈哀を孕んだ苦笑を浮かべた。
「まあ、無理も形無しよ。貴様から見れば、余は父を手にかけた裏切り者であろう。今更親しげに接してくれとまでは言わん」
「……」
その言葉に、ユーフェミアはただ静かに唇を噛みしめることしかできなかった。
父を、ブリタニアの日常を壊した張本人だ。怒りや憎しみを向けるべき相手。しかし、彼女が見せる「かつての愛嬌」がユーフェミアの決意を鈍らせていく。
そんな妹の沈黙を責めることもなく、「クレア」と、ネロが後ろを見ずに小さく言うと、後ろ控えていた侍従の女性が何も言わず、ユーフェミアとの間にあるテーブルに素早くもてなしの用意を始める。
「だがな、ユーフェミア。余とて、かつて親しかった姉妹に嫌われて平気なほど、冷血漢のつもりもないのだ。……さあ、昔貴様が好きだった甘い蜂蜜入りの林檎ジュースだ。一緒に飲まぬか?」
従者が静かに捧げ持ったのは、黄金のグラスに注がれた透き通る琥珀色の液体であった。
漂う甘い香りは、まだ幼かった頃、宮殿の庭園でネロが自慢げに振る舞ってくれたあの味そのものだ。
世界が真っ二つに裂け、数多の血が流れる混沌のただ中にあって、この目の前の暴君だけは驚くほどに「ネロ」のままなのだ。その圧倒的なマイペースさと変わらぬ情愛に触れ、ユーフェミアの胸の奥で固く結ばれていた緊張と警戒の糸が、拍子抜けしたようにふっと解けていく。
「……もう。怒るに怒れないじゃないですか、ネロちゃん」
降参したように小さく溜息をつき、困ったような、けれどどこか愛おしそうな苦笑を浮かべるユーフェミア。
「『ちゃん』はよせと昔から何度も言っておろうが、余のことは『ネロ陛下』と呼べとな!」
威厳を繕うように頬を膨らませて抗議するネロの姿に、ユーフェミアの目元からはすっかり棘が消え去っていた。
「……ふふ、もう。冗談になっていませんよ」
差し出された黄金のグラスへ静かに手を伸ばしながら、ユーフェミアは呟いた。
この真紅の皇帝がどれほど世界を揺るがそうとも、二人の間にある絆の温もりだけは、あの頃と何も変わっていないのだと。
かつての過ごした光景が幻視されるような、一瞬の静けさと温もり。
二人の間には、世界を分断した血の冷たさと、確かな絆の残り香が、甘い蜂蜜の香りと共に漂っていた。
数分ほど、他愛もない話をした。
正直、ユーフェミアにとってはそれだけで充分だった。昔の話に花を咲かせる。だが、本題はそこではない。ネロの一言により、辛い現実に引き戻される。
「…それで、愚か者どもがニューヨークで余を『僭称者』と痛罵している最中、貴様はどこで何をしていたのだ? 余を恐れて逃げ回っていた、という顔ではないな」
ネロの問いかけに、ユーフェミアは少し伏し目になり、悲しげに首を振った。
「逃げていたわけではありません。学生の身分で確かめてたのです。……お父様が、いえ、貴方がペンドラゴンに戻ったあの日、あの時から、何が起きたのかを自分の目で。……市民たちの声を、街の様子を」
「ほう? で、どうだったのだ? 余のローマは」
「混乱はありました。でも……人々は貴方の圧倒的な力に驚きながらも、怯えているだけではありませんでした。貴方の掲げる華やかさと力強さに、救われている人たちもいた……」
ユーフェミアはまっすぐにネロの瞳を見返した。その瞳のまっすぐさに、ネロは一瞬だけ懐かしい気やすさを覚える。
「ネロ。私は政治のことは、お姉様のように上手く分かりません。お父様の弱肉強食を掲げる帝国主義も、ずっと悲しかった……。だから、貴方がペンドラゴンを取ったと聞いた時、お父様とは違う世界が来るのかもしれないと、ほんの少し期待したのです」
ユーフェミアの言葉は、飾りがなく、あまりにも純粋だった。
「ですが、世界は今、貴方の起こした争いから大きく変わろうとしています。ブリタニアは割れ、あなたの掲げる「ローマブリタニア」と、東部の「神聖ブリタニア帝国」が対峙しています。ユーロも、中華も、どこも混乱している……。ねえ、ネロ。貴方は本当に、この世界を戦火で包みたいのですか? 貴方の言う『ローマ』とは、ただの支配なのですか?」
試すような、けれどどこか祈るようなユーフェミアの問診。
ネロは一瞬沈黙し、それから低く、けれど部屋中に響くような朗らかな声で笑い出した。
「ハハハハ! 相変わらずだな、ユーフェミア! 貴様のその無垢さとまっすぐさは、この世界にあってまるで劇場の歌姫のようよな」
ネロは笑いを収めると、前傾姿勢になり、黄金の瞳を爛々と輝かせた。
「答えてやろう。余が求めるのは、ちっぽけな覇権などではない。愚かな流血でもない。余が創り上げるのは、世界史上最も美しく、最も絢爛豪華な『劇場(ローマ)』だ!」
「劇場……?」
ユーフェミアの困惑する表情をものともせず、ネロは続ける。
「そうだ! シャルルの築いたあの不細工な世界を踏みつぶし、誰もが余の美学に酔いしれる舞台を作り直しているのだ。……旧ブリタニアの貴族どもが蠢くのも、中華やE.U.が揺れるのも、すべては余の舞台を最高に盛り上げるための前奏曲に過ぎん!」
ネロの豪放な言葉に、ユーフェミアは息を呑んだ。常人であれば「狂気」と切り捨てるような壮大な独善。しかし、その言葉には、一切の嘘も迷いもない圧倒的な熱量が宿っていた。
「そしてな、ユーフェミア」
ネロは立ち上がり、ユーフェミアの前に屈むと、その可憐な手首を優しく、けれど絶対に解けない強さで握りしめた。
「余は貴様を深窓の令嬢扱いはせん。勿論、旧ブリタニアへの見せしめにもせん。貴様のような美しき花を散らすのは、余の美学が許さんからな。貴様には、このペンドラゴンで余の創る『劇場』を特等席で見届けてもらう」
「ネロ……」
「……ユーフェミア、貴様も余の側にいよ。旧きブリタニアの呪縛から解き放たれ、ただの『ユーフェミア』として、余のローマの民となれ」
ユーフェミアは握られた己の手と、目の前の「異母妹」の瞳をじっと見つめた。
そこにあるのは、圧倒的な暴君の覇気。しかしその奥底に——決して触れさせない、けれどどこか切ないほど巨大な「何かを護ろうとする覚悟」が存在することを、ユーフェミアの直感が捉えていた。
「……分かりました」
ユーフェミアは静かに、けれど力強く頷いた。
「私は貴方の身内として、ここに留まります。……でも、ネロ。もし貴方の『劇場』が、人々を理不尽に苦しめるだけのものになったなら……私は逃げずに、貴方を止めます」
「フハハハ! 良い! 実に良いぞユーフェミア! 立ちふさがる者がいてこその主役だ!」
ネロは高らかに笑い、近衛兵に命じてユーフェミアに最高の客室を用意させた。
○
ユーフェミアの足音が廊下の奥へと消え、静寂を取り戻した豪華な執務室。
侍従のクレアはユーフェミアが出ると役割を終えたと言わんばかりに、同時に部屋から退出した。
ガラス越しに差し込む極東の陽光の中、真紅の皇帝ネロ・クラウディウスは、黄金のグラスに残された琥珀色の液体をひとり見つめていた。
その表情から、先ほどまでの絢爛で威風堂々とした色彩がすっと抜け落ちる。
「……む?」
ネロは、己の胸にそっと手を当てた。
黄金の瞳に浮かんだのは、絶対者としての傲慢さではなく、純粋で、どこか腑に落ちない「困惑」であった。
(……奇妙な。先ほどまで余は何と言った……?)
頭脳を巡る記憶を反芻する。
「ネロ(英霊)」としての彼女にとって、この世界の皇族や貴族など、己の黄金の劇場を彩るための有象無象の観客に過ぎない。
ユーフェミア・リ・ブリタニアという少女の記録も、シャルルという男の血を引く一姫として、また贋作者の記憶を遡った時に知古の中であることも知識として存在していた。
だが、思い入れなど、あるはずがなかったのだ。
英霊としての誇りと記憶を持つネロにとって、ユーフェミアは「歴史の片隅に存在する見知らぬ皇女」でしかないはずだった。
それなのに。
(……『姉妹』だ……? 『甘い蜂蜜入りの林檎ジュース』だ……? 『嫌われて平気なほど、冷血漢のつもりもない』……だと……?)
口から滑り出た言葉の数々。
あらかじめ用意した演技でも、計算された懐柔の言葉でもない。ユーフェミアの困ったような顔を見た瞬間、まるで胸の奥から湧き上がる温かな感情に突き動かされるように、自然と声となって溢れ出していたのだ。
——あれは、英霊たるネロ・クラウディウスの意志ではない。
「……くく、ふはは……ッ」
ネロは思わず片手で顔を覆い、低く、苦笑混じりの声を漏らした。
(貴様か……我が『贋作者』よ)
真紅のドレスの下、己の魂の深層で、シャルルのギアスの呪縛に囚われ、いまも安らかな眠りについている少女。
この世界の「ネロ・ロ・ブリタニア」として生まれ、兄弟姉妹と共に笑い合っていた、もう一人の自分。
彼女の幼き日の記憶。
ーーーーへの愛おしさ。
父を殺した裏切り者として見られたくないという、切ないほどの情愛と未練。
それら「贋作者」の強い残留思念が、主導権を握っているはずの英霊ネロの精神に干渉したのだ。
(眠っているくせに、余の口を使って可愛い姉妹におねだりとはな。どこまでも我儘で、図々しい娘だ……)
英霊ネロは呆れたように肩をすくめてみせた。
しかし、その口元には嫌悪の色など一切なく、むしろ愛おしい愛馬の悪戯を見守るような、深い慈愛が浮かんでいた。
かつて離宮でユーフェミアに蜂蜜入りの林檎ジュースを振る舞い、自慢げに胸を張っていた幼き少女の記憶が、胸の奥で仄温かく脈打っている。
「……フン、まあよい」
ネロは黄金のグラスを軽く掲げ、誰もいない空間へ向けて静かに傾けた。
「それくらいの我が儘、余の寛大さをもって許してやろう。……安心するがいい、我が贋作者よ。貴様が愛したこの妹も、貴様が欲したローマの国も、余が至高の劇場で完璧に護り抜いて見せる」
心内の困惑を吹き飛ばすように、真紅の外套が力強く翻る。
眠り姫の秘めたる想いを抱えたまま、黄金の皇帝は不敵な笑みを深め、次なる戦術の展開へと意識を向けるのだった。
「……ひとつ解せぬのは、なぜユーフェミアはこれまで身を隠せていたにもかかわらず、ここへ来て急に見つかったのだ? 第三捜索部隊と言ったな。そやつらが優秀なのか、それまでが節穴だったのか……。部隊の責任者は確か、かなり早い段階で我がローマへ降ったマルディーニ、元伯爵であったか。……うむ、知らぬ名だな」
ネロの独り言に回答するものはいなかった。
?「ユーフェミアには姉妹と言うんだね」