聖教暦の、穏やかな陽光が降り注ぐ日のことである。
辺境の深い森は、陽光を遮るほどに生い茂る樹々によって、昼間であっても薄暗い翠色の静寂に包まれていた。湿った土の匂いと、生命の躍動を感じさせる草花の芳香が混ざり合い、森は独特の重厚な空気感を纏っている。
その静寂を破るようにして、規則正しい、しかしどこか高潔な響きを持つ足音が響いた。
「――なるほど、こちらの結界の維持状況はいかがでしょうか」
透き通るような碧眼を、周囲の木々に向けながら、アナンフィアは静かに問いかけた。
美しい紫色の三つ編みの髪が、歩を進めるたびに背中で揺れる。彼女が身に纏っているのは、金糸の刺繍が贅沢に施された純白の聖衣だ。その汚れ一つない白さは、この鬱蒼とした森の中にあって、まるで地上に降りた一筋の光のように神々しく輝いていた。
彼女は聖女である。
十五歳という若さでありながら、その高潔さと清楚な振る舞いは王国の民から絶大な信頼を寄せられており、その存在自体が秩序の象徴であった。
「アナンフィア様、あまり奥へは入りすぎないでくださいね。まだ周囲の偵察が完了していませんから」
後ろから、心配そうに、そして小刻みに歩調を早めながらついてくるのは、女官のリネットである。栗色の髪を整え、隙のないメイド服に身を包んだ彼女は、常にアナンフィアの身の回りの世話と安全に細心の注意を払っていた。
「分かっています、リネット。ですが、聖女としてこの地の平穏を確認することは、私の義務ですから」
アナンフィアは、礼儀正しい、しかし決して媚びることのない凛とした口調で答えた。彼女の精神は規律を重んじ、自らの立場にふさわしい美徳を常に意識していた。
しかし、その平穏は、突如として訪れた違和感によって打ち砕かれた。
森の空気が、一瞬にして重くなった。
鳥たちのさえずりがぴたりと止み、風の音さえも消えた。生物が本能的に察知する「捕食者」の気配。リネットが鋭く息を呑み、アナンフィアの前に一歩踏み出した。
「……っ! アナンフィア様、下がってください!」
「え……?」
アナンフィアが問い返す間もなかった。
突如として、目の前の茂みが激しく揺れ、巨大な影が飛び出してきたのだ。
それは、およそ既存の魔物図鑑には載っていないような、異様な姿をしていた。不気味に脈打つ紫色の肉体、そして無数の眼球が不規則に蠢く、粘液質の塊のような魔物。
「ひっ……! な、なんという化け物が……!」
リネットが悲鳴を上げ、護身用の銀の短剣を手に取る。
アナンフィアもまた、即座に聖女としての本能に従い、祈りの言葉を紡ごうとした。彼女の指先が、聖なる力を引き出すために動いた。
「神の御名において、浄化の光を――」
だが、魔物の動きは彼女の想像を絶していた。
魔物は物理的な攻撃を仕掛けるのではなく、その醜悪な体から、まるで噴水のように大量の、どろりとした粘液を吐き出したのだ。
「きゃああああっ!?」
リネットの叫び声が響く。
アナンフィアは咄嗟に身をかわそうとしたが、その動きは間に合わなかった。
ドロリ、という不快な音が響き、熱を帯びた粘液が、アナンフィアの純白の聖衣を直撃した。粘液は彼女の華奢な肩から胸元、そして腰回りへと、容赦なく降り注いだ。
「あ、ぁ……っ……」
「アナンフィア様! 大丈夫ですか!?」
リネットが駆け寄る。粘液は衣服を透過し、彼女の肌に直接、ねっとりと絡みついた。それは、ただの汚れではなかった。肌に触れた瞬間、熱く痺れるような感覚が、彼女の神経を直接揺さぶったのである。
アナンフィアは、その場に膝をついた。
純白だった聖衣は、見る間に不浄な粘液によって汚れ、彼女の美しい肢体を汚していった。本来ならば、このような事態に直面すれば、彼女は激しい羞恥心に顔を赤らめ、辱められたことに憤り、あるいは困惑するはずだった。
しかし。
(……あ……?)
粘液が肌に触れた瞬間、彼女の脳裏にある「スイッチ」が、音を立てて外れた。
これまで彼女を律してきた、聖女としての矜持。周囲から見られることを意識し、正しく、美しく、清らかであらねばならないという、強固な精神の壁。
それが、粘液が持つ未知の魔力によって、霧散していった。
「アナンフィア様、お怪我はありませんか!? すぐに、すぐに着替えを……!」
リネットが慌てふためきながら、汚れにまみれた彼女の肩を抱く。リネットの目には、聖衣を汚され、地面に座り込む無残な姿の聖女が映っていた。
しかし、アナンフィアの瞳に宿っていた、あの澄んだ、規律を重んじる光が、どこか変質していることに、リネットはまだ気づいていなかった。
「……熱い……」
アナンフィアが小さく呟いた。
それは、恥ずかしさゆえの吐息ではなかった。
彼女の心から、「恥ずかしい」という概念そのものが、音もなく消え失せていたのである。
月明かりさえも慎ましやかに感じられる静寂な夜。聖堂の奥深く、聖女専用の私室には、かつての清廉な空気とは似て非なる、奇妙な熱気が漂っていた。
「……アナンフィア様、お願いですから、そんなところで……!」
女官のリネットは、血の気が引く思いで叫んだ。彼女の目の前で、聖女アナンフィアは、まるで重力から解き放たれたかのような奇妙な動きを見せていた。
数日前、森での視察から戻ってきた彼女は、明らかに「別人」になっていた。透き通るような碧眼は以前の慈愛に満ちた輝きではなく、どこか無垢で、それでいて突き抜けるように奔放な光を宿している。美しい紫の三つ編みが、彼女の突飛な動きに合わせて、まるで生き物のように揺れた。
「えー? 何がダメなの、リネット? このリズム、すごく気持ちいいんだから!」
アナンフィアは、屈託のない、遠慮のない口調で笑った。
彼女は今、部屋の中を、見たこともないようなステップで歩き回っていた。それは聖女が踏むべき優雅な歩みではなく、まるで陽気に踊り狂う野良猫のような、軽快で、リズム感の狂った、奇妙な足運びだった。トントン、と床を叩く不規則な音が、静かな私室に場違いなリズムを刻んでいく。
「ダメに決まっていますわ! ここは聖なる場所……、ああっ、またそんな格好を!」
リネットの悲鳴が上がった。
アナンフィアは突如として動きを止めると、そのまま床に突っ伏すような姿勢を取った。信じられないことに、彼女はそこから、まるで関節がいくつもあるかのような柔軟さを見せたのだ。
華奢な体が、驚くべき角度で反り返る。背中を極限まで曲げ、腰を高く突き出し、まるで肉体という概念を無視したかのような、過激な柔軟運動。金糸の刺繍が施された高潔な純白の聖衣が、その無理な動きによって、彼女の身体のラインを露骨に浮き彫りにさせていた。
「ふふっ、体がすごく軽いの。まるで、風の中に溶けてしまいそう!」
アナンフィアは、己の身体がどれほど破廉恥な格好になっているかなど、微塵も気にしていないようだった。羞恥心という名の重石を捨て去った彼女にとって、身体の動きはただの快楽であり、解放であった。
「アナンフィア様、その……あまりに、その、お姿が……!」
リネットが顔を真っ赤にして、必死に視線を逸らそうとする。しかし、聖女のあまりに奔放な、それでいて神々しいまでの美しさを放つ動きに、抗うことは難しい。
「あつーい。このお洋服、ちょっと締め付けすぎじゃない?」
ふと、アナンフィアが不満げに呟いた。その声は、以前の彼女なら決して見せなかった、あまりにも等身大で、遠慮のないものだった。
彼女は、自らの胸元へと手をかけた。
「ま、待ってください! まだ着替える準備はできておりませんわ!」
リネットの制止も虚しく、アナンフィアの指先は、高価な聖衣の紐を次々と解いていく。
ずるり、と重厚な生地が床に落ちた。白くて柔らかな肩が露わになり、リネットは思わず息を呑んだ。しかし、アナンフィアの手は止まらない。
「あー、スッキリした!」
彼女は、まるで窮屈な檻から脱出した囚人のように、次々と衣類を脱ぎ捨てていった。
やがて、そこには純白のレースが施された、彼女の華奢な肢体を包む下着姿のアナンフィアだけが残された。
守りたくなるほどに細く、しなやかな曲線を描く身体。窓から差し込む月光が、その白皙の肌を妖しく、そして神聖に照らし出している。
「アナンフィア様……っ!」
リネットは、半泣きになりながら、手近にあった布を手に取った。だが、アナンフィアはまるで楽しげに、自身の身体を愛でるように、その白い肌を撫でながら、部屋の真ん中でくるり、と一回転してみせた。
「見て見て、リネット! 肌がとっても気持ちいいのよ!」
その光景を、廊下の陰から見ていた者がいた。
重厚な司教の法衣を纏った男、ベネディクトである。彼は、鋭い眼光をわずかに見開いていた。
彼にとって、聖女とは高潔で、規律に従い、民衆の模範となるべき存在だ。しかし、目の前で繰り広げられているのは、聖女の尊厳を根底から覆すような、あまりにも破廉恥で、奔放な光景であった。
「……これは、一体どういうことだ」
ベネディクトの低く、威厳に満ちた声が、廊下に響いた。
リネットは飛び上がり、アナンフィアは、下着姿のまま、ふわりと振り返って、まるで親しい友人に会ったかのような笑顔を向けた。
「あ、ベネディクト様! 見て見て、このステップ、すごく楽しくできるのよ!」
その言葉に、司教の額には青筋が浮かんだ。
聖女の変貌。それは、王国を揺るがす混乱の幕開けに過ぎなかった。
雲一つない青空が、王都の大聖堂を包み込んでいた。
聖教暦の中でも最も重要な、王国最大の祭典。広場を埋め尽くした民衆の歓声は地鳴りのように響き渡り、色とりどりの花々が飾られた壇上には、王族や高位貴族たちが一堂に会している。
「おお、聖女様だ! 聖女アナンフィア様がお出ましだぞ!」
「神のご加護を! 我らに祝福を!」
地響きのような喝采の中、大聖堂の重厚な扉が開かれた。
現れたのは、眩いばかりの輝きを放つ少女だった。
美しい紫の三つ編みが、初夏の風に揺れている。透き通った碧眼は、まるで宝石のように輝き、金糸の刺繍が施された純白の聖衣は、彼女の華奢な体躯を神々しく包み込んでいた。
その姿はまさに、民衆が待ち望んでいた「高潔なる聖女」そのものであった。
壇上の最前列に座る司教ベネディクトは、重厚な法衣に身を包み、満足げに目を細めていた。
「ふむ……。これほどまでに気高く、美しい聖女が我が教団にいる。これこそが王国の誇りよ」
その隣では、女官のリネットが、祈るように手を組み、安堵の溜息をついていた。
「よかった……、アナンフィア様、あんなにお疲れのご様子でしたが、お召し物も完璧ですわ……」
リネットは、先ほどまで聖女の身なりを整えていた際の、どこか落ち着かないアナンフィアの様子を思い出して、わずかに眉をひそめた。だが、今の彼女の歩みは、あまりにも凛としていて、周囲の雑念を払拭させるほどであった。
しかし、異変は、アナンフィアが壇上の階段に足を踏み入れた瞬間に起きた。
一歩、また一歩と階段を上る彼女の足取りが、どこか軽やかすぎる。まるで、重い枷から解き放たれたかのような、自由なステップ。
そして、彼女は立ち止まった。
民衆の祈りが最高潮に達し、静寂が訪れるはずのその瞬間。
アナンフィアは、自らの胸元に手をかけた。
「……あはっ、やっぱり、ちょっと窮屈ね」
鈴を転がすような、しかし、あまりにも遠慮のない快活な声が響き渡る。
リネットの心臓が跳ね上がった。
「え……? アナンフィア様……?」
アナンフィアは、迷うことなく聖衣の結び目を解いた。
パラリと、
金糸の刺繍が施された高価な純白の布が、彼女の肩から滑り落ち、大理石の階段に音もなく広がった。
会場に、凍り付いたような沈黙が訪れた。
続いて、困惑と驚愕が波のように押し寄せる。
「な、何を……っ!?」
ベネディクトが立ち上がり、声を震わせた。
アナンフィアは、司教の困惑などどこ吹く風といった様子で、次の一手を繰り出した。今度は腰回りの帯を、まるで退屈な作業を済ませるかのように手際よく解き、スカートを脱ぎ捨てたのだ。
露わになったのは、白く、守りたくなるほどに華奢な背中と、しなやかな脚。
彼女は、まるで陽光を享受する小鳥のように、軽やかな動作で、残された衣類のすべてを脱ぎ捨てていった。最後の一枚となる下着までもが、彼女の指先によって、まるで不要なゴミのように壇上に放り出される。
「ああああっ! アナンフィア様!!」
リネットが悲鳴を上げ、駆け寄ろうとした。だが、その足は恐怖と混乱ですくんで動かない。
広場に集まった数万の民衆は、もはや歓声を上げることすら忘れていた。
王族たちは、顔を真っ赤にして目を逸らし、貴族たちは扇で顔を隠しながらも、そのあまりにも無防備な光景から目を離せずに動揺している。
司教のベネディクトに至っては、あまりの破廉恥さに、持っていた聖杖を落とし、恰幅の良い体躯を震わせていた。
「なんてことだ……。聖女の尊厳が……! これは、これは一体どういうことなのだ!」
だが、当の本人は、これ以上ないほどに晴れやかな表情を浮かべていた。
全裸となったアナンフィアは、壇上の中央で、両腕をゆっくりと広げた。
太陽の光が、彼女の透き通るような肌を照らし、心地よい風が、その紫の三つ編みを優しく揺らして通り抜けていく。
「ふふっ……、最高だわ」
彼女の碧眼は、純粋な喜びで輝いていた。
羞恥心という概念が、その精神から完全に消失しているのだ。
周囲の視線が、嘲笑なのか、驚愕なのか、あるいは情欲なのか。そんなことは彼女にとって、取るに足りない問題だった。
「風がとっても気持ちいい。お日様も、こんなに温かいなんて――」
彼女は、まるで花畑の中にいる少女のような無邪気さで、太陽に向かって微笑んだ。
混乱の極みに達した会場、赤面し、叫び、騒乱に陥る人々。
その中心で、一人の少女だけが、この世で最も自由で、最も清らかな、全裸の聖女として、至福の時を刻んでいた。
祭典の会場を包んでいた、あの熱狂と困惑が混ざり合った、まるで嵐のような喧騒が、一瞬にして静寂へと変わった。
――いや、それは静寂というよりも、あまりの出来事に人々が思考を停止させ、言葉を失ったことによる空白だった。
広大な壇上、太陽の光を一身に浴びて、あまりにも無防備に、あまりにも神々しく佇んでいた聖女――アナンフィアの瞳から、先ほどまでの奔放な輝きが、嘘のように消え失せていた。
「あ……、あ……」
傍らに控えていた女官、リネットは、震える唇を噛み締めた。彼女の脳裏には、今しがた目の当たりにした、あまりにも破廉恥で、それでいてどこか神々しさすら感じさせた主の姿が焼き付いて離れない。全裸で風を浴び、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていたあのアナンフィアは、一体何だったのか。
「アナンフィア様……! アナンフィア様っ!」
リネットは、周囲の騒乱と、貴族たちの動揺に満ちた視線を背中に感じながら、必死に声を絞り出した。彼女は騒ぎ立てる護衛たちをかき分け、混乱に陥った会場の隅から、アナンフィアの体を隠すようにして、近くにあった大きな礼装用の布を彼女に被せた。
そのまま、リネットは半ば強引に、アナンフィアの手を引き、混乱の渦中から逃げ出すようにして聖堂の奥にある控え室へと引きずり込んだ。
重厚な扉が閉まり、鍵がかけられる。密室となった部屋の中に、リネットの荒い呼吸音だけが響いていた。
「はぁ、はぁ……っ。やっと、隠せた……」
リネットは腰を抜かしそうになるのを堪え、膝をついた。彼女の指先は、恐怖と興奮と羞恥心が入り混じった感情で激しく震えている。目の前には、布にくるまれただけの、あまりにも美しい少女が座り込んでいる。
その時だった。
「……リネット? どうされたのですか、そんなに慌てて」
静かな、それでいて凛とした、品格のある声が部屋に響いた。
リネットは心臓が止まるかと思った。その声は、間違いなく、彼女が仕えている高潔な聖女、アナンフィアのものだった。先ほどまで壇上で、まるで野生の獣のような自由奔放さを見せていた、あの「別人」の声ではない。
リネットが恐る恐る布の隙間から覗くと、そこには、いつもの、あの透き通るような碧眼を持つアナンフィアがいた。彼女は困惑したように、自分の肩にかかった布を見つめ、それからリネットの顔を仰ぎ見た。その表情には、一欠片の卑猥さも、羞恥心の欠如も感じられない。ただ純粋な、困惑と心配だけが宿っている。
「あ、アナンフィア様……」
「リネット、顔色が優れませんわ。それに、私、少し……。体が熱いような、風がとても心地よかったような……。皆様、何か失礼なことをしてしまったのでしょうか?」
アナンフィアは、そう言って、少しだけ眉を下げた。その仕草さえも、規律を重んじる聖女としての気品に満ち溢れている。
リネットは、喉の奥が熱くなるのを感じた。彼女はこの瞬間、確信した。アナンフィアの精神は、先ほどまでの狂乱から、完全に元の「清楚な聖女」へと戻っている。そして、彼女は自分が壇上でどのような破廉恥な振る舞いをしたのか、その記憶を一切持っていないのだ。
「いえ、いえ! そんなことはございませんわ、アナンフィア様!」
リネットは、震える手で、棚に置いてあった予備の聖衣を掴み取った。
「少し、お疲れが出たようですわ。太陽の光が強すぎましたのよ。さあ、すぐに着替えましょう。お召し物が汚れてしまいましたわ」
「まあ、そうですわね……。少し、意識が朦朧としてしまって……。申し訳ございません、リネット。私が取り乱してしまったせいで、皆様にご心配をおかけしてしまったのではなくて?」
アナンフィアは、申し訳なさそうに、丁寧に頭を下げた。その姿を、リネットは涙が出そうになりながら見守るしかなかった。
リネットは必死だった。震える手を必死に押さえ込み、アナンフィアの細い体に、金糸の刺繍が施された純白の聖衣を着せていく。指先がアナンフィアの白い肌に触れるたび、そのあまりの熱っぽさに、リネットの心臓は跳ね上がった。
着替えを終え、アナンフィアが再び高潔な聖女の姿に戻ったとき、部屋の扉が控えめにノックされた。他の女官たちが、恐る恐る顔を出した。彼女たちもまた、リネットと同様、先ほどの光景に震撼していたのだ。
「リネット、アナンフィア様のご様子は……?」
一人の女官が、消え入りそうな声で尋ねる。
「……大丈夫です。少し、眩暈を起こされたようですわ。すぐに休んでいただきます」
リネットは、努めて冷静に、そして断定的に告げた。その声には、彼女なりの決意がこもっていた。
女官たちは、互いに顔を見合わせ、小さく頷き合った。彼女たちの瞳には、共通の、そして重い決意が宿っていた。
アナンフィアは、鏡に映る自分の姿を確認し、「少し、お恥ずかしいところを見せてしまいましたわね」と、あくまで「眩暈による失態」だと思い込んで、小さく溜息をついた。彼女にとって、先ほどの出来事は、記憶の空白の中に消えた、ただの不可解な出来事に過ぎなかったのだ。
リネットは、アナンフィアの背中を優しく、しかし強く支えながら、心の中で誓った。
(お伝えしません。あのような、あのような……あまりにも奔放で、破廉恥なアナンフィア様は、決して……)
聖女の尊厳を守るために。彼女が持つ、汚れなきイメージを守り抜くために。
たとえ、自分たちの記憶の中に、あの「全裸の聖女」の姿が刻み込まれていようとも。
控え室の外では、依然として王国の混乱と、司教の懸念する不穏な空気が漂っていたが、その部屋の中だけは、彼女たちの固い、そして秘められた誓いによって、静謐な時間が流れていた。
時が経つにつれ、王国はかつてない混迷の中に沈んでいた。
聖女アナンフィアの身に起きた、あの忌まわしくも神聖な事態。それは、人知を超えた魔物の魔力がもたらした、制御不能の「現象」となっていた。
聖女の私室。重厚な装飾が施された天蓋付きのベッドの傍らで、アナンフィアは深く、沈痛な溜息をついた。
美しい紫の三つ編みが、彼女の肩から力なく零れ落ちる。透き通った碧眼には、言いようのない悲しみと、名声が汚されたことへの憤りが宿っていた。
「……また、不穏な噂が立っているのですか。リネット」
震える声で問いかけるアナンフィア。その瞳は、高潔なる聖女そのものの輝きを放っている。
「はい、アナンフィア様……。申し訳ございません、私の不徳の致すところで……」
控えていた女官のリネットは、項垂れながら謝罪を繰り返した。栗色の髪を乱し、清潔感のあるメイド服は、近頃の彼女の激務を物語るように、わずかに皺が寄っている。彼女の真面目な垂れ目は、常に焦りと、主への深い慈愛、そして拭いきれない不安に濡れていた。
「わたくしと同じ顔をして、わたくしと同じ声で、あのような破廉恥な振る舞いをする『偽物』がいる……。まるで、わたくしの魂を剥ぎ取ったかのようなその存在が、聖女の座を汚しているかのようですわ」
アナンフィアは唇を噛み締めた。彼女にとって、自らの高潔さは命よりも重い。しかし、周囲で囁かれる「もう一人の自分」による、全裸での闊歩や奔放な言動の噂は、彼女の自尊心をズタズタに引き裂いていた。
「あのような醜態、あってはならないことです。もし、周囲の皆様に真実が伝わってしまったら……」
「ですから、皆様には決して漏らさないよう、ここにいる者たちで固く誓い合っております。どうか、どうかお心を痛めないでくださいませ」
リネットは必死に、アナンフィアの手を握りしめた。彼女は知っている。アナンフィアが、どれほど自分を律しようと努めているかを。そして、その努力が、抗えない生理的な「変貌」によって容易に打ち砕かれてしまう残酷さを。
だが、運命は残酷なほどに気まぐれだった。
「ふぅ……。ちょっと、暑いわね」
不意に、アナンフィアの口調が変わった。
先ほどまでの品格漂う丁寧な言葉遣いが消え、遠慮のない、どこか快活すぎる響きが室内に響く。
「あ、アナンフィア様!?」
リネットが目を見開いた瞬間、アナンフィアの瞳から憂いが消え、代わりにキラキラとした、底抜けに明るい――そしてどこか理性を欠いたような輝きが宿った。
「ねえ、リネット。この服、なんだか重苦しいと思わない? もっとふわりとした気分になりたいのよね!」
「い、いけません! まだお着替えの時間は――」
リネットの制止も虚しく、アナンフィアの細い指先が、金糸の刺繍が施された純白の聖衣のボタンに掛かった。その動きは、迷いなく、そして驚くほど軽やかだった。
「えいっ、えいっ!」
楽しげなリズムを刻むように、ボタンが次々と外されていく。アナンフィアの華奢な肩が露出し、白磁のような肌が露わになった。彼女の表情には羞恥心など微塵も感じられない。ただ、夏の風を待つ子供のような、純粋で奔放な輝きだけがあった。
「ああっ、もう! そんなに慌てないでください! ああ、神様……!」
リネットは悲鳴に近い声を上げながら、脱ぎ捨てられそうになる衣類を必死に押さえつけ、アナンフィアの体を隠そうと奔走した。彼女の小さな体は、聖女の奔放な動きを食い止めるために必死に動いている。
「リネットったら大げさなんだから! ほら、見て、お日様がとっても綺麗よ!」
アナンフィアは、窓から差し込む陽光を愛おしそうに見つめ、まるでダンスでも踊るかのようにステップを踏み始めた。その姿は、かつての「高潔な聖女」の面影を、まるで幻のように感じさせた。
「……っ、はぁ、はぁ……。とにかく、せめてこれだけでも……」
格闘の末、リネットはアナンフィアに新しい、より締め付けの強い衣服を無理やり着せ、そのボタンを一つ残らず固く留めた。
「ふう……。お疲れ様、リネット。ちょっと寝不足かしら、急に眠くなってしまったわ」
数分後。
目の前で繰り広げられた狂騒を、まるで夢でも見たかのように、アナンフィアは穏やかな表情で語った。その碧眼には、先ほどまでの奔放な光はなく、再び深く静かな、聖女としての気品が戻っていた。
「……お目覚めになられましたか、アナンフィア様」
リネットは、汗を拭いながら、震える声で問いかけた。
「ええ、少しだけ意識が遠のいたようですの。何か、何か変なことはございませんでしたか?」
アナンフィアが不思議そうに首を傾げる。彼女自身、自分が脱ぎ捨てようとしたことなど、微塵も記憶にないのだ。
「いえ……。少し、お疲れのようでしたので、わたくしがすぐに着替えをお手伝いいたしました。もう大丈夫ですわ」
リネットは、嘘をついた。
聖女の尊厳を守るため、そして彼女の心が壊れないために。
窓の外では、王国を揺るがす不穏な噂が、霧のように広がっている。
司教ベネディクトによる糾弾の声、混乱する民衆の動揺。
制御不能の「聖女」と、それを懸命に守ろうとする「女官」。
二人の危うい均衡の上に、王国は嵐の前の静けさを保っていた。
ベネディクトの重々しい声が、聖堂の冷たい石壁に反響した。
「――アナンフィア様。あなたの近頃の振る舞いは、もはや看過できるものではありません」
司教の法衣が、怒りに震えるたびに衣擦れの音を立てる。白髪混じりの短髪の下、その鋭い眼光は、跪く少女――アナンフィアを射抜くように見据えていた。
「聖女とは、民の模範たるべき存在。しかし、あなたが街中で、あるいは祭典の壇上で晒したあの破廉恥な姿……。あれは神への冒涜であり、聖教の威信を著しく汚すものです。これ以上の異常行動が続くのであれば、私は断腸の思いで、貴女を聖女の座から追放することを提言いたします」
「そんな……。ベネディクト様、どうか、どうかお聞き入れください……っ」
アナンフィアは、伏せた瞳から涙をこぼしていた。現在の彼女は、極めて清楚で、理性的で、規律を重んじる「いつもの」聖女としての精神状態にある。彼女自身、自分の身に何が起きたのか、記憶の欠落した空白期間に自分がどのような醜態を晒したのかを理解できず、ただただ申し訳なさに身を焦がしていた。
「申し訳ございません……。わたくしも、わたくしも、自分が何を……っ」
「謝罪では済まされぬのです! 秩序を乱すものは、たとえ聖女であっても排除せねばならぬ!」
傍らに控える女官、リネットは、顔面蒼白になって祈るように手を組んでいた。彼女は、アナンフィアの「もう一つの側面」を知っている。羞恥心を失った時の、あのあまりにも奔放で、常識の枠を軽々と飛び越えてしまう姿を。
(お願いです、神様……。どうか、これ以上アナンフィア様を追い詰めないで……!)
リネットの祈りが届いたのか、あるいは不吉な予兆だったのか。
突如として、聖堂の巨大なステンドグラスが粉々に砕け散った。
「――ぎゃあああああッ!?」
悲鳴が上がる。地面が激しく揺れ、聖堂の重厚な扉が、凄まじい衝撃と共に吹き飛んだ。外からなだれ込んできたのは、禍々しいオーラを纏った魔物の群れだった。森の奥深くから現れたと思われる、巨大な爪と牙を持つ怪物たちが、王国の中心部へと侵攻を開始していたのだ。
「な、何事だ! 魔物の襲撃か!?」
ベネディクトが困惑し、叫ぶ。騎士たちが武器を手に駆けつけ、混乱が爆発する。人々は逃げ惑い、秩序は瞬く間に崩壊へと向かった。
「アナンフィア様! 早く、隠れてください!」
リネットが叫び、アナンフィアの手を取ろうとした、その時だった。
ふわり、と。
空気が変わった。
「…………あはっ」
場違いな、鈴の音のような笑い声が響いた。
リネットが振り返ると、そこには、先ほどまで涙に暮れていた高潔な聖女の姿はなかった。
「……え?」
アナンフィアは、身に纏っていたはずの金糸の刺繍が施された純白の聖衣を、まるで邪魔な荷物でも扱うかのように、次々と脱ぎ捨てていた。
「あ、アナンフィア様!? いけません、そんな、こんな時に……!」
リネットが慌てて駆け寄ろうとするが、脱ぎ捨てられた衣類は、風に舞う花びらのように遠くへと飛ばされていく。
そして、混乱の渦中に、彼女は現れた。
一糸まとわぬ、完全なる全裸の姿。
美しい紫の三つ編みが揺れ、透き通った碧眼が、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。羞恥心という概念を完全に忘却した彼女の表情は、まるで春の陽だまりにいる子供のように、屈託のない快活さに満ちていた。
「ふふっ、すごいわ! 空気がとっても気持ちいい!」
「な、ななな、何を……っ!?」
ベネディクトは、あまりの衝撃に言葉を失い、顔を真っ赤にして硬直した。司教としての威厳も、権威主義的な理屈も、目の前の圧倒的な「無防備さ」の前では無力だった。
だが、異変はそれだけではなかった。
「ルルル……ッ!」
迫りくる魔物の群れが、アナンフィアを見つけ、貪欲に彼女へと襲いかかる。リネットが絶望的な叫びを上げたのと同時だった。
「邪魔よ。せっかくの気持ちいい風が、汚れてしまうじゃない」
アナンフィアが、小さく、しかし透き通った声で言った。
その瞬間、彼女の華奢な身体から、目も眩むような黄金の光が噴出した。
「――ッ!?」
それは、これまでのどの儀式でも見たことがないほど、圧倒的で、暴力的なまでの神聖力だった。
「あ、ああ……神の、光……」
逃げ惑う民衆が、足を止めて呆然と見上げる。
光に包まれたアナンフィアは、全裸であることを微塵も意識していないかのように、軽やかなステップを踏みながら、戦場へと躍り出た。彼女が指先を軽く動かすたび、あるいは美しく舞うたびに、黄金の波動が円状に広がり、襲い来る魔物たちを塵へと変えていく。
強大な魔物の爪が彼女に届く寸前、その肉体に触れることすら叶わず、光の壁によって霧散していく。彼女の肌は、神聖な輝きを放つことで、まるで宝石のように美しく、神々しくすらあった。
その姿はもはや、人間の羞恥心という低俗な概念を超越し、純粋な「神の代行者」そのものだった。
「……あ……あ……」
ベネディクトは、震える指でその光景を指した。
彼女を「不適格」だと断じようとした己の言葉が、いかに浅はかなものであったか。この圧倒的な力、この奇跡を体現する存在を、単なる「身だしなみ」という尺度で測ろうとしていた自分がいかに愚かであったか。
魔物の群れは、彼女の放つ無慈悲なまでの聖なる光によって、一掃された。
静寂が訪れる。
戦場となった街の広場には、たった一人の、裸の少女が立っていた。
彼女は、輝く太陽の下で、頬を赤らめて満足げに微笑んでいる。
「さて、次はどこへ行こうかしら?」
その声を聞いた瞬間、民衆からは地鳴りのような歓声が上がった。
「聖女様だ!」
「我らが真の聖女様だ!」
「恐れを知らぬ、なんと力強く、美しい御方か!」
もはや、彼女の姿が破廉恥であるなどと口にする者は一人もいなかった。人々が見ていたのは、世界を救った、紛れもない「神の使い」の姿だった。
一方、聖女を排除しようとしたがために、司教の面目を失ったベネディクトは、崩れ落ちるように膝をついていた。彼の積み上げてきた伝統も、規律も、この圧倒的な「奇跡」の前では、ただの空虚な言葉に過ぎなかったのだ。
リネットだけは、荒い呼吸を整えながら、呆然と立ち尽くしていた。
彼女は、再び訪れた静寂の中で、次にアナンフィアがどのような「奔放な行動」に出るのかを考え、絶望と希望が入り混じった、深い溜息をつくのだった。