【あらすじ】
トリニティ旧聖堂で発見された遺物の調査中、先生を庇ったハナコは奇妙な光に呑まれる。
目を覚ました先生は、ハナコだけを忘れていた。
名前も、声も、共に過ごした時間も。
ハナコが自分の存在を伝えようとするほど、今度はヒフミ、アズサ、コハルたちの記憶まで失われ始める。
大切な人たちの中から自分が消えていくとき、浦和ハナコは笑顔の下に隠してきた本心と向き合うことになる。
会話中心の長編シリアスSSです。
キャラクターの口調や関係性には注意していますが、独自解釈およびif設定を含みます。
【注意】
・ハナコへの強い曇らせ
・先生がハナコだけを忘れる記憶喪失if
・存在忘却、関係性の消失
・精神的に追い詰められる描写
・軽度の負傷表現
・ハナコから先生への恋愛感情を思わせる描写
・トリニティの遺物に関する独自設定
以上の要素が苦手な方はご注意ください。
ハナコ「先生は、私のことをどこまで覚えていてくださいますか?」
その質問は、いつもの冗談の一つに聞こえた。
放課後の補習授業部の部室。
先生は机の上に積まれた課題を確認し、ハナコはその向かいで頬杖をついている。
コハルは赤点回避のための問題集と格闘し、アズサは同じページをすでに三周していた。ヒフミは全員分の紅茶を用意している。
先生「急にどうしたの?」
ハナコ「いえ。先生が、どれほど私に関心を持ってくださっているのか気になりまして」
コハル「また変なこと言ってる!」
ハナコ「変なこと、ですか?」
コハル「どうせ、すぐそういう話に持っていくつもりでしょ!」
ハナコ「まあ。コハルちゃんは、私がどのような話をしようとしていたのか分かるのですか?」
コハル「それは……!」
ハナコ「まだ何も言っていませんよ?」
コハル「う、うるさい! ハナコの考えてることなんて分かるわけないでしょ!」
アズサ「コハル。分からないなら、なぜ怒ったんだ?」
コハル「アズサは黙ってて!」
ヒフミ「あはは……と、とりあえず、紅茶が入りましたよ」
ヒフミがカップを配る。
ハナコは自分の前に置かれた紅茶へ口をつけず、先生を見つめていた。
笑ってはいる。
けれど、普段なら細められている目が、今日はまっすぐこちらへ向けられていた。
先生「どこまで、と言われると難しいね」
ハナコ「では、簡単なところから確認しましょうか」
ハナコが指を一本立てる。
ハナコ「私の名前は?」
先生「浦和ハナコ」
ハナコ「所属は?」
先生「トリニティ総合学園、補習授業部」
ハナコ「得意な科目は?」
先生「ほとんど全部。わざと間違えなければ、だけど」
ハナコ「まあ。そこまでご存じなのですね」
コハル「補習授業部の全員が知ってるでしょ」
ハナコ「では、私が紅茶へ砂糖をいくつ入れるかは?」
先生「普段は入れない。でも、疲れているときだけ一つ入れるね」
ハナコの目がわずかに見開かれる。
ヒフミ「先生、よく見ていますね」
先生「前にハナコが自分で言っていたから」
ハナコ「覚えていてくださったのですか?」
先生「うん。今も入れようか迷ってるみたいだね」
ハナコの指は、砂糖の包みの端へ触れていた。
けれど開けることなく、そのまま引っ込める。
ハナコ「それでは、最後の質問です」
先生「難しそうだね」
ハナコ「先生にとって、私はどのような生徒ですか?」
部室が静かになる。
コハルも問題集から顔を上げた。
いつもなら、ハナコ自身が冗談で流してしまうような質問だった。
けれど今日は、続きを言わない。
先生の答えを待っている。
先生「頭がよくて、周りをよく見ている生徒だと思う」
ハナコ「それだけですか?」
先生「自分のことより、他の人のことを先に考えすぎるところがあるね」
ハナコの笑顔が、ほんの少し固くなる。
先生「それから、分かってほしいと思っているのに、分かられそうになると冗談で逃げる」
ハナコ「……先生」
先生「でも、ハナコが話したくないことを、無理に聞くつもりはないよ。話したくなったら、私は聞く。今は、それでいいと思ってる」
ハナコは目を伏せた。
しばらくして、紅茶へ砂糖を一つ入れる。
ハナコ「正解です」
先生「全部?」
ハナコ「最後の答え以外は」
先生「最後は違った?」
ハナコ「秘密です」
ハナコはカップを両手で包み込んだ。
ハナコ「ですが、先生には責任を取っていただかないといけませんね」
コハル「何の責任よ!?」
ハナコ「私のことを、そこまで熱心に見つめていた責任です」
先生「見つめていたつもりはないんだけど」
ハナコ「今さら、そのような言い逃れが通用すると思いますか?」
コハル「やっぱり変な話になった!」
部室に、いつもの騒がしさが戻る。
その日のハナコの質問を、先生は深く考えなかった。
翌日、旧聖堂で起きたことを知っていれば、もっと違う答え方をしたのかもしれない。
トリニティ自治区の外れにある旧聖堂は、長い間封鎖されていた。
壁の一部が崩れ、地下へ続く階段が発見されたことで、ティーパーティーは内部の調査を決定した。
先生と補習授業部が同行することになったのは、地下から発見された古い文書に、現在では使われていない言語が含まれていたためだ。
ナギサ「本来なら、専門の調査班へ任せるべき案件です」
旧聖堂の入り口で、ナギサは全員へ念を押した。
ナギサ「皆さんには、文書の確認だけをお願いします。発見された物品へ、許可なく触れないでください」
コハル「当然でしょ。子どもじゃないんだから」
アズサ「周辺に敵性反応はない。ただし、地下構造の一部が崩落しかけている。警戒は必要だ」
ヒフミ「足元にも気をつけたほうがよさそうですね」
ハナコ「暗い地下聖堂で、先生と秘密の調査ですか。何も起こらないはずがなく――」
コハル「言わせないから!」
先生「ナギサの話をちゃんと聞こうね」
ハナコ「残念です」
ハナコはいつもの笑顔で肩をすくめた。
地下には、かつて告解室として使われていたと思われる小部屋が並んでいた。
その最奥。
石造りの祭壇に、黒い円盤が埋め込まれている。
円盤の表面には、無数の名前が刻まれていた。
ただし、その多くは意図的に削り取られている。
ヒフミ「これは何でしょう?」
ナギサ「発見時から、この状態だったと報告を受けています」
アズサ「爆発物には見えない」
コハル「でも、なんか気味が悪いわね」
ハナコは円盤へ近づいた。
触れることはせず、刻まれた文字へ目を走らせる。
ハナコ「『告解した者は名を得る。偽りを抱く者は名を失う』」
先生「読めるの?」
ハナコ「一部だけです。かなり古い表記ですが、おそらく宗教的な儀式に使われたものかと」
ナギサ「名前を失う、ですか」
ハナコ「象徴的な意味でしょう。罪を隠した者は共同体から追放される。そのような戒めではないでしょうか」
言いながら、ハナコの視線が円盤の中央で止まる。
先生「何か気になる?」
ハナコ「……いいえ」
ハナコはすぐに微笑んだ。
ハナコ「ただ、私が触れたら、どれほどの秘密が暴かれてしまうのかと思いまして」
コハル「触らないでよ!?」
ハナコ「心配しなくても、許可なく触れるようなことはしません」
そのとき、円盤の表面に光が走った。
先生の足元で、床に亀裂が入る。
アズサ「先生、下がれ!」
アズサが叫ぶ。
祭壇から黒い光が放たれ、先生へ向かって伸びた。
避ける暇はなかった。
横から強く突き飛ばされる。
先生「ハナコ!」
ハナコが先生の前へ割り込んでいた。
黒い光がハナコの胸元へ触れる。
同時に、彼女が突き飛ばした先生の腕も光に呑み込まれた。
視界が白く染まる。
最後に見えたのは、ハナコの笑顔だった。
ハナコ「先生なら、私のことを覚えていてくださいますよね?」
冗談のような、祈りのような声。
それを聞いた直後、先生の意識は途切れた。
目を覚ましたとき、先生は旧聖堂の外に運び出されていた。
ヒフミ「先生!」
ヒフミが駆け寄ってくる。
その後ろにコハルとアズサがいた。
先生「みんな、無事?」
コハル「先生が一番無事じゃないでしょ!」
アズサ「外傷はない。だが、意識を失っていた。頭痛や吐き気は?」
先生「少し頭が重いくらいかな」
ナギサ「すでに救護騎士団へ連絡しています。検査が終わるまでは動かないでください」
先生「分かった。ところで……」
少し離れた場所に、見知らぬ少女が立っていた。
薄紫色の髪。
補習授業部と同じ制服。
彼女は胸の前で両手を組み、青ざめた顔でこちらを見ている。
先生「あの子は?」
ヒフミたちの表情が凍りついた。
少女の唇が、かすかに開く。
ハナコ「……先生?」
先生「ごめん。どこかで会ったことがあったかな」
少女はしばらく何も言わなかった。
それから、いつものハナコを知る者には不自然なほど、ゆっくりと笑った。
ハナコ「まあ。先生ったら、ずいぶんひどい冗談をおっしゃるのですね」
先生「冗談?」
ハナコ「ええ。昨日まで、私のことをあれほど熱心に見つめてくださっていたではありませんか」
コハル「ハナコ」
ハナコ「二人きりで過ごした時間まで、なかったことになさるおつもりですか?」
先生「二人きりで?」
コハル「変な言い方しないで! 先生、本気で混乱してるんだから!」
ハナコ。
コハルがそう呼んだ。
聞き覚えがない。
名前から顔へ繋がる記憶が、どこにも存在しなかった。
先生「浦和ハナコ?」
ハナコ「はい」
先生「補習授業部の生徒?」
ハナコ「そうです」
先生「ごめん。覚えていない」
ハナコの笑顔が消えた。
ほんの一瞬だけだった。
すぐに彼女は口元を緩める。
ハナコ「困りましたね。先生に忘れられてしまうとは」
ヒフミ「きっと、一時的なものです。先ほどの光の影響かもしれません」
アズサ「先生はハナコだけを忘れているのか?」
先生「そうみたいだね。ヒフミも、アズサも、コハルも覚えてる。ナギサのことも」
コハル「どうしてハナコだけ……」
ハナコ「先生」
ハナコが近づいてくる。
先生の前にしゃがみ、目線を合わせる。
ハナコ「私の声にも、聞き覚えはありませんか?」
先生「……ごめん」
ハナコ「名前を聞いても?」
先生「思い出せない」
ハナコ「私が、どのような生徒だったかも?」
先生「何も」
ハナコは先生の目を覗き込んだ。
嘘を探しているようにも見えた。
やがて、彼女は視線を落とす。
ハナコ「そうですか」
先生「本当にごめん」
ハナコ「先生が謝ることではありませんよ」
ハナコは立ち上がった。
いつものように微笑み、制服の裾を整える。
ハナコ「それでは、最初から始めましょうか」
先生「最初から?」
ハナコ「はい。初めまして、先生」
ハナコは丁寧に頭を下げた。
ハナコ「トリニティ総合学園、補習授業部所属。浦和ハナコです」
先生「初めまして、ハナコ」
先生がそう答えると、ハナコの指が制服の裾を強く掴んだ。
救護騎士団の検査では、先生にもハナコにも外傷は見つからなかった。
記憶障害の原因も不明。
旧聖堂から発見された円盤は、ティーパーティーによって厳重に封印された。
先生はシャーレへ戻り、ハナコに関する情報を一から確認することになった。
個人記録。
補習授業部の活動報告。
過去の写真。
端末に残されたメッセージ。
そこには確かにハナコがいる。
自分が彼女と何度も会い、話し、共に過ごしてきた証拠がある。
けれど、何も思い出せなかった。
ハナコ『先生、おはようございます。本日も素敵な一日になりそうですね』
先生『おはよう。何か企んでる?』
ハナコ『まあ。先生は私を疑っているのですか?』
先生『ハナコがそういう挨拶をするときは、大抵何かあるからね』
過去のやり取りを読んでも、自分が書いた文章には思えない。
ハナコの名前を目で追うたび、頭の奥に薄い霧がかかる。
翌日、ハナコ本人がシャーレを訪れた。
ハナコ「おはようございます、先生」
先生「おはよう、ハナコ」
ハナコ「名前を覚えていてくださったのですね」
先生「昨日、何度も確認したからね」
ハナコ「では、私たちの関係は?」
先生「先生と生徒。それから、補習授業部の顧問と部員かな」
ハナコ「それだけですか?」
先生「記録上は、それ以上のこともあったみたいだね」
ハナコ「記録上」
ハナコは静かに繰り返した。
先生「ごめん。言い方がよくなかった」
ハナコ「いいえ。事実ですから」
ハナコは向かいの椅子へ腰を下ろした。
以前と同じ席だった。
しかし先生にとって、それは空いていた椅子へ彼女が座っただけにすぎない。
ハナコ「少し、試してみてもよろしいですか?」
先生「何を?」
ハナコ「記憶を取り戻すための、刺激です」
先生「危険なことでなければ」
ハナコ「では、先生。一緒に水着を選びませんか?」
先生「……水着?」
ハナコ「はい。二人で」
ハナコは反応を待った。
先生は困ったように眉を下げる。
先生「そういう冗談は、少し困るかな」
ハナコの表情が止まる。
ほんの数秒。
けれど彼女は、すぐにいつもの笑顔を取り戻した。
ハナコ「やはり、効果はありませんか」
先生「以前の私は、違う反応をしていた?」
ハナコ「いいえ。先生は困りながらも、もう少し優しく付き合ってくださいました」
先生「そうだったんだね」
ハナコ「私は、少々刺激の強い発言をする生徒です」
先生「記録を見る限り、そうみたいだね」
ハナコ「それを不快に思いますか?」
先生「まだハナコのことをよく知らないから、判断できないよ。ただ、嫌だと感じたときはちゃんと伝える」
ハナコ「……以前の先生も、そうおっしゃいました」
先生「私は変わっていないのかもしれないね」
ハナコ「そうですね」
ハナコは微笑んでいる。
それなのに、今にも泣き出しそうに見えた。
先生「ハナコ」
ハナコ「はい」
先生「無理に以前と同じように振る舞わなくてもいいよ」
ハナコ「以前の私が、どのような人だったかも覚えていないのに?」
先生「ヒフミたちから聞いた。普段と変わらないようにしているって」
ハナコ「皆さんは心配性ですね」
先生「私も心配してる」
ハナコ「どうしてですか?」
先生「生徒が苦しんでいるように見えるから」
ハナコ「私だから、ではなく?」
問いかける声は穏やかだった。
けれど、その奥にあるものへ答えるには、先生はハナコを知らなさすぎた。
先生「今の私は、そう言うしかないと思う」
ハナコ「正直ですね」
先生「嘘をついて、覚えているふりはしたくない」
ハナコ「正しい判断です」
ハナコは立ち上がった。
ハナコ「本日は、これで失礼します」
先生「もう帰るの?」
ハナコ「先生はお忙しいでしょうから」
先生「ハナコのために時間を取ることはできるよ」
ハナコ「ありがとうございます」
ハナコは扉の前で振り返った。
ハナコ「ですが、それも他の生徒にするのと同じことですよね?」
先生が答える前に、扉が閉まった。
ハナコはシャーレの廊下を歩いた。
足音を立てないように、ゆっくりと。
誰にも会いたくなかった。
けれど、曲がり角の向こうからヒフミが駆けてくる。
ヒフミ「ハナコさん!」
ハナコ「ヒフミちゃん。どうしたのですか?」
ヒフミ「先生とは、お話しできましたか?」
ハナコ「はい。とても有意義な時間でした」
ヒフミ「本当ですか?」
ハナコ「私が嘘をついているように見えますか?」
ヒフミ「……少しだけ」
ハナコは立ち止まった。
ヒフミは両手で鞄を持ち、心配そうに彼女を見上げている。
ヒフミ「無理をしないでください。先生が思い出すまで、私たちも一緒にいますから」
ハナコ「ありがとうございます」
ヒフミ「ハナコさんは、私たちの大切な仲間です。先生が忘れていても、それは変わりません」
ハナコ「はい」
その言葉は温かかった。
だからこそ、怖かった。
ハナコがヒフミへ自分のことを説明しようとした瞬間、ヒフミの表情が歪んだ。
ヒフミ「うっ……」
ハナコ「ヒフミちゃん?」
ヒフミが頭を押さえる。
鞄が床へ落ちた。
ハナコ「大丈夫ですか!?」
ヒフミ「ご、ごめんなさい。急に頭が……」
ハナコが支えようとする。
ヒフミは一瞬、その手から身を引いた。
知らない人に触れられたように。
ヒフミ「あの……」
ヒフミの視線が、ハナコの顔を迷うように動く。
ヒフミ「どちらさまでしょうか?」
ハナコの手が止まった。
ハナコ「ヒフミちゃん?」
ヒフミ「どうして、私の名前を……」
数秒後、ヒフミは大きく瞬きをした。
ヒフミ「ハナコさん?」
ハナコ「……はい」
ヒフミ「今、私……」
ヒフミの顔が青ざめる。
ハナコ「一時的に混乱しただけですよ」
ヒフミ「違います。ハナコさんのことを、分からなくなって……」
ハナコ「大丈夫です」
ヒフミ「大丈夫ではありません!」
ヒフミがハナコの袖を掴む。
ヒフミ「先生だけではなく、私たちまで忘れてしまうんですか?」
ハナコ「落ち着いてください」
ヒフミ「嫌です。そんなの、絶対に嫌です」
ハナコは何も言えなかった。
ヒフミの手を握り返すこともできない。
自分へ触れていることで、さらに記憶を失わせるかもしれなかった。
ハナコ「ヒフミちゃん。少し、離れてください」
ヒフミ「でも」
ハナコ「お願いします」
ハナコの声が硬くなる。
ヒフミは傷ついた顔で、袖から手を離した。
ハナコ「私は、一人で帰れますから」
ヒフミ「ハナコさん」
ハナコ「今日はもう、私の話をしないでください」
ハナコはヒフミを残し、歩き出した。
振り返ることはできなかった。
忘却は、ハナコについて語ろうとするたびに広がった。
ヒフミは翌日、ハナコとの初対面の時期を思い出せなくなった。
アズサはハナコと一緒に行った作戦の一部を失った。
コハルは、補習授業部の座席がなぜ四つあるのかを不思議そうに見た。
コハル「ここ、誰か座ってたっけ?」
部室の扉の外で、その言葉を聞いたハナコは中へ入れなかった。
机には自分の教科書が残されている。
けれど名前が薄くなっていた。
写真から姿が消えたわけではない。
先生との写真にはハナコがいる。
補習授業部の集合写真にも、彼女は笑って写っている。
しかし写真を見た人は、彼女が誰なのか分からなくなっていく。
ナギサは事態を重く見て、ハナコに関する情報の制限を決めた。
ナギサ「これは処罰ではありません」
ティーパーティーの会議室で、ナギサは静かに告げた。
ナギサ「あなたの存在を隔離するためでもない。これ以上、記憶障害を拡大させないためです」
ハナコ「分かっています」
ナギサ「旧聖堂の遺物については調査中です。解除方法が見つかるまで、人との接触を控えてください」
ハナコ「はい」
ナギサ「ハナコさん」
ハナコ「何でしょう?」
ナギサ「あなたを疑っているわけではありません」
ハナコ「ええ。存じています」
ハナコは美しく微笑んだ。
ハナコ「ですが、私のことを知るほど危険になるのなら、疑うことと結果は変わりませんね」
ナギサ「それは……」
ハナコ「失礼しました。少し意地の悪い言い方でした」
ナギサは言葉を失った。
ハナコは一礼し、会議室を出る。
廊下には先生が待っていた。
先生「ハナコ」
ハナコ「名前を覚えていてくださったのですね」
先生「端末に記録しているから」
先生は端末を見せた。
画面の最上部に、短い文章が表示されている。
『浦和ハナコ。補習授業部の生徒。私は彼女を忘れている。彼女を傷つけないこと』
ハナコは文字を見つめた。
ハナコ「傷つけないこと、ですか」
先生「今の私は、知らないうちにハナコを傷つけるかもしれない。だから、毎朝確認することにしたんだ」
ハナコ「優しいのですね」
先生「ハナコは、そう思わない?」
ハナコ「他の生徒が同じ状況でも、先生は同じことをなさるでしょう?」
先生「そうだね」
ハナコ「でしたら、先生が優しい大人だというだけです」
先生「それでは足りない?」
ハナコは答えなかった。
先生は少し迷ってから、言葉を続ける。
先生「ナギサから聞いた。しばらく、人との接触を控えることになったんだね」
ハナコ「はい」
先生「私は反対したよ」
ハナコ「どうしてですか?」
先生「一人で隔離すれば解決するとは思えないから」
ハナコ「ですが、私と話したヒフミちゃんたちは記憶を失い始めています」
先生「だからといって、ハナコ一人に負担を押しつけるのは違う」
ハナコ「先生は、私を知らないのに?」
先生「知らないから、これから知ろうとしてる」
ハナコ「それが皆さんを危険に晒すとしても?」
先生「危険を避ける方法を一緒に探すよ」
ハナコ「必要ありません」
ハナコの声が、思った以上に強く響いた。
先生が足を止める。
ハナコ「もう私のことを調べないでください」
先生「ハナコ」
ハナコ「ヒフミちゃんたちにも、私の話をしないよう伝えてください」
先生「それでいいの?」
ハナコ「皆さんの記憶を守るためです」
先生「ハナコ自身は?」
ハナコ「私は覚えていますから」
先生「一人だけで?」
ハナコ「はい」
ハナコは笑った。
ハナコ「皆さんが私を忘れても、私は皆さんを忘れません。それなら、何も失われてはいないでしょう?」
先生「私はそう思わない」
ハナコ「先生に何が分かるのですか?」
言ってから、ハナコの顔が強張った。
先生は怒らなかった。
先生「分からないよ」
静かな声だった。
先生「ハナコのことを覚えていないから、今の苦しさを全部分かるとは言えない」
ハナコ「でしたら――」
先生「でも、分からないまま置いていきたくない」
ハナコ「なぜですか?」
先生「私は先生だからね」
その答えに、ハナコの胸の奥で何かが冷えた。
先生だから。
生徒が困っているから。
浦和ハナコだからではない。
分かっていた。
それ以外の答えを求めること自体が、間違っている。
ハナコ「先生」
先生「うん」
ハナコ「私は、あなたが思っているような生徒ではありませんよ」
先生「どういうこと?」
ハナコ「補習授業部へ入ったのも、皆さんと親しくなったのも、すべて計算でした」
先生の表情がわずかに変わる。
ハナコ「ヒフミちゃんの人のよさを利用しました。アズサちゃんの事情にも気づいていました。コハルちゃんが私の言葉へ反応することを楽しんでいました」
先生「それは、記録で読んだ内容と違うね」
ハナコ「記録には、私が見せたかったことしか残りません」
先生「なぜ、今それを言うの?」
ハナコ「先生に、私を知ろうとすることを諦めていただくためです」
先生「本当に全部、計算だった?」
ハナコ「はい」
嘘だった。
すべてが嘘というわけではないからこそ、残酷な言葉だった。
先生「今の私は、ハナコの言葉が本当かどうか判断できない」
ハナコ「それで結構です」
先生「信じるための記憶がないから」
その言葉が、ハナコの胸へ刺さった。
先生は責めているわけではない。
ただ事実を述べただけだった。
それでも、続く言葉を聞く余裕はなかった。
先生「今の私は、まだハナコを信じる根拠を持っていない。でも――」
ハナコ「十分です」
ハナコは先生の言葉を遮った。
ハナコ「今の言葉だけで、十分です」
先生「待って。最後まで聞いて」
ハナコ「失礼します」
踵を返す。
走ってはいけない。
取り乱してはいけない。
ハナコは歩調を崩さず、その場を離れた。
角を曲がり、先生から見えなくなったところで、壁へ手をつく。
呼吸がうまくできない。
ハナコ「……信じる根拠がない」
自分で望んだ言葉だった。
嫌われれば、先生は追ってこない。
先生が自分を知ろうとしなければ、記憶はこれ以上傷つかない。
正しい結果だ。
望んだとおりだった。
ハナコ「よかったですね、ハナコ」
笑おうとした。
うまく口角が上がらなかった。
ハナコは補習授業部から離れた。
授業も、食事も、一人で済ませた。
トリニティの旧寮に空き部屋を用意され、必要なものは扉の前へ置かれた。
誰とも顔を合わせない。
誰にも名前を呼ばれない。
数日もすると、廊下ですれ違う生徒たちはハナコを見ても、転入生だと思うようになった。
生徒「すみません。どちらの部活の方ですか?」
ハナコ「どこにも所属していません」
生徒「制服はトリニティのものですよね?」
ハナコ「ええ。ですが、お気になさらず」
自分の部屋へ戻る。
机の上には、補習授業部の集合写真が置かれている。
ヒフミ。
アズサ。
コハル。
先生。
そしてハナコ。
ハナコだけが、少し離れて立っているように見えた。
もちろん、実際に距離が変わったわけではない。
彼女自身の見え方が変わっただけだ。
端末には、先生から毎日メッセージが届いた。
先生『おはよう。体調はどう?』
先生『返事はしなくてもいいよ。必要なものがあれば教えてほしい』
先生『今日、旧聖堂の調査で新しい記録が見つかった』
先生『名前を失う現象は、遺物の儀式が途中で止まったことが原因かもしれない』
ハナコは一度も返信しなかった。
先生がメッセージを送り続ければ、そのたびにハナコを意識する。
記憶を失うかもしれない。
だから、何も返してはいけない。
それなのに、届いた文章は何度も読み返した。
ある朝。
毎日届いていたメッセージが来なかった。
昼になっても、夜になっても届かない。
ハナコは端末を手にしたまま、何時間も画面を見つめていた。
ハナコ「これで、よかったのです」
先生は諦めた。
自分のことを忘れた。
望んだとおりだ。
ハナコ「よかったではありませんか」
静かな部屋に、自分の声だけが響く。
集合写真を伏せる。
ベッドへ横になり、毛布を頭まで被った。
眠れるはずがなかった。
翌日、部屋の外に食事が届かなかった。
さらにその翌日には、旧寮の管理人が部屋を開けようとした。
管理人「おかしいですね。ここは空き部屋のはずですが」
扉の向こうで、鍵を回す音がする。
ハナコは慌てて内側から扉を押さえた。
管理人「誰かいるのですか?」
ハナコ「申し訳ありません。部屋の割り当てに間違いがあったようです」
管理人「あなたは?」
ハナコ「すぐに出ていきます」
最低限の荷物をまとめ、窓から外へ出た。
もう、トリニティの在籍記録からも名前が消え始めている。
端末を確認すると、生徒証が認証されなくなっていた。
銀行口座。
寮の登録。
授業の履歴。
補習授業部の活動記録。
すべてから、『浦和ハナコ』の文字が薄れている。
旧聖堂で見た文章が脳裏に浮かぶ。
『告解した者は名を得る。偽りを抱く者は名を失う』
遺物は、まだ自分を見ている。
人との繋がりだけではない。
最後には、ハナコ自身からも浦和ハナコを消すつもりなのだ。
端末に一件のメッセージが届いた。
差出人は表示されていない。
『真実を告げなさい』
『あなたが隠していることを、すべて』
『さもなくば、誰の記憶にも残らない』
ハナコ「告解、ですか」
ハナコは笑った。
ハナコ「随分と悪趣味ですね」
次の文章が表示される。
『あなたは誰にも、本当の自分を見せなかった』
『だから、誰も本当のあなたを覚えていない』
笑顔が消える。
『浦和ハナコは、最初から存在しなかった』
ハナコ「違います」
『ならば、誰があなたを知っている?』
答えられなかった。
ヒフミたちは忘れ始めている。
先生はすでに忘れた。
トリニティの記録からも消えた。
ハナコ自身でさえ、本当の自分がどこにあるのか分からない。
頭がよく、周囲の思惑を読み、求められた役割を演じる。
期待されることに疲れれば、わざと軽薄な言葉を使って遠ざける。
誰かが近づけば、冗談で試す。
それでも離れなかった人にだけ、ほんの少し本心を見せる。
けれど、すべては少しずつだった。
誰にも全てを渡したことはない。
ハナコ「私は……」
端末が黒い光を放つ。
旧聖堂の円盤と同じ光だった。
周囲の景色が歪む。
気づいたとき、ハナコは旧聖堂の地下に立っていた。
封印されていたはずの円盤が、祭壇の上で脈打っている。
削られた名前の一つに、文字が浮かび始めていた。
『浦和ハナコ』
ただし、名前の半分はすでに削れている。
???『告解しなさい』
誰かの声ではなかった。
壁。
床。
円盤。
空間そのものがハナコへ語りかけている。
???『偽りを捨てれば、名は残る』
ハナコ「誰に告げればよろしいのですか?」
???『あなたを知る者へ』
ハナコ「もう誰もいません」
???『ならば、あなたにも名は必要ない』
円盤の名前が、さらに削られる。
自分が何をしていたのか、分からなくなり始める。
補習授業部へ入る前の記憶。
ヒフミと出会った日のこと。
コハルをからかって、本気で怒られたこと。
アズサが初めて自分を仲間と呼んだときの声。
先生と交わした会話。
大切なものから先に、輪郭がぼやけていく。
ハナコ「やめてください」
???『あなたが望んだ』
ハナコ「望んでいません」
???『皆の記憶を守るため、自分を忘れさせた』
ハナコ「それは……」
???『あなた一人が消えれば、全員が救われる』
円盤の前に、ヒフミたちの姿が浮かぶ。
ハナコのいない補習授業部。
ヒフミは笑っている。
アズサも穏やかに過ごしている。
コハルは赤点を回避している。
先生も、いつもどおり生徒たちに囲まれている。
誰も困っていない。
誰も泣いていない。
???『あなたがいなくても、何も変わらない』
ハナコ「そうですね」
ハナコは映像へ近づいた。
自分がいないことを除けば、理想的な光景だった。
ハナコ「ヒフミちゃんは、私がいなくても多くの人に愛されます」
映像の中で、ヒフミが笑う。
ハナコ「アズサちゃんは、もう一人でも歩けます」
アズサは仲間たちと戦術を学んでいる。
ハナコ「コハルちゃんも、いつか自分を認められるようになるでしょう」
コハルは合格通知を手にしていた。
ハナコ「先生には、私以外にも大切な生徒が大勢います」
先生は笑っている。
ハナコの知らない笑顔ではない。
以前、自分にも向けてくれていた笑顔だ。
???『ならば、名を捨てなさい』
円盤から黒い手が伸びる。
ハナコは抵抗しなかった。
???『誰もあなたを忘れたことに気づかない』
ハナコ「それなら、皆さんは苦しまずに済みますか?」
???『すべて元に戻る』
ハナコ「先生も?」
???『あなたを忘れたまま、幸福に生きる』
ハナコは目を閉じた。
その言葉だけで、十分だった。
ハナコ「分かりました」
黒い手が、ハナコの頬へ触れる。
冷たい。
名前も、記憶も、感情も、すべてが吸い取られていく。
ハナコ「これで、よかったのです」
声が震えた。
ハナコ「私は最初から、そうするつもりでしたから」
???『偽り』
ハナコ「違います」
???『あなたは、忘れられたくない』
ハナコ「違う」
???『愛されたかった』
ハナコ「黙ってください」
???『特別になりたかった』
ハナコ「やめて」
???『先生に、あなただけを見てほしかった』
ハナコ「やめてください!」
黒い手を振り払う。
円盤から笑い声のような音が響く。
???『告解しなさい』
ハナコ「誰に言えばいいのですか!」
ハナコの声が、地下聖堂へ響いた。
ハナコ「私を知る人など、もうどこにもいないではありませんか!」
先生「ここにいるよ」
背後から声がした。
ハナコは振り返れなかった。
聞き間違いだと思った。
自分の記憶が作り出した偽物かもしれない。
先生「ハナコ」
先生が、もう一度名前を呼ぶ。
ハナコはゆっくりと振り返った。
地下聖堂の入り口に、先生が立っていた。
額から血が流れ、服は埃で汚れている。
片手には、黒い文字が何重にも書かれていた。
『ハナコを探せ』
『浦和ハナコを忘れるな』
『彼女を一人にするな』
ハナコ「……どうして」
先生「遅くなってごめん」
ハナコ「私のことを、覚えているのですか?」
先生は答えられなかった。
その沈黙だけで、ハナコには分かった。
ハナコ「覚えていないのですね」
先生「うん」
ハナコ「でしたら、なぜ来たのですか?」
先生「手に書いてあったから」
ハナコ「それだけで?」
先生「端末の記録は消えた。ナギサも、ヒフミたちも、ハナコの名前を思い出せなかった。でも、私は毎朝この文字を書き直していたみたいなんだ」
先生は手のひらを見せた。
何度洗っても消えないように、油性のインクで強く書かれている。
先生「誰が書いたのか、最初は分からなかった。自分の字なのにね」
ハナコ「それなら、無視すればよかったではありませんか」
先生「できなかった」
ハナコ「どうして?」
先生「忘れるたびに、私はハナコを探そうとしていたから」
先生は一歩ずつ近づく。
先生「記憶はない。でも、昨日の私も、一昨日の私も、その前の私も、ハナコを一人にしてはいけないと思った」
ハナコ「先生だからでしょう?」
先生「そうだよ」
ハナコの顔が歪む。
やはり、同じ答えだった。
先生「でも、それだけじゃないと思う」
ハナコ「覚えていないのに、どうして分かるのですか」
先生「ハナコのことを調べた記録は消えても、感情までは全部消えなかったから」
先生は胸元を押さえた。
先生「名前を見ると、苦しくなった。空いている椅子を見ると、誰かを待っている気がした。紅茶の砂糖を見ると、疲れている誰かへ一つ渡さないといけないと思った」
ハナコの目が見開かれる。
先生「覚えていない。それでも、ハナコを大切にしていた痕跡が、私の中に残っていた」
ハナコ「そんなものは……」
先生「根拠にはならないかもしれない」
ハナコ「先生は、私を信じる根拠がないとおっしゃいました」
先生「最後まで言えなかったことがある」
先生はハナコの前で足を止める。
先生「記憶がなくて、信じる根拠を持っていなかった。でも、これからのハナコを見て、信じることはできる。そう言おうとした」
ハナコ「今さらです」
先生「うん。遅かった」
ハナコ「私は、先生を騙しました」
先生「そうかもしれないね」
ハナコ「ヒフミちゃんたちのことも利用しました」
先生「それは本人たちに聞かないと分からない」
ハナコ「もう誰も、私を覚えていません」
ヒフミ「それでも、来ました!」
聖堂の入り口から、別の声が響いた。
ヒフミが立っている。
その隣にアズサとコハルもいた。
ハナコ「どうして……」
コハル「知らないわよ!」
コハルは目元を擦り、怒ったように叫んだ。
コハル「先生が急にいなくなったから追いかけてきただけ! あんたが誰かなんて、全然覚えてない!」
ハナコ「でしたら、帰ってください」
コハル「嫌よ!」
ハナコ「なぜですか?」
コハル「分からないから腹が立つのよ!」
コハルは胸元から、小さなノートを取り出した。
コハル「部室に、知らない人のノートがあった。中に私の勉強の癖とか、苦手な問題とか、全部書いてあった」
ハナコ「それは……」
コハル「余計なお世話よ! 勝手に人のことを見て、勝手にいなくなるなんて最低!」
コハルの声は震えていた。
コハル「だから、直接文句を言いに来たの!」
アズサが一歩前へ出る。
アズサ「私は、作戦記録を確認した」
ハナコ「アズサちゃん」
アズサ「どの作戦にも、一人分の空白があった。誰かが私の死角を補い、退路を確保し、無謀な行動を止めていた」
ハナコ「それは、記録に残っていたからでしょう」
アズサ「記録に名前はなかった」
アズサは自分の胸へ手を置く。
アズサ「それでも、私はその誰かを信頼していた。戦場では、理由のない信頼は生まれない」
最後に、ヒフミが前へ出る。
両手には、四つの紙袋を持っていた。
ヒフミ「私は、今日もお菓子を四人分用意していました」
ハナコ「補習授業部は三人でしょう?」
ヒフミ「そうなんです。誰の分か、分かりませんでした」
ヒフミは一つの紙袋を見つめる。
ヒフミ「でも、三人分だけにしようとすると、胸が苦しくなったんです」
ハナコ「ヒフミちゃん……」
ヒフミ「私は、あなたのことを覚えていません」
ヒフミの目から涙が落ちる。
ヒフミ「それでも、あなたがいないことが悲しいんです」
ハナコは後ずさった。
喜んではいけない。
彼女たちは自分を覚えていない。
記憶の残り香に引かれて来ただけだ。
???『告解しなさい』
円盤が光る。
地下聖堂の扉が閉まり、黒い手が壁一面から伸びる。
???『真実を告げれば名を得る』
???『拒絶されれば、永遠に名を失う』
先生がハナコの前へ立つ。
先生「何をすればいい?」
ハナコ「私が、本心を話す必要があるようです」
先生「それで戻せる?」
ハナコ「分かりません」
先生「なら、一緒に別の方法を探そう」
ハナコ「時間がありません」
円盤に刻まれた名前が、残り一文字になっている。
ハナコ「私が消えれば、皆さんは解放されます」
先生「それは駄目だよ」
ハナコ「ですが」
先生「ハナコが自分を消すことを、正しいとは言えない」
ハナコ「先生は、私を知りません」
先生「知ろうとしてる」
ハナコ「私が話したことを聞いて、嫌いになるかもしれませんよ」
先生「そうかもしれない」
先生は安易に否定しなかった。
先生「全部を聞いて、すぐに受け入れられないこともあると思う。それでも、話したことを理由にハナコが消えていいとは思わない」
ハナコ「ずるいですね」
先生「うん」
ハナコ「そこは否定してください」
先生「ごめん」
黒い手が近づいてくる。
ヒナコは――。
違う。
名前を間違えた。
自分の中から、自分自身が消え始めている。
ハナコ「私は……」
声が出ない。
先生が急かさず、待っている。
ヒフミたちも、何も言わなかった。
ハナコは胸元で両手を握りしめる。
ハナコ「私は、頭がいいと言われることが嫌でした」
最初の言葉が落ちる。
ハナコ「何でも分かるのだから、何でもできるだろうと言われました。期待され、役割を押しつけられ、それに応えられてしまう自分も嫌いでした」
円盤の光が揺らぐ。
ハナコ「期待を裏切れば、皆さんは私を諦めてくれると思いました。ですから、わざと試験を間違えました。ふさわしくない言葉を使い、軽薄な人間のふりをしました」
コハル「ふりだったの?」
ハナコ「すべてではありませんよ」
ハナコは、かすかに笑った。
ハナコ「皆さんを困らせることを、楽しいと思っていたのも本当です」
コハル「やっぱり最低!」
ハナコ「はい」
コハルの反応が、あまりにも変わらない。
胸が痛くなるほど懐かしかった。
ハナコ「ヒフミちゃんの優しさを利用しました」
ヒフミ「はい」
ハナコ「否定してくださらないのですか?」
ヒフミ「ハナコさんが、そう感じているなら」
ヒフミは涙を拭う。
ヒフミ「でも、私が一緒にいたいと思ったことまで、利用された結果にしないでください」
ハナコの唇が震える。
ハナコ「アズサちゃんの事情に、最初から気づいていました」
アズサ「そうだと思う」
ハナコ「それでも、黙って見ていました」
アズサ「私は助けられた」
ハナコ「もっと早く話していれば、危険を減らせたかもしれません」
アズサ「それでも、最後に私を信じた」
アズサは迷わず答える。
アズサ「私は、その選択を覚えていない。だが、今のハナコを見ていれば分かる」
ハナコ「コハルちゃんを、何度もからかいました」
コハル「知ってる!」
ハナコ「覚えていないのでは?」
コハル「覚えてないのに、顔を見ると無性に腹が立つのよ!」
コハルは一歩近づいた。
コハル「でも、嫌いだから腹が立つんじゃない。あんたが一人で全部決めるから腹が立つの!」
黒い手が崩れ、灰のように床へ落ちる。
残るのは、先生への告解だけだった。
ハナコは先生を見られなかった。
ハナコ「先生」
先生「うん」
ハナコ「私は、先生に見つけてほしかったのです」
呼吸が苦しい。
逃げるための冗談が出てこない。
ハナコ「何も言わなくても、本当の私に気づいてほしいと思っていました」
先生「うん」
ハナコ「気づかれそうになると、怖くなりました。失望される前に、私から遠ざけようとしました」
先生「そうだったんだね」
ハナコ「先生が他の生徒を見るたび、嫉妬しました」
ヒフミたちの前で言ってしまった。
顔が熱い。
それでも、止められない。
ハナコ「先生は皆さんの先生です。誰にでも優しく、誰のためにも時間を使う。そのことを理解していました」
ハナコは制服の裾を握る。
ハナコ「それでも、私だけは少し違うと思いたかった」
先生「ハナコ」
ハナコ「私だけを見てほしいと思いました。私だけは、言葉にしなくても分かってほしかった。先生にとって、特別な生徒になりたかったのです」
円盤に亀裂が入る。
ハナコ「先生が私を忘れたとき、皆さんを守らなければならないと思いました」
涙が頬を伝った。
ハナコ「それは嘘ではありません」
もう笑えなかった。
ハナコ「ですが、本当は怖かった」
先生が手を伸ばそうとする。
ハナコは一度だけ身を引いた。
ハナコ「忘れられるくらいなら、嫌われたほうがよかったです」
声が崩れる。
ハナコ「嫌われたなら、先生の中に私は残ります。最低な生徒でも、面倒な生徒でも、記憶には残れる」
目元を押さえても、涙が止まらない。
ハナコ「知らない人を見るような目で、私を見ないでほしかった」
先生「ごめん」
ハナコ「謝らないでください」
先生「傷つけたことは謝らせてほしい」
ハナコ「先生のせいではありません!」
先生「それでも、ハナコが苦しんでいたのに、私は言葉を選べなかった」
ハナコ「覚えていなかったのですから、仕方がないではありませんか!」
先生「仕方がなくても、傷つかなかったことにはならないよ」
先生の手が、もう一度差し出される。
先生「今の私には、まだ思い出せない」
ハナコの胸が沈む。
それでも先生は、手を引かなかった。
先生「でも、ここで聞いたことは忘れたくない。ハナコが隠してきた気持ちを、今度は勝手に決めつけたくない」
ハナコ「私が、どうしたいかを聞くのですか?」
先生「うん」
ハナコ「ずるい質問です」
先生「答えは急がなくてもいいよ」
ハナコは差し出された手を見つめる。
触れれば、また失うかもしれない。
拒絶されるかもしれない。
それでも、今度は自分で選ばなければならない。
ハナコ「……帰りたいです」
先生「どこへ?」
ハナコ「補習授業部へ」
ヒフミが泣きながら笑う。
ハナコ「ヒフミちゃんたちと、もう一度、最初から始めたいです」
アズサ「最初からでなくてもいい」
コハル「忘れてるところは、あんたが責任を持って説明しなさいよ」
ハナコ「はい」
ハナコは先生を見る。
ハナコ「それから、先生にも」
先生「うん」
ハナコ「もう一度、私を知っていただきたいです」
先生「分かった」
ハナコ「以前と同じ私ではないかもしれませんよ」
先生「同じでなくてもいい。今のハナコを教えてほしい」
ハナコは先生の手を取った。
円盤が砕ける。
刻まれていた名前が光となり、地下聖堂を満たした。
目を覚ましたとき、ハナコはトリニティの医務室にいた。
傍らにはヒフミがいる。
ヒフミ「ハナコさん!」
ハナコ「ヒフミちゃん」
ヒフミ「よかった……!」
ヒフミはハナコの手を握った。
今度は、戸惑いがない。
ハナコ「私を覚えていますか?」
ヒフミ「はい。全部、とは言えませんけど」
ヒフミは申し訳なさそうに目を伏せる。
ヒフミ「抜けているところがあります。でも、ハナコさんが大切な仲間だということは分かります」
アズサ「記憶は時間と共に戻る可能性があるらしい」
反対側にはアズサがいた。
コハルは椅子に座ったまま眠っている。
ハナコが起きた気配に反応し、顔を上げた。
コハル「遅い!」
ハナコ「コハルちゃん?」
コハル「どれだけ寝てるのよ! 心配したじゃない!」
ハナコ「まあ。私のことを覚えているのですか?」
コハル「当たり前でしょ!」
コハルは顔を赤くして視線を逸らす。
コハル「全部じゃないけど……。あんたが変なことばかり言う最低な人だってことは思い出した」
ハナコ「それだけですか?」
コハル「それだけで十分よ!」
ハナコは小さく笑った。
それから、室内を見回す。
ハナコ「先生は?」
三人が黙る。
その反応だけで、ハナコは察した。
ヒフミ「先生も、無事です」
ハナコ「私を覚えていないのですね」
アズサ「……ああ」
胸が痛んだ。
円盤は壊れた。
名前も戻った。
それでも失われた記憶が、すぐに元通りになるわけではなかった。
ハナコ「そうですか」
ヒフミ「先生は、今もハナコさんのことを調べています」
ハナコ「無理をなさらなくてもよいのですが」
コハル「本人に言いなさいよ」
医務室の扉が開く。
先生が入ってきた。
両手には、二つのカップを持っている。
先生「起きていたんだね」
ハナコ「先生」
先生「体調は?」
ハナコ「問題ありません」
先生はベッド脇の机へ、カップを一つ置いた。
先生「紅茶だよ」
ハナコ「ありがとうございます」
先生「砂糖は一つにした」
ハナコの手が止まる。
カップの中を見る。
淡い色の紅茶に、溶けかけた砂糖が揺れていた。
ハナコ「どうして……」
先生「分からない」
先生は自分の頭へ手を当てた。
先生「ハナコは普段、砂糖を入れない。でも、疲れているときだけ一つ入れる。そんな気がしたんだ」
ハナコ「思い出したのですか?」
先生「まだ、はっきりとは」
先生は椅子へ座った。
先生「でも、声を聞いたことがある気がする」
ハナコ「どのような声ですか?」
先生「私に、どこまで覚えているのか尋ねる声」
ハナコの目に涙が浮かぶ。
先生「名前は?」
ハナコ「浦和ハナコです」
先生「所属は?」
ハナコ「トリニティ総合学園、補習授業部」
先生「得意な科目は?」
ハナコ「ほとんどすべてです。わざと間違えなければ、ですが」
先生は微笑んだ。
先生「それから、疲れているときだけ紅茶に砂糖を一つ入れる」
ハナコ「はい」
先生「他には?」
ハナコは一度、目を閉じた。
以前なら、先生に全て気づいてほしいと願っていた。
言わなくても見つけてほしいと思っていた。
今度は、自分の言葉で伝える。
ハナコ「分かってほしいと思いながら、分かられそうになると冗談で逃げます」
先生「うん」
ハナコ「他の人より少しだけ、先生に特別扱いしてほしいと思っています」
先生「それは、今ここで答えるのが難しいかな」
ハナコ「存じています」
ハナコは涙を拭った。
ハナコ「ですが、忘れないでくださいね」
先生「努力するよ」
ハナコ「努力では困ります」
先生「それなら、忘れたときは何度でも教えてくれる?」
ハナコ「私から、ですか?」
先生「うん。私も何度でも、ハナコを知ろうとするから」
ハナコはカップを手に取った。
砂糖の入った紅茶は、いつもより少し甘い。
ハナコ「分かりました」
先生「ありがとう」
ハナコ「ただし、覚悟してくださいね」
先生「何を?」
ハナコは久しぶりに、いつもの笑顔を浮かべた。
逃げるためではない。
泣いていたことを隠すためでもない。
大切な人たちの前へ戻るための笑顔だった。
ハナコ「一度忘れられた分、これからは先生の記憶を私でいっぱいにして差し上げます」
コハル「結局そういうこと言うの!?」
ヒフミ「あはは……ハナコさんらしいですね」
アズサ「記憶の定着には、反復が有効だと聞いた」
コハル「アズサは真面目に受け取らないで!」
騒がしい声が医務室へ広がる。
先生はまだ、ハナコとの時間をすべて思い出したわけではない。
消えた記憶も、傷ついた心も、すぐに元へ戻ることはない。
それでもハナコの名前を呼ぶ声は、もう他人へ向けるものではなかった。
先生「ハナコ」
ハナコ「はい、先生」
先生「おかえり」
ハナコはカップを置いた。
今度は迷わず、差し出された先生の手を握る。
ハナコ「ただいま戻りました」