『メイドインアビス』が好きで、ずっと色々考えていました。
もし自分がこの世界に行ったらどうするんだろう。
アビスを実際に見たら、本当にワクワクできるのかな。
原作を知っているなら、あの出来事を変えようとするのかな。
そんなことを考えているうちに、この物語を書いてみたくなりました。
自分は『メイドインアビス』の、美しい景色とワクワクする冒険が大好きです。
でも同時に、
「どうにかならなかったのかな」
と思ってしまう場面もたくさんあります。
だからこの作品では、原作のつらい部分を全部消して優しい世界にする、というより、
あの世界の厳しさを残したまま、それでも別の未来を探したい
と思っています。
正直、この方針はかなり難しいです。
簡単に助けてしまえば、せっかくのアビスらしさがなくなってしまう。
逆に原作通りに進みすぎれば、この二次創作を書く意味がなくなってしまう。
なので主人公には、かなり苦労してもらう予定です。
たぶん作者である自分が、
「いやこれ、どうやって助けるんだよ……」
となる場面もいっぱい出てくると思います。
でも、それも含めて楽しんで書いていきたいです。
第一話は、まだ冒険の始まりですらありません。
主人公は強くないです。
探窟家でもありません。
特殊能力もありません。
そして何より、
アビスを目の前にして普通にビビっています。
自分だったら多分もっとビビります。
画面越しなら「アビス行ってみたい!」と思えても、現地であの大穴を見たら、
「いや無理無理無理」
ってなる気がします。
そんな、ごく普通の人間から始まります。
ただ一つ普通じゃないのは、
彼がこの世界について、少しだけ知っていること。
それが幸運なのか。
それとも、とんでもなく残酷なことなのか。
自分でも、この物語を書きながら考えていきたいと思っています。
原作知識がなくてもぎり楽しく読めるとは思いますが読んでいた方が100倍面白くなると思うのでぜひ原作の方をお読みください。
長い物語になる予定ですが、主人公と一緒に少しずつ奈落へ降りていただけたら嬉しいです。
それでは第一話。
よろしくお願いします。
最初に鼻へ入ってきたのは、潮の匂いだった。
爽やかな海風――なんて綺麗なものではない。
潮。魚。濡れた木箱。汗。古い縄。それから、何かが絶妙に腐りかけている匂い。
「……くっさ」
「お、生きてるな」
「え」
「第一声がそれなら元気だ」
知らない男の声がした。
俺は目を開けた。
空が青い。
やたらと青い。
そして、その青空を背負うようにして、日に焼けた中年男が俺を覗き込んでいた。
無精髭。分厚い手。肩には太い縄。腰には金属製の道具がいくつもぶら下がっている。
「……誰ですか」
「こっちの台詞だよ。兄ちゃん、道の真ん中で寝る趣味でもあんのか?」
「ないです」
「酔ってる?」
「酒は飲んでません」
「じゃあ殴られた?」
「たぶん殴られてないです」
「たぶん?」
「今ちょっと人生全体に自信がなくて」
男が俺の顔を数秒見たあと、鼻で笑った。
「面倒くせえ若者だな」
「すみません」
「謝れるならまだ大丈夫だ。立てるか?」
「やってみます」
「立つだけだぞ?」
差し出された手を借りて身体を起こす。
立てた。
足は動く。
頭痛もない。
血も出ていない。
服は昨日のままだった。薄手のパーカーに黒いパンツ、スニーカー。
見慣れた自分の格好。
問題は、その見慣れた格好が周囲から凄まじく浮いていることだった。
「……何これ」
「何が?」
「いや、全部です」
「全部?」
周囲を見る。
石造りの家。
急な坂道。
木箱を積んだ荷車。
籠いっぱいの魚。
道の向こうでは、エプロン姿の女性が見たこともない大きな魚を捌いている。
「今日のは脂乗ってるよー!」
「三匹でその値段は高えって!」
「だったら自分で海に飛び込んで捕ってきな!」
「俺が捕ったらもっと安く売るね!」
「じゃあ明日から商売敵だね!」
朝市らしい。
人が多い。
活気もある。
でも、電柱がない。
車がない。
アスファルトもない。
看板らしき板には、見たことのない文字が彫られている。
「……撮影?」
「何の?」
「映画とか」
「エイガ?」
「あ、はい。違いますね」
テーマパーク。
海外ロケ。
悪質なドッキリ。
寝ている間に拉致されて、ものすごく金のかかったセットへ放り込まれた。
どれも無理がある。
というか最後のやつだったら犯罪である。
「兄ちゃん、頭打ってんじゃねえの?」
「その可能性、急に高くなってきました」
「見せてみろ」
「いや、そこまでしなくても」
「いいから」
男のごつい手が髪を掻き分ける。
「いてっ、いてて、髪引っ張ってます」
「うるせえな。血は出てねえ」
「雑な診察だなあ」
「港の道端で寝てる奴に、医者みたいな診察求めんな」
港。
その言葉に、俺はポケットを探った。
財布。
鍵。
ワイヤレスイヤホン。
スマートフォン。
「あった……!」
「何だ?」
「文明」
「は?」
「俺の文明が生きてた」
「やっぱ頭やってんな、兄ちゃん」
スマホの電源を入れる。
画面が点いた。
八月十九日。
午前三時十七分。
バッテリー七十八パーセント。
圏外。
「…………」
俺は空を見上げた。
太陽。
どう見ても午前三時ではない。
「壊れた?」
「その薄い板が何だか知らねえが、顔色がまた悪くなったぞ」
「時計です」
「それが?」
「あと電話で、カメラで、地図で、財布で、暇つぶしで……」
「板だろ?」
「俺の世界だと、その板がないと人は結構困るんです」
「変なとこから来たんだな」
男が覗き込もうとしたので、反射的に画面を伏せた。
「見せねえの?」
「電池が命なんで」
「デンチ?」
「……説明が長くなるやつです」
「じゃあいい」
あっさり引いた。
助かる。
こっちは説明できる気がしない。
スマホを機内モードにして、画面を消した。
「名前は?」
「湊です」
「ミナト?」
「はい」
「変わった名前だな。どこの船だ?」
「船?」
「外国から来たんじゃねえのか、その服」
「あー……」
外国。
確かに、その扱いが一番自然かもしれない。
「たぶん、かなり遠いところから」
「また“たぶん”か」
「今まで生きてきて、一日でこんなに“たぶん”って言ったの初めてです」
「そりゃ良かったな。記録更新だ」
「全然嬉しくない」
男は笑う。
俺も少しだけ笑った。
変な状況だ。
でも人と話せるだけで、思ったより気持ちが落ち着いた。
「で」
俺は聞いた。
「ここ、どこです?」
男の笑いが止まった。
「……本気?」
「本気です」
「船から降りたんじゃねえのか?」
「気づいたらそこに寝てました」
「荷物は?」
「これだけ」
「宿は?」
「ないです」
「金は?」
「あります」
「お、なら――」
俺は財布から千円札を一枚出した。
男が受け取る。
表を見る。
裏を見る。
光に透かす。
「何これ」
「ですよね」
「紙?」
「俺のところではお金でした」
「ここじゃ紙だな」
「ですよね……」
返された千円札が、人生で一番頼りなく見えた。
日本円、死亡。
所持金、実質ゼロ。
スマホ、残量七十八パーセント。
身分証、学生証。
この世界での価値、多分ゼロ。
職業、大学生。
こっちでの価値、たぶんもっとゼロ。
「……詰んでない?」
「何が?」
「俺の人生です」
「若いんだから働け」
「急に正論やめてもらえます?」
「じゃあ寝てろ。道端で」
「働きます」
人間、異世界でも労働からは逃げられないらしい。
悲しい発見だった。
「で、ここはオースだ」
「……え?」
「だから。オース」
男は何でもないことのように言った。
「大穴の街、オース。そこまで忘れてんなら、本当に一回診てもらった方がいいぞ」
音が遠くなった。
市場の声。
荷車の車輪。
海鳥。
全部が一瞬だけ遠ざかった。
「……今」
「あ?」
「何て言いました?」
「オース」
「もう一回」
「オース」
「……大穴の?」
「ああ」
「その大穴って」
「お前、ほんとに何も――」
「どこです?」
声が自分でも分かるくらい変わっていた。
男が眉を寄せる。
「どこって、お前……」
俺の肩越しを指さした。
「後ろだよ」
振り返った。
そして。
世界が、そこで途切れていた。
――穴。
そんな一文字で表現していい大きさじゃない。
街の向こうから大地そのものが消失している。
遥か向こうに対岸。
切り立った岩壁。
岩肌にへばりつくような緑。
白く細い滝。
中腹を漂う霧。
そのさらに下は見えない。
何か大きな鳥のような影が、穴の中を横切った。
「…………」
「兄ちゃん?」
知っている。
見たことがある。
何度も。
漫画の見開きで。
アニメで。
設定画で。
考察動画の背景で。
画面越しなら、この景色を美しいと思った。
いつかこんな場所を見てみたいとすら思った。
馬鹿だった。
「……アビス」
声が漏れた。
「なんだ。知ってんじゃねえか」
男が笑った。
「…………」
「おい?」
足から力が抜けた。
「お、おい!」
尻餅をつく。
「ちょ、何だ!? 急に!」
「アビス……」
「そうだよ!」
「本物……?」
「偽物のアビスなんかあるのか?」
「俺の世界にはいっぱいありました」
「何言ってんだお前!?」
呼吸が浅い。
指先が冷たい。
頭の中に、知っているものが一気に流れ込んできた。
呪い。
上昇負荷。
原生生物。
毒。
遺物。
成れ果て。
白笛。
深界五層。
イドフロント。
カートリッジ。
ナナチ。
ミーティ。
「……っ」
胃が持ち上がった。
「おい、顔が真っ青だぞ」
「袋……袋あります?」
「は?」
「吐きそう」
「待て待て待て、こっち向くな! 魚箱の脇! そこ!」
「すみ――おえっ」
吐いた。
ほとんど胃液しか出なかった。
「朝から何も食ってねえのか?」
「昨日の夜は食べました……」
「いつの話だよ」
「俺にも分かんないです……」
背中をさすられる。
情けない。
異世界転移者、初戦。
敵、アビスを目視。
結果、嘔吐。
完全敗北である。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないです」
「そこは即答なんだな」
「今だけは自信あります」
男が困った顔をした。
でも俺は、顔を上げられなかった。
確定するな。
まだ。
まだ偶然かもしれない。
オースという名前の街。
巨大な縦穴。
アビスという名称。
ここまで一致して偶然だったら、むしろそっちの方が怖い。
それでも確認したかった。
「……すみません」
「今度は何だ」
「探窟家っています?」
「いるに決まってんだろ」
心臓が跳ねる。
「笛」
「笛?」
「階級で色が違う?」
男が黙った。
さっきまでの心配そうな目が、少しだけ細くなる。
「お前さ」
「はい」
「何も知らねえんじゃなかったの?」
「……自分でも分かんないです」
「便利だな、記憶がねえって」
「今、俺もそう思いました」
「褒めてねえよ」
「ですよね」
男は俺をしばらく見た。
「赤笛」
「……」
「蒼笛。月笛。黒笛」
一つずつ。
俺の記憶と同じ言葉が出てくる。
「その上が?」
「白笛」
終わった。
もうほぼ確定だ。
「……白笛、今誰がいます?」
「何でそんなこと知りたがる」
「お願いします」
「いや、怖えよ」
「お願いします」
「顔近い顔近い」
「すみません」
一歩下がる。
男は露骨に警戒したままだった。
当然だ。
道端に倒れていた変な服の青年。
街の名前を知らない。
アビスを見て吐く。
なのに探窟家の階級だけ知っている。
俺なら絶対関わりたくない。
「……有名どころで言うなら、不動卿オーゼン」
胃の底が冷えた。
「殲滅卿ライザ」
呼吸を忘れそうになる。
いる。
ライザがいる時代。
そして。
「黎明卿ボンドルド」
ぞわり、と。
背中を冷たいものが走った。
男が言葉を止めた。
「おい」
「……はい」
「今の顔は何だ」
「何がです?」
「“黎明卿”で急に死人みたいな顔したぞ」
「気のせいです」
「さっき吐いた奴が言うと説得力ねえな」
「名前の響きが怖くて」
「嘘つけ」
「ですよね」
「会ったことあんのか?」
「ないです」
「じゃあ何で怖がる?」
「……評判を」
「どこで聞いた」
「遠いところで」
「その遠いところ、白笛の噂だけ届いて街の名前は届かねえの?」
「鋭いなあ」
「お前が雑なんだよ」
何も返せなかった。
ボンドルド。
まだ生きているとか、今も白笛だとか、そういうレベルの話ではない。
この世界に、あの男がいる。
丁寧で。
穏やかで。
愛情さえある。
なのに、その愛情と研究が同じ場所に存在してしまう人間。
画面越しですら恐ろしかった。
実際に会ったら。
俺みたいな存在を知られたら。
「……絶対近づかない」
「何?」
「何でもないです」
「さっきから独り言多いぞ」
「頭が情報処理に失敗してるんで」
「やっぱ診療所行こう」
「同意します」
男が手を差し出す。
「歩ける?」
「たぶん」
「また“たぶん”か」
「今日の俺の口癖になりました」
「明日には直せ」
「明日が来たら考えます」
「縁起でもねえこと言うな」
立ち上がった。
もう一度だけ、アビスを見る。
綺麗だ。
恐ろしい。
その二つが同時に成立していることが、何より嫌だった。
◆
「兄ちゃん、本当に船の名前も分かんねえの?」
「分かりません」
「港に着いた記憶は?」
「ないです」
「誰かと一緒だった?」
「一人でした。たぶん」
「また」
「はいはい、たぶん禁止ですね」
診療所へ向かう道すがら、男から質問攻めにされた。
俺も聞きたいことは山ほどあったので、お互い様だった。
「おじさんは何してる人なんです?」
「おじさん言うな。まだ三十七だ」
「十分おじさんでは?」
「海に戻すぞ」
「すみませんお兄さん」
「急に気持ち悪いな」
「じゃあ何て呼べば」
「好きにしろ」
「おじさん」
「お前いい性格してんな」
少し笑った。
こういうどうでもいい会話がありがたかった。
黙ると、アビスのことばかり考えるから。
「荷運びです?」
「港でな。船荷と探窟家の荷物。たまに遺物も運ぶ」
「遺物」
「その反応は知ってる顔だな」
「……聞いたことだけ」
「どこで?」
「遠い国」
「便利だな、その遠い国」
「俺も今そう思ってます」
坂を上る。
横を、笛を首から下げた少年たちが駆けていった。
赤い笛。
俺は思わず目で追った。
「赤笛……」
「知ってんじゃん」
「今ちょっと記憶が戻ったことにしてください」
「都合いい病気だなあ」
子供たちは笑いながら走っている。
「今日こそ一級品だ!」
「無理無理、お前昨日も石ころ拾ってただろ!」
「遺物かもしれないだろ!」
「ただの石だって!」
普通の子供だ。
漫画の背景じゃない。
実際に笑って、競争して、ぶつかって、一人が怒っている。
「……あんな小さい子も潜るんですね」
「赤笛なら浅いとこだけだ。監督もつく」
「危なくないんですか」
「危ないよ」
あっさり言われた。
「危ないんだ」
「アビスだぞ」
「……ですよね」
「でも、この街じゃ珍しいことでもない」
男は前を向いたまま言った。
「穴から上がってくるもんで街が食ってる。潜る奴がいて、運ぶ奴がいて、買う奴がいる。嫌なら離れりゃいいが、ここで生まれりゃ穴はずっとそこにある」
「怖くないんです?」
「怖いに決まってんだろ」
即答だった。
「え」
「何だその顔」
「もっとこう、“アビスは俺たちの誇りだ!”みたいなの言うかと」
「誰がそんな恥ずかしいこと言うか」
「この街の人、全員アビス大好きなのかと」
「大好きな奴もいる。嫌いな奴もいる。家族取られて憎んでる奴もいりゃ、明日潜りたくて眠れねえ奴もいる」
男がこちらを見る。
「街ってそういうもんだろ」
「……そうですね」
当たり前の答えだった。
なのに妙に刺さった。
俺の中では、オースは「メイドインアビスの舞台」だった。
でも、この人にとっては生活する街だ。
あの赤笛の子供たちにとっても。
魚を売っていた女性にとっても。
ここには、漫画に名前すら出てこない人間が山ほどいる。
「どうした?」
「いや……」
「また気持ち悪い?」
「違います。ちょっと、自分が恥ずかしくなって」
「朝っぱらから忙しい奴だな」
「本当にそう思います」
◆
診療所は、小さな医院と救護所の中間みたいな場所だった。
扉を開けた瞬間、薬草と消毒薬が混じったような匂いがした。
「また怪我人?」
受付らしい女性が、男を見るなり言った。
「俺じゃねえよ」
「珍しい」
「どういう意味だ」
「先週、足に木箱落としたでしょ」
「それは木箱が悪い」
「その前は釣り針を指に刺した」
「魚が悪い」
「その前は酔って階段から」
「俺が悪い」
「やっと認めた」
二人が笑った。
俺は思わず言った。
「常連なんですね」
「お前、黙ってろ」
「元気そうね、この子」
「道で吐いた」
「あら」
「あと街の名前を知らねえ」
「まあ」
「でも白笛の階級は知ってる」
「まあ?」
「黎明卿の名前聞いたら死にそうな顔した」
「ちょっと!」
「全部事実だろ」
受付の女性が俺をじっと見る。
「……何か危ない薬でも?」
「やってません!」
「記憶が混乱してるらしい」
「最初からそう言ってくださいよ!」
「面白い方から言った」
「俺の信用が死んだ!」
女性が口元を押さえて笑った。
「とりあえず先生に診てもらいましょうか」
「お願いします……」
「名前は?」
「湊です」
「ミナトね。じゃあ、これを書いて」
一枚の紙が差し出された。
「…………」
見た。
見直した。
紙を上下逆にした。
戻した。
「どうしたの?」
「……これ、上下どっちです?」
「え?」
「いや、冗談です」
冗談ではなかった。
文字が。
読めない。
会話は分かる。
なのに、紙に書かれた文字は完全に未知だった。
妙な記号の列にしか見えない。
「ミナト?」
「すみません」
乾いた笑いが出た。
「俺、字も読めないみたいです」
女性と男が顔を見合わせた。
「……先生」
女性が奥へ向かって声を張る。
「ちょっと本格的なの来ましたー」
「患者を新商品の紹介みたいに呼ばないで!」
思わず叫ぶ。
男が腹を抱えて笑った。
「笑い事じゃないですよ!」
「いや、お前、こんだけ喋れんのに字だけ全滅って」
「俺が一番怖いわ!」
大穴を見て吐いた直後なのに。
笑っている。
自分でもおかしかった。
でも多分、こうしていないと耐えられなかった。
◆
診察そのものは拍子抜けするほど普通だった。
「頭痛は?」
「ないです」
「吐いた?」
「一回」
「何を見て?」
「アビス」
「……アビス?」
「精神的なやつです」
「なるほど?」
「なるほどって顔してないですよ先生」
年配の医師は俺の瞳を覗き込み、頭を触り、腕や脚を確認した。
「外傷は見当たりませんね」
「じゃあ健康?」
「少なくとも、身体は」
「“身体は”を強調しないでもらえます?」
「街の名前を知らず、文字も読めず、白笛についてだけ妙に詳しい青年を前にすれば、心の方は少し心配になります」
「ぐうの音も出ない」
診察室の隅で、あの男がまた笑った。
「お前、いい先生引いたな」
「帰らないんですか?」
「ここまで来たら結末が気になる」
「見世物じゃないんですよ」
「道で拾った責任だ」
「ちょっといい人っぽく言った」
先生が咳払いした。
「ご家族の名前は分かりますか?」
「……はい」
「自分の年齢は?」
「十九」
「出身は?」
「日本」
「ニホン」
「知らないですよね」
「少なくとも私は」
「ですよね」
ここまでは予想していた。
でも実際に言われると、胸の中に冷たい穴が開く。
「家族の顔も覚えている?」
「覚えてます」
「昨日のことは?」
「……ベッドで寝ました」
「どこの宿?」
「日本の、自宅です」
「そのニホンという国で?」
「はい」
「船に乗った記憶は?」
「ありません」
「では、その次の記憶が港の道端?」
「はい」
先生がペンを止めた。
「奇妙ですね」
「俺も今日一番そう思ってます」
「一番?」
「アビスが二番です」
「……よく分かりませんが、元気はあるようですね」
「元気というか、開き直ってきました」
医師は少し笑った。
その笑いが途切れた後、俺は聞いた。
「先生」
「はい」
「ここから……別の国へ行く船ってあります?」
「もちろん」
「ニホンって名前、探したら見つかると思います?」
「分かりません」
「そうですよね」
「ですが、港には各地から船が来ます。船員や交易商に尋ねる価値はあるでしょう」
「……ありがとうございます」
ゼロではない。
少なくとも今は、そう思っておこう。
「それと、今夜の宿は?」
「ありません」
「金は?」
俺は日本円を出す。
先生が見る。
受付の女性も覗き込む。
「綺麗な紙ね」
「偽造防止すごいんですよ」
「お金なの?」
「でした」
「でした」
女性が同情するように復唱した。
「やめて、その過去形刺さる」
結局、身元不明者向けの簡素な宿泊所を一晩だけ使わせてもらえることになった。
「明日からは?」
俺が聞く。
「働いてください」
先生が言った。
「ですよね」
「若いですから」
「異世界でも労働か……」
「イセカイ?」
「独り言です」
横から男が肩を叩いた。
「港なら人手足りてねえぞ」
「本当ですか?」
「荷運びできんならな」
「できます。多分」
「多分禁止」
「できます!」
「よし」
今日初めて、明日の予定が一つ決まった。
荷運び。
異世界転移初日の就職先候補としては地味すぎる。
でも、今の俺にはありがたかった。
◆
診療所を出る頃には、陽が傾き始めていた。
さっきの男が、宿泊所まで案内してくれることになった。
「何から何まですみません」
「後で港で働いて返せ」
「急に借金みたいになった」
「飯一回くらい奢れ」
「初任給入ったら」
「逃げんなよ」
「逃げる場所ないですし」
言ってから、自分で黙った。
逃げる場所。
本当にないのかもしれない。
男も少しだけ気まずそうな顔をした。
「……まあ、港なら色んな船が来る」
「はい」
「お前の国知ってる奴もいるかもしれねえ」
「はい」
「だから、そんな顔すんな」
「どんな顔です?」
「迷子のガキ」
「十九です」
「十九も三十七から見りゃガキだ」
「おじさんですね」
「海に落とすぞ」
「話戻った!」
また笑った。
そして、ふと聞いた。
「そういえば、おじさん」
「おじさんで定着させんな」
「ライザって、今どこにいるんです?」
男がこちらを見る。
「殲滅卿?」
「はい」
「知らん」
「地上にいます?」
「さあな。白笛なんていちいち居場所を教えてくれる連中じゃねえよ」
「……そうですよね」
「さっきから白笛ばっか気にするな」
「有名人だから」
「黎明卿は怖がるのに?」
「そこ掘ります?」
「気になるだろ」
「俺も説明できるならしたいです」
「本当に変な奴だな」
「今日何回目だろ、それ」
それ以上聞かなかった。
時系列を特定したい。
でも焦るな。
質問しすぎれば怪しまれる。
原作を知っている俺には、名前一つが巨大な情報だ。
現地の人にはそうではない。
その差を忘れたら危ない。
「ここだ」
古い建物の前で男が止まった。
宿泊所というより、安宿に近い。
「受付に話は通ってるはずだ」
「ありがとうございます」
「明日の朝、港に来れるか?」
「場所、覚えられるかな」
「一本道だよ」
「文字読めないんですよ、俺」
「道は読むもんじゃねえ」
「名言っぽい」
「馬鹿にしてる?」
「ちょっとだけ」
男は笑って、背を向けた。
「あの!」
「ん?」
「……本当にありがとうございました」
今度はふざけずに頭を下げた。
男は少しだけ目を丸くした後、片手を上げた。
「明日、寝坊すんなよ。ミナト」
「はい」
「あと吐くなら海側向け」
「最後それ!?」
背中越しに笑い声が返ってきた。
◆
宿の主人は、小柄な年配の女性だった。
「一晩だけだよ」
「ありがとうございます」
「朝飯は?」
「え、出るんですか?」
「金がないんだろ?」
「……はい」
「ならパンとスープくらい。代わりに水汲み手伝いな」
「やります!」
「声でかい」
「すみません!」
「だからでかい」
「すみません……」
「よろしい」
この世界、思ったより人が優しい。
いや。
たまたま今日は、優しい人に続けて会えただけかもしれない。
そこを勘違いするのは危ない。
「二階の奥。鍵は壊れてるから、貴重品は抱いて寝な」
「治安悪いです?」
「普通」
「普通で鍵壊れてる部屋貸すの?」
「嫌なら外」
「最高の部屋です」
「よろしい」
部屋は小さかった。
硬そうなベッド。
机。
椅子。
窓。
それだけ。
でも、道端より百倍いい。
ベッドへ倒れ込みたい衝動を我慢して、窓を開けた。
「…………」
アビスが見えた。
夕日に照らされている。
岩壁が赤く染まり、霧が金色になっている。
昼間よりずっと綺麗だった。
「……すげえ」
思わず声が出る。
その直後。
「馬鹿か俺は」
窓枠に額をぶつけた。
痛い。
でも少し冷静になった。
「行きたくなるな。絶対行きたくなるな」
アビス。
未知。
遺物。
原生生物。
誰も見たことのない景色。
画面越しに憧れたもの全部が、今は本物として目の前にある。
そりゃ見たい。
一層くらいなら。
ちょっとだけなら。
「駄目駄目駄目」
首を振る。
「お前は知ってるだろ」
上昇負荷。
深く潜るほど、戻ることが難しくなる呪い。
原作では設定だった。
今は違う。
潜れば俺の身体に起こる。
俺が吐く。
俺が血を流す。
俺が壊れる。
「地上で暮らす」
声に出した。
「それが正解」
明日から港で働く。
文字を覚える。
船乗りに日本を知らないか聞く。
帰る方法を探す。
アビスには潜らない。
白笛には近づかない。
特にボンドルド。
「絶対会わない」
もう一度言う。
「俺は一般人。一般人は黎明卿に会いに行かない」
完璧な理屈だった。
少なくとも、数分は。
廊下から足音が聞こえた。
宿の主人が、水の入った小さな壺を持っている。
「あんた」
「はい?」
「さっきから一人で誰と喋ってんだい」
「自分です」
「寂しいのかい?」
「違います!」
「若いのに大変だねえ」
「その憐れむ目やめて!」
水壺を置きながら、女性が窓の向こうを見る。
「穴、初めて見るのかい?」
「……はい」
「怖かった?」
「めちゃくちゃ」
「そりゃ正常だ」
「え」
「初めて見て何も怖くない奴の方が危ないよ」
女性が肩をすくめる。
「それでも、何度も見てると目が離せなくなるけどね」
「おばあ――」
「誰がおばあちゃんだい」
「お姉さんも?」
「調子いいね」
「穴に潜ったことあるんですか?」
「昔、ちょっとだけね」
「探窟家?」
「赤笛止まり。向いてなかった」
「怖くて?」
「いや」
女性は少し考えてから笑った。
「帰ってきた時の飯がうますぎた」
「……それで?」
「下に行くより、地上で飯作る方が性に合ってるって気づいた」
「そんな理由?」
「そんな理由で人生決めちゃ悪いかい?」
「いえ」
なんだか、すごくいいと思った。
「アビスに潜らない人も、普通にいるんですね」
「当たり前だろ。全員が穴に飛び込んだら誰がパン焼くんだい」
「……確かに」
「何だと思ってたのさ、この街を」
「それは……」
物語の舞台。
そう答えそうになって、飲み込んだ。
「分かりません」
「明日から覚えりゃいいさ」
女性は水壺を置いて出ていった。
俺は窓辺に残った。
――明日から覚えればいい。
その言葉が、妙に残った。
俺はこの世界を知っている。
そう思っていた。
でも。
知っているのは、漫画に描かれた部分だけだ。
この宿の主人の名前すら知らない。
港で拾ってくれた男も知らない。
あの魚屋の女性も。
赤笛の子供たちも。
知らない。
なのに、知っているつもりになっていた。
「……まずいな」
これは、思っていたよりずっと違う。
◆
夜。
眠れなかった。
ベッドが硬いからではない。
窓から見えるアビスが、昼間より真っ黒だったからでもない。
名前が浮かぶ。
ナナチ。
「……」
寝返りを打つ。
ミーティ。
「やめろ」
逆を向く。
プルシュカ。
「やめろって」
布団を被る。
ヴエコ。
イルミューイ。
ファプタ。
「……知らん」
声に出した。
「俺には関係ない」
誰も返事をしない。
「俺は今日来たばっかりだぞ」
当たり前だ。
「赤笛ですらない。文字も読めない。金もない」
さらに言う。
「ボンドルドと戦う? 馬鹿か。死ぬわ」
返事はない。
「四層? 一層も行ったことねえよ」
静かだ。
「ミーティを助ける? どうやって」
静かすぎる。
「……俺にできるわけないだろ」
言葉にしたら、少しだけ楽になった。
そうだ。
できない。
だったら責任もない。
この世界には、この世界の人間がいる。
リコがいる。
レグがいる。
原作通りに進む。
俺が何もしなくても。
「原作通り……」
口にした瞬間。
酷く気持ち悪かった。
身体を起こした。
「何だよ、それ」
原作通り。
便利な言葉だ。
原作だから仕方ない。
そういう物語だから仕方ない。
ミーティは。
プルシュカは。
ヴエコは。
画面越しなら、それで終われた。
ページを閉じればいい。
アニメを止めればいい。
重い回を見た後に、別の動画を開けばいい。
でも今日。
俺を拾った男は笑った。
診療所の受付は俺をからかった。
宿の主人はパンとスープをくれると言った。
赤笛の子供たちは、ただの石を遺物だと言い張って喧嘩していた。
全員、生きている。
背景じゃない。
「……くそ」
顔を覆った。
知っている。
知ってしまっている。
誰がどんな目に遭うか。
少なくとも、その一部を。
知らなければ良かった。
本気でそう思った。
知らなければ、俺は明日から港で働くだけだった。
日本へ帰る方法を探して。
アビスから遠ざかって。
たまに穴を眺めて「綺麗だな」と言って。
それでよかった。
「……今、いつなんだよ」
結局そこだ。
リコは何歳だ。
ライザはもうラストダイブしたのか。
ナナチとミーティの実験は終わっているのか。
プルシュカは今、どこにいる。
俺が来た時点で、何がもう手遅れなのか。
「確認するだけ」
自分に言い聞かせる。
「明日、確認するだけだからな」
助けるとは言っていない。
潜るとも言っていない。
ただ今がいつなのか調べる。
それだけ。
スマートフォンを取り出す。
電源を入れた。
画面の向こうには、昨日までの生活がある。
家族とのメッセージ。
友人とのどうでもいいやり取り。
撮った料理。
スクリーンショット。
大学の時間割。
「……帰りてえ」
初めて、はっきり口にした。
胸が痛い。
ホーム画面から漫画アプリを開く。
指が止まる。
馬鹿な期待だった。
通信できるわけがない。
『通信環境をご確認ください』
「ですよね」
笑う。
笑ったまま、目が熱くなった。
「攻略本くらい置いてけよ……」
誰に言っているのか分からない。
神様は出てこない。
チートもない。
説明書もない。
俺の頭に残っている、曖昧な原作知識だけ。
しかも考察動画まで混ざっている。
「……どこまで確定設定だっけ」
魂。
二千年。
七層。
巫女。
考察。
本編。
作者の発言。
コメント欄。
頭の中で、全部が仲良く混ざっている。
「最悪の攻略本だな」
それでも。
ゼロではない。
スマホを落とす。
電池が七十七パーセントになっていた。
「一パー減った!」
慌てて電源を切った。
今後、この板の一パーセントで一喜一憂する人生になるのかもしれない。
少しだけ笑えた。
そしてまた、窓へ向かう。
夜のアビス。
底は見えない。
巨大な闇が、街のすぐ隣に口を開けている。
「……来ちゃ駄目な世界だろ、ここ」
俺は呟いた。
でも来てしまった。
だったらまず、生きる。
明日は港へ行く。
働く。
文字を覚える。
時系列を調べる。
それから。
それから先は、まだ決めない。
決めたくない。
ただ、一つだけ分かっている。
俺はこの世界を知らない。
街のことも。
人のことも。
アビスの全部も。
でも。
この奈落の中で、これから起きるはずの悲劇を。
ほんの少しだけ知っている。
それが武器になるのか。
呪いになるのか。
今の俺には、まだ分からなかった。
この日。
俺はまだ、誰かを救うとは決めていない。
アビスへ潜るとも決めていない。
ただ明日。
少しだけ調べようと思った。
今がいつなのか。
まだ誰が、生きているのか。
――それだけだった。
第一話、最後まで読んでいただきありがとうございました!
まず一番最初に言いたいのが、
自分だったら絶対あんな場所に行きたくないです。
いや、本当に。
作品として見ているアビスはめちゃくちゃ魅力的なんですよ。
景色は綺麗だし、知らない生物はいるし、遺物もあるし、下に何があるか分からない。
探検好きとしては、これ以上ないくらいワクワクする場所だと思います。
でも、
「実際に行けます」
と言われたら話は別ですよね。
上昇負荷あります。
毒持ってる生物います。
でかい生物います。
帰れない場所あります。
何ならよく分からない現象だらけです。
自分なら多分、オースの宿からアビスを眺めて、
「今日も綺麗だなあ」
って言いながら一生地上で暮らします。
なので主人公にも、最初から格好よく、
「よし! 全員救うぞ!」
とは言わせたくありませんでした。
だって怖いと思うんです。
原作を知っているからこそ。
誰が傷つくのか知っている。
どこが危険なのか知っている。
知らない方が、もしかしたら気楽だったかもしれない。
第一話を書いていて、自分が一番考えていたのはそこでした。
未来を知っているって、本当にチートなんだろうか?
確かに便利です。
危険を先に知れます。
人物についても知っています。
でもその一方で、
目の前の人を見た瞬間に、
「あ、この人は将来こうなる」
と思ってしまう。
それって、結構怖いことじゃないかなと思っています。
まだ何も起きていない人を、
その人の未来だけで見てしまう。
この作品では、主人公がそこから少しずつ変わっていくところも書きたいです。
最初は、
リコ。
レグ。
ナナチ。
ミーティ。
プルシュカ。
主人公にとって彼らは、どこか「知っているキャラクター」です。
でも一緒に話して、
笑って、
喧嘩して、
面倒なところを知って、
くだらないことで盛り上がって。
そうしているうちに、
いつか主人公の中から、
「原作キャラ」
という感覚がなくなっていってほしい。
自分はそこをかなり楽しみにしています。
そして、この作品を書くうえで個人的に一番やりたいことがあります。
それが、
「救ったから終わり」にしないこと。
誰かを助けたら、その人はその後も生きます。
食事も必要です。
居場所も必要です。
他の人との関係も変わります。
本来いなかった人物が生きているだけで、原作とは違う会話が生まれます。
そして、その小さな変化が次の未来を変えていく。
そういうところまでちゃんと書きたいです。
なので、たぶんこの作品、
めちゃくちゃ長くなります。
すでに設定を考えている段階で、
「これ何話になるんだ……?」
となっています。
でもせっかくなら急がずにやります。
日常回もやりたいです。
ご飯食べる回とか。
装備作って失敗する回とか。
どうでもいいことでナナチに怒られる回とか。
そういう楽しい時間をたくさん作りたい。
その分、
重い場面はちゃんと重くしたいです。
楽しかった時間があるからこそ、
「失いたくない」
と思える物語にしたい。
自分はそういう作品がすごく好きです。
そして最後に一つ。
もし皆さんが主人公と同じ立場だったら、どうしますか?
未来を知っている。
でも、自分は強くない。
下手に未来を変えれば、次に何が起こるか分からなくなる。
それでも、
目の前に「これから酷いことが起こる人」がいたら。
助けますか?
それとも、
何もしない方がいいと思いますか?
自分は、この作品を書きながらその答えを考えていきたいと思っています。
第一話はまだ、本当に入口です。
次回はオースでの生活。
主人公にはまず、
英雄になる前に飯代を稼いでもらいます。
アビス攻略以前の問題ですね。
第二話も、楽しんでいただけたら嬉しいです。
改めて、第一話を読んでくださってありがとうございました!