前回は「とんでもない世界に来てしまった」で終わりましたが、今回はそこから一歩進んで、
「で、今日からどうやって生きるの?」
という話です。
異世界転移って、作品によってはすぐ冒険が始まったりしますけど、実際はたぶんその前に困ることが山ほどあると思うんですよね。
文字が読めない。
お金がない。
仕事もない。
スマホはあるけど、圏外。
地味だけど、かなりキツい。
自分だったらアビスに潜る以前にここで心が折れそうです。
今回はそんな、ちょっと情けなくて現実的なところを楽しんでもらえたら嬉しいです。
あと、少しだけ。
湊にとって「知っている世界」が、だんだん「本当に人が生きている世界」に変わり始める回でもあります。
まだまだ序盤ですが、こういう小さな変化を大事にしていきたいです。
それでは第二話。
よろしくお願いします。
腹の音で目が覚めた。
「…………」
ぐうううう、と。
情緒も何もない音だった。
「いや、もうちょっとさ」
薄い毛布の中で目を開ける。
「異世界二日目の朝なんだから、もう少し神秘的な目覚め方とかないの?」
返事はない。
当然だ。
狭い部屋には俺一人しかいない。
昨日、衛生所の人に紹介してもらった一時宿泊所。石壁。小さな窓。硬いベッド。置かれているのは水差しと、何に使うのかよく分からない木製の箱だけ。
そして窓の外には――。
「……あるなあ」
アビスがあった。
朝日に照らされた巨大な大穴。
夢ではなかった。
「昨日寝て起きたら日本でした、をちょっと期待してたんだけどな……」
もう一度目を閉じる。
三秒。
開ける。
「あるなあ……」
穴は消えてくれなかった。
俺は枕に顔を押しつけた。
「でっか……」
昨日も見た。
なのに、朝見るとまた違う。
霧の向こうへ続く壁。飛んでいる鳥のようなもの。街の屋根より遥か下に見える緑。
綺麗だ。
めちゃくちゃ綺麗だ。
だから腹が立つ。
「見た目だけなら最高なんだよな、お前……」
アビスへ文句を言っていると、また腹が鳴った。
今度は長かった。
「はいはい。分かりましたよ」
異世界転移した主人公の二日目の最重要クエスト。
朝飯。
……夢がない。
◆
一階へ降りると、宿の受付にいた昨日の女性がこちらを見た。
「あら。起きた?」
「おはようございます」
「ちゃんと眠れた?」
「半分くらいは」
「半分?」
「残り半分は窓の外の巨大な穴と見つめ合ってました」
女性が吹き出した。
「変な子ねえ」
「俺もそう思います」
「頭は?」
「痛くないです」
「吐き気は?」
「腹が減って吐きそうです」
「それは健康ね」
「健康判定が雑すぎません?」
昨日より少しだけ笑えた。
こういう何でもない会話が、妙にありがたい。
女性は受付台の下から一枚の板を取り出した。
「はい。昨日説明した宿泊規則」
「……はい」
受け取る。
板には文字がびっしり書かれていた。
「…………」
「どうしたの?」
「一つ質問いいですか」
「なに?」
「これ、上下どっちです?」
「え?」
女性が止まった。
俺も止まった。
数秒後。
「……ミナト」
「はい」
「あなた、本当に字が読めないの?」
「昨日は自分でもそこまで確認できてませんでした」
「喋れるのに?」
「俺が一番聞きたいです」
女性が板をひっくり返した。
「今、逆さまよ」
「最悪だ」
「そこからなのね」
「そこからです」
昨日、街の看板を見ても何となく模様にしか見えなかった。
混乱していたから気にしていなかったが、改めて見ると一文字たりとも読めない。
日本語でもない。
英語でもない。
当然だ。
メイドインアビスの世界の文字なんて、読者だった俺が全部読めるわけがない。
「名前は書ける?」
「日本の字なら」
「ニホン?」
「……故郷の文字です」
「書いてみて」
紙と棒状の筆記具を渡された。
俺は『湊』と書いた。
女性がのぞき込む。
「……絵?」
「名前です」
「これで?」
「これで」
「ずいぶん複雑なのね」
「俺も小学生の頃そう思ってました」
「ショーガクセー?」
「忘れてください」
「記憶喪失なのに変な言葉はいっぱい覚えてるのね」
「そこ突かれると困るんですよね……」
笑いながら返したが、少し冷や汗が出た。
記憶喪失という設定。
昨日はそれで押し切った。
でも、全部忘れたわけではない人間として振る舞わないと矛盾する。
言葉は話せる。
自分の名前と年齢は分かる。
故郷については曖昧。
文字は違う。
自分でも意味不明だ。
「とりあえず」
女性が規則板を指で叩いた。
「これは『朝食は一階』。こっちは『井戸水を勝手に持ち出さない』。あとここは『三日目から宿代』」
「……最後、もう一回お願いします」
「三日目から宿代」
「俺、今日何日目でしたっけ」
「二日目」
「猶予一日!?」
「働けるなら働きなさい」
「異世界ってもっとこう……!」
「イセカイ?」
「忘れてください!」
女性がけらけら笑う。
「若いんだから、荷運びくらいできるでしょう」
「一応できますけど」
「じゃあ問題なし」
「文字読めないんですけど」
「荷物は文字読まなくても重いわよ」
「名言っぽく言わないでください」
アビスの恐怖より先に、家賃が襲ってきた。
なんて現実的な世界なんだ。
◆
朝食はパンのようなものと、豆の入った薄いスープだった。
「……うまい」
思わず声が出る。
ものすごく美味いわけではない。
でも昨日からろくに食べていなかった腹には神の料理だった。
「そんなに?」
隣の席に座っていた老人が笑った。
「三日食ってみろ。飽きるぞ」
「今だけは夢を見させてください」
「変な若者だな」
「昨日から三回くらい言われました」
「なら間違いない」
「多数決で俺を変人にしないでください」
老人の首には笛がなかった。
普通の街の住人なのだろう。
そのことが少し新鮮だった。
メイドインアビスを見ていた頃、オースといえば探窟家と孤児院とアビスばかりだった。
でも当然、この街には普通に暮らしている人がいる。
パンを焼く人。
洗濯する人。
荷物を運ぶ人。
大穴へ一度も潜らず一生を終える人だって、きっと大勢いる。
「兄ちゃん、探窟家じゃないのか?」
老人に聞かれた。
「違います」
「その服じゃそうだろうな」
「そんなに変です?」
「変だ」
「即答」
「港でも滅多に見ない生地だな」
老人が俺のパーカーの袖をつまんだ。
「これ、どこの織りだ?」
「……遠いところです」
「外国か」
「たぶん」
「たぶん?」
「記憶がちょっと」
「ああ。昨日拾われたって若造か」
「もう噂になってるんですか!?」
「狭い街だからな」
「終わった……」
老人は楽しそうにスープを飲んだ。
「安心しろ。オースじゃ変人は珍しくない」
「それフォローです?」
「探窟家なんざ穴を見ると降りたがる連中だぞ」
「……確かに」
思わず納得してしまった。
老人がにやりとする。
「お前もそのうち笛ぶら下げてたりしてな」
「いやいやいや」
「そんな必死に否定するか」
「だってあそこですよ?」
窓の外を指さす。
「穴ですよ? でっかい穴。しかも上がってきたら具合悪くなるんですよね?」
「呪いが怖いか」
「怖いでしょう普通!」
「普通の奴はな」
「俺、普通側でいたいです」
「ここに流れ着いた時点で怪しいな」
「やめてください」
笑いが起きた。
ほんの少しだけ。
昨日より、この街が現実になった。
◆
朝食後、俺は受付の女性――昨日名前を聞きそびれていたことに気づき、改めて尋ねた。
「そういえば、お名前聞いてなかったです」
「あら。今さら?」
「昨日それどころじゃなくて」
「ミーナよ」
「ミーナさん」
「さんはいらない」
「じゃあミーナ」
「急に距離詰めるわね」
「どっち!?」
「冗談よ」
この人、結構いい性格をしている。
「仕事探したいんですけど」
「字が読めない仕事ね」
「条件が悲しいな」
「港の荷運びなら紹介できるわよ」
「お願いします」
「ただし」
「はい」
「数字は読める?」
「こっちの数字は読めません」
「……」
「そんな目で見ないで」
「あなた、よく十九年生きてこられたわね」
「俺の国では読めたんです!」
「証拠は?」
「ぐっ……」
異世界で学歴を証明する方法、なし。
「子供向けの文字板、借りる?」
「……お願いします」
「素直でよろしい」
ミーナが奥から薄い板を持ってきた。
大きな文字。
その横に絵。
魚。
家。
水。
鳥。
「完全に幼児教材じゃないですか」
「今のあなたにはちょうどいいわよ」
「十九歳の尊厳が削れていく」
「尊厳で看板は読めない」
「正論が痛い」
だが、本当に必要だ。
警告文を読めない探窟家なんて、原生生物以前の問題だ。
毒物と飲料水を取り違えて死ぬ未来すらある。
俺は板を受け取った。
「これ、なんて読むんです?」
魚の絵の横を指す。
「魚」
「いや、それは分かるんです。文字の読み」
「だから魚よ」
「……会話は完全に通じるんだよなあ」
「何ぶつぶつ言ってるの?」
「世界の仕様に文句言ってます」
「頭はやっぱり診てもらった方がいいんじゃない?」
「昨日正常判定でした!」
◆
文字の勉強は、想像より屈辱的だった。
「違う」
「え?」
「それは『水』じゃなくて『穴』」
「似すぎじゃない!?」
「全然違うわよ」
「日本人に草書見せた外国人も同じこと思ってたんだろうな……」
「ニホンジン?」
「独り言です」
「これは?」
「家」
「これは?」
「火」
「これは?」
「……鳥?」
「毒」
「危なっ!」
「何が?」
「それ間違えたら駄目なやつでしょう!」
ミーナが笑いすぎて机を叩いた。
「ちょっと、ミナト、面白いわね」
「俺は命懸けなんですよ!」
「字の勉強で?」
「この世界ではたぶん!」
笑われながら何度も書く。
指が慣れない。
見慣れない文字は記号にしか見えない。
それでも、一時間ほど経つと、少しだけ規則性が見えてきた。
音を表す文字。
意味を持つ記号。
数字。
貨幣単位。
「これが一?」
「そう」
「これが十?」
「そう」
「百は?」
「これ」
「……値札だけ先に覚えます」
「現金ね」
「飯がかかってるんで」
「探窟家向きかもしれないわね」
「なんでです?」
「生きることに必死だから」
その言葉だけ、少し胸に残った。
◆
昼前。
紹介された港へ向かった。
オースの道は坂が多い。
石造りの家が密集し、路地は細い。
その向こうには、どこからでもアビスが見えた。
「存在感が強すぎるんだよなあ……」
穴を見ないように歩いていても、曲がり角の先に突然現れる。
空の一部みたいに。
街そのものが大穴を中心に作られている。
港へ着くと、昨日俺を拾ってくれた男がいた。
「あ」
「お前」
「昨日はどうも」
「生きてたか」
「第一声それです?」
「朝から元気そうだな」
「腹に飯入ったので」
男は大きな木箱を肩から下ろした。
「仕事か?」
「ミーナに紹介してもらいました」
「あの姉ちゃんか」
「知り合いなんです?」
「この辺じゃ顔くらいはな」
「そういえば、名前聞いてませんでした」
「昨日散々世話になっといてか?」
「昨日は本当にそれどころじゃなかったんですって」
「ガンザだ」
「ガンザさん」
「さんはいらん」
「この街それ流行ってるんです?」
「何がだ」
「距離感の詰め方」
ガンザが怪訝そうな顔をした。
「変な奴だな」
「四回目です」
「じゃあ確定だ」
「また多数決!」
ガンザは荷運びの親方らしい男に俺を引き合わせた。
仕事は単純だった。
箱を運ぶ。
荷車に積む。
指示された場所へ置く。
文字が読めなくてもできる。
そう思った。
「ミナト! そっちじゃねえ!」
「え!?」
「赤印の箱は右だ!」
「赤ってどれ!?」
「お前色も分からねえのか!?」
「字が読めないだけです!」
「じゃあ書いてあるだろ!」
「読めないって言ってるでしょう!」
「面倒くせえな!!」
十分後。
「ミナト! それ割れ物!」
「先に言って!」
「箱に書いてある!」
「だから読めない!」
「そうだった!!」
三十分後。
「それ食料!」
「これは分かります! 匂いで!」
「成長したな!」
「褒め方おかしい!」
昼までに、俺は完全に荷運び場の笑いものになった。
でも嫌な感じではなかった。
誰かが失敗すれば怒鳴る。
重いものは二人で持つ。
休憩になれば水を回す。
普通の仕事場だ。
アビスとは関係ない。
いや。
運んでいる荷物の中には探窟用具もある。
遺物らしき物品もある。
でもここでは、それも生活の一部だった。
「ほら」
ガンザが硬貨を二枚放ってきた。
「うわっ」
慌てて受け取る。
「何です?」
「午前分」
「給料!?」
「そんな嬉しそうにする奴初めて見たぞ」
「異世界初収入……!」
「またそれか。イセカイってどこの国だ?」
「心の故郷です」
「頭打った影響残ってんな」
「正常です!」
硬貨を握る。
重い。
ただの金なのに。
昨日は何も持っていなかった。
これで少なくとも何か食える。
宿代の足しにもなる。
「……生きていけるかも」
「何だ?」
「何でもないです」
その瞬間。
少しだけ。
アビスの世界で生きる自分を想像できた。
◆
午後は休みにした。
理由は二つ。
一つ。
腕が死んだ。
「いてえ……」
普段運動していない十九歳に、港湾労働半日は重い。
二つ。
調べたいことがあった。
今がいつなのか。
昨日からずっと頭の中にある問題。
これを確認しない限り、何も始まらない。
原作開始前なのか。
どれくらい前なのか。
ナナチとミーティはすでに出会っているのか。
プルシュカは。
リコは。
そして――ライザは。
情報を集めるなら掲示板や新聞。
そう思って広場へ行った。
巨大な掲示板があった。
「…………」
文字。
文字。
文字。
全部読めない。
「詰んだ」
思わず口から出た。
「何が?」
横から声。
見ると、十歳くらいの少年が俺を見上げていた。
「いや、人生が」
「死ぬの?」
「そこまではいってない」
「じゃあ大丈夫じゃん」
「強いな君」
少年は俺の手に持った文字板を見た。
「あ、それ幼児用」
「知ってる」
「お兄ちゃん字読めないの?」
「……外国人なんだ」
「外国人って字読めないの?」
「国による」
「どこの国?」
「遠い国」
「名前は?」
「日本」
「ニホン?」
「そう」
「聞いたことない」
「だろうね」
少年は掲示板を指した。
「何読みたいの?」
「え?」
「読んであげる」
「いいの?」
「一枚一硬貨」
「商売かよ!」
少年がにやりと笑った。
「外国人は金持ちって父ちゃんが言ってた」
「今朝まで無一文だった人間に言う?」
「じゃあ半分」
「硬貨半分に割る気?」
「パンでもいいよ」
「ちゃっかりしてんなあ……」
でも助かる。
「じゃあ、昼飯奢るから少し付き合って」
「肉ある?」
「俺の稼ぎで肉を要求するな」
「魚なら?」
「港町で魚は安い?」
「ものによる」
「交渉上手だな君」
少年の名前はポロと言った。
俺は露店で安い焼き魚を一本買い、それを報酬に掲示板を読んでもらうことになった。
「で、何知りたいの?」
「最近の探窟家のニュース」
「探窟家好きなの?」
「まあ……少し」
「自分はならないの?」
「今のところ命が惜しい」
「変なの」
「君まで!?」
ポロは魚をかじりながら掲示板を見る。
「これは隊員募集。これは遺物買取。これは二層で行方不明」
「……行方不明」
「よくあるよ」
何でもないことのように言った。
胸が少し冷える。
「これは?」
「葬式」
「……そっか」
「こっちは新しい探窟記録」
俺は呼吸を整えた。
「白笛のニュースは?」
「白笛?」
「うん」
「そんなの毎日出ないよ」
「知ってる範囲でいい」
「お兄ちゃん白笛好き?」
「……好きっていうか」
ボンドルドの顔が浮かぶ。
「怖い人もいる」
「黎明卿?」
心臓が跳ねた。
「なんで分かった?」
「父ちゃんが言ってた。探窟家はみんな変だけど黎明卿は特に変だって」
「……お父さん、見る目あるな」
「会ったことあるの?」
「ない」
「じゃあなんで怖いの?」
「噂」
嘘ではない。
物語として知っていることも、この世界から見れば噂みたいなものだ。
「他の白笛は?」
「不動卿は監視基地にいるって」
オーゼン。
いる。
「殲滅卿は?」
できるだけ平静に聞いた。
ポロが焼き魚を噛む。
「ライザ?」
「そう」
「ずっと下じゃない?」
「ずっと?」
「うん」
喉が乾く。
「何年前から?」
「知らない」
「大体でいい」
「僕が小さい頃にはもういなかった」
「君今いくつ?」
「九つ」
「……」
情報として曖昧すぎる。
でも。
ライザはすでにラストダイブしている可能性が高い。
「ライザに娘がいるって知ってる?」
口から出した瞬間、しまったと思った。
ポロがこちらを見る。
「いるよ」
「……有名?」
「白笛の子だもん」
「どこに?」
「孤児院じゃないの?」
心臓が強く鳴った。
「何歳くらい?」
「知らない」
「見たことは?」
「あるかも」
「眼鏡かけてる?」
「なんでそんなこと知ってんの?」
「…………」
やった。
子供相手だからって聞きすぎた。
「白笛の娘なら噂で聞くかなって」
「ふーん」
ポロはそこまで深く追及しなかった。
助かった。
「ベルチェロの子たちなら昼過ぎに一層から戻ってくることあるよ」
「……そうなんだ」
「見に行く?」
「いや」
即答した。
「なんで?」
「……まだいい」
会うのが怖かった。
リコ。
画面の中では何度も見た。
でも今、会ってしまったら。
きっと何かが変わる。
俺が知っている物語に、俺という異物が入る。
まだ。
まだ何も分かっていない。
自分が何をすべきかも。
「お兄ちゃん、変なの」
「今日それ何回目かな」
「知らない」
「俺も数えるのやめた」
◆
ポロと別れたあと、俺は一人で街を歩いた。
ライザはもう地上にいない。
娘のリコはベルチェロ孤児院にいる。
つまり。
原作開始前。
それは間違いない。
問題は、何年前か。
リコが何歳か分かれば早い。
でも孤児院へ直接行って、
『ライザの娘さん何歳ですか?』
なんて聞く十九歳の不審者にはなりたくない。
「いやもう十分不審者か……」
昨日から俺の怪しさは天元突破している。
それでも避けたい。
原作を知っている。
それは、この世界では異常な知識だ。
今の俺には、それを守る力も立場もない。
誰かに知られたらどうなる。
もしボンドルドに知られたら。
「……絶対駄目だ」
背筋が冷える。
俺という存在。
別世界から来た。
アビスの未来を一部知っている。
その事実が黎明卿の耳に入ったら。
研究対象。
その言葉が頭に浮かんだ。
「無理無理無理」
思わず早歩きになる。
「絶対関わりたくない。第五層とか行かない。俺は地上で静かに暮らす」
独り言を言いながら歩く。
通行人に変な目で見られた。
「……またか」
もう慣れてきた。
その時。
道の向こうから数人の子供たちが歩いてきた。
揃いの服。
小さな荷物。
首元。
赤い笛。
足が止まった。
ベルチェロ孤児院の子供たち。
赤笛。
まだ若い探窟家見習い。
先頭に大人がいる。
俺は反射的に道の端へ避けた。
見ない。
そう思った。
なのに。
視線が勝手に探してしまう。
金髪。
眼鏡。
――いた。
「……」
小さい。
当然だ。
原作開始前なのだから。
記憶の中のリコより、ずっと幼い。
眼鏡をかけた少女が、隣の子供に何かを楽しそうに話している。
「だからね、あれ絶対――」
声が聞こえた。
そこで。
俺は後ろを向いた。
「……っ」
心臓が速い。
漫画のキャラクターだった。
アニメで動いていた。
声も知っていた。
でも。
今、後ろにいるのは。
ただの子供だ。
まだ何も起きていない。
母親を追って奈落へ旅立ってもいない。
レグにも会っていない。
ナナチも知らない。
プルシュカも知らない。
これから。
これから全部起きる。
「……俺が知ってる」
小さく呟く。
あの子は知らない。
自分がこれから何を見るのか。
何を失うのか。
俺だけが知っている。
その事実が。
昨日よりずっと重かった。
「お兄さん?」
突然、後ろから声。
「うわっ!」
振り返る。
リコではなかった。
別の赤笛の少年がこちらを怪訝そうに見ていた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫!」
「顔白いけど」
「元から!」
「そう?」
「そう!」
子供たちはそのまま歩いていった。
俺は壁にもたれた。
「……心臓に悪い」
そして思った。
俺はまだ。
リコに会う資格なんてない。
◆
夕方。
宿へ戻ると、ミーナが俺を見るなり言った。
「どうだった?」
「腕が終わりました」
「仕事の話」
「笑われました」
「でしょうね」
「予想済み!?」
「字が読めない荷運びなんて面白いもの」
「紹介者が言うことじゃないでしょう!」
「でも稼げた?」
「これ」
硬貨を見せる。
「ちゃんともらえたじゃない」
「人生初の異世界給料です」
「そのイセカイって何なの?」
「……遠い土地の言い回しです」
「便利ね、その遠い土地」
誤魔化せていない気がする。
ミーナが文字板を指した。
「勉強は?」
「しました」
「じゃあ試験」
「え」
「これは?」
文字を指す。
「水」
「これは?」
「火」
「これは?」
「毒」
「正解」
「命に関わるやつから覚えました」
「賢い」
「家は?」
ミーナが別の字を指す。
「……鳥?」
「家」
「くそっ!」
「まだまだね」
「家を鳥と間違えても死なないから後回しでいいです」
「そういう覚え方するの?」
「実用性重視です」
ミーナが呆れたように笑った。
「変な子」
「今日七回くらい言われました」
「人気者ね」
「前向きだなあ」
夕食まで時間があった。
俺は受付の隅を借りて、文字板を写した。
紙は貴重らしく、何枚も使うなと言われたので、一枚へ小さく書く。
水。
火。
毒。
食料。
宿。
金。
仕事。
病院。
出口。
危険。
「……危険、多すぎない?」
「何が?」
「この街で最初に覚えたい単語」
「アビスの街だもの」
ミーナは何でもないように言った。
俺は筆記具を止めた。
「ミーナ」
「なに?」
「探窟家って、怖くないんですか」
「私は探窟家じゃないわよ」
「そうじゃなくて。知り合いとか、家族とか。潜る人いるでしょう」
「いるわね」
「帰ってこないことも」
「ある」
即答だった。
「……怖くない?」
ミーナは少し考えた。
「怖いわよ」
「じゃあ、止めないんですか」
「止めて止まるなら、探窟家になってないもの」
「……」
「それに」
ミーナは窓の外を見る。
夕暮れのアビス。
「この街で生まれるとね。あれを見ない日はないの」
「うん」
「怖い。嫌い。憎い。綺麗。知りたい。行きたい。帰ってきてほしい」
彼女は肩をすくめた。
「全部一緒よ」
俺は何も言えなかった。
「変な顔」
「……いや」
「何?」
「俺、アビスのこと知ってるつもりだったんだなって」
「昨日まで場所も知らなかったのに?」
「そこなんですよね」
ミーナが首をかしげた。
俺は笑って誤魔化した。
でも本当にそうだった。
上昇負荷を知っている。
原生生物を知っている。
白笛を知っている。
それで、この世界を知っている気になっていた。
でも。
探窟家の帰りを待つ人の気持ちは知らなかった。
荷物一つ運ぶ値段も知らなかった。
オースの文字一つ知らなかった。
俺が知っているのは。
物語になった部分だけだ。
◆
夜。
部屋でスマートフォンの電源を入れた。
七十六パーセント。
昨日より二パーセント減っている。
「一回一回が重いな……」
機内モード。
画面の明るさを最低へ。
写真フォルダを開く。
友人との写真。
ラーメン。
大学の資料。
意味のないスクリーンショット。
そして。
メイドインアビス関連の画像がいくつか。
全部ではない。
当然だ。
単行本全巻を画像で保存していたわけじゃない。
好きなイラスト。
考察動画を見ながら撮ったスクリーンショット。
人物相関を自分なりにメモした画像。
「……もっと真面目に保存しとけばよかった」
そんな未来、誰が予想する。
画像を開く。
そこに書かれている日本語。
読める。
当たり前なのに、少し安心した。
俺はまだ日本語を読める。
故郷を忘れたわけじゃない。
でも。
画面の中にいるキャラクターと。
今日、街ですれ違った少女が。
同じ存在だと思えなかった。
「リコ……」
名前を呟く。
今日見た。
本当にいた。
まだ小さかった。
笑っていた。
それだけで。
原作知識が急に凶器みたいに感じた。
知っている。
この先を。
でも。
「……どこまでだ?」
考える。
俺は本当に覚えているのか。
何年前に何が起きた。
どの時点でナナチとミーティは実験を受けた。
プルシュカは何歳だった。
ライザが降りたのは正確に何年前。
「……曖昧だ」
重大な出来事は覚えている。
でも年表なんて暗記していない。
そしてもっと怖いこと。
「これ……公式だっけ」
画像の一つ。
考察動画のメモ。
2000年。
魂。
時間。
いくつもの単語。
「原作で言ってた? 作者の発言? 考察?」
思い出せない。
笑えなかった。
これを間違えたら。
攻略ゲームならロードすればいい。
でもここでは。
誰かが死ぬ。
「……知ってるからって、正しいとは限らない」
スマホのメモを開いた。
新規メモ。
タイトル。
『確定していること』
入力する。
・ここはオース。
・アビスが存在する。
・白笛は実在する。
・ライザはすでに地上にいない可能性が高い。
・リコはベルチェロ孤児院にいて、まだ原作開始前。
次。
『記憶している原作情報』
そして。
『考察・不確定情報』
三つに分けた。
「……これだ」
混ぜたら駄目だ。
知識を持っているなら。
まず、自分の知識を疑わないといけない。
俺は未来人でも預言者でもない。
ただ漫画を読んだだけの人間だ。
それを忘れた瞬間。
多分死ぬ。
俺だけならまだいい。
誰かを巻き込んだら。
「……最悪だ」
スマホを置く。
窓の外を見る。
街の灯り。
その先の暗い穴。
「ナナチ……ミーティ……」
名前を口にした。
今、どこにいる。
もうあの実験は終わっているのか。
それとも。
まだ。
もしまだなら?
止められる?
俺が?
赤笛ですらない。
一層にも潜っていない。
字すら読めない。
ボンドルドがいる第五層なんて。
遠すぎる。
「……知ってるのに」
声が出た。
「何もできない」
それが一番苦しかった。
知らなければ。
仕方ないと言えた。
知らなかったから、と。
でも俺は知っている。
少なくとも。
何かが起こることだけは。
「……」
手を握る。
爪が掌へ食い込む。
だからといって。
今すぐ穴へ飛び込むのは勇気じゃない。
ただの自殺だ。
俺が死んでも誰も救えない。
今日、荷運びで分かった。
文字が読めないだけで、箱一つまともに運べない。
この世界では。
俺は何も知らない。
「……まず、読めるようになろう」
自分に言い聞かせる。
「金を稼ぐ。文字覚える。この街を知る。アビスを知る」
それから。
それからだ。
何ができるか考えるのは。
スマホの電源を切る。
真っ暗になった画面に、自分の顔が映った。
「……地味すぎるだろ、異世界転移」
思わず笑った。
「最初の敵、識字と家賃かよ」
でも。
多分それでいい。
英雄になる前に。
ここで一人で立てる人間にならないといけない。
◆
寝る前。
俺は借りた紙を一枚取り出した。
今日覚えた文字を書く。
何度も間違える。
消す。
もう一度。
そして一番大きく、一つの単語を書いた。
オース。
下手くそだった。
子供が見れば笑うだろう。
でも。
この世界で初めて俺が書けた、この世界の言葉だった。
その下に、日本語で小さく書く。
『知らないことを、知ったつもりにならない』
今日の教訓。
そのさらに下。
少し迷ってから。
『生きる』
と書いた。
救う。
変える。
そんな大きなことは、まだ書けなかった。
今の俺には似合わない。
だからまず。
生きる。
読めるようになる。
働く。
食べる。
眠る。
そして。
いつか。
あの穴へ降りる必要が来た時に。
何も知らないまま死なないように。
窓の外では、アビスが夜の底へ続いていた。
俺は今日覚えたばかりの文字を、もう一度書いた。
ゆっくり。
一文字ずつ。
この世界で生きるための、最初の勉強だった。
第二話も読んでいただき、ありがとうございました!
今回書いていて一番楽しかったのは、やっぱり湊が生活面で普通に苦戦しているところでした。
未来の出来事を知っているのに、
値札が読めない。
頭の中にはアビスの危険な情報が色々入っているのに、目の前の文字一つ分からない。
「知識チートって何だっけ?」
みたいな状態ですよね。
こういうところは今後も結構入れていきたいです。
主人公には強くなってほしいですけど、何でもスマートにこなす人にはしたくないんですよね。
失敗したり。
変なところで恥をかいたり。
くだらないことで困ったり。
そういう部分がある方が、自分は読んでいて好きです。
それと今回は、湊が実際に「知っている人」を目にする場面もありました。
あの辺はちょっと書いていて不思議な気分でした。
ずっと画面の向こうにいたキャラクターが、本当に目の前を歩いていたら。
嬉しいのか。
怖いのか。
話しかけたいのか。
逃げたいのか。
多分、全部ちょっとずつ混ざる気がします。
自分だったら好きなキャラを見つけた瞬間、
「うわ、本物だ!」
って思ったあとに、
「いや待って、俺こいつの人生知ってるんだけど……」
って急に気まずくなりそうです。
湊にも、しばらくそんな妙な距離感を持っていてもらいます。
いきなり「仲間だ!」とはならず、
少しずつ。
本当に少しずつ。
物語の登場人物じゃなく、一人の人間として見られるようになっていけばいいなと思っています。
次回もまだ、派手な冒険には入りません。
その前に覚えないといけないことが山ほどあります。
自分はこういう、冒険が始まる前の準備期間も結構好きなので、もう少し付き合ってください。
もし知らない世界に突然放り込まれて、
言葉は通じるけど文字だけ全然読めなかったら、最初に何を覚えたいですか?
自分なら多分、
「飯」と「宿」と「危険」
の三文字です。
生存本能が強すぎる。
それでは、第二話もありがとうございました!
また次回。