相変わらずアビスにはまだ潜りません。
それでは第三話。
よろしくお願いします。
朝から数字に負けた。
「違う」
「え?」
「それは七」
「昨日、三って言いませんでした?」
「昨日の三はこっち」
「似てる!」
「似てない」
「この世界の人、全員それ言う!」
宿の受付台に突っ伏した俺の頭上で、ミーナがため息をついた。
「朝から元気ね」
「どこがですか。尊厳が順調に削れてます」
「昨日より字は読めるようになったでしょう?」
「『毒』『水』『火』『飯』『宿』『金』は完璧です」
「偏ってるわねえ」
「生存に必要な順です」
「じゃあこれは?」
ミーナが文字板の端を指差す。
「……鳥」
「家」
「また家かよ!」
「あなた家と鳥に何か恨みでもあるの?」
「字面が悪い!」
「字のせいにしない」
朝食を食べに来ていた客が吹き出した。
もういい。
笑われるのにも慣れてきた。
異世界三日目。
最大の敵は識字。
次点で家賃。
奈落はまだ遠い。
「で」
俺は顔を上げた。
「今日はこれを覚えたいんです」
「どれ?」
「日付」
「日付?」
「あと、年」
ミーナの手が止まった。
「……急ね」
「必要なんです」
「昨日まで値札と戦ってた人が?」
「値札にも勝ちたいけど、年にも勝ちたい」
「敵が増えてるじゃない」
「人生ハードモードなんで」
「あなた、自分で難しくしてない?」
否定できない。
俺は昨日借りた紙を広げた。
まだ下手くそなオースの文字。
その脇には日本語。
『今がいつか確認する』
昨日の夜、何度も書いた。
文字の形が崩れるくらい見返した。
「この街の今の年って、どう書くんです?」
「こう」
ミーナが紙の端へさらさらと書く。
読めない。
数字は昨日少し覚えた。
でも日付表記まで絡むと急に記号の群れに戻る。
「……これ、何年?」
「今言ったでしょう」
「読めないんです」
「覚えなさい」
「そこを何とか」
「覚えなさい」
「厳しい!」
「昨日、『知らないことを知ったつもりにならない』って偉そうに書いてたの誰?」
「見たの!?」
「受付の机で書いてたでしょう」
「日本語だったのに!」
「読めなくても、何か真面目な顔してたのは分かるわよ」
恥ずかしい。
俺は頭を抱えた。
「だから覚えなさい。今の年が知りたいなら、まず数字」
「……はい」
「これは?」
「五」
「これは?」
「三」
「これは?」
「八」
「これは?」
「七」
「正解」
「よっしゃ」
「十九歳が数字四つ読めただけでそんな喜ぶ?」
「今の俺には快挙です!」
「幸せそうで何より」
皮肉か本気か分からない。
でも、十数分後。
俺はようやく、この世界の現在の日付を自力で読めるようになった。
「……で」
紙を見る。
「この年号、俺には意味がない」
「最初からそう言ってるでしょう」
「ですよね!」
知ってた。
分かってた。
俺の原作知識に、オース暦何年なんて項目はなかった。
たぶん。
少なくとも覚えていない。
「じゃあ何が知りたいの?」
「相対的な時間です」
「そうたいてき?」
「ああ……何年前に何があった、とか」
「だったら最初からそう言いなさいよ」
「言葉にすると怪しいんですよ」
「もう十分怪しいわよ」
「ぐうの音も出ない」
ミーナは少し考えた。
「有名な出来事なら、掲示板とか古い新聞とかに残ってるかもね」
「新聞」
「探窟家の記録もあるし」
心臓が少し速くなる。
「白笛の?」
「そういうのも」
「見たい」
「字」
「ポロを買収します」
「最低ね」
「焼き魚でです!」
「余計に子供を餌付けしてるように聞こえる」
「昨日向こうから料金請求してきたんですよ!」
ミーナが笑った。
「まあ、あの子なら港にいるんじゃない?」
「ありがとうございます」
「朝飯食べてから行きなさい」
「はい」
「それと」
「何?」
「焦ってるのは分かるけど」
ミーナが俺を見る。
「走りながら字を覚えようとすると転ぶわよ」
「……」
「何を急いでるか知らないけどね」
軽い口調だった。
なのに少しだけ刺さった。
「……気をつけます」
「よろしい」
◆
「また魚?」
「嫌ならパンにする」
「魚」
「即答じゃん」
港の近く。
昨日と同じ掲示板の前で、ポロは焼き魚を受け取った。
九歳。
情報屋。
報酬は魚。
この世界で最初に雇った協力者がこれでいいのか若干不安になる。
「今日は何読むの?」
「古い記録」
「めんどくさそう」
「魚一本」
「二本」
「昨日一本だっただろ!」
「今日は古いの探すから」
「価格変動が激しい!」
「市場ってそういうものだよ」
「九歳が市場原理を盾にしてくるな!」
ポロは平然と魚を食べる。
「じゃあ一匹半」
「どうやって半分にすんだよ」
「もう一本買って半分僕、半分お兄ちゃん」
「結果俺が二本買うじゃねえか」
「賢いでしょ」
「将来大物になるよ君」
結局、二本買った。
弱い。
交渉に弱い。
「で?」
ポロが口元を拭う。
「何年前の話?」
「殲滅卿ライザ」
「ああ、昨日も聞いてたね」
「地上からいなくなった時期を、できるだけ正確に知りたい」
「なんで?」
「ファン」
「怖いファンだね」
「自覚はある」
本当の理由なんて言えない。
ライザが最後に地上から消えた時期。
それが分かれば。
リコの年齢と合わせれば。
原作開始まで、どれくらいあるか推測できる。
完璧じゃない。
でも昨日よりは近づける。
「古い紙、こっち」
ポロが掲示板の脇にある屋根付きの棚を指差した。
古い告知や探窟記録の写しが束ねられている。
「勝手に見ていいの?」
「読むだけなら」
「持って帰ったら?」
「怒られる」
「そりゃそうだ」
「売ったら?」
「もっと怒られる」
「試したことある?」
「ないよ」
「間が怖いんだけど」
ポロは笑った。
俺たちは古い紙を一枚ずつめくる。
「これは?」
「遭難」
「これは?」
「遺物の競売」
「これは?」
「葬式」
「この街、葬式多くない?」
「探窟家いるし」
「……そうだった」
軽い気持ちで言って、少し黙る。
紙の向こうには名前がある。
俺の知らない名前。
原作に出なかった人たち。
昨日までなら読み飛ばしていたかもしれない。
でも。
この街に来てから、その名前が妙に重い。
「お兄ちゃん?」
「何でもない。続けよう」
何枚目か。
ポロの指が止まった。
「あ」
「何?」
「殲滅卿」
背筋が伸びる。
「読んで」
「これ、昔の探窟記録だね。殲滅卿ライザが――」
ポロが読んでいく。
遺物。
探窟隊。
深層。
聞き覚えのある言葉と、ない言葉。
だが欲しい部分がない。
「日付は?」
「ここ」
「今から何年前?」
ポロが指を折る。
「……五年くらい?」
「五年」
「ちょっと前後する」
「もう少し正確には?」
「僕、計算嫌い」
「魚追加する?」
「やる」
「現金すぎる」
近くの紙を借り、数字を並べる。
俺も覚えたばかりの数字を追う。
一回間違えた。
ポロに直される。
「これ引き算逆」
「知ってる!」
「知らないから間違えたんでしょ」
「正論パンチやめて」
二人で何度か計算する。
結果。
ライザが地上から姿を消したとされる時期は、今からおよそ五年ほど前。
「……五年」
呟く。
頭の中で数字を並べる。
リコは原作開始時、十二歳くらい。
昨日見たリコは。
見た目だけなら、七歳前後。
ライザがラストダイブしたのが、リコがまだ幼い頃。
数字が。
だいたい繋がる。
「お兄ちゃん?」
「……ポロ」
「なに」
「ベルチェロ孤児院の子供って、年齢分かる?」
「誰の?」
「昨日言ってた、ライザの娘」
ポロがじっとこっちを見る。
「やっぱり怖いファンだね」
「違うんだって」
「じゃあ何?」
「……年表が好き」
「もっと怖い」
「なんで!?」
「人より年表が好きなの変だよ」
「それはそう」
否定できない。
「正確な年齢は知らないけど」
ポロは考える。
「僕より下」
「九歳より?」
「うん。たぶん七つとか、そのくらい」
胸の奥が冷えた。
「……七」
「たぶんだよ?」
「分かってる」
五年。
七歳。
原作開始は十二歳前後。
だったら。
「……五年前」
「何が?」
「いや」
現在は。
原作開始のおよそ五年前。
ほぼ。
ほぼ間違いない。
笑いたくなった。
少なくとも。
時間はある。
五年。
五年あれば。
何かできる。
探窟家になれる。
文字を覚えられる。
アビスを学べる。
ナナチ。
ミーティ。
プルシュカ。
救えるかもしれない。
そう思った瞬間。
別の考えが浮かんだ。
――ナナチとミーティの実験は、いつだ?
「……」
身体から熱が引いた。
「お兄ちゃん?」
「ポロ」
「うん?」
「黎明卿の研究って、地上にどれくらい情報が来る?」
「知らない」
「子供を連れていくとか」
言ってから。
まずい。
ポロの眉が寄った。
「何それ」
「……噂」
「そんな噂知らないよ」
「だよな」
当たり前だ。
あれが地上で普通に知られていたら話が違う。
俺は息を吐いた。
「ごめん。変なこと聞いた」
「今日ずっと変だよ」
「今日だけ?」
「昨日も」
「じゃあ平常運転か」
「そうだね」
「納得しないで」
ポロは魚の残りをかじった。
俺は古い紙を見る。
五年。
ある。
でも。
何に対して五年ある?
リコが旅立つまで。
それだけだ。
ナナチとミーティは。
もう。
あの場所にいるかもしれない。
成れ果てになって。
ずっと。
あの暮らしをしているかもしれない。
俺が昨日、文字の読み方で笑っていた時にも。
「……くそ」
「また?」
「独り言」
「多いね」
「一人暮らし向いてないかも」
「宿に人いるじゃん」
「そういう問題じゃないんだよ」
◆
昼前。
仕事へ行くと、ガンザが俺の顔を見るなり笑った。
「何だその顔」
「勉強で疲れました」
「十九歳が?」
「十九歳だから傷が深いんです」
「今日は字読めるのか?」
「少し」
「じゃあこれ」
木箱を指される。
大きく文字が書かれている。
「……食料」
「お」
「しかも魚」
「何で分かった」
「字じゃなくて匂い」
「昨日と一緒じゃねえか!」
「でも『食料』は読めました!」
「半分成長だな」
「評価が渋い!」
周囲の男たちが笑う。
俺も笑った。
身体を動かしている方が楽だった。
箱。
縄。
荷車。
右。
左。
危険。
重い。
目の前のことだけ考えればいい。
「ミナト!」
「はい!」
「そっちの箱、第四倉庫!」
「第四……」
札を見る。
数字。
「四!」
「読めたな!」
「俺、天才!」
「お前の天才安いな!」
また笑いが起きる。
こういう時間は助かる。
頭の中で。
五年。
ナナチ。
ミーティ。
ボンドルド。
そんな単語が回り続けているから。
「ぼーっとすんな!」
「うわっ」
箱が傾く。
ガンザがすぐ支えた。
「す、すみません!」
「何考えてた」
「ちょっと」
「ちょっとで荷物落とすな」
「はい」
強い口調。
でも正しい。
俺は頭を下げた。
ガンザが箱を置く。
「昨日から思ってたが」
「何です?」
「お前、急にどっか飛ぶな」
「……飛ぶ?」
「頭が」
「悪口です?」
「違えよ」
ガンザは自分のこめかみを指で叩く。
「さっきまで笑ってたと思ったら、急に何も聞こえてねえ顔する」
「……」
「記憶がどうとか言ってたろ。無理すんな」
思わず黙った。
この人。
見てるんだな。
「大丈夫です」
「大丈夫な奴は荷物落とさねえ」
「……すみません」
「謝るのは荷物にしろ」
「箱に?」
「中身割れたら給料から引くぞ」
「箱さんごめんなさい!」
「本当に謝る奴初めて見た」
ガンザが吹き出す。
「ほら、次」
「はい」
「今度落とすなよ」
「絶対落としません」
「人間に絶対はねえ」
「じゃあ九十九パーセント!」
「残り一パーセントが怖えよ」
◆
昼休憩。
俺は港の端でパンをかじっていた。
味は薄い。
でも昨日よりうまい。
働いた後の飯は強い。
「隣いいか」
ガンザ。
「どうぞ」
彼は座り、干した魚を噛む。
「また魚」
「港だからな」
「俺、この世界来てから魚率高いな……」
「この世界?」
「遠い土地の言い回しです」
「その言い訳便利だな」
「ミーナにも言われました」
「流行ってんのか」
「俺の周りでだけ」
少し沈黙。
港の向こう。
海。
反対側。
街。
そしてその奥に。
アビス。
どこにいても見える。
「ガンザ」
「ん?」
「探窟家って、なるのにどれくらいかかります?」
彼が魚を噛むのを止めた。
「急にどうした」
「興味」
「昨日まで命が惜しいって言ってたろ」
「今も惜しいです」
「じゃあやめとけ」
「ですよね」
「終わりか?」
「でも、なるとしたら」
ガンザは俺を横目で見る。
「人による」
「何年?」
「だから人による」
「最短なら?」
「死ぬのが?」
「探窟家になるのが!」
「似たようなもんだろ」
「怖いこと言うなあ!」
ガンザは笑った。
「鈴付きから始めるなら、作法覚えて、浅いとこで動けるようになって、試験受けて。赤笛取った後も下へ行きたきゃ経験だ」
「四層まで行けるようになるには?」
「お前」
顔が真面目になる。
「何で四層なんて聞く」
「……例です」
「例で四層出す奴は普通じゃねえ」
「普通からどんどん遠ざかってる」
「元からだろ」
「拾った初日に決めつけないで!」
ガンザは俺をしばらく見る。
「四層まで行ける奴になりたいなら、急ぐな」
「でも時間が」
「知らん」
「……」
「時間がねえ奴ほど急いで死ぬ」
また刺さった。
「お前が何を急いでるかは知らねえ」
「はい」
「だが下は、お前の事情なんざ気にしねえぞ」
「……うん」
「穴は待ってくれねえが、追いかけてもくれねえ」
ガンザがアビスを見る。
「勝手にそこにある」
妙な言葉だった。
でも。
分かる気がした。
俺だけが焦っている。
ナナチが。
ミーティが。
プルシュカが。
未来が。
でもアビスは何も知らない。
俺の都合なんて。
「五年」
口から漏れた。
「何が」
「……何でもないです」
「また飛んだな」
「すみません」
「今度箱持ってる時にやるなよ」
「はい」
◆
仕事が終わったあと。
俺はベルチェロ孤児院の近くまで来ていた。
来るつもりはなかった。
本当に。
でも。
時系列を確かめるなら。
リコの年齢は強い手掛かりだ。
遠くから見ただけじゃ正確には分からない。
だから。
「……いや、だからって近づくなよ俺」
物陰で自分に突っ込む。
完全に不審者。
通報されても文句言えない。
孤児院の建物が見える。
出入りする子供たち。
探窟用具。
笛。
俺が画面越しに知っていた場所。
でも、今は普通に生活音がする。
「やっぱ帰ろ」
踵を返す。
「何かご用ですか?」
「ひゃいっ!」
変な声が出た。
後ろ。
青年が立っていた。
背が高い。
落ち着いた顔。
眼鏡。
見覚えが――。
「……」
「どうしました?」
ジルオ。
リーダー。
ベルチェロ孤児院の教官。
原作キャラ。
知ってる。
知ってるけど。
今その知識は何の役にも立たない。
むしろ邪魔。
「えっと」
「先ほどからこちらを見ていましたね」
「……すみません」
「どなたかに会いに?」
「いえ」
「では、何かご用が?」
「ありません」
「……」
「……」
最悪だ。
会話だけ抜き出したら不審者百パーセント。
「俺、怪しいですよね」
「自覚はあるんですね」
「あります」
「では、理由を聞いても?」
声音は穏やか。
でも目は笑っていない。
当然だ。
孤児院の近くで知らない男が子供を見ていた。
俺でも警戒する。
「……最近この街に来たんです」
「はい」
「記憶が少し混乱してて」
「それは聞いています」
「聞いてる?」
「宿のミーナさんから」
「あの人!」
「身元の分からない青年が泊まっている、と」
「広がってる……」
「小さな街ですから」
「怖い」
「それで?」
逃げられない。
嘘を作る。
いや。
嘘を重ねるほど危ない。
「白笛について調べていました」
「白笛?」
「殲滅卿ライザ」
ジルオの表情が少し変わる。
ほんの少し。
「なぜです?」
「……昔、聞いたことがある気がして」
半分本当。
「自分がどこから来たのか分からないので、知っている名前を辿ってるんです」
これはかなり本当。
ジルオは黙った。
「ライザの娘がこの孤児院にいるって聞いて」
「それで見に?」
「……はい」
「その子に何か?」
「ありません」
即答。
「本当に」
「では、なぜ」
言葉に詰まる。
リコの年齢を知りたいから。
原作開始まで何年あるか知りたいから。
未来を変えるかどうか考えたいから。
言えるわけがない。
「知ってる人に、似てる気がしたんです」
最後は。
ほとんど本音だった。
「……そうですか」
ジルオは俺を見ている。
嘘を見抜こうとしている。
俺は視線を逸らさないようにした。
心臓はうるさい。
「名前は?」
「湊です」
「ミナト」
「はい」
「私はジルオです」
「……よろしくお願いします」
知っている名前を。
初めて聞いたふりをする。
それがこんなに気持ち悪いとは思わなかった。
「一つ、お願いがあります」
「はい」
「孤児院の子供たちを、あまり遠くから観察しないでください」
「本当にすみませんでした!」
即座に頭を下げた。
「会いたい人がいるなら、正面から訪ねてください」
「それは……」
「できない理由が?」
「今は、まだ」
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
でも。
当然、信用もされていない。
「今日は帰ります」
「そうしてください」
「すみません」
「ただ」
歩き出そうとして止まる。
「ミナトさん」
「はい」
「ライザについて何か思い出したことがあれば、こちらから聞くことがあるかもしれません」
「……俺に?」
「あなたがどこで彼女の名を知ったのか、少し興味があります」
背中が冷える。
「大したことじゃないです」
「そうだといいですね」
穏やか。
穏やかなのに。
逃げたくなる。
「じゃ、じゃあ!」
「はい」
早歩き。
角を曲がる。
さらに曲がる。
見えなくなったところで壁に手をつく。
「怖っ……」
別に脅されたわけじゃない。
怒鳴られてもいない。
でも。
原作キャラに。
自分の異常さを初めて向こうから見られた。
その感覚が。
想像以上に怖かった。
「……やっぱ、知ってるからって有利じゃないな」
むしろ。
知っているから不自然になる。
知らないふりをする。
名前を初めて聞いたふりをする。
会ったことのない人に、昔から知っていた感情を抱く。
これ。
いつか破綻する。
◆
夕方。
宿へ戻るとミーナが俺を見る。
「何したの?」
「第一声それ!?」
「顔に書いてある」
「文字読めないのに?」
「あなたの顔は読める」
「やめて、俺より識字力高い」
「当たり前よ」
受付台に突っ伏す。
「孤児院の近くで不審者になりました」
「……何してるの?」
「言い方!」
「自分で言ったんでしょう」
「そうなんだけど」
「子供に何かした?」
「してない!」
「ならいいわ」
「いいんだ」
「次から正面から行きなさい」
「ジルオさんにも同じこと言われました」
「あら、リーダーに見つかったの」
「知ってるんですね」
「そりゃね」
「この街本当に狭いなあ」
「明日には『記憶喪失の変な青年が孤児院を覗いてた』って広まってるかも」
「やめて!」
「冗談よ」
「冗談に聞こえない!」
ミーナが笑う。
俺は椅子に座る。
少しして。
「……ミーナ」
「なに?」
「五年って、長いですか」
「急に何?」
「五年」
「長いんじゃない?」
「短いとも言える?」
「まあね」
「どっち」
「何をするかによるでしょう」
「……」
「子供が大人になるには長い。怪我が治るにはもっと長い。何もしないで待つなら退屈なくらい長い」
「探窟家になるには?」
ミーナの眉が上がった。
「なりたいの?」
「まだ分からない」
「そう」
「でも、四層まで行けるくらいになるには」
「またずいぶん深いところ言うわね」
「ガンザにも言われました」
「ガンザに聞いたの?」
「はい」
「で?」
「急ぐなって」
「なら答え出てるじゃない」
「でも」
言葉が詰まる。
ミーナは待っている。
「……もし」
「うん」
「遠くにいる誰かが、今苦しんでるかもしれなくて」
喉が狭くなる。
「でも自分じゃそこまで行けなくて」
「うん」
「行けるようになるまで何年もかかるとしたら」
ミーナは何も言わない。
「どうします?」
「誰かに頼む」
「頼めない相手なら」
「自分が行けるようになる」
「間に合わないかもしれない」
「じゃあ急ぐ」
「でも急いだら死ぬ」
「面倒ね」
「俺もそう思います」
「それで?」
「答え欲しいんです」
「ないわよ」
即答。
「……ない?」
「そんなの、状況も相手も知らないのに分かるわけないでしょう」
「ですよね」
「ただ」
ミーナが俺の前に水を置く。
「死んだら、たぶん間に合わないわね」
「……」
「そこだけは確実」
水を飲む。
冷たい。
「ずるい答え」
「正しいでしょう?」
「はい」
「ならまず明日の朝も起きなさい」
「低い目標だなあ」
「昨日まで無一文だった男には十分よ」
「強く否定できない」
◆
夜。
部屋。
スマートフォンの電源を入れる。
残量。
七十二パーセント。
「減ったな……」
充電できない。
使うたびに故郷との細い糸が削れていく。
メモを開く。
『確定していること』
昨日の続き。
・ここはオース。
・アビスが存在する。
・白笛は実在する。
・ライザは地上にいない。
・リコはベルチェロ孤児院にいる。
・原作開始前。
その下。
今日の情報。
・ライザが地上から姿を消してから、およそ五年。
・現在のリコは七歳前後と推定。
・原作開始時のリコは十二歳前後だったはず。
最後。
『本編開始まで、約五年』
打ち込む。
「……五年」
画面に表示された文字。
見つめる。
五年。
長い。
短い。
俺が十九から二十四になる時間。
何かを学ぶには長い。
何かを待っている人には。
どうだ。
「ナナチ」
声に出す。
「ミーティ」
次。
「プルシュカ」
名前。
名前。
俺しか知らない未来。
ミーティ。
ナナチと共にボンドルドの実験を受ける。
六層の呪い。
祝福。
成れ果て。
不死に近い身体。
ナナチの長い苦しみ。
レグの火葬砲。
「……いつだよ」
正確な時期。
思い出せない。
単行本を読んだ。
アニメも見た。
考察も見た。
でも。
何年前。
何月。
そんな形では覚えていない。
「もう終わってるのか」
画面に向かって聞く。
「まだなのか」
返事はない。
当たり前だ。
今すぐ四層へ行ければ。
確認できる。
でも行けない。
俺は一層にすらまともに入ったことがない。
四層。
無理だ。
今行ったら。
死ぬ。
「……くそ」
拳を握る。
悔しい。
知ってる。
場所も。
人も。
何が起こるかも。
なのに。
届かない。
この世界に来る前。
転移ものを読んでいて。
主人公が原作知識を持っていたら。
「早く助けに行けよ」
そう思ったことがあった。
簡単に。
「……無理だろ」
笑いが漏れた。
乾いた。
「行けるわけないだろ、こんなの」
文字も読めない。
金もない。
資格もない。
毒への知識もない。
装備もない。
道も知らない。
上昇負荷は普通に食らう。
知識だけで四層へ降りられるなら。
この街の探窟家は誰も死なない。
「……俺、何様だったんだ」
漫画を読んで。
答えを知っている気になって。
救えたはず。
避けられたはず。
そう思っていた。
画面の外からなら。
いくらでも言えた。
でも。
ここでは。
自分の足でそこまで行かないといけない。
「ごめん」
誰に言ったのか分からない。
ナナチか。
ミーティか。
まだ会ったこともない。
会えるかも分からない。
それでも。
「……ごめん」
今は行けない。
その事実だけが。
重い。
◆
しばらくして。
俺はスマホを置いた。
紙を広げる。
日本語で。
今日分かったことを書く。
『原作開始まで、およそ五年』
その下。
『ナナチ/ミーティ 時期不明』
さらに。
『焦って死なない』
書く。
「……だっさ」
笑う。
世界を救う。
未来を変える。
そんな言葉より。
今の俺には似合っている。
でも。
その下に。
もう一つ。
しばらく迷って。
『五年で、届くところまで行く』
書いた。
四層。
ナナチ。
ミーティ。
五層。
プルシュカ。
全部は無理かもしれない。
原作通りに進めた方が。
もしかしたら楽かもしれない。
下手に触ったら。
もっと悪くなるかもしれない。
まだ。
俺は「変える」とは書けなかった。
救う。
とも。
でも。
何もしない。
とも書けなくなっていた。
「……五年」
窓の外を見る。
夜のアビス。
今日も。
底は見えない。
「長いよな」
自分に言う。
「長いってことにしよう」
五年。
俺がこの世界で。
字を覚えて。
金を稼いで。
アビスを知って。
自分の足で立つ時間。
そして。
もし。
本当に誰かのところへ行くなら。
死体ではなく。
助けに行ける人間になるための時間。
◆
翌朝。
「これは?」
ミーナが数字を指す。
「五」
「これは?」
「七」
「これは?」
「三」
「これは?」
「家」
「鳥」
「何で!」
ミーナが腹を抱えて笑う。
「そこだけ全然駄目ね!」
「家と鳥が俺に何したんだよ!」
「文字よ」
「知ってる!」
「ほら、朝飯冷めるわよ」
「はいはい」
席につく。
パン。
スープ。
今日も普通の朝。
窓の外に。
巨大な穴。
その景色にも。
少しだけ慣れてきた自分が怖い。
「ミーナ」
「何?」
「今日も仕事行ってきます」
「うん」
「帰ったら字の続き」
「今日は家と鳥を覚えなさい」
「最優先事項そこ!?」
「あなたの場合はね」
笑う。
本当に。
どうでもいい会話。
でも。
こういう一日を積み重ねるしかない。
五年後を変えたいなら。
まず今日。
箱を落とさない。
字を一つ覚える。
飯を食う。
生きて帰る。
それからだ。
俺はパンを口に入れた。
「……よし」
「何が?」
「今日も生きる」
「朝から大げさね」
「俺にはこれくらいでちょうどいいんです」
ミーナが肩をすくめる。
外では。
オースの朝が始まっていた。
そして。
俺が探していた「いつ」は。
ようやく輪郭を持った。
原作開始まで。
およそ五年。
五年後。
俺が知っている物語が始まる。
なら。
それまでに。
俺は。
どこまで行ける。
まだ答えはない。
だから。
今日から一日ずつ。
確かめることにした。
第三話も読んでくださってありがとうございました!
今回はずっと「何年前なんだ?」を調べていました。
自分は、湊が「五年ある」と知った瞬間に安心するんじゃなくて、
すぐ「じゃあナナチとミーティは?」ってなるところを書きたかったです。
五年って長いですよね。
普通に考えたら、人生かなり変えられる時間です。
今回書いていて、自分だったら絶対焦るなと思いました。
そして多分、焦って一層で死にます。
終わりです。
あとジルオに見つかるところ、個人的にかなり好きです。
湊目線だと「知ってる人だ!」なんですけど、向こうからしたら完全に知らない不審者なんですよね。
この一方通行な“知ってる”感じは、今後も大事にしたいです。
次回からも、まだ派手に無双はしません。
むしろ湊にはしばらく地味に苦労してもらいます。
でも、その地味な積み重ねがいつか誰かを助ける瞬間に繋がったら、
自分はかなり嬉しいです。
第三話もありがとうございました!
また次回。