自分もあそこを書きながら、「よし、ここから頑張れるな」と思ったんですが――その直後に浮かんだのが今回の話でした。
時間があることと、間に合うことって、同じじゃないんですよね。
今回は少し苦いです。
でも、ずっと苦いままにはしません。
湊には、落ち込む時はちゃんと落ち込んでもらって、それでも翌朝には腹を減らしてもらおうと思っています。
それでは第四話。
お願いします。
朝、目を覚まして最初に見たのは、自分の字だった。
『五年で、届くところまで行く』
昨日の夜に書いた紙が、机の上に置きっぱなしになっている。
「……朝見ると恥ずかしいな、これ」
夜中の決意というのは、朝日に弱い。
妙に格好つけて見える。
俺は寝癖を掻きながら、その紙を裏返した。
「よし。見なかったことにしよう」
コンコン。
「ミナトー。起きてる?」
「今ちょうど人生の黒歴史を封印したところです」
「じゃあ朝ごはんいらない?」
「起きてます!」
即答して扉を開ける。
ミーナが呆れた顔をした。
「食べ物への反応だけは一人前ね」
「人間、飯を食わないと死ぬんですよ」
「大発見ね」
「この世界に来て三日で辿り着いた真理です」
「四日目よ」
「え」
「もう日付忘れたの?」
「昨日あれだけ勉強したのに!?」
「頭の中に穴でも開いてるんじゃない?」
「この街でその比喩やめません?」
笑われながら階段を下りる。
朝食はパンと、薄いスープと、焼いた小魚。
「また魚」
「嫌?」
「おいしいです」
「なら食べなさい」
「はい」
文句を言いつつ、普通にうまい。
この街に来てから、魚の評価が上がり続けている。
スープにパンを浸しながら、俺は昨日の数字を頭の中で反芻した。
原作開始まで、およそ五年。
時間はある。
少なくともリコがレグと出会い、奈落へ向かうまでには。
五年。
短くはない。
だから昨日の夜は、ほんの少しだけ希望が持てた。
――でも。
「ミーナ」
「なに?」
「昔の探窟記録って、どれくらい昔まで残ってるんです?」
「また朝から変なこと聞くわね」
「最近それ言われ慣れてきました」
「褒めてないわよ」
「知ってます」
ミーナは皿を拭きながら考える。
「ちゃんとした記録なら、かなり昔のものまであるんじゃない? ただ、一般の人が簡単に見られるものばかりじゃないと思うけど」
「何百年とか?」
「あるんじゃない?」
「千年以上」
「……何を探してるの?」
「昔話です」
「それなら本屋でも行ったら?」
「読めない」
「あ」
「忘れてたでしょ」
「ちょっと」
「酷い」
「じゃあポロに読ませれば?」
「また魚を要求される」
「働きなさい」
「この世界、情報にちゃんと値段ついてるなあ……」
「当然でしょ」
当然。
その言葉に少しだけ笑う。
俺は元の世界で、情報をほとんど無料で拾っていた。
検索すれば出る。
動画を開けば誰かが解説してくれる。
漫画を買えば何度でも読み返せる。
ここでは。
一行知るために歩く。
人に聞く。
働く。
魚を買う。
九歳に値上げされる。
「……よし」
「何がよしなの?」
「今日もポロを買収してきます」
「言い方を変えなさい」
◆
「今日は魚じゃなくて肉がいい」
「値上げどころか品目変わってる!」
港の端。
俺の臨時情報屋は、会うなり契約条件を変更してきた。
「昨日魚食べたから」
「毎日同じものは嫌ってこと?」
「うん」
「贅沢覚えたなあ!」
「お兄ちゃんが払うんでしょ?」
「俺、君の保護者じゃないよ?」
「じゃあいいよ。今日は帰る」
「待ってくださいポロさん」
「肉」
「肉、高いんだよ……!」
「情報も高いよ」
「その年で商人の才能ありすぎない?」
結局、串焼き一本で手を打った。
俺の財布が泣いている。
「で、今日は何?」
「古い昔話」
「どれくらい?」
「めちゃくちゃ古い」
「分かんない」
「ですよね」
まず聞き方が悪い。
俺は言葉を選ぶ。
「黄金郷とか、深いところに昔からあるって言われてる場所の話」
「ああ」
ポロはあっさり頷いた。
「知ってる?」
「話だけ。みんな知ってるよ」
「どんな?」
「下の方に黄金郷があるとか、底にすごい宝があるとか。話によって違う」
「いつ頃から言われてる?」
「知らない」
「古い?」
「すごく古いんじゃない?」
「何年?」
「肉もう一本」
「知らないことに料金要求するな!」
ポロが笑う。
俺も笑った。
でも。
胸の中は笑っていなかった。
黄金郷。
成れ果て村。
イルミューイ。
ヴエコ。
ガンジャ隊。
その出来事は。
俺が来るずっと前。
リコが生まれるより遥か前。
オースの今から見ても、昔話になるほど前。
分かっていた。
原作を読んでいたんだから。
分かっていたはずなのに。
この世界に来てから、どこかで考えていた。
知っているなら。
もしかしたら。
全部。
「お兄ちゃん?」
「ん?」
「聞いてる?」
「ごめん。何?」
「またいなくなってた」
「……俺、そんな分かりやすい?」
「うん」
「きついなあ」
「顔が急に怖くなる」
「怖い?」
「泣きそうな顔」
「それ怖いって言う?」
「知らない」
子供の言葉は遠慮がない。
俺は鼻から息を吐く。
「昔の記録、もっとちゃんと調べたいんだけど」
「図書のとこ?」
「あるの?」
「探窟家向けの資料置いてるとこ。僕入れないけど」
「俺も入れなさそう」
「じゃあ駄目だね」
「即終了!」
「探窟家になれば?」
「それが簡単なら苦労してないんだよ……」
「赤笛なら子供でもいるよ」
「それ言われると十九歳の俺の立場がない」
「弱いの?」
「心に刺さる質問するね君」
「僕、一層ならちょっと行ったことある」
「負けた!」
「勝った」
「競ってないから!」
笑った。
やっぱり。
こういう時間は助かる。
重いことを考えている時ほど。
誰かのくだらない一言に救われる。
「じゃあさ」
俺はポロに聞いた。
「もし、すっごい昔に困ってた人がいたとして」
「うん」
「今さら助けられないじゃん」
「死んでたらね」
「……そうだな」
「でも生きてたら助けられるんじゃない?」
「何百年も?」
「アビスなら変なのいるし」
思わずポロを見る。
本人は何でもない顔で串焼きを食べている。
「……それ、いいな」
「何が?」
「いや」
過去を変えることはできない。
でも。
過去に傷ついた誰かが。
今も生きているなら。
未来は。
まだ。
「お兄ちゃん、肉もう一本」
「今いいこと言った感動返して!」
◆
昼の仕事は、地獄だった。
「腰!」
「声出てんぞ!」
「腰が死ぬ!」
「十九だろ!」
「十九にも腰はある!」
木箱を二人で担ぎながら、ガンザが大笑いする。
「何入ってんですかこれ!」
「金属片」
「先に言って!」
「言ったら軽くなるのか?」
「心の準備が!」
「重さに心は関係ねえ!」
「あるよ!」
ふらつきながら倉庫へ運ぶ。
置く。
腰を伸ばす。
「っあああ……」
「年寄りみたいな声出すな」
「この街来てから十歳くらい老けました」
「まだ四日だろ」
「アビス時間怖い」
「何だそれ」
休憩用の樽に座る。
ガンザが水を投げてくる。
「ありがとうございます」
「今日はぼーっとしてねえな」
「箱が重すぎて考える余裕ないです」
「いい薬だな」
「荒療治すぎる」
水を飲む。
うまい。
汗が引く。
「ガンザ」
「ん?」
「この街って、昔からずっとこうなんですか」
「こうって?」
「アビスがあって、探窟家がいて、人が住んで」
「俺が生まれた時にはな」
「もっと昔は?」
「歴史の先生に見えるか?」
「見えない」
「殴るぞ」
「聞いた俺が悪かったです!」
ガンザは鼻で笑う。
「大穴が見つかってから人が集まった。昔は今ほど街じゃなかったって話だ」
「見つかる前にも、ここに人は?」
「そりゃ島だ。誰かしらいたんじゃねえの」
「昔の探窟隊とか」
「古い話好きだな、お前」
「最近マイブームです」
「変な趣味だ」
「自覚あります」
俺は迷って。
もう一つ聞いた。
「黎明卿って、昔から子供を研究に使ってる……みたいな噂、あります?」
ガンザの顔から笑いが消えた。
「おい」
「……はい」
「どこで聞いた」
「遠いところで」
「またそれか」
「すみません」
「白笛の悪い噂なんざ、探せばいくらでも出る」
「じゃあ」
「だが、根拠もなしに子供がどうとか口にするな」
「……はい」
「特に港でな」
「どうして?」
「人の口は荷車より速い」
ミーナと似たことを言う。
小さな街。
噂が回る。
俺はまだ、この世界で何の信用もない。
「でも」
ガンザが続けた。
「黎明卿のところに、外から人が集まるって話はある」
「研究者?」
「探窟家だったり、学者だったり。何かに憧れて来る奴もいる。あの人は有名だからな」
「子供は」
「知らん」
「……そっか」
「何でそこまで気にする」
「……」
答えられない。
ガンザの目が細くなる。
「ミナト」
「はい」
「お前、誰か探してんのか」
胸が跳ねた。
「……分からない」
「何だそりゃ」
「俺自身も」
本当だ。
ナナチを探している。
ミーティを探している。
プルシュカを。
イルミューイを。
でも。
俺は彼女たちに会ったことがない。
向こうは俺を知らない。
「会ったことない人を探してる、って言ったら信じます?」
「信じねえ」
「ですよね」
「だが」
ガンザが水を飲む。
「この街じゃ、会ったこともない何かを探して穴に入る馬鹿は珍しくねえ」
「……」
「遺物とか、黄金郷とか、底とかよ」
思わず笑った。
「じゃあ俺、案外この街向いてるのかも」
「調子乗んな。箱一つで腰死んでる奴が」
「現実に戻すの早い!」
◆
午後。
荷物を運び終えた俺は、ガンザに縄の結び方を教わった。
「違う」
「え?」
「それじゃ引っ張ったら締まりすぎる」
「じゃあこう?」
「ほどける」
「難しい!」
「穴の中でそれ言ったら死ぬぞ」
「何でも死につながるなこの街!」
「だから覚えろ」
「はい」
結ぶ。
失敗。
ほどく。
結ぶ。
また違う。
「お前、指先不器用だな」
「スマホのフリック入力なら速いです」
「すまほ?」
「遠い国の……縄です」
「絶対違うだろ」
「バレた」
「嘘下手だなあ」
笑いながら、また結ぶ。
ただの縄。
ただの結び方。
でも。
これができなければ。
誰かを引き上げられないかもしれない。
荷物を固定できないかもしれない。
自分が落ちるかもしれない。
五年。
できることは。
たぶん、こういうことだ。
一つずつ。
「できた」
「見せろ」
ガンザが引っ張る。
ほどけない。
「まあ合格」
「やった!」
「喜びが安い」
「昨日数字四つで喜んだ男ですよ俺」
「順調に成長してんな」
「レベルが低い!」
◆
夕方。
仕事場を出たところで、鐘が鳴った。
一度。
少し間を置いて。
もう一度。
港の空気が変わる。
さっきまで笑っていた男たちの声が止まった。
「……何です?」
俺が聞くと、ガンザが帽子を取った。
「探窟家が戻った」
「じゃあ、いい鐘?」
ガンザは答えなかった。
数人が道を空ける。
やがて。
運ばれてきた。
担架。
一つ。
布がかかっている。
形を見れば。
分かる。
「……」
隣に。
若い探窟家が歩いていた。
顔が真っ白だった。
服は泥だらけ。
腕に包帯。
何度も。
「ごめん」
と呟いている。
誰に言っているのか。
聞かなくても分かった。
布の端から。
赤い笛が見えた。
「赤笛……」
「若かった」
ガンザが小さく言う。
「知ってる人?」
「顔はな」
「名前は?」
「……セムだったか」
知らない。
当然。
原作で見た覚えはない。
セム。
そんなキャラクターは。
俺の記憶にはいない。
でも。
今。
一人死んだ。
俺が知らないところで。
俺が朝、魚を食べて。
ポロと肉の値段で揉めて。
腰が痛いと騒いでいた間に。
一人。
「……何があったんですか」
「分からん」
「何層?」
「一層だろう」
「一層……」
俺は。
一層なら。
浅いと思っていた。
原作知識の中で。
一層は始まり。
まだ軽い呪い。
本当に恐ろしいのはもっと下。
そう。
どこかで思っていた。
違う。
一層でも。
死ぬ。
知っていたはずなのに。
「ミナト」
ガンザの声。
「今日は帰れ」
「でも」
「顔色悪い」
「俺は何も」
「何もできねえから帰れ」
強い言葉。
でも。
否定できなかった。
「……はい」
◆
帰り道。
街がうるさい。
いつも通り。
店の呼び声。
走る子供。
夕食の匂い。
誰かの笑い声。
さっき。
人が死んだ。
でも。
世界は止まらない。
当たり前だ。
毎日誰かが死ぬたび、街全体が止まるわけにはいかない。
分かる。
分かるけど。
「……セム」
名前を呟く。
一度聞いただけ。
顔も。
布で見えなかった。
俺の救済リストにはいなかった。
ミーティ。
プルシュカ。
ヴエコ。
ファプタ。
原作で名前を知っている人。
好きだった人。
つらい目に遭った人。
そこばかり考えていた。
でも。
この世界には。
俺の知らない人間が。
当たり前にいる。
原作に描かれなかったところで。
生きて。
死ぬ。
「……無理だろ」
思わず声が出た。
全員。
なんて。
無理だ。
世界中の人間を救えるわけがない。
そもそも。
俺が来る前に死んだ人は。
どうする。
ガンジャ隊の子供たちは。
イルミューイが産んだものたちは。
ボンドルドの実験で、すでに死んだ子供たちは。
名前すら。
俺は全部覚えていない。
何を。
救済。
だ。
「……俺」
足が止まる。
「何を助けるつもりだったんだ」
通行人が俺を避ける。
当然だ。
道の真ん中で立ち止まっている。
歩く。
宿まで。
ただ歩いた。
◆
「おかえり」
ミーナ。
「……ただいま」
「ご飯は?」
「いらない」
「熱?」
「ないです」
「じゃあ座って」
「大丈夫」
「座って」
声が強い。
俺は素直に椅子に座った。
ミーナが俺の額に手を当てる。
「熱なし」
「だから」
「じゃあ何」
「……探窟家が死んでました」
ミーナの手が止まる。
「ああ」
「知ってる?」
「鐘が鳴ったから」
「セムって」
「……若い子ね」
「知ってた?」
「何度かここで食べたことあるわ」
「……」
宿に。
来ていた。
この椅子に座ったかもしれない。
ミーナの料理を食べた。
笑った。
俺が知らなかっただけ。
「ミーナ」
「うん」
「この街って、慣れるんですか」
「何に?」
「人が死ぬの」
ミーナは少し黙った。
「慣れないわよ」
「でも普通にしてる」
「普通にしないと、次の日が来るから」
「……」
「慣れるんじゃなくて」
ミーナは皿を一枚拭く。
「抱えたまま仕事するの」
「きついな」
「そうね」
「俺、知らなかった」
「何を?」
「セム」
「あなた来たばっかりでしょう」
「でも」
「知らない人がいるのは当たり前よ」
「……」
「全部知ろうとしたら頭破裂するわよ」
「もう破裂しかけてます」
「でしょうね」
ミーナはスープをよそう。
「いらないって」
「食べなさい」
「食欲ない」
「三口」
「子供扱い」
「病人扱いよ」
「病人じゃない」
「じゃあ五口」
「増えた!」
反射的にツッコんで。
少しだけ。
胸が緩んだ。
「……ずるいな」
「何が?」
「何でもない」
スプーンを持つ。
一口。
二口。
温かい。
三口。
「五口」
「覚えてたの!?」
「当然」
「厳しい……」
四口。
五口。
「よし」
「何がよしなんだか」
「生きてる人は食べないと」
その言葉で。
手が止まった。
ミーナは気づいたみたいだった。
「……ごめん」
「いや」
「悪い意味じゃ」
「分かってます」
俺はもう一口食べた。
「そうだよな」
「うん」
「生きてる人は食べないと」
◆
部屋へ戻った。
机。
紙。
昨日の文字。
『五年で、届くところまで行く』
裏返していた紙を戻す。
ペンを持つ。
別の紙。
名前を書く。
ミーティ。
ナナチ。
プルシュカ。
ヴエコ。
イルミューイ。
ファプタ。
ベラフ。
ワズキャン。
ガブールン。
思い出せる名前。
その下に。
セム。
書く。
「……違う」
何が違う。
セムを救えなかったから?
俺はセムが今日死ぬなんて知らなかった。
知りようもなかった。
なら。
俺の責任じゃない。
そう言えば楽だ。
実際。
責任なんてない。
俺は神様じゃない。
この世界の管理者でもない。
ただの十九歳。
でも。
「名前を知ってるやつだけ」
呟く。
「助ければいいのか」
違う。
それも。
何か違う。
原作に出たから。
好きだから。
悲しかったから。
助けたい。
その気持ちは本物だ。
否定する必要はない。
でも。
原作に名前がなかった人は。
死んでもいいのか。
「……無理」
全部助けるのも無理。
知らない人を全部救うなんて。
できるわけがない。
だったら。
どうする。
俺は紙を睨んだ。
答えは出ない。
出るわけがない。
ここで格好いいルールを書けば。
気持ちは楽になるかもしれない。
『全員救う』
とか。
でも。
今日。
一人死んだ。
俺の知らないところで。
その言葉が。
急に軽く見えた。
「……全員って誰だよ」
紙に。
別の線を引く。
左。
『過去』
右。
『これから』
イルミューイの名前を。
どこに置けばいい。
過去。
彼女に起きたことは。
遥か昔。
俺には止められない。
でも。
原作開始前の今。
彼女は。
完全に消えているわけじゃない。
村として。
ファプタの母として。
残っている。
「じゃあ」
過去の苦しみは。
変えられない。
でも。
その先は。
「……まだ終わってない?」
自分で言って。
怖くなる。
これは。
希望的観測だ。
都合のいい考え。
原作では。
もう。
あの形になっている。
人間に戻す方法なんて。
知らない。
ミーティも同じ。
俺は救う方法を知らない。
「分からない」
それでも。
紙に一行だけ書いた。
『起きたことを消すことと、救うことは同じじゃない』
見つめる。
まだ。
答えじゃない。
仮説。
自分に言い聞かせる言葉。
でも。
過去に間に合わなかったから。
全部終わり。
そう決めるよりは。
少しだけ。
ましだった。
◆
次の日。
「……何してんの?」
ポロが俺を見る。
「縄結んでる」
「何で港で?」
「練習」
「変なの」
「知ってる」
昨日ガンザに教わった結び方。
忘れないうちに繰り返す。
結ぶ。
ほどく。
結ぶ。
「下手」
「見てろよ」
「僕の方ができる」
「嘘つけ」
ポロが縄を取る。
さっと結ぶ。
「……」
「できた」
「九歳に負けた」
「肉」
「勝手に勝負して料金請求すんな!」
ポロが笑う。
俺も笑った。
昨日。
人が死んだ。
今日。
俺は縄を結んでいる。
世界は。
続く。
それは。
残酷で。
ありがたい。
「ポロ」
「なに?」
「昨日、赤笛の人が死んだの知ってる?」
「うん」
「知り合い?」
「少し。市場で何回か見た」
「そっか」
ポロはそれだけ言って。
縄を弄る。
「お兄ちゃん」
「うん」
「探窟家になるの?」
「まだ決めてない」
「毎日それ言うね」
「大事なことなんだよ」
「怖い?」
「めちゃくちゃ」
「じゃあやめればいいのに」
「……そうなんだよな」
「変なの」
「自分でもそう思う」
遠く。
アビスが見える。
穴は。
今日も何も言わない。
昨日一人死んだことなんて。
知らないみたいに。
そこにある。
「でもさ」
俺は縄をもう一度結ぶ。
「やめたら、たぶん後悔する気がする」
「何を?」
「分からない」
「分からないこと多いね」
「それだけは分かってきた」
ポロが首を傾げる。
俺は笑った。
「よし」
結び目を引く。
今度はほどけない。
「できた」
「遅い」
「うるさい!」
◆
昼。
俺は一人で、街の端にある小さな慰霊碑の前へ行った。
昨日のセムの名前が、もう刻まれているわけではない。
ただ。
そこには。
たくさんの名前。
読めるもの。
読めないもの。
まだ文字を覚えたばかりの俺には。
ほとんどが記号。
でも。
全部。
人の名前だ。
「……読めるようになろう」
誰に言うでもなく。
「少なくとも」
知らないままにしない。
全部助けられない。
過去には間に合わない。
今日死ぬ誰かを、全部予知することもできない。
それでも。
知れることは知る。
届くところには行く。
目の前にいるなら。
見捨てる理由を、先に探さない。
そのくらいなら。
今の俺にも。
決められる。
「全員救う、か」
まだ。
言えない。
軽すぎる。
でも。
「間に合わなかった」で。
全部を終わらせるのも。
嫌だった。
◆
夜。
部屋へ戻る。
紙を開く。
名前の一覧。
最後に。
新しい一行を足す。
『名前を知らない人』
書いてから。
「何だこれ」
少し笑った。
馬鹿みたいに広い。
具体性ゼロ。
計画としては最低。
でも。
消さなかった。
その下に。
『間に合わなかった過去は変えられない』
さらに。
『だから、今から間に合うものを増やす』
書く。
ペンを置く。
昨日より。
少しだけ。
現実的になった気がした。
強くなったわけじゃない。
何も救っていない。
今日も。
ただ。
縄の結び方を一つ覚えただけ。
でも。
もし五年後。
その結び目一つで。
誰かの手を離さずに済むなら。
今日一日にも。
意味はある。
「……明日も仕事か」
急に現実に戻る。
「腰、痛いんだよなあ」
ベッドへ倒れる。
天井を見る。
「世界救う前に腰救いたい」
誰も答えない。
当然だ。
少しして。
俺は笑った。
昨日より。
ちゃんと眠れそうだった。
◆
翌朝。
「これは?」
ミーナが文字を指す。
「家」
「正解」
「よっしゃあ!」
「これは?」
「鳥」
「正解」
「勝った!」
「何に?」
「過去の俺に!」
「朝から面倒くさいわね」
「今日は祝杯です」
「水でいい?」
「せめてスープ!」
ミーナが笑う。
俺も笑った。
テーブルの端。
昨日書いた紙がある。
間に合わなかった者。
まだ間に合うか分からない者。
これから出会う者。
何人いるのか。
俺には分からない。
だから。
まず。
今日の文字を一つ読む。
今日の飯を食う。
今日の仕事から生きて帰る。
できることを増やす。
それしかない。
アビスは待ってくれない。
でも。
焦って死ねば。
本当に何一つ間に合わない。
俺はスープを飲んだ。
「ミーナ」
「なに?」
「今日、帰ったら縄の練習していい?」
「部屋の中で首吊らないでね」
「怖いこと言うな!」
「冗談よ」
「この街の冗談、たまに洒落にならないんだよ!」
朝から笑い声が響く。
今日も。
オースは普通に始まる。
その普通の中で。
俺も。
少しずつ。
この世界の人間になっていく。
過去には。
間に合わなかった。
それでも。
未来まで。
遅れたことにはしたくなかった。
第四話、ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回書き終わったあと、しばらくタイトルを考えていました。
「間に合わなかった者」って、結構嫌な言葉だなと思います。
努力が足りなかった、とも限らない。
知らなかっただけかもしれない。
そもそも生まれていなかったのかもしれない。
どう頑張っても届かない過去だってある。
湊には、そこを一回ちゃんと飲み込んでもらいたかったです。
それと、今回出したセムは原作の中心人物ではありません。
だからこそ入れました。
湊の頭の中ではどうしても、最初は「自分が原作で知っている人」が大きく見えます。
自分も物語を読む側なら、当然そうなると思います。
でもこの世界で暮らし始めたら、ページに映っていなかった人の方が圧倒的に多い。
そのことを、湊にも少しずつ知ってほしいです。
とはいえ、全部背負わせたら十九歳が潰れるので。
そこはミーナにスープを食べさせてもらい、ポロには肉をたかられ、ガンザには縄でしごいてもらいます。
周りの人たち、思った以上に頼もしいです。
間に合わなかったことがあっても、そのあとまで全部遅かったことにしなくていい。
この作品では、たぶん何度もそこに戻ってくる気がします。
次回は、湊がもう少し具体的に「この世界で生きる側」へ踏み込みます。
たぶんまた怒られます。
第四話、ありがとうございました。