奈落の悲劇を踏み越えて   作:まねきまねき

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第三話の最後で「五年ある」と分かって、湊は少し前を向けました。
自分もあそこを書きながら、「よし、ここから頑張れるな」と思ったんですが――その直後に浮かんだのが今回の話でした。

時間があることと、間に合うことって、同じじゃないんですよね。

今回は少し苦いです。
でも、ずっと苦いままにはしません。

湊には、落ち込む時はちゃんと落ち込んでもらって、それでも翌朝には腹を減らしてもらおうと思っています。

それでは第四話。
お願いします。


間に合わなかった者

 朝、目を覚まして最初に見たのは、自分の字だった。

 

『五年で、届くところまで行く』

 

 昨日の夜に書いた紙が、机の上に置きっぱなしになっている。

 

「……朝見ると恥ずかしいな、これ」

 

 夜中の決意というのは、朝日に弱い。

 

 妙に格好つけて見える。

 

 俺は寝癖を掻きながら、その紙を裏返した。

 

「よし。見なかったことにしよう」

 

 コンコン。

 

「ミナトー。起きてる?」

 

「今ちょうど人生の黒歴史を封印したところです」

 

「じゃあ朝ごはんいらない?」

 

「起きてます!」

 

 即答して扉を開ける。

 

 ミーナが呆れた顔をした。

 

「食べ物への反応だけは一人前ね」

 

「人間、飯を食わないと死ぬんですよ」

 

「大発見ね」

 

「この世界に来て三日で辿り着いた真理です」

 

「四日目よ」

 

「え」

 

「もう日付忘れたの?」

 

「昨日あれだけ勉強したのに!?」

 

「頭の中に穴でも開いてるんじゃない?」

 

「この街でその比喩やめません?」

 

 笑われながら階段を下りる。

 

 朝食はパンと、薄いスープと、焼いた小魚。

 

「また魚」

 

「嫌?」

 

「おいしいです」

 

「なら食べなさい」

 

「はい」

 

 文句を言いつつ、普通にうまい。

 

 この街に来てから、魚の評価が上がり続けている。

 

 スープにパンを浸しながら、俺は昨日の数字を頭の中で反芻した。

 

 原作開始まで、およそ五年。

 

 時間はある。

 

 少なくともリコがレグと出会い、奈落へ向かうまでには。

 

 五年。

 

 短くはない。

 

 だから昨日の夜は、ほんの少しだけ希望が持てた。

 

 ――でも。

 

「ミーナ」

 

「なに?」

 

「昔の探窟記録って、どれくらい昔まで残ってるんです?」

 

「また朝から変なこと聞くわね」

 

「最近それ言われ慣れてきました」

 

「褒めてないわよ」

 

「知ってます」

 

 ミーナは皿を拭きながら考える。

 

「ちゃんとした記録なら、かなり昔のものまであるんじゃない? ただ、一般の人が簡単に見られるものばかりじゃないと思うけど」

 

「何百年とか?」

 

「あるんじゃない?」

 

「千年以上」

 

「……何を探してるの?」

 

「昔話です」

 

「それなら本屋でも行ったら?」

 

「読めない」

 

「あ」

 

「忘れてたでしょ」

 

「ちょっと」

 

「酷い」

 

「じゃあポロに読ませれば?」

 

「また魚を要求される」

 

「働きなさい」

 

「この世界、情報にちゃんと値段ついてるなあ……」

 

「当然でしょ」

 

 当然。

 

 その言葉に少しだけ笑う。

 

 俺は元の世界で、情報をほとんど無料で拾っていた。

 

 検索すれば出る。

 

 動画を開けば誰かが解説してくれる。

 

 漫画を買えば何度でも読み返せる。

 

 ここでは。

 

 一行知るために歩く。

 

 人に聞く。

 

 働く。

 

 魚を買う。

 

 九歳に値上げされる。

 

「……よし」

 

「何がよしなの?」

 

「今日もポロを買収してきます」

 

「言い方を変えなさい」

 

     ◆

 

「今日は魚じゃなくて肉がいい」

 

「値上げどころか品目変わってる!」

 

 港の端。

 

 俺の臨時情報屋は、会うなり契約条件を変更してきた。

 

「昨日魚食べたから」

 

「毎日同じものは嫌ってこと?」

 

「うん」

 

「贅沢覚えたなあ!」

 

「お兄ちゃんが払うんでしょ?」

 

「俺、君の保護者じゃないよ?」

 

「じゃあいいよ。今日は帰る」

 

「待ってくださいポロさん」

 

「肉」

 

「肉、高いんだよ……!」

 

「情報も高いよ」

 

「その年で商人の才能ありすぎない?」

 

 結局、串焼き一本で手を打った。

 

 俺の財布が泣いている。

 

「で、今日は何?」

 

「古い昔話」

 

「どれくらい?」

 

「めちゃくちゃ古い」

 

「分かんない」

 

「ですよね」

 

 まず聞き方が悪い。

 

 俺は言葉を選ぶ。

 

「黄金郷とか、深いところに昔からあるって言われてる場所の話」

 

「ああ」

 

 ポロはあっさり頷いた。

 

「知ってる?」

 

「話だけ。みんな知ってるよ」

 

「どんな?」

 

「下の方に黄金郷があるとか、底にすごい宝があるとか。話によって違う」

 

「いつ頃から言われてる?」

 

「知らない」

 

「古い?」

 

「すごく古いんじゃない?」

 

「何年?」

 

「肉もう一本」

 

「知らないことに料金要求するな!」

 

 ポロが笑う。

 

 俺も笑った。

 

 でも。

 

 胸の中は笑っていなかった。

 

 黄金郷。

 

 成れ果て村。

 

 イルミューイ。

 

 ヴエコ。

 

 ガンジャ隊。

 

 その出来事は。

 

 俺が来るずっと前。

 

 リコが生まれるより遥か前。

 

 オースの今から見ても、昔話になるほど前。

 

 分かっていた。

 

 原作を読んでいたんだから。

 

 分かっていたはずなのに。

 

 この世界に来てから、どこかで考えていた。

 

 知っているなら。

 

 もしかしたら。

 

 全部。

 

「お兄ちゃん?」

 

「ん?」

 

「聞いてる?」

 

「ごめん。何?」

 

「またいなくなってた」

 

「……俺、そんな分かりやすい?」

 

「うん」

 

「きついなあ」

 

「顔が急に怖くなる」

 

「怖い?」

 

「泣きそうな顔」

 

「それ怖いって言う?」

 

「知らない」

 

 子供の言葉は遠慮がない。

 

 俺は鼻から息を吐く。

 

「昔の記録、もっとちゃんと調べたいんだけど」

 

「図書のとこ?」

 

「あるの?」

 

「探窟家向けの資料置いてるとこ。僕入れないけど」

 

「俺も入れなさそう」

 

「じゃあ駄目だね」

 

「即終了!」

 

「探窟家になれば?」

 

「それが簡単なら苦労してないんだよ……」

 

「赤笛なら子供でもいるよ」

 

「それ言われると十九歳の俺の立場がない」

 

「弱いの?」

 

「心に刺さる質問するね君」

 

「僕、一層ならちょっと行ったことある」

 

「負けた!」

 

「勝った」

 

「競ってないから!」

 

 笑った。

 

 やっぱり。

 

 こういう時間は助かる。

 

 重いことを考えている時ほど。

 

 誰かのくだらない一言に救われる。

 

「じゃあさ」

 

 俺はポロに聞いた。

 

「もし、すっごい昔に困ってた人がいたとして」

 

「うん」

 

「今さら助けられないじゃん」

 

「死んでたらね」

 

「……そうだな」

 

「でも生きてたら助けられるんじゃない?」

 

「何百年も?」

 

「アビスなら変なのいるし」

 

 思わずポロを見る。

 

 本人は何でもない顔で串焼きを食べている。

 

「……それ、いいな」

 

「何が?」

 

「いや」

 

 過去を変えることはできない。

 

 でも。

 

 過去に傷ついた誰かが。

 

 今も生きているなら。

 

 未来は。

 

 まだ。

 

「お兄ちゃん、肉もう一本」

 

「今いいこと言った感動返して!」

 

     ◆

 

 昼の仕事は、地獄だった。

 

「腰!」

 

「声出てんぞ!」

 

「腰が死ぬ!」

 

「十九だろ!」

 

「十九にも腰はある!」

 

 木箱を二人で担ぎながら、ガンザが大笑いする。

 

「何入ってんですかこれ!」

 

「金属片」

 

「先に言って!」

 

「言ったら軽くなるのか?」

 

「心の準備が!」

 

「重さに心は関係ねえ!」

 

「あるよ!」

 

 ふらつきながら倉庫へ運ぶ。

 

 置く。

 

 腰を伸ばす。

 

「っあああ……」

 

「年寄りみたいな声出すな」

 

「この街来てから十歳くらい老けました」

 

「まだ四日だろ」

 

「アビス時間怖い」

 

「何だそれ」

 

 休憩用の樽に座る。

 

 ガンザが水を投げてくる。

 

「ありがとうございます」

 

「今日はぼーっとしてねえな」

 

「箱が重すぎて考える余裕ないです」

 

「いい薬だな」

 

「荒療治すぎる」

 

 水を飲む。

 

 うまい。

 

 汗が引く。

 

「ガンザ」

 

「ん?」

 

「この街って、昔からずっとこうなんですか」

 

「こうって?」

 

「アビスがあって、探窟家がいて、人が住んで」

 

「俺が生まれた時にはな」

 

「もっと昔は?」

 

「歴史の先生に見えるか?」

 

「見えない」

 

「殴るぞ」

 

「聞いた俺が悪かったです!」

 

 ガンザは鼻で笑う。

 

「大穴が見つかってから人が集まった。昔は今ほど街じゃなかったって話だ」

 

「見つかる前にも、ここに人は?」

 

「そりゃ島だ。誰かしらいたんじゃねえの」

 

「昔の探窟隊とか」

 

「古い話好きだな、お前」

 

「最近マイブームです」

 

「変な趣味だ」

 

「自覚あります」

 

 俺は迷って。

 

 もう一つ聞いた。

 

「黎明卿って、昔から子供を研究に使ってる……みたいな噂、あります?」

 

 ガンザの顔から笑いが消えた。

 

「おい」

 

「……はい」

 

「どこで聞いた」

 

「遠いところで」

 

「またそれか」

 

「すみません」

 

「白笛の悪い噂なんざ、探せばいくらでも出る」

 

「じゃあ」

 

「だが、根拠もなしに子供がどうとか口にするな」

 

「……はい」

 

「特に港でな」

 

「どうして?」

 

「人の口は荷車より速い」

 

 ミーナと似たことを言う。

 

 小さな街。

 

 噂が回る。

 

 俺はまだ、この世界で何の信用もない。

 

「でも」

 

 ガンザが続けた。

 

「黎明卿のところに、外から人が集まるって話はある」

 

「研究者?」

 

「探窟家だったり、学者だったり。何かに憧れて来る奴もいる。あの人は有名だからな」

 

「子供は」

 

「知らん」

 

「……そっか」

 

「何でそこまで気にする」

 

「……」

 

 答えられない。

 

 ガンザの目が細くなる。

 

「ミナト」

 

「はい」

 

「お前、誰か探してんのか」

 

 胸が跳ねた。

 

「……分からない」

 

「何だそりゃ」

 

「俺自身も」

 

 本当だ。

 

 ナナチを探している。

 

 ミーティを探している。

 

 プルシュカを。

 

 イルミューイを。

 

 でも。

 

 俺は彼女たちに会ったことがない。

 

 向こうは俺を知らない。

 

「会ったことない人を探してる、って言ったら信じます?」

 

「信じねえ」

 

「ですよね」

 

「だが」

 

 ガンザが水を飲む。

 

「この街じゃ、会ったこともない何かを探して穴に入る馬鹿は珍しくねえ」

 

「……」

 

「遺物とか、黄金郷とか、底とかよ」

 

 思わず笑った。

 

「じゃあ俺、案外この街向いてるのかも」

 

「調子乗んな。箱一つで腰死んでる奴が」

 

「現実に戻すの早い!」

 

     ◆

 

 午後。

 

 荷物を運び終えた俺は、ガンザに縄の結び方を教わった。

 

「違う」

 

「え?」

 

「それじゃ引っ張ったら締まりすぎる」

 

「じゃあこう?」

 

「ほどける」

 

「難しい!」

 

「穴の中でそれ言ったら死ぬぞ」

 

「何でも死につながるなこの街!」

 

「だから覚えろ」

 

「はい」

 

 結ぶ。

 

 失敗。

 

 ほどく。

 

 結ぶ。

 

 また違う。

 

「お前、指先不器用だな」

 

「スマホのフリック入力なら速いです」

 

「すまほ?」

 

「遠い国の……縄です」

 

「絶対違うだろ」

 

「バレた」

 

「嘘下手だなあ」

 

 笑いながら、また結ぶ。

 

 ただの縄。

 

 ただの結び方。

 

 でも。

 

 これができなければ。

 

 誰かを引き上げられないかもしれない。

 

 荷物を固定できないかもしれない。

 

 自分が落ちるかもしれない。

 

 五年。

 

 できることは。

 

 たぶん、こういうことだ。

 

 一つずつ。

 

「できた」

 

「見せろ」

 

 ガンザが引っ張る。

 

 ほどけない。

 

「まあ合格」

 

「やった!」

 

「喜びが安い」

 

「昨日数字四つで喜んだ男ですよ俺」

 

「順調に成長してんな」

 

「レベルが低い!」

 

     ◆

 

 夕方。

 

 仕事場を出たところで、鐘が鳴った。

 

 一度。

 

 少し間を置いて。

 

 もう一度。

 

 港の空気が変わる。

 

 さっきまで笑っていた男たちの声が止まった。

 

「……何です?」

 

 俺が聞くと、ガンザが帽子を取った。

 

「探窟家が戻った」

 

「じゃあ、いい鐘?」

 

 ガンザは答えなかった。

 

 数人が道を空ける。

 

 やがて。

 

 運ばれてきた。

 

 担架。

 

 一つ。

 

 布がかかっている。

 

 形を見れば。

 

 分かる。

 

「……」

 

 隣に。

 

 若い探窟家が歩いていた。

 

 顔が真っ白だった。

 

 服は泥だらけ。

 

 腕に包帯。

 

 何度も。

 

「ごめん」

 

 と呟いている。

 

 誰に言っているのか。

 

 聞かなくても分かった。

 

 布の端から。

 

 赤い笛が見えた。

 

「赤笛……」

 

「若かった」

 

 ガンザが小さく言う。

 

「知ってる人?」

 

「顔はな」

 

「名前は?」

 

「……セムだったか」

 

 知らない。

 

 当然。

 

 原作で見た覚えはない。

 

 セム。

 

 そんなキャラクターは。

 

 俺の記憶にはいない。

 

 でも。

 

 今。

 

 一人死んだ。

 

 俺が知らないところで。

 

 俺が朝、魚を食べて。

 

 ポロと肉の値段で揉めて。

 

 腰が痛いと騒いでいた間に。

 

 一人。

 

「……何があったんですか」

 

「分からん」

 

「何層?」

 

「一層だろう」

 

「一層……」

 

 俺は。

 

 一層なら。

 

 浅いと思っていた。

 

 原作知識の中で。

 

 一層は始まり。

 

 まだ軽い呪い。

 

 本当に恐ろしいのはもっと下。

 

 そう。

 

 どこかで思っていた。

 

 違う。

 

 一層でも。

 

 死ぬ。

 

 知っていたはずなのに。

 

「ミナト」

 

 ガンザの声。

 

「今日は帰れ」

 

「でも」

 

「顔色悪い」

 

「俺は何も」

 

「何もできねえから帰れ」

 

 強い言葉。

 

 でも。

 

 否定できなかった。

 

「……はい」

 

     ◆

 

 帰り道。

 

 街がうるさい。

 

 いつも通り。

 

 店の呼び声。

 

 走る子供。

 

 夕食の匂い。

 

 誰かの笑い声。

 

 さっき。

 

 人が死んだ。

 

 でも。

 

 世界は止まらない。

 

 当たり前だ。

 

 毎日誰かが死ぬたび、街全体が止まるわけにはいかない。

 

 分かる。

 

 分かるけど。

 

「……セム」

 

 名前を呟く。

 

 一度聞いただけ。

 

 顔も。

 

 布で見えなかった。

 

 俺の救済リストにはいなかった。

 

 ミーティ。

 

 プルシュカ。

 

 ヴエコ。

 

 ファプタ。

 

 原作で名前を知っている人。

 

 好きだった人。

 

 つらい目に遭った人。

 

 そこばかり考えていた。

 

 でも。

 

 この世界には。

 

 俺の知らない人間が。

 

 当たり前にいる。

 

 原作に描かれなかったところで。

 

 生きて。

 

 死ぬ。

 

「……無理だろ」

 

 思わず声が出た。

 

 全員。

 

 なんて。

 

 無理だ。

 

 世界中の人間を救えるわけがない。

 

 そもそも。

 

 俺が来る前に死んだ人は。

 

 どうする。

 

 ガンジャ隊の子供たちは。

 

 イルミューイが産んだものたちは。

 

 ボンドルドの実験で、すでに死んだ子供たちは。

 

 名前すら。

 

 俺は全部覚えていない。

 

 何を。

 

 救済。

 

 だ。

 

「……俺」

 

 足が止まる。

 

「何を助けるつもりだったんだ」

 

 通行人が俺を避ける。

 

 当然だ。

 

 道の真ん中で立ち止まっている。

 

 歩く。

 

 宿まで。

 

 ただ歩いた。

 

     ◆

 

「おかえり」

 

 ミーナ。

 

「……ただいま」

 

「ご飯は?」

 

「いらない」

 

「熱?」

 

「ないです」

 

「じゃあ座って」

 

「大丈夫」

 

「座って」

 

 声が強い。

 

 俺は素直に椅子に座った。

 

 ミーナが俺の額に手を当てる。

 

「熱なし」

 

「だから」

 

「じゃあ何」

 

「……探窟家が死んでました」

 

 ミーナの手が止まる。

 

「ああ」

 

「知ってる?」

 

「鐘が鳴ったから」

 

「セムって」

 

「……若い子ね」

 

「知ってた?」

 

「何度かここで食べたことあるわ」

 

「……」

 

 宿に。

 

 来ていた。

 

 この椅子に座ったかもしれない。

 

 ミーナの料理を食べた。

 

 笑った。

 

 俺が知らなかっただけ。

 

「ミーナ」

 

「うん」

 

「この街って、慣れるんですか」

 

「何に?」

 

「人が死ぬの」

 

 ミーナは少し黙った。

 

「慣れないわよ」

 

「でも普通にしてる」

 

「普通にしないと、次の日が来るから」

 

「……」

 

「慣れるんじゃなくて」

 

 ミーナは皿を一枚拭く。

 

「抱えたまま仕事するの」

 

「きついな」

 

「そうね」

 

「俺、知らなかった」

 

「何を?」

 

「セム」

 

「あなた来たばっかりでしょう」

 

「でも」

 

「知らない人がいるのは当たり前よ」

 

「……」

 

「全部知ろうとしたら頭破裂するわよ」

 

「もう破裂しかけてます」

 

「でしょうね」

 

 ミーナはスープをよそう。

 

「いらないって」

 

「食べなさい」

 

「食欲ない」

 

「三口」

 

「子供扱い」

 

「病人扱いよ」

 

「病人じゃない」

 

「じゃあ五口」

 

「増えた!」

 

 反射的にツッコんで。

 

 少しだけ。

 

 胸が緩んだ。

 

「……ずるいな」

 

「何が?」

 

「何でもない」

 

 スプーンを持つ。

 

 一口。

 

 二口。

 

 温かい。

 

 三口。

 

「五口」

 

「覚えてたの!?」

 

「当然」

 

「厳しい……」

 

 四口。

 

 五口。

 

「よし」

 

「何がよしなんだか」

 

「生きてる人は食べないと」

 

 その言葉で。

 

 手が止まった。

 

 ミーナは気づいたみたいだった。

 

「……ごめん」

 

「いや」

 

「悪い意味じゃ」

 

「分かってます」

 

 俺はもう一口食べた。

 

「そうだよな」

 

「うん」

 

「生きてる人は食べないと」

 

     ◆

 

 部屋へ戻った。

 

 机。

 

 紙。

 

 昨日の文字。

 

『五年で、届くところまで行く』

 

 裏返していた紙を戻す。

 

 ペンを持つ。

 

 別の紙。

 

 名前を書く。

 

 ミーティ。

 

 ナナチ。

 

 プルシュカ。

 

 ヴエコ。

 

 イルミューイ。

 

 ファプタ。

 

 ベラフ。

 

 ワズキャン。

 

 ガブールン。

 

 思い出せる名前。

 

 その下に。

 

 セム。

 

 書く。

 

「……違う」

 

 何が違う。

 

 セムを救えなかったから?

 

 俺はセムが今日死ぬなんて知らなかった。

 

 知りようもなかった。

 

 なら。

 

 俺の責任じゃない。

 

 そう言えば楽だ。

 

 実際。

 

 責任なんてない。

 

 俺は神様じゃない。

 

 この世界の管理者でもない。

 

 ただの十九歳。

 

 でも。

 

「名前を知ってるやつだけ」

 

 呟く。

 

「助ければいいのか」

 

 違う。

 

 それも。

 

 何か違う。

 

 原作に出たから。

 

 好きだから。

 

 悲しかったから。

 

 助けたい。

 

 その気持ちは本物だ。

 

 否定する必要はない。

 

 でも。

 

 原作に名前がなかった人は。

 

 死んでもいいのか。

 

「……無理」

 

 全部助けるのも無理。

 

 知らない人を全部救うなんて。

 

 できるわけがない。

 

 だったら。

 

 どうする。

 

 俺は紙を睨んだ。

 

 答えは出ない。

 

 出るわけがない。

 

 ここで格好いいルールを書けば。

 

 気持ちは楽になるかもしれない。

 

『全員救う』

 

 とか。

 

 でも。

 

 今日。

 

 一人死んだ。

 

 俺の知らないところで。

 

 その言葉が。

 

 急に軽く見えた。

 

「……全員って誰だよ」

 

 紙に。

 

 別の線を引く。

 

 左。

 

『過去』

 

 右。

 

『これから』

 

 イルミューイの名前を。

 

 どこに置けばいい。

 

 過去。

 

 彼女に起きたことは。

 

 遥か昔。

 

 俺には止められない。

 

 でも。

 

 原作開始前の今。

 

 彼女は。

 

 完全に消えているわけじゃない。

 

 村として。

 

 ファプタの母として。

 

 残っている。

 

「じゃあ」

 

 過去の苦しみは。

 

 変えられない。

 

 でも。

 

 その先は。

 

「……まだ終わってない?」

 

 自分で言って。

 

 怖くなる。

 

 これは。

 

 希望的観測だ。

 

 都合のいい考え。

 

 原作では。

 

 もう。

 

 あの形になっている。

 

 人間に戻す方法なんて。

 

 知らない。

 

 ミーティも同じ。

 

 俺は救う方法を知らない。

 

「分からない」

 

 それでも。

 

 紙に一行だけ書いた。

 

『起きたことを消すことと、救うことは同じじゃない』

 

 見つめる。

 

 まだ。

 

 答えじゃない。

 

 仮説。

 

 自分に言い聞かせる言葉。

 

 でも。

 

 過去に間に合わなかったから。

 

 全部終わり。

 

 そう決めるよりは。

 

 少しだけ。

 

 ましだった。

 

     ◆

 

 次の日。

 

「……何してんの?」

 

 ポロが俺を見る。

 

「縄結んでる」

 

「何で港で?」

 

「練習」

 

「変なの」

 

「知ってる」

 

 昨日ガンザに教わった結び方。

 

 忘れないうちに繰り返す。

 

 結ぶ。

 

 ほどく。

 

 結ぶ。

 

「下手」

 

「見てろよ」

 

「僕の方ができる」

 

「嘘つけ」

 

 ポロが縄を取る。

 

 さっと結ぶ。

 

「……」

 

「できた」

 

「九歳に負けた」

 

「肉」

 

「勝手に勝負して料金請求すんな!」

 

 ポロが笑う。

 

 俺も笑った。

 

 昨日。

 

 人が死んだ。

 

 今日。

 

 俺は縄を結んでいる。

 

 世界は。

 

 続く。

 

 それは。

 

 残酷で。

 

 ありがたい。

 

「ポロ」

 

「なに?」

 

「昨日、赤笛の人が死んだの知ってる?」

 

「うん」

 

「知り合い?」

 

「少し。市場で何回か見た」

 

「そっか」

 

 ポロはそれだけ言って。

 

 縄を弄る。

 

「お兄ちゃん」

 

「うん」

 

「探窟家になるの?」

 

「まだ決めてない」

 

「毎日それ言うね」

 

「大事なことなんだよ」

 

「怖い?」

 

「めちゃくちゃ」

 

「じゃあやめればいいのに」

 

「……そうなんだよな」

 

「変なの」

 

「自分でもそう思う」

 

 遠く。

 

 アビスが見える。

 

 穴は。

 

 今日も何も言わない。

 

 昨日一人死んだことなんて。

 

 知らないみたいに。

 

 そこにある。

 

「でもさ」

 

 俺は縄をもう一度結ぶ。

 

「やめたら、たぶん後悔する気がする」

 

「何を?」

 

「分からない」

 

「分からないこと多いね」

 

「それだけは分かってきた」

 

 ポロが首を傾げる。

 

 俺は笑った。

 

「よし」

 

 結び目を引く。

 

 今度はほどけない。

 

「できた」

 

「遅い」

 

「うるさい!」

 

     ◆

 

 昼。

 

 俺は一人で、街の端にある小さな慰霊碑の前へ行った。

 

 昨日のセムの名前が、もう刻まれているわけではない。

 

 ただ。

 

 そこには。

 

 たくさんの名前。

 

 読めるもの。

 

 読めないもの。

 

 まだ文字を覚えたばかりの俺には。

 

 ほとんどが記号。

 

 でも。

 

 全部。

 

 人の名前だ。

 

「……読めるようになろう」

 

 誰に言うでもなく。

 

「少なくとも」

 

 知らないままにしない。

 

 全部助けられない。

 

 過去には間に合わない。

 

 今日死ぬ誰かを、全部予知することもできない。

 

 それでも。

 

 知れることは知る。

 

 届くところには行く。

 

 目の前にいるなら。

 

 見捨てる理由を、先に探さない。

 

 そのくらいなら。

 

 今の俺にも。

 

 決められる。

 

「全員救う、か」

 

 まだ。

 

 言えない。

 

 軽すぎる。

 

 でも。

 

「間に合わなかった」で。

 

 全部を終わらせるのも。

 

 嫌だった。

 

     ◆

 

 夜。

 

 部屋へ戻る。

 

 紙を開く。

 

 名前の一覧。

 

 最後に。

 

 新しい一行を足す。

 

『名前を知らない人』

 

 書いてから。

 

「何だこれ」

 

 少し笑った。

 

 馬鹿みたいに広い。

 

 具体性ゼロ。

 

 計画としては最低。

 

 でも。

 

 消さなかった。

 

 その下に。

 

『間に合わなかった過去は変えられない』

 

 さらに。

 

『だから、今から間に合うものを増やす』

 

 書く。

 

 ペンを置く。

 

 昨日より。

 

 少しだけ。

 

 現実的になった気がした。

 

 強くなったわけじゃない。

 

 何も救っていない。

 

 今日も。

 

 ただ。

 

 縄の結び方を一つ覚えただけ。

 

 でも。

 

 もし五年後。

 

 その結び目一つで。

 

 誰かの手を離さずに済むなら。

 

 今日一日にも。

 

 意味はある。

 

「……明日も仕事か」

 

 急に現実に戻る。

 

「腰、痛いんだよなあ」

 

 ベッドへ倒れる。

 

 天井を見る。

 

「世界救う前に腰救いたい」

 

 誰も答えない。

 

 当然だ。

 

 少しして。

 

 俺は笑った。

 

 昨日より。

 

 ちゃんと眠れそうだった。

 

     ◆

 

 翌朝。

 

「これは?」

 

 ミーナが文字を指す。

 

「家」

 

「正解」

 

「よっしゃあ!」

 

「これは?」

 

「鳥」

 

「正解」

 

「勝った!」

 

「何に?」

 

「過去の俺に!」

 

「朝から面倒くさいわね」

 

「今日は祝杯です」

 

「水でいい?」

 

「せめてスープ!」

 

 ミーナが笑う。

 

 俺も笑った。

 

 テーブルの端。

 

 昨日書いた紙がある。

 

 間に合わなかった者。

 

 まだ間に合うか分からない者。

 

 これから出会う者。

 

 何人いるのか。

 

 俺には分からない。

 

 だから。

 

 まず。

 

 今日の文字を一つ読む。

 

 今日の飯を食う。

 

 今日の仕事から生きて帰る。

 

 できることを増やす。

 

 それしかない。

 

 アビスは待ってくれない。

 

 でも。

 

 焦って死ねば。

 

 本当に何一つ間に合わない。

 

 俺はスープを飲んだ。

 

「ミーナ」

 

「なに?」

 

「今日、帰ったら縄の練習していい?」

 

「部屋の中で首吊らないでね」

 

「怖いこと言うな!」

 

「冗談よ」

 

「この街の冗談、たまに洒落にならないんだよ!」

 

 朝から笑い声が響く。

 

 今日も。

 

 オースは普通に始まる。

 

 その普通の中で。

 

 俺も。

 

 少しずつ。

 

 この世界の人間になっていく。

 

 過去には。

 

 間に合わなかった。

 

 それでも。

 

 未来まで。

 

 遅れたことにはしたくなかった。

 

 




第四話、ここまで読んでくださってありがとうございます。

今回書き終わったあと、しばらくタイトルを考えていました。
「間に合わなかった者」って、結構嫌な言葉だなと思います。

努力が足りなかった、とも限らない。
知らなかっただけかもしれない。
そもそも生まれていなかったのかもしれない。
どう頑張っても届かない過去だってある。

湊には、そこを一回ちゃんと飲み込んでもらいたかったです。

それと、今回出したセムは原作の中心人物ではありません。
だからこそ入れました。
湊の頭の中ではどうしても、最初は「自分が原作で知っている人」が大きく見えます。
自分も物語を読む側なら、当然そうなると思います。

でもこの世界で暮らし始めたら、ページに映っていなかった人の方が圧倒的に多い。
そのことを、湊にも少しずつ知ってほしいです。

とはいえ、全部背負わせたら十九歳が潰れるので。
そこはミーナにスープを食べさせてもらい、ポロには肉をたかられ、ガンザには縄でしごいてもらいます。
周りの人たち、思った以上に頼もしいです。

間に合わなかったことがあっても、そのあとまで全部遅かったことにしなくていい。

この作品では、たぶん何度もそこに戻ってくる気がします。

次回は、湊がもう少し具体的に「この世界で生きる側」へ踏み込みます。
たぶんまた怒られます。

第四話、ありがとうございました。
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