奈落の悲劇を踏み越えて   作:まねきまねき

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第五話です。


眼鏡の少女

 朝。

 

「今日は孤児院に近づきません」

 

「急に何の宣言?」

 

 スープをよそっていたミーナが、真顔で俺を見る。

 

「昨日までの反省です」

 

「何かしたの?」

 

「前にちょっと不審者になりました」

 

「それは聞いた」

 

「広まってる!」

 

「リーダーが怒ってたとかじゃないわよ。あなたが自分で喋ったの」

 

「……そうだった」

 

「朝から大丈夫?」

 

「大丈夫じゃない可能性が高いです」

 

「じゃあパン二枚食べなさい」

 

「何で増えるんです?」

 

「体調悪い時は食べる」

 

「雑な健康法だなあ」

 

 言いながら二枚食べた。

 

 うまい。

 

 この宿に来てから、ミーナの「食べろ」はだいたい正しい。

 

 昨日。

 

 俺はようやく一つ決めた。

 

 過去に間に合わなかったからといって、その先まで終わったことにはしない。

 

 名前を知っている人間だけを世界だと思わない。

 

 それはいい。

 

 たぶん。

 

 少なくとも、今までよりはましだ。

 

 問題は。

 

「……で、何で孤児院に近づかないの?」

 

「そこなんですよ」

 

「どこ?」

 

「俺、ベルチェロ孤児院と相性悪い気がする」

 

「一回行っただけでしょう」

 

「一回で教官に見つかりました」

 

「覗いてたからじゃない」

 

「言い方!」

 

「事実でしょう?」

 

「否定できないのがつらい」

 

 パンを噛む。

 

 ベルチェロ孤児院。

 

 リコがいる。

 

 ジルオがいる。

 

 そして俺は、その二人を知っている。

 

 一方的に。

 

 それが怖い。

 

 前に遠くからリコを見た時も。

 

 ジルオと直接話した時も。

 

 俺の頭の中では、どうしても先に「原作」が立ち上がる。

 

 この人はこういう人。

 

 この人はこの先こうなる。

 

 この台詞を言う。

 

 この場面で傷つく。

 

 そんな情報が。

 

 目の前の本人より先に来る。

 

「だから今日は港から市場。仕事終わったら縄。字。以上」

 

「すごく健全ね」

 

「でしょう?」

 

「自分から事故を呼ぶ人って、だいたいそういうこと言うのよ」

 

「やめてくださいよ!」

 

「冗談」

 

「ミーナの冗談、最近嫌な予感しかしないんですけど」

 

 ミーナが笑った。

 

「ほら。遅刻するわよ」

 

「行ってきます」

 

「いってらっしゃい。不審者にならないようにね」

 

「朝の挨拶にそれ付けるのやめて!」

 

     ◆

 

「ミナト!」

 

「はい!」

 

「そっち二箱!」

 

「了解!」

 

 午前。

 

 港。

 

 今日の俺は絶好調だった。

 

 箱を落とさない。

 

 数字を間違えない。

 

 倉庫の札も読める。

 

「第三倉庫!」

 

「おう!」

 

「俺、成長してる!」

 

「仕事中に自分で褒めるな!」

 

「誰も褒めてくれないから!」

 

「昨日よりマシだ!」

 

「褒められた!」

 

「うるせえ!」

 

 ガンザに怒鳴られながら箱を運ぶ。

 

 こういうのでいい。

 

 今日は。

 

 これでいい。

 

 アビスの未来も。

 

 原作の分岐も。

 

 人の生死も。

 

 今は考えない。

 

 目の前の魚箱を落とさない。

 

 大事。

 

 ものすごく大事。

 

「昼から市場にこれ持ってけ」

 

 ガンザが紙を渡してきた。

 

「読めます?」

 

「俺に聞くな」

 

「違う。俺が読めると思います?」

 

「知らん」

 

「冷たい!」

 

「読めなきゃ向こうで聞け」

 

「人類の知恵!」

 

「当たり前だ!」

 

 紙を見る。

 

 読める単語。

 

 魚。

 

 数量。

 

 市場の区画。

 

「……いける」

 

「何が」

 

「今日は一人で行けます」

 

「昨日も一人だったろ」

 

「精神的な意味で」

 

「面倒くせえ奴だな」

 

「最近よく言われます」

 

     ◆

 

 市場は今日も騒がしい。

 

 魚。

 

 果物。

 

 肉。

 

 古道具。

 

 探窟家向けの縄やピッケル。

 

 用途が分からない金属片。

 

 どう見ても骨。

 

 どう見ても骨なのに値札が付いている。

 

「……何の骨だよ」

 

「買うかい?」

 

「買いません!」

 

 店主の声から逃げる。

 

 仕事の荷物を渡す。

 

 受領の印をもらう。

 

 ここまでは完璧。

 

「よし」

 

 俺は一人、小さく拳を握った。

 

 異世界生活。

 

 五日目。

 

 一人でお使い成功。

 

 十九歳としては褒められたものではない。

 

 でも今の俺には大事件だ。

 

「帰りに紙買ってくか」

 

 探窟ノートを増やしたい。

 

 日本語で書くもの。

 

 オースの文字練習用。

 

 遺物や生物を記録するもの。

 

 分けたい。

 

 スマホは使いたくない。

 

 電池が減る。

 

 それに。

 

 紙の方が、この世界では自然だ。

 

「えーっと、紙屋……」

 

 前にポロから聞いた道。

 

 市場を横切る。

 

 人を避ける。

 

 荷車を避ける。

 

 曲がる。

 

 そこで。

 

「――あっ!」

 

 何かが足元に飛んできた。

 

「うわっ」

 

 反射的に足を止める。

 

 小さな金属筒。

 

 ころころ転がり。

 

 俺の靴に当たって止まった。

 

「すみませーん!」

 

 声。

 

 嫌な予感がした。

 

 いや。

 

 嫌じゃない。

 

 嫌じゃないんだけど。

 

 今は。

 

 ものすごく会いたくない声だった。

 

 顔を上げる。

 

 眼鏡。

 

 金色の髪。

 

 小柄な少女。

 

 こちらへ走ってくる。

 

「それ、取ってくださーい!」

 

「……」

 

 リコ。

 

「聞こえてます?」

 

「……」

 

「お兄さん?」

 

「聞こえてます」

 

「良かった!」

 

 良くない。

 

 俺には良くない。

 

 何で。

 

 今日に限って。

 

 孤児院に近づかないって宣言したのに。

 

 向こうから来るな。

 

 俺は金属筒を拾う。

 

「はい」

 

「ありがとうございます!」

 

「どういたしまして。じゃあ」

 

「待って!」

 

「何で!?」

 

 声が裏返った。

 

 リコが目を丸くする。

 

「え?」

 

「……ごめん。何?」

 

「それ」

 

 指。

 

 俺の手。

 

 違う。

 

 持っている紙束。

 

「その文字、何ですか?」

 

「……」

 

 終わった。

 

 買う前だった。

 

 俺の使いかけのノート。

 

 端から日本語が見えている。

 

 昨日書いた。

 

『間に合わなかった過去は変えられない』

 

 当然。

 

 リコには読めない。

 

 でも。

 

 読めないからこそ。

 

 興味を持った。

 

 よりによって。

 

 この子が。

 

「見たことない!」

 

「そ、そうだね」

 

「どこの文字ですか?」

 

「遠いところ」

 

「どこ?」

 

「ものすごく遠いところ」

 

「海の向こう?」

 

「もっと遠い」

 

「どれくらい?」

 

「……説明が難しい」

 

「じゃあ、その紙は何ですか?」

 

「ノート」

 

「それは分かります!」

 

「そうだよね!」

 

 質問が速い。

 

 想像以上に速い。

 

「その文字、全部読めるんですか?」

 

「俺が書いたからね」

 

「何て書いてあるの?」

 

「個人的なこと」

 

「何の?」

 

「すごく個人的なこと」

 

「気になる!」

 

「気にしないで!」

 

「何で?」

 

「何ででも!」

 

 俺はノートを胸に抱えた。

 

 リコが身を乗り出す。

 

 距離が近い。

 

 近い近い近い。

 

「それ、遺物の文字じゃないんですか?」

 

「違う」

 

「本当に?」

 

「本当」

 

「じゃあ外国?」

 

「まあ、そんな感じ」

 

「どこから来たんですか?」

 

「……」

 

「何で黙るの?」

 

「君、質問多いね」

 

「よく言われます!」

 

「だろうね!」

 

 胸を張るところじゃない。

 

 でも。

 

 あまりにも。

 

 リコだった。

 

 当たり前だ。

 

 本人なんだから。

 

 でも。

 

 変な感覚だった。

 

 漫画の中で見た。

 

 アニメで聞いた。

 

 好奇心旺盛。

 

 危険でも進む。

 

 知りたいことがあれば止まらない。

 

 そんな説明が。

 

 今。

 

 目の前で。

 

 ただの七歳くらいの女の子の「質問が多すぎる」という形になっている。

 

「お兄さん、探窟家?」

 

「違う」

 

「商人?」

 

「違う」

 

「旅人?」

 

「たぶん」

 

「たぶん?」

 

「説明すると長い」

 

「聞きたい!」

 

「俺は聞かせたくない!」

 

「何で!?」

 

「君、知らない人についていっちゃ駄目って教わらない?」

 

「ついていってないですよ?」

 

「俺が追いかけられてる!」

 

「あ」

 

「あ、じゃない!」

 

 リコが笑った。

 

 俺も。

 

 つられて少し笑ってしまった。

 

 その瞬間。

 

 胸の奥が。

 

 変なふうに痛んだ。

 

 この子。

 

 今。

 

 笑ってる。

 

 未来の出来事なんて。

 

 何一つ知らない顔で。

 

「……名前」

 

「え?」

 

 危ない。

 

 口から出そうになった。

 

 リコ。

 

 知っている名前。

 

 初対面なのに。

 

「君、名前は?」

 

 聞き直す。

 

「リコです!」

 

 知ってる。

 

 言えない。

 

「……リコ」

 

「はい!」

 

「俺は湊」

 

「ミナト?」

 

「そう」

 

「変わった名前!」

 

「君に言われるとは思わなかった」

 

「何で?」

 

「何でもない」

 

 まただ。

 

 何でもない。

 

 遠い国。

 

 説明が難しい。

 

 誤魔化す言葉ばかり増える。

 

「リコ!」

 

 遠くから誰かが呼ぶ。

 

「あっ」

 

 リコが振り返った。

 

「やば」

 

「何が?」

 

「お使い中だった!」

 

「忘れてたの!?」

 

「ちょっとだけ!」

 

「俺のせいみたいに言うなよ!」

 

「じゃあまた!」

 

「いや、または――」

 

「ミナトさん!」

 

「話聞いて!?」

 

 走り出す。

 

 そして。

 

「わっ」

 

 リコが急に横を向いた。

 

 市場の店先。

 

 古道具の中に。

 

 光るもの。

 

「何あれ!」

 

「おい!」

 

 進行方向。

 

 荷車。

 

 大きな木箱を積んでいる。

 

 御者は別方向を見ている。

 

 リコは。

 

 見ていない。

 

 考えるより先に。

 

「リコ!」

 

 腕を掴んだ。

 

「え?」

 

 引く。

 

 小さな身体がこちらへ倒れる。

 

 そのすぐ前を。

 

 荷車が通り過ぎた。

 

「――危なっ!」

 

 御者が叫ぶ。

 

「前見ろ、嬢ちゃん!」

 

「ご、ごめんなさーい!」

 

 リコが頭を下げる。

 

 俺は。

 

 心臓が。

 

 うるさい。

 

「……お前」

 

「はい?」

 

「前見ろよ!」

 

「見てました!」

 

「見てない!」

 

「あれ見てました!」

 

「そっちじゃなくて進行方向!」

 

「あの道具、何だと思います?」

 

「今!?」

 

「だって変な光り方してた!」

 

「死ぬぞ!」

 

「大丈夫です!」

 

「今俺が引っ張ったからだよ!」

 

 リコがぱちぱち瞬きをする。

 

 そして。

 

「あ」

 

「やっと分かった?」

 

「助けてくれたんですね!」

 

「そうだよ!」

 

「ありがとうございます!」

 

 満面の笑顔。

 

「……どういたしまして」

 

 怒る気力が。

 

 少し消えた。

 

 でも。

 

 手を見る。

 

 俺は。

 

 リコの腕を掴んだ。

 

 助けた。

 

 怪我をする未来があったかもしれない。

 

 なかったかもしれない。

 

 原作に。

 

 こんな場面は。

 

 ない。

 

 当然。

 

 五年前の市場の一日なんて描かれていない。

 

 でも。

 

 俺がいなければ。

 

 リコはぶつかった?

 

 軽い怪我?

 

 大怪我?

 

 御者が止まった?

 

 誰か別の人が助けた?

 

 分からない。

 

 分からない。

 

 未来が。

 

 一個。

 

 見えなくなった。

 

「……ミナトさん?」

 

「え」

 

「手」

 

「あっ、ごめん!」

 

 慌てて離す。

 

「痛かった?」

 

「ちょっと」

 

「ごめん!」

 

「でも荷車よりは痛くないです!」

 

「比較対象がおかしい!」

 

 また笑う。

 

 何なんだこの子。

 

 知ってたけど、

 

 本当にこうなんだ。

 

     ◆

 

「リコ!」

 

 今度は近い声。

 

 俺の身体が固まった。

 

 振り向く。

 

 ジルオ。

 

「……」

 

「……」

 

 目が合う。

 

 前回。

 

 孤児院を遠くから見ていた怪しい男。

 

 今回。

 

 その男が。

 

 リコと一緒にいる。

 

 しかもさっきまで腕を掴んでいた。

 

 終わった。

 

「違います」

 

「まだ何も聞いていませんが」

 

「反射的に!」

 

「何が違うんです?」

 

「その質問が一番怖い!」

 

「リーダー!」

 

 リコが元気に手を振る。

 

「ミナトさんに助けてもらったんです!」

 

 ジルオが俺を見る。

 

「助けた?」

 

「荷車に轢かれかけて」

 

「轢かれてないです!」

 

「俺が引っ張ったからな!」

 

「そうでした!」

 

 ジルオが額に手を当てる。

 

「リコ」

 

「はい」

 

「前を見て歩きなさい」

 

「見てました」

 

「店の方をでしょう」

 

「……はい」

 

「それは前を見ているとは言いません」

 

「はい……」

 

 しゅん。

 

 するかと思った。

 

 三秒後。

 

「でもリーダー、あそこの道具――」

 

「後です」

 

「はい」

 

 強い。

 

 ジルオ。

 

 慣れてる。

 

「ミナトさん」

 

「はい!」

 

「先日は失礼しました」

 

「え?」

 

「今日はリコを助けてくださったそうで」

 

「いや、まあ……目の前だったんで」

 

「ありがとうございます」

 

「いえ」

 

 ちゃんと。

 

 礼を言われる。

 

 困る。

 

 俺は。

 

 何も特別なことはしていない。

 

「ミナトさん、リーダーと知り合いなんですか?」

 

「ちょっとだけ」

 

「この前会ったんですよ」

 

「どこで?」

 

「それは」

 

「孤児院の近くです」

 

「ジルオさん!」

 

「孤児院に来たんですか?」

 

「いや、その」

 

「誰に会いに?」

 

「リコ」

 

 ジルオが低く呼ぶ。

 

「はい」

 

「質問は一つずつ」

 

「はい!」

 

 元気。

 

 全然反省してない気がする。

 

「ミナトさんは遠い国から来たんですよ!」

 

「もう話したの?」

 

「文字も違うんです!」

 

「それも!?」

 

「ノート見せてください!」

 

「見せない!」

 

 ジルオが俺のノートを見る。

 

「文字?」

 

「……俺の故郷の」

 

「読めるんですか?」

 

「俺は」

 

「こちらの文字は?」

 

「勉強中です」

 

「家と鳥は読めます!」

 

「何で君が知ってるみたいに言うの!?」

 

「今覚えました!」

 

「俺の情報を!?」

 

 ジルオの口元が。

 

 ほんの少し。

 

 緩んだ気がした。

 

 気のせいかもしれない。

 

「リコ」

 

「はい」

 

「お使いは?」

 

「あ」

 

「忘れていましたね」

 

「忘れてないです。後回しにしてました」

 

「それを忘れていたと言います」

 

「はい……」

 

「戻りますよ」

 

「はーい」

 

 リコが歩き出す。

 

 すぐ振り返る。

 

「ミナトさん!」

 

「何?」

 

「またその文字見せてください!」

 

「だから――」

 

「今度、どこの国かも教えてください!」

 

「難しいんだって!」

 

「じゃあ考えといてください!」

 

「宿題にするな!」

 

 リコが笑う。

 

 ジルオに促されて離れていく。

 

 俺は。

 

 その背中を見ていた。

 

 小さい。

 

 まだ。

 

 本当に。

 

 小さい。

 

 あの子が。

 

 五年後。

 

 レグと。

 

 奈落へ。

 

「……」

 

 胸がざわつく。

 

「ミナトさん」

 

「はい?」

 

 ジルオが少し離れたところで振り返っていた。

 

「何です?」

 

「あなた」

 

 一拍。

 

「リコを以前から知っていましたか?」

 

 息が止まった。

 

「……何で」

 

「初対面にしては」

 

 ジルオの目。

 

「名前を呼ぶのが早かったので」

 

「リコ!」

 

 叫んだ。

 

 名乗る前に?

 

 いや。

 

 名乗った後だった?

 

 順番。

 

 頭が真っ白になる。

 

「さっき名乗ってました」

 

 俺は言う。

 

「……そうでしたか」

 

「はい」

 

 たぶん。

 

 たぶんそうだ。

 

 俺自身。

 

 自信がない。

 

 ジルオは数秒こちらを見る。

 

「なら、私の勘違いですね」

 

「……はい」

 

「失礼しました」

 

「いえ」

 

 去っていく。

 

 俺は。

 

 市場の真ん中で。

 

「……こっわ」

 

 小さく呟いた。

 

 やっぱり。

 

 この人。

 

 怖い。

 

 何もしてないのに。

 

 いや。

 

 俺が怪しいのか。

 

 それはそう。

 

     ◆

 

「で?」

 

 午後。

 

 仕事終わり。

 

 ガンザが面白そうな顔をしている。

 

「何ですか」

 

「孤児院の嬢ちゃん助けたんだって?」

 

「早っ!」

 

「市場で荷車止まったからな」

 

「街狭すぎません!?」

 

「お前の行動が目立つんだよ」

 

「静かに生きたい!」

 

「無理じゃねえか?」

 

「即答!?」

 

 ガンザが笑う。

 

「怪我は?」

 

「ないです」

 

「なら良かったな」

 

「……はい」

 

「何だ」

 

「いや」

 

 縄を巻きながら。

 

 考える。

 

「目の前で子供が怪我しそうだったら」

 

「ん?」

 

「助けますよね」

 

「普通はな」

 

「ですよね」

 

「何だ急に」

 

「確認」

 

「お前たまに当たり前のこと確認するな」

 

「俺には大事なんです」

 

 ガンザには意味が分からないだろう。

 

 でも。

 

 俺には必要だった。

 

 もし。

 

 今日。

 

 俺が。

 

『原作に影響するかもしれない』

 

 という理由で。

 

 手を出さなかったら。

 

 どうなっていた。

 

 軽い擦り傷で済んだかもしれない。

 

 何も起きなかったかもしれない。

 

 でも。

 

 大怪我をしたかもしれない。

 

 それを。

 

 俺は。

 

 見ていられた?

 

「……無理だな」

 

「何が」

 

「独り言」

 

「またか」

 

 ガンザが縄を投げてくる。

 

「ほら」

 

「うわっ」

 

「昨日の結び方」

 

「はい」

 

 結ぶ。

 

 一回。

 

 違う。

 

「逆」

 

「分かってます!」

 

「分かってねえから逆なんだろ」

 

「ポロにも同じこと言われた!」

 

「九歳と同レベルか」

 

「やめろ!」

 

 笑われる。

 

 でも。

 

 今日は。

 

 その方が助かった。

 

     ◆

 

「眼鏡の子に会ったの?」

 

「何でミーナまで知ってるの!?」

 

 宿に戻った第一声。

 

 終わってる。

 

 俺のプライバシー。

 

 たぶんこの街には存在しない。

 

「市場で見てた人が夕飯食べに来た」

 

「情報伝達速度どうなってんの」

 

「で?」

 

「で、とは」

 

「話した?」

 

「話しました」

 

「可愛かった?」

 

「その聞き方やめて!」

 

「子供としてよ」

 

「分かってます!」

 

 顔が熱い。

 

「……元気でした」

 

「そうでしょうね」

 

「質問が多い」

 

「そうでしょうね」

 

「前を見ない」

 

「それは駄目ね」

 

「知らない文字見つけただけで、こっちが引くくらい寄ってくる」

 

「気に入られたんじゃない?」

 

「やめてください」

 

「嫌なの?」

 

 答えに詰まる。

 

「……嫌じゃない」

 

「じゃあいいじゃない」

 

「良くないんですよ」

 

「何が?」

 

「俺が」

 

 ミーナが皿を置く。

 

 俺は。

 

 少し迷って。

 

「俺、あの子のこと知ってる気がするんです」

 

「前にも言ってたわね」

 

「でも今日話したら」

 

「うん」

 

「知らなかった」

 

「どっち?」

 

「両方」

 

 ミーナが首を傾げる。

 

「変な答え」

 

「俺もそう思う」

 

 知ってる。

 

 リコがどういう人物か。

 

 何を目指すか。

 

 誰と出会うか。

 

 何を食べるか。

 

 どんな危険に遭うか。

 

 でも。

 

 知らなかった。

 

 質問する時。

 

 あんなに顔を近づけること。

 

 興味の対象が変わると、一秒で視線が飛ぶこと。

 

 怒られても三秒で別のことを考え始めること。

 

 荷車より光る道具を見ていたこと。

 

 助けられたら。

 

 あんなに真っ直ぐ「ありがとう」と言うこと。

 

 原作で知っていた。

 

 でも。

 

 今日初めて知った。

 

「……人って変ですね」

 

「急に大きい話になったわね」

 

「知ってるつもりでも、会ったら全然違う」

 

「そりゃそうでしょう」

 

「普通に言うなあ」

 

「会ったことない人を全部知ってる方がおかしいわよ」

 

「ですよね」

 

「あなた、最近やっと常識を覚えてきたわね」

 

「文字より遅いかもしれない」

 

「重症ね」

 

     ◆

 

 夜。

 

 机。

 

 ノート。

 

 今日は何を書く。

 

 ペンを持つ。

 

『リコ』

 

 書く。

 

 その横。

 

『七歳前後』

 

 さらに。

 

『直接接触』

 

「……研究記録みたいで嫌だな」

 

 線を引く。

 

 消す。

 

 別の書き方。

 

『今日、リコと話した』

 

 それだけ。

 

 少し。

 

 まし。

 

『質問が多い』

 

『前を見ない』

 

『知らない文字が好き』

 

「……これ、日記だ」

 

 笑う。

 

 でも。

 

 その方がいい気がした。

 

 原作の情報。

 

 未来の出来事。

 

 攻略上の重要事項。

 

 そういうものだけ書いていたら。

 

 また。

 

 人間をイベントに戻してしまう。

 

「リコ」

 

 今日。

 

 市場で会った。

 

 眼鏡の少女。

 

 質問が多い。

 

 危なっかしい。

 

 よく笑う。

 

 それでいい。

 

 今日は。

 

 それだけで。

 

 次のページ。

 

 俺は。

 

 前に書いた言葉を見る。

 

『原作を壊さない』

 

 ずっと前。

 

 この世界に来たばかりで。

 

 俺が決めようとしていたこと。

 

 今見ると。

 

 変だ。

 

「……今日」

 

 もし。

 

 原作を守るために。

 

 リコが荷車にぶつかるのを見ていたら。

 

 それは。

 

 何を守ったことになる。

 

 物語?

 

 未来?

 

 俺の知識?

 

「馬鹿だろ」

 

 線を引く。

 

 完全には消さない。

 

 読めるように。

 

 その下。

 

『目の前を見捨ててまで守る原作に意味はない』

 

 書く。

 

 少し長い。

 

「格好つけすぎ」

 

 また書き直す。

 

『目の前は助ける』

 

「……これでいい」

 

 短い。

 

 具体的。

 

 今の俺でも。

 

 守れるかもしれない。

 

 全部は無理。

 

 未来も分からない。

 

 でも。

 

 目の前で。

 

 手が届くなら。

 

 手を伸ばす。

 

 それくらい。

 

 原作知識がなくても。

 

 普通の人間なら。

 

 やる。

 

「普通の人間か」

 

 この世界に来て。

 

 ずっと。

 

 特別な役割があるみたいに考えていた。

 

 転移者。

 

 原作知識持ち。

 

 未来を知っている人間。

 

 でも。

 

 今日リコを引っ張った理由は。

 

 そんなものじゃない。

 

 子供が荷車に轢かれそうだったから。

 

 それだけ。

 

 それで。

 

 良かった。

 

     ◆

 

 翌日。

 

「ミナト!」

 

「はい!」

 

 港。

 

 ガンザの声。

 

「市場!」

 

「また!?」

 

「嫌か?」

 

「嫌じゃないけど!」

 

 嫌な予感。

 

 昨日ミーナに言われた。

 

 自分から事故を呼ぶ奴は、健全な予定を口にする。

 

「今日は別ルートで行きます」

 

「好きにしろ」

 

「絶対会わない」

 

「誰に?」

 

「何でもないです!」

 

 荷物を持つ。

 

 市場へ。

 

 昨日とは別の道。

 

 遠回り。

 

 完璧。

 

「よし」

 

 角を曲がる。

 

「ミナトさーん!」

 

「何でいるの!?」

 

 眼鏡の少女が。

 

 向こうから。

 

 全力で手を振っていた。

 

「昨日の文字!」

 

「忘れて!」

 

「無理です!」

 

「即答!?」

 

 走ってくる。

 

 俺は。

 

 一瞬。

 

 逃げようとして。

 

 やめた。

 

「走るな! 前見ろ!」

 

「見てます!」

 

「本当に!?」

 

「今日は見てます!」

 

「昨日もそう言ってた!」

 

 リコが笑う。

 

 俺も仕方なく笑った。

 

 原作の主人公。

 

 白笛ライザの娘。

 

 未来に奈落へ挑む少女。

 

 そういう言葉が。

 

 昨日より少しだけ遠かった。

 

 目の前にいるのは。

 

 変な文字が気になって仕方ない。

 

 危なっかしい眼鏡の少女。

 

 今は、

 

 それでいいと思った。




今回いちばん書きたかったのは荷車のところでした。

未来を変えるとか、原作を守るとか、そういう大きな言葉を考える前に、目の前で子供が危なかったら普通は手を伸ばす。

湊には、まずそこへ戻ってきてもらいました。

多分リコはまた来ます。

第五話、読んでくださってありがとうございました。
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