朝。
「今日は孤児院に近づきません」
「急に何の宣言?」
スープをよそっていたミーナが、真顔で俺を見る。
「昨日までの反省です」
「何かしたの?」
「前にちょっと不審者になりました」
「それは聞いた」
「広まってる!」
「リーダーが怒ってたとかじゃないわよ。あなたが自分で喋ったの」
「……そうだった」
「朝から大丈夫?」
「大丈夫じゃない可能性が高いです」
「じゃあパン二枚食べなさい」
「何で増えるんです?」
「体調悪い時は食べる」
「雑な健康法だなあ」
言いながら二枚食べた。
うまい。
この宿に来てから、ミーナの「食べろ」はだいたい正しい。
昨日。
俺はようやく一つ決めた。
過去に間に合わなかったからといって、その先まで終わったことにはしない。
名前を知っている人間だけを世界だと思わない。
それはいい。
たぶん。
少なくとも、今までよりはましだ。
問題は。
「……で、何で孤児院に近づかないの?」
「そこなんですよ」
「どこ?」
「俺、ベルチェロ孤児院と相性悪い気がする」
「一回行っただけでしょう」
「一回で教官に見つかりました」
「覗いてたからじゃない」
「言い方!」
「事実でしょう?」
「否定できないのがつらい」
パンを噛む。
ベルチェロ孤児院。
リコがいる。
ジルオがいる。
そして俺は、その二人を知っている。
一方的に。
それが怖い。
前に遠くからリコを見た時も。
ジルオと直接話した時も。
俺の頭の中では、どうしても先に「原作」が立ち上がる。
この人はこういう人。
この人はこの先こうなる。
この台詞を言う。
この場面で傷つく。
そんな情報が。
目の前の本人より先に来る。
「だから今日は港から市場。仕事終わったら縄。字。以上」
「すごく健全ね」
「でしょう?」
「自分から事故を呼ぶ人って、だいたいそういうこと言うのよ」
「やめてくださいよ!」
「冗談」
「ミーナの冗談、最近嫌な予感しかしないんですけど」
ミーナが笑った。
「ほら。遅刻するわよ」
「行ってきます」
「いってらっしゃい。不審者にならないようにね」
「朝の挨拶にそれ付けるのやめて!」
◆
「ミナト!」
「はい!」
「そっち二箱!」
「了解!」
午前。
港。
今日の俺は絶好調だった。
箱を落とさない。
数字を間違えない。
倉庫の札も読める。
「第三倉庫!」
「おう!」
「俺、成長してる!」
「仕事中に自分で褒めるな!」
「誰も褒めてくれないから!」
「昨日よりマシだ!」
「褒められた!」
「うるせえ!」
ガンザに怒鳴られながら箱を運ぶ。
こういうのでいい。
今日は。
これでいい。
アビスの未来も。
原作の分岐も。
人の生死も。
今は考えない。
目の前の魚箱を落とさない。
大事。
ものすごく大事。
「昼から市場にこれ持ってけ」
ガンザが紙を渡してきた。
「読めます?」
「俺に聞くな」
「違う。俺が読めると思います?」
「知らん」
「冷たい!」
「読めなきゃ向こうで聞け」
「人類の知恵!」
「当たり前だ!」
紙を見る。
読める単語。
魚。
数量。
市場の区画。
「……いける」
「何が」
「今日は一人で行けます」
「昨日も一人だったろ」
「精神的な意味で」
「面倒くせえ奴だな」
「最近よく言われます」
◆
市場は今日も騒がしい。
魚。
果物。
肉。
古道具。
探窟家向けの縄やピッケル。
用途が分からない金属片。
どう見ても骨。
どう見ても骨なのに値札が付いている。
「……何の骨だよ」
「買うかい?」
「買いません!」
店主の声から逃げる。
仕事の荷物を渡す。
受領の印をもらう。
ここまでは完璧。
「よし」
俺は一人、小さく拳を握った。
異世界生活。
五日目。
一人でお使い成功。
十九歳としては褒められたものではない。
でも今の俺には大事件だ。
「帰りに紙買ってくか」
探窟ノートを増やしたい。
日本語で書くもの。
オースの文字練習用。
遺物や生物を記録するもの。
分けたい。
スマホは使いたくない。
電池が減る。
それに。
紙の方が、この世界では自然だ。
「えーっと、紙屋……」
前にポロから聞いた道。
市場を横切る。
人を避ける。
荷車を避ける。
曲がる。
そこで。
「――あっ!」
何かが足元に飛んできた。
「うわっ」
反射的に足を止める。
小さな金属筒。
ころころ転がり。
俺の靴に当たって止まった。
「すみませーん!」
声。
嫌な予感がした。
いや。
嫌じゃない。
嫌じゃないんだけど。
今は。
ものすごく会いたくない声だった。
顔を上げる。
眼鏡。
金色の髪。
小柄な少女。
こちらへ走ってくる。
「それ、取ってくださーい!」
「……」
リコ。
「聞こえてます?」
「……」
「お兄さん?」
「聞こえてます」
「良かった!」
良くない。
俺には良くない。
何で。
今日に限って。
孤児院に近づかないって宣言したのに。
向こうから来るな。
俺は金属筒を拾う。
「はい」
「ありがとうございます!」
「どういたしまして。じゃあ」
「待って!」
「何で!?」
声が裏返った。
リコが目を丸くする。
「え?」
「……ごめん。何?」
「それ」
指。
俺の手。
違う。
持っている紙束。
「その文字、何ですか?」
「……」
終わった。
買う前だった。
俺の使いかけのノート。
端から日本語が見えている。
昨日書いた。
『間に合わなかった過去は変えられない』
当然。
リコには読めない。
でも。
読めないからこそ。
興味を持った。
よりによって。
この子が。
「見たことない!」
「そ、そうだね」
「どこの文字ですか?」
「遠いところ」
「どこ?」
「ものすごく遠いところ」
「海の向こう?」
「もっと遠い」
「どれくらい?」
「……説明が難しい」
「じゃあ、その紙は何ですか?」
「ノート」
「それは分かります!」
「そうだよね!」
質問が速い。
想像以上に速い。
「その文字、全部読めるんですか?」
「俺が書いたからね」
「何て書いてあるの?」
「個人的なこと」
「何の?」
「すごく個人的なこと」
「気になる!」
「気にしないで!」
「何で?」
「何ででも!」
俺はノートを胸に抱えた。
リコが身を乗り出す。
距離が近い。
近い近い近い。
「それ、遺物の文字じゃないんですか?」
「違う」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ外国?」
「まあ、そんな感じ」
「どこから来たんですか?」
「……」
「何で黙るの?」
「君、質問多いね」
「よく言われます!」
「だろうね!」
胸を張るところじゃない。
でも。
あまりにも。
リコだった。
当たり前だ。
本人なんだから。
でも。
変な感覚だった。
漫画の中で見た。
アニメで聞いた。
好奇心旺盛。
危険でも進む。
知りたいことがあれば止まらない。
そんな説明が。
今。
目の前で。
ただの七歳くらいの女の子の「質問が多すぎる」という形になっている。
「お兄さん、探窟家?」
「違う」
「商人?」
「違う」
「旅人?」
「たぶん」
「たぶん?」
「説明すると長い」
「聞きたい!」
「俺は聞かせたくない!」
「何で!?」
「君、知らない人についていっちゃ駄目って教わらない?」
「ついていってないですよ?」
「俺が追いかけられてる!」
「あ」
「あ、じゃない!」
リコが笑った。
俺も。
つられて少し笑ってしまった。
その瞬間。
胸の奥が。
変なふうに痛んだ。
この子。
今。
笑ってる。
未来の出来事なんて。
何一つ知らない顔で。
「……名前」
「え?」
危ない。
口から出そうになった。
リコ。
知っている名前。
初対面なのに。
「君、名前は?」
聞き直す。
「リコです!」
知ってる。
言えない。
「……リコ」
「はい!」
「俺は湊」
「ミナト?」
「そう」
「変わった名前!」
「君に言われるとは思わなかった」
「何で?」
「何でもない」
まただ。
何でもない。
遠い国。
説明が難しい。
誤魔化す言葉ばかり増える。
「リコ!」
遠くから誰かが呼ぶ。
「あっ」
リコが振り返った。
「やば」
「何が?」
「お使い中だった!」
「忘れてたの!?」
「ちょっとだけ!」
「俺のせいみたいに言うなよ!」
「じゃあまた!」
「いや、または――」
「ミナトさん!」
「話聞いて!?」
走り出す。
そして。
「わっ」
リコが急に横を向いた。
市場の店先。
古道具の中に。
光るもの。
「何あれ!」
「おい!」
進行方向。
荷車。
大きな木箱を積んでいる。
御者は別方向を見ている。
リコは。
見ていない。
考えるより先に。
「リコ!」
腕を掴んだ。
「え?」
引く。
小さな身体がこちらへ倒れる。
そのすぐ前を。
荷車が通り過ぎた。
「――危なっ!」
御者が叫ぶ。
「前見ろ、嬢ちゃん!」
「ご、ごめんなさーい!」
リコが頭を下げる。
俺は。
心臓が。
うるさい。
「……お前」
「はい?」
「前見ろよ!」
「見てました!」
「見てない!」
「あれ見てました!」
「そっちじゃなくて進行方向!」
「あの道具、何だと思います?」
「今!?」
「だって変な光り方してた!」
「死ぬぞ!」
「大丈夫です!」
「今俺が引っ張ったからだよ!」
リコがぱちぱち瞬きをする。
そして。
「あ」
「やっと分かった?」
「助けてくれたんですね!」
「そうだよ!」
「ありがとうございます!」
満面の笑顔。
「……どういたしまして」
怒る気力が。
少し消えた。
でも。
手を見る。
俺は。
リコの腕を掴んだ。
助けた。
怪我をする未来があったかもしれない。
なかったかもしれない。
原作に。
こんな場面は。
ない。
当然。
五年前の市場の一日なんて描かれていない。
でも。
俺がいなければ。
リコはぶつかった?
軽い怪我?
大怪我?
御者が止まった?
誰か別の人が助けた?
分からない。
分からない。
未来が。
一個。
見えなくなった。
「……ミナトさん?」
「え」
「手」
「あっ、ごめん!」
慌てて離す。
「痛かった?」
「ちょっと」
「ごめん!」
「でも荷車よりは痛くないです!」
「比較対象がおかしい!」
また笑う。
何なんだこの子。
知ってたけど、
本当にこうなんだ。
◆
「リコ!」
今度は近い声。
俺の身体が固まった。
振り向く。
ジルオ。
「……」
「……」
目が合う。
前回。
孤児院を遠くから見ていた怪しい男。
今回。
その男が。
リコと一緒にいる。
しかもさっきまで腕を掴んでいた。
終わった。
「違います」
「まだ何も聞いていませんが」
「反射的に!」
「何が違うんです?」
「その質問が一番怖い!」
「リーダー!」
リコが元気に手を振る。
「ミナトさんに助けてもらったんです!」
ジルオが俺を見る。
「助けた?」
「荷車に轢かれかけて」
「轢かれてないです!」
「俺が引っ張ったからな!」
「そうでした!」
ジルオが額に手を当てる。
「リコ」
「はい」
「前を見て歩きなさい」
「見てました」
「店の方をでしょう」
「……はい」
「それは前を見ているとは言いません」
「はい……」
しゅん。
するかと思った。
三秒後。
「でもリーダー、あそこの道具――」
「後です」
「はい」
強い。
ジルオ。
慣れてる。
「ミナトさん」
「はい!」
「先日は失礼しました」
「え?」
「今日はリコを助けてくださったそうで」
「いや、まあ……目の前だったんで」
「ありがとうございます」
「いえ」
ちゃんと。
礼を言われる。
困る。
俺は。
何も特別なことはしていない。
「ミナトさん、リーダーと知り合いなんですか?」
「ちょっとだけ」
「この前会ったんですよ」
「どこで?」
「それは」
「孤児院の近くです」
「ジルオさん!」
「孤児院に来たんですか?」
「いや、その」
「誰に会いに?」
「リコ」
ジルオが低く呼ぶ。
「はい」
「質問は一つずつ」
「はい!」
元気。
全然反省してない気がする。
「ミナトさんは遠い国から来たんですよ!」
「もう話したの?」
「文字も違うんです!」
「それも!?」
「ノート見せてください!」
「見せない!」
ジルオが俺のノートを見る。
「文字?」
「……俺の故郷の」
「読めるんですか?」
「俺は」
「こちらの文字は?」
「勉強中です」
「家と鳥は読めます!」
「何で君が知ってるみたいに言うの!?」
「今覚えました!」
「俺の情報を!?」
ジルオの口元が。
ほんの少し。
緩んだ気がした。
気のせいかもしれない。
「リコ」
「はい」
「お使いは?」
「あ」
「忘れていましたね」
「忘れてないです。後回しにしてました」
「それを忘れていたと言います」
「はい……」
「戻りますよ」
「はーい」
リコが歩き出す。
すぐ振り返る。
「ミナトさん!」
「何?」
「またその文字見せてください!」
「だから――」
「今度、どこの国かも教えてください!」
「難しいんだって!」
「じゃあ考えといてください!」
「宿題にするな!」
リコが笑う。
ジルオに促されて離れていく。
俺は。
その背中を見ていた。
小さい。
まだ。
本当に。
小さい。
あの子が。
五年後。
レグと。
奈落へ。
「……」
胸がざわつく。
「ミナトさん」
「はい?」
ジルオが少し離れたところで振り返っていた。
「何です?」
「あなた」
一拍。
「リコを以前から知っていましたか?」
息が止まった。
「……何で」
「初対面にしては」
ジルオの目。
「名前を呼ぶのが早かったので」
「リコ!」
叫んだ。
名乗る前に?
いや。
名乗った後だった?
順番。
頭が真っ白になる。
「さっき名乗ってました」
俺は言う。
「……そうでしたか」
「はい」
たぶん。
たぶんそうだ。
俺自身。
自信がない。
ジルオは数秒こちらを見る。
「なら、私の勘違いですね」
「……はい」
「失礼しました」
「いえ」
去っていく。
俺は。
市場の真ん中で。
「……こっわ」
小さく呟いた。
やっぱり。
この人。
怖い。
何もしてないのに。
いや。
俺が怪しいのか。
それはそう。
◆
「で?」
午後。
仕事終わり。
ガンザが面白そうな顔をしている。
「何ですか」
「孤児院の嬢ちゃん助けたんだって?」
「早っ!」
「市場で荷車止まったからな」
「街狭すぎません!?」
「お前の行動が目立つんだよ」
「静かに生きたい!」
「無理じゃねえか?」
「即答!?」
ガンザが笑う。
「怪我は?」
「ないです」
「なら良かったな」
「……はい」
「何だ」
「いや」
縄を巻きながら。
考える。
「目の前で子供が怪我しそうだったら」
「ん?」
「助けますよね」
「普通はな」
「ですよね」
「何だ急に」
「確認」
「お前たまに当たり前のこと確認するな」
「俺には大事なんです」
ガンザには意味が分からないだろう。
でも。
俺には必要だった。
もし。
今日。
俺が。
『原作に影響するかもしれない』
という理由で。
手を出さなかったら。
どうなっていた。
軽い擦り傷で済んだかもしれない。
何も起きなかったかもしれない。
でも。
大怪我をしたかもしれない。
それを。
俺は。
見ていられた?
「……無理だな」
「何が」
「独り言」
「またか」
ガンザが縄を投げてくる。
「ほら」
「うわっ」
「昨日の結び方」
「はい」
結ぶ。
一回。
違う。
「逆」
「分かってます!」
「分かってねえから逆なんだろ」
「ポロにも同じこと言われた!」
「九歳と同レベルか」
「やめろ!」
笑われる。
でも。
今日は。
その方が助かった。
◆
「眼鏡の子に会ったの?」
「何でミーナまで知ってるの!?」
宿に戻った第一声。
終わってる。
俺のプライバシー。
たぶんこの街には存在しない。
「市場で見てた人が夕飯食べに来た」
「情報伝達速度どうなってんの」
「で?」
「で、とは」
「話した?」
「話しました」
「可愛かった?」
「その聞き方やめて!」
「子供としてよ」
「分かってます!」
顔が熱い。
「……元気でした」
「そうでしょうね」
「質問が多い」
「そうでしょうね」
「前を見ない」
「それは駄目ね」
「知らない文字見つけただけで、こっちが引くくらい寄ってくる」
「気に入られたんじゃない?」
「やめてください」
「嫌なの?」
答えに詰まる。
「……嫌じゃない」
「じゃあいいじゃない」
「良くないんですよ」
「何が?」
「俺が」
ミーナが皿を置く。
俺は。
少し迷って。
「俺、あの子のこと知ってる気がするんです」
「前にも言ってたわね」
「でも今日話したら」
「うん」
「知らなかった」
「どっち?」
「両方」
ミーナが首を傾げる。
「変な答え」
「俺もそう思う」
知ってる。
リコがどういう人物か。
何を目指すか。
誰と出会うか。
何を食べるか。
どんな危険に遭うか。
でも。
知らなかった。
質問する時。
あんなに顔を近づけること。
興味の対象が変わると、一秒で視線が飛ぶこと。
怒られても三秒で別のことを考え始めること。
荷車より光る道具を見ていたこと。
助けられたら。
あんなに真っ直ぐ「ありがとう」と言うこと。
原作で知っていた。
でも。
今日初めて知った。
「……人って変ですね」
「急に大きい話になったわね」
「知ってるつもりでも、会ったら全然違う」
「そりゃそうでしょう」
「普通に言うなあ」
「会ったことない人を全部知ってる方がおかしいわよ」
「ですよね」
「あなた、最近やっと常識を覚えてきたわね」
「文字より遅いかもしれない」
「重症ね」
◆
夜。
机。
ノート。
今日は何を書く。
ペンを持つ。
『リコ』
書く。
その横。
『七歳前後』
さらに。
『直接接触』
「……研究記録みたいで嫌だな」
線を引く。
消す。
別の書き方。
『今日、リコと話した』
それだけ。
少し。
まし。
『質問が多い』
『前を見ない』
『知らない文字が好き』
「……これ、日記だ」
笑う。
でも。
その方がいい気がした。
原作の情報。
未来の出来事。
攻略上の重要事項。
そういうものだけ書いていたら。
また。
人間をイベントに戻してしまう。
「リコ」
今日。
市場で会った。
眼鏡の少女。
質問が多い。
危なっかしい。
よく笑う。
それでいい。
今日は。
それだけで。
次のページ。
俺は。
前に書いた言葉を見る。
『原作を壊さない』
ずっと前。
この世界に来たばかりで。
俺が決めようとしていたこと。
今見ると。
変だ。
「……今日」
もし。
原作を守るために。
リコが荷車にぶつかるのを見ていたら。
それは。
何を守ったことになる。
物語?
未来?
俺の知識?
「馬鹿だろ」
線を引く。
完全には消さない。
読めるように。
その下。
『目の前を見捨ててまで守る原作に意味はない』
書く。
少し長い。
「格好つけすぎ」
また書き直す。
『目の前は助ける』
「……これでいい」
短い。
具体的。
今の俺でも。
守れるかもしれない。
全部は無理。
未来も分からない。
でも。
目の前で。
手が届くなら。
手を伸ばす。
それくらい。
原作知識がなくても。
普通の人間なら。
やる。
「普通の人間か」
この世界に来て。
ずっと。
特別な役割があるみたいに考えていた。
転移者。
原作知識持ち。
未来を知っている人間。
でも。
今日リコを引っ張った理由は。
そんなものじゃない。
子供が荷車に轢かれそうだったから。
それだけ。
それで。
良かった。
◆
翌日。
「ミナト!」
「はい!」
港。
ガンザの声。
「市場!」
「また!?」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど!」
嫌な予感。
昨日ミーナに言われた。
自分から事故を呼ぶ奴は、健全な予定を口にする。
「今日は別ルートで行きます」
「好きにしろ」
「絶対会わない」
「誰に?」
「何でもないです!」
荷物を持つ。
市場へ。
昨日とは別の道。
遠回り。
完璧。
「よし」
角を曲がる。
「ミナトさーん!」
「何でいるの!?」
眼鏡の少女が。
向こうから。
全力で手を振っていた。
「昨日の文字!」
「忘れて!」
「無理です!」
「即答!?」
走ってくる。
俺は。
一瞬。
逃げようとして。
やめた。
「走るな! 前見ろ!」
「見てます!」
「本当に!?」
「今日は見てます!」
「昨日もそう言ってた!」
リコが笑う。
俺も仕方なく笑った。
原作の主人公。
白笛ライザの娘。
未来に奈落へ挑む少女。
そういう言葉が。
昨日より少しだけ遠かった。
目の前にいるのは。
変な文字が気になって仕方ない。
危なっかしい眼鏡の少女。
今は、
それでいいと思った。
今回いちばん書きたかったのは荷車のところでした。
未来を変えるとか、原作を守るとか、そういう大きな言葉を考える前に、目の前で子供が危なかったら普通は手を伸ばす。
湊には、まずそこへ戻ってきてもらいました。
多分リコはまた来ます。
第五話、読んでくださってありがとうございました。