奈落の悲劇を踏み越えて   作:まねきまねき

7 / 7
朝:固いパン。昨日より少しだけうまい。
昼:魚。たぶんまた魚。
夜:働けたら何か食べられる。

――なお、奈落の底にはまだ一歩も近づいていません。

いろいろと考えると腹が減るんですよね。
そして腹が減ると、格好いい決意なんてだいたいどうでもよくなります。

今回はそんな話です。

第七話「奈落で食う」。
お願いします。


奈落で食う

 夢の中で、俺は奈落の底にいた。

 

 暗い。

 

 何も見えない。

 

 でも誰かがいる。

 

「遅いよ」

 

 声だけがした。

 

 女の子の声だった。

 

 誰だ。

 

 知っている気がする。

 

 いや。

 

 知っている。

 

 知っているのに、顔が見えない。

 

「ごめん」

 

 俺は言った。

 

「まだ、そこまで行けない」

 

「うん」

 

「でも、行くから」

 

「うん」

 

「だから――」

 

 腹が鳴った。

 

「…………」

 

「…………」

 

 奈落の底で。

 

 盛大に。

 

 ぐぅぅぅぅ、と。

 

「……腹、減ってるの?」

 

「今それ言う?」

 

     ◆

 

「腹減った」

 

 目が覚めた。

 

 最悪だった。

 

 重い夢だったはずなのに、最後の最後で俺の胃袋が全部台無しにした。

 

「……何なんだよ」

 

 ベッドの上で腹を押さえる。

 

 鳴る。

 

 もう一回。

 

「分かったって」

 

 腹に返事をしてどうする。

 

 窓の外は朝。

 

 オースの街はすでに動き始めていた。

 

 遠くで荷車の車輪が鳴る。

 

 誰かが怒鳴る。

 

 海鳥が鳴く。

 

 そして、その向こう。

 

 巨大なアビス。

 

 七日目。

 

 この景色にも、少しだけ慣れた。

 

 慣れた自分が怖い。

 

「……今日もあるな」

 

 当たり前だけど。

 

 奈落は今日もある。

 

 昨日、俺がノートに『原作を壊さない』と書いたことなんて知らない。

 

 俺が悩んでいることも知らない。

 

 勝手にそこにある。

 

 ガンザが言った通りだ。

 

「まず飯」

 

 壮大な未来の前に。

 

 朝飯。

 

 これが現実。

 

     ◆

 

「パン一枚」

 

「二枚」

 

「一枚」

 

「二枚」

 

「一枚でいいです」

 

「二枚食べなさい」

 

「金が」

 

「宿代に朝食入ってるから」

 

「二枚ください」

 

「変わり身早いわね」

 

 ミーナが呆れた顔でパンを二枚置いた。

 

「無料なら食います」

 

「無料じゃない。宿代に入ってる」

 

「払った時点で俺のものです」

 

「急に逞しくなったわね」

 

「この街、油断すると財布が死ぬんで」

 

「財布持ってないでしょう」

 

「概念としての財布です」

 

 薄いスープ。

 

 固いパン。

 

 昨日よりうまい。

 

 人間、慣れる。

 

 怖い。

 

「ミーナ」

 

「なに?」

 

「俺、今いくら持ってます?」

 

「自分で数えなさい」

 

「数字は読めます」

 

「昨日、四と九を間違えてたわよ」

 

「あれは光の加減」

 

「昼だったけど」

 

「心の光が」

 

「数えなさい」

 

 俺はポケットから小銭を出した。

 

 この世界の硬貨。

 

 最初は全部同じに見えた。

 

 今は少し分かる。

 

 大きさ。

 

 刻印。

 

 重さ。

 

「……これが十」

 

「うん」

 

「これが五」

 

「うん」

 

「これが……百?」

 

「一」

 

「何で!?」

 

「全然違うでしょう」

 

「この硬貨だけデザイン思想がおかしい!」

 

「貨幣に文句言う人初めて見た」

 

 結局。

 

 ミーナに横から直されながら数える。

 

「……少なっ」

 

「昨日魚買ってたでしょう」

 

「ポロの情報料」

 

「二匹」

 

「値上げされた」

 

「九歳に?」

 

「九歳に」

 

「交渉向いてないわね」

 

「知ってる」

 

 机の上。

 

 全財産。

 

 笑えるくらい少ない。

 

「これで何日生きられます?」

 

「宿代は?」

 

「……」

 

「食事は?」

 

「……」

 

「洗濯は?」

 

「……」

 

「字を教える代金は?」

 

「それ取ってたの!?」

 

「冗談」

 

「心臓に悪い!」

 

 ミーナが笑う。

 

 俺は机に額をつける。

 

「金がない」

 

「働きなさい」

 

「働いてます」

 

「もっと」

 

「ブラック!」

 

「港の仕事だけじゃ、ずっとここに泊まって好きなだけ魚を買うのは厳しいわね」

 

「魚、好きで買ってないです」

 

「ポロくんに貢いでるの?」

 

「情報料!」

 

「同じでしょう」

 

「違う!」

 

 俺は小銭をまとめる。

 

 現実。

 

 すごく現実。

 

 五年で四層へ届く。

 

 原作を壊さない。

 

 悲劇だけ可能なら避ける。

 

 そんなことを書いている男が。

 

 今は宿代で悩んでいる。

 

 格好つかない。

 

 でも。

 

 これを無視したら死ぬ。

 

「ミーナ」

 

「うん」

 

「探窟家って稼げます?」

 

「当たれば」

 

「怖い言い方」

 

「遺物持ち帰ればお金になるし、依頼もある。でも装備代もいるし、怪我もするし、死ぬ人もいる」

 

「収入の説明に死亡リスク混ぜないで」

 

「事実でしょう」

 

「……そうなんだけど」

 

「それに、あなたまだ探窟家じゃないし」

 

「はい」

 

「字も怪しいし」

 

「はい」

 

「体力も普通」

 

「はい」

 

「土地勘なし」

 

「はい」

 

「装備なし」

 

「もうやめて!」

 

「現実確認」

 

「朝から刺しすぎ!」

 

 ミーナが楽しそうだ。

 

「じゃあ、もっと稼げる仕事あります?」

 

「ガンザさんに聞けば?」

 

「港以外?」

 

「顔広いから」

 

「なるほど」

 

「ただし」

 

「まだある?」

 

「怪しい仕事は断りなさいよ」

 

「俺、そんなに騙されそう?」

 

「九歳に魚二匹」

 

「その話強すぎない!?」

 

     ◆

 

「もっと金が欲しい」

 

「朝一番に言う台詞じゃねえな」

 

 港。

 

 ガンザは木箱の釘を打ちながら言った。

 

「生活がかかってます」

 

「今の仕事じゃ足りねえか」

 

「宿に住み続けるなら、ちょっと」

 

「もっと安いとこ行け」

 

「正論」

 

「終わりか?」

 

「でもミーナの宿、字教えてくれるし」

 

「お前、十九だよな?」

 

「そこを刺さないで」

 

「飯も出る」

 

「重要」

 

「洗濯も頼める」

 

「重要」

 

「居着いてんじゃねえか」

 

「もうちょっとだけ!」

 

 ガンザが笑う。

 

「で。仕事か」

 

「何かあります?」

 

「あるにはある」

 

「危ない?」

 

「お前の基準による」

 

「死ぬ?」

 

「たぶん死なねえ」

 

「採用」

 

「判断早えな」

 

「今の俺、『たぶん死なない』が最高評価なんで」

 

 ガンザが釘を打ち終える。

 

「遺物の荷整理」

 

「遺物?」

 

 身体が勝手に前へ出る。

 

「近い近い」

 

「どこ!?」

 

「食いつきだけは探窟家だな」

 

「遺物ですよ!?」

 

「だから落ち着け」

 

「本物?」

 

「偽物の遺物って何だ」

 

「模造品とか!」

 

「市場にはあるな」

 

「あるんだ……」

 

「今回のは、探窟家が持ち帰った品の選別補助。遺物そのものを勝手に触る仕事じゃねえ。箱運びと洗浄と記録札の整理だ」

 

「やる」

 

「説明最後まで聞け」

 

「はい」

 

「割れたら弁償」

 

「やめる」

 

「早えよ」

 

「いくら!?」

 

「物による」

 

「一生働いても返せないやつある?」

 

「ある」

 

「怖っ!」

 

「だから触るのは管理人の指示した物だけだ」

 

「……それなら」

 

「日当は港より少し高い」

 

「やります」

 

「現金だな」

 

「貧乏なんで」

 

「あと」

 

「まだ?」

 

「遺物に夢見んなよ」

 

「え?」

 

「下から上がってくるもん全部が、光って飛んで願い叶えるわけじゃねえ」

 

「知ってます」

 

 答えた。

 

 知っている。

 

 遺物には等級がある。

 

 すごいもの。

 

 危険なもの。

 

 便利なもの。

 

 用途不明のもの。

 

 そして。

 

 たぶん。

 

 誰にも見向きされないもの。

 

「……たぶん」

 

「何がだ」

 

「何でもない」

 

     ◆

 

 倉庫は港から少し離れた坂の途中にあった。

 

 外見。

 

 地味。

 

 石壁。

 

 分厚い扉。

 

 窓が少ない。

 

「もっとこう」

 

「何だ」

 

「神秘的な感じ想像してた」

 

「倉庫だぞ」

 

「そうなんだけど」

 

「遺物に花でも飾るか?」

 

「それは違う」

 

 扉。

 

 ガンザが三回叩く。

 

「婆さん!」

 

「誰が婆さんだい!」

 

 中から怒鳴り声。

 

「元気だな」

 

「怖い予感」

 

 扉が開く。

 

 小柄な老婆。

 

 白髪。

 

 片目に古い単眼鏡のようなものをかけている。

 

「ガンザ。何だいそいつ」

 

「荷運び」

 

「細い」

 

「知ってます」

 

「字読める?」

 

「……少し」

 

「帰りな」

 

「待って!」

 

 扉が閉まりかける。

 

「運べます! 数字読めます! 家と鳥も読めます!」

 

「最後の二つ何だい」

 

「俺の成長の証!」

 

 老婆が止まる。

 

 俺を見る。

 

「変なの連れてきたね」

 

「だろ」

 

「ガンザ、同意しないで」

 

「名前」

 

「湊です」

 

「ミナト」

 

「はい」

 

「私はネル。ここでは私が触れと言ったもの以外に触るな。箱の印を勝手に剥がすな。匂いを嗅ぐな。舐めるな。振るな。叩くな。火に近づけるな」

 

「舐める人いるんですか?」

 

「いた」

 

「過去形怖い!」

 

「死んじゃいないよ」

 

「よかった」

 

「舌の色が三日戻らなかっただけ」

 

「嫌だ!」

 

「遺物に夢を見ると、まず余計なことをする」

 

 ネルが中へ戻る。

 

「入んな」

 

「はい」

 

 倉庫。

 

 中。

 

 息を止めた。

 

 木箱。

 

 棚。

 

 布で包まれた何か。

 

 金属。

 

 石。

 

 奇妙な瓶。

 

 形の分からない塊。

 

 札。

 

 札。

 

 札。

 

 その全部が。

 

 アビスから上がってきたもの。

 

「……すげえ」

 

「声小さくしな」

 

「はい」

 

 でも。

 

 すげえ。

 

 本当に。

 

 アニメの資料集じゃない。

 

 ゲームのアイテム欄じゃない。

 

 目の前に。

 

 ある。

 

 遺物。

 

「それはただの石」

 

「え」

 

 俺が見ていた棚。

 

「遺物じゃないんですか」

 

「違う」

 

「すげえ雰囲気あったのに」

 

「深層から付いてきた石ころ」

 

「深層産の石!」

 

「石ころ」

 

「ロマンが!」

 

「売れない」

 

「現実が!」

 

 ガンザが腹を抱えて笑う。

 

「お前ここ向いてるかもな」

 

「どっちの意味?」

 

「知らん」

 

     ◆

 

 最初の仕事。

 

 箱運び。

 

 俺はネルの指示通りに、印のついた箱を棚から棚へ移す。

 

「赤印、右!」

 

「右!」

 

「青印、下段!」

 

「下段!」

 

「白印は触るな!」

 

「了解!」

 

「その箱逆さ!」

 

「うわっ!」

 

「動くな!」

 

「はい!」

 

 固まる。

 

 ネルが来る。

 

 箱をゆっくり戻す。

 

「危なかった……?」

 

「中は皿だよ」

 

「皿!?」

 

「遺物じゃない」

 

「心臓返して!」

 

「注意書き読めないあんたが悪い」

 

「ぐう」

 

 字。

 

 また字。

 

 人生の敵。

 

「明日までにこの札覚えな」

 

「多い!」

 

「嫌なら港戻りな」

 

「覚えます」

 

「よろしい」

 

 次。

 

 洗浄。

 

 洗うのは、遺物そのものではなく容器や付着した土の入った袋。

 

 地味。

 

 ひたすら地味。

 

 でも。

 

 土。

 

 アビスの土。

 

 層によって色も匂いも違う。

 

「これ、何層?」

 

「二層」

 

「こっち?」

 

「一層」

 

「違う」

 

「色」

 

「色だけで見るな。混じる」

 

「じゃあ?」

 

「札」

 

「結局字!」

 

「当たり前だよ」

 

 ネルは冷たい。

 

 でも教えてくれる。

 

 ありがたい。

 

 仕事の合間。

 

 俺は棚を見る。

 

「ミナト」

 

「触ってないです!」

 

「見過ぎ」

 

「見るのもダメ?」

 

「仕事止まるならね」

 

「すみません」

 

「興味あるのかい」

 

「めちゃくちゃ」

 

「正直だね」

 

「元の……遠い土地では、こういうのなかったから」

 

「そりゃ世界中から人が来るわけだ」

 

 ネルが布を一枚めくる。

 

 中。

 

 灰色の円盤。

 

 手のひらくらい。

 

「これは?」

 

「遺物」

 

「何する?」

 

「触ると少し温かくなる」

 

「……それだけ?」

 

「それだけ」

 

「等級は?」

 

「大したもんじゃない」

 

「売れる?」

 

「安い」

 

「温石みたいに使える?」

 

「持続が短い」

 

「何分?」

 

「さあ」

 

「試さないの?」

 

「値がつかない物に一日使うほど暇じゃない」

 

「……」

 

 その言葉が。

 

 少し。

 

 引っかかった。

 

「値がつかない」

 

「何だい」

 

「いや」

 

 円盤。

 

 触ると温かい。

 

 それだけ。

 

 単体では。

 

 たぶん。

 

 役に立たない。

 

 でも。

 

 温度が必要な場面なら?

 

 毒を温める?

 

 薬?

 

 保温?

 

 凍結?

 

 夜?

 

「仕事」

 

「はい!」

 

 頭を戻す。

 

 まだ。

 

 今は。

 

 考える段階じゃない。

 

     ◆

 

 昼。

 

 倉庫の外。

 

「ほら」

 

 ガンザが包みを投げる。

 

「何?」

 

「飯」

 

 開く。

 

 魚。

 

「また魚!」

 

「港町で何期待してんだ」

 

「肉」

 

「稼げ」

 

「結局金!」

 

 パン。

 

 干し魚。

 

 水。

 

「ネルさんは?」

 

「中で食う」

 

「遺物の横で?」

 

「慣れてんだろ」

 

「俺は怖い」

 

「お前朝は目輝かせてたじゃねえか」

 

「好きと怖いは両立するんです」

 

「面倒だな」

 

「リコにも同じこと言われた」

 

「またあのガキか」

 

「ガキって言うな」

 

「もう庇ってんじゃねえか」

 

「違う!」

 

「何が」

 

「……何だろ」

 

 ガンザが笑う。

 

「で。どうだ」

 

「仕事?」

 

「ああ」

 

「楽しい」

 

「港より?」

 

「……ちょっと」

 

「裏切り者」

 

「給料も高い」

 

「最低だな」

 

「生活が!」

 

「まあ、いい」

 

 ガンザが魚を噛む。

 

「ネルの婆さんに気に入られりゃ、たまに使ってくれる」

 

「気に入られてます?」

 

「帰れって言われなかったろ」

 

「基準低い!」

 

「十分だ」

 

 俺も魚を食う。

 

「ガンザ」

 

「ん」

 

「この街って」

 

「ああ」

 

「アビスなくなったらどうなる?」

 

 少し。

 

 間。

 

「何だ急に」

 

「いや。港もそうだし、この倉庫もそうだし」

 

 探窟家。

 

 遺物。

 

 宿。

 

 食堂。

 

 装備。

 

 運送。

 

 孤児院。

 

 市場。

 

 全部。

 

 アビスへ繋がっている。

 

「穴があるから街があるのか、街が穴にしがみついてんのか。俺には分からんな」

 

 ガンザが言う。

 

「でも、なくなりゃ困る奴は多い」

 

「怖い場所なのに」

 

「海だって人殺すぞ」

 

「……ああ」

 

「でも漁師は海出る」

 

 簡単。

 

 でも。

 

 分かりやすい。

 

「奈落で食ってるんだよ」

 

「奈落で」

 

「俺も。ネルの婆さんも。ミーナも。お前も今はな」

 

 俺。

 

「俺も?」

 

「港の荷物、どこから来てると思ってんだ」

 

「……」

 

「探窟家がいなきゃ減る。遺物がなきゃ商人も減る。見物人も来ねえ」

 

「そうか」

 

 俺は。

 

 もう。

 

 アビスで食っている。

 

 潜ってないのに。

 

 その周りで。

 

 生活している。

 

 原作を読んでいた時。

 

 そんなこと。

 

 あまり考えなかった。

 

 オースは舞台。

 

 アビスへ出発する街。

 

 でも。

 

 ここで。

 

 暮らしている人がいる。

 

 アビスへ行かない人も。

 

 アビスのおかげで飯を食う人も。

 

 アビスで家族を失った人も。

 

 それでも。

 

 街は続く。

 

「……すごい場所だな」

 

「今さらかよ」

 

「今さらです」

 

     ◆

 

 午後。

 

 記録札の整理。

 

 地獄。

 

「読めない!」

 

「覚えな!」

 

「似た字多い!」

 

「似てない!」

 

「ミーナと同じこと言う!」

 

「誰だい」

 

「宿の人!」

 

 ネルが紙を俺の前へ置く。

 

「これは?」

 

「一層」

 

「これは?」

 

「二層」

 

「これは?」

 

「……三層」

 

「正解」

 

「やった」

 

「これは?」

 

「四層」

 

 口にした瞬間。

 

 手が止まった。

 

 四層。

 

 ナナチ。

 

 ミーティ。

 

「どうした」

 

「……何でも」

 

「顔に出るねえ、あんた」

 

「最近全員に言われます」

 

「じゃあ直しな」

 

「直せる?」

 

「知らないよ」

 

 ネルが次の札を出す。

 

「五層」

 

 今度は。

 

 ボンドルド。

 

 プルシュカ。

 

 また。

 

 手が止まる。

 

「……あんた」

 

「はい」

 

「深い数字ほど顔悪くなるね」

 

「……」

 

「深層に知り合いでもいるのかい」

 

「いません」

 

 嘘。

 

 いや。

 

 本当。

 

 知り合いではない。

 

 知っているだけ。

 

「なら、何を怖がってる」

 

「知識」

 

 口から出た。

 

「知ってるから怖い」

 

 ネルが片眉を上げる。

 

「変なこと言うね」

 

「自分でもそう思います」

 

「知ってるなら避けられるだろ」

 

「……全部は」

 

「全部避けたいのかい?」

 

 答え。

 

 すぐ出ない。

 

「分かりません」

 

「なら今は札を覚えな」

 

「はい」

 

「四層」

 

「四層」

 

「五層」

 

「五層」

 

「六層」

 

 喉が。

 

 一瞬。

 

 動かなかった。

 

「……六層」

 

「声小さい」

 

「六層」

 

「よし」

 

 ただの文字。

 

 ただの数字。

 

 でも。

 

 その先に。

 

 俺は。

 

 知っている顔を見てしまう。

 

「もう一回」

 

「はい」

 

     ◆

 

 日が落ちる前。

 

 仕事終了。

 

 ネルが小袋を投げる。

 

「日当」

 

「おお」

 

 重い。

 

 港より。

 

 少し。

 

 本当に少し。

 

 多い。

 

「やった!」

 

「子供みたいに喜ぶんじゃないよ」

 

「今の俺には大金!」

 

「明日も来るかい」

 

「いいんですか?」

 

「字が読めるようになるまで雑用はある」

 

「長期雇用!」

 

「勘違いするな。一日ごとだ」

 

「十分!」

 

「遅刻したら終わり」

 

「何時?」

 

 ネルが札を見せる。

 

「……」

 

「読め」

 

「試験!?」

 

「読めなきゃ来られないね」

 

「えっと……朝、七?」

 

「六」

 

「危なっ!」

 

「もう一回」

 

「六!」

 

「よし」

 

 ガンザが横で笑う。

 

「寝坊すんなよ」

 

「絶対起きる」

 

「人間に絶対はねえ」

 

「またそれ!」

 

     ◆

 

 市場。

 

 仕事終わり。

 

 財布。

 

 いや、まだ財布はない。

 

 小袋。

 

 中に金。

 

 今日は少しだけ余裕がある。

 

「肉……」

 

 肉串。

 

 匂い。

 

 うまそう。

 

 値段を見る。

 

 読める。

 

 読めるからこそ。

 

「高っ」

 

 文字を読めるようになった弊害。

 

 昔なら買ってから泣いていた。

 

「お兄ちゃん!」

 

「今日は魚買わないぞ!」

 

「まだ何も言ってない!」

 

 ポロ。

 

「何で先回りしたの」

 

「君を見ると財布が警戒する」

 

「財布ないじゃん」

 

「概念!」

 

「何それ」

 

「俺も分からない」

 

 ポロが肉串を見る。

 

「食べたいの?」

 

「今日は頑張ったから」

 

「買えば」

 

「高い」

 

「けち」

 

「生活!」

 

「じゃあ半分こ」

 

「……」

 

「僕、半分払う」

 

「え」

 

 意外。

 

「魚二匹男が?」

 

「今日は情報売ってないから」

 

「ちゃんとしてる!」

 

「僕を何だと思ってるの」

 

「九歳の商人」

 

「合ってる」

 

「合うんだ」

 

 二人で。

 

 一本。

 

 買う。

 

 半分。

 

「うまっ」

 

「うん」

 

「肉だ」

 

「肉だね」

 

「この世界来て初めてちゃんと肉食ったかも」

 

「また『この世界』って言った」

 

「遠い土地の言い回し」

 

「絶対嘘」

 

「九歳鋭いな」

 

「で、今日は何してたの?」

 

「遺物の倉庫」

 

「えっ!?」

 

 ポロの声。

 

 でかい。

 

「近い近い!」

 

「本物!?」

 

「本物」

 

「何見た!?」

 

「触ると温かくなる灰色の円盤」

 

「すごい!」

 

「いや、すごくないらしい」

 

「何で?」

 

「温かくなるだけ」

 

「すごいじゃん」

 

「だよな?」

 

「うん」

 

 子供。

 

 だからか。

 

 価値。

 

 値段。

 

 等級。

 

 そんなものより。

 

 触ると温かくなる石。

 

 それだけで。

 

「何に使えるかな」

 

 ポロが言う。

 

「……」

 

「何?」

 

「俺も同じこと考えた」

 

「じゃあすごいじゃん」

 

「……そうかも」

 

 頭の中。

 

 円盤。

 

 温度。

 

 他の何か。

 

 組み合わせ。

 

 単体。

 

 単体で。

 

 役に立たないなら。

 

「お兄ちゃん?」

 

「……何でもない」

 

「また遠い顔」

 

「本当に全員同じこと言うな!」

 

     ◆

 

 宿。

 

「ただいま!」

 

「おかえり」

 

「見て!」

 

「何?」

 

 日当。

 

 机。

 

 並べる。

 

「昨日より多い!」

 

「子供ね」

 

「生活費!」

 

「何の仕事?」

 

「遺物の倉庫」

 

「へえ」

 

「明日も!」

 

「よかったじゃない」

 

「はい!」

 

「宿代払えるね」

 

「……」

 

 笑顔。

 

 消える。

 

「現実に戻さないで」

 

「払って」

 

「はい」

 

 金。

 

 減る。

 

「あああ……」

 

「何その声」

 

「俺の労働が!」

 

「宿になったのよ」

 

「そう考えると悪くない」

 

「でしょう?」

 

「飯も」

 

「出る」

 

「字も」

 

「教える」

 

「ミーナ」

 

「何?」

 

「ここ、良物件」

 

「今気づいた?」

 

「もうちょい安く」

 

「出てっていいわよ」

 

「ごめんなさい」

 

 笑う。

 

 夕食。

 

 今日は魚じゃない。

 

 豆。

 

「魚じゃない!」

 

「そんなに嫌だった?」

 

「嫌じゃないけど連続は」

 

「贅沢」

 

「働いたから許して」

 

     ◆

 

 夜。

 

 ノート。

 

 収入。

 

 支出。

 

 宿代。

 

 食費。

 

 ポロ。

 

「ポロが項目になってる」

 

 笑う。

 

 その下。

 

『遺物倉庫』

 

 書く。

 

『低価値品でも、用途がないとは限らない』

 

 今日見た。

 

 灰色の円盤。

 

 触ると少し温かくなる。

 

 安い。

 

 役に立たない。

 

 そう言われていた。

 

 でも。

 

 本当に?

 

 単体なら。

 

 そうかもしれない。

 

 じゃあ。

 

 単体じゃなかったら。

 

「……」

 

 ペンが止まる。

 

 俺は。

 

 別に発明家じゃない。

 

 科学者でも。

 

 技術者でも。

 

 工作が得意だったわけでもない。

 

 でも。

 

 ゲームなら。

 

 弱い効果を組み合わせるのが好きだった。

 

 漫画でも。

 

 強い一発より。

 

 弱い能力を使い倒すやつが好きだった。

 

「いや」

 

 自分で笑う。

 

「現実なんだよ」

 

 ゲームじゃない。

 

 失敗したら。

 

 怪我。

 

 死ぬ。

 

 だから。

 

 今すぐ何か作る。

 

 そんなことはしない。

 

 まず。

 

 知る。

 

 遺物を。

 

 この世界の道具を。

 

 力場を。

 

 生物を。

 

 文字を。

 

 値段を。

 

「値段……」

 

 最後だけ急に現実。

 

 でも。

 

 大事。

 

 金がなければ。

 

 装備は買えない。

 

 飯も食えない。

 

 宿にも泊まれない。

 

 探窟家にもなれない。

 

 誰かを助ける以前に。

 

 俺が。

 

 生きられない。

 

 ノートの端。

 

『五年』

 

 書く。

 

 その横。

 

『一日目:飯代を稼ぐ』

 

「……」

 

 地味。

 

 あまりにも。

 

 でも。

 

「これでいい」

 

 ガンザ。

 

 ミーナ。

 

 ネル。

 

 今日。

 

 何度も。

 

 同じことを教えられた。

 

 アビスの中だけが。

 

 冒険じゃない。

 

 下へ行くために。

 

 今日を生きる。

 

 それも。

 

 たぶん。

 

 探窟の一部なんだ。

 

     ◆

 

 翌朝。

 

「遅い!」

 

「六時って読んだ!」

 

「今六時一分!」

 

「一分!」

 

「遅刻は遅刻!」

 

「ネルさん厳しい!」

 

「帰るかい?」

 

「働きます!」

 

「なら走る!」

 

「倉庫で走っていいの!?」

 

「入口まで!」

 

「はい!」

 

 荷物。

 

 札。

 

 土。

 

 遺物。

 

 今日も。

 

 奈落の底には。

 

 一ミリも近づいていない。

 

 でも。

 

 昨日より。

 

 文字を一つ多く知っている。

 

 昨日より。

 

 金が少しある。

 

 昨日より。

 

 アビスから上がってくる物を知った。

 

 そして。

 

 昨日までなら。

 

 価値がないと思っていた物を。

 

 少しだけ。

 

 違う目で見始めた。

 

「ミナト!」

 

「はい!」

 

「灰色円盤、棚の下!」

 

「これ?」

 

「それ!」

 

 布越しに持つ。

 

 軽い。

 

 安い。

 

 大したものじゃない。

 

 触ると。

 

 少しだけ温かくなる。

 

 それだけ。

 

「……」

 

「何してる!」

 

「今行きます!」

 

 棚へ運ぶ。

 

 置く。

 

 まだ。

 

 何にもならない。

 

 でも。

 

 この時。

 

 たぶん初めて。

 

 俺は。

 

 遺物を。

 

 『強いか弱いか』ではなく。

 

 『何ができるか』で見た。

 

 小さな。

 

 本当に小さな。

 

 始まりだった。




書き終えてみると、第七話はずいぶん地味な回になりました。
でも、自分はこういう回がかなり好きです。

湊もまだ一度も本格的に潜っていないのに、気づけばもうアビスに飯を食わせてもらっている。

その感じが書けたのが嬉しかったです。

そして灰色の円盤。
今は、本当に大したものではありません。

こういう「誰も欲しがらない物」が、後でどうなるのか。
自分も楽しみにしながら置いておきます。

では、今日のところは黒字ということで。
第七話、ありがとうございました。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。