・触ると少しだけ温かい灰色の円盤
・濡らすとほんの少し縮む黒い紐
・振っても鳴らない、小さな金属片
・深いところから上がってきただけの石ころ
・用途不明
・買い手なし
・場所を取る
判定――ゴミ。
……本当に?
第八話です。
朝六時ちょうど。
「遅い!」
「五十九分です!」
「六時だよ!」
「時計の針、まだぎりぎり――」
「言い訳する暇があるなら手を洗う!」
「はい!」
ネルの遺物倉庫に飛び込んだ俺は、入口の鐘が鳴り終わるより早く怒鳴られていた。昨日より一分早く来たという、本人としてはかなり誇らしい成長だったのだが、この店では一分程度では情状酌量の材料にならないらしい。
「昨日より一分早いんですよ!」
「昨日が遅刻だったんだよ!」
「成長を評価して!」
「三十秒以内に手を洗ったらね!」
「無茶!」
「二十九」
「数え始めた!?」
ネルは本気だった。
慌てて水桶のところまで走り、石鹸に似た灰色の洗浄剤を取る。手のひらを擦り合わせ、指の間まで洗ったところで、背中から無慈悲な数字が飛んできた。
「十七!」
「待って、ネルさん数えるの速くない!?」
「十四!」
「絶対速い!」
「十一!」
「はい洗った!」
「爪!」
「厳しい!」
昨日、遺物を扱う前には手を洗えと何度も言われた。汗や油分が反応する品もあるし、単純に鑑定の邪魔になることもあるらしい。笑い話ではなく、本当に危険に直結する作法なのだ。
だから爪の間まできっちり洗う。
「三!」
「終わり!」
「二」
「終わったって!」
「一」
「終わった!」
「よし」
許可が下りた瞬間、俺は水桶の前で大きく息を吐いた。
「……朝から心臓に悪い」
「遺物の前で汚い手を出す方が悪い」
「正論なのが腹立つ」
ネルはいつものように片目に掛けた単眼鏡を上げた。年齢の割に背筋は真っ直ぐで、細身の身体からは想像できないくらい動作が速い。少なくとも俺よりはずっと速い。
「で」
「はい」
「昨日、棚を見過ぎたね」
「すみません」
「仕事も止まった」
「すみません」
「灰色円盤を三回見た」
「数えてたの!?」
「仕事場だからね」
「……はい」
昨日の俺は確かに、遺物の棚を見るたびに足を止めていた。
原作で見ていた「遺物」という言葉が、現実の棚の中に並んでいる。それだけでいちいち心臓が跳ねたのだ。値札も、鑑定札も、欠けた金属片も、何もかもが俺にとっては異世界そのものだった。
「だから今日は」
ネルが店の奥を顎で示す。
「好きなだけ見な」
「え」
「ただし」
「ただし?」
「ゴミだけ」
「……ゴミ?」
◆
案内されたのは、倉庫の一番奥だった。
昨日までは荷物を運ぶ時に入口だけ見えていた区画で、他の棚より明らかに扱いが雑だった。木箱には埃が積もり、紐で括られた布袋は壁際に押し込まれている。棚の上には欠けた金属片、棒、石、布、用途の分からない小さな器具が、分類されているような、されていないような状態で並んでいた。
ぱっと見ただけなら、古道具屋の処分品置き場だ。
だが、その中のいくつかは確かにアビスから持ち帰られたものだった。
「うわ……」
「喜ぶ顔じゃないよ」
「いや、でも……」
俺は思わず棚へ近づいた。
原作では、遺物は「発見しただけで人生が変わるもの」という印象が強かった。白笛たちが使う強力な装備や、常識をひっくり返すような不可思議な品々。俺の中で遺物という言葉は、ずっと特別なものと結びついていた。
その遺物が、ここでは埃をかぶって山になっている。
「これ、全部遺物なんですか?」
「全部じゃない」
「また石ころ混ざってる?」
「混ざってる」
「何で?」
「持ち込んだ本人が遺物だと言い張った」
「鑑定したら違った?」
「ただの石」
「捨てないんです?」
「深いところから上がってきた石は、石で欲しがる奴もいる」
「じゃあゴミじゃないじゃん」
「三年売れ残った」
「……ゴミだった」
異世界にも在庫処分は存在するらしい。
ネルが足元の木箱を軽く押した。
「今日の仕事は、この区画の整理。札を読んで品と合わせる。危険印がある物には勝手に触らない。売れる棚に戻すもの、保管するもの、処分待ちを分ける」
「処分待ち……」
「場所はタダじゃないからね」
「遺物、捨てるんですか?」
思ったより大きな声が出た。
ネルが俺を見て、少しだけ眉を上げる。
「捨てるよ」
「もったいない!」
「じゃあ、あんたが全部買うかい?」
「……値段による」
「昨日より現実的になったね」
「生活を覚えたんで」
「いいことだ」
でも、簡単には納得できなかった。
目の前にあるのはアビスから持ち帰られたものだ。誰かが命を賭けて見つけたかもしれない。知られていない機能があるかもしれない。
そんなものを、使えないからと捨てる。
「勘違いするんじゃないよ」
「え?」
「値がつかないのと、安全なのは別だ」
ネルは俺の表情を読んだらしい。杖の先で木箱の蓋を軽く叩きながら、少し声を低くした。
「使い道がないからここに置かれてるだけ。力がないとは限らない。ゴミみたいな遺物で指をなくした奴もいる」
「怖っ」
「用途が分からない。安い。重い。壊れやすい。だからといって、弱いとは限らない」
その言い方が、妙に引っかかった。
弱いとは限らない。
価値がないとも限らない。
ただ、今は使い方が分からない。
「それから」
「まだある?」
「舐めるな」
「舐めない!」
「振るな」
「振らない!」
「火に入れるな」
「入れない!」
「噛むな」
「誰が噛むの!?」
「いた」
「また過去の犠牲者!」
「歯が二本欠けた」
「それ遺物関係ある!?」
「硬かったんだろ」
「ただの自業自得じゃん!」
ネルが鼻で笑う。
「騒げるなら元気だね。始めな」
「はい!」
◆
最初に手に取ったのは、昨日から気になっていた灰色の円盤だった。
手のひらほどの大きさで、厚さは指一本分もない。表面にはほとんど模様がなく、ただの金属板にしか見えない。ところどころ細かな傷があり、少なくとも新品には見えなかった。
「昨日のやつ」
「覚えてたのかい」
「三回見たらそりゃ」
「仕事止めてね」
「そこは忘れてください」
鑑定札を読む。
昨日よりはずっと楽だ。
「接触……温度……上昇……」
「声に出して読みな」
「発動条件、皮膚接触。持続……二十秒?」
「そう」
「短っ!」
「だからここにある」
「いや、でも二十秒でも使い道――」
「まず試す」
「はい」
ネルの許可を取って、布越しに円盤を持ち上げる。
「直接触るなら指二本」
「慎重ですね」
「昨日触った時と、今日同じ反応をする保証はない」
その言葉に、軽口が止まった。
遺物。
同じ品だからといって、人間の道具みたいに完全に安定しているとは限らない。
人差し指と中指だけで触れる。
最初は冷たかった。
一秒、二秒。
数える間に、じわりと温度が上がる。
「あ」
「どう」
「温かい」
「知ってる」
「人肌よりちょっと上くらい」
「昨日の記録と大差なし」
俺はしばらく触れたまま待つ。
十秒。
十五秒。
二十秒近くで熱が抜け始め、すぐに元の冷たい金属へ戻った。
「これ、冬に手を温めるのに」
「二十秒」
「パンを温める」
「二十秒」
「スープ」
「二十秒」
「……」
「役に立つかい?」
「悔しい」
ネルが笑う。
「昨日の顔よりマシだ」
「昨日の顔?」
「世界の宝を見つけたみたいな顔」
「だって遺物ですよ」
「今日は?」
俺は円盤を見下ろす。
昨日なら「触ると温かくなる遺物」としか見なかった。
今は違う。
二十秒。
温度は微弱。
再使用には時間が必要。
円盤自体にもそれなりの重さがある。昨日なら「触ると温かくなる遺物」という一点だけで興奮していたが、今は二十秒という短さも、微弱な温度も、再使用に時間がかかることも同じくらい重要に思えた。
「二十秒しか温かくならない遺物」
「少し賢くなったね」
「夢を壊されたとも言う」
「夢で腹は膨れないよ」
札の最後にある値段を見る。
「……安っ」
「だろ」
「昨日の日当でも買える」
「買うなよ」
「まだ何も言ってない!」
「顔に書いてある」
「この街の人、全員俺の顔読むな!」
◆
二つ目は、黒い紐だった。
長さは俺の腕くらい。見た目は古い革紐に近いが、触ると妙に冷たく、繊維なのか金属なのかもよく分からない。
「これは?」
「水に濡れると縮む」
「おお」
「ほんの少し」
「どのくらい?」
「測りな」
ネルから目盛りの入った板を借りる。単位はまだ完全には理解できていないが、比較するだけなら問題ない。
「四十二」
「端までしっかり」
「はい」
黒い紐の片側だけを水へ浸す。
すぐに変化が起きると思って身構えたが、見た目にはほとんど何も起こらなかった。
「……」
「……」
「動いた?」
「見てなかったのかい」
「瞬きした!」
「もう一回測る」
板へ戻す。
「四十一……と、ちょっと」
「そのくらい」
「一センチない」
「だから売れない」
俺は紐を指でつまみ、軽く引っ張ってみる。
「強度は?」
「弱い」
「どのくらい?」
「切って確かめるかい?」
「やめます」
「正解」
濡れると少し縮み、乾けば元へ戻る。引く力も弱く、単体で見れば本当に微妙な性能だ。それでも、ほんの少しだけ何かを引く必要がある場面や、水をきっかけに自動で別の仕掛けを動かしたい場面なら使えるかもしれない。まだ輪郭すらない考えだったが、頭の隅で小さな歯車が一つ回った気がした。
「使い道……」
「考えるのは仕事終わってから」
「はい」
◆
三つ目。
小さな金属片。
形だけなら、鈴に似ていた。
「鳴らない」
「鈴じゃない?」
「持ち込んだ奴は鈴だと言った」
「鳴らない鈴」
「振ってみな」
「さっき振るなって言った!」
「私が言った時はいい」
「権力!」
恐る恐る振る。
音はない。
耳元で振っても、かすかな金属音すらしなかった。
「……本当に鳴らない」
「ね?」
「何で鈴だと思ったんだろ」
「形じゃないかね」
「じゃあもっと強く――」
「やめな」
「はい」
ネルは顎で床を示した。
「置いてみな」
「床?」
「いいから」
石床へ置く。
ネルが少し離れた場所を杖で軽く叩いた。
こん。
乾いた音。
その瞬間。
「あれ?」
「何」
「今、動いた?」
「さあね」
「もう一回!」
「自分でやりな」
今度は俺が床を軽く叩く。
金属片の端が、ごくわずかに震えた。
「……動いた」
「そうかい」
「音は鳴らない。でも振動に反応する」
「だから?」
「……」
言葉に詰まる。
確かに振動には反応する。だが、それだけだ。警報として使えるほど大きく動くわけでもなければ、音も光も出ない。何かを押し動かすほどの力もなさそうで、現時点では用途を説明しろと言われても何も浮かばなかった。
「ミナト」
「はい」
「仕事」
「……はい」
棚へ戻す。
でも、その小さな金属片は妙に頭に残った。
◆
次は青い布。
見た目は普通の古布だが、触ると少し硬い。
「これは?」
「水を吸う」
「普通」
「普通の布よりよく吸う」
「すごい」
「吐かない」
「……吐かない?」
「乾きにくい」
「どれくらい?」
「濡らして一日待つ?」
「仕事増えそう」
「賢くなった」
鑑定札には吸水量と保持時間が書かれていた。
確かによく水を吸う。
だが、一度濡れると乾きにくい。つまり吸えば吸うほど重くなる。
「掃除には」
「一回使ったら濡れたまま」
「非常用の水確保」
「持ち歩くなら重い」
「……」
確かに使える品ではある。けれど、使い方次第では一度濡れただけで重い荷物になってしまう。便利ではあっても万能ではない。昨日までの俺は「何ができるか」ばかり見ていたのに、今日は自然と「何ができないか」まで考えるようになっていた。
「便利って」
「うん?」
「便利なだけじゃ足りないんですね」
ネルが作業の手を止めた。
「今さら?」
「分かってたつもりだったんです」
「分かってない顔してた」
「ひどい」
「遺物を見ると目が光る」
「好きなんで」
「好きな奴ほど危ないよ」
「……」
「欲しいから、欠点を見なくなる」
その言葉に、胸の奥が少しざらついた。
遺物だけの話に聞こえなかった。
救いたい未来。
変えたい結末。
欲しい結果。
それに夢中になれば、その途中の危険や代償を見なくなる。
今の俺には、まだそんなことを語れるほどの力はない。
でも。
覚えておいた方がいい。
「覚えます」
「何を?」
「欠点から見る」
「そこまで言ってない」
「自分用です」
「なら好きにしな」
◆
昼過ぎ。
「婆さん!」
「誰が婆さんだい!」
「今日も元気」
「帰れ!」
倉庫の入口から、ガンザの声が響いた。
肩に木箱を担いでいる。朝から港で働いて、そのまま配達に回ってきたらしい。
「ミナト、死んでるか?」
「ゴミに囲まれて幸せです」
「終わってんな」
「遺物ですよ!?」
「ゴミだろ」
「言い方!」
ガンザは木箱を床へ下ろし、俺が持っていた灰色円盤を見る。
「何だ、それまだあったのか」
「知ってる?」
「ぬるいやつ」
「どう思う?」
「邪魔」
「即答!」
「荷物に入れるなら、パン一枚増やす」
「円盤とパンを比較するな!」
「深いとこじゃ比べるぞ」
「……」
強い。
その理屈は強すぎる。
アビスでは荷物に限界がある。
持てる重量。
食料。
水。
縄。
薬。
そこへ、二十秒だけ温かくなる円盤を入れる意味。
「じゃあこれ」
黒い紐を見せる。
「濡れると少し縮む」
「弱い」
「これ」
鳴らない鈴。
「振動でちょっと動く」
「だから?」
「……」
言えない。
だから何。
まだ答えがない。
「な?」
「悔しい」
「お前、昨日からその顔多いな」
「どの顔」
「『使えるはずなのに』って顔」
「……そんな顔してる?」
「してる」
ガンザは懐からパンを取り出し、半分にちぎって投げてきた。
慌てて受け取る。
「使えると思うなら使え」
「簡単に言う」
「使えねえならゴミだ」
「ガンザまで」
「でも」
自分の残り半分を口に入れながら、ガンザは笑った。
「使い道が見つかったら、ゴミじゃねえ」
手の中のパンを見る。
「……食え」
「話の流れでパンを遺物みたいに言わないで」
「腹減ってんだろ」
「減ってる」
「なら使える」
「パン最強」
「だろ」
食べる。
うまい。
少なくとも今この瞬間、灰色円盤よりパンの方が圧倒的に価値がある。
それが妙に面白かった。
◆
午後。
倉庫に一人の客が来た。
日焼けした中年の男で、厚手の帽子を被り、指は縄を扱う仕事らしく太く硬かった。
「ネル」
「何だい、ドゥグ」
「安い発熱系、残ってるか」
「何に使う」
「漁具」
「温度は」
「手で触って熱いくらい」
「持続」
「半刻は欲しい」
「ない」
「即答か」
「二十秒なら」
ネルが俺を見る。
「ミナト」
「はい」
「灰色円盤」
「了解」
持っていく。
男は俺から受け取り、指先で触れる。
数秒。
「……ぬるい」
「二十秒です」
「いらん」
「早っ」
思わず言った。
男がこっちを見る。
「兄ちゃん、欲しいなら買うか?」
「俺?」
「顔がそう言ってる」
「また顔!」
ネルが奥で笑う。
「何に使うんだ」
「それを考えてる途中」
「じゃあ要らねえだろ」
「……」
「用途決まってから買え。荷物に入れるだけなら石と一緒だ」
「商売人が買うなって言うんですか」
「俺は客だ」
「そうだった」
ドゥグは別の商品をいくつか見たが、結局何も買わずに帰った。
扉が閉まる。
俺はまだ灰色円盤を持っていた。
「……」
「何だい」
「今の人、遺物を漁具に使うんですね」
「使えるならね」
「冒険じゃなく」
「遺物は探窟家のおもちゃじゃないよ」
その一言で、少し視界が広がった。
原作で見る遺物は、どうしても冒険や戦闘と結びついていた。
でもオースは、アビスの上にある街だ。
ここでは遺物は、調理にも、漁にも、仕事にも使われる。
強い弱いだけではない。
役に立つかどうか。
「用途決まってから買え、か」
「正論だろ」
「正論です」
「買うつもりだったのかい」
「……ちょっと」
「いくら持ってる」
「聞かないで」
「やめときな」
「はい」
◆
夕方。
整理作業も残り一箱になった。
「ネルさん」
「何」
「処分待ちって、最後どうするんです?」
「物による」
「壊す?」
「壊せるなら」
「危険なものは?」
「専門に回す」
「じゃあ、使えるかどうか試したりは?」
「試す金は誰が出す」
「……」
また金の話だった。研究には人も時間も場所も必要で、試せば品を失うこともあれば、場合によっては人が怪我をする。知りたいという気持ちだけでは、実際の検証は回らない。
「知りたいだけじゃ」
「足りないね」
「はい」
「だから」
ネルが何枚かの鑑定札を俺へ投げる。
「記録する」
「記録?」
「今日、ゴミの札を読んだろ」
「はい」
「誰かが試したんだよ」
ネルは一枚を指で叩いた。
「触った。濡らした。温めた。冷やした。落とした。叩いた。時間を測った。壊れた。壊れなかった」
俺は札を見る。
そこには簡単な項目が並んでいる。
発動条件。
持続時間。
再使用までの間隔。
既知の危険。
重量。
「その結果がここに残ってる」
「……」
「今のあんたは、考えるより先に、人が払った失敗を読め」
静かな言い方だった。
なのに、今日一番強く残った。
「それが一番安い」
「情報」
「そう」
灰色円盤。
接触。
発熱。
二十秒。
再使用。
黒い紐。
水分。
収縮。
乾燥で復元。
鳴らない鈴。
振動。
反応。
音なし。
青い布。
吸水。
保持。
乾きにくい。
「……全部」
「何」
「性能だけじゃなくて、条件が書いてある」
「当たり前だろ」
「発動条件。持続。戻るかどうか。壊れるか」
「だから?」
「……いや」
いくつかの性質が頭の中で繋がりそうな感覚はあったが、まだ使い道と呼べるほどの形にはならない。それでも構わないと思えた。分からないものを、無理に分かったことにせず記録して残しておく。それも一つの前進だった。
「ノート」
「は?」
「俺も書いていいですか」
「仕事終わってから」
「はい!」
◆
仕事が終わったあと。
倉庫の隅を借りた。
紙。
筆記具。
俺。
ネル。
「何だい、それ」
「ゴミ帳」
「名前ひどいね」
「ネルさんがゴミって言った!」
「私は棚の呼び方を言っただけだよ」
「じゃあ……低価値遺物記録」
「長い」
「ゴミ帳」
「戻った」
一ページ目。
『灰色円盤』
その下へ項目を書く。
『発動条件:皮膚接触』
『出力:微弱発熱』
『持続:約二十秒』
『再使用:一定時間必要』
『重量:携帯するにはやや重い』
『価格:安い』
『既知の危険:不明』
最後に。
『用途:不明』
ネルが横から覗く。
「危険、不明?」
「安全だって確認してないから」
「へえ」
「何です?」
「少しは学んだ」
「褒めた?」
「今日はね」
「やった」
二つ目。
『黒い紐』
『発動:水分』
『作用:微弱収縮』
『復元:乾燥』
『強度:低い』
『用途:不明』
三つ目。
『鳴らない鈴(仮)』
「勝手に名前つけるな」
「正式名称ある?」
「ない」
「じゃあいいじゃん」
「好きにしな」
『反応条件:振動?』
『作用:微振動』
『音:なし』
『用途:不明』
四つ。
五つ。
書いていく。
書き進めるほど、「不明」という文字ばかりが増えていった。分からないことの多さが、そのままこの棚の正体なのかもしれない。
「……不明ばっかり」
「そりゃゴミ棚だからね」
「夢がない」
「夢を書きたいなら日記にしな」
「これも半分日記みたいなもんです」
ネルが、ほんの少し笑った。
◆
帰り道。
「お兄ちゃん!」
「今日は魚買わない!」
「毎回それ言うのやめて!」
ポロだった。
港の掲示板近くで、いつものようにぶらぶらしている。
「今日何してた?」
「ゴミ見てた」
「楽しかった?」
「めちゃくちゃ」
「変」
「自覚ある」
市場の横を歩く。
焼いた魚。
肉。
パン。
今日一日、ずっと遺物を見ていたせいか、食べ物が妙に現実的に見える。
「ねえ」
「何?」
「昨日言ってたぬるいやつ」
「灰色円盤」
「買った?」
「買ってない」
「欲しがってたじゃん」
「用途決まってないから」
「大人になった?」
「なった」
「昨日から?」
「一日で」
「安い大人」
「十九年かかってる!」
ポロが笑う。
「何に使えるかな」
「それ」
「うん」
「今日ずっと考えてた」
「分かった?」
「分からない」
「じゃあゴミ?」
足が少し止まる。
今日。
何度も聞いた言葉。
今日一日で何度も聞いた言葉が頭に浮かんだ。ゴミ、使えない、価値がない。どれも同じ意味のように聞こえていたのに、今は少し違って見える。
「たぶん」
「たぶん?」
「今の俺には」
「今の?」
「使い道が分からないから、今はゴミ」
「ふーん」
「でも」
言葉を探す。
「ゴミって、物の名前じゃないのかも」
「何それ」
「俺にも分からない」
「また遠い顔」
「出た!」
「みんな言う?」
「全員!」
◆
宿へ戻った。
「ただいま」
「おかえり」
ミーナは受付で帳簿をつけている。
「今日も遺物?」
「今日はゴミ」
「何?」
「遺物のゴミ」
「楽しそうね」
「めちゃくちゃ」
「変ね」
「今日二回目!」
部屋に戻る。
財布を開く。
今日の日当。
宿代。
食費。
少し残る。
灰色円盤。
買える。
余裕があるわけではない。
ただ、買うことだけはできる。
「……買わない」
自分に言い聞かせる。
「用途決まるまで」
昨日までの俺なら買った。
たぶん。
だって遺物だから。
持っているだけで嬉しい。
でも、それは装備じゃない。
ただのコレクションだ。
俺は遺物収集家になりたいわけじゃない。
いつかアビスへ潜る。
そのためには、持てる量に限界がある。
何かを救うなら、なおさらだ。
何でも持っていけるわけではない以上、いつかは必要なものだけを選ばなければならない。その時に「珍しいから」「遺物だから」だけで荷物を決めたら、きっと後悔する。俺は机の上でゴミ帳を開いた。
一番下に、新しい一文を書く。
『強い/弱い、ではなく、何をすると何が起きるか』
少し考える。
もう一行。
『価値がない、ではなく、使い道が分からない』
「……かっこつけすぎ」
一度線を引く。
書き直す。
『使えない、は、誰にとって?』
今度は残した。
◆
翌朝。
「今日はゴミ棚じゃないよ」
「えー」
「残念そうにするな!」
「楽しかったのに」
「仕事は遊びじゃない」
「分かってます」
「本当に?」
「七割」
「帰れ」
「十割!」
「最初から言いな」
ネルが新しい箱を出してくる。
「今日は三棚目」
「はい」
「昨日の札、覚えてるね?」
「だいたい」
「じゃあ確認」
「試験?」
「働きたいんだろ」
「はい!」
一つずつ。
遺物。
札。
持つ。
置く。
読む。
「これは?」
「接触発熱。短時間」
「これは」
「吸水。乾燥が遅い」
「これは」
黒い紐。
「水で縮む」
「よし」
次。
小さい金属片。
昨日の。
鳴らない鈴。
「……」
「何してる」
「これ」
「ゴミ棚へ」
「はい」
持って歩く。
その時。
倉庫の外を荷車が通った。
石畳の段差を越えたのか、がたん、と大きな振動が床へ伝わる。
手の中の金属片が、ほんのわずかに震えた。
「……」
俺は立ち止まった。
「ミナト!」
「はい!」
「また遠い顔するな!」
「今行きます!」
棚へ戻す。
棚へ戻してしまえば、それで終わりだった。音も出ず、光もせず、力も弱い。今のところはゴミ棚に置かれるのが妥当な品だ。それでも、仕事が終わる頃には、さっきの小さな反応がどうしても頭から離れなかった。俺はゴミ帳を開いた。
『鳴らない鈴(仮)』
昨日は最後にこう書いた。
『用途:不明』
その横へ。
小さく。
『床振動への反応あり。要再確認』
そう書き足した。あの金属片は、今のところまだゴミだ。それでも、少なくとも一度は確かめる価値がある。捨てるのは、その後でも遅くない。
【机の上にある、捨てられないもの】
芯の出なくなったシャープペン。
いつのものか分からないレシート。
片方だけのクリップ。
何に使うつもりだったのか忘れた小さなネジ。
こうして並べると、本当に要らないものばかりです。
でも、いざ捨てようとすると、
「いや、もしかしたら使うかも」
が始まるんですよね。
第八話を書いていて、ずっとそんな気分でした。
たぶん湊は、物を捨てられないタイプになっていきます。
ただし、何でも持ち歩いたらアビスでは重さで死ぬので、そのうち嫌でも選ばされます。
「使えるかもしれない」と
「持っていく価値がある」は別。
この差が、あとでかなり効いてくる気がしています。
ちなみに自分の机の片方だけのクリップは、今も捨てられていません。
第八話、ありがとうございました。