奈落の悲劇を踏み越えて   作:まねきまねき

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【探窟家志望届・下書き】
氏名:湊
年齢:十九
文字:勉強中
体力:たぶん普通
探窟経験:ゼロ
特技:荷運び、スマホを節電すること
志望理由:――まだ空欄
本人いわく、
「こういう紙、志望理由が一番困るんですよね」
異世界に来ても履歴書みたいなものからは逃げられないらしいです。
第九話。
今回は、鈴が鳴ります。


鈴

 その朝、港へ着いた俺は、仕事を始める前にガンザから妙なことを言われた。

「ミナト。昨日の二人、帰ってきたぞ」

「昨日の二人?」

「ハイルとセナ」

 一瞬、誰のことか分からなかった。

 それから、数日前に二層へ向かった赤笛二人組の顔が浮かぶ。

「……帰ってきた?」

「ああ」

 胸の奥に溜まっていたものが、思った以上の勢いで抜けた。

「よかった……」

「お前、そんな心配してたのか」

「名前聞いちゃったから」

「やっぱ面倒な性格してんな」

「最近それ、褒め言葉だと思うことにしてます」

「誰も褒めてねえ」

 ガンザは呆れた顔で笑い、顎で倉庫の裏を示した。

「気になるならいるぞ」

「え?」

「診療所行く前に荷物取りに来た。セナが足やってる」

「怪我してるじゃん!」

「生きて帰っただろ」

「比較対象が重い!」

 慌てて倉庫裏へ回る。

 木箱に腰掛けていたハイルが、俺を見るなり片手を上げた。

「お。荷運びの兄ちゃん」

「ミナトです!」

「覚えてるよ」

「じゃあ名前で呼んで!」

「元気だなあ」

 その隣ではセナが脚を伸ばしていた。足首から脛にかけて布が巻かれ、添え木まで当てられている。

「大丈夫なんですか?」

「見た目ほどじゃないよ」

「添え木ついてる人の台詞じゃない」

「骨は無事。ひどく捻っただけ」

「十分ひどい」

 セナは苦笑した。

「帰るのが一日遅れたから、心配された?」

「ちょっと」

「ちょっと?」

「かなり」

「知り合って五分くらいだったよね」

「名前聞いたら知り合いです」

「面倒な人だ」

「三人目!」

 ハイルが吹き出した。

「何があったんです?」

「道選びを失敗した」

 さっきまで笑っていたハイルが、あっさりと言った。

「失敗?」

「雨で崩れてた。迂回した先でセナが足を取られて、そのまま斜面を滑った」

「それで?」

「二人で一泊増やした。無理して上がるより、止まった方がいいって判断した」

「食料減らしてたって言ってませんでした?」

 出発前の会話を思い出した。

 ハイルが少し気まずそうに目を逸らす。

「……減らしてた」

「おい」

「だから反省してんだよ」

 セナが横から笑う。

「こいつ、出発前に『一泊だけだから平気』って」

「お前も賛成しただろ」

「私は予備食持ってたもん」

「聞いてねえぞ!」

「聞かれなかったから」

「夫婦喧嘩なら他でやって!」

「夫婦じゃない!」

 二人の声が綺麗に重なった。

 元気そうだ。

 そのことに、また少し安心する。

「でも」

 セナが包帯の巻かれた足を見る。

「予備がなかったら、たぶん笑って帰って来られなかった」

「……」

「一日分なんて重いだけって思う時もあるけどね」

「重さと安全」

「そう」

 ガンザが後ろから口を挟む。

「聞いたか、ミナト」

「聞いてます」

「こいつらみたいになるなよ」

「俺たち教材扱い?」

「生きて帰った失敗例はいい教材だ」

「言い方!」

 でも、その言葉は妙に納得できた。

 死んだ人の失敗は、本人から聞けない。

 こうやって笑いながら話せる失敗には、それだけで価値がある。

「ハイルさん」

「ん?」

「それでも、また潜るんですか」

「潜るよ」

 早かった。

 迷いがない。

「怖くない?」

「怖い」

「じゃあ何で」

「仕事だから」

「夢がないなあ」

「夢で宿代払えんの?」

「最近それ系の正論に弱いんですよ」

「あと」

 ハイルは少し笑った。

「好きだからな」

「……アビスが?」

「潜るのが」

 その言葉を聞いて。

 リコの顔が浮かんだ。

 怖いのと行きたいのは別です。

「そういう人、多いんですね」

「この街で探窟家やってる奴に聞くなよ」

「確かに」

 セナが俺を見る。

「ミナトは?」

「俺?」

「探窟家になるの?」

 答えるまで。

 ほんの少し間があった。

「……なる」

 口に出した。

 思っていたより普通の声だった。

「たぶん」

「最後で弱くなった」

「まだ手続きもしてないんで!」

「なら早く行けば?」

「どこに?」

 三人が黙った。

「え」

「お前」

 ガンザが額を押さえる。

「探窟家になるって決めたのに、どこで手続きするか知らねえの?」

「今決めたから!」

「順番が雑!」

「決意ってそういうもんじゃない!?」

「普通は調べてから決める!」

「異世界三日目くらいまで無一文だった人間に計画性求めないで!」

「イセカイ?」

「あ」

 ハイル。

 セナ。

 ガンザ。

 三人が俺を見る。

「遠い土地の言い回しです」

「またそれか」

「便利なんです」

     ◆

 午前の仕事を終えたあと。

 ガンザに教えられた場所へ向かった。

 探窟家組合、と俺の中では呼んでいるが、実際の名称を日本語へぴったり訳せる自信はない。探窟許可、笛の登録、遺物の持ち込み、遭難記録。そういうものをまとめて扱う場所らしい。

 建物は想像より地味だった。

「もっとこう、冒険者ギルド! って感じじゃないんだ」

「何を期待してるんです?」

「うわっ」

 横から声がした。

 窓口の向こうに、眠そうな女性が座っている。三十代くらい。短い黒髪。机には紙の束が山になっていた。

「受付はこっちです」

「心読まれた?」

「声に出てました」

「最悪」

「ご用件は?」

「探窟家になりたいです」

 言う。

 やっぱり変な感じがする。

 女性は俺を上から下まで見た。

「年齢は?」

「十九」

「経験」

「ゼロ」

「所属」

「ないです」

「読み書き」

「……勉強中」

「帰ります?」

「待って!」

 あまりに自然に言うので、本当に追い返されるかと思った。

「冗談です」

「顔が本気だった!」

「半分は本気です」

「半分も!?」

「文字が読めないと、かなり困りますよ」

「分かってます」

「本当に?」

「倉庫で札読んでます」

「どこの?」

「ネルさんの」

 女性の目が少し変わった。

「ああ。あそこ」

「知ってる?」

「知らない探窟関係者の方が少ないです」

「ネルさん何者?」

「本人に聞いてください」

「絶対教えてくれないやつだ」

 女性は一枚の紙を出した。

「まずこれ」

「……」

 文字。

 いっぱい。

「読めるところだけでいいです」

「優しい」

「読めないところは私が書きます。有料で」

「有料!?」

「仕事なので」

「急に世知辛い!」

「探窟家になるんでしょう?」

「はい」

「では、自分の名前」

「書けます」

「年齢」

「数字なら!」

「出身」

「……」

「どうしました?」

「遠い土地」

「国名は?」

「日本」

「ニホン」

「はい」

「場所は?」

「めちゃくちゃ遠い」

「方角」

「……分かりません」

 ペンが止まった。

「船?」

「違います」

「徒歩?」

「違います」

「では?」

「気づいたらオースにいました」

 女性が俺を見る。

「あなた、あの人?」

「どの人?」

「記憶のおかしい外国人」

「もう肩書きになってる!?」

「港で倒れてた」

「はい」

「知らない紙のお金を持ってた」

「はい」

「孤児院の近くで不審者になった」

「そこまで!?」

「街は狭いですよ」

「もう引っ越したい」

「アビスから?」

「無理か」

 女性は小さく笑った。

「名前は?」

「湊」

「私はエイダ」

「よろしくお願いします」

「ではミナトさん。志望理由」

「……」

 来た。

 嫌な欄。

「何で探窟家になりたいんですか?」

「その質問、絶対あります?」

「あります」

「もっとこう、『夢は?』とか」

「同じです」

「ですよね」

 答え。

 アビスの深い場所にいる誰かへ届くため。

 ナナチ。

 ミーティ。

 その先。

 でも言えない。

「……行かなきゃいけない場所があるから」

「どこです?」

「まだ言えません」

「決まってない?」

「決まってるけど、今の俺じゃ行けない」

 エイダは少しだけ黙った。

「深い?」

「たぶん」

「赤笛で行ける範囲?」

「……もっと」

「では、まず赤笛になってから考えてください」

「現実的」

「今のあなたは」

 エイダが机の下へ手を伸ばした。

「これです」

 ちゃり。

 小さな音。

 机の上に置かれたものを見て。

 俺は固まった。

「……鈴?」

「鈴」

 黄色い紐。

 小さな金属の鈴。

「え」

「鈴付きです」

「十九歳で?」

「年齢は関係ありません」

「見た目が!」

「似合いますよ」

「絶対笑ってる!」

「仕事中です」

「口元!」

 エイダは真顔に戻ろうとして失敗した。

「嫌ならやめます?」

「やります!」

「即答」

「やりますけど!」

 鈴を持ち上げる。

 ちゃり。

 軽い。

 普通の鈴。

 第八話の鳴らない金属片とは違う。

 こっちは。

 よく鳴る。

 すごく。

「……目立つ」

「そのためのものでもあります」

「これ付けて街歩くの?」

「講習中は」

「十九歳が?」

「そこ、ずっと気にしますね」

「気にするよ!」

「鈴付きは探窟家の卵です。まだアビスへ潜る資格はありません」

 少し。

 空気が変わった。

「潜れない」

「はい。まず学ぶ」

 エイダの声は淡々としていた。

「地図。装備。縄。採取。帰還手順。上昇負荷。応急処置。危険生物。遺物の扱い。まだあります」

「多い」

「死にたくないなら少ないくらいです」

 俺は鈴を見る。

 ちゃり。

「最初から潜れると思ってました?」

「……ちょっと」

「やめてください」

「そんな真顔で!?」

「本当に」

 エイダは俺を見る。

「アビスは、知らない人から順番に殺す場所ではありません」

「え?」

「知っているつもりの人も死にます」

 その言葉で。

 笑いが止まった。

 俺。

 それ。

 まさに。

「……はい」

「だから学んでください」

「はい」

「返事はいいですね」

「そこだけは」

「文字も同じくらい頑張りましょう」

「急に刺す」

     ◆

 講習は、その日の午後からだった。

 早い。

「心の準備が」

「アビスは待ってくれません」

「その言葉この街で便利に使われすぎじゃない?」

「私もそう思います」

「思うんだ」

 訓練場所は建物の裏手にある広場だった。地面には杭と縄、古い木箱が並び、奥には斜面を模した木組みがある。壁には大きな地図まで掛けられていて、その端には妙に傷だらけの人形が転がっていた。

 嫌な予感がする。

「何です、あれ」

「救助訓練用」

「顔が怖い」

「落とされすぎてます」

「人形にも人生あるな……」

「ありません」

「冷たい!」

 教えるのはエイダではなかった。

 月笛を下げた女が一人。

 背は俺より少し低い。

 短く切った赤茶色の髪。

 腕。

 太い。

「新人?」

「はい」

 低い声。

 怖い。

「名前」

「湊です」

「声小さい」

「湊です!」

「うるさい」

「どうしろと!?」

 女が笑った。

「ノア。今日は私が見る」

「よろしくお願いします」

「十九?」

「はい」

「鈴付き?」

「そこ笑わないで!」

「まだ笑ってない」

「顔!」

「よく言われる?」

「最近ずっと!」

 ノアは俺の胸元を指す。

「鈴、つけろ」

「今?」

「今」

「ここだけじゃなく?」

「講習中は」

 渋々。

 首から。

 ちゃり。

「……」

 歩く。

 ちゃり。

 止まる。

「うるさっ」

「そのうち慣れる」

「本当に?」

「私は三日で嫌いになった」

「慣れてないじゃん!」

「赤笛取る理由が一個増える」

「そんな動機あり!?」

「生き延びる理由なんて何個あってもいい」

 さらっと。

 言う。

 この街。

 こういうこと。

 急に言う人多い。

「まず縄」

「はい」

 縄。

 太さ違い。

 三種類。

「結べる?」

「靴紐なら」

「帰れ」

「早い!」

「冗談」

「エイダさんと同じ系統だ!」

「誰?」

「受付」

「あいつは冗談下手」

「仲悪い?」

「妹」

「姉妹!?」

「嘘」

「もう何も信じない!」

 ノアが腹を抱えて笑う。

「お前面白いな」

「俺は真剣です!」

「真剣な奴ほど力抜け」

 一本の縄を手渡される。

「これは荷物を固定する結び」

 ノアが手本を見せた。

 速い。

「待って」

「見てろ」

「速い!」

「もう一回」

「もっとゆっくり!」

「これ以上遅いと日が暮れる」

「初心者!」

「はい」

 少し。

 遅く。

 見る。

 一周させて、端を通し、折ってから引く。手順自体は単純に見えた。

「……」

「やれ」

「え」

「やれ」

「今ので?」

「今ので」

「教育がスパルタ!」

 やる。

 一周。

「違う」

「まだ一周!」

「向き」

「そこから!?」

 やり直す。

 通す。

「違う」

「今度は何!?」

「手」

「手?」

「指挟む」

「怖っ」

「荷が滑ったら持ってかれる」

「先に言って!」

「今言った」

 何度もやり直した。五回、六回、七回。指がようやく動きを覚え始めたところで、恐る恐る顔を上げる。

「……できた?」

「緩い」

「厳しい」

「荷物なら落ちる」

「もっと厳しい!」

「アビスは採点甘くない」

「先生みたいなこと言う!」

「先生だ」

「そうだった」

 もう一回。

 今度は。

「……よし」

「できた?」

「最低限」

「やった!」

 ちゃり。

 跳ねた鈴が鳴る。

「うるさい!」

「自分のだろ」

     ◆

 縄の次。

 荷物。

「これ背負え」

「重っ!」

「まだ軽い」

「嘘!」

「水なし」

「じゃあ水入ったら!?」

「重くなる」

「知ってる!」

 背負子。

 荷袋。

 腰。

 肩。

 紐。

 昨日まで港で箱を運んでいたから、重い物自体には少し慣れた。

 でも、背負って長く歩くのは別だ。

「重さは上じゃなく腰へ逃がす」

「こう?」

「違う。貸せ」

 ぐい。

「うわ」

 紐。

 締め直す。

「……軽くなった」

「同じ重さだ」

「でも違う」

「持ち方で死ぬまでの距離が変わる」

「表現が怖い」

「怖がれ」

 ノアは荷袋を開いた。

「中身確認」

「水。縄。布。薬っぽいの。火をつけるやつ。食料」

「っぽいで済ませるな」

「字が!」

「読む」

「ここでも!」

「当然」

 瓶の札。

「……止血?」

「違う」

「毒?」

「違う」

「飲み水?」

「飲んだら吐く」

「怖っ!」

「洗浄用」

「字、似てる!」

「似てない」

「ミーナにも言われる!」

「ならお前が悪い」

「世界が俺に厳しい!」

 ノアが笑う。

「これ」

 別の札。

「危険」

「それは読める」

「何の危険」

「……」

「読めない?」

「はい」

「じゃあ持っていけない」

「え」

「意味が分からない道具を荷物に入れるな」

 ネル。

 用途決まってから買え。

 同じ。

「遺物でも?」

「特に」

「……はい」

「今の返事は良かった」

「倉庫で怒られてるんで」

「ネル?」

「知ってる?」

「怖い婆さん」

「同じこと言ったら殺されるよ」

「俺はもう怒鳴られた」

「生きてるなら気に入られてる」

「基準おかしくない?」

「オースだぞ」

「便利な言葉だなあ!」

     ◆

「休憩!」

「やった!」

 地面へ腰を下ろすと、胸元の鈴がまた小さく鳴った。もう聞き慣れてもよさそうなのに、妙に耳につく。

「これ本当に取れない?」

「赤笛になれ」

「最速で何日?」

「その質問する奴は遅くなる」

「何で!?」

「急ぐから」

「……」

 言われた。

 ガンザにも。

 ミーナにも。

「みんな同じこと言う」

「みんな見てきたからだろ」

「何を」

「急いだ新人」

 ノアは水を飲む。

「下へ行きたい理由が強い奴ほど、最初は危ない」

「……」

「恋人がいる。親がいる。仲間を探したい。金が欲しい。名を上げたい」

「いろいろ」

「理由があるのはいい」

「でも?」

「理由は足を速くする。速すぎると、足元を見なくなる」

 アビス。

 五年。

 ナナチ。

 ミーティ。

「……俺も」

「何」

「急いでる顔してる?」

「してる」

「また顔」

「分かりやすい」

「嫌だなあ」

「なら隠せるようになれ」

「そこ?」

「深いところじゃ、弱ってる顔を見せる相手も選ぶ」

「原生生物?」

「人間も」

「……」

 ノア。

 月笛。

 この人も。

 何か。

 見てきた。

「先生」

「先生やめろ」

「ノアさん」

「何」

「月笛って四層まで行けるんですよね」

「行ける」

「四層」

「行きたい?」

 すぐには答えなかった。

「……いつか」

「ならまず」

 ノアが俺の鈴を指で弾く。

 ちりん。

「これを外せ」

「はい」

「次に赤」

「はい」

「その次の話は、その時しろ」

「……はい」

 正しい。

 嫌になるほど。

 正しい。

 今の俺は。

 四層を語る前に。

 縄。

 文字。

 水。

 鈴付き。

「遠いな」

「何が」

「行きたい場所」

「だから歩くんだろ」

「……」

 また。

 さらっと。

 いいこと言う。

「ノアさん、たまに格好いいですね」

「たまに?」

「普段が」

「休憩終わり」

「怒った!」

     ◆

 午後の後半は地図だった。

 そして俺にとっては、ほとんど地獄だった。

「これは?」

「分岐」

「これは」

「水場」

「これは」

「崩落」

「これは」

「……鳥?」

「毒生物注意」

「何で鳥みたいな形!?」

「似てない」

「また!」

 覚えるものは地図記号だけではない。文字、数字、高低差、方角。地図を読むこと自体は元の世界でも多少やったことがあるが、スマホ任せだったせいで自信はなかった。

 そして最大の問題は、やっぱりこちらの文字だった。

「この道は?」

「進める」

「根拠」

「線が」

「古い地図」

「え」

「崩落記録がここ」

「……読めない」

「なら進めるって判断は?」

「間違い」

「そう」

「嫌な問題!」

「いい問題だろ」

 ノアは地図を指で叩いた。

「地図は絵じゃない。情報だ」

「はい」

「読めない情報は、持ってないのと同じ」

「……」

「明日までにこの記号二十個」

「二十!?」

「文字も」

「何文字?」

「使う分」

「それ何文字!?」

「知らん」

「先生!」

「先生じゃない」

「じゃあ鬼!」

「明日は三十」

「すみませんでした!」

     ◆

 講習が終わるころには、肩も腕も腰も全部痛くなっていた。

 アビスには、まだ一歩も入っていないのに。

「死ぬ……」

「死んでない」

「比喩です」

「下でそれ言うなよ」

「何で?」

「本当に死にかけてる奴と区別つかない」

「……はい」

 言葉。

 そこまで。

 考える。

「最後」

「まだあるの!?」

「鈴」

「付けてる!」

「違う」

 ノアが目を閉じるよう言った。

「え?」

「閉じろ」

「殴らない?」

「今は」

「今は!?」

「早く」

 目を閉じると、当然ながら視界は真っ暗になった。

「歩け」

「どこへ?」

「真っ直ぐ」

「怖い!」

「三歩」

 一歩進むたび、胸元で鈴が鳴る。

 ちゃり。

 二歩目。

 ちゃり。

 三歩目。

 ちゃり。

「止まれ」

 止まる。

「今、自分がどれくらい動いたか分かる?」

「三歩」

「距離」

「……二メートルくらい?」

「一・六」

「全然違う」

「荷物背負ったら歩幅変わる」

「はい」

「斜面ならもっと」

「はい」

「疲れたらもっと」

「はい」

「暗闇で方向を失ったら」

「……」

「だから数える。覚える。音を聞く。壁を触る。自分が今どこにいるか、何をしたか」

 ノアが俺の鈴を鳴らした。

 ちりん。

 目を開く。

「鈴付きの鈴は、可愛い飾りじゃない」

「……はい」

「新人がどこにいるか周りに分からせる。本人にも、自分がまだ新人だと分からせる」

「後半、精神論」

「大事だぞ」

「確かに」

「恥ずかしい?」

「めちゃくちゃ」

「なら覚える」

「ひどい教育法!」

「よくできてるだろ」

 否定。

 できない。

     ◆

 建物を出ると、街はもう夕方の色に変わっていた。坂を一歩下りるだけで、胸元の鈴がちゃり、と鳴る。

「……外す?」

 講習は終わった。

 外していい。

 でも。

 エイダに戻すのは明日でもいいと言われた。

「いや」

 付ける。

 何となく。

 今日だけ。

 自分への罰。

 いや。

 記念。

 違う。

 どっちでもいい。

 ちゃり。

「ミナトさん?」

「……」

 嫌な予感。

 振り向く。

 眼鏡。

「リコ」

「何で鈴付けてるんですか?」

「見れば分かるだろ」

「え」

 リコの目が。

 鈴。

 俺。

 鈴。

 俺。

「……鈴付き?」

「言うな」

「ミナトさん鈴付きなんですか!?」

「声大きい!」

「十九歳なのに!?」

「そこ!!!」

 笑う。

 めちゃくちゃ笑う。

「ちょ、待って、リコ!」

「ご、ごめんなさ……でも……鈴……!」

「君も昔そうだっただろ!」

「私は子供です!」

「今も子供だよ!」

「ミナトさんは大人なのに!」

「大人でも初心者は初心者なの!」

「似合ってます!」

「絶対褒めてない!」

「本当です!」

「笑いながら言うな!」

 道行く人。

 見る。

 恥ずかしい。

「外す!」

「もったいない!」

「何が!?」

「赤笛になったら付けられないですよ」

「二度と付けたくない!」

「じゃあ今だけです」

「……」

 リコ。

 笑う。

「探窟家になるんですね」

「……うん」

「やっぱり!」

「何がやっぱり」

「なる顔してました」

「前も言ってたな、それ」

「はい!」

「顔で人生決められてる」

「一緒に潜れますね!」

「まだ無理!」

「赤笛になったら」

「君と!?」

「嫌なんですか?」

「嫌とかじゃなく!」

 危ない。

 この子と。

 潜る。

 五年後。

 本当なら。

 俺は。

 そこに。

 いる?

「……ミナトさん?」

「何」

「また遠い顔」

「本当にみんな言うなあ!」

 リコが笑う。

 俺も。

 少し。

「明日、何するんです?」

「地図記号二十個覚える」

「少なっ」

「君基準やめて!」

「私もっと覚えました」

「七歳に負けた!」

「あと縄は?」

「一個」

「一個!?」

「その反応やめて!」

「教えましょうか?」

「君に?」

「得意です!」

「……」

 七歳。

 先生。

 十九歳。

 生徒。

「嫌だ」

「何でですか!」

「尊厳!」

「探窟家に尊厳は必要ですか?」

「絶対どっかで変なこと教わってるだろ君!」

     ◆

 宿へ帰ると。

 ミーナ。

 俺を見る。

 鈴を見る。

 俺を見る。

「……」

「笑うなら笑って」

「ふふ」

「耐えないで!」

「ごめん」

「一番傷つく!」

「似合ってるわよ」

「リコにも言われた!」

「じゃあ本当に似合ってる」

「嫌だ!」

 カウンターに突っ伏す。

 ちゃり。

 鈴。

「うるさい!」

「あなたが動くからよ」

「こいつ俺の感情に反応して鳴る!」

「便利ね」

「便利じゃない!」

「で」

 ミーナがスープを置く。

「なったの?」

「鈴付きに」

「探窟家になるのね」

「……うん」

「そう」

 それだけ。

「止めない?」

「止めてほしい?」

「分からない」

「じゃあ止めない」

「軽い」

「決めたんでしょう?」

「今日」

「なら今日は祝う」

「赤笛でもないのに?」

「最初の日は一回しかないから」

「……」

「明日やめたら?」

「笑う?」

「宿代は取る」

「そこは変わらない!」

 スープ。

 飲む。

 うまい。

 今日。

 身体。

 痛い。

 頭も。

 文字。

 地図。

 縄。

 たった一日。

「ミーナ」

「なに」

「俺、アビスのこと結構知ってるつもりだった」

「そうなの?」

「……知ってる話を聞いたことがある、くらい」

「便利な遠い国で?」

「そう」

 笑われる。

「でも」

 鈴を指でつまむ。

「何も知らないな」

「それが分かったなら、今日の授業は高かった?」

「受講料?」

「そう」

「高い」

「現実的」

「でも」

 少し。

 考える。

「払う価値はあった」

「ならよかった」

     ◆

 部屋。

 机。

 ゴミ帳。

 勉強用の紙。

 地図記号。

 文字。

「二十……」

 しんどい。

 でも。

 やる。

 最初の記号。

 水場。

 二つ目。

 崩落。

 三つ目。

 危険生物。

「鳥に見える……」

 見えない。

 らしい。

 覚える。

 その横に。

 第八話から続く。

『鳴らない鈴(仮)』

 ページ。

 開く。

『反応条件:振動?』

『作用:微振動』

『音:なし』

『床振動への反応あり。要再確認』

 胸元にあったのは、今は机に置いた普通の鈴だ。揺らせば、ちりん、と音が出る。当たり前のことなのに、記録した「鳴らない鈴」と比べると、その違いが妙に気になった。

 あちらは振動に反応するのに、音は出ない。

「……」

 一瞬だけ。

 何か。

 考えかける。

 やめた。

「先に地図」

 ノアの「数えろ、覚えろ」という教え。ネルの「人が払った失敗を読め」という言葉。ガンザの「急いで死ぬな」。

 別々の人から聞いたはずなのに、全部が同じところへ繋がっている気がした。

 情報を集める。準備する。「知っているつもり」で済ませない。

 明日もまた、学ぶ。

 俺は紙の端に。

『鈴付き』

 と書いた。

 その下。

『まだ潜れない』

 少し考えて。

『だから、今は覚える』

 書く。

 窓を開けると、夜のオースの音が入ってきた。遠くで誰かの笛が鳴り、港の鐘が響き、その間を風が抜けていく。

 机の上の鈴を手に取って、もう一度だけ鳴らした。

 ちりん。

「……悪くないかも」

 言って。

 すぐ。

「いや、やっぱ恥ずい」

 鈴を外して机へ置く。

 小さな黄色い鈴。探窟家の卵であることを示すそれを手に入れたところで、俺はまだアビスへ一歩も潜れない。

 それでも、昨日までの俺にはなかったものが一つだけ増えた。

 肩書きでも、資格でも、強さでもない。

 明日、何を覚えればいいのか。

 それが分かった。

 今は、それで十分だった。




【今日いちばん好きだった音】
「ちりん」
です。
いや、本人はめちゃくちゃ嫌がっていますが。
十九歳の男に鈴を付ける場面を書きながら、
かなり楽しんでしまいました。
でも、最後まで書くと少し印象が変わりました。
最初はただ恥ずかしい音だったのに、
終盤では「まだ何もできない自分」を忘れないための音になっていた気がします。
強い装備を手に入れた音でもない。
才能が目覚めた音でもない。
ただ、初心者になった音。
この物語では、こういう小さい音をできるだけ拾っていきたいです。
……とはいえ、リコに爆笑された件については普通にかわいそう。
第九話、ありがとうございました。
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