呪霊操術の比名子   作:ちいさな魔女

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比名子、悪夢を断ち切る

獏と贋夢。どちらも夢に関連した怪異であり、現時点でフレディに対抗出来る能力を持つ妖怪だ。その妖怪の目撃情報がとある小学校から『窓』を通じて目撃され、こうして比名子と汐莉で共に小学校へやって来たのだ。伊地知の運転する車で小学校まで来て、降りたあとに小学校の校門前で降りたのだ。

 

因みに、今回は七海は車の中で待機している。万が一の事があれば、彼が帳の中へ入るのだ。

 

伊地知「此方が、目撃情報のあった獏と贋夢の目撃情報があった小学校です。此処では以前から、悪夢を見た生徒が肉体だけでなく精神的におかしくなり始めており、非術師が数名、鳥の姿を近くで目撃。一刻も早い解決が望まれます」

 

比名子「伊地知さん。ありがとうございます」

 

汐莉「さて、早く捕まえに行きましょう」

 

汐莉は早くもやる気である。早くも小学校へ向かって歩みを進めていた。

 

伊地知「あっ!帳(とばり)もまだで、他にも行方不明になっている児童の事も……!」

 

比名子「私が汐莉さんを追い掛けます。伊地知さんは、帳をお願いします」

 

伊地知「あっ、はい。やれやれ、若い方は……」

 

伊地知は比名子達の様子を見届けながら、帳を張る為の詠唱を唱えた後、校舎をグラウンド含めて結界で覆い始めた。

 

 

外から見えなくし、呪いを炙り出す為の結界だ。中から見ると、昼間でも全体的に夜になったように薄暗くなるのだ。

 

そして、帳の中で比名子と汐莉は校舎の中へ入っていく。

 

汐莉「人間の術士もこんなに私達が力を発揮しやすい結界を張れるとは。これも、外部に見られないようにする為ですか?」

 

比名子「そうみたい。帳を張らないと、術士の活動とかを目撃した事で周囲の人達が不安になったら、其処からまた呪いが生まれるから、見えない物は極力秘匿しておく事でパニックや呪いを防ぐんだって」

 

比名子は周りに狼霊を呼び出し、周囲に待機させている。

 

そして、夕暮れのように薄暗くなった校舎の廊下。

 

伊地知が張った『帳』のせいで、外の世界から完全に切り離された学校は、まるで昼夜が反転したかのような独特の静けさに包まれていた。聞こえるのは、比名子のスニーカーの足音と、狼霊たちが床を這う微かな気配だけだ。

 

汐莉「ふふ、静かなものですね。悪夢の怪異なんて、どこに隠れているのやら」

 

汐莉は軽やかな足取りで廊下を進む。その耳と目は、普通の人間には捉えられない微弱な霊的波長をしっかりと捉えていた。

 

比名子「気をつけて、汐莉さん。伊地知さんの話だと、精神がおかしくなった生徒がいるんでしょ? ――『獏』か『贋夢』、あるいはその両方が、すでにこの学校全体に干渉してるかもしれない」

 

比名子は右手に装備した盾の呪具の重みを確かめながら、周囲を警戒する。

 

その時――

 

クーーーーッ……。

 

微かに、風船の空気が抜けるような、あるいは遠くで鳥の羽ばたきのような音が響いた。

 

汐莉「……今のは?」

 

比名子「狼霊が反応してる。……あっちの教室!」

 

比名子が指差した先は、二階の端にある「図書室」だった。

扉の隙間から、まるで夜の闇のように深い影が漏れ出している。普通の生徒なら足を踏み入れるのを躊躇するような、あからさまに異常な気配だ。

 

二人は顔を見合わせると、音を立てずに近づいた。

 

汐莉が右腕の皮膚を微かに変異させ、いつでも敵を両断できる態勢をとる。比名子は一歩前に出て、盾を構えながら手でドアノブに触れ、一気に押し開けた。

 

――ギィィィ……。

 

飛び込んできた光景に、比名子は息を呑んだ。

 

図書室の中は、本棚が異常なまでに歪み、床一面に「黒い砂」のようなものが敷き詰められていた。

 

そして、その中央――散らばった本の山の上に、奇妙な生き物がうずくまっていた。

 

体躯は熊や象のようにも見えるが、頭部は像に似た鼻を持ち、目鼻立ちはどこか愛嬌がありながらも、全身から「ねっとりとした紫色の霧」を放っている。

 

さらに、その影に寄り添うように、人間の顔をぼんやりと模した、輪郭のない不定形の影――『贋夢』の気配が揺らいでいた。

 

獏「……クゥ……」

 

比名子「……あれが、獏……?」

 

比名子が呟いた瞬間、図書室の空気が一変した。

 

獏がふっと鼻を鳴らし、紫色の霧を周囲に広げる。その霧に触れた瞬間、比名子の脳裏に、かつての記憶がフラッシュバックした。

 

――燃え盛る車。血と油の海。そして、家族に向かって泣き叫ぶ比名子自身の声。

 

比名子「っ……!」

 

頭が割れるような眩暈。

 

トラウマの記憶が、霧を通じて強制的に引きずり出される。

 

汐莉「比名子! 幻術の類です、引っ張られないで!」

 

汐莉が鋭い声を上げ、変異させた腕で周囲の霧を切り払った。その冷たい風に正気を取り戻した比名子は、荒い息を整えながら前に踏み出す。

 

比名子「……危なかった。これが、『贋夢』の力……記憶と恐怖に干渉するって、こういうこと……!」

 

獏と贋夢は、侵入者に気づいてゆっくりと立ち上がった。

 

獏は脅すように低い唸り声を上げ、その背後の贋夢は、比名子の恐怖心を映し出すかのように、不気味にぐにゃぐにゃと形を変えていく。

 

汐莉「ふふっ、面白い。私の血を狙う小者よりはずっと見応えがありますね」

 

汐莉が獰猛な笑みを浮かべ、臨戦態勢に入る。

 

比名子「……逃がさない。フレディに対抗するためには、絶対にここで取り込む!」

 

比名子は両手の盾を構え直すと同時に、背後の影から無数の怪異たちを呼び覚ました。

 

薄暗い図書室の中で、戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。

 

――――――――――――――――――――――

 

図書室の中に漂う紫色の霧を切り払い、比名子は怪異たちの正体を冷静に見極める。

 

比名子「『贋夢』……鳥の姿をした夢魔。それと、伝承通りの姿をした『獏』……!」

 

本棚の影から滑り出すように姿を現したのは、人間大の不気味な巨鳥――悪夢の怪異、贋夢だった。その鋭い眼光は比名子を捕らえ、両翼の隙間から骨が変化した禍々しい鎌『真・精神傷痕刃』を蠢かせている。現実世界であっても、魂そのものを切り裂く刃の威圧感は健在だ。

 

そしてその傍らには、象の鼻、熊の胴体、虎の脚を持つ幻獣・獏が、不気味に鼻を鳴らしながら鎮座している。床に垂れた獏の唾液が、図書室の鉄製スチールラックをドロドロと削り溶かしていく。

 

贋夢『ククク……愚かな人間め。我らの領域に足を踏み入れるとはな。その魂、切り刻んで喰らってくれる!』

 

贋夢が翼を広げ、真・精神傷痕刃を振りかざして死角から高速で突進してくる。同時に、獏が巨体を揺らして突撃し、鉄をも噛み砕く太い顎で比名子を噛み殺そうと迫る。

 

比名子「来ます……! ムリカベ!ぱ!」

比名子の呼び声に応じ、前方に歌舞伎顔の巨壁『ムリカベ』と、能天気な顔をした『ぱ』が瞬時に出現する。

 

ムリカベ「ム〜リ〜!!」

 

ドガァァン!

 

獏の凄まじい突進をムリカベが真正面から受け止める。重厚な壁に阻まれた獏が唸り声を上げる隙に、贋夢の『真・精神傷痕刃』が空を切り、比名子へと迫る。しかし、その刃の前に『ぱ』が割り込んだ。

 

ザクッ!

 

魂を切り裂くはずの刃が『ぱ』の身体を深く切り裂く。だが、『ぱ』は鈍い妖怪だ。ダメージの反映が極めて遅いため、攻撃を受けたことすら気づいていないかのように、呑気に口を開けて立っている。

 

贋夢『なに……!? 斬撃が効かぬだと!?』

 

ぱ「ぱ!」

 

その瞬間、ぱの体に斬撃の傷が出来上がる。

 

攻撃の手応えの異常さに贋夢が一瞬の困惑を見せた、その隙を比名子は逃さなかった。

 

比名子「汐莉さん、足止めを! 美津子、水場を作って!」

 

汐莉「任せなさい!」

 

汐莉が両腕を変異させ、新幹線並みの速度で繰り出した爪撃で贋夢の退路を断つ。同時に、河合美津子が床から大量の水を噴出させ、図書室全体を瞬く間に膝下までの水浸しに変えた。

 

比名子「ゴーストシャーク! 磯女!」

 

水面が跳ね上がり、水流を飛び交う青白い『ゴーストシャーク』が猛スピードで獏の四肢へ噛みつく。さらに水底から伸びた磯女の無数の髪が、獏と贋夢の身体をガッチリと巻き上げ、図書室の床へと縫い留めた。

 

獏『グォォォォン!?』

 

贋夢『ぬぐっ……動かん!? 離せ、このバケモノどもが!』

 

身動きを封じられた二体の怪異。比名子は両手の盾を構え直し、静かに前に踏み出した。五条との特訓で培った近接の足さばきで距離を詰めると、盾の角を贋夢の喉元へと叩き込み、完全にその抵抗力を奪い去る。

 

比名子「……これで終わり」

 

比名子は二体に向かって静かに手を伸ばした。

 

階級換算、あるいは弱体化による強制調伏の術式が発動する。

 

もがいていた獏と贋夢の肉体が、黒くドロドロとした呪力の霧へと分解され、比名子の掌の上へと吸い寄せられていく。

やがて霧は収束し、掌の上には二つの黒ずんだ球体――『怪異玉』が転がり出た。

 

汐莉「ふふ、見事な手際ですね。怪異を『道具』として扱う手際だけは、相変わらず一品です♪」

 

比名子「……道具じゃないと、やっていられないよ」

 

比名子は自嘲気味に呟くと、意を決して二つの怪異玉を一つずつ口の中へと放り込み、ゴクンと飲み込んだ。

 

比名子「……っう……ゲホッ……!」

 

喉を通る瞬間、脳裏に焼き付くような感覚と、吐き気を催す味が口一杯に広がる。

 

家族を奪ったあの事故の記憶。燃える車から漂うガソリンの匂い、焼き付いた血の匂い、そして混ざり合う潮風。

 

『血と油の混ざった海水を口に含んだような味』。

 

比名子は膝をつき、激しい吐き気に襲われながらも、必死にそれを胃の奥へと押し込めた。手に入れたのは、悪夢を喰らう『獏』の防衛能力と、夢の世界で魂を切り裂く『贋夢』の攻撃能力。これで、フレディ・クルーガーと戦うための最低限の『駒』は揃った。

 

比名子「ハァ……ハァ……っ……食べた……これで、夢の中でも……戦える……」

 

汐莉「大丈夫ですか、比名子? 相変わらず不味そうな顔をしますね」

 

汐莉が背中を優しく擦りながら、口元を笑わせる。比名子は荒い息を整えながらゆっくりと立ち上がった。

 

比名子「……うん。行こう、汐莉さん。伊地知さんが待ってる」

 

二人が図書室を後にすると、張られていた『帳』が静かに上がっていく。

 

夢の怪異を取り込み、また一つ「ひとでなし」としての力を深めた比名子。しかしその足取りは、遠く離れた街で待つ美胡のもとへ帰るため、確かに前へと向けられていた。

 

汐莉「……比名子」

 

比名子「汐莉さん?」

 

汐莉「今、美胡の事を考えましたか?」

 

比名子「……うん」

 

汐莉「私だけです。今ここに、私が居るんです。私が比名子を護ります。いつか貴女を喰らう為にも」

 

比名子「……分かってるよ」

 

汐莉の嫉妬混じりの言葉を聞きながら、比名子は校舎を出る。帳が上がったお陰で、元の明るい小学校の雰囲気が戻って来た。

 

――――――――――――――――――――――

 

夜、高専の自室。

 

畳の上に横たわる比名子の両手には、特訓で馴染んだ二つの「盾の呪具」がしっかりと握り締められていた。

 

枕元で見守る汐莉が、心配そうにその顔を覗き込む。

 

汐莉「本当に……一人で行くのですか、比名子?」

 

比名子「……うん。『獏』と『贋夢』を取り込んだ今なら、あいつの土俵でも足場を作れる……これ以上、誰かが悪夢で死ぬのを見ているわけにはいかないから」

 

比名子は静かにベッドへ横になり、目を閉じる。

 

意識がゆっくりと、暗く冷たい無の底へと沈んでいった。

 

――――――――――――――――――――――

 

気付くと、比名子はボイラーの重い駆動音と、蒸気の噴出音が響く見覚えのある地下工場に立っていた。

 

鉄錆と燃えさかる炎の熱気、そして血の匂い。

 

『エルム街の悪夢』の支配者――フレディ・クルーガーの夢空間だ。

 

フレディ『ヘヘヘ……待ちくたびれたぜ、お姫様。わざわざ自分から俺様の巣穴に飛び込んでくるとはな!』

 

ボイラーの影から、焼けただれた皮膚に赤と緑のボーダーセーターを着た男――フレディが不気味な笑い声を上げて姿を現す。その右手に装着された4本爪の鉄の爪が、キィキィと金属音を立てて比名子を威嚇した。

 

フレディ『ここでは俺様が神だ! お前の恐怖も、お前の身体も、切り刻んで最高のショーにしてやる!!』

 

フレディが指を鳴らすと、パイプから吹き出した激しい蒸気が鋭い鉄の刃へと姿を変え、四方八方から比名子へ突き刺さろうと押し寄せる。

 

普通の人間なら、この無茶苦茶な夢の法則に恐怖し、一瞬で八つ裂きにされる場面だ。

 

だが、比名子の瞳に焦りはなかった。

 

比名子「……『神』なんて、ずいぶん大層な言い草だね。でも――」

 

比名子は両手の盾を交差させ、背後の影へと意識を向けた。

 

比名子「夢の法則なら、こっちにも書き換える手駒(やり方)がある。『獏』、『贋夢』!」

 

グオオオオオオオン!!

 

比名子の影が大きく跳ね上がり、紫色の霧と共に二体の怪異が姿を現した。

 

象の鼻と熊の胴体を持つ幻獣『獏』が低い唸り声を上げ、鳥の姿をした夢魔『贋夢』が、骨の刃『精神傷痕刃』をぎらつかせながら羽ばたく。

 

フレディ『何だと……!? 俺の夢の中に、別の怪異だと!?』

 

獏が太い鼻から強力な吸引力を発動する。

 

フレディが作り出した刃の蒸気、そしてこの夢空間を満たしていた「恐怖の概念」そのものが、ズルズルと獏の巨大な口へと吸い込まれて消えていった。

 

フレディ『なっ……俺の威圧が……恐怖が消されていく!?』

 

比名子「獏は夢を喰らう。貴方がどれだけ恐怖を煽ろうとしても、全部あいつの餌になるだけだよ」

 

さらに、空を舞う贋夢が両翼を広げ、紫色の鎌を振り下ろす。

 

贋夢『ククク……夢の支配者気取りが。貴様の魂ごと、切り裂いてやる! 精神傷痕刃!!』

 

ザシュッ!!

 

フレディ『ガアッ……!?』

 

夢の中で無敵を誇るはずのフレディの胸元に、深々と裂傷が刻まれ、黒い怨念の血が吹き出す。

 

実体ではなく「魂そのもの」を切り裂く贋夢の刃は、夢の存在であるフレディにとって最も致命的な毒だった。

 

フレディ『くそっ……ふざけるな! 俺は……エルム街の悪夢だぞ!!』

 

激昂したフレディが凄まじいスピードで肉弾戦を挑み、右手の爪を比名子の喉元へ振るい下ろす。

 

ガキィィィィン!!

 

重い金属音が地下工場に響き渡る。

 

比名子は五条から受け取った二つの盾の呪具を完璧な角度で合わせ、フレディの爪を弾き返した。

 

比名子「はぁ……っ!」

 

勢いを崩したフレディの懐へ、比名子は一歩踏み込む。

 

1週間の猛特訓で鍛え上げた足さばきと体幹。比名子は左の盾でフレディの顔面を強打し、そのまま右の盾の鋭い角をフレディの腹部へと叩き込んだ。

 

ドゴォン!!

 

フレディ『ガハッ……!?』

 

衝撃で吹き飛び、ボイラーの壁に激突するフレディ。

 

現実世界で鍛えた打撃と、取り込んだ怪異による夢のルールの無効化。かつて夢の中で人間を弄んでいた悪魔が、今は完全に圧倒されていた。

 

比名子「……これで、終わりじゃない。現実でも、高専の皆と貴方を追い詰める」

 

比名子は冷たい眼差しで、壁にへばりつくフレディを見下ろす。

 

フレディ『へ……へへ……おもしろい……おもしろいぞガキ……! だが忘れるな、現実にはあの“ピエロ”もいる……! お前がいくら強がろうと、恐怖がある限り俺たちは消えん!!』

 

フレディの体がボイラーの炎の中へと溶けるように消えていく。完全な消滅ではないが、少なくともこの夢の領域での支配権は、完全に比名子の手に戻っていた。

 

――――――――――――――――――――――――

 

ハッと目を覚ますと、比名子は高専の部屋のベッドの上に寝ていた。

 

汐莉「比名子! …あ、無事ですね」

 

比名子は荒い息を整えながら、汗ばんだ額を拭う。

 

胸の奥で、確かに『獏』と『贋夢』の力が根付き、フレディの侵食を跳ね返した手応えがあった。

 

比名子「……うん。夢の中では、もう負けない」

 

比名子は握り締めた盾の呪具を見つめる。

 

現実で迫るペニーワイズの脅威、そして合流を目指す千羽あやめ。悪夢を克服した少女は、来るべき決戦に向けて静かに立ち上がった。

 

――――――――――――――――――――――――

 

伊地知の運転する車で地元への帰り道、夕闇が深まる国道沿いの寂れたドライブイン。

 

比名子と汐莉、そして七海が休憩のために車を降りたその時だった。

 

七海「風……止まりましたね」

 

七海が足を止め、眼鏡の奥の鋭い視線を周囲の暗がりへ向ける。

 

無風の駐車場。にもかかわらず、街灯の影から――ひとつの『赤色の風船』が、風に逆らうように静かに浮かび上がってきた。

 

ポタ、ポタ……と、アスファルトに水滴が落ちる音が響く。

 

ペニーワイズ「ハァい、比名子ちゃん」

 

暗闇の奥から現れたのは、銀白い衣装を纏い、顔を白く塗りつぶした道化師――ペニーワイズだった。その口元は人間ではあり得ない角度まで釣り上がり、黄色い瞳が獰猛にギラついている。

 

ペニーワイズ「夢の中の友達は追い払えたみたいだねぇ? でも現実(ここ)には僕がいる! 怖かい? 自分の手駒が全部使い物にならなくなるのが……怖いかい!?」

 

ペニーワイズが両腕を広げると、周囲の空間が歪み、比名子の脳裏に過去のトラウマ――燃え盛る車と血の匂いが幻覚となって押し寄せる。比名子が咄嗟に両手の盾を構えた、その瞬間。

 

あやめ「――あらあら、見ーつけた」

 

頭上から、空気を切り裂くような鋭い声が響いた。

 

ドスンと音を立ててペニーワイズの目の前に降り立ったのは、和装の美しい女性――千羽あやめだった。

 

比名子「あやめさん……!? どうしてここに……」

 

あやめ「合宿所の呪い(まじない)を解いて追いかけてきたのよ、比名子ちゃん。……それにしてもこのピエロ、愛媛で逃げたくせに、本当にしつこいわねぇ」

 

あやめの首が、ギギギ……と人間には不可能な角度で一回転する。

 

綺麗な黒髪が割れ、後頭部に隠された巨大な口とギザギザの歯、長い舌が露わになった。

 

あやめ「比名子ちゃんを狙う害虫は、私がみじん切りにしてあげる!!」

 

あやめが手に持った大斧を振り下ろし、ペニーワイズの肩口へ叩きつける!

 

ズバァンッ!

 

ペニーワイズ「グオォォッ!?」

 

黄色い血を撒き散らしながら後退するペニーワイズ。だが、奴の身体が不気味に蠢き、傷口から無数の巨大な蜘蛛の脚が突き出してきた。恐怖を糧に姿を変えるペニーワイズの本性が剥き出しになる。

 

ペニーワイズ「喰ってやる……まとめて噛み砕いてやるぞぉぉぉ!」

 

七海「させませんよ」

 

七海が短刀を抜き放ち、ペニーワイズの足元へ踏み込む。

 

七海「比名子さん、指示を! 奴の弱点を探しなさい!」

 

比名子「はいっ! 出てきて、美津子! セイレーン! テケテケ!」

 

比名子の呼び声に応じ、影から一斉に怪異たちが飛び出した。

河合美津子が解き放った大量の水が駐車場を一瞬で浅い湖に変え、水面からセイレーンの美しくも禍々しい歌声が響く。植物のツタが無数に伸び、ペニーワイズの巨大な蜘蛛脚を力任せに縛り上げた。

 

ペニーワイズ「なっ……動きが……!?」

 

そこへ、水面を這うように猛スピードで滑走する下半身のない少女――テケテケが死角から肉薄!

 

ザシュッ! ザシュッ!

 

テケテケの腕がペニーワイズの残った脚を切り飛ばす。さらに高所からはパルクールのようにアクロバティックサラサラが舞い降り、ペニーワイズの顔面に強烈な蹴りを叩き込んだ。

 

あやめ「逃がさないわよ!」

 

あやめが後ろの口を大きく広げ、伸びた長い舌でペニーワイズの胴体をガッチリと捕縛。大斧を両手で握り直し、渾身の力で振り下ろす!

 

ドカァァン!!

 

あやめの一撃がペニーワイズの胸を打ち砕き、地響きと共に化け物がアスファルトへ激突した。

 

ペニーワイズ「ガハッ……バ、化け物どもが……! 人間の癖に……なぜ恐怖しない……!?」

 

恐怖を糧にするペニーワイズだったが、比名子の従える無数の怪異たち、そして過酷な過去を背負ったあやめや比名子自身には、奴の煽る「安っぽい恐怖」など一切通用しなかったのだ。

弱体化し、ドロドロとした黒い呪力に変わり始めるペニーワイズ。

 

比名子は盾を下ろし、静かにその前へと歩み寄った。

 

汐莉「比名子……呑み込むのですか? そのピエロを」

 

比名子「……うん。逃がしたら、また子供たちが狙われる。それに――」

 

比名子は右手を差し出し、術式を発動させる。

 

比名子「誰にも殺されたくないから……使えるコマは、全部私のものにする」

 

もがくペニーワイズの巨体が縮み、収束し、やがて比名子の手のひらの上でひとつの黒い『怪異玉』へと変わった。

 

比名子は一瞬だけ躊躇いを見せたが、意を決してそれを口の中に放り込み、ゴクンと飲み込んだ。

 

比名子「……っ……う、ゲホッ……!!」

 

激しい吐き気が胃から突き上げる。

 

今まで飲み込んできたどの怪異よりもエグく、どろりとした感触。

 

『血と油の混ざった海水』に、腐った甘い綿菓子を混ぜ合わせたような最悪の味。

 

比名子は膝をつき、口元を押さえながら必死に息を整えた。

 

あやめ「大丈夫!? 比名子ちゃん!」

 

あやめが本来の美しい姿に戻り、慌てて比名子の背中を擦る。

 

比名子「……ハァ……ハァ……大丈夫です、あやめさん。……来てくれて、ありがとうございました」

 

あやめ「ふふ、お礼なんていいのよ。比名子ちゃんが無事でよかった……」

 

あやめは安堵の笑みを浮かべ、比名子を優しく抱きしめた。

七海は静かに短刀を鞘に納め、眼鏡の位置を直す。

 

七海「これで、現実側の大きな脅威も一つ片付きましたね。……帰りましょう、貴方の地元へ」

 

愛媛の恐怖の象徴・ペニーワイズすらも自身の『手駒』として取り込んだ比名子。あやめという心強い味方とも合流し、少女たちの過酷な生存戦略は、次なる局面へと進んでいく。

 

―――――――――――――――――――――――

 

五条『お疲れ様。君はこれからどうするんだい?もっと言えば、君には高専に居てほしい気がするけどね』

 

比名子「ありがとうございます。けど私は、此処が良いんです」

 

五条『そうか。まあまた何かあったら頼ってよ。僕等は何時でも君を待ってるからさ』

 

比名子「……はい。五条さん、ありがとうございました」

 

道の駅の駐車場。夕暮れ時の冷たい風が頬を撫でる中、比名子はスマートフォンを耳から離し、通話を切った。画面を暗転させると、小さな息を吐き出し、胸に抱えた「盾の呪具」を固く握り直す。

 

七海「……五条さんからですか?」

 

傍らで待っていた七海が、眼鏡の位置を直しながら静かに尋ねてきた。

 

比名子「はい。『高専に残らないか』って。断っちゃいましたけど……」

 

七海「それで良いと思いますよ。貴方が望む日常は、高専ではなくあそこにあるのですから……我々の都合で引きずり回してしまって、すみませんでした」

 

七海は少しだけ目元を緩めると、車の手すりに手をかけた。

 

七海「私はここで失礼します。伊地知さん、彼女を自宅まで」

 

伊地知「はい、お任せください。比名子さん、参りましょうか」

 

汐莉「ふふ、やっと邪魔な人間の術士がいなくなりましたね。さあ比名子、私たちの家に帰りましょう♪」

 

七海に見送られながら車に乗り込み、住み慣れた街並みへと戻っていく。窓の外を流れる見慣れた景色に、比名子の強張っていた肩の力がようやく抜け落ちていった。

 

そして、実家の前に到着し、伊地知の車を見送った時のことだ。

 

比名子「ふぅ……ただいま、私の家……」

 

汐莉「ええ、帰ってきましたね。まずは冷たいお水でも淹れましょうか」

 

二人が敷地の門をくぐり、玄関の鍵を開けようとした――その時。

 

「――あらあら、お帰りなさい、比名子ちゃん」

 

比名子「……っ!?」

 

背後から掛けられた優しくも艶やかな声に、比名子と汐莉は同時に振り返った。

 

そこには、道の駅で別れたはずの美しい女性――千羽あやめが、当然のような顔をして門の陰から現れ、微笑んでいた。

 

汐莉「なっ……あやめ!? なぜ貴女がここにいるのですか! 戻ったはずでしょう!?」

 

あやめ「ふふ、後をつけてたのよ。だって、愛媛からせっかく比名子ちゃんを追いかけてきたんだもの。こんな可愛い子を放っておいて、一人で帰るなんて耐えられないわぁ」

 

比名子「え……ええっ!? つ、付いてきたんですか!?」

 

あやめ「ええ。今日からここでお世話になるわね、比名子ちゃん♪」

 

悪びれもせず、上品に微笑むあやめ。汐莉が眉をひそめて「厚かましい妖怪ですね……!」と威嚇の気配を漂わせるが、あやめはどこ吹く風で比名子の手を取り、勝手知ったる様子で玄関のドアをガラガラと開けてしまった。

 

あやめ「お邪魔しまーす」

 

比名子「あ、ちょっとあやめさん……!」

 

玄関を上がると、廊下の奥からバタバタと激しい足音が響いてきた。

 

美胡「比名子ぉぉぉぉぉっ!!」

 

ドカン! と音を立てて廊下の曲がり角から飛び出してきたのは、幼馴染でありこの土地の守り神――社美胡だった。

 

美胡は比名子の姿を認めるや否や、勢いよくその体に抱きついてきた。

 

美胡「よかった……無事だったんだね! 嫌な気配が消えたから大丈夫だとは思ってたけど、心配したんだから!!」

 

比名子「美胡ちゃん……ただいま。心配かけてごめんね」

 

ギュッと抱き返してくる美胡の温もりに、比名子はホッと胸を撫で下ろす。

 

だが、感動の再会は一瞬で立ち消えた。美胡の耳がピクリと動き、比名子の背後に立つ「招かれざる客」へと視線が向けられる。

 

美胡「……ちょっと比名子。汐莉だけじゃなくて……そっちの女、あの合宿所に居た奴じゃない!?」

 

あやめ「妖怪としては初めましてね、おキツネ様。私は千羽あやめ。比名子ちゃんを護るために付いてきちゃったわ♡」

 

美胡「はぁぁぁ!? 付いてきたぁ!?」

 

美胡がカッと目を剥き、顕現した尻尾の毛を逆立てる。そこへ汐莉が冷ややかに割り込んだ。

 

汐莉「美胡、怒る気持ちは分かりますが、この厚かましい二口女は私の制止も聞かずに上がり込んできたのです。比名子の隣は私一人で十分だというのに……」

 

美胡「あんたも大概図々しいでしょ、半魚人! っていうか何なの!? なんで比名子の周りには怪しくて危険な女ばっかり増えるのよ!!」

 

あやめ「ふふ、賑やかでステキなおうちね。私、お掃除や料理も得意だから、比名子ちゃんのお母さん代わりになってあげるわ」

 

美胡「お母さん気取りすんな!!」

 

キャーキャーと居間で繰り広げられる、神様、人魚、二口女による壮絶なマウント合戦と怒号。

 

その奥の薄暗い居間からは、お留守番をしていた伽椰子が「アアァァ……」と首を傾げながら階段を這い降りてきており、テレビの画面からは貞子が半身だけ乗り出して、新顔のあやめをじーっと見つめている。さらに廊下の隅ではゆきおんなが静かに茶を啜り、俊雄が床で丸くなっていた。

 

まさに、Jホラーと妖怪たちが勢揃いした、カオス極まりない「わが家」の光景。

 

比名子「……ハァ」

 

頭を抱え、大きなため息をつく比名子。

 

ペニーワイズを呑み込んだ際の後味――『腐った綿菓子と血と油の海水』の胸やけがまだ残っていて、胃のあたりが少し重い。

 

比名子「……みんな、静かにして……お腹空いたし、アイス食べたい……」

 

美胡「あっ、比名子! 私が冷凍庫から取ってきてあげる!」

 

汐莉「いいえ、私が比名子の口に運んで差し上げます!」

 

あやめ「あら、私が後ろの口に隠しながら食べさせてあげましょうか?」

 

美胡&汐莉「「それは汚い(不気味)からやめて!!」」

 

ギャーギャーと騒がしい声が響く中、比名子は居間の畳の上にぽてんと座り込んだ。

 

命を狙われ、悪夢と戦い、吐き気を催す怪異玉を呑み込み続けて手に入れた、あまりにも騒々しく、あまりにも愛おしい日常。

 

比名子「……ふふ」

 

呆れつつも、比名子の口元にはほんの少しだけ、小さな微笑みが浮かんでいた。

 

生きる希望なんてないけれど、このうるさい家で誰にも殺されずに今日を生き抜くために。少女の過酷で少しおかしな日常は、これからも続いていく。




登場怪異

贋夢(ガンム):怪奇警察サイポリス
他人の夢の中に入り込み、精神や肉体へダメージを与えることが出来る夢魔(インキュバス)。鳥の姿をしている。原作では、千夏の夢の中で勇気、京子と戦った。「精神傷痕刃(せいしんしょうこんじん)」という魂を切り裂く鎌を使う。夢の外(現実世界)では贋夢の肋骨が変化した刃「真・精神傷痕刃(しん・せいしんしょうこんじん)」で戦う。

獏:(妖怪)
仏教伝来と共に日本にもたらされた。
熊の胴体、虎の四肢、牛の尾、象の鼻、犀の目、猪の牙を持つと言われる。鉄や銅を好んで食べ、その尿には金属を腐食し溶かすと言う作用がある。一般に人間の夢を食べると言う俗説で有名だが、これは日本で独自に発展した説である。鉄も喰うほどの悪食の幻獣なら悪い夢も喰えるだろう、という発想のようだ。
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