他のところで同じ用例で使わないほうがいいです。
耐えられないのでコメディオチ。
他の場所で使わないように。
第1話:重ね合わせの猫(Superposition Cat)
「観測した瞬間に、世界が弾け飛ぶ」
高次元物理研究所、地下三千メートル。
冷ややかな真空チャンバーのガラス越しに、私はそれを見つめていた。
事象名『シュレディンガーの心臓』。
数か月前、素粒子衝突実験の果てに突如発生した
そして、この崩壊を食い止めるための「観測と
第一に、人間の男性特有の思考パターン——すなわち、物事を因果関係で分断し、数学的・論理的に解明しようとする「解析脳」でアプローチした場合。中心核は観測行為そのものを『攻撃』とみなして即座に相転移を起こし、半径数百キロを消滅させる。
第二に、女性特有の認知パターン——すなわち、現象をあるがままに受容し、波動として知覚する「定着脳」でアプローチした場合。中心核は爆発こそしないものの、観測者の脳がその高次元的情報量に耐えきれず、一瞬で精神が霧散する。
「……詰みね」
背後に立つ若い助手——冷酷なまでに理知的な女性、
「男性研究者が近づけば爆発。女性研究者が近づけば精神崩壊。そして、この現象を制御するための超高次元テンソル方程式を理解しているのは、世界で先生……あなた一人だけです」
「……ああ」
私は眼鏡の奥の目を細めた。
私がこれまで人生のすべてを捧げてきた物理学。
「なら、どうするんです? 諦めて全員で高次元の塵になりますか?」
「愚問だな、月見里」
私は白い白衣のポケットから、一ボトルの未承認遺伝子製剤を取り出した。
極秘裏に開発されていた、細胞の染色体および脳の神経伝達物質を極限まで再構成する生体変換シリンジ。
「『男の解析脳』と『女の定着脳』。双方が衝突すれば崩壊する。ならば……双方を同時に保持し、かつどちらでもない状態——『
月見里の目がわずかに見開かれた。
「まさか……量子不確定性の
「そうだ。箱の中の猫は、開けられるまで『生』と『死』が重ね合わさっている。ならば私も、観測されるまで『男』であり『女』であり、『人間』であり『獣』である不確定な存在になればいい。……物理学の古典的な思考実験にならって、そうだな、『黒猫』の不確定性を噛ませる」
「正気ですか!? 性別どころか種族の境界まであやふやにすれば、先生の自我が……!」
「世界の崩壊に比べれば、私の自我の揺らぎなど誤差に過ぎん」
私は迷わず、製剤の針を自らの頸動脈に突き立てた。
——直後、脳内を過酷な次元の歪みが駆け抜けた。
「ぐっ……ぁあ阿阿アアッ……!?」
視界が激しく点滅する。
骨格がミシミシと音を立てて縮み、骨盤が再構成されていく。胸の奥に柔らかい質量が生まれ、声帯が急速に短く、瞳の形が変わっていく。それだけではない。頭頂部に強烈な痒みが走り、三角の耳が生え揃う。尾骨が伸び、漆黒の毛並みを持った尾が空気の振動を捉え始める。
脳内では、これまで積み上げてきた
(思考を止めるな……! 波動関数を収束させるな……! 私は……『男』であり『女』だ……『箱の中の猫』だ……!)
意識が遠のくギリギリのところで、私は思考の
やがて、狂乱の変換が収まる。
床に手をついた私の視線は、以前よりもはるかに低くなっていた。白衣はダボダボに余り、細くしなやかな白い手足からは、可憐な黒い爪が覗いている。頭上の黒猫耳がピクピクと音を拾い、背後で黒い尾が不確定な軌道を描いて揺れていた。
「……信じられない」
月見里が息をのむ。
「身体は
「……ふっ」
私は立ち上がった。喉から出たのは、鈴を転がすような、だが恐ろしく冷静な美女の声だった。
「成功だ。現在の私の脳内では、男性的な解析論理と女性的な受容知覚、そして動物的な野生が完璧な『重ね合わせ状態』を形成している。観測の波長は、どちらにも偏っていない」
私はダボつく白衣の袖を捲り上げ、真空チャンバーの操作盤へと向かった。
高次元物質『シュレディンガーの心臓』が、妖しく明滅している。
私は黒猫耳を揺らし、尾で不確定な空間の揺らぎを感知しながら、キーボードの上に細い指先を走らせた。
「これより、事象の
黒猫の姿となった天才物理学者の、命と存在を賭けた計算が始まった。
第2話:不確定性と猫じゃらし(Uncertainty and Teaser)
「——事象の
地下三千メートルに、電子音が静かに響き渡った。
真空チャンバーの向こう側で狂暴に明滅していた『シュレディンガーの心臓』は、いまや透き通った安定した結晶体となり、静かに沈黙している。全次元の崩壊という未曾有の危機は、私の頭脳——いや、私という存在の
「ふう……」
私は安堵の溜息を吐き、ダボつく白衣の袖で汗を拭った。
(勝った……! 男の解析論理と、女の受容知覚、そして動物的野生——この三者を『黒猫獣人』という不確定な器で重ね合わせることで、ついに世界を繋ぎ止めたのだ!)
物理学者としての誇りと達成感が、私の胸を満たしていく。
頭上の黒猫耳を満足げにピクピクと揺らし、背後の黒い尾を優雅にゆったりと振った。
そこへ、背後から静かな足音が近づいてきた。
助手である
……ん? なんだあれは?
柄の先に、ピンク色のフワフワした羽毛がついた棒……。
「先生。世界の救済、大変お疲れ様でした」
月見里はいつもの無表情な冷徹フェイスのまま、拍手を一つだけ送ってきた。
「……礼には及ばんよ、月見里。これも科学の勝利だ」
私は可憐な美女の声で、威厳たっぷりに胸を張った。
「私の試算通り、重ね合わせ状態は完璧に機能した。これで『シュレディンガーの心臓』は永遠に安定する。さあ、地上に連絡を入れ——」
「ですが先生」
月見里が私の言葉を遮った。
彼女は手に持っていたピンクのフワフワ——『猫じゃらし』を、私の顔の前にすっと突き出してきた。
「ひとつ、理論的な確認をさせていただきたいのですが」
「……何だ? 論文の査読なら後にしてくれ」
私は不快感を隠さずに言った。言ったのだが。
(……な、なんだ? なぜあのピンクの羽毛から目が離せない……?)
視界の端でゆらゆらと揺れる羽毛。
私の網膜が、脳が、意識が、尋常ではない精度でその微小な軌道をトラッキングし始めていた。
「今の先生の生物学的状態についてです」
月見里は淡々とした声で問いかける。
「現在の先生は、高次元の観測干渉を防ぐため『人間の男性』と『人間の女性』、そして『雌の黒猫』の
「……そうだ。どちらか一方に状態が
「なるほど」
月見里は納得したように頷くと、冷ややかな瞳で私をじっと見つめた。
「では……『発情期』とかって、来るんですかね?」
「——は?」
思わず素の声が出た。
「な、何を馬鹿なことを言っているんだ! 私はあくまで冷静沈着な理論物理学者だぞ!? 生物学的な性別や本能など、人間の強い意志と論理的思考で……ッ!?」
シャカシャカシャカシャカッ!!!
突然、月見里が手首を高速スナップさせ、猫じゃらしを猛烈に振った。
「く……っ!?」
空間を切り裂くピンクの残像。
私の首が、思考を置き去りにしてガクガクガクッと超高速で左右に追従する。
「おや、目が完全に追いかけていますね。意志と論理はどこへ行きましたか?」
「バ、愚か者! これは単なる光受容体の反射現象だ! 脳の視床下部が不測の空間運動に過剰反応しているだけで……ッ!」
「じゃあ、このお尻と尻尾の動きはなんです?」
「え……?」
言われてハッと自分の背後に意識を向ける。
白衣の裾の下で、私の細い腰が——フリ、フリ、と小刻みに左右に揺れていた。
黒い尾は毛を逆立て、狙いを定めるように低く、低く波打っている。
(嘘だろ……!? 身体が勝手に……『獲物を狩る姿勢』をとっている……!?)
「ま、待て月見里! やめろ! 振るのをやめろ!」
「で、どうなんです?」
月見里は私の制止を完全に無視し、さらに速度を上げて猫じゃらしを振り乱した。
シャカシャカシャカシャカシャカシャカッ!!
「『雌猫』と『人間の男性』の重ね合わせである先生に、発情期は来るんですか? 回答してください」
「く……っ! 答え……答えるまでもなく……私は……私は理論物理学……っ! 脳の量子状態が、野生の不確定性ノイズに……侵食されて……っ!」
私の瞳孔が限界まで開き、黒目がまん丸に拡大する。
頭の中の難解なテンソル方程式が、ピンクのフワフワによって一瞬で上書きされていく。
「答えなさい、先生」
「知るか……! そんなものは……そんなものはぁっ……!!」
腰を低く落とし、お尻を極限までフリフリと振り振った私は、理性とプライドのすべてをかなぐり捨てて空間へ飛び跳ねた。
ガバッ!!!
「……
——ドカァン!!
豪快に床へスライディングし、両手で猫じゃらしをがっしりと捕獲する私。
そのまま抱え込み、ペロペロと一心不乱に舐め回し始めてから、ハッと正気に戻った。
見上げると、月見里がスマートフォンのカメラをこちらに向けて立っていた。
「……先生」
「……何だ」
「完全に状態が
「動画を消せ!! 今すぐ波動関数ごと消去しろ月見里ぃぃぃぃッ!!!」
高次元の崩壊から世界を救った天才物理学者の絶叫が、地下三千メートルに虚しく響き渡ったのだった。
(おわり)
針の穴を通ったラクダ。と言うやつです。