天子と紫苑、普通ならまず交わることのない二人が、あり得ない額の借金を通じて奇妙な同居生活を送る話です。ギャグ寄りの空気と、貧乏暮らしの生々しさを、できるだけ両方大事にしながら書いていくつもりです。
第一話は「今」から始まり、そこから天子がなぜ天上を飛び出すことになったのか、その経緯を丁寧に描いています。紫苑側の事情は次話以降で追っていきますので、しばらくお付き合いいただければ幸いです。
至らない点も多々あるかと思いますが、楽しんでいただけたら嬉しいです。
欠けた縁が、光の加減で三日月のように見える茶碗だった。
もとは何の柄が描かれていたのか、もう分からない。幾度も手放され、幾度も拾われ、そのたびに擦り減っていった青い模様は、今では水面に映る影と見分けがつかないほど淡くなっている。その底の浅い水の中を、一匹の魚が泳いでいた。
金魚のような緋色を鱗にまとっているくせに、体の大きさはメダカほどしかない。図鑑を繰っても、こんな魚は載っていないだろう。誰も名前を知らない。誰も種類を知らない。ただ、狭い椀の中で、乏しい水と、時折思い出したように放り込まれる飯粒だけで、もう随分長く生きている。
二人は、しばらくの間、何も言わずにただ椀の中を見つめていた。分にして五分か、あるいはもう少し長かったかもしれない。魚は変わらず、狭い水の中を右へ、左へ、気紛れに泳ぎ続けている。畳の目に沿って柔らかく差し込む昼下がりの光が、水面に小さな輪を作っては消えていった。
天子はその魚を眺めながら、腹の虫がわずかに鳴るのを聞いた。
これ、食えるのかしら。
そう思った途端、私の頭の中には、香ばしく焼かれた魚の匂いすら立ち上ってくるようだった。塩を振って、炙って、皮目をぱりっとさせて、そこまで想像してから、我に返る。今ここには塩どころか、火すらまともにない。
天子はもぞもぞと居住まいを正し、口を開いた。
「ねえ…これ、食えるの?」
紫苑はその問いに、視線だけを椀からわずかに持ち上げた。
食えるかどうかで言えば、食えるでしょうよ。
私は内心でそう答えながらも、口に出したのは別の言葉だった。頭の中では、この魚を捌くのに必要なものを、勝手に数え上げている自分がいる。塩、味噌、あるいは酢。せめて火があれば、煮付けにでもできように。
「調味料もマッチもないんだから、今は無理でしょ」
紫苑は素っ気なくそう言って、また椀へと視線を戻した。現実的な言葉のわりに、その声にはどこか名残惜しさのようなものが滲んでいた。
天子は少し考えるような顔をした後、懐をまさぐり、小さな巾着を取り出した。逆さにして振ると、中から零れ落ちたのは、数枚の小銭だけだった。それが擦れ合い、高く、涼やかな音を立てる。
「…まあ、どのみち、これっぽっちしかないんだけどね」
自嘲めいた笑いと共に、天子はその音を、どこか懐かしむように聞いていた。
その音は、遠く、天界の記憶へと繋がっていく。切り分けられた桃の入った硝子の器。その縁を、退屈しのぎに指でなぞった時に鳴った、あの音と、よく似ていた。
天子の暮らしには、不便というものがほとんど存在しなかった。
目を覚ませば、寝間着はいつの間にか誰かの手で洗い清められたものに替わっている。膳を待てば、季節の走りを取り入れた料理が音もなく運ばれてくる。庭の花が萎れれば、翌朝には別の花が何食わぬ顔で咲いている。天子自身が望んだことは、ほとんど何もない。ただ、そこにあるべきものが、そこにあるべき形で、絶えず補充され続けているだけだった。
便利さというのは、恐ろしいものだと天子は思うことがある。何かを欲しいと思う前に与えられてしまうと、自分が本当は何を欲しがっているのかさえ、分からなくなっていく。天子の一日は、そうやって少しずつ、輪郭を失っていった。
天界の午後は、いつも何かの儀式めいていた。
誰かの家に招かれ、誰かの用意した菓子や果物を、誰かの敷いた座に座って口にする。会話の中身よりも、その場に相応しい笑い方や相槌の打ち方の方が重んじられるような、そんな空気がいつも漂っていた。
その日も天子は、招かれるでもなく居合わせただけの茶会の隅で、切り分けられた桃の入った硝子の器を前に、手持ち無沙汰に指を遊ばせていた。硝子の縁をなぞると、キィン、と小さく澄んだ音が鳴る。それが面白くて、何度も繰り返した。
「だから、困るのよねぇ、ああいうのは」
少し離れた席から、そんな声が聞こえた。声を潜めているつもりなのだろうが、天子の耳には十分に届く距離だった。
「この間の騒動だって、結局あの方の不注意でしょう。おかげでこっちは、後始末に三日も駆り出されたのよ」
「そうそう。私の部下なんて、あの一件の書き付けを直すのに徹夜だったって。誰も表立っては言わないけど、みんな思ってることでしょう」
「まあまあ、あまり言わないの。聞こえるわよ」
窘める声にも、隠しきれない苦笑いが混じっている。天子は硝子を鳴らす指を止めた。
こっちだって、悪気があったわけじゃない。
そう思う一方で、天子にも分かっていることがあった。あの騒動の後始末に、実際に誰かが駆り出されたのは事実だ。天子が気まぐれに起こした小さな出来事の帳尻を合わせるために、名前も知らない誰かが徹夜をし、名前も知らない誰かが上役に頭を下げた。それを知っているからこそ、聞こえていないふりをするのが、この場での作法だということも、天子には分かっていた。分かっていて、それでも顔を上げずにはいられなかった。
視線を上げた瞬間、話していた者たちが、示し合わせたように一斉に別の話題へと移った。あまりに滑らかな切り替えだった。まるで、最初からその話などしていなかったかのように。悪意があるわけではない。むしろ、悪意がないからこそ、その滑らかさが余計に堪えた。彼女たちにとって天子は、憎む対象ですらなく、ただ「気をつけて扱うべき厄介事」のひとつに過ぎないのだと、その滑らかさが雄弁に語っていた。
天子は何も言わず、また硝子の縁に指を這わせた。キィン、と音が鳴る。今度はさっきよりも、幾分か強く弾いた。
「天子様」
隣に座る衣玖が、静かに声をかけてきた。今日も隙のない佇まいで、天子の様子をそっと窺っている。
「聞こえていましたか」
「聞こえてないふりをしろって言いたいんでしょう」
「そうは言っていません。ただ——」
衣玖は言葉を選ぶように、一度言い淀んだ。
「天子様は天子様のままでいいのですよ。誰に何を言われても」
それは、慰めのつもりだったのだろう。事実、その声には天子を気遣う響きがちゃんとあった。だが天子の胸の奥に落ちたのは、慰めとは違う、もっと冷たい何かだった。
天子様のまま、でいい。
それはつまり、変わらなくていい、直さなくていい、今のままでいいという言葉であると同時に、今のままの自分が、周囲からどう見られているかを、衣玖もまた分かっているという証でもあった。庇うということは、庇う必要があるということだ。心配するということは、心配される側にいるということだ。
私は、庇われる側の人間なのか。
その自覚が、これまで胸の奥でぼんやりと燻っていた何かに、はっきりとした輪郭を与えた。天子は硝子の器を静かに置いた。桃の甘い匂いが、急に嘘くさく感じられた。
「ありがとう。分かってるわ」
そう答えた声は、自分でも驚くほど平坦だった。衣玖は僅かに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。何も言わないことこそが、この場での優しさなのだと、二人とも知っていた。
思えば、似たようなことは、これまでにも幾度となくあった。
いつだったか、机の上に置かれていた献上品の菓子を、天子はつい手に取ったことがある。一つだけなら、誰も気にしないだろう。そう思って口に運んだ。それが思いのほか美味だったものだから、二つ目にも手が伸びた。三つ目をつまんだところで、背後から声がかかった。
「天子様」
振り返ると、衣玖が立っていた。
「それは、召し上がってよいものではありません」
「どうして」
「献上品です」
「でも、お菓子でしょう」
「そういう問題ではありません」
私は手の中の菓子を見た。それから、衣玖の顔を見た。
「一個くらいなら、いいでしょう」
「……もう三個、召し上がっています」
「数えてたの」
「数えますよ」
「じゃあ、あと一個くらい、増えても同じじゃない」
「同じではありません」
衣玖は深く息を吐き、菓子の載った盆を静かに私の手の届かない場所へと移した。私は少しだけ不満だったが、その時はまだ、それだけのことだった。
思えばあの日から、こういうことは幾度も繰り返された。何かを勝手に持ち出し、何かを壊し、誰かを困らせては、最後には決まって衣玖がやって来た。
「天子様。どうして異変を起こしたのですか」
「暇だったから」
それで十分な理由だと、当時の天子は本気で思っていた。退屈なら、何かをすればいい。足りないものがあるなら、自分の手で作ればいい。ただ、それだけのことのつもりだった。だが周りにとっては、そうではなかったらしい。
あの日、天子を連れ戻す衣玖は、いつもより口数が少なかった。天子はそれを、怒っているのだと思っていた。今なら、少しだけ分かる。あれは怒りではなく、疲れだった。何度言っても聞かない。何度連れ戻しても、また同じことが起こる。強く咎めれば意固地になり、優しく諭せば、どうせまた誰かが何とかしてくれると高を括る。その繰り返しに、衣玖はただ、静かに磨り減っていった。
その磨り減り方に、天子は長らく気づかなかった。気づかないまま、帰る場所があることを、当然のように享受し続けてきた。何をしても、最後には誰かが迎えに来る。だから自分は、いつも通りにしていればいい。そう思い込んでいた。
その夜、天子は寝付けなかった。
目を閉じても、昼間の滑らかな話題転換の光景が、瞼の裏に張り付いて離れない。何度か寝返りを打った末、天子は諦めて床を抜け出し、夜着のまま廊下に出た。
当てもなく歩くうち、渡り廊下の途中、灯りの落ちた小部屋の前を通りかかった。障子の隙間から、ぼんやりと燭台の明かりが漏れている。誰かいるのだろうかと足を止めた瞬間、中から声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だった。
「……だったら、どう言えばいいのよ、一体」
衣玖の声だった。独り言にしては、随分と切実な響きがある。天子は息を潜め、障子の陰にそっと身を寄せた。覗き見るつもりはなかった。ただ、足が動かなくなってしまっただけだった。
「強く出れば、意固地になる。優しくすれば、庇われてると思われる。どっちに転んでも、結局は同じことの繰り返し」
衣玖は机に頬杖をつき、片手で額を押さえていた。灯りに照らされたその横顔には、いつもの隙のなさは欠片もなかった。ただ、疲れ果てた、一人の誰かの顔があるだけだった。
「異変や家出が起こるたび、上からはきちんと管理しろと言われる。天子様のためにも、それが一番だと言われる。でも…」
衣玖はそこで言葉を切り、深く息を吐いた。
「無理に連れ戻したところで、あの方の何が変わるというの。行き場のない苛立ちを、無理やり閉じ込めるだけじゃない。それで前よりも余計に、わがままにしてしまったのは、他でもない私たちのはずなのに」
その言葉に、天子は思わず息を止めた。
前よりも。
それは、今回のことだけを指しているのではない。天子にはすぐに分かった。これが初めてではないのだ。今までにも、同じように退屈凌ぎに異変を起こしたり衝動的に姿を消したことが、幾度かあった。そのたびに、誰かがこうして頭を抱え、どう扱うべきかを一人で考え、そして最終的には、強引に連れ戻すという選択をしなかった。
それは優しさなのだろうか。それとも、諦めなのだろうか。
天子には分からなかった。ただ、衣玖の抱える苦労の重さだけは、痛いほど伝わってきた。彼女は誰かに命じられて天子の傍にいるのではなく、自分自身の判断で、天子を強く縛らないという道を、その都度選び続けているのだ。それがどれほど心を磨り減らす選択なのか、当の天子は今までまるで考えたこともなかった。
「はぁ……」
衣玖の溜め息が、静かな部屋に落ちる。天子はそれ以上聞いていられず、音を立てないよう、そっとその場を離れた。
自室に戻っても、眠気は一向に訪れなかった。天井を見つめながら、天子はぼんやりと考えていた。
また、なのか。
自分がこれまで、何度この場所から逃げ出そうとしたか、正確な数はもう覚えていない。そのたびに周囲は驚くこともなく、ただ淡々と、いつも通りに事後処理をしてきた。驚かれないということが、これほど惨めなことだとは、天子は今夜まで知らなかった。
驚かれないというのは、期待されていないということだ。
その考えに行き着いた瞬間、胸の奥で燻っていた何かが、静かに、しかし確かに、決定的な形を取った。
だったら、いっそ。
その夜のうちに、天子は誰にも告げず、荷物らしい荷物も持たず、天界を後にした。
衝動的、という言葉がこれほど似合う行動もなかった。だが衝動の底には、確かに一つの決意があった。誰かに庇われ続けるくらいなら、退屈な毎日を送り続けるぐらいなら、期待されないまま留まり続けるくらいなら、いっそ誰にも知られない場所へ行ってしまおう、という決意が。
「まあ、何とかなるでしょ」
声に出してそう呟くと、不思議と足取りは軽くなった。根拠などどこにもない。ただ、天子には昔からそういうところがあった。何とかなる、と思えば大抵のことは何とかなってきた。少なくとも、その時まではそう思い込んでいた。
雲の切れ間を抜け、地上へと続く道を下りながら、天子は自分がどこへ向かっているのかすら、はっきりとは分かっていなかった。
地上に降り立ってすぐ、天子は迷った。
右も左も、どちらへ進めば何があるのかまるで見当がつかない。とりあえず足の向くまま、草の生い茂る道を歩き出した。
「はぁ……にしても、暇よね、天界って」
誰に言うでもなく、独り言が口から零れる。
「毎日毎日、老人たちが同じ場所で、同じ顔ぶれで、同じような話をして。それの何が楽しいのよ」
木の枝を無造作に折り、そして道端の石をこつこつと叩きながら歩く。
「衣玖もさ、悪気はないのは分かってるのよ。分かってるんだけど、ああいう風に庇われると、余計にね……」
ぶつぶつと文句を重ねながら、天子はしばらく当てもなく歩き続けた。道は途中で分かれ、また分かれ、そのたびに適当な方を選んだ。日は少しずつ傾き始めていたが、それを気にする素振りもなかった。
「にしても、地上って本当に何もないのね…人間の里とやらは、一体どこに」
愚痴混じりの独り言が、不意に途切れた。木々の隙間から、遠く、煙の立ち上る家並みが見えたのだ。屋根の連なりと、微かに漂ってくる煮炊きの匂い。天子はその方角へ、迷わず足を向けた。
「ま、あそこに行けば、なんとかなるでしょ」
その根拠のない自信だけを頼りに、天子は人里への道を下っていった。
人間の里に降り立った天子を最初に出迎えたのは、煮炊きの匂いと、雑多な話し声だった。
天界とは何もかもが違う。整然とした街並みではなく、軒を連ねる店々は、それぞれが好き勝手な形をしていて、それでいてどこか調和している。行き交う人々の顔には、疲れも、笑いも、苛立ちも、あらゆる感情が剥き出しのまま浮かんでいて、天子はそれを、まるで見世物でも眺めるような気持ちで歩いた。
珍しいものは、いくらでもあった。露店に並ぶ得体の知れない乾物。子供たちが石蹴りをして遊ぶ路地。訳知り顔で値切りをする老婆。天子にとっては、そのどれもが新鮮で、そしてどこか滑稽で、目に映るもの全てが好奇心を刺激してやまなかった。
そんな中で、一軒の骨董品屋に、天子の足は自然と吸い寄せられた。
薄暗い店内には、埃を被った壺や、色褪せた掛け軸、由来も分からぬ小物が所狭しと並んでいる。天子はそれらを、物珍しそうに一つ一つ手に取っては眺めた。店の主人もまた、天人が客として現れたことに、隠しきれない驚きを顔に滲ませていた。
「天人が来るなんて珍しい……どうです、この店の品々、じっくり見ていってください」
愛想のいい、けれどどこか商売人らしい抜け目のなさを湛えた声だった。天子はその言葉に素直に従い、店の奥へと足を進めた。
「ふふん、なるほどね。地上にもこんな奇妙な骨董品が転がっていたわけだわ」
私はそう言いながら目を輝かせ、興味深そうに、じっくりと観察していた。値札はどれも、天子の目には驚くほど安く映った。天界での金銭感覚など、そもそも持ち合わせていなかったのだから、それも当然のことではあったのだが。
懐から財布を取り出し、中身を確かめようとした拍子に、小銭が一枚、ころりと零れ落ちた。それは店の板張りの床を跳ね、涼やかな、鈴のような音を立てて転がっていった。
「なるほど、これが”倹約”というものかしら。悪くないじゃない」
訳知り顔でそう呟きながら、私は財布の中身を数え始めた。落ちた一枚の小銭などもう忘れ、まだまだこんなものはいくらでもある。そんな根拠のない余裕が、この時の私にはあった。
その鈴のような音は、もちろん店の外にまで届くはずもない。届くはずのない、遥か遠い路地裏で、それでもなお、よく似た音が、ある少女の耳の奥に、確かに残り続けていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この作品は、更新を不定期にさせていただく予定です。一話一話、納得のいく形で書き上げたいという思いから、ペースよりも密度を優先したいと考えています。気長にお付き合いいただけると幸いです。
感想やご指摘など、いただけましたら励みになります。
次話では、紫苑側の視点から物語が動き出します。どうぞよろしくお願いいたします。