無尽長屋記   作:角筈律

10 / 10
第十話をお読みいただきありがとうございます。

今回は、天子と紫苑が内職に取り組む姿を描いています。地味な作業の積み重ねの中にも、二人らしいやり取りがあれば幸いです。


第十話、指先の記憶

翌朝から、二人の内職生活が始まった。

 紫苑が請け負っている傘張りの仕事は、竹の骨組みに油紙を張り付け、乾かし、余分な部分を切り揃えるという、単純ながらも根気のいる作業だった。畳の上に骨組みを広げ、紫苑は手慣れた様子で、糊を刷毛にとった。

「――こうやって、骨の一本一本に、薄く糊を伸ばしていくの。厚すぎると、乾いた時に紙が波打つから、加減が大事よ」

 紫苑の説明に、天子は神妙な顔で頷いた。見よう見真似で、天子も刷毛を手に取り、骨組みに糊を伸ばしていく。

 最初の数本は、ぎこちなかった。糊の量が均一にならず、紙を張った後に、ところどころ皺が寄ってしまう。紫苑はその出来を一瞥し、特に責めるでもなく、淡々と手直しの仕方を教えた。

「――ここ、糊が足りてない。もう少し、薄く伸ばして」

「――こう?」

「そう、それでいいわ」

 天子は言われるがまま、手を動かし続けた。数をこなすうちに、少しずつ、刷毛の動かし方にも慣れが出てきた。

 変化が現れ始めたのは、それから半刻ほど経った頃だった。

 紫苑がふと隣を見ると、天子の手つきが、いつの間にか、驚くほど滑らかになっていた。刷毛を持つ指先が、迷いなく骨組みの上を滑り、均一な薄さで糊を伸ばしていく。油紙を張る手つきも、皺一つ寄ることなく、ぴんと張り詰めた美しい仕上がりになっていた。

 しかも、天子はそれを、まるで意識してすらいないようだった。作業をしながら、口元からは、小さな鼻歌――いや、口笛混じりの、調子外れの旋律が漏れている。

「――ふーん、ふふーん……」

 軽やかな口笛に合わせるように、天子の手は、次々と傘を仕上げていった。一本、また一本。その速さと正確さに、紫苑は思わず作業の手を止めて、まじまじと天子の手元を見つめてしまった。

「――ちょっと、あんた」

「ん、何よ」

「その出来、おかしくない?」

 紫苑が指し示した先には、天子が仕上げたばかりの傘があった。骨と紙の張り具合、糊の分量、どれをとっても、紫苑がこれまで見てきた熟練の職人の仕事にも劣らないほど、丁寧で美しい出来栄えだった。

「――何が」

「何がって、これよ。あんた、こういう作業、初めてでしょう」

「そうだけど」

 天子は、自分の仕上げた傘を、不思議そうに眺めた。自分では、特別なことをしているつもりなど、まるでなかったのだった。

「――器用なのね、あんた」

 紫苑が素直にそう零すと、天子は一瞬、きょとんとした顔をした。それから、じわじわと頬を赤らめていった。

「――い、いや〜、それほどでも〜」

 柄にもなく照れた様子で、天子はそっぽを向きながら、後ろ頭を掻いた。その反応があまりに意外だったので、紫苑は思わず小さく笑ってしまった。

「――あんたでも、そんな顔するのね」

「う、うるさいわね。別に、普通でしょ、これくらい」

 天子は口ではそう言いながらも、まんざらでもなさそうな様子で、次の骨組みに手を伸ばした。だが、褒められた直後だというのに、その手つきには、わずかな浮ついた緩みが生まれていた。

「――あ」

 刷毛を持つ手元が狂い、糊が一箇所に偏って乗ってしまう。慌てて油紙を張り付けたが、案の定、不自然な皺が寄ってしまった。

「――ああもう、やっちゃった」

 天子は、露骨にがっかりした様子で、失敗した一本を見下ろした。紫苑はその様子を見て、今度こそ堪えきれず、声を上げて笑ってしまった。

「褒められた途端に失敗するとか、締まらないじゃない」

「うるさいわね!ちょっと浮かれただけよ!」

 天子はむきになって言い返しながら、失敗した紙を丁寧に剥がし、一からやり直しにかかった。紫苑はまだ笑いの余韻を残しながら、その様子を眺めていた。

「――でも、本当に器用よ、あんた。もったいないくらい」

 紫苑がふと零したその一言に、天子は手を止めた。

「――もったいない、って」

「これだけの手先があるのに、人足仕事なんかで潰してたのが、よ」

 紫苑の言葉には、皮肉ではなく、素直な感心が滲んでいた。天子はしばらく、その言葉を噛み締めるように黙り込んでいたが、やがて、ぼそりと呟いた。

「――今まで、誰にも、こんなこと言われたこと、なかったわ」

 その声には、これまでの茶化すような調子とは違う、どこか素直な響きがあった。紫苑はそれ以上、深くは追及しなかった。ただ、静かに頷いただけだった。

「――なら、これから覚えていけばいいでしょう。あんたの手が、こういうのに向いてるってこと」

「……そうね」

 天子は小さく頷き、やり直しの作業に戻った。今度は、失敗を恐れるように、慎重に、けれど確かな手つきで、糊を伸ばしていく。

 その日の夕方までに、二人は当初の予定を大きく上回る数の傘を仕上げていた。天子の意外な才を得て、作業の効率は、これまでとは比べ物にならないほど上がっていた。

「――これなら、来月の家賃、なんとかなるかもしれないわね」

 紫苑が、仕上がった傘の山を数えながら、そう呟いた。天子もまた、達成感の滲んだ顔で、その山を見つめていた。

「――やるじゃない、私」

「調子に乗らないの。また失敗するわよ」

「――言われなくても分かってるわよ」

 軽口を叩き合いながらも、二人の間には、これまでとは少し違う空気が流れていた。ただ生き延びるためだけに肩を並べていた関係が、こうして共に手を動かし、共に何かを積み上げていく中で、少しずつ、違う質感を帯び始めていた。

 それは、友情と呼ぶには、まだ少し早いのかもしれなかった。だが、確かに何かが、二人の間に、静かに積み重なっていた。

 部屋の隅では、あの小さな魚が、変わらず気ままに、茶碗の中を泳ぎ続けていた。

結局、その日一日で、二人は十本もの傘を仕上げていた。

当初の見込みでは、紫苑一人で三、四本仕上げるのがやっとだったはずだった。それが、天子の意外な手際の良さも合わさり、倍以上の数を仕上げることができた。仕上がった傘を並べ、紫苑はその出来栄えを、一本一本丁寧に確かめていった。

「――どれも、悪くない出来だわ」

満足げにそう呟く紫苑の横で、天子もまた、どこか誇らしげな顔をしていた。

夕暮れ時、二人は仕上げた傘を風呂敷に包み、内職を斡旋している問屋へと持ち込んだ。番頭らしき初老の男が、一本一本を丹念に検分していく。

「――ほう、これは。随分と、丁寧な仕事だね」

番頭は、特に天子が仕上げた分の傘を手に取り、感心したように目を細めた。糊の伸び具合、紙の張り具合、どれをとっても、素人仕事とは思えない仕上がりだった。

「今日から、この仕事を始めたばかりなんですけど」

紫苑がそう告げると、番頭はますます驚いたような顔をした。

「――そりゃまた、大したもんだ。この出来なら、単価も上乗せさせてもらおうか」

番頭はそう言うと、算盤を弾きながら、代金を計算し始めた。

「一本につき、通常は九十円のところだが……この出来なら、一本百円でどうだい」

「――ありがとうございます」

紫苑が頭を下げると、番頭は懐から銭を取り出し、二人に手渡した。

「十本で、千円。また、この調子で頼むよ」

千円――その数字を、天子は懐の中で、何度も確かめずにはいられなかった。人足仕事で、一日かけてようやく稼げるかどうかという額を、たった一日の内職で、いとも簡単に超えてしまったのだった。

長屋への帰り道、二人の足取りは、行きよりもずっと軽かった。

部屋に戻ると、紫苑は懐から受け取った銭を取り出し、畳の上に、一枚一枚、丁寧に並べていった。百円硬貨が十枚、きっちりと列をなして、鈍い光を放っている。

「――これが、今日一日の稼ぎ」

紫苑が、感慨深げにそう呟いた。天子もまた、その光景を、食い入るように見つめていた。

「――すごいじゃない。今までの、何倍よ、これ」

「人足仕事なら、二百円がいいところだったものね。物々交換と内職合わせても、精々二百五十円ってところだったし」

紫苑は指を折りながら、これまでの稼ぎと、今日の稼ぎを比べていた。二人合わせても、これまでは一日四百円から五百円がやっとだった。それが、たった一日の傘張りだけで、千円――優に倍以上の稼ぎになっていた。

「――このまま、これだけやってたら」

天子が、並べられた硬貨を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「もしかして、なんとかなるんじゃない? この生活」

「――甘く見すぎよ。毎日、今日みたいにうまくいくとは限らないし、注文の数にだって限りがあるわ」

紫苑はそう釘を刺しながらも、その声には、隠しきれない期待が滲んでいた。

「でも……そうね。内職一本に絞る道も、悪くないかもしれない」

紫苑は、畳に並んだ硬貨を、もう一度、確かめるように見つめた。

「人足仕事は、あんたの体に無理がかかる。物々交換も、いつまでも同じようにうまくいくとは限らない。それなら、いっそ、内職に絞って、腕を磨いていく方が、確実かもしれないわね」

「賛成よ、それ」

天子は即座に頷いた。あの人足仕事での惨めさを、これ以上味わいたくないという気持ちが、その即答に滲んでいた。

「――ただし」

紫苑は、少し表情を引き締めて続けた。

「油断は禁物よ。今日はたまたま、上手くいっただけかもしれない。明日も、同じようにいくとは限らないんだから」

「分かってるわよ、そんなの」

天子はそう答えながらも、並べられた硬貨を、名残惜しそうに指でなぞった。その仕草には、これまでにはなかった、確かな手応えが滲んでいた。

その夜、二人は久しぶりに、腹一杯とまではいかなくとも、いくらか余裕のある食事にありつくことができた。粗末な菜っ葉の煮物に、わずかながら米も混じっている。それだけのことが、今の二人にとっては、十分すぎるご馳走だった。

「――美味しいわね」

紫苑がしみじみとそう零すと、天子も同意するように頷いた。

「明日も、頑張りましょう」

「そうね」

二人は、静かにそう言葉を交わし合った。茶碗の中では、あの小さな魚が、変わらず気ままに、水面を揺らしていた。




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

今回のような、大きな事件のない、静かな一話も、この作品には大切な時間だと思っています。楽しんでいただけていたら嬉しいです。

更新は引き続き不定期になりますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。感想やコメント、いつでも励みになります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。