今回は、ヤマメとの二度目のやり取りを描いています。少しずつ変わっていく空気を、楽しんでいただければ幸いです。
一ヶ月というのは、思っていたよりも早く過ぎるものだった。
内職一本に絞ってからの日々は、単調と言えば単調だったが、それでも確かな手応えのある単調さだった。朝起きて、傘の骨組みに糊を伸ばし、油紙を張り、乾かし、また次の一本に取りかかる。天子の指先は、日を追うごとに、さらに滑らかさを増していった。紫苑もまた、その隣で黙々と手を動かし続けた。
「今日で、何本目だっけ」
「さあ。数えるのも面倒になってきたわ」
そんな他愛のないやり取りを交わしながら、二人は毎日、同じ場所に座り、同じ作業を繰り返した。それは、驚くほど自然に、二人の日常として根付いていた。井戸端で顔を合わせる秋姉妹との世間話も、いつしか当たり前の風景になっていた。
部屋の隅では、あの小さな魚が、相変わらず気ままに泳ぎ続けている。名前のないその存在も、もはや、二人の生活に欠かせない一部になっていた。
そうして迎えた、二度目の家賃の支払日。
紫苑は帳面を睨みながら、これまでの稼ぎを、何度も確かめ直していた。
「今月は、ちゃんと足りてる」
その声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。前回、半分にも満たない額しか用意できなかったことを思えば、これは大きな進歩だった。
「お滝さんも、少しは見直してくれるかしらね」
天子が軽口交じりにそう言うと、紫苑は苦笑しながら頷いた。
二人は、揃ってお滝の住まいへと向かい、今度こそ、きっちりと家賃を納めることができた。お滝は差し出された銭を数え、満足げに小さく頷いた。
「今月は、ちゃんとしてるじゃないか」
その一言だけで、天子と紫苑は、顔を見合わせて笑い合った。不器用な優しさとはいえ、確かに認められたという実感が、二人の胸に、じんわりと広がっていった。
それから数日が過ぎた、ある昼下がりのことだった。
戸口に吊るされた鈴が、けたたましい音を立てた。
「邪魔するぞ」
聞き覚えのある声が、戸の向こうから響いた。天子と紫苑は、顔を見合わせて頷き合った。
「ヤマメね」
「そうみたいね」
戸を開けると、そこには、前回と変わらぬ出で立ちのヤマメが立っていた。鋭い目つき、帳面を挟んだ腰つき。それでも、以前ほどの緊張感は、なぜか薄れているように感じられた。
「今月分だ。聞かせてもらおうか」
紫苑は、あらかじめ用意していた銭を、丁寧に差し出した。
「これで、今月分、きっちりです」
ヤマメは受け取った銭を数え、帳面と照らし合わせた。しばらくの沈黙の後、片眉をわずかに上げた。
「ほう。今回は、きっちり揃ってるな」
「先月は、色々と重なってしまって。今月からは、ちゃんと払っていくつもりです」
紫苑がそう答えると、ヤマメは帳面に何かを書き付けながら、小さく鼻を鳴らした。
「ふん、上等じゃないか。逃げも隠れもせず、ちゃんと帳尻を合わせようとする奴は、そう多くない」
その言葉には、皮肉ではなく、素直な評価が滲んでいるように聞こえた。天子は少し得意げに、腕を組んだ。
「でしょう?私たち、これでも頑張ってるのよ」
「まだ二回目だろう。あまり調子に乗るな」
「手厳しいわね」
天子が唇を尖らせると、紫苑が横から小突くように口を挟んだ。
「調子に乗ってるのは、あんたの方よ。少しは自重しなさい」
「あんたも似たようなもんでしょ、さっき、こっそり誇らしげな顔してたし」
「し、してないわよ」
二人の言い合いに、ヤマメは片眉を上げ、面白がるような目でそれを眺めていた。
「仲がいいんだな、お前ら」
「は?別に、そういうんじゃ」
「いいから、いいから。惚気は結構だ」
からかうような口調に、天子と紫苑は同時に顔を赤らめた。
「惚気って、あんた、勘違いも甚だしいわよ」
「そうそう、こっちは同居人ってだけで」
二人が揃って否定するのを、ヤマメはどこか楽しげに眺めていた。その表情には、事務的な取り立て屋というより、少しだけ砕けた人間らしさが滲んでいた。
用件が終わった後も、ヤマメはすぐには帰らず、戸口のあたりで少し立ち止まっていた。天子はその様子に、ふと興味を覚えた。
「ねえ。ヤマメって、こういう取り立ての仕事、どのくらいやってるの」
何気ない問いだった。深い意図があったわけではない。ただの世間話の延長のつもりだった。
「それなりに長い」
ヤマメは、そっけなくそう答えた。
「儲かるの、こういうの」
紫苑も、その流れに乗って、軽い調子で尋ねた。特に深く考えたわけではなかった。ただ、純粋な好奇心からの問いだった。
ヤマメは、その問いに、少しの間、沈黙した。
「儲かる、ねえ」
ヤマメは、どこか自嘲めいた響きを声に滲ませながら、ぽつりと呟いた。
「そんなに、儲かるもんじゃないな。取り立て一件につき、決まった額しか貰えない。しかも、お前らみたいに、まともに払ってくれる連中ばかりじゃない。逃げられたり、開き直られたりすることの方が、よっぽど多い」
「そうなの」
「取りっぱぐれた分は、こっちの責任にされることもある。それでいて、給金自体は、大して変わらない」
ヤマメの口調は、淡々としていたが、その言葉の端々には、これまで積み重ねてきたであろう苦労の色が、確かに滲んでいた。
「じゃあ、割に合わない仕事ってこと?」
天子が率直にそう尋ねると、ヤマメは小さく笑った。自嘲とも、諦めともつかない、複雑な笑みだった。
「まあ、そうだな。割に合わないと言えば、割に合わない」
「だったら、なんで」
「他に、選べる仕事が、そう多くないだけだ」
ヤマメはそう言い切ると、それ以上は語らなかった。
「それ、私たちと似たようなものね」
紫苑がぽつりと零すと、ヤマメは意外そうにこちらを見た。
「似たようなもの、とは」
「私たちだって、好きで内職やってるわけじゃないもの。他に選べる道が、なかっただけ」
紫苑がそう言うと、天子もそれに続いた。
「人足仕事は体が持たないし、店に雇ってもらえるあてもないし。消去法よ、消去法」
「なるほどな」
ヤマメは、少し興味深そうに二人を見比べた。
「お前らも、似たような立場、ってわけか」
「まあ、そうね」
紫苑が苦笑しながら頷くと、ヤマメは珍しく、口の端をわずかに緩めた。
「悪くない話だ。そういうのは、嫌いじゃない」
その一言だけで、部屋の空気が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。天子は、その変化を敏感に感じ取り、少し茶化すように声をかけた。
「あんたも、案外、話すと普通の人ね」
「当たり前だろう。取り立て屋だからって、四六時中怖い顔してるわけじゃない」
「でも、最初来た時、すごい怖い顔してたじゃない」
「あれは、仕事の顔だ。慣れてもらわないと、示しがつかないだろう」
ヤマメがそう言い返すと、紫苑がくすりと笑った。
「今は、示しつかなくていいの?」
「……うるさいな。もう用は済んだ、帰るぞ」
ヤマメは、少し決まり悪そうに視線を逸らしながら、そそくさと帳面をしまい始めた。その様子に、天子と紫苑は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
「邪魔したな。また来月」
ヤマメはそう言い残すと、踵を返し、戸口をくぐって去っていった。鈴の音が、その背中を見送るように、小さく鳴った。
部屋の中に残された天子と紫苑は、しばらく、ヤマメが去っていった戸口を見つめていた。
「思ったより、大変な仕事、なのね」
紫苑がぽつりと呟くと、天子も頷いた。
「怖い人だと思ってたけど……なんか、ちょっと、違うのかもね」
二人は、それ以上、多くを語らなかった。ただ、これまでの「取り立て屋」という一面的な印象が、少しだけ、その輪郭を変えたような気がしていた。
茶碗の中では、あの小さな魚が、いつものように、気ままに水面を揺らしていた。今日という日もまた、そうして、静かに暮れていった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、これまでに比べると短めの話数になりました。ただ、内容や書き方については、色々と試行錯誤しながら、読みやすさを改良している最中です。今後も、より良い形でお届けできるよう、工夫を重ねていきたいと思います。
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