今回は、天子にとって特別な人物との再会を描いています。
ろしければ、最後までお付き合いいただければ幸いです。
衣玖が地上へと降り立ったのは、特に大きな理由があってのことではなかった。
天子が家を出てから、随分な時が経っていた。最初の数日は、いつもの気まぐれだろうと思っていた。だが、十日が過ぎ、半月が過ぎ、ひと月が過ぎても、天子は戻ってこなかった。
それは、これまでにない長さだった。
天上では、相変わらず、誰も大きく騒ぎ立てはしなかった。天子様はまたか、という程度の空気が、相変わらず漂っているだけだった。だが、衣玖だけは、その空気に、どこか違和感を覚えずにはいられなかった。
――これまでとは、何かが違う。
根拠のある予感ではなかった。ただ、長年天子の傍にいた者としての、ある種の勘のようなものが、衣玖の胸の内で、静かに警鐘を鳴らし続けていた。
衣玖は、誰に命じられたわけでもなく、自らの意志で、地上へと降りることを決めた。見つけたところで、無理に連れ戻すつもりはなかった。ただ、様子だけでも確かめておきたい――それだけの、ささやかな動機だった。
人間の里に降り立った衣玖は、しばらくの間、当てもなく歩き回った。
天子の気配を探る術は、いくつか心得ていた。だが、それも万能ではない。広い里の中を、一軒一軒確かめるわけにもいかず、衣玖はただ、噂や聞き込みを頼りに、少しずつ、手がかりを辿っていくしかなかった。
「この辺りで、天人らしき女を見かけなかったか」
衣玖がそう尋ねて回るたび、様々な答えが返ってきた。ある者は首を振り、ある者は怪訝な顔をした。だが、里の外れまで足を伸ばしたところで、ようやく、聞き覚えのある情報に行き当たった。
「ああ、それなら。あのボロ長屋に住んでる、変わった女のことかね」
その言葉に、衣玖の胸が、小さく跳ねた。
教えられた道を辿り、里のさらに外れへと進んでいくと、傾いだ柱と、剥がれかけた壁を持つ、古い長屋が見えてきた。天上の住まいとは、あまりにもかけ離れた佇まいだった。
衣玖は、しばらくその場に立ち尽くした。
――本当に、ここに。
胸の奥で、様々な感情が、同時にせめぎ合っていた。安堵、不安、そして、まだ言葉にならない何か。衣玖は、一度深く息を吸い込み、その長屋の戸口へと、ゆっくりと歩を進めた。
その日、天子は、いつものように内職に精を出していた。
糊を伸ばし、油紙を張る手つきは、すっかり板についていた。隣では、紫苑が黙々と同じ作業を続けている。井戸端から聞こえる、秋姉妹の笑い声。狭い茶碗の中で泳ぎ続ける、小さな魚。それらすべてが、天子にとって、もはや当たり前の、かけがえのない日常になっていた。
ふと、戸口に吊るされた鈴が、微かに揺れた気がした。
空耳だろうか。天子は、特に気にも留めず、作業を続けようとした。だが、その直後、確かな足音が、戸の前で止まるのを感じた。
「――天子様」
その声を聞いた瞬間、天子の手から、刷毛が滑り落ちた。
聞き間違えるはずのない声だった。何年も、何十年も、耳に馴染んできた、あの声。天子は、しばらくの間、動くことができなかった。
――なんで、ここに。
頭の中で、様々な考えが、渦を巻くように駆け巡っていった。どうやって見つけたのか。どれだけ探したのか。そして――どんな顔で、自分は今、この声の主と向き合えばいいのか。
震える手で、天子は、ゆっくりと戸を開けた。
そこに立っていたのは、記憶の中そのままの、衣玖だった。
衣玖は、しばらくの間、言葉を発しなかった。
ただ、天子の姿を、食い入るように見つめていた。継ぎの当たった着物、日に焼けた肌、荒れた指先。かつての、何の憂いもなく過ごしていた頃の面影とは、明らかに違う姿が、そこにあった。
「……天子様」
衣玖の声は、微かに震えていた。安堵なのか、動揺なのか、あるいはその両方なのか、天子にはすぐには判じかねた。
「あんたが、なんで」
天子は、努めて平静を装おうとした。だが、その声は、自分でも驚くほど、上擦っていた。
「探しておりました。随分と、長い間」
衣玖の言葉には、咎めるような響きはなかった。ただ、淡々とした事実として、そう告げられただけだった。それが、かえって天子の胸を、ちくりと刺した。
「別に、頼んでないわよ、そんなこと」
天子は、そう強がるように言い返した。だが、言葉とは裏腹に、衣玖から目を逸らすことができずにいた。
「それは、承知しております。ただ、こちらが、黙って見過ごすことが、できなかっただけです」
衣玖はそう言いながら、ゆっくりと、部屋の中へと視線を巡らせた。傾いた柱、継ぎ接ぎだらけの壁、そして、隅に置かれた、質素すぎる調度。衣玖の表情が、その一つ一つを確かめるたびに、わずかに強張っていくのが、天子にも分かった。
「……随分と、質素な、お住まいですね」
その言葉には、非難の色はなかった。ただ、言葉を選びながら、ようやく絞り出したような、そんな響きがあった。
「――見れば分かるでしょ。質素も質素よ」
天子は、投げやりにそう答えた。その声には、羞恥と、意地とが、綯い交ぜになっていた。
「見られて困るようなもんじゃないわ。私が、自分で選んだ暮らしなんだから」
衣玖は、その言葉を、しばらく黙って受け止めていた。やがて、静かに、一歩、部屋の中へと足を踏み入れた。
「天子様。随分と、お痩せになりましたね」
「そんなこと、ないわよ」
「隠さなくて、結構です。この目で、見れば分かります」
衣玖の声に、初めて、感情の揺らぎが滲んだ。それは、咎めるというより、むしろ、堪えきれない心配が、静かに溢れ出したような響きだった。
天子は、その声に、思わず言葉を失った。これまで、何度も聞いてきたはずの、衣玖の心配する声。だが、今、こうして地上の、この質素な部屋の中で聞くそれは、これまでとは、まるで違う重みを持って、天子の胸に響いた。
「……なんで、そんな顔するのよ」
天子は、俯きがちに、ぽつりと呟いた。
「あんたが、そんな顔する必要、ないでしょう。私が、勝手に出てきて、勝手に、こうやって暮らしてるだけなんだから」
「勝手に、とは、思っておりません」
衣玖の声は、思いのほか、はっきりとしていた。
「天子様が、何かを抱えて、あの場所を出られたことは、私にも、薄々分かっておりました。ただ——」
衣玖は、そこで一度、言葉を切った。
「ただ、こんなにも、苦しい思いをされているとは、思っておりませんでした」
その一言が、天子の胸の奥を、深く突いた。
「苦しいだなんて、言ってないでしょ」
「言わずとも、分かります。長年、お傍におりましたから」
衣玖のその言葉に、天子は、ぐっと喉を詰まらせた。何か言い返そうとしたが、言葉が、うまく形にならなかった。
沈黙が、しばらく部屋の中に満ちた。狭い茶碗の中で、小さな魚が、気ままに水面を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……あんたさ」
天子は、ようやく、絞り出すように口を開いた。
「あの時、私が出てった後、どうしてた」
「どう、とは」
「困った? 迷惑だった? それとも……また始まった、くらいに、思ってた?」
天子の問いには、どこか自嘲めいた響きがあった。衣玖は、その問いに、しばらく答えを探すように、沈黙した。
「正直に、申し上げます」
やがて、衣玖は、静かに口を開いた。
「最初は、いつものことだと、思っておりました。ですが、日が経つにつれて、どうしても、胸騒ぎが収まりませんでした。これまでとは、何かが違う。そんな予感が、拭えなかったのです」
「予感、ねえ」
「天子様が、本気で、あの場所から離れようとされている。そう感じました。だから――」
衣玖は、まっすぐに、天子の目を見据えた。
「だから、探しに参りました。連れ戻すためでは、ありません。ただ、天子様が、どこで、どのように過ごしておられるのか、この目で、確かめたかっただけです」
その言葉に、天子は、しばらく何も言えなかった。
連れ戻すためではない。ただ、確かめに来た。それは、第一話の夜、障子の向こうで聞いた、あの衣玖の独り言と、どこか繋がっているように、天子には感じられた。強く縛ることをせず、それでも、見捨てることもしない。そういう、不器用で、苦しい選択を、衣玖はずっと続けてきたのだと、今更ながらに、天子は思い知らされていた。
何か、言わなければならない気がした。だが、喉元まで出かかった言葉を、天子は、結局、呑み込んでしまった。
「……ふん。別に、謝ってほしいなんて、頼んでないでしょ」
天子は、そう素っ気なく言葉を濁した。本当は、もっと別の言葉を、言いたかったような気もした。だが、それを形にするには、まだ、何かが足りなかった。
「なぜ、帰らなかったのですか」
衣玖の問いに、天子は、一瞬、言葉を詰まらせた。それから、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「さあ。なんとなく、よ。なんとなく、帰るのも癪だった、ってだけ」
本当の理由は、もっと別のところにあった気がした。だが、それを今、ここで、素直に口にする気には、まだなれなかった。衣玖は、その返答に、何か言いたげな顔をしたが、それ以上は深く追及しなかった。
「……そう、ですか」
衣玖の声には、わずかな寂しさが滲んでいた。だが、それを押し付けることなく、静かに、その言葉を受け止めただけだった。
天子は、ようやく顔を上げた。衣玖の表情には、これまで見たことのない、柔らかな色が浮かんでいた。咎めるでもなく、哀れむでもなく、ただ、まっすぐに、天子を見つめる眼差しだった。
「――あんた」
「はい」
「……この生活、見て、どう思った」
天子の問いに、衣玖は、改めて、部屋の中を見渡した。質素な調度、内職の道具、そして、隅で気ままに泳ぐ小さな魚。
「――正直に、申し上げても、よろしいですか」
「……いいわよ」
「決して、楽な暮らしには、見えません。むしろ、これまでの天子様からは、想像もつかないほど、過酷な日々をお過ごしのことと、お見受けします」
衣玖は、そこで一度言葉を切り、それから、静かに続けた。
「——ですが」
「——ですが?」
「以前よりも、天子様の目に、何か、確かなものが宿っているように、私には見えます。それが、何なのか、まだ、私には分かりません。ですが――」
衣玖は、わずかに目を伏せた。
「それを、無理に取り上げる権利は、私には、ないのだと思います」
その言葉を聞いた瞬間、天子の胸に、これまで張り詰めていた何かが、少しだけ緩んでいくのを感じた。
それを悟られまいと、天子は、わざとらしく咳払いをして、顔を背けた。
「ふん。分かってるなら、最初からそう言いなさいよ」
「失礼いたしました」
衣玖の声には、わずかに、柔らかな笑みが滲んでいた。天子は、それに気づかないふりをしながら、しばらくの間、そっぽを向いたままでいた。
やがて、衣玖は、静かに踵を返した。
「――また、様子を見に参ります。よろしいですね」
「――好きにすれば」
天子がそっけなくそう答えると、衣玖は小さく頷き、戸口をくぐって去っていった。鈴の音が、その背中を見送るように、微かに鳴った。
衣玖が長屋を出て、里へと続く道を歩いていた頃、ちょうど反対方向から、一人の女が歩いてくるのとすれ違った。
物々交換帰りなのか、小さな風呂敷包みを抱えた、見知らぬ女だった。衣玖は、特に気にも留めず、軽く会釈をするに留めた。女の方も、同じように、会釈を返しただけだった。
それが、紫苑だった。
互いに、相手が誰であるかを知らぬまま、二人は、ただすれ違っていった。
長屋に戻った紫苑は、戸を開けるなり、弾んだ声を上げた。
「――見て、今日の稼ぎ!」
紫苑は、懐から取り出した銭を、畳の上に広げて見せた。百円硬貨が四枚、五十円硬貨が一枚、十円硬貨が三枚――合わせて、四百八十円。
「物々交換で、思いのほかいい品が手に入ってね。それを、問屋に高く買い取ってもらえたのよ」
紫苑は、その硬貨を、誇らしげに見つめた。
「これだけあれば、今日は、野菜の煮物だけじゃなくて、少しくらい、美味しいもの、食べられるんじゃない?」
天子は、その言葉に、ようやく、先ほどまでの張り詰めた空気から、解き放たれたような気がした。
「――いいわね、それ」
天子は、いつもと変わらぬ調子で、そう頷いた。衣玖との再会のことは、まだ、紫苑には何も話していなかった。それをどう切り出すべきか、天子自身、まだ整理がついていなかった。
「――何か、食べたいもの、ある?」
紫苑が尋ねると、天子は少し考えてから、ぽつりと答えた。
「甘いもの、かしら。ずっと、食べてなかった気がするし」
「いいわね。それじゃ、何か見繕ってくるわ」
紫苑は、弾んだ足取りで、再び外へと出かけていった。天子は、その後ろ姿を見送りながら、茶碗の中で泳ぐ、あの小さな魚に、ふと視線を落とした。
魚は、変わらず、気ままに泳ぎ続けていた。今日という日に起きた、様々なことなど、何も知らぬ顔で。
天子は、小さく息を吐いた。胸の内に残る、まだ整理のつかない感情を抱えたまま、それでも、いつもと変わらぬ日常が、静かに続いていく。それだけが、今の天子にとって、確かな救いだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、これまでとは少し違う、重みのある一話になったかと思います。天子の抱える複雑な気持ち、少しでも伝わっていたら嬉しいです。
更新は引き続き不定期になりますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。感想やコメント、いつでも励みになります。