無尽長屋記   作:角筈律

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第十四話をお読みいただきありがとうございます。

今回は、ちょっとした体調不良と、不慣れな看病を描いています。コミカルな雰囲気を楽しんでいただければ幸いです。


第十四話、熱

気づけば、季節は春の終わりに差し掛かっていた。

 

長屋の裏手に茂る草木も、日に日に青さを増していく。だが、そんな季節の移ろいとは裏腹に、天子と紫苑の暮らしには、新たな影が差し始めていた。

 

「また、減ってる」

 

問屋から戻ってきた紫苑が、浮かない顔で風呂敷包みを畳の上に置いた。中には、いつもより少ない数の、未完成の傘の骨組みが入っていた。

 

「注文、少なくなってきてるの?」

 

天子が尋ねると、紫苑は小さく頷いた。

 

「これから梅雨にかけては、本来なら傘の需要が増えるはずなんだけど……今年は、他の業者がだいぶ値を下げて注文を取ってるみたいで。うちみたいな、細々とやってる内職には、なかなか回ってこなくなってきてるのよ」

 

紫苑の説明に、天子は眉を寄せた。せっかく軌道に乗り始めたはずの生活が、また、足元から崩れていくような、そんな予感がした。

 

「――造花の方は?」

 

「そっちも、そう変わらないわ。静葉さんのところも、同じように苦戦してるみたい」

 

紫苑の声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。

 

その日から、二人の収入は、目に見えて先細っていった。これまで、なんとか維持してきた食事の質も、再び切り詰めざるを得なくなった。屑野菜の煮物だけの日が増え、米の量も、以前よりずっと少なくなっていった。

 

それから十日ほどが過ぎた、ある朝のことだった。

 

「へ、へくちっ!」

 

盛大なくしゃみの音で、天子は目を覚ました。隣を見やると、紫苑が、鼻をすんすんと鳴らしながら、布団の中で丸くなっていた。

 

「何よ、朝から騒々しい」

 

「……ごめん。なんか、鼻が、むずむずして」

 

紫苑は、そう言いながら、もう一度大きく「へっくしゅ!」とくしゃみをした。天子は、半分寝ぼけ眼のまま、紫苑の顔を覗き込んだ。頬のあたりが、いつもより心なしか赤らんでいる。

 

「あんた、顔赤いじゃない」

 

「そう、かしら」

 

紫苑は、自分の頬に手を当てて首を傾げた。天子は、念のためにと、紫苑の額に掌を乗せてみた。

 

「――ちょっと、熱いかも」

 

「え、嘘」

 

紫苑は、慌てたように身を起こそうとしたが、頭がくらりとしたのか、すぐにまた布団に逆戻りした。

 

「あー、なんか、ふらふらするかも」

 

「それ、絶対、風邪ひいてるでしょ」

 

天子が呆れたように指摘すると、紫苑は、観念したように小さく唸った。

 

「……まあ、そうかもしれないわね。ここ最近、ろくなもの食べてなかったし」

 

「それ見たことか。無理しすぎなのよ、あんた」

 

天子は、紫苑の布団を軽く整え直しながら、少し得意げにそう言った。だが、その口ぶりとは裏腹に、心の中では、どうしたものかと、密かに算段を巡らせ始めていた。

 

「今日は、大人しく寝てなさい。仕事は、私がどうにかするから」

 

「無理しないでよ、あんたも」

 

「その台詞、そっくりそのまま返すわよ」

 

天子がそう軽口を返すと、紫苑は、小さく笑ってから、また「へくちっ」とくしゃみをした。その締まらない様子に、天子も思わず噴き出してしまった。 

 

いざ看病をするとなって、天子は、自分がこれまで、誰かの世話をした経験が一度もないことに、改めて気づかされた。

 

「よし。まず、何をすればいいのかしら」

 

天子は、腕を組んで、しばらく考え込んだ。紫苑は、布団の中から、その様子を、どこか不安げに見つめていた。

 

「とりあえず、お粥でも作ろうかしら。風邪の時は、お粥でしょ、常識的に」

 

「……作ったこと、あるの?」

 

「ないけど、米と水を煮ればいいだけでしょ。簡単よ」

 

紫苑は、その自信満々な物言いに、一抹の不安を覚えながらも、黙って見守ることにした。

 

天子は、鍋に米と、たっぷりの水を入れ、竈にかけた。しばらくして、様子を見に行くと、鍋の中身は、思っていたよりもずっと水気を含んで、ゆるゆるとしたものになっていた。

 

「あれ。もうちょっと、とろみが欲しいのに」

 

天子は、首を傾げながら、さらに火にかけ続けた。だが、今度は目を離した隙に、鍋の底が焦げ付き始めていた。

 

「ちょっと、なんか焦げ臭くない?」

 

布団の中から、紫苑が心配そうな声を上げた。天子は慌てて鍋を覗き込み、底の方が真っ黒に焦げついているのを発見した。

 

「ああもう!なんで!」

 

天子は、焦げた部分を慌てて掬い出そうとしたが、その拍子に、鍋の中身を半分近く、床にぶちまけてしまった。

 

「――っ、熱い熱い!」

 

「大丈夫!?」

 

紫苑が、布団から半身を起こして声を上げると、天子は、こぼれた粥を雑巾で拭き取りながら、決まり悪そうに答えた。

 

「だ、大丈夫よ。ちょっと、こぼしただけ」

 

結局、残った分の粥を、天子はなんとか器に盛り付けた。だが、出来上がったものは、半分焦げ臭く、半分水っぽいという、なんとも中途半端な代物だった。

 

「はい、お粥」

 

天子が差し出したそれを、紫苑は、恐る恐る一口、口に運んだ。

 

「……うん。味は、まあ、悪くないわね」

 

「でしょう!私、意外と料理の才能あるんじゃない?」

 

天子が得意げに胸を張ると、紫苑は、曖昧な笑みを浮かべながら、内心でそっと呟いた。

 

――これなら、自分で作った方が、よっぽど早かったかもしれない。

 

だが、その考えを、紫苑は、口には出さなかった。目の前で、不慣れながらも一生懸命に動き回る天子の姿が、どこか微笑ましくもあったからだった。

 

粥を食べ終えた後、天子は、次に額を冷やすための手拭いを用意しようとした。

 

「ええと、確か、水に浸して、絞って、額に乗せる、だったかしら」

 

天子は、桶に汲んだ水に手拭いを浸し、それを絞ろうとした。だが、絞り方がよく分からず、ぐちゃぐちゃと捻るばかりで、思うように水が切れなかった。

 

「あ、ちょっと、それ、絞り方」

 

紫苑が口を挟もうとしたが、天子はそれを遮るように、「分かってる分かってる」と答えながら、構わず作業を続けた。結局、びしょびしょのままの手拭いが、紫苑の額の上に、ぺたりと乗せられた。

 

「――つ、冷たっ……ていうか、びしょびしょなんだけど」

 

「あれ、そうだった?」

 

天子は、首を傾げながら、もう一度手拭いを手に取り、今度は、今まで以上に力任せに絞った。すると、今度は布が、あまりの力に、ぴりっと裂けてしまった。

 

「――あ」

 

「あ、って何よ」

 

紫苑が半眼で天子を睨むと、天子は、気まずそうに視線を逸らした。

 

「……まあ、多少破れても、使えないことはないでしょ」

 

「使えるけど、なんか、負けた気がするのは、なんでかしら」

 

紫苑が呆れたようにそう零すと、天子は、むきになって言い返した。

 

「うるさいわね!慣れないことしてるんだから、多少の失敗は仕方ないでしょ!」

 

そう言いながらも、天子は、裂けた手拭いを、どうにか使える形に整え直し、改めて紫苑の額に乗せた。今度は、先ほどよりは幾分かましな、ひんやりとした心地よさが、紫苑の額に伝わってきた。

 

「……これは、悪くないわね」

 

「でしょう。学習能力、あるのよ、私」

 

天子が自慢げにそう言うと、紫苑は、小さく笑った。

 

それから、天子は、紫苑の世話を、何くれとなく焼き続けた。水を汲んでは零し、布団を整えようとしては逆に乱し、薬を探して長屋中を走り回っては、結局何も見つからずに手ぶらで戻ってくる。その度に、紫苑は、半分呆れ、半分おかしくなりながら、その様子を見守っていた。

 

「あんた、本当に、不器用ね。傘作りとか、造花の時とは、別人みたい」

 

紫苑がそう零すと、天子は、不服そうに唇を尖らせた。

 

「仕方ないでしょ。誰かの世話をするなんて、したことなかったんだから」

 

「それは、分かるけど」

 

「それに」

 

天子は、少し真剣な顔つきになって、続けた。

 

「傘とか、造花とかは、失敗しても、やり直せばいいだけでしょ。でも、これは、あんたの体のことだから。失敗、したくないのよ」

 

その言葉に、紫苑は、一瞬、言葉を失った。不器用で、失敗続きで、傍から見れば、滑稽でしかない看病だった。だが、その奥にある、不慣れながらも真剣な気持ちが、確かに伝わってくるような気がした。

 

「……ふふ」

 

紫苑は、思わず小さく笑ってしまった。

 

「何よ、笑うことないでしょ」

 

「ごめんごめん。でも、なんか、あんたらしいなって思って」

 

紫苑は、そう言いながら、天子の不慣れな看病を、もう少しだけ、受け入れてみることにした。自分でやった方が早いことは、分かっていた。それでも、こうして一生懸命になってくれる姿を、無下にしたくはなかった。

 

昼を過ぎた頃、天子は、ふと思い立ったように、何かを探し始めた。

 

「そういえば、風邪の時は、生姜湯とか、そういうのがいいんじゃなかったかしら」

 

「生姜、うちにあったかしら」

 

「知らないけど、とりあえず探してみるわ」

 

天子は、台所代わりの一角を、ごそごそと漁り始めた。だが、生姜らしきものは、どこにも見当たらなかった。代わりに見つかったのは、何に使うものかも判然としない、乾いた木の根のようなものだった。

 

「これ、何かしら」

 

天子は、それを手に取り、まじまじと眺めた。紫苑は、布団の中から、それを一瞥し、小さく吹き出した。

 

「それ、前に秋姉妹から貰った、木の根っこの飾りじゃない。食べ物じゃないわよ」

 

「あ、そうだったわ、これ」

 

天子は、気まずそうにそれを元の場所に戻した。

 

「じゃあ、他に何かないかしら」

 

結局、生姜は見つからず、天子は、代わりに、湯を沸かしただけの、ただの白湯を用意することにした。

 

「これでも、ないよりましでしょ」

 

「まあ、そうね。温かいだけでも、ありがたいわ」

 

紫苑は、その白湯を、ゆっくりと口に運んだ。特別な効能があるわけではなかったが、温かいものが喉を通る感覚は、確かに、少しだけ体を楽にしてくれるようだった。

 

夕方が近づく頃、天子は、今度は、紫苑の体を温めようと、慣れない手つきで布団の中に、温めた石を忍ばせようとした。

 

「これなら、湯たんぽ代わりになるでしょ」

 

天子は、竈で温めた石を、布でくるみ、布団の中へと滑り込ませた。だが、石の温度を見誤ったのか、それはあまりにも熱すぎた。

 

「――っ、あつっ!?」

 

紫苑が、飛び上がるようにして布団から足を引っ込めた。天子は、慌ててその石を取り出した。

 

「ご、ごめん!そんなに熱いと思わなくて!」

 

「あんた、加減ってものを知らないの!?」

 

紫苑が、足をさすりながら半分涙目で抗議すると、天子は、申し訳なさそうに肩をすくめた。

 

「次は、もうちょっと、冷ましてから入れるわ……」

 

「次があるの、それ」

 

紫苑が呆れたように呟くと、天子は、むっとしたように言い返した。

 

「当たり前でしょ。今日中に、ちゃんと看病しきってやるんだから」

 

その意気込みだけは、立派なものだった。紫苑は、焼けどこそ免れたものの、赤くなった足先をさすりながら、これから先、どんな失敗が待っているのか、少しばかりの不安と、それ以上の可笑しさを覚えずにはいられなかった。

 

「あんたね、意気込みは買うけど、そろそろ、ちょっとは加減を覚えなさいよ」

 

「分かってるわよ。次は、もっと上手くやるから」

 

天子は、そう言いながら、今度は、石を丁寧に布団の外で冷ましてから、改めて差し入れた。今度は、ちょうどいい温もりが、紫苑の足元を、じんわりと包み込んだ。

 

「……これは、悪くないわね」

 

「でしょう!やればできるのよ、私!」

 

天子が誇らしげに胸を張ると、紫苑は、小さく笑いながら、その温もりに、体を委ねた。

 

失敗だらけの、不器用な看病だった。それでも、その一つ一つに、確かな一生懸命さが詰まっていることを、紫苑は、痛いほど感じていた。

 

「まあ、せいぜい、頑張りなさいよ、看病係」

 

「言われなくても、やるわよ」

 

天子は、そう言い返しながら、また次にできることはないかと、部屋の中を歩き回り始めた。その後ろ姿を見ながら、紫苑は、熱でぼんやりとした頭の中で、こんな日々も、悪くないかもしれない、と、ふと思った。

 

日が傾く頃には、天子も、さすがに動き疲れたのか、ひと通りの看病を終えると、どさりと、紫苑の隣に横になった。

 

「はぁ、疲れた……」

 

「お疲れ様。ありがとね、色々と」

 

紫苑がそう労うと、天子は、天井を見上げたまま、小さく笑った。

 

「礼なんて、いいのよ。看病なんて、慣れないことばっかりで、散々だったけど」

 

「散々だったわね、本当に」

 

「うるさいわね、素直じゃないわよ」

 

天子がそう言い返すと、紫苑はくすりと笑い、それから、少し真面目な声で続けた。

 

「でも、嬉しかったわよ。不器用でも、ちゃんと、面倒見ようとしてくれるの」

 

その言葉に、天子は、少し照れたように視線を逸らした。

 

「別に、普通のことでしょ。一緒に住んでるんだから、これくらい」

 

「普通、かしらね」

 

紫苑は、そう呟きながら、少しだけ体を天子の方に寄せた。熱でぼんやりとした頭のまま、今日一日の出来事を、ゆっくりと思い返していた。

 

しばらく、二人は、特に会話もなく、ただ並んで天井を見上げていた。それでも、その沈黙は、どこか心地よいものだった。

 

そうして、うとうとと微睡み始めた頃、戸口の鈴が、けたたましい音を立てた。

 

「邪魔するぞ」

 

聞き覚えのある声に、天子は、重い体を引きずるようにして起き上がった。

 

「はいはい、今開けるわよ」

 

天子が戸を開けると、そこに立っていたのは、いつも通りのヤマメだった。だが、戸を開けた天子の顔は、一日の疲労が色濃く滲み、目の下には、うっすらと隈までできていた。

 

「なんだ、お前、えらい疲れた顔してるな」

 

ヤマメが、片眉を上げてそう言うと、ちょうどその時、布団の中から、紫苑の「へっくしゅ」という、くしゃみの音が響いた。

 

ヤマメは、部屋の奥を覗き込み、布団の中で、頬を赤らめたまま、鼻をすんすんと鳴らしている紫苑の姿を見つけた。

 

「……なるほど、そういうことか」

 

ヤマメは、合点がいったように頷いた。

 

「風邪、引いたの」

 

「……そうなのよ。それで、こいつが、不慣れな看病で、色々と大変で」

 

天子がそう答えると、ヤマメは、苦笑交じりに、二人の様子を見比べた。疲れ果てた看病係と、赤い顔で鼻をすする病人。その組み合わせに、ヤマメは、どこか微笑ましいものを感じているようだった。

 

「ふん。災難だったな、お前ら」

 

ヤマメはそう言いながら、懐から帳面を取り出した。だが、いつものように、取り立ての額を告げる前に、少し考え込むような素振りを見せた。

 

「今月の分、本来なら、四千円だが」

 

ヤマメは、帳面を見つめながら、ふと顔を上げた。

 

「今回は、半分でいい。二千円でいい」

 

その言葉に、天子は、思わず目を見開いた。

 

「え、いいの、そんなの」

 

「病人がいるところから、無理に取り立てるほど、鬼じゃない」

 

ヤマメは、素っ気なくそう言い放った。だが、その声には、確かな気遣いが滲んでいた。

 

「残りの分は、来月に回しとく。体、ちゃんと治してから、また払えばいい」

 

「……ありがとう、ヤマメ」

 

布団の中から、紫苑が、くぐもった声で礼を言った。ヤマメは、ふんと小さく鼻を鳴らしただけだったが、その表情には、わずかな照れが、確かに滲んでいた。

 

「礼なんか、いらない。仕事の都合上、動けねえ奴から搾り取っても、意味がないってだけの話だ」

 

そう言いながらも、ヤマメは、懐から小さな紙包みを取り出すと、それを天子に差し出した。

 

「これ、やる。知り合いの医者から、余りをもらったやつだ。風邪に効くらしい」

 

「あんた」

 

「別に、大したもんじゃない。偶々、手元にあっただけだ」

 

ヤマメは、そっけなくそう言うと、受け取った二千円を帳面と共にしまい、踵を返した。

 

「邪魔したな。また来月」

 

ヤマメはそう言い残すと、戸口をくぐって去っていった。鈴の音が、その背中を見送るように、静かに鳴った。

 

天子は、手の中に残された紙包みを、しばらく見つめていた。

 

「ヤマメから、薬貰ったわよ」

 

「本当に?よかった……」

 

紫苑の声には、安堵の色が滲んでいた。天子は、その薬を手に、改めて紫苑の傍らに座り込んだ。

 

「あいつ、口は悪いけど、根はいい奴なのかもね」

 

天子がぽつりと呟くと、紫苑も、小さく頷いた。

 

「そうね。少しずつ、分かってきたわね」

 

狭い茶碗の中で、あの小さな魚が、変わらず気ままに、水面を揺らしていた。その穏やかな光景を眺めながら、天子と紫苑は、今日という、慌ただしくも、どこか温かい一日の終わりを、静かに噛み締めていた。




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

今回は、重たい話というより、二人らしい掛け合いを楽しんでもらえる回にしたいと思って書きました。ヤマメとの距離も、少しずつ縮まってきています。

更新は引き続き不定期になりますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。感想やコメント、いつでも励みになります。
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