今回は、天子の新しい挑戦が実を結ぶ様子を描いています。
よろしければ、最後までお付き合いいただければ幸いです。
紫苑の風邪がすっかり癒えた頃、季節は、いよいよ梅雨の気配を帯び始めていた。
幸い、傘の注文も、梅雨入りと共に、少しずつ持ち直しを見せていた。だが、天子の夜なべの楽しみは、相変わらず、あの造花作りにあった。
「ねえ、紫苑。見て、これ」
ある晩、天子は、出来上がったばかりの一輪を、誇らしげに紫苑の前へと差し出した。椿を模した、深紅の花だった。幾重にも重なった花弁は、丁寧な糊付けによって、滑らかな曲線を描いている。芯の立ち方も、天子が最初に手がけたものとは、比べ物にならないほど自然だった。
紫苑は、その花を、しばらく、まじまじと見つめた。
「これ、本当にあんたが作ったの?」
「当たり前でしょ。誰が作ると思ってるのよ」
天子は、少し得意げにそう答えた。その声には、これまでの失敗続きの日々を乗り越えてきた、確かな自信が滲んでいた。
「最初の頃と比べたら、見違えるわね」
紫苑が素直にそう零すと、天子は、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「当たり前よ。あれから、毎晩のように、こつこつ作ってきたんだから」
その言葉通り、天子は、傘作りの合間を縫って、夜な夜な、造花作りに没頭してきた。最初の頃のような、歪で不格好な花弁は、もう見る影もなかった。花びら一枚一枚の反り具合、糊の分量、芯の通し方――どれをとっても、天子の指先は、確かな技術を身につけていた。
翌朝、天子は、出来上がった花を数輪持って、井戸端へと向かった。静葉に、その出来栄えを見てもらうつもりだった。
「静葉、ちょっと見てほしいんだけど」
天子が花を差し出すと、静葉は、作業の手を止め、それを丁寧に受け取った。しばらくの間、花弁の一枚一枚を、光にかざしながら、黙って検分していく。
「……随分と、上達したわね」
静葉が、意外そうな声で、そう呟いた。
「最初に見た時は、お世辞にも褒められた出来じゃなかったのに」
「余計なこと、言わなくていいわよ」
天子が唇を尖らせると、隣で見ていた穣子が、笑いながら口を挟んだ。
「でも、本当に綺麗よ、これ。姉さんが褒めるの、珍しいじゃない」
「褒めてるわけじゃないわ。事実を言ってるだけ」
静葉は、そっけなくそう言いながらも、もう一度、花をじっくりと見つめ直した。
「この椿、花弁の重なり方が、本物に近いわね。糊の加減も、ちょうどいい。これなら――」
静葉は、そこで一度、言葉を切った。
「問屋にも、十分に卸せるレベルよ」
その言葉に、天子は、思わず目を見開いた。
「本当に?」
「お世辞で言うほど、暇じゃないわよ、私」
静葉は、そう言いながら、花を天子に返した。その手つきには、職人としての、確かな敬意が滲んでいるようだった。
「今度、私が卸してる問屋に、一緒に行ってみる?あんたの名前で、卸せるかどうか、聞いてみるといいわ」
その提案に、天子は、思わず声を弾ませた。
「いいの?ぜひ、お願いするわ」
「別に、大したことじゃないわよ。あんたの腕なら、断られる心配もないでしょうし」
静葉は、素っ気なくそう言いながらも、その口元には、わずかな微笑みが浮かんでいた。穣子は、その様子を見て、にやにやと笑いながら茶化した。
「あら、姉さん、嬉しそうじゃない」
「そんなことないわよ」
静葉が、慌てたように取り繕う様子に、天子と穣子は、顔を見合わせて笑い合った。井戸端には、朝の柔らかな光と共に、四人の笑い声が、しばらくの間、穏やかに響いていた。
それから数日後、天子は、静葉に連れられて、里の中心にある小間物問屋へと向かった。
風呂敷には、これまで作り溜めてきた造花のうち、特に出来の良いものを、十数輪ほど選んで包んできていた。道すがら、天子は、柄にもなく緊張していた。
「なんか、妙に落ち着かないわね」
「当たり前でしょう。初めての商談なんだから」
静葉が素っ気なくそう答えると、天子は、小さく深呼吸をした。
問屋に着くと、静葉は、顔馴染みらしい番頭に、気安く声をかけた。
「お久しぶりです。今日は、ちょっと見てもらいたいものがあって」
「おや、静葉さんか。今日は、何を」
番頭は、人の好さそうな顔で、静葉と、その後ろに控える天子を見比べた。
「――この子、私の長屋の、隣人なんですけど。最近、造花作りを始めて、なかなかの腕前なんです」
静葉がそう紹介すると、天子は、緊張しながらも、風呂敷を開いて、数輪の花を差し出した。
「これ、見てもらえますか」
番頭は、差し出された花を、一つ一つ、手に取って検分していった。光にかざし、花弁の重なりを確かめ、糊の接着具合を指先で確かめる。その所作は、静葉が最初に見せたものと、よく似ていた。
「――ほう」
番頭は、感心したように、小さく唸った。
「これは、初めてにしては、随分な出来だね。花弁の反りも、芯の通り方も、丁寧な仕事がしてある」
その評価に、天子は、安堵と誇らしさが入り混じった気持ちで、小さく息をついた。
「ちなみに、どのくらい、作られたんです」
「ここにあるのが、全部です。まだ、そう多くは作れていませんが」
天子が正直にそう答えると、番頭は、花を一つずつ丁寧に戻しながら、算盤を手に取った。
「それじゃあ、まずは、お試しということで。一輪、三十五円で、全部買い取らせてもらいましょうか」
「三十五円?」
天子が聞き返すと、番頭は頷いた。
「静葉さんのところの相場が、大体三十円でしたな。あんたの仕事は、それより少し丁寧だ。その分、色をつけさせてもらいました」
その言葉に、天子は、思わず静葉の方を見た。静葉は、何も言わず、ただ小さく頷いただけだった。だが、その表情には、どこか誇らしげなものが滲んでいるようにも見えた。
「十三輪で、四百五十五円。今日は、これでどうです」
番頭が差し出した金額に、天子は、驚きを隠せなかった。これまで、傘作りで一日に稼いできた額とは、また違う種類の達成感が、胸の奥に込み上げてきた。
「ありがとうございます」
天子は、深く頭を下げた。番頭は、満足げに頷きながら、懐から銭を取り出し、丁寧に数えて手渡した。
「これから、定期的に持ってきてもらえると、助かります。量が揃うようなら、もう少し色をつけることも、考えられますから」
「――はい。これからも、よろしくお願いします」
天子は、そう答えながら、受け取った銭を、大事そうに懐へとしまい込んだ。
問屋を出た帰り道、天子は、どこか浮かれた足取りで、静葉の隣を歩いていた。
「あんたのおかげね、静葉」
「別に、私は、口を利いただけよ。腕を磨いたのは、あんた自身でしょう」
静葉は、そっけなくそう答えたが、その声には、隠しきれない満足げな響きがあった。
「それにしても、まさか、こんなに早く、形になるとはね」
天子は、懐の銭の感触を、何度も確かめずにはいられなかった。あの、失敗だらけで、投げ出しかけた日々が、こうして確かな実りに変わったことが、天子には、まだ、どこか信じがたいことのように思えた。
「紫苑にも、早く教えてあげないと」
天子は、そう呟きながら、長屋への道を、いつもよりも軽やかな足取りで歩いていった。
長屋に戻ると、天子は、戸を開けるなり、興奮気味に声を上げた。
「紫苑!聞いて、聞いて!」
「何よ、そんなに騒がしく」
内職の手を止めて振り返った紫苑に、天子は、懐から取り出した銭を、畳の上に、どさりと広げて見せた。
「これ、全部、造花で稼いだ分よ!問屋に、卸せるようになったの!」
紫苑は、その銭の山を、しばらく呆然と見つめていた。
「本当に?あの、最初はガラクタみたいだった、あの造花で?」
「ガラクタとか言わないでよ、今は!」
天子がむきになって言い返すと、紫苑は、思わず吹き出した。
「冗談よ、冗談。本当に、よかったわね」
紫苑は、心から嬉しそうに、そう言葉を継いだ。
「あんたが、やめるって言った後も、こっそり続けてたの、ちゃんと見てたわよ」
「見てたの?」
「見てたわよ。何も言わなかったけど」
紫苑のその言葉に、天子は、少し照れたように頬を掻いた。
「まあ、いいじゃない。結果、こうして形になったんだから」
「本当にね」
二人は、しばらくの間、畳に広がった銭を、満足げに眺めていた。
「せっかくだし、今夜は、ちょっとしたお祝いにしましょうか」
紫苑が、そう提案した。天子は、すぐに乗り気になった。
「いいじゃない。何か、美味しいもの、買ってきましょう」
その日の夕餉は、いつもより少しだけ豪勢なものになった。甘辛く煮付けた魚の切り身、炊きたての白米、そして、滅多に口にしない、小さな菓子まで添えられていた。
「久しぶりね、こんな贅沢」
紫苑がしみじみと零すと、天子も頷いた。
「たまには、いいでしょ。頑張った分のご褒美よ」
食事を終えた後、二人は、帳面を広げて、これまでの返済額を、改めて確かめ合った。
「今日の分を合わせたら」
紫苑が、算盤を弾きながら、慎重に計算していった。しばらくして、その手が、ふと止まった。
「……これ、見て」
紫苑が指し示した数字に、天子は、思わず身を乗り出した。
「十万円、超えた?」
「超えたわ。百五十五万円のうち、十万二千円。少しずつだけど、確かに、減ってきてる」
その数字を、天子は、しばらく、じっと見つめていた。まだまだ、道のりは長い。それでも、こうして目に見える形で、前進を確かめられたことに、天子の胸には、確かな手応えが広がっていった。
「これなら、いつか、本当に、完済できるのかもね」
天子が、ぽつりとそう呟くと、紫苑も、静かに頷いた。
「ええ。焦らず、こつこつとね」
その夜、二人は、ある小さな習慣を始めることにした。
「――ねえ、これからさ。こうやって、節目節目で、帳面を確かめ合う日を、作らない?」
紫苑の提案に、天子は、興味深そうに耳を傾けた。
「――節目節目って」
「十万円、二十万円って、きりのいいところまで来たら、こうやって、ちょっとしたお祝いをする。目標があった方が、頑張れるでしょう」
その提案に、天子は、すぐに賛成した。
「――いいじゃない、それ。次は、二十万円、目指しましょう」
「気の早いこと」
紫苑が小さく笑うと、天子も、つられて笑った。
狭い茶碗の中で、あの小さな魚が、変わらず気ままに、水面を揺らしていた。その傍らに置かれた、天子の手がけた造花の数々が、質素な部屋の中に、ささやかな彩りを添えていた。
確かな積み重ねの先に、小さな希望の灯りが、今、確かに灯り始めていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
地道な積み重ねが、少しずつ形になっていく過程を、今回は書いてみました。十万円という節目、これからも、少しずつ重ねていってほしいと思います。
更新は引き続き不定期になりますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。感想やコメント、いつでも励みになります。