無尽長屋記   作:角筈律

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雨の降る日には、思いがけない足止めを食らうことがある。

急いでいる者も、帰る場所を探している者も、同じ軒下で雨が止むのを待つことがある。

それは、ほんの短い時間のことかもしれない。

けれど、そのひとときが、遠ざかっていた誰かとの距離を、ほんの少しだけ変えることもあるのだろう。


第十六話、雨宿りのあと

梅雨の近づく頃になると、傘の注文が少しずつ増え始めた。

 

雨が降るから傘が売れる。考えてみれば当たり前の話だったが、天気ばかりはどうにもならない。晴れの日が続けば仕事は途切れ、雨が続けば今度は材料の受け取りや納品が面倒になる。都合よく稼げる日ばかりではなかった。

 

それでも、仕事があるというのはありがたいことだった。

 

紫苑は、出来上がった傘を二本、両手で抱えていた。傘骨に紙を張り、糊の乾き具合を確かめ、最後に開閉を試す。何度も繰り返してきた手順である。最初の頃に比べれば、手元も随分と慣れたものだった。

 

もっとも、慣れたからといって、失敗がなくなったわけではない。先日など、仕上げたばかりの傘を開いた途端、紙の端がぺりりと剥がれた。あのときの天子の顔を思い出すと、今でも少し腹が立つ。本人は笑いを堪えていたつもりらしいが、肩が震えていたので丸分かりだった。

 

傘を納めた帰り道、紫苑は八百屋の前で足を止めた。

 

店先では、店主が傷んだ野菜を選り分けていた。葉の端が黄ばんだものや、形が悪くて売り物にならないもの。そうした品のいくつかは、声をかければ安く譲ってもらえることがある。

 

紫苑は、籠の中を覗き込んだ。

 

「それ、捨てるの?」

 

「見りゃ分かるだろ。売り物にならねえんだよ」

 

「売り物にならないのと、食べられないのは別でしょう」

 

「……またお前か」

 

店主は呆れたように言いながら、籠の端に寄せてあった大根の葉を指でつまんだ。

 

「持ってくなら持ってけ。どうせ捨てるもんだ」

 

「助かるわ」

 

紫苑は礼を言い、葉を受け取った。根元が少し傷んでいるだけで、葉そのものはまだ十分に使える。味噌汁に入れるか、細かく刻んで炒めるか。油があれば後者がいいが、今ある分を考えると、まずは味噌汁だろう。

 

頭の中で、夕飯の献立と残りの食費を並べて考える。

 

帰ったら、天子に米の残りを確かめさせよう。米櫃の中身を見ているようで、案外見ていない。先日も、まだ二合はあると言い張ったくせに、実際には一合半しかなかった。

 

もっとも、天子に任せる仕事を間違えた自分にも責任はある。

 

そんなことを考えながら通りを歩いていると、ぽつりと、手の甲に冷たいものが落ちた。

 

一滴。

 

続いて、もう一滴。

 

紫苑は空を見上げた。薄い雲が広がっている。朝のうちは晴れていたはずだが、いつの間にか空模様が変わっていたらしい。

 

「……参ったわね」

 

手には大根の葉があり、腕には納品を終えた空の包みがある。傘を持ってくればよかったと考えたところで、今さら遅い。

 

雨粒は、すぐに数を増やした。

 

紫苑は近くの軒先へ駆け込んだ。濡れた土の匂いが立ち上り、通りを歩いていた人々も、思い思いの場所へ雨を避けに走っていく。

 

その中に、見覚えのある姿があった。

 

華やかな着物に、整えられた髪。雨に濡れないよう軒の奥へ身を寄せながら、片手の巾着を指先で揺らしている。

 

硬貨が、ちり、と鳴った。

 

紫苑は、思わずそちらを見た。

 

女苑だった。

 

「……あら」

 

先に気づいたのは、妹のほうだった。

 

女苑は姉の顔を見て、それから腕に抱えられた包みと、手にした大根の葉へ視線を落とした。最後にもう一度、紫苑の顔を見た。

 

「姉さん?」

 

「そうだけど。どうしたの、そんな顔をして」

 

「いや……」

 

女苑は言葉を切った。

 

驚いているのだろう。紫苑には、それが分かった。

 

無理もない。以前の自分は、こうして雨宿りをするにも、どこへ行けばいいかを考えなければならなかった。濡れても構わないと思う日もあったし、雨の中を歩くのが嫌でも、立ち止まる場所がなかったこともある。

 

今は違う。

 

雨が止むまで待てる軒先があり、帰る長屋がある。濡らしたくない仕事道具は、もう納品してきた。腕の包みには、帰ってから使うつもりの布切れが入っているだけだ。

 

それだけの違いだった。

 

けれど、女苑の目には、それが少しばかり奇妙に映ったらしい。

 

「……なんか、顔色よくなった?」

 

唐突に言われ、紫苑は自分の頬に触れた。

 

「そう?」

 

「前に会ったときよりはね。少なくとも、今にも倒れそうな顔じゃないわ」

 

「そりゃどうも」

 

「褒めてないから」

 

「分かってるわよ」

 

紫苑は肩をすくめた。

 

女苑は、まだ姉を見ていた。

 

顔色だけではない。着物も、以前のようにあちこちが擦り切れているわけではなかった。古いものを繕って使っているのは変わらないが、袖口は整えられ、裾にも目立ったほつれはない。痩せて骨ばかり目立っていた頃に比べれば、頬にもわずかな肉が戻っている。

 

別人になったわけではない。

 

目つきの鋭さも、口元の皮肉っぽさも、見慣れた姉のままだった。

 

それなのに、以前とは何かが違っていた。

 

「……ちゃんと食べてるの?」

 

女苑は、何でもないことのように尋ねた。

 

紫苑は妹の顔を見た。

 

その質問をされるのは、久しぶりだった。

 

「ええ。毎日、何とかね」

 

「何とか、ねえ」

 

女苑は巾着を揺らすのをやめた。

 

紫苑は、その手元を見た。硬貨の音が止んでいる。

 

以前なら、ここで女苑は懐から小銭を取り出したかもしれない。あるいは、姉の返事を聞いて、それ以上は何も言わずに立ち去っただろう。

 

紫苑も、何を期待するでもなく、差し出されたものがあれば受け取った。腹が減っているときに、意地を張っても仕方がない。そう割り切っていたつもりだった。

 

だが、今はどうだろう。

 

女苑が小銭を出したら、自分は受け取るのだろうか。

 

そんなことを考えた自分に、紫苑は少しだけ眉を寄せた。

 

別に、金に困らなくなったわけではない。明日の食費を気にしなくていいほど、暮らしが楽になったわけでもない。それでも、今の自分には、仕事をして得た金がある。帰れば、食事を共にする相手もいる。

 

以前と同じように小銭を受け取れば、何かが元に戻ってしまうような気がした。

 

「……姉さん?」

 

女苑が不審そうに首を傾げた。

 

「何でもないわ」

 

紫苑は、大根の葉を持ち直した。

 

「それより、あんたはこんなところで何をしてるの。買い物?」

 

「用事のついでよ。ちょっと人里を歩いてただけ」

 

「ふうん」

 

「何よ、その顔」

 

「別に。あんたが用事もなく歩き回るなんて、珍しいと思っただけ」

 

「失礼ね。私だって、散歩くらいするわよ」

 

「散歩ねえ」

 

紫苑は女苑の着物を眺めた。裾に泥はねもなく、髪飾りもきちんと整っている。少なくとも、雨が降る前から長い距離を歩いていたようには見えなかった。

 

女苑はその視線に気づくと、わざとらしく顎を上げた。

 

「何か文句でも?」

 

「いいえ。相変わらず、身なりだけは立派だと思って」

 

「だけ、は余計でしょ」

 

女苑がすぐに言い返す。

 

その調子が、妙に懐かしかった。

 

雨はまだ降っていた。

 

軒先から落ちる雫が、二人の前に細い筋を作っている。通りの向こうでは、店主が商品に布をかぶせ、子供が母親に手を引かれて走っていった。

 

紫苑は、隣に立つ妹を横目で見た。

 

以前なら、ここまで話を続けることもなかっただろう。互いに二言三言を交わし、どちらかが先に立ち去る。それで終わりだった。

 

今日も、別に大した話をしているわけではない。

 

それでも女苑は、まだそこにいた。

 

紫苑は大根の葉を見下ろした。葉先から、雨の湿気を吸った水滴がひとつ落ちた。

 

「……雨、しばらく止みそうにないわね」

 

「そうみたいね」

 

女苑は空を見上げた。

 

「急いで帰る用事でもあるの?」

 

紫苑が尋ねると、女苑は少しだけ目を細めた。

 

「……別に、ないけど」

 

「そう」

 

それ以上、紫苑は何も聞かなかった。

 

雨宿りをする理由なら、二人とも持っていた。

 

今は、それで十分だった。

 

 軒先から落ちる雨粒が、道端の水溜まりを絶え間なく叩いていた。

 

 通りを行き交う人影はまばらだった。雨を嫌って足早に駆け抜ける者もいれば、店先に身を寄せ、空を仰いで雨脚の弱まるのを待つ者もいる。

 

 紫苑は抱えていた荷物を持ち直した。濡らさないように布を掛けてはいたが、長く雨に晒されれば、せっかく仕上げた品にも影響が出る。

 

「それ、仕事の荷物?」

 

 隣から女苑が尋ねた。

 

「そうよ。頼まれていた傘を届けてきた帰り。これは、そのついでに貰ったもの」

 

 紫苑は荷物の端から覗く大根の葉を指先で示した。

 

「大根の葉っぱ?」

 

「捨てるところだったらしいわ。食べられるものをわざわざ捨てる理由もないでしょう」

 

「……相変わらずね、姉さん」

 

「何がよ」

 

「いや。そういうところ」

 

 女苑はそれ以上説明しなかった。紫苑も、問い詰めるほどのことではないと判断したのか、返事の代わりに肩をすくめた。

 

 昔から、二人の会話はこんな調子だった。言葉が足りないくせに、相手が何を言いたいのかだけは妙に伝わる。もっとも、それがいつも良い結果を生んだわけではなかったけれど。

 

「傘を届けるって、傘屋にでも雇われたの?」

 

「雇われたというほど立派なものじゃないわ。作るのを手伝って、出来た分だけお金を貰っているの。ほかにも細々とした仕事をね」

 

「へえ」

 

 女苑は紫苑の手元を見た。

 

 指先には細かな傷があった。仕事道具を扱ってついたものなのか、暮らしの中でいつの間にか出来たものなのか、女苑には分からない。ただ、以前の姉なら、こんなふうに自分の手を使って何かを作り、それを誰かに届ける姿など想像しなかった。

 

 いや、想像しなかったというより、想像する必要がなかったのかもしれない。

 

 あの頃の紫苑は、何をしても不幸を呼ぶ。働こうとしても、運が悪いと片づけられる。誰かのそばにいれば、その誰かまで不運に巻き込む。

 

 そんな話を、女苑自身も何度となく聞いてきた。

 

「……ちゃんと、お金になるの?」

 

「なるわよ。たくさんではないけれど」

 

「ふうん。姉さんがそんなこと言うなんてね」

 

「どういう意味よ、それ」

 

「別に。褒めてるの」

 

「褒めている人間は、そんな顔をしないと思うけれど」

 

 女苑は口元を緩めた。紫苑は呆れたように目を細める。

 

 雨音の向こうで、荷車の車輪が水を跳ね上げた。二人は一度そちらを見やり、通り過ぎるのを待った。

 

「それで、どこに住んでいるの?」

 

 女苑の問いは、何気ない調子だった。

 

 けれど、口にしてからほんのわずかに、視線が揺れた。

 

 聞かなければならない気がしたのだ。姉が今、どこで眠り、どこで食事をし、雨が降ったときに帰っていく場所を持っているのか。

 

 以前は、そんなことを尋ねる必要すらなかった。互いの居場所を知っていたからではない。姉がどこにいようと、自分にはどうにもできない。そう考えることで、女苑は姉のことを考えずに済ませていた。

 

 紫苑は妹の顔を見た。

 

「長屋よ。少しばかり古いけれど、屋根も壁もあるわ」

 

「長屋……」

 

「家賃も払っているわよ。毎月、きちんとね」

 

「そこまでは聞いてないでしょうが」

 

「聞かれそうな顔をしていたから、先に答えておいたの」

 

 女苑は小さく鼻を鳴らした。

 

 いつもの姉らしい、ひねくれた返しだった。だが、家賃を払っているという言葉が、思いのほか女苑の胸に残った。

 

 誰かから施しを受けて、その日をしのぐだけではない。少なくとも紫苑は、自分の暮らしを続けるために、毎月決まった金を用意しようとしている。

 

 それがどれほど大変なことなのか、女苑には分かるつもりだった。

 

「……家賃、安いの?」

 

「安いわね。もっとも、安いなりの長屋だけれど」

 

「雨漏りとか?」

 

「今のところは大丈夫よ。少なくとも、あんたが心配するようなことではないわ」

 

「誰も心配なんかしてないわよ」

 

 女苑はすぐに言い返した。

 

 その拍子に、腰元の巾着が小さく鳴った。女苑は反射的に手を添え、紐の結び目を指で弄んだ。

 

 紫苑はその仕草を見ていたが、何も言わなかった。

 

 昔なら、妹の巾着の音を聞くたびに、何かを期待してしまったかもしれない。小銭があるのなら、少し分けてくれないか。今日は食べるものがないから、何か買ってくれないか。

 

 そんな考えが頭をよぎること自体は、今でも不思議ではなかった。

 

 けれど、今の紫苑には、帰れば食事をする場所がある。明日の仕事があれば、また少しばかりの金を得られる。十分とは言えなくとも、何もかもを妹の財布に委ねる暮らしではなくなっていた。

 

 だから、巾着の音を聞いても、紫苑は手を伸ばさなかった。

 

 女苑もまた、何かを差し出すことはしなかった。

 

 それが二人にとって、今はかえって自然だった。

 

「……姉さん、変わったわね」

 

 女苑がぽつりと言った。

 

 紫苑は眉を上げる。

 

「今日、それを何度言うつもり?」

 

「何度でも。だって、変わったんだもの」

 

「そう」

 

 紫苑は短く返した。

 

 変わった、と言われても、何がどう変わったのかは自分ではよく分からなかった。暮らしが少し整ったからか。仕事を覚えたからか。それとも、毎日帰る場所が出来たからか。

 

 どれも間違いではないのだろう。

 

 けれど、そのどれか一つだけを理由にするのも違う気がした。

 

「……あんたこそ、相変わらず派手な格好ね」

 

「はあ?何よ、急に」

 

「別に。昔から変わらないと思っただけよ」

 

「それ、褒めてる?」

 

「さあね」

 

 女苑は不満そうに唇を尖らせたが、やがて、ほんの少しだけ笑った。

 

 雨はまだ止まない。

 

 けれど、二人の間に落ちていた沈黙は、先ほどまでとは少しだけ違うものになっていた。

 

 雨脚が弱まるまで、もう少しかかりそうだった。

 

 紫苑は軒先から通りを眺めていた。濡れた石畳の上を、細い水の流れが縫うように走っている。雨宿りを始めてから、どれほどの時間が経っただろう。急いで帰らなければならないほどの用事があるわけでもないが、いつまでもここに立っている理由もなかった。

 

 隣にいる女苑も、先ほどから口数が減っていた。

 

 昔なら、沈黙が続けばどちらかが先に嫌味を言い、そこからいつもの言い争いが始まったものだった。相手の言葉尻を捕まえ、余計な一言を付け足し、最後には何を話していたのかさえ忘れてしまう。

 

 今は、そんなこともない。

 

 互いに大人になったからなのか。それとも、離れていた時間が長すぎたからなのか。

 

 紫苑には、よく分からなかった。

 

「……それで」

 

 不意に女苑が口を開いた。

 

「その長屋って、姉さん一人で住んでるの?」

 

 紫苑は妹の方へ顔を向けた。

 

 聞かれるかもしれないとは思っていた。仕事のことを尋ね、住まいのことを尋ねたのなら、その先にある暮らしについて気になるのも当然だろう。

 

「いいえ。もう一人いるわ」

 

「へえ」

 

 女苑は、なるべく何でもないことのように相槌を打った。

 

「誰かと住んでるんだ」

 

「そうよ」

 

「……どんな奴?」

 

「どんな奴って言われてもね」

 

 紫苑は少し考えた。

 

 天子のことを、どう説明すればいいのだろう。

 

 妙に偉そうで、見栄っ張りで、すぐに口を尖らせる。金勘定は得意とは言えず、仕事をさせれば失敗もする。それなのに、傘を作るときだけは妙に器用で、細かな造花を作る手つきも、以前よりずっと確かなものになってきた。

 

 何より、あの女は紫苑を不幸の象徴として扱わなかった。

 

 それだけで、ずいぶんと長い説明が必要な気がした。

 

「……天子よ。比那名居天子」

 

 紫苑は、結局それだけを答えた。

 

「テンシ……?」

 

 女苑は聞き返した。

 

 知らない名前だった。

 

 少なくとも、女苑の知る限り、姉の周りにそんな人物はいなかった。姉がどこで暮らし、誰と出会い、どうやって今の生活を手に入れたのか。その一部始終を知っているわけではないのだから、知らない名前が出てくること自体は不思議ではない。

 

 それでも、少しだけ胸の奥が引っかかった。

 

 自分がいない間に、姉には新しい知り合いができていた。

 

 それだけではない。帰る場所があり、そこで一緒に暮らす相手までいる。

 

 女苑が知らない紫苑の暮らしが、今もどこかで続いているのだ。

 

「……ふうん。変わった名前ね」

 

「そう?」

 

「そうよ。少なくとも、あたしの知り合いにはいないわ」

 

「私だって、あんたの知り合いを全部知っているわけじゃないでしょう」

 

「そりゃそうだけど」

 

 女苑は口を閉じた。

 

 もう少し聞いてみたい気持ちはあった。どんな女なのか。姉とはどういう経緯で知り合ったのか。二人で暮らしていて、うまくやれているのか。

 

 けれど、質問を重ねるほど、自分が姉の暮らしに踏み込もうとしているような気がした。

 

 今さら、そんな資格が自分にあるのだろうか。

 

 寺に引き取られたのは自分だった。姉を置いていくことになった事情はいくつもあったし、あのときの自分にできることが、どれほどあったのかも分からない。

 

 それでも、結果として女苑は居場所を得て、紫苑はそうではなかった。

 

 その事実だけは、どれだけ理由を並べても変わらない。

 

 姉が一人で苦しんでいた頃、自分はどこで何をしていたのだろう。

 

 考え始めれば、いくらでも思い当たることがあった。けれど、今さらそれを口にしたところで、過ぎた時間が戻るわけではない。

 

 女苑は巾着の紐を指先で引っ張った。

 

「……まあ、姉さんがちゃんと暮らせてるなら、いいんじゃない」

 

 ぶっきらぼうな言い方になった。

 

 もっと別の言葉があった気もする。元気そうでよかった、とか。安心した、とか。

 

 けれど、そんな言葉を素直に口にするのは、どうにも気恥ずかしかった。

 

 紫苑は妹を見た。

 

 女苑が自分を気にかけていることくらい、分かっていた。昔から、そういうところだけは隠すのが下手だった。心配しているくせに、心配していないと言い張る。何かをしてやりたいくせに、頼まれる前から余計なことをするなと突っぱねる。

 

 もっとも、紫苑だって似たようなものだった。

 

「ええ。何とかやっているわ」

 

 それ以上、紫苑は付け足さなかった。

 

 妹に心配をかけたくないという気持ちが、ないわけではない。けれど、今の暮らしを必要以上に飾って伝えるつもりもなかった。苦労はある。お金は足りない。明日の仕事がなくなれば、また頭を悩ませることになる。

 

 それでも、帰れば屋根がある。

 

 食事を用意する相手がいて、自分の作ったものを食べてくれる相手がいる。稼いだ金を数え、足りない分をどうするか相談することもできる。

 

 以前の紫苑には、それがなかった。

 

 そして、今はそれを失いたくなかった。

 

「……あんたは?」

 

 紫苑は尋ねた。

 

「何が?」

 

「ちゃんと暮らしているのか、って聞いているのよ」

 

 女苑は一瞬、目を丸くした。

 

 それから、わざとらしく肩をすくめた。

 

「見ての通りよ。困ってないわ」

 

「そう」

 

「何よ、その反応」

 

「別に。あんたがそう言うなら、そうなんでしょう」

 

「……姉さんって、昔からそういうところあるわよね」

 

「どういうところよ」

 

「人のことを分かったような顔で、あっさり引き下がるところ」

 

 紫苑は少しだけ目を細めた。

 

「無理に聞いたって、あんたは答えないでしょう」

 

「それは……」

 

 女苑は言葉に詰まった。

 

 否定できなかった。

 

 心配されるのは嫌だった。自分が姉を置いてきたという負い目があるからこそ、姉から気遣われると、どこか落ち着かない。まるで、自分が許されるのを待っているようで。

 

 けれど、紫苑は許すとも、責めるとも言わなかった。

 

 ただ、尋ねただけだった。

 

 ちゃんと暮らしているのか、と。

 

 その何気ない一言が、女苑には少しばかり重かった。

 

「……まあね」

 

 女苑は目を逸らした。

 

「でも、姉さんに心配されるほど落ちぶれちゃいないわよ」

 

「それならいいわ」

 

「本当に、あっさりしてるんだから」

 

「心配してほしかったの?」

 

「誰が!」

 

 思わず声が大きくなった。

 

 紫苑は小さく笑った。

 

 女苑はむっとした顔をしたが、今度は言い返さなかった。

 

 そのとき、軒先から落ちる雨粒の間隔が、少しずつ広がり始めた。通りの向こうでは、雨が弱まったのを見計らった人々が、再び歩き出している。

 

 紫苑は荷物を抱え直した。

 

「そろそろ行くわ」

 

「……そう」

 

 女苑も姿勢を正した。

 

 もう少し話していたい気持ちは、確かにあった。けれど、何を話せばいいのかは分からなかった。聞きたいことは残っている。それでも、今ここで全部を聞いてしまうのは違う気がした。

 

 姉がどんな暮らしをしているのか。

 

 誰と一緒にいるのか。

 

 これからも、同じように暮らしていけるのか。

 

 それらを知るには、今日の短い雨宿りだけでは足りないのだろう。

 

「……あんまり無理しないことね」

 

 女苑は、紫苑の顔を見ないまま言った。

 

 紫苑は一度、瞬きをした。

 

 思いがけない言葉だった。少なくとも、今日ここで妹から聞くとは思っていなかった。

 

「ええ。気をつけるわ」

 

「別に、姉さんのために言ったんじゃないから」

 

「はいはい」

 

「何よ、その返事!」

 

 女苑が顔を上げたときには、紫苑はもう歩き出していた。

 

 振り返りはしなかった。ただ、ほんの少しだけ手を上げた。

 

 女苑もまた、何か言い返そうとして、結局やめた。

 

 雨は、いつの間にか小降りになっていた。

 

 長屋へ戻る道すがら、紫苑は先ほどの会話を思い返していた。

 

 女苑は相変わらずだった。

 

 口が悪くて、素直ではなくて、肝心なことほど遠回しに伝えようとする。心配しているのなら、最初からそう言えばいいのに。わざわざ別の言葉に置き換えるから、かえって分かりやすくなる。

 

 昔から、そういう妹だった。

 

 けれど、以前のように思い出を懐かしむだけではいられなかった。

 

 自分が苦しかった頃、女苑がどこにいたのか。なぜ自分だけが取り残されたように感じていたのか。その答えを、今すぐ妹に求めるつもりはない。

 

 女苑にも女苑の事情があったのだろう。

 

 そう考えられるようになったのは、紫苑自身が少しだけ余裕を持てるようになったからかもしれない。

 

 食べるものがなく、眠る場所も定まらず、明日を迎えることさえ億劫だった頃なら、きっと違う受け取り方をしていた。

 

 妹の巾着が鳴れば、そこにある金を意識しただろう。何かを恵んでもらえるのではないかと期待し、その期待を抱いた自分に腹を立てたかもしれない。

 

 今は違う。

 

 帰れば、天子がいる。

 

時々不器用で、面倒くさくて、放っておくと妙なところで意地を張る。それでも、同じ部屋で暮らし、同じ食卓を囲み、明日のことを一緒に考える相手がいる。

 

 女苑との間にあったものが消えたわけではない。

 

 ただ、それ以外にも、自分が大切にしたいものができたのだ。

 

 紫苑は荷物を抱え直し、長屋へ続く道を歩いていった。

 

 一方、女苑はしばらく軒先に残っていた。

 

 姉の姿は、すでに通りの向こうへ消えている。

 

 もう少し何かを聞いておけばよかったのだろうか。長屋の場所を尋ねてもよかったし、今度また会おうと言ってもよかった。

 

 けれど、どちらも口にはできなかった。

 

 会おうと言って、次に会ったとき、自分は何を話せばいいのだろう。

 

 昔のことを謝ればいいのか。それとも、何もなかったように振る舞えばいいのか。

 

 どちらも、今の自分には難しかった。

 

 女苑は巾着を握った。

 

 中の小銭が、かすかに触れ合う。

 

 以前なら、姉に金を渡すことくらいはできた。ほんの少しの金でも、食べ物を買う足しにはなる。姉が困っていると知れば、何かしらの形で助けることもあった。

 

 けれど、今日の紫苑には、そうする必要がなかった。

 

 少なくとも、女苑が差し出す金を待ってはいなかった。

 

 それが嬉しくなかったわけではない。

 

 むしろ、安堵した。

 

 姉が自分の力で暮らしを立て直そうとしていること。帰る場所があり、そこに待っている相手がいること。それは、女苑が長いこと願っていたはずの姿だった。

 

 それなのに、胸のどこかが少しだけ痛んだ。

 

 自分が知らない姉がいる。

 

 自分がいなくても、姉の暮らしは続いていく。

 

 当たり前のことだ。分かっていたはずのことだった。

 

 女苑は息を吐き、濡れた通りを見渡した。

 

「……天子、ね」

 

 口にしてみても、知らない名前は知らないままだった。

 

 どんな相手なのかは分からない。姉とどうやって知り合ったのかも、何を考えて一緒に暮らしているのかも。

 

 ただ、姉がその名前を口にしたとき、ほんの少しだけ考えるような間があった。

 

 何を話せばいいのか迷っているようにも見えたし、どんな言葉を選べばいいのか分からないようにも見えた。

 

 女苑には、それが妙に印象に残った。

 

 姉にとって、大事な相手なのだろう。

 

 ならば、いつかその話を聞くこともあるかもしれない。

 

 今日でなくてもいい。明日でなくてもいい。

 

 そう思えるだけの余地が、今はあった。

 

「……別に、姉さんのためじゃないから」

 

 誰に聞かせるでもなく、女苑は呟いた。

 

 その言葉は、先ほど姉に向けたものと同じだった。

 

 けれど、今度は言い訳をする相手もいない。

 

 女苑は巾着を帯に戻し、雨の残る道へ歩き出した。

 

 姉の帰っていく先とは、反対の方向だった。

 

 それでも、今日の別れは、以前の別れとは少しだけ違っていた。

 

 二人の間に残されたものは、まだ多い。

 

 言えなかった言葉も、尋ねられなかったことも、今さら簡単には埋められない時間もある。

 

 それでも、互いが今どこかで暮らしていることを知った。

 

 姉には帰る場所があり、妹にもまた、自分の暮らしがある。

 

 それぞれの道を歩きながら、二人は久しぶりに、相手の明日を思った。

 




第十六話を読んでいただき、ありがとうございます。

今回は、紫苑と女苑の再会を描きました。

二人の間には、まだ言葉にできないことが残っています。過去のわだかまりが消えたわけでも、これまでの時間を取り戻せたわけでもありません。

それでも、相手が今どう暮らしているのかを知り、別れ際にほんの一言を交わす。

その小さな変化を、今回は大切にしたいと思いました。

人との関係は、いつも綺麗に解決できるものではないと思います。謝れないことも、聞けないことも、素直に伝えられない気持ちもある。それでも、相手を気にかける気持ちが残っているのなら、いつかまた言葉を交わす日が来るのかもしれません。

そんな姉妹の姿を、少しでも感じていただけたなら嬉しいです。

それでは、また次のお話でお会いしましょう。
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