無尽長屋記   作:角筈律

17 / 18
梅雨の雨は、なかなか止んでくれません。

外へ出るのも億劫で、かといって家の中にいても、特別やることがあるわけではない。

そんな雨の日、天子は長屋で一人、いつもとは少し違った時間を過ごすことになります。

何かが大きく変わるわけではない、ある雨の日のお話です。

それでは、第十七話をどうぞ。


第十七話、茶碗の中の雨

梅雨というものは、どうにも性に合わない。

 

 天子は、朝から何度目になるか分からない溜息を吐いた。

 

 窓の外では、細い雨が降り続いている。空は一面に灰色の雲で覆われ、昨日から干していた洗濯物は、結局乾くどころか余計に湿っぽくなってしまった。軒先からは雨粒がぽたり、ぽたりと落ち、地面に小さな水溜まりを作っている。

 

 こうも空が塞がれていると、部屋の中まで薄暗い。

 

 朝食を済ませたのは、もうずいぶん前のことだった。

 

 紫苑は用事があるとかで、昼過ぎまで戻らないらしい。何の用事だったか、天子は正確には覚えていなかった。確か、以前頼まれた仕事の話をしに行くとか、何かを受け取りに行くとか、そんなことを言っていた気がする。

 

 いずれにせよ、今日は一人だ。

 

 そして、一人であるということは。

 

「……暇ね」

 

 誰に聞かせるでもなく、天子は呟いた。

 

 目の前には、造花の材料が広がっていた。

 

 色のついた紙や布、細い針金、糊、それから、作りかけの花が何本か。材料を無駄にしないようにと、紫苑から口を酸っぱくして言われている。売り物になるものを作る以上、適当に手を動かしていればいいというわけにもいかない。

 

 それは分かっていた。

 

 分かってはいるのだが。

 

「……飽きたわ」

 

 天子は手にしていた花びらを、そっと机に置いた。

 

 朝から同じことを繰り返している。材料を切り、形を整え、折り目をつけ、針金に巻きつける。花びらの大きさを揃え、歪んだところを直し、全体の形を見ながら少しずつ調整する。

 

 以前に比べれば、ずいぶん手際はよくなったと思う。

 

 最初の頃など、花びらを一枚作るだけで何度もやり直し、糊をつけすぎて紙を駄目にしたこともあった。今では、手元を見なくても次の材料を取れるくらいには慣れている。

 

 慣れた。

 

 そう、慣れてしまったのだ。

 

 初めの頃は、指先で花の形が出来上がっていくことが面白かった。自分の手で何かを作り、それが売り物になるというのも、悪い気分ではなかった。

 

 問屋に持っていった花が売れたと聞いたときは、少しばかり誇らしかったし、紫苑と一緒に魚を食べた夜は、いつもより食事が美味しく感じられた。

 

 だが、毎日続けていれば、どんなことにも慣れが来る。

 

 花は花だ。

 

 一輪作っても、二輪作っても、三輪作っても、花びらを整えて糊で留めるという作業に変わりはない。出来上がったものを並べてみれば、少しずつ上達しているのは分かる。けれど、その上達を毎回喜んでいられるほど、天子は素直な性格をしていなかった。

 

「そもそも、花なんてそんなに必要なのかしらね」

 

 机の上の造花をつつく。

 

 当然、花は何も答えない。

 

「本物の花なら、勝手に咲くじゃない。水をやって、日当たりのいいところに置いておけば、後はそれなりに何とかなるんでしょう?」

 

 造花はそうはいかない。

 

 花びらを一枚ずつ作り、形を整え、茎をつけ、見栄えよく仕上げなければならない。しかも、売り物になるように作るとなれば、少しの歪みも気になってくる。

 

「……まったく。手間のかかる花だこと」

 

 天子は頬杖をついた。

 

 もっとも、本物の花が本当に何もしなくていいのかどうか、天子はよく知らない。地面に植えておけば勝手に育つものもあれば、そうでないものもあるのだろう。

 

 だが、今の天子にとって重要なのは、植物の生態について正しい知識を持つことではなかった。

 

 目の前の作業を、少しの間だけでも忘れたい。

 

 ただ、それだけだった。

 

 天子は畳に視線を落とした。

 

 部屋の隅には、使い古した布が置いてある。雨漏りの水を受けるために敷いたものだ。朝のうちは、まだ何ともなかったはずなのだが、いつの間にか端の方が濡れている。

 

 ぽたり。

 

 頭上から、また一滴落ちた。

 

 天子は顔を上げた。

 

「……また?」

 

 軒の近く、天井板の継ぎ目から、じわじわと水が染み出している。しばらくすると、そこから一滴が膨らみ、重みに耐えきれなくなったように落ちてくる。

 

 ぽたり。

 

 布の上に、小さな染みが増えた。

 

「ちょっと。そっちは昨日も拭いたでしょう?」

 

 天子は天井に向かって言った。

 

 返事はない。

 

「一度直したら、もう少し大人しくしていなさいよ。何度も何度も、こちらの手を煩わせるんじゃないわよね」

 

 言ってから、自分が天井に説教をしていることに気づいた。

 

 天子は一度口を閉じ、それから小さく鼻を鳴らした。

 

「……何よ。文句くらい言ったっていいでしょう」

 

 この長屋に越してきたばかりの頃、家賃の安さに喜んでいたのは誰だったか。

 

 もちろん、自分だ。

 

 屋根があって、壁があって、雨風をしのげる。それだけで十分だと、あのときは本気で思っていた。実際、それまで路地で寝ていたことを考えれば、屋根のある生活はありがたい。

 

 ありがたいのだが。

 

「安い家賃には、安い屋根がついてくるってわけね……」

 

 天子は濡れた布を持ち上げ、少しずらした。

 

「まったく、世の中うまく出来ているわ」

 

 誰に対する皮肉なのか、自分でもよく分からなかった。

 

 家主のお滝に言ったところで、すぐに屋根が直るとは限らない。そもそも、家賃を払うだけで苦労している身だ。雨漏りがするからといって、もっとまともな家へ移ろうなどという話にはならない。

 

 それくらいの分別は、さすがの天子にもあった。

 

 天子は布を敷き直し、再び机の前へ戻った。

 

 造花が待っている。

 

 待っているというより、放置されたまま、こちらを見ているような気がした。

 

「……はいはい。分かっているわよ」

 

 誰に言い訳をしているのか。

 

 天子は花びらを一枚手に取った。

 

 折り目をつける。指先で端を整える。糊を薄く伸ばし、針金に巻きつける。

 

 出来上がった花びらを、作りかけの花に添えてみた。

 

 少し歪んでいた。

 

「……ああ、もう」

 

 天子は花を机に置き、両手を頭の後ろで組んだ。

 

 何も考えずに座っているだけなら、いくらでも時間は潰せる。窓の外を眺めてもいいし、横になって昼寝をしてもいい。雨音を聞きながら、ぼんやりと過ごすのも悪くはない。

 

 だが、そうしていると、今度は別のことが気になり始める。

 

 今日、何本作れただろう。

 

 材料はあとどれくらい残っているだろう。

 

 次に問屋へ持っていくまでに、どれだけ作っておけばいいのだろう。

 

 何もしていない時間が、ただ何もしていない時間として過ぎていくことに、落ち着かなくなる。

 

 天子は天井を見上げた。

 

「……面倒くさいわね、人間の暮らしって」

 

 言ってから、少しだけ考えた。

 

 自分は人間ではないのだから、厳密には人間の暮らしではない。だが、金を稼いで家賃を払い、食べるものを買い、雨漏りに文句を言いながら暮らしているのだから、あまり違いはないのかもしれない。

 

 天界にいた頃なら、こんなふうに一日を過ごすことはなかった。

 

 少なくとも、生活のために花を作る必要はなかった。雨が降ったからといって、屋根の染みを気にすることもなかった。

 

 だからといって、戻りたいかと聞かれれば、それもまた別の話だった。

 

「……あーあ」

 

 天子は再び溜息を吐いた。

 

 そして、何とはなしに部屋の隅へ目を向けた。

 

 そこには、いつもの茶碗が置いてある。

 

 中には、一匹の魚が泳いでいた。

 

 尾びれを揺らし、茶碗の縁に沿って泳いでは、くるりと向きを変える。少し進んで、また向きを変える。時折、水面近くまで上がってきて、何かを探すように口を動かしていた。

 

 天子はしばらく、その様子を眺めた。

 

 魚は、こちらの事情など知ったことではないという顔で泳いでいる。

 

 造花が何本出来たかも、雨漏りがどれほど厄介かも、今日の食費がいくらかかるかも、魚には関係がない。

 

 ただ、茶碗の中を泳いでいる。

 

「……あんた、暇じゃないの?」

 

 天子は尋ねた。

 

 魚は答えなかった。

 

 当然である。

 

「毎日毎日、同じところをぐるぐる回って。飽きないのかしらね」

 

 魚は茶碗の端まで泳ぎ、そこで身を翻した。

 

 また、同じ方向へ泳ぎ始める。

 

 天子は口をへの字に曲げた。

 

「……ふん。気楽なものね」

 

 そう言いながら、彼女は机の上の造花をしばらく忘れていた。

 

 外では、雨が降り続いている。

 

 ぽたり、と天井から水が落ちた。

 

 天子はそちらを見て、また魚を見た。

 

「……まったく。こっちは忙しいんだか暇なんだか、さっぱり分からないわ」

 

 茶碗の中で、魚が尾びれを揺らした。

 

 天子はそれを見つめたまま、頬杖をついていた。

 

「……もういいわ」

 

 天子は、茶碗の中を泳ぐ魚から目を逸らした。

 

 いつまで眺めていたところで、魚が突然、人生について語り始めるわけでもない。そもそも、魚に何かを期待する方が間違っている。

 

 ただ泳いでいるだけの相手に、飽きないのかと尋ねたところで、答えが返ってくるはずもなかった。

 

「こっちは忙しいのよ。あんたと違ってね」

 

 そう言い残し、天子は机の上に目を戻した。

 

 作りかけの造花が、そこにある。

 

 花びらが数枚。針金に巻きつける前のものが何枚か。それから、形を整えたものの、どこか気に入らずに放っておいた花が一輪。

 

 どれも、続きを待っている。

 

 天子はその中から一枚を摘まみ上げた。

 

 眺める。

 

 裏返す。

 

 もう一度眺める。

 

「…………」

 

 そっと、机に戻した。

 

「やっぱり、もういいわ」

 

 何がやっぱりなのか、自分でもよく分からなかった。

 

 天子は椅子代わりにしていた低い台から立ち上がると、畳の上へ移動した。部屋の隅に置いてある布団は、まだ畳まれたままだった。朝起きたときにきちんと整えたのは、紫苑が出かける前に目の前で片づけろと言ったからである。

 

 誰もいないのなら、わざわざきちんとしておく必要もない。

 

 そう考えた天子は、布団を広げることすらせず、そのまま畳に横になった。

 

「はあ……」

 

 天井が見える。

 

 木目が見える。

 

 少し黒ずんだ染みも見える。

 

 そして、その染みの近くには、雨漏りの跡があった。

 

「……あんたも、ずいぶん偉そうな顔をしているわね」

 

 天子は天井に向かって言った。

 

 もちろん、天井は何も答えない。

 

「毎日毎日、上から見下ろして。水まで落としてくるんだから、大したものよね。そんなに偉いなら、せめて雨くらい防いでみなさいよ」

 

 言い終えてから、天子は口を閉じた。

 

 雨漏りの修繕をするのは自分ではない。天井に文句を言っても何の意味もない。そんなことは分かっている。

 

 それでも、文句を言うくらいは自由だろう。

 

 天子は片腕を枕代わりにして、目を細めた。

 

 雨の音が聞こえる。

 

 屋根を叩く、細かな音。

 

 軒先から落ちる、水の音。

 

 そして、少し間を置いて、畳に敷いた布へ落ちる一滴の音。

 

 ぽたり、ぽたり、ぽたり。

 

「…偉そうな顔している癖に、規則正しいわね」

 

 まるで、誰かが時間を刻んでいるようだった。

 

 時計など、この部屋にはない。あったところで、今の天子が時間を気にする必要もないのだが。

 

 紫苑が帰ってくるまで、まだ時間はある。

 

 その間に花を作っておけば、戻ってきた紫苑に、今日はこれだけ進んだと見せることもできるだろう。何本作れたかを数えれば、少しは気分もよくなるかもしれない。

 

 そう思った。

 

 思っただけだった。

 

「……あとでいいわ」

 

 天子は目を閉じた。

 

 あとで、という言葉は便利だ。

 

 今すぐやらなくてもいい理由になる。今は疲れているから。雨が降っているから。気分が乗らないから。もう少し休んでからの方が、きっと効率よく作業ができるから。

 

 理由なら、いくらでも思いついた。

 

 実際、指先は少し疲れていた。細かい作業を続けていれば、肩も凝る。ずっと同じ姿勢で座っていたせいか、腰もなんとなく重かった。

 

 だから、休むこと自体は悪くない。

 

 悪くないのだが。

 

「……ああ、暇ね」

 

 目を閉じていても、暇なものは暇だった。

 

 天子は片目だけを開けた。

 

 何か面白いことが起きていないかと、部屋の中を見回してみる。

 

 机の上には造花。

 

 部屋の隅には茶碗、その中には魚。

 

 外には雨。

 

 以上。

 

「……つまらないわね」

 

 あまりにも、つまらない。

 

 天界にいた頃も、退屈だと思うことはあった。何もかもが整っていて、困ることなどほとんどない。毎日を好きなように過ごせるはずなのに、いつしか、その好きなように過ごせること自体が退屈になっていた。

 

 地上へ降りれば、少しは違うと思っていた。

 

 実際、違った。

 

 金がなければ食べられない。住む場所を借りるにも金がいる。仕事を探し、働き、手元に残った金を数える。昨日まで当たり前だったことが、今日は当たり前ではなくなる。

 

 面倒なことばかりだった。

 

 それでも、何かが起こるたびに、昨日とは違う一日を過ごしている気はした。

 

 ……気はしたのだが。

 

「花を作って、雨漏りに文句を言って、魚を眺めて……」

 

 天子は指を折って数えた。

 

「何だか、やっていることが小さくない?」

 

 自分で言って、自分で少し嫌になった。

 

 別に、大きなことをしたいわけではない。

 

 天下を取るとか、何か偉業を成し遂げるとか、そういうことを今さら望んでいるわけでもない。そもそも、そういうことに興味があったなら、天界で退屈を持て余すこともなかっただろう。

 

 ただ、こうして一日を過ごしていると、時々、自分が何をしているのか分からなくなる。

 

 花を作るのは金のためだ。

 

 金がいるのは、暮らしていくためだ。

 

 暮らしていくのは、生きていくためだ。

 

「…………」

 

 天子は眉を寄せた。

 

「……何だか、考えるのも面倒ね」

 

 結局、そこへ戻ってしまう。

 

 彼女は再び目を閉じた。

 

 しばらく、何もしないことにした。

 

 花も作らない。

 

 魚も見ない。

 

 雨漏りにも文句を言わない。

 

 ただ横になって、雨の音を聞いている。

 

 そうしていれば、いつか時間が過ぎて、紫苑が帰ってくる。帰ってきた紫苑に、寝ていたことを知られれば、また何か言われるかもしれない。

 

 そのときは、そのときだ。

 

 天子は、口元を少しだけ緩めた。

 

「……別に、寝ていたっていいでしょう。私の部屋なんだから」

 

 厳密には、二人で借りている部屋である。

 

 紫苑が聞いていれば、すぐにそう訂正しただろう。

 

 けれど、今は誰もいない。

 

 天子は、誰にも咎められないことをいいことに、畳の上で大きく伸びをした。

 

 そして、何をするでもなく、再び天井を見上げた。

 

 ぽたり。

 

 雨漏りの水が、布の上へ落ちる。

 

「……そこだけは、真面目なのね」

 

 天子は呆れたように呟いた。

 

 それから、もう一度目を閉じた。

 

天子は畳の上に横になったまま、茶碗の中を眺めていた。

 

 魚は泳いでいた。

 

 右へ行き、茶碗の縁に沿って曲がり、今度は左へ戻ってくる。途中で何かを見つけたように動きを変えることもあったが、しばらくすればまた同じところを回り始めた。

 

 見ている限り、特に忙しそうではない。

 

 もっとも、忙しいかどうかを魚に尋ねたところで、返事があるわけでもなかった。

 

「……あんた、毎日それで楽しいの?」

 

 魚は答えなかった。

 

「まあ、答えられないわよね」

 

 天子は頬を畳に押しつけたまま、片目だけを開けていた。

 

 天井から落ちる雨水が、ぽたり、と鳴った。

 

 魚はその音にも反応せず、茶碗の中を泳いでいる。

 

「そっちはいいわよね。食べるものの心配は……あるのかしら。魚だし」

 

 言ってから、天子は少し考えた。

 

「いや、あるわよね。私だって食べなきゃ生きていけないんだから。魚だって、何か食べてるんでしょうし」

 

 魚は茶碗の底近くへ沈み、それからゆっくり浮かび上がった。

 

「……聞いてないわね、あんた」

 

 当然だった。

 

 天子は息を吐き、視線を天井へ移した。

 

 雨漏りは相変わらずだった。さっき布を置いた場所からは落ちていないようだが、少し離れたところで新しい染みが広がっている。今すぐ畳まで濡れるほどではない。それでも、このまま降り続けば、あとでまた布を動かさなければならないだろう。

 

 面倒だった。

 

 花を作るのも、雨漏りを気にするのも、何もしないでいるのも、今日はどうにも面倒くさい。

 

 天子は目を閉じた。

 

 眠れるかと思った。

 

 しかし、雨音がある。

 

 屋根を叩く音。軒先から落ちる水の音。どこかで雨樋が詰まっているのか、ときおり、ざあっと水が流れる音も混じった。

 

 静かではない。

 

 けれど、うるさいと言い切るほどでもない。

 

 その中途半端さが、かえって落ち着かなかった。

 

「……もう」

 

 天子は目を開けた。

 

 起き上がるほどの気力はなかったので、横になったまま顔だけを茶碗のほうへ向ける。

 

 魚はまだ泳いでいた。

 

 同じ場所を回っているように見えても、さっきとまったく同じ道を通っているわけではないらしい。茶碗の底に沿って進むこともあれば、水面近くまで上がってくることもある。ときどき尾を揺らし、ほんの少しだけ向きを変える。

 

 それだけのことだった。

 

 天子は、手元に置いてあった作りかけの花を思い出した。

 

 細く切った紙を折り、形を整え、花びらを一枚ずつ重ねていく。慣れてきたとはいえ、雑にやれば形が崩れる。丁寧に作れば時間がかかる。

 

 魚も、花も、見方によっては似たようなものなのかもしれない。

 

 同じことを繰り返しているようで、少しずつ違う。

 

 ……いや。

 

「別に、そんな大層な話じゃないわね」

 

 天子はすぐに考えるのをやめた。

 

 魚は魚だし、花は花だ。勝手に似ていると思ったところで、魚が花を作るわけでもない。

 

 第一、今の自分は寝転がっているだけである。

 

 何かを考えたところで、花が一輪完成するわけでも、雨漏りが直るわけでもなかった。

 

 天子は再び目を閉じた。

 

 今度は、しばらくそのままでいた。

 

 どれくらい経ったのかは分からない。

 

 雨は弱くなったようにも思えたし、むしろ先ほどより強くなったようにも思えた。横になったままでは、外の様子もよく分からない。

 

 腹が少し空いてきた。

 

 それだけは、はっきりしていた。

 

「……紫苑、遅いわね」

 

 口に出してから、天子は眉を寄せた。

 

 紫苑が出ていったとき、帰りは午後になると言っていた。まだ約束の時間を過ぎたわけではない。用事が長引いているのかもしれないし、雨宿りでもしているのかもしれない。

 

 特に心配するようなことではなかった。

 

 そう思って、天子はまた魚を見た。

 

「まあ、帰ってきたら何か食べるものでもあるでしょうし」

 

 魚は泳いでいた。

 

「……あんたは、帰ってくる相手もいないのね」

 

 言ってから、天子は少しだけ口をつぐんだ。

 

 魚に帰る場所があるのかどうかなど、考えたこともなかった。そもそも茶碗の中にいる魚に、そんなことを尋ねても仕方がない。

 

「……ま、いいわ」

 

 天子は身体を起こした。

 

 寝転がっているのにも飽きた。かといって、もう一度花を作る気になったわけでもない。とりあえず茶碗のそばまで膝をつき、水面を覗き込む。

 

 魚は、天子の顔が映った水面の下を通り過ぎた。

 

「何よ。少しくらいこっちを見たらどうなの」

 

 もちろん、魚は見なかった。

 

 天子は茶碗を持ち上げようとして、手を止めた。水面には窓から差し込む薄い明かりが揺れている。雨水が入り込んでいないか確かめ、茶碗の置き場所を少しだけ奥へずらした。

 

 それから、ようやく作りかけの花を手に取った。

 

「……一つくらい、終わらせておくか」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 別に、魚に感化されたわけではない。暇だからだ。紫苑が帰ってくるまで、何もせずにいるのも退屈だった。

 

 天子は紙の端を指で整え、花びらを一枚重ねた。

 

 雨はまだ降っていた。

 

 ぽたり、と天井から水が落ちる。

 

「そこ、さっき拭いたばかりなんだけど」

 

 文句を言いながら、天子は手を動かし続けた。

 

 やがて、玄関のほうから足音がした。

 

 濡れた草履が、板の上を踏む音。

 

 続いて、戸を開ける気配がする。

 

「ただいま」

 

 紫苑の声だった。

 

 天子は顔を上げた。

 

「遅かったじゃない」

 

「まだ約束した時間より前よ」

 

「そうだっけ?」

 

「そうよ。あんた、ずっと寝てたんじゃないでしょうね」

 

「失礼ね。ちゃんと働いてたわよ」

 

 天子は手元の花を持ち上げた。

 

 まだ完成には少し遠い。紫苑はそれを見て、次に畳の上の布と、天井から落ちる雨水を受ける器に目をやった。

 

「……花を作ってたのね」

 

「見れば分かるでしょ。それと、雨漏りがひどくなってるわ。家賃が安いのも考えものね」

 

「安いんだから、そこは我慢しなさいよ」

 

「我慢はしてるわよ。文句を言ってるだけ」

 

「それを我慢してないって言うのよ」

 

 紫苑は濡れた袖を軽く絞り、持っていた荷物を部屋の隅に置いた。

 

 いつもの調子だった。

 

 それだけで、さっきまで広く感じていた部屋が、少し狭くなったように思えた。

 

「何か食べるもの、買ってきた?」

 

「買ってきたわよ。あんたが寝てる間にね」

 

「寝てないわよ」

 

「はいはい」

 

 紫苑はそれ以上追及せず、荷物を開き始めた。

 

 天子は手元の花に視線を落とした。花びらはまだ歪んでいる。作り直すほどではないが、売り物にするなら、もう少し整えたほうがいいだろう。

 

 外では雨が降り続いていた。

 

 天井から落ちる水の音も、相変わらずだった。

 

 それでも、もう魚に話しかける必要はなさそうだった。

 

 天子は花びらを一枚、指先でそっと押さえた。

 

「……紫苑」

 

「何?」

 

「あとで、雨漏りの布を替えるの手伝いなさいよ」

 

「自分でやりなさい」

 

「二人でやったほうが早いでしょ」

 

 紫苑は、荷物から顔を上げた。

 

 少しだけ呆れたような顔をして、それから小さく息を吐く。

 

「……分かったわよ。食べてからね」

 

「最初からそう言えばいいのよ」

 

「最初から偉そうに言わなければね」

 

 天子は言い返そうとして、やめた。

 

 代わりに、作りかけの花を手の中でくるりと回す。

 

 雨の日は、まだ終わりそうにない。

 

 けれど、もう一人ではなかった。

 




ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

今回は、雨の日に一人で過ごす天子のお話でした。

普段は紫苑と一緒にいることが多い天子ですが、たまには一人きりで、何をするでもなく過ごす時間があってもいいのかなと思い、こんな一話を書いてみました。

何かを成し遂げるわけでも、特別な答えを見つけるわけでもない。ただ魚を眺めて、雨漏りに文句を言って、帰ってきた紫苑といつものように言い合う。

そんな何気ない一日も、この二人にとっては大切な日常なのかもしれません。

梅雨の長屋で過ごす二人を、これからもゆっくり描いていければと思います。

それでは、また次回のお話でお会いしましょう!

感想や評価なども、お気軽にいただけると嬉しいです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。