外へ出るのも億劫で、かといって家の中にいても、特別やることがあるわけではない。
そんな雨の日、天子は長屋で一人、いつもとは少し違った時間を過ごすことになります。
何かが大きく変わるわけではない、ある雨の日のお話です。
それでは、第十七話をどうぞ。
梅雨というものは、どうにも性に合わない。
天子は、朝から何度目になるか分からない溜息を吐いた。
窓の外では、細い雨が降り続いている。空は一面に灰色の雲で覆われ、昨日から干していた洗濯物は、結局乾くどころか余計に湿っぽくなってしまった。軒先からは雨粒がぽたり、ぽたりと落ち、地面に小さな水溜まりを作っている。
こうも空が塞がれていると、部屋の中まで薄暗い。
朝食を済ませたのは、もうずいぶん前のことだった。
紫苑は用事があるとかで、昼過ぎまで戻らないらしい。何の用事だったか、天子は正確には覚えていなかった。確か、以前頼まれた仕事の話をしに行くとか、何かを受け取りに行くとか、そんなことを言っていた気がする。
いずれにせよ、今日は一人だ。
そして、一人であるということは。
「……暇ね」
誰に聞かせるでもなく、天子は呟いた。
目の前には、造花の材料が広がっていた。
色のついた紙や布、細い針金、糊、それから、作りかけの花が何本か。材料を無駄にしないようにと、紫苑から口を酸っぱくして言われている。売り物になるものを作る以上、適当に手を動かしていればいいというわけにもいかない。
それは分かっていた。
分かってはいるのだが。
「……飽きたわ」
天子は手にしていた花びらを、そっと机に置いた。
朝から同じことを繰り返している。材料を切り、形を整え、折り目をつけ、針金に巻きつける。花びらの大きさを揃え、歪んだところを直し、全体の形を見ながら少しずつ調整する。
以前に比べれば、ずいぶん手際はよくなったと思う。
最初の頃など、花びらを一枚作るだけで何度もやり直し、糊をつけすぎて紙を駄目にしたこともあった。今では、手元を見なくても次の材料を取れるくらいには慣れている。
慣れた。
そう、慣れてしまったのだ。
初めの頃は、指先で花の形が出来上がっていくことが面白かった。自分の手で何かを作り、それが売り物になるというのも、悪い気分ではなかった。
問屋に持っていった花が売れたと聞いたときは、少しばかり誇らしかったし、紫苑と一緒に魚を食べた夜は、いつもより食事が美味しく感じられた。
だが、毎日続けていれば、どんなことにも慣れが来る。
花は花だ。
一輪作っても、二輪作っても、三輪作っても、花びらを整えて糊で留めるという作業に変わりはない。出来上がったものを並べてみれば、少しずつ上達しているのは分かる。けれど、その上達を毎回喜んでいられるほど、天子は素直な性格をしていなかった。
「そもそも、花なんてそんなに必要なのかしらね」
机の上の造花をつつく。
当然、花は何も答えない。
「本物の花なら、勝手に咲くじゃない。水をやって、日当たりのいいところに置いておけば、後はそれなりに何とかなるんでしょう?」
造花はそうはいかない。
花びらを一枚ずつ作り、形を整え、茎をつけ、見栄えよく仕上げなければならない。しかも、売り物になるように作るとなれば、少しの歪みも気になってくる。
「……まったく。手間のかかる花だこと」
天子は頬杖をついた。
もっとも、本物の花が本当に何もしなくていいのかどうか、天子はよく知らない。地面に植えておけば勝手に育つものもあれば、そうでないものもあるのだろう。
だが、今の天子にとって重要なのは、植物の生態について正しい知識を持つことではなかった。
目の前の作業を、少しの間だけでも忘れたい。
ただ、それだけだった。
天子は畳に視線を落とした。
部屋の隅には、使い古した布が置いてある。雨漏りの水を受けるために敷いたものだ。朝のうちは、まだ何ともなかったはずなのだが、いつの間にか端の方が濡れている。
ぽたり。
頭上から、また一滴落ちた。
天子は顔を上げた。
「……また?」
軒の近く、天井板の継ぎ目から、じわじわと水が染み出している。しばらくすると、そこから一滴が膨らみ、重みに耐えきれなくなったように落ちてくる。
ぽたり。
布の上に、小さな染みが増えた。
「ちょっと。そっちは昨日も拭いたでしょう?」
天子は天井に向かって言った。
返事はない。
「一度直したら、もう少し大人しくしていなさいよ。何度も何度も、こちらの手を煩わせるんじゃないわよね」
言ってから、自分が天井に説教をしていることに気づいた。
天子は一度口を閉じ、それから小さく鼻を鳴らした。
「……何よ。文句くらい言ったっていいでしょう」
この長屋に越してきたばかりの頃、家賃の安さに喜んでいたのは誰だったか。
もちろん、自分だ。
屋根があって、壁があって、雨風をしのげる。それだけで十分だと、あのときは本気で思っていた。実際、それまで路地で寝ていたことを考えれば、屋根のある生活はありがたい。
ありがたいのだが。
「安い家賃には、安い屋根がついてくるってわけね……」
天子は濡れた布を持ち上げ、少しずらした。
「まったく、世の中うまく出来ているわ」
誰に対する皮肉なのか、自分でもよく分からなかった。
家主のお滝に言ったところで、すぐに屋根が直るとは限らない。そもそも、家賃を払うだけで苦労している身だ。雨漏りがするからといって、もっとまともな家へ移ろうなどという話にはならない。
それくらいの分別は、さすがの天子にもあった。
天子は布を敷き直し、再び机の前へ戻った。
造花が待っている。
待っているというより、放置されたまま、こちらを見ているような気がした。
「……はいはい。分かっているわよ」
誰に言い訳をしているのか。
天子は花びらを一枚手に取った。
折り目をつける。指先で端を整える。糊を薄く伸ばし、針金に巻きつける。
出来上がった花びらを、作りかけの花に添えてみた。
少し歪んでいた。
「……ああ、もう」
天子は花を机に置き、両手を頭の後ろで組んだ。
何も考えずに座っているだけなら、いくらでも時間は潰せる。窓の外を眺めてもいいし、横になって昼寝をしてもいい。雨音を聞きながら、ぼんやりと過ごすのも悪くはない。
だが、そうしていると、今度は別のことが気になり始める。
今日、何本作れただろう。
材料はあとどれくらい残っているだろう。
次に問屋へ持っていくまでに、どれだけ作っておけばいいのだろう。
何もしていない時間が、ただ何もしていない時間として過ぎていくことに、落ち着かなくなる。
天子は天井を見上げた。
「……面倒くさいわね、人間の暮らしって」
言ってから、少しだけ考えた。
自分は人間ではないのだから、厳密には人間の暮らしではない。だが、金を稼いで家賃を払い、食べるものを買い、雨漏りに文句を言いながら暮らしているのだから、あまり違いはないのかもしれない。
天界にいた頃なら、こんなふうに一日を過ごすことはなかった。
少なくとも、生活のために花を作る必要はなかった。雨が降ったからといって、屋根の染みを気にすることもなかった。
だからといって、戻りたいかと聞かれれば、それもまた別の話だった。
「……あーあ」
天子は再び溜息を吐いた。
そして、何とはなしに部屋の隅へ目を向けた。
そこには、いつもの茶碗が置いてある。
中には、一匹の魚が泳いでいた。
尾びれを揺らし、茶碗の縁に沿って泳いでは、くるりと向きを変える。少し進んで、また向きを変える。時折、水面近くまで上がってきて、何かを探すように口を動かしていた。
天子はしばらく、その様子を眺めた。
魚は、こちらの事情など知ったことではないという顔で泳いでいる。
造花が何本出来たかも、雨漏りがどれほど厄介かも、今日の食費がいくらかかるかも、魚には関係がない。
ただ、茶碗の中を泳いでいる。
「……あんた、暇じゃないの?」
天子は尋ねた。
魚は答えなかった。
当然である。
「毎日毎日、同じところをぐるぐる回って。飽きないのかしらね」
魚は茶碗の端まで泳ぎ、そこで身を翻した。
また、同じ方向へ泳ぎ始める。
天子は口をへの字に曲げた。
「……ふん。気楽なものね」
そう言いながら、彼女は机の上の造花をしばらく忘れていた。
外では、雨が降り続いている。
ぽたり、と天井から水が落ちた。
天子はそちらを見て、また魚を見た。
「……まったく。こっちは忙しいんだか暇なんだか、さっぱり分からないわ」
茶碗の中で、魚が尾びれを揺らした。
天子はそれを見つめたまま、頬杖をついていた。
「……もういいわ」
天子は、茶碗の中を泳ぐ魚から目を逸らした。
いつまで眺めていたところで、魚が突然、人生について語り始めるわけでもない。そもそも、魚に何かを期待する方が間違っている。
ただ泳いでいるだけの相手に、飽きないのかと尋ねたところで、答えが返ってくるはずもなかった。
「こっちは忙しいのよ。あんたと違ってね」
そう言い残し、天子は机の上に目を戻した。
作りかけの造花が、そこにある。
花びらが数枚。針金に巻きつける前のものが何枚か。それから、形を整えたものの、どこか気に入らずに放っておいた花が一輪。
どれも、続きを待っている。
天子はその中から一枚を摘まみ上げた。
眺める。
裏返す。
もう一度眺める。
「…………」
そっと、机に戻した。
「やっぱり、もういいわ」
何がやっぱりなのか、自分でもよく分からなかった。
天子は椅子代わりにしていた低い台から立ち上がると、畳の上へ移動した。部屋の隅に置いてある布団は、まだ畳まれたままだった。朝起きたときにきちんと整えたのは、紫苑が出かける前に目の前で片づけろと言ったからである。
誰もいないのなら、わざわざきちんとしておく必要もない。
そう考えた天子は、布団を広げることすらせず、そのまま畳に横になった。
「はあ……」
天井が見える。
木目が見える。
少し黒ずんだ染みも見える。
そして、その染みの近くには、雨漏りの跡があった。
「……あんたも、ずいぶん偉そうな顔をしているわね」
天子は天井に向かって言った。
もちろん、天井は何も答えない。
「毎日毎日、上から見下ろして。水まで落としてくるんだから、大したものよね。そんなに偉いなら、せめて雨くらい防いでみなさいよ」
言い終えてから、天子は口を閉じた。
雨漏りの修繕をするのは自分ではない。天井に文句を言っても何の意味もない。そんなことは分かっている。
それでも、文句を言うくらいは自由だろう。
天子は片腕を枕代わりにして、目を細めた。
雨の音が聞こえる。
屋根を叩く、細かな音。
軒先から落ちる、水の音。
そして、少し間を置いて、畳に敷いた布へ落ちる一滴の音。
ぽたり、ぽたり、ぽたり。
「…偉そうな顔している癖に、規則正しいわね」
まるで、誰かが時間を刻んでいるようだった。
時計など、この部屋にはない。あったところで、今の天子が時間を気にする必要もないのだが。
紫苑が帰ってくるまで、まだ時間はある。
その間に花を作っておけば、戻ってきた紫苑に、今日はこれだけ進んだと見せることもできるだろう。何本作れたかを数えれば、少しは気分もよくなるかもしれない。
そう思った。
思っただけだった。
「……あとでいいわ」
天子は目を閉じた。
あとで、という言葉は便利だ。
今すぐやらなくてもいい理由になる。今は疲れているから。雨が降っているから。気分が乗らないから。もう少し休んでからの方が、きっと効率よく作業ができるから。
理由なら、いくらでも思いついた。
実際、指先は少し疲れていた。細かい作業を続けていれば、肩も凝る。ずっと同じ姿勢で座っていたせいか、腰もなんとなく重かった。
だから、休むこと自体は悪くない。
悪くないのだが。
「……ああ、暇ね」
目を閉じていても、暇なものは暇だった。
天子は片目だけを開けた。
何か面白いことが起きていないかと、部屋の中を見回してみる。
机の上には造花。
部屋の隅には茶碗、その中には魚。
外には雨。
以上。
「……つまらないわね」
あまりにも、つまらない。
天界にいた頃も、退屈だと思うことはあった。何もかもが整っていて、困ることなどほとんどない。毎日を好きなように過ごせるはずなのに、いつしか、その好きなように過ごせること自体が退屈になっていた。
地上へ降りれば、少しは違うと思っていた。
実際、違った。
金がなければ食べられない。住む場所を借りるにも金がいる。仕事を探し、働き、手元に残った金を数える。昨日まで当たり前だったことが、今日は当たり前ではなくなる。
面倒なことばかりだった。
それでも、何かが起こるたびに、昨日とは違う一日を過ごしている気はした。
……気はしたのだが。
「花を作って、雨漏りに文句を言って、魚を眺めて……」
天子は指を折って数えた。
「何だか、やっていることが小さくない?」
自分で言って、自分で少し嫌になった。
別に、大きなことをしたいわけではない。
天下を取るとか、何か偉業を成し遂げるとか、そういうことを今さら望んでいるわけでもない。そもそも、そういうことに興味があったなら、天界で退屈を持て余すこともなかっただろう。
ただ、こうして一日を過ごしていると、時々、自分が何をしているのか分からなくなる。
花を作るのは金のためだ。
金がいるのは、暮らしていくためだ。
暮らしていくのは、生きていくためだ。
「…………」
天子は眉を寄せた。
「……何だか、考えるのも面倒ね」
結局、そこへ戻ってしまう。
彼女は再び目を閉じた。
しばらく、何もしないことにした。
花も作らない。
魚も見ない。
雨漏りにも文句を言わない。
ただ横になって、雨の音を聞いている。
そうしていれば、いつか時間が過ぎて、紫苑が帰ってくる。帰ってきた紫苑に、寝ていたことを知られれば、また何か言われるかもしれない。
そのときは、そのときだ。
天子は、口元を少しだけ緩めた。
「……別に、寝ていたっていいでしょう。私の部屋なんだから」
厳密には、二人で借りている部屋である。
紫苑が聞いていれば、すぐにそう訂正しただろう。
けれど、今は誰もいない。
天子は、誰にも咎められないことをいいことに、畳の上で大きく伸びをした。
そして、何をするでもなく、再び天井を見上げた。
ぽたり。
雨漏りの水が、布の上へ落ちる。
「……そこだけは、真面目なのね」
天子は呆れたように呟いた。
それから、もう一度目を閉じた。
天子は畳の上に横になったまま、茶碗の中を眺めていた。
魚は泳いでいた。
右へ行き、茶碗の縁に沿って曲がり、今度は左へ戻ってくる。途中で何かを見つけたように動きを変えることもあったが、しばらくすればまた同じところを回り始めた。
見ている限り、特に忙しそうではない。
もっとも、忙しいかどうかを魚に尋ねたところで、返事があるわけでもなかった。
「……あんた、毎日それで楽しいの?」
魚は答えなかった。
「まあ、答えられないわよね」
天子は頬を畳に押しつけたまま、片目だけを開けていた。
天井から落ちる雨水が、ぽたり、と鳴った。
魚はその音にも反応せず、茶碗の中を泳いでいる。
「そっちはいいわよね。食べるものの心配は……あるのかしら。魚だし」
言ってから、天子は少し考えた。
「いや、あるわよね。私だって食べなきゃ生きていけないんだから。魚だって、何か食べてるんでしょうし」
魚は茶碗の底近くへ沈み、それからゆっくり浮かび上がった。
「……聞いてないわね、あんた」
当然だった。
天子は息を吐き、視線を天井へ移した。
雨漏りは相変わらずだった。さっき布を置いた場所からは落ちていないようだが、少し離れたところで新しい染みが広がっている。今すぐ畳まで濡れるほどではない。それでも、このまま降り続けば、あとでまた布を動かさなければならないだろう。
面倒だった。
花を作るのも、雨漏りを気にするのも、何もしないでいるのも、今日はどうにも面倒くさい。
天子は目を閉じた。
眠れるかと思った。
しかし、雨音がある。
屋根を叩く音。軒先から落ちる水の音。どこかで雨樋が詰まっているのか、ときおり、ざあっと水が流れる音も混じった。
静かではない。
けれど、うるさいと言い切るほどでもない。
その中途半端さが、かえって落ち着かなかった。
「……もう」
天子は目を開けた。
起き上がるほどの気力はなかったので、横になったまま顔だけを茶碗のほうへ向ける。
魚はまだ泳いでいた。
同じ場所を回っているように見えても、さっきとまったく同じ道を通っているわけではないらしい。茶碗の底に沿って進むこともあれば、水面近くまで上がってくることもある。ときどき尾を揺らし、ほんの少しだけ向きを変える。
それだけのことだった。
天子は、手元に置いてあった作りかけの花を思い出した。
細く切った紙を折り、形を整え、花びらを一枚ずつ重ねていく。慣れてきたとはいえ、雑にやれば形が崩れる。丁寧に作れば時間がかかる。
魚も、花も、見方によっては似たようなものなのかもしれない。
同じことを繰り返しているようで、少しずつ違う。
……いや。
「別に、そんな大層な話じゃないわね」
天子はすぐに考えるのをやめた。
魚は魚だし、花は花だ。勝手に似ていると思ったところで、魚が花を作るわけでもない。
第一、今の自分は寝転がっているだけである。
何かを考えたところで、花が一輪完成するわけでも、雨漏りが直るわけでもなかった。
天子は再び目を閉じた。
今度は、しばらくそのままでいた。
どれくらい経ったのかは分からない。
雨は弱くなったようにも思えたし、むしろ先ほどより強くなったようにも思えた。横になったままでは、外の様子もよく分からない。
腹が少し空いてきた。
それだけは、はっきりしていた。
「……紫苑、遅いわね」
口に出してから、天子は眉を寄せた。
紫苑が出ていったとき、帰りは午後になると言っていた。まだ約束の時間を過ぎたわけではない。用事が長引いているのかもしれないし、雨宿りでもしているのかもしれない。
特に心配するようなことではなかった。
そう思って、天子はまた魚を見た。
「まあ、帰ってきたら何か食べるものでもあるでしょうし」
魚は泳いでいた。
「……あんたは、帰ってくる相手もいないのね」
言ってから、天子は少しだけ口をつぐんだ。
魚に帰る場所があるのかどうかなど、考えたこともなかった。そもそも茶碗の中にいる魚に、そんなことを尋ねても仕方がない。
「……ま、いいわ」
天子は身体を起こした。
寝転がっているのにも飽きた。かといって、もう一度花を作る気になったわけでもない。とりあえず茶碗のそばまで膝をつき、水面を覗き込む。
魚は、天子の顔が映った水面の下を通り過ぎた。
「何よ。少しくらいこっちを見たらどうなの」
もちろん、魚は見なかった。
天子は茶碗を持ち上げようとして、手を止めた。水面には窓から差し込む薄い明かりが揺れている。雨水が入り込んでいないか確かめ、茶碗の置き場所を少しだけ奥へずらした。
それから、ようやく作りかけの花を手に取った。
「……一つくらい、終わらせておくか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
別に、魚に感化されたわけではない。暇だからだ。紫苑が帰ってくるまで、何もせずにいるのも退屈だった。
天子は紙の端を指で整え、花びらを一枚重ねた。
雨はまだ降っていた。
ぽたり、と天井から水が落ちる。
「そこ、さっき拭いたばかりなんだけど」
文句を言いながら、天子は手を動かし続けた。
やがて、玄関のほうから足音がした。
濡れた草履が、板の上を踏む音。
続いて、戸を開ける気配がする。
「ただいま」
紫苑の声だった。
天子は顔を上げた。
「遅かったじゃない」
「まだ約束した時間より前よ」
「そうだっけ?」
「そうよ。あんた、ずっと寝てたんじゃないでしょうね」
「失礼ね。ちゃんと働いてたわよ」
天子は手元の花を持ち上げた。
まだ完成には少し遠い。紫苑はそれを見て、次に畳の上の布と、天井から落ちる雨水を受ける器に目をやった。
「……花を作ってたのね」
「見れば分かるでしょ。それと、雨漏りがひどくなってるわ。家賃が安いのも考えものね」
「安いんだから、そこは我慢しなさいよ」
「我慢はしてるわよ。文句を言ってるだけ」
「それを我慢してないって言うのよ」
紫苑は濡れた袖を軽く絞り、持っていた荷物を部屋の隅に置いた。
いつもの調子だった。
それだけで、さっきまで広く感じていた部屋が、少し狭くなったように思えた。
「何か食べるもの、買ってきた?」
「買ってきたわよ。あんたが寝てる間にね」
「寝てないわよ」
「はいはい」
紫苑はそれ以上追及せず、荷物を開き始めた。
天子は手元の花に視線を落とした。花びらはまだ歪んでいる。作り直すほどではないが、売り物にするなら、もう少し整えたほうがいいだろう。
外では雨が降り続いていた。
天井から落ちる水の音も、相変わらずだった。
それでも、もう魚に話しかける必要はなさそうだった。
天子は花びらを一枚、指先でそっと押さえた。
「……紫苑」
「何?」
「あとで、雨漏りの布を替えるの手伝いなさいよ」
「自分でやりなさい」
「二人でやったほうが早いでしょ」
紫苑は、荷物から顔を上げた。
少しだけ呆れたような顔をして、それから小さく息を吐く。
「……分かったわよ。食べてからね」
「最初からそう言えばいいのよ」
「最初から偉そうに言わなければね」
天子は言い返そうとして、やめた。
代わりに、作りかけの花を手の中でくるりと回す。
雨の日は、まだ終わりそうにない。
けれど、もう一人ではなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、雨の日に一人で過ごす天子のお話でした。
普段は紫苑と一緒にいることが多い天子ですが、たまには一人きりで、何をするでもなく過ごす時間があってもいいのかなと思い、こんな一話を書いてみました。
何かを成し遂げるわけでも、特別な答えを見つけるわけでもない。ただ魚を眺めて、雨漏りに文句を言って、帰ってきた紫苑といつものように言い合う。
そんな何気ない一日も、この二人にとっては大切な日常なのかもしれません。
梅雨の長屋で過ごす二人を、これからもゆっくり描いていければと思います。
それでは、また次回のお話でお会いしましょう!
感想や評価なども、お気軽にいただけると嬉しいです。