無尽長屋記   作:角筈律

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前書き

 梅雨の長屋は、何かと不便が多い。

 洗濯物は乾かず、仕事は滞り、屋根からは雨が降ってくる。

 そんな中でも、暮らしを続けていかなければならない天子と紫苑。どうやら今回は、傘を作るために傘が必要になったようで……。

 雨の日の長屋で繰り広げられる、少しばかり騒がしい一日をお楽しみください。


第十八話、傘の下の雨

梅雨に入ってから、雨の降らない日を数えるほうが難しくなっていた。

 

 朝から降り続く雨は、長屋の屋根を絶え間なく叩いている。軒先から落ちる雫が地面に小さな窪みを作り、ぬかるんだ路地には、昨日まで乾いていたはずの土の色がどこにも残っていなかった。

 

 そんな雨続きの中、天子と紫苑のもとには、ありがたい話が舞い込んでいた。

 

 傘の注文である。

 

 以前、ニ人で作った傘を買い取った商人から、まとまった数を用意してほしいと頼まれたのだ。梅雨時ということもあり、傘はいくらあっても困らないらしい。納期はそれほど余裕がないものの、数を揃えられれば、普段よりもまとまった金が手に入る。

 

 紫苑はその話を聞いたとき、まず注文数と納期を確かめた。それから、材料費を差し引いた場合にいくら残るのか、頭の中で計算を始めた。

 

 一方の天子は、注文の数を聞いた段階で、すっかり気をよくしていた。

 

「ふうん。ずいぶん頼まれたものね」

 

「ええ。全部仕上げられれば、いつもよりは稼げそうよ」

 

「いつもより、ねえ」

 

 天子は腕を組み、わざとらしく首を傾げた。

 

「もっと景気のいい話はできないの?たとえば、これでしばらく食べるものに困らないとか」

 

「材料費もあるし、借金もあるし、家賃もあるでしょう。全部終わってから考えなさい」

 

「夢がないわね」

 

「夢で家賃は払えないのよ」

 

 紫苑はそう言って、注文の内容を書き留めた紙を畳の上に置いた。

 

 傘を作るための材料は、すでに一部を用意してある。足りないものは、注文を受けた商人から届く手筈になっていた。作業の手間はかかるが、天子の手先の器用さを考えれば、決して無理な仕事ではない。

 

 むしろ問題は、数をこなすための時間だった。

 

「今日から少しずつ始めましょう。材料が届いたら、すぐに取りかかれるようにしておきたいし」

 

「分かってるわよ。こう見えて、私は仕事のできる女なんだから」

 

「その台詞、仕事が終わってから言ってくれる?」

 

「失礼ね。前にもちゃんと作ったでしょう」

 

「ええ。途中で飽きて、作りかけを放っておいたこともあったけれど」

 

「……あれは、ちょっと休憩していただけよ」

 

「半日くらい?」

 

「うるさいわね」

 

 いつもの調子で言い合いながら、二人は部屋の片隅に材料を広げ始めた。

 

 しかし、作業を始める前に、天子の手が止まった。

 

 ぽたり。

 

 目の前の畳に、水滴が落ちた。

 

 天子は顔を上げた。

 

 天井の板の継ぎ目に、黒ずんだ染みが広がっている。その端から、丸く膨らんだ雫がひとつ、またひとつと垂れ下がっていた。

 

「……紫苑」

 

「何?」

 

「ここ、こんなに漏れてたっけ?」

 

 紫苑は手を止め、天井を見上げた。

 

「昨日よりひどくなってるわね」

 

「昨日より?」

 

「ええ。昨日は、もう少し向こうだったもの」

 

 紫苑が指さした先では、器がひとつ置かれていた。雨漏りを受けるために用意したものだが、すでに底には水が溜まっている。そこへ新しい雫が落ち、乾いた音を立てた。

 

 ぽちゃん。

 

 天子はしばらく、その器を見つめていた。

 

 それから、ゆっくりと部屋を見回す。

 

 壁際には造花の材料が置かれている。傘の骨や紙を広げる予定だった場所には、濡れた跡が残っていた。畳の一部は湿り、荷物をまとめて置いてある場所にも、いつの間にか水が染み込んでいる。

 

 仕事を始めるには、あまりにも具合が悪かった。

 

「……ねえ、紫苑」

 

「今度は何よ」

 

「私たち、傘を作るのよね?」

 

「そうよ」

 

「雨に濡れないための傘を?」

 

「だから、そうだってば」

 

 天子は両手を広げ、天井を指さした。

 

「だったら、どうして傘を作る場所が、いちばん傘を必要としてるのよ!」

 

 声が長屋に響いた。

 

 外を歩いていた誰かが、戸の向こうで一瞬足を止めたようだった。

 

 紫苑は額に手を当てた。

 

「……叫んだところで、屋根は直らないわよ」

 

「分かってるわよ!分かってるから腹が立つんじゃない!」

 

 言いながら、天子は濡れかけた材料を慌てて持ち上げた。紙は湿気を吸いやすい。せっかくの材料が駄目になれば、注文をこなすどころではなくなる。

 

 紫苑も立ち上がり、壁際に置いていた荷物を別の場所へ移した。

 

 その間にも、雨漏りは続いていた。

 

 器の置かれた場所だけではない。少し離れたところでも、ぽたり、ぽたりと音がする。さっきまで気づかなかった場所からも、水が落ち始めているらしい。

 

「……これ、器が足りないんじゃない?」

 

「そうね。あと二つくらいは欲しいわ」

 

「器を増やしてどうするのよ。雨漏りそのものをどうにかしないと、いつまで経っても終わらないじゃない」

 

「私だってそう思ってるわよ」

 

 紫苑は濡れた畳を見下ろした。

 

 部屋を借りたばかりの頃は、雨漏りなどそれほど気にしていなかった。多少古い長屋なのだから、多少の不便はあるものだと思っていたのだ。

 

 けれど、生活が少しずつ落ち着き、仕事の道具や材料が増えてくると話は変わる。

 

 寝る場所が濡れるだけなら、布を敷き直せば済むこともある。だが、仕事に使う材料が駄目になれば、その分の損失が出る。納期に間に合わなければ、次の注文にも響くかもしれない。

 

 ようやく稼げる機会が巡ってきたところなのだ。

 

 ここで躓くわけにはいかなかった。

 

「大家さんに話してくるわ」

 

 紫苑が言った。

 

「そうね。さすがにこれは、私たちだけでどうにかする話じゃないでしょう」

 

 天子はすぐに賛成した。

 

 珍しいことだった。

 

 紫苑は少しだけ意外そうに天子を見たが、すぐに視線を戻した。

 

「……あんた、今日は素直ね」

 

「何よ。私だって、無駄なことに時間を使いたくないの。屋根を直すのは大家の仕事でしょ?」

 

「それを本人の前でも言えるなら、たいしたものね」

 

「言えるわよ。何なら今から言いに行ってあげる」

 

「余計なことまで言いそうだから、私が行くわ」

 

「どういう意味よ!」

 

 紫苑は返事をせず、戸口へ向かった。

 

 天子はその背中を見送り、それからもう一度、天井を睨みつけた。

 

 ぽたり。

 

 雫が落ちた。

 

「……ほんっと、いい度胸してるわね。この屋根」

 

 屋根に度胸があるのかどうかはともかく、天子は本気で腹を立てていた。

 

 せっかくの注文である。うまくいけば、食費を少し楽にできるかもしれない。借金返済の帳面にも、いつもより多くの金を書き込めるかもしれない。

 

 それなのに、仕事をする場所がこの有様では、話にならない。

 

 天子は手元の材料をまとめ、濡れていない場所へ移した。文句を言うだけでは何も変わらないことくらい、さすがに分かっている。

 

 とはいえ、納得できるかどうかは別だった。

 

 しばらくして、紫苑が戻ってきた。

 

 その顔を見た瞬間、天子は嫌な予感を覚えた。

 

「……どうだった?」

 

「お滝さん、今ちょうど外に出ているそうよ」

 

「それで?」

 

「帰ってくるまで待つしかないわね」

 

「待つ?」

 

 天子の声が一段高くなった。

 

「この雨漏りを前にして?」

 

「他にどうしろっていうのよ」

 

「追いかけるのよ!」

 

「どこへ?」

 

「知らないわよ!」

 

「知らないのに追いかけるの?」

 

「……うるさいわね!」

 

 紫苑は深くため息をついた。

 

「とにかく、帰ってきたら話すわ。それまでは材料を濡らさないようにしておきましょう」

 

「その間にも、屋根はどんどん水を落としてくるんだけど」

 

「分かってるわよ。だから、そこにある器をもう一つ持ってきて」

 

「……はいはい」

 

 天子は不満そうに返事をし、部屋の隅へ向かった。

 

 器を置く。布をずらす。材料をまとめる。濡れた畳を避ける。

 

 傘を作るための仕事は、まだ一つも始まっていない。

 

 そのうえ、雨漏りの始末に追われている。

 

「……ねえ、紫苑」

 

「何?」

 

「私、傘を作るためにここにいるのよね?」

 

「そうね」

 

「雨漏りの世話をするためじゃないわよね?」

 

「それは私に聞かれても困るわ」

 

 天子は器を置き、じっと天井を見上げた。

 

 雨は、まだ止みそうになかった。

 

 お滝が戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 

 雨は朝から降り続いていたが、昼になっても弱まる気配はない。長屋の軒先には雨水が細い筋を作り、地面には幾つもの水たまりができていた。通りを歩く者も少なく、時折、傘を傾けた人影が足早に通り過ぎていくばかりである。

 

 そんな中、お滝は濡れた手拭いを肩に掛け、片手に買い物籠を提げて帰ってきた。

 

 戸口に立っていた紫苑が、すぐに声を掛ける。

 

「お帰りなさい、お滝さん。少しお話があるんだけど」

 

「なんだい、改まって。家賃なら、今月はまだ先だろう?」

 

「家賃の話じゃないわ。屋根の話よ」

 

「ああ……」

 

 お滝は、その一言で大体の事情を察したらしかった。

 

 紫苑の肩越しに部屋を覗き込む。天子が濡れた布を畳み直しており、そのそばには水を受ける器が二つ並んでいた。さらに少し奥には、置き場所を失った傘の材料が、まるで避難民のようにまとめられている。

 

 お滝は籠を下ろし、しばらく天井を見上げた。

 

「……また漏ったのかい」

 

「また、というより、前よりひどくなってるわね」

 

 紫苑が答える。

 

「このままじゃ仕事にならないのよ。せっかくまとまった注文が入ったのに、材料を濡らしたら元も子もないでしょう」

 

 お滝は返事をせず、濡れた畳と器を見比べていた。

 

 天子が横から口を挟む。

 

「それに、傘を作る場所が傘を必要としてるのよ。ちょっと洒落にならないわ」

 

「洒落にする気はないよ。こっちだって、屋根がいつまでもつか気にはしてるんだ」

 

「だったら、早く直してくれればいいじゃない」

 

「言うのは簡単だけどねえ」

 

 お滝は腰に手を当てた。

 

 屋根を直すには職人を呼ぶ必要がある。雨が降り続いている今、簡単な補修ならともかく、本格的な修繕は難しい。しかも、職人に頼めば当然金がかかる。長屋の家賃は決して高くないし、住人の懐事情を考えれば、簡単に値上げするわけにもいかなかった。

 

 もちろん、天子たちにその内訳を説明したところで、雨漏りが止まるわけではない。

 

 お滝もそれは分かっていた。

 

「とりあえず、雨が弱まったら屋根を見てもらうよ。それまでは、器でも置いてしのいでおくれ」

 

「器なら、もう置いてあるわ」

 

 紫苑が部屋の中を示す。

 

「見れば分かるよ」

 

「じゃあ、これ以上はどうしろっていうの?」

 

「そう急かすんじゃないよ。あたしだって、できることなら今日中に何とかしたいさ」

 

 お滝の声には、いつもの大家らしい強さがあった。ただ、最後の一言には、ほんの少し困った響きも混じっていた。

 

 天子はそれを聞いて、口を閉じた。

 

 大家が何も考えていないわけではないらしい。そう分かったところで、天井から落ちる水が止まるわけではなかったが。

 

 お滝は籠を持ち直し、隣の部屋へ向かおうとした。

 

 そのとき、長屋の入口から明るい声が響いた。

 

「こんにちはー。あら、みんな揃ってどうしたの?」

 

 穣子だった。

 

 その後ろから、静葉が傘を畳みながら入ってくる。二人とも外を歩いてきたらしく、裾には細かな泥が跳ねていた。穣子は籠を抱えており、静葉は濡れた傘を手際よくまとめている。

 

「何かあったの?」

 

 穣子が部屋の中を覗き込んだ。

 

「……ああ、なるほど」

 

 天井から落ちる水を見て、すぐに事情を察したようだった。

 

「雨漏り?」

 

「見れば分かるでしょう」

 

 天子が言った。

 

「そうねえ。見れば分かるわね」

 

 穣子はあっさり頷いた。天子の棘など、最初から気にしていないらしい。

 

 静葉は妹の肩越しに室内を見渡し、濡れた材料や器の配置を確かめた。

 

「これでは仕事にならないでしょうね。傘を作るのに、部屋の中で雨を避けなければならないなんて」

 

「そうなのよ。分かってくれる?」

 

 天子は少しだけ勢いを取り戻した。

 

「材料は濡らせないし、作業場所は狭くなるし、器を置くたびに足の踏み場もなくなるし。いっそ屋根を全部ひっくり返して、空が見えるようにしたほうが気が楽かもしれないわ」

 

「それは雨漏りじゃなくて、屋根がないだけでしょう」

 

 紫苑が即座に返した。

 

「分かってるわよ。例え話じゃない」

 

「例えにしても、ずいぶん乱暴ね」

 

 静葉は小さく息を吐き、濡れた傘を壁際に立てかけた。

 

「でも、確かにこのままでは困るわね。私たちの家も、雨続きでいろいろと不都合が出ているもの」

 

「そうなの?」

 

 紫苑が尋ねた。

 

「ええ。外でできる作業は進まないし、湿気で乾きも悪いし。穣子なんて、さっきから干しておいたものが乾かないって文句ばかりよ」

 

「だって、干したものが乾かないんだもの!」

 

 穣子は当然のことのように言った。

 

「晴れないんだから仕方ないでしょう」

 

「仕方ないって言われても、困るものは困るのよ。お日様が出ないなら、せめて風くらい吹いてくれればいいのに」

 

「風が吹いたら、今度は雨が吹き込むわよ」

 

「……それもそうね」

 

 穣子はしばらく考え込んだ。

 

 それから、何かを思いついたように顔を上げる。

 

「ねえ、屋根を直すのなら、私たちも手伝おうか?」

 

 天子と紫苑は、ほとんど同時に穣子を見た。

 

「手伝えるの?」

 

「まあ、簡単なことなら。屋根の上に上がって、どこから漏れているか見たり、板を押さえたりするくらいならできると思うわ」

 

 穣子は胸を張った。

 

 その隣で、静葉が控えめに付け加える。

 

「ただし、雨の中で無理はできないわよ。屋根が滑るし、応急処置で済む範囲かどうかも見てみないと」

 

「そうね。そこは大事ね」

 

 紫苑は頷いた。

 

 助けてもらえるのはありがたい。だが、屋根の修繕となれば危険もある。素人が無理をして、かえって被害を大きくするわけにはいかなかった。

 

 お滝も、二人の申し出を聞いて考え込んでいた。

 

「……そうさね。雨が少し弱まったら、外から様子を見てみるくらいならできるかもしれないね。ただ、屋根に上がるのは駄目だよ。滑って落ちでもしたら、修繕どころじゃない」

 

「分かってるわ。無理はしないわよ」

 

 静葉が答えた。

 

 穣子も頷く。

 

「じゃあ、まずは道具を揃えないとね。板と、釘と、あと……」

 

「その前に、何が必要か調べるんでしょう?」

 

 静葉が釘を刺す。

 

「そうだった。買ってから使わなかったら、もったいないものね」

 

 その言葉に、紫苑の目がわずかに動いた。

 

 道具を買う。材料を揃える。修繕にいくらかかるか分からない。

 

 頭の中で、金額が並び始めたのだろう。

 

 天子はそれを見逃さなかった。

 

「……紫苑。今、また計算してるでしょ」

 

「してないわ」

 

「嘘ね。あんた、金のことを考えると目つきが変わるもの」

 

「人聞きの悪いことを言わないで。必要な出費を考えているだけよ」

 

「それを計算って言うんじゃないの?」

 

「そうよ。だから何?」

 

 紫苑は平然と言い返した。

 

 天子は口を開きかけたが、反論を思いつかなかったらしい。しばらく紫苑の顔を見つめてから、諦めたように肩を落とした。

 

「……やっぱり、あんたに帳面を持たせると話が早いんだか遅いんだか分からないわね」

 

「少なくとも、あんたに任せるよりは早いでしょうね」

 

「それはどういう意味よ!」

 

 穣子が、二人のやり取りを見て楽しそうに笑った。

 

「仲がいいわねえ」

 

「どこがよ」

 

 天子と紫苑の声が重なった。

 

 静葉は小さく笑い、お滝は呆れたように首を振った。

 

「仲がいいかどうかは知らないけどね。とにかく、今は屋根の話だよ。雨が弱まったら、みんなで外から状態を確かめよう。それまでは、余計なことをして被害を増やさないこと」

 

「はいはい」

 

 天子が返事をする。

 

「返事は一回でいいよ」

 

「はい」

 

 今度は素直だった。

 

 お滝はそれを確かめてから、ようやく籠を持って自分の部屋へ戻っていった。

 

 残された四人は、しばらく天井を見上げていた。

 

 雨は相変わらず降っている。器の中の水は少しずつ増え、湿った空気が部屋の隅に溜まっていた。

 

 やがて穣子が、ぽつりと言った。

 

「……ねえ。これ、屋根を直すまで、傘の注文はどうするの?」

 

 天子は、手元にまとめた材料へ目を落とした。

 

「作るわよ。もちろん」

 

「でも、場所がないんでしょう?」

 

「だから、場所を作るのよ」

 

 天子は当然のことのように答えた。

 

 紫苑は嫌な予感を覚えたらしく、ゆっくりと天子のほうを向いた。

 

「……あんた、何をするつもり?」

 

「何って、雨漏りしない場所を探すのよ。長屋の中にだって、まだ使えるところくらいあるでしょう」

 

「それはそうだけど……」

 

「だったら、決まりね」

 

 天子は立ち上がり、部屋の外へ目を向けた。

 

 その顔には、先ほどまでの不満とは別の、妙に張り切った表情が浮かんでいた。

 

 紫苑はその横顔を見て、静かにため息をついた。

 

 天子が何かを思いついたときは、大抵、もう一つ余計な仕事が増える。

 

 それを止めるべきか、利用すべきか。

 

 紫苑は少しだけ考え、結局、帳面を取り出した。

 

 どうせなら、余計な出費が少なく済むほうがいい。

 

 雨漏りの修繕は、まだ始まってもいなかった。

 

 天子が傘を開いたのは、雨漏りの場所を避けるためだった。

 

 最初は、ただ材料を移すつもりだったのである。部屋の中央に置いた桶を少しずらし、濡れた畳の上に古布を敷き、傘の骨組みを壁際へ寄せる。それだけで済むと思っていた。

 

 ところが、雨漏りは天子の都合など考えてくれない。

 

 桶を置けば、そのすぐ隣に水が落ちる。材料を移せば、今度は別の場所が濡れる。雨音の合間に、ぽつり、ぽつりと水滴の落ちる音が増えていった。

 

「……もう、いいわ」

 

 天子はとうとう、壁に立てかけてあった完成品の傘を手に取った。

 

「何がいいのよ」

 

 帳面を広げていた紫苑が、顔を上げる。

 

「こうすればいいのよ」

 

 天子は傘を開いた。

 

 ぱん、と紙の張られた傘が広がり、天子の頭上を覆った。ちょうどそのとき、天井から落ちてきた水滴が、傘の表面を軽く叩いた。

 

 天子は満足げに頷いた。

 

「ほら。濡れない」

 

「……そうね」

 

 紫苑はしばらく傘を見つめていた。

 

「自分で作った傘を、部屋の中で使うことになるなんてね」

 

「使い心地の確認よ。売る前に試しておくのは当然でしょう?」

 

「雨漏りのする部屋で?」

 

「実地試験というものよ」

 

「便利な言葉ね。あんたが失敗したときにも使えそうだわ」

 

 天子は聞こえなかったふりをした。

 

 傘をさしたまま座るのは、思ったより難しかった。片手で柄を持ち、もう片方の手で竹の骨を整える。作業台の代わりに使っている低い板へ身を寄せると、傘の端が壁に当たった。少し角度を変えれば、今度は膝が桶にぶつかる。

 

 それでも、天井から直接水を浴びるよりはましだった。

 

「紫苑、そこの紙を取って」

 

「どれ?」

 

「右の端にあるやつ」

 

「右って、あんたから見て?」

 

「私から見て右よ」

 

「私はあんたの向かいにいるの。こっちから見た右は反対でしょう」

 

「じゃあ、そっちの右!」

 

「最初からそう言いなさい」

 

 紫苑が紙を渡すと、天子は傘の下で作業を再開した。

 

 紙を切り、骨組みに合わせて寸法を確かめる。傘を開いているため、いつものように材料を広げられない。作業のたびに手元を調整する必要があり、効率がよいとはとても言えなかった。

 

 それでも、天子は手を止めなかった。

 

 注文は、ようやく入ってきたまとまった仕事だった。雨が続けば傘の需要も増える。ここで仕事を進めておけば、次の注文にも応えられるかもしれない。

 

 せっかく得た機会を、屋根のせいで無駄にしたくはなかった。

 

 紫苑も、口では文句を言いながら材料を手元へ寄せていた。紙の端が湿っていないか確かめ、糊の容器には布をかぶせる。濡れた材料が出れば、それだけ余計な出費になる。今の二人には、失敗を笑って済ませられるほどの余裕はなかった。

 

 そんな折、戸口から声がした。

 

「……何をしているの?」

 

 振り返ると、穣子と静葉が立っていた。

 

 穣子は、天子が部屋の真ん中で傘をさしている姿を見て、しばらく言葉を失った。静葉はその横で、床に置かれた桶と天井の染みを交互に見ている。

 

「見て分からない?傘を作っているのよ」

 

 天子は、さも当然のように答えた。

 

「それは分かるけど……家の中で傘をさす必要はあるの?」

 

「あるから、さしているんでしょう」

 

「まあ、そうだけど」

 

 穣子は納得したような、していないような顔で部屋に入った。入口で草履の裏を確かめ、濡れた畳を避けて歩く。

 

「うちも洗濯物が全然乾かないのよ。干したものを取り込んでも湿っぽいし、食べ物も傷みやすいし。梅雨って、こういうところが嫌なのよね」

 

「うちの場合は、洗濯物どころじゃないわ」

 

 紫苑が天井を指さした。

 

「屋根から水が落ちてくるんだもの。仕事をしようにも、場所がないのよ」

 

「それで傘を?」

 

「そういうこと」

 

 天子は傘の柄を少し持ち上げた。

 

「なかなか合理的でしょう?」

 

「合理的かどうかは、ちょっと分からないわね……」

 

 穣子は苦笑したが、天子の傘の下を覗き込んだ。

 

「でも、そこは濡れないのね」

 

「当然よ。傘なんだから」

 

「じゃあ、ちょっと入れて」

 

「なんでよ」

 

「だって、ここだけ晴れているみたいじゃない」

 

 穣子は天子の返事を待たず、傘の端へ頭を寄せた。

 

「ちょっと、狭いわよ!」

 

「いいじゃない、少しくらい」

 

「私が作業できないでしょう!」

 

「じゃあ、私が持ってあげる」

 

 穣子が柄を持とうとしたので、天子は慌てて手を引いた。傘が傾き、端から水滴が一つ落ちる。

 

「危ない!」

 

 紫苑が反射的に材料を引き寄せた。

 

「傘を動かすなら、下に何があるか見てからにしてちょうだい。紙が濡れたらどうするのよ」

 

「あ、ごめん」

 

 穣子は素直に手を引っ込めた。

 

 そのやり取りを見ていた静葉が、部屋の奥へ目を向けた。

 

「少し、雨漏りの場所を確認してもいいかしら」

 

「確認?」

 

「天井の染みと、水が落ちている場所が一致しているとは限らないでしょう。屋根のどこから水が入っているのか、正確なことは分からなくても、部屋の中でどこが濡れるのかは整理できると思うの」

 

 静葉は床の濡れた箇所を一つずつ確かめた。天井の染みの真下だけでなく、梁を伝った水が壁際へ流れている場所もある。桶を置く位置を変え、古布を敷く場所を選び直す。

 

「ここは桶を置いたほうがいいわね。こっちは布を敷いておけば、畳に染み込むのを少し防げそう」

 

「なるほどね」

 

 紫苑は頷き、言われた場所へ桶を移した。

 

「助かるわ。私は材料ばかり気にして、床のほうまで見ていなかった」

 

「材料が大事なのは分かるわ。でも、畳まで傷めると、あとで面倒なことになるでしょう?」

 

 静葉はそう言って、天井を見上げた。

 

「ただ、屋根そのものを直すのは、やっぱり職人に頼んだほうがいいと思う。雨が弱くなっても、濡れた屋根に上るのは危ないもの」

 

「それはお滝さんにも言われたわね」

 

 天子は傘の下から答えた。

 

「分かっているわよ。誰も屋根に上ったりしないわ」

 

「天子は、思いつきで上りそうだから」

 

 紫苑がぼそりと言った。

 

「上らないってば!」

 

 穣子はまた笑った。

 

「でも、こうして見ると、傘って便利ね。雨の日に家の中で使うことになるとは思わなかったけど」

 

「だから、これは実地試験なのよ」

 

「はいはい、実地試験ね」

 

 穣子は適当に相槌を打ち、今度は傘の外側を眺めた。

 

「これ、前に見せてもらったものより、紙がきれいに張れている気がする」

 

 天子の手が、ほんの少し止まった。

 

「……そう?」

 

「うん。端のところも、前より揃っているわ。あんた、上手くなったんじゃない?」

 

「そりゃあ、毎日作っているんだから、少しくらいは上達するわよ」

 

 天子は何でもないことのように答えた。けれど、傘を持つ手には、先ほどより少しだけ力が入っていた。

 

 静葉も傘を見て、短く頷いた。

 

「確かに、仕上がりが整っているわね」

 

「……二人とも、そういうことは最初から言いなさいよ」

 

「今、気づいたんだもの」

 

 穣子は悪びれずに言った。

 

「それに、褒めたらすぐ調子に乗りそうだし」

 

「誰がよ!」

 

 天子の声が大きくなり、傘の柄がまた壁に当たった。

 

 紫苑は何も言わず、傘の端をそっと押し戻した。

 

 雨漏りは相変わらずだったが、部屋の中の様子は、少しずつ落ち着いてきていた。桶の位置が定まり、濡れた材料は乾いた布の上へ移された。静葉が見つけた水の通り道を避ければ、作業に使える場所もいくらか増えた。

 

 そのころ、廊下から足音が近づいてきた。

 

「ずいぶん賑やかだね。雨漏りの様子はどうだい?」

 

 お滝だった。

 

 部屋へ入ったお滝は、まず天井を見上げ、それから桶の位置と、傘をさした天子を見た。

 

「……あんた、今度は何をしているんだい」

 

「仕事よ」

 

「傘をさして?」

 

「仕事よ」

 

 天子は同じ答えを繰り返した。

 

 お滝は額に手を当てたが、怒ることはなかった。床の濡れた場所を確かめ、静葉の説明を聞き、雨樋の詰まりが少し改善したことを知ると、ひとまず頷いた。

 

「応急処置はできたようだね。でも、屋根の傷みは別の話だ。雨が上がったら、職人に見てもらうよ」

 

「それで、修理代は?」

 

 紫苑が尋ねた。

 

「見てもらわなければ分からないね。こちらで直すべきところなら、大家の私が手配する。ただ、あんたたちが何か壊したわけでもないのに、勝手に費用を負担する必要はないよ」

 

 紫苑は、帳面を持つ手を少し緩めた。

 

「……そう。分かったわ」

 

「ただし、部屋の中をこれ以上濡らさないように気をつけること。畳が駄目になったら、話は別だからね」

 

「分かっているわよ」

 

 天子が答えた。

 

「そのために傘をさしているんだもの」

 

「そこを誇るんじゃないよ」

 

 お滝の返事に、今度は静葉まで小さく笑った。

 

 話がひと段落すると、穣子は帰り支度を始めた。静葉も、濡れた布を畳の上へ放置しないよう念を押してから戸口へ向かう。

 

「また何かあったら言ってね。できることなら手伝うから」

 

 穣子が言った。

 

「ええ。ありがとう」

 

 紫苑が答えると、静葉も軽く会釈した。

 

「雨が続く間は、無理をしないこと。仕事も大切だけれど、材料を駄目にしたら元も子もないもの」

 

「分かっているわ」

 

 紫苑は二人を見送った。

 

 秋姉妹が帰ると、部屋にはまた、雨音と桶の音が戻ってきた。

 

 穣子が来る前より、少しだけ片づいている。静葉が水の落ちる場所を見つけてくれたおかげで、材料を広げられる場所も確保できた。お滝も修理の手配を約束した。すぐに屋根が直るわけではないが、何もできないまま雨を眺めているよりは、ずっとましだった。

 

 天子は傘の下で、作業を再開した。

 

 紫苑が紙を渡し、天子が寸法を合わせる。糊をつける前に紙の端を確かめ、竹の骨に沿って丁寧に貼っていく。いつもなら二人で何度も言い合うところだが、今は傘を動かすたびに水が落ちるため、自然と声も手つきも慎重になっていた。

 

「……ねえ、天子」

 

「何よ」

 

「その傘、あとでちゃんと乾かしておきなさいよ。売り物にするんでしょう?」

 

「分かっているわよ。これは私が使っているんだから、売り物じゃないわ」

 

「じゃあ、余計に大切にしなさい。自分のものだからって雑に扱っていいわけじゃないでしょう」

 

「はいはい」

 

 天子は適当に返事をしたが、傘の端についた水滴を布で拭った。

 

 その様子を見て、紫苑はそれ以上何も言わなかった。

 

 部屋の中央では、桶が雨水を受け止め続けている。屋根の修理には金がかかるだろうし、傘の注文をすべて仕上げるにも時間がいる。それでも、今は手を動かすことができる。

 

 天子は傘の下から天井を見上げた。

 

「雨漏りを止めたと思ったら、今度はお金が降ってきたわね」

 

「降ってきたのは水でしょう。お金はこれから出ていくのよ」

 

 紫苑は帳面を閉じながら言った。

 

「……夢のない返事ね」

 

「夢で家賃は払えないもの」

 

 天子は一瞬だけ口を尖らせたが、すぐに手元へ目を戻した。

 

 傘の内側では、紙が少しずつ形を整えていく。

 

 雨はまだ止まない。

 

 それでも、二人の仕事は続いていた。




後書き

 ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

 第十八話は、雨漏りに悩まされる天子と紫苑のお話でした。

 傘を作っている最中に、まさか自分たちの部屋で傘をさすことになるとは。二人にとっては笑い事ではないのでしょうが、書いている側としては、少しばかり愉快な光景になりました。

 また、今回は秋姉妹にも手伝ってもらいました。大きな問題を一度に解決できるわけではなくても、近くにいる誰かが少し手を貸してくれる。それだけで、暮らしは案外どうにかなるのかもしれません。

 もっとも、雨漏りの修理代という新たな問題は残っていますが……。

 それでは、また次のお話でお会いしましょう。

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