無尽長屋記   作:角筈律

19 / 19
梅雨の雨は、なかなか止まない。
洗濯物は乾かず、部屋は狭くなり、何かと不便の多い日々が続いていた。

そんなある日、傘作りの仕事を終えた二人のもとに、少しばかりの報酬が入る。
いつもより少しだけ余裕のある懐事情。せっかくだからと、二人はささやかな贅沢をすることにした。

雨の降る長屋で過ごす、何気ない一日。
どうぞ、ゆっくりとお楽しみください。


第十九話、雨の日の小さな贅沢

梅雨の雨は、降り始めると長い。

 

 朝から降っていた雨は昼を過ぎても止む気配がなく、長屋の屋根を絶え間なく叩いていた。軒先から落ちる雫は地面に小さな水溜まりを作り、道を歩く者も、いつもより足早に通り過ぎていく。

 

 そんな雨の日の午後、紫苑は一枚の紙を手にしていた。

 

 そこには、今回請け負った傘作りの仕事について、納品数と報酬が記されている。

 

「……これで、全部ね」

 

 紫苑は紙と、目の前に積まれた傘を見比べた。

 

 傘の骨組みや布地に不備はない。何度も確かめたうえで納めた品だった。今回の注文は普段より数が多く、二人で手分けして作業を進めたこともあって、ようやく予定していた数を揃えることができた。

 

 一張り百円。それを二十張り。

 

 報酬は、二千円だった。

 

「二千円……!」

 

 隣に座っていた天子が、報酬の額を聞いて目を輝かせた。

 

「結構な額じゃない。これだけあれば、しばらくは楽できそうね」

 

「しばらく、というほどではないでしょう」

 

「そう?私は十分だと思うけど」

 

「二千円は二千円よ。使えばなくなるわ」

 

 紫苑は受け取った報酬を机の上に並べた。硬貨を一枚ずつ数え、間違いがないことを確かめる。その手つきは、以前よりもずっと慣れたものになっていた。

 

 天子はその様子を眺めながら、机の端に頬杖をつく。

 

「せっかくまとまったお金が入ったんだから、何か買いましょうよ」

 

「何かって?」

 

「美味しいものよ。魚とか、お菓子とか。普段より少し良いものを食べても罰は当たらないでしょ」

 

「その前に、使い道を決めないと」

 

 紫苑はそう言って、そばに置いていた帳面を開いた。

 

 まず五百円。これは借金の返済に回すための分だ。次に七百円を食費の補填に、五百円は家賃や日用品など、急な出費に備えて残しておく。

 

 最後に残った三百円を、今回の自由に使える分とした。

 

「……というわけで、使っていいのは三百円まで」

 

「三百円?」

 

 天子は少し不満そうに眉を寄せた。

 

「二千円も稼いだのに?」

 

「二千円稼いだからといって、二千円全部使えるわけじゃないでしょう」

 

「でも、三百円だけっていうのは少なくない?」

 

「じゃあ、あんたが残りの生活費を出してくれる?」

 

「それは嫌ね」

 

「でしょうね」

 

 紫苑は帳面に数字を書き込んだ。

 

 天子は机の上に並んだ硬貨を見つめている。三百円。たった三百円と思うか、三百円もあると思うか。どうやら二人の間には、まだ少しばかりの隔たりがあるらしい。

 

「それでも、三百円は使っていいんでしょう?」

 

「ええ。今回の仕事で得た分だもの。少しくらいはいいわ」

 

「なら、魚を買いましょう。前に食べたの、美味しかったじゃない」

 

「魚一尾なら百五十円くらいね」

 

「半分は?」

 

「何の半分よ」

 

「魚の半分よ。二人で分けるんだから」

 

「最初から一尾買うつもりで考えなさいよ」

 

 天子は得意げに言ったつもりだったが、紫苑にはあまり響かなかったらしい。紫苑は帳面を閉じ、硬貨を小さな袋にしまった。

 

「魚を買って、残りで何か買う。それならいいわ」

 

「団子は?」

 

「いくらすると思っているの?」

 

「前に買ったときは九十円だったわよね」

 

「覚えていたのね」

 

「当然よ。美味しいものの値段は忘れないわ」

 

「そういうことだけは、よく覚えているのね」

 

 紫苑は呆れたように言ったが、口元にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。

 

 仕事を終え、報酬を受け取って、二人で使い道を考える。以前なら、そんな話をする余裕さえなかった。食べるものをどう確保するか、明日の仕事があるか、家賃を払えるか。目の前の心配事を一つずつ片付けるだけで精一杯だった。

 

 今も暮らしに余裕があるわけではない。

 

 それでも、三百円の使い道について相談できる程度には、少しずつ変わってきていた。

 

「ところで、天子」

 

「何?」

 

「洗濯物は取り込んだ?」

 

「……あ」

 

 天子の視線が、部屋の隅へと向いた。

 

 そこには、朝から軒先に干していた洗濯物が、湿ったまま置かれている。雨が降り続いているせいで、ほとんど乾いていなかった。

 

「取り込んだだけよ。乾いたとは言っていないわ」

 

「威張って言うことじゃないでしょう」

 

「仕方ないじゃない。雨なんだから」

 

 紫苑は小さく息を吐き、洗濯物を手に取った。布地はまだひんやりとしていて、袖口には湿り気が残っている。

 

 部屋の中を見渡す。

 

 傘作りに使った材料や道具が片付けきれず、壁際には作業途中の品も置かれていた。そこへ洗濯物まで干そうとすれば、ただでさえ狭い部屋がさらに窮屈になる。

 

「……どうしたものかしらね」

 

「何が?」

 

「洗濯物よ。これじゃ、明日になっても乾かないわ」

 

「なら、明日まで干しておけばいいじゃない」

 

「明日も雨だったら?」

 

「明後日まで」

 

「明後日も雨だったら?」

 

「その次の日まで」

 

「いつまで続けるつもりなのよ」

 

 天子は答えず、窓の外を眺めた。

 

 雨は、まだ止みそうになかった。

 

第屋根を叩く雨音は途切れることなく、軒先から落ちる雫も一向に細くならない。外に出していた洗濯物は、取り込んだところで乾くわけでもなく、部屋の隅にまとめて置かれている。

 

 紫苑はその一つを手に取り、布地を指先で確かめた。

 

「まだ湿っているわね」

 

「そりゃそうでしょう。雨に当たっていたんだから」

 

「分かっているわよ。そういう意味で言ったんじゃないわ」

 

 紫苑は洗濯物を畳みかけたが、途中で手を止めた。畳んでしまえば、湿気がこもってしまう。かといって、広げたままにしておく場所もない。

 

 部屋の中には、傘作りに使った竹の骨や布地、糸などが置かれていた。仕事が終わったばかりとはいえ、道具をすべて片付けたわけではない。次の注文がいつ来てもいいように、使うものはすぐ手に取れる場所に置いてある。

 

 そのうえ、二人分の布団や普段使いの道具もある。そこへ洗濯物を広げれば、足の踏み場がなくなるのは目に見えていた。

 

「軒先に戻すわけにもいかないし、部屋の中に干すしかないでしょうね」

 

「それなら、紐を張ればいいじゃない」

 

 天子は、何でもないことのように言った。

 

「紐?」

 

「そうよ。部屋の端から端まで張って、そこに洗濯物を掛ければいいの。簡単でしょ?」

 

「言うのは簡単ね」

 

「何よ。良い考えだと思うけど」

 

「どこに張るつもりなの?」

 

 紫苑に尋ねられ、天子は部屋の中を見回した。

 

 柱と柱の間。壁際。鴨居の近く。

 

 しばらく考えたあと、天子は部屋の奥を指差した。

 

「そこならいいんじゃない?」

 

「そこには傘の材料があるでしょう」

 

「じゃあ、こっち」

 

「そこは布団を敷く場所よ」

 

「……思ったより空いていないわね」

 

「暮らしているんだから、当たり前でしょう」

 

 天子は少し不満そうに頬を膨らませた。

 

 しかし、他に良い案があるわけでもない。結局、二人は部屋の中を片付けて、少しでも干す場所を作ることにした。

 

 まず、傘作りの道具を壁際に寄せる。竹の骨は折れないようにまとめ、布地は湿気を吸わないように畳み直した。糸や小さな道具は箱にしまい、作業台代わりにしていた板も片付ける。

 

「これで少しは空いたわね」

 

 紫苑が腰を上げる。

 

「じゃあ、紐を張りましょう」

 

 天子は得意げに、手元にあった紐を持ち上げた。

 

 二人で両端を柱に結び、洗濯物を掛ける。最初は順調だった。手拭いや薄手の衣類を並べていくと、紐の上に少しずつ洗濯物が増えていく。

 

 ところが、半分ほど掛けたところで問題が起きた。

 

「天子、もう少し間隔を空けて」

 

「これくらいでいいじゃない」

 

「詰めすぎよ。これじゃ乾きにくいでしょう」

 

「でも、全部掛けるにはこれくらい必要よ」

 

「全部を一度に干そうとするからでしょう」

 

 紫苑は洗濯物を一枚外し、間隔を空けて掛け直した。

 

 天子はその様子を眺めていたが、やがて自分の着物を持ち上げる。

 

「それなら、こっちにも掛ければいいじゃない」

 

「どこに?」

 

「この紐の端よ。まだ少し空いているわ」

 

「そこは通り道に近いでしょう。人が通るたびに当たるわよ」

 

「誰も通らなければいいじゃない」

 

「私たちが通るのよ」

 

 紫苑は呆れたように言った。

 

 天子は納得していない様子だったが、着物を抱えたまま立ち尽くす。結局、その着物は別の場所に掛けることになった。紐の端から少し離れた柱に、短い紐をもう一本結び、そこに一枚だけ干す。

 

 これで何とかなるかと思った矢先、天子が立ち上がった拍子に、袖が干してあった手拭いに触れた。

 

「あっ」

 

 手拭いが床に落ちた。

 

「天子」

 

「わざとじゃないわよ」

 

「分かっているわ。だから、気をつけてと言っているの」

 

 紫苑は手拭いを拾い、汚れがついていないか確かめた。幸い、床は乾いていたが、もう一度干し直さなければならない。

 

「……やっぱり狭いわね」

 

「最初からそう言っているでしょう」

 

「でも、干さないわけにもいかないじゃない」

 

「それはそうだけど」

 

 二人はしばらく部屋を見渡した。

 

 洗濯物はまだ全部干し終わっていない。残りを掛けるには、もう少し場所が必要だった。

 

「傘の材料を、もう少し向こうに寄せられないかしら」

 

「これ以上寄せると、今度は取り出しにくくなるわよ」

 

「少しくらい我慢しなさいよ。洗濯物だって大事なんだから」

 

「仕事の道具も大事よ。濡れたり、折れたりしたら困るでしょう」

 

 紫苑の言葉に、天子は口を閉じた。

 

 確かに、傘作りの材料は二人の収入につながるものだ。せっかく仕事を終えたばかりなのに、道具を駄目にしてしまっては意味がない。

 

「……じゃあ、どうするのよ」

 

「少しずつ場所を変えるしかないでしょうね」

 

 紫苑はそう言って、部屋の隅に置いていた箱を動かした。箱の中には、使い終わった布切れや余った糸などが入っている。中身を整理すれば、箱そのものを別の場所へ移せそうだった。

 

 天子も仕方なく手伝い始める。

 

 箱を動かし、板を立てかけ、道具をまとめる。少しずつ場所を作りながら、残りの洗濯物を掛けていった。

 

 最後の一枚を干し終えたころには、部屋の中はすっかり様変わりしていた。

 

 頭上には洗濯物が並び、壁際には傘作りの材料が寄せられている。普段なら何も置かない場所にも物があり、部屋の中を歩くには、いちいち身体を傾けなければならない。

 

「……これで全部ね」

 

 紫苑は腰に手を当て、部屋を見回した。

 

「何とか収まったじゃない」

 

 天子は満足そうに言った。

 

「収まっただけよ。乾くかどうかは別の話だわ」

 

「風通しを良くすればいいんでしょう?」

 

「そうね。でも、窓を開けたら雨が吹き込んでくるわ」

 

「少しだけなら平気じゃない?」

 

「少しだけでも、洗濯物が濡れたら意味がないでしょう」

 

 紫苑は窓の外を見た。雨は相変わらず降り続いている。風も時折吹き込み、軒先の雫を斜めに散らしていた。

 

 結局、窓は閉めたままにするしかなかった。

 

 天子は頭上に並ぶ洗濯物を見上げる。手を伸ばせば届きそうなところに、二人の衣類が揺れていた。

 

「ねえ、紫苑」

 

「何?」

 

「これじゃ、私たちまで洗濯物の一部みたいね」

 

「どういう意味よ」

 

「部屋の中に吊るされている感じがするのよ」

 

「だったら、あんたもそこに並んでいれば?」

 

「嫌よ。私は洗濯物じゃないもの」

 

「そうね。洗濯物の方が、あんたより大人しくしているでしょうし」

 

「何ですって?」

 

 天子が振り返ると、紫苑は何食わぬ顔で洗濯物の位置を直していた。

 

 部屋の中には、乾ききらない布の匂いと、雨音だけが残っている。

 

 これで洗濯物が乾くのかは分からない。明日になっても、まだ湿っているかもしれない。

 

 それでも、今できることはやった。

 

 二人はひとまず、狭くなった部屋の中で、洗濯物に触れないよう気をつけながら過ごすことにした。

 

部屋の中に洗濯物を干してから、しばらく時間が経った。

 

 雨は相変わらず降り続いている。窓の外は薄暗く、昼間だというのに、部屋の中には夕方のような静けさが漂っていた。

 

 天子は座布団の上に座り、頭上に吊るされた洗濯物を見上げていた。

 

「……乾かないわね」

 

「まだ一刻も経っていないでしょう」

 

 帳面を片付けていた紫苑が答える。

 

「でも、少しくらい乾いてもいいじゃない」

 

「そんなに早く乾くなら、誰も洗濯物で困らないわよ」

 

 天子は不満そうに口を尖らせた。

 

 洗濯物の間を通り抜けるようにして、紫苑が荷物をまとめている。買い物に出るための小さな袋と、財布。それから、雨の中を歩くための傘を二本。

 

「行くわよ、天子」

 

「ええ。待っていたわ」

 

 天子は立ち上がると、頭上の洗濯物に袖を引っ掛けないよう、少し身をかがめた。

 

「気をつけて。帰ってきたときに洗濯物が落ちていたら、また干し直しよ」

 

「分かっているわよ」

 

「本当に?」

 

「疑いすぎじゃない?」

 

 紫苑は返事をせず、先に戸を開けた。

 

 外へ出ると、雨の匂いがした。

 

 長屋の軒先には雨水が溜まり、道には泥が浮いている。傘を差して歩き始めると、雨粒が布地を叩く音が頭上から聞こえてきた。

 

「何を買うか、決めているの?」

 

 天子が尋ねる。

 

「まずは魚ね。前に買ったものと同じくらいの値段なら、百五十円ほどで買えるでしょう」

 

「それから団子よ」

 

「残りは百五十円。団子を二本買えば九十円だから、まだ六十円残るわ」

 

「六十円も残るのね」

 

「残る、というより、残しておくのよ」

 

「分かっているわよ。少しくらい夢を見たっていいじゃない」

 

「夢を見るのは自由だけど、お金を使うのは自由じゃないわ」

 

 天子は何か言い返そうとしたが、結局やめた。

 

 買い物をする場所までは、それほど遠くない。雨宿りをする人々を横目に、二人は馴染みの店先へ向かった。

 

 魚を扱う店では、店主が濡れた布を絞りながら、並べた品を整えていた。

 

「いらっしゃい」

 

「魚を一尾ください」

 

 紫苑が声をかける。

 

「今日は川魚があるよ。少し小ぶりだが、百五十円でいい」

 

 店主が差し出した魚を、紫苑は手に取って確かめた。大きさは以前買ったものと同じくらいだ。身も悪くなさそうだった。

 

「これを一尾いただくわ」

 

「毎度あり」

 

 紫苑は百五十円を支払い、魚を包んでもらった。

 

 天子はその様子を見ながら、次の店へ向かうのを待っている。

 

「これで半分ね」

 

「ええ。残りは百五十円よ」

 

「団子を二本買っても、まだ六十円あるわ」

 

「その六十円は使わないわよ」

 

「分かっているってば」

 

 二人は団子を売る店へ向かった。

 

 店先には、焼き目のついた団子が並んでいる。甘辛い醤油の匂いが、雨の湿った空気の中にも漂っていた。

 

「団子を二本ください」

 

 紫苑が注文する。

 

「九十円だよ」

 

 店主から団子を受け取り、紫苑は代金を支払った。

 

 残りは六十円。

 

 天子は袋の中を覗き込み、満足そうに頷いた。

 

「これでいいわね」

 

「そうね。魚と団子。今夜は少しだけ贅沢よ」

 

「少しだけ、ね」

 

「何か不満?」

 

「いいえ。私は満足しているわ」

 

 天子はそう言って、団子の袋を大事そうに抱えた。

 

 帰り道、雨はまだ止んでいなかった。

 

 傘を打つ雨音を聞きながら、二人はゆっくりと長屋へ戻っていく。途中、天子は何度か団子の袋を覗き込んでいたが、紫苑に「帰ってからよ」と言われるたび、渋々顔を上げた。

 

 長屋に戻ると、部屋の中は出かける前とほとんど変わっていなかった。

 

 頭上には洗濯物が並び、壁際には傘作りの道具が寄せられている。少しだけ空気がこもっているようにも感じられた。

 

「……やっぱり、乾いていないわね」

 

 天子が洗濯物を見上げる。

 

「仕方ないでしょう。今日はもう諦めなさい」

 

「明日には乾くかしら」

 

「雨が止めばね」

 

「止まなかったら?」

 

「そのときは、そのときよ」

 

 紫苑は買ってきた魚を台所へ運んだ。

 

「天子、そこの水を汲んでくれる?」

 

「分かったわ」

 

「それと、米を研いでおいて。二人分でいいから」

 

「二人分って、どれくらい?」

 

「いつも炊いている量よ。まさか忘れたの?」

 

「忘れていないわよ。確認しただけ」

 

 天子は少しむっとしながら、米を入れた容器を手に取った。

 

 紫苑は魚をまな板の上に置き、表面を水で洗った。余分な水気を拭き取り、塩を振ってしばらく置く。魚の大きさはそれほどでもないが、二人で食べるには十分だった。

 

 やがて、炊き上がった米の匂いが部屋に広がり始める。

 

 天子は釜の蓋を開けようとして、紫苑に止められた。

 

「まだよ。少し蒸らしてから」

 

「もう炊けているじゃない」

 

「炊けてからが大事なの。すぐに開けると、せっかくのご飯が落ち着かないでしょう」

 

「ご飯に落ち着くも何もないと思うけど」

 

「あるのよ」

 

 紫苑は魚を焼くための準備を始めた。

 

 火の上に網を置き、魚を乗せる。しばらくすると、皮の表面からじわじわと脂が滲み出し、火に落ちた脂が小さく音を立てた。

 

 ぱちり、ぱちり。

 

 焼ける音に続いて、香ばしい匂いが部屋に漂う。

 

 天子はいつの間にか、魚を焼く紫苑のすぐそばに座っていた。

 

「……いい匂いね」

 

「まだ焼けていないわよ」

 

「分かっているわ」

 

「さっきから、ずっと見ているじゃない」

 

「焼き加減を確認しているのよ」

 

「私が見ているから大丈夫よ」

 

 紫苑は魚を裏返した。片面にきれいな焼き色がついている。皮は少し縮み、身の表面から白い湯気が立ち上っていた。

 

 もう片面にも火が通るまで、しばらく待つ。

 

 その間、天子は何度も魚に目を向けた。

 

「そんなに待ちきれないの?」

 

「別に。お腹が空いているわけじゃないわ」

 

「じゃあ、少し食べるのを遅らせてもいいわね」

 

「それは嫌よ」

 

 紫苑は思わず笑った。

 

 やがて魚が焼き上がり、皿へ移される。皮目にはほどよい焼き色がつき、箸を入れると白い身がほろりと崩れた。

 

 食卓には、焼き魚と炊きたてのご飯、それに少しばかりの漬物が並んだ。

 

「いただきます」

 

 二人は手を合わせた。

 

 天子はまず、魚の身を箸でほぐした。皮の近くを少しだけ取り、口に運ぶ。

 

 ぱりっとした皮の香ばしさ。その後から、淡い脂の甘みが広がる。塩気は強すぎず、魚そのものの味が残っていた。

 

「……美味しいわね」

 

 天子はそう呟いて、今度は白米を口に運んだ。

 

 炊きたての米はふっくらとしていて、噛むたびにほのかな甘みが出てくる。魚の塩気とよく合い、何度でも箸を伸ばしたくなる味だった。

 

「ご飯も上手く炊けているじゃない」

 

「誰が炊いたと思っているのよ」

 

「私だけど?」

 

「そうね。今日はちゃんとできていたわ」

 

「今日は、って何よ」

 

「前に少し水を入れすぎたことがあったでしょう」

 

「あれは偶然よ」

 

「ご飯を炊くのに偶然も何もないわよ」

 

 紫苑は漬物を一切れ口に運んだ。

 

 塩気のある漬物を噛むと、口の中がさっぱりする。魚を食べ、米を食べ、漬物を挟む。特別な料理ではないが、こうして三つを順番に味わっていると、食事が少しずつ整っていくようだった。

 

 天子は魚の身を残さないよう、骨の周りまで丁寧に箸を動かしていた。

 

「そんなにきれいに食べるのね」

 

「当たり前でしょう。せっかく買ったんだから」

 

「そういうところは昔から変わらないわね」

 

「何か悪い?」

 

「いいえ。むしろ感心しているのよ」

 

 紫苑は自分の皿に残った魚の身をほぐし、ご飯と一緒に口へ運んだ。

 

 食事の間、二人の会話は途切れたり続いたりした。雨音が聞こえる中、箸が皿に触れる音と、湯気の立つご飯を口に運ぶ音が、部屋の中に静かに重なっていく。

 

 食べ終えるころには、皿の上に残った魚の骨だけが、きれいに並んでいた。

 

「ごちそうさま」

 

 天子は満足そうに息をついた。

 

「お腹いっぱい?」

 

「ええ。もう何も入らないわ」

 

「じゃあ、団子は明日にする?」

 

「それは別腹よ」

 

「さっきまで何も入らないって言っていたでしょう」

 

「甘いものは別なの」

 

 紫苑は呆れながらも、机の上に置いていた団子の袋を開いた。

 

 醤油の焦げた香りが、再び二人の鼻をくすぐる。表面には薄く焼き色がつき、垂れたたれが串の根元に少し固まっていた。

 

 天子は一本を手に取り、まだ少し温かい団子を頬張った。

 

 表面は香ばしく、中は柔らかい。噛むと甘辛いたれが舌に広がり、先ほどの魚とは違った満足感があった。

 

「やっぱり、買ってよかったわね」

 

「九十円だからね。高いものではないけれど」

 

「値段の話はもういいじゃない」

 

「はいはい」

 

 紫苑も団子を一口食べた。

 

 甘辛い味をゆっくりと噛みしめながら、ふと机の上に置いた財布へ目を向ける。今日使ったのは二百四十円。残りは六十円だ。

 

 ほんのわずかな額ではあるが、無駄遣いをしたわけではない。借金の返済に回す分も、家賃や食費のために残した分も、きちんと確保してある。

 

「またこういう日があるといいわね」

 

 天子が何気なく言った。

 

「仕事があればね」

 

「なら、また仕事をすればいいじゃない」

 

「そう簡単に注文が来るとは限らないでしょう」

 

「来なかったら、探せばいいのよ」

 

 天子は団子を食べ終え、串を皿の端に置いた。

 

 紫苑はその言葉に返事をしなかった。ただ、残った団子をゆっくりと食べていた。

 

 机の上には、使い終えた食器と、空になった団子の袋がある。頭上には、まだ乾ききらない洗濯物が吊るされていた。

 

 雨は、夜になっても降り続くのだろう。

 

 それでも、今日の二人には少しだけ余裕があった。

 

 明日のことを心配しなくていいわけではない。借金も、家賃も、食費も、何一つなくなったわけではない。

 

 けれど、三百円の使い道を相談して、魚を買い、団子を食べる。

 

 そんな一日も、悪くはなかった。




第十九話を読んでいただき、ありがとうございます。

久しぶりの投稿になります。
今回は、梅雨の長屋での洗濯物騒動と、傘作りの報酬を使った二人の買い物を描いてみました。

日々の暮らしには、家賃や食費、借金の返済など、考えなければならないことがたくさんあります。それでも、たまには少しだけ美味しいものを食べたり、いつもより贅沢をしたりする時間があってもいいのではないでしょうか。

これからも、天子と紫苑の長屋暮らしを温かく見守っていただければ幸いです。

感想やご意見なども、お気軽にお寄せください。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。