無尽長屋記   作:角筈律

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第二話をお読みいただきありがとうございます。

今回は紫苑側の視点から、彼女がどうして路地裏で暮らすことになったのか、その経緯を描いています。第一話の天子と対になるような形で、紫苑にも紫苑なりの事情と、誰も悪者にならない痛みがあります。

出会いの場面まで、あと少しです。どうぞよろしくお願いいたします。


第二話、音のする方へ

路地裏の莚の上で、依神紫苑は死人のように横たわっていた。

三日、いや、もう四日になるだろうか。数えることすら億劫だった。空腹は、ある一定を超えると、痛みではなく静けさに変わる。腹の中で何かが暴れることもなく、ただ体の芯からゆっくりと力が抜けていくだけの、奇妙に穏やかな時間だった。目を開けているのか、閉じているのかさえ、自分でも判然としない。

そんな中、どこかで小さな音がした。

チャリン、と。

硬貨同士が擦れ合う、あの音だった。

その瞬間、紫苑の体は、たった今までの静けさが嘘だったかのように跳ね起きた。莚を蹴り、埃を巻き上げ、まるで最初からそこに横たわってなどいなかったかのような素早さで、音のした方へと顔を向ける。

お金の匂いがする。

我ながら現金なものだと思う暇もなかった。空腹に炙られた頭は、こういう時だけ驚くほど鋭く回った。だが、音の主はすぐに知れた。少し離れた場所に立つ、見慣れた人影。妹の、女苑だった。

「……随分と、元気そうじゃない。死にかけてるのかと思った」

女苑は懐から取り出した小さな巾着を、指先でつまらなさそうに揺らしていた。中の硬貨が、また澄んだ音を立てる。紫苑はその音に、今度は意識してじっと耳を澄ませた。

「死にかけてたわよ、ついさっきまで」

「それにしては、随分と素早い蘇生だこと」

「音がしたから」

「それだけ?」

「それだけよ」

女苑は呆れたように小さく息を吐き、それでも紫苑の傍らに、汚れを気にする素振りも見せず腰を下ろした。

姉妹が顔を合わせるのは、随分と久しぶりのことだった。会おうと約束したわけでもない。ただ、女苑がふらりと現れては、こうして少しだけ言葉を交わし、また去っていく。それがいつからか、二人の間の暗黙の作法になっていた。

「で。今度は何をやらかしたの」

女苑の問いに、私は少し考えてから答えた。何から話せばいいのか、正直よく分からなかった。ただ、話し始めれば、勝手に言葉が出てくるような気がした。

「……やらかした、って言うほどのことでもないのよ。ただ、いられなくなっただけ」

「いられなくなった、って。前にいたところから?」

「そう。博麗の」

その名前を口にした瞬間、紫苑の脳裏に、あの神社の光景が蘇った。

あそこにいた頃のことを、紫苑は今でも時折思い出す。決して裕福な場所ではなかった。それどころか、霊夢自身がもとから極端な貧乏暮らしをしていて、居候一人増えたところで、失うものなど何もないような有様だった。だからこそ、紫苑を置いてくれたのだ。情でも、慈悲でもない。ただの、消去法だった。

紫苑にとっては、それで十分すぎるほど十分だった。今までどこへ行っても、誰かに疎まれ、時には力ずくで追い払われてきた。紫苑がただそこにいるだけで、周囲に降りかかる小さな不運。それを恐れられ、遠ざけられることに、紫苑はもう慣れきっていた。だから、霊夢の無関心にも似た「別に構わない」という態度は、紫苑にとっては、生まれて初めて出会った、暴力的でない拒絶の形——いや、拒絶ですらない、ただの容認だった。それだけで、紫苑には十分すぎる安らぎだった。

毎日は、決して楽なものではなかった。だが、朝目を覚ませば、そこに自分の居場所があった。それだけで、紫苑は満ち足りていた。

だが、その均衡は、あっけなく崩れた。

「その神社、しばらくしてから、急に懐が温かくなったのよ」

「へえ」

「何がきっかけだったのかは、私もよく知らない。参拝客が増えたとか、何かの礼金が入ったとか、そのくらいしか聞いてない」

女苑は黙って先を促すように、紫苑の顔を見ていた。私はその視線を受けながら、記憶の中の、あの日の空気を辿った。

神社の賽銭箱に、以前より随分と重みのある音が響くようになった頃。ある日、お守り用にと仕入れていた品が、なぜか一晩でごっそりと傷んでしまったことがあった。原因は分からない。ただの偶然かもしれない。だが、それを片付けながら、霊夢がふと零した一言を、紫苑は今でも覚えている。

「……前はまあ、別によかったんだけどね」

それだけだった。責めるでも、怒るでもない。ただ、独り言のような呟き。だが、紫苑にはそれで十分すぎるほど分かってしまった。何がどう変わったのか。これまで気にも留められなかった自分の存在が、今度は「損」として、確かに勘定に入れられ始めたということが。

「霊夢は、何も言わなかったわ。出て行けとも、迷惑だとも」

「言わなかったの」

「言わなかった。ただ、私を見る目が、ほんの少し変わっただけ」

その変化を、紫苑は誰よりも敏感に読み取ってしまった。今まで、幾度も繰り返してきたことだった。歓迎されなくなる瞬間の、あの独特の空気の揺らぎ。それを察知する勘だけは、嫌というほど鍛えられていた。

「だから、出て行った。何も言われる前に」

紫苑は、努めて淡々とそう言った。だが、その言葉の裏に何が沈んでいるか、女苑には見透かされているような気がした。

女苑はしばらく黙っていた。呆れたような目をしていたが、その奥には、何か言葉にしきれない複雑な色が滲んでいるようにも見えた。妹自身、寺に導かれ、行き場を得た身だった。紫苑だけが、行き場を失い続けてきた。その事実に、女苑がどんな感情を抱いているのか、紫苑には正確には分からなかった。ただ、女苑が何も深く踏み込んでこないことだけは、確かだった。

「……ほんと、姉さんは学ばないわね」

女苑はそう言って、小さく息を吐いた。その声には、呆れと、それだけではない何かが、同じくらいの重さで混ざっていた。

「学びようがないもの。何をどう変えたって、結局は同じことの繰り返しなんだから」

「それも、そうか」

それ以上、女苑は何も言わなかった。ただ、懐から取り出した巾着から、いくつかの硬貨を、紫苑がいつも手放さずにいるあのボロい椀の中に、無造作に落とした。チャリン、と乾いた音が路地に響く。

「——これで、何か食べなさい。死にかけの顔で、うろつかれても迷惑よ」

「ありがと」

「別に、姉さんのためじゃないから」

女苑はそう言い残すと、それ以上は振り返らず、路地の向こうへと歩き去っていった。その背中を見送りながら、紫苑はしばらく、椀の中の硬貨をただ見つめていた。

やがて、紫苑はそれを一枚一枚、丁寧に数え始めた。

「ひゃく……にひゃく、と。五十、十……あと五円と、一円が三枚」

指先で硬貨を弾くたび、掌の上でそれらが小さく跳ね、擦れ合う音を立てる。百円玉が二枚、五十円玉が一枚、十円玉が一枚、五円玉が一枚、一円玉が三枚——全部合わせて、二百六十八円。

「……二百六十八円」

その数字を舌の上で転がすように呟いた瞬間、私の頭の中では、もう湯気の立つ丼が出来上がっていた。

じゅう、と脂が炭に落ちる音。焦げたタレの、鼻の奥まで刺すような香ばしさ。噛めば、皮目がぱりっと弾け、中からじゅわりと熱い脂が溢れ出す。飯はその脂とタレを吸って、艶々と光っている。想像しただけの舌の上に、じっとり甘辛い旨みが張り付いた気がした。喉が、ごくりと勝手に鳴る。

串焼きの絵もちらついた。網の上で脂が爆ぜる、パチ、パチという音。齧った瞬間に広がる、焦げた皮の苦みと、肉の甘みと、塩気。想像するだけで、口の中は唾液でいっぱいになっていた。

二百六十八円。この金額を見つめながら、私はふと欲を出した。

三ヶ月ぶりに、まともな食事にありつけるかもしれない。

その考えが浮かんだ途端、椀とボロい莚を抱え、私は路地裏を後にした。足取りは、さっきまでの死人のような姿が嘘のように、軽かった。

人里の目抜き通りは、思っていたよりずっと賑わっていた。夕刻に差し掛かり、あちこちの店先に灯りが点き始める。煮炊きの匂いが幾重にも重なり合い、紫苑の鼻先をくすぐっては、腹の虫をいちいち刺激した。

最初に覗いたのは、そこそこ賑わっている定食屋だった。壁に貼られた品書きに目を走らせ、紫苑は思わず足を止めた。

焼き魚定食、四百五十円。

二百六十八円しか持たない身には、指を咥えて見ているしかない数字だった。

「……高いわね」

独りごちて、紫苑は次の店へと足を向けた。今度は蕎麦屋。掛け蕎麦、三百円。それでも、まだ足りない。串団子を売る茶屋を覗けば、団子一本で九十円。悪くない値段だったが、団子だけでは腹の足しにもならないだろうと、紫苑は結局そこも素通りした。

歩けば歩くほど、財布の中の二百六十八円という数字が、ひどく心許ないものに思えてくる。物乞いで小銭を一枚拾うのに、どれほどの時間と、どれほどの惨めさが要るか。紫苑はそれを、身をもって知っていた。だからこそ、木札に無造作に書かれた値段の数字が、どれも法外なものに見えてくる。

——こんなことなら、期待しなければよかった。

そう思いながらも、足は止まらなかった。三ヶ月ぶりの、まともな食事。その一念だけが、萎えかけた足を前へ前へと押し出していた。

日はすっかり暮れかけていた。表通りを外れ、路地の奥へと差し掛かった頃、ふと、香ばしい匂いが鼻先をかすめた。炭火の焼ける匂い、脂の爆ぜる音。それらに引き寄せられるように顔を向けると、そこに小さな屋台があった。

軒先に吊るされた提灯に、墨文字が滲んでにじんでいた。目を凝らすと、『夜雀亭』と読めた。値の張らなそうな、それでいてしっかりと湯気の立つ品書きが、木の板に書き殴られている。

紫苑は懐の小銭をもう一度、指先で確かめた。二百六十八円。ここでなら、まだ何とかなるかもしれない。

誘われるように、紫苑はその暖簾を潜った。




最後まで読んでいただきありがとうございました。

女苑というキャラクターは、姉妹としての複雑な距離感を大事に描きたいと思っています。今後も時折登場する予定ですので、気にかけていただけると嬉しいです。

次話でようやく、天子と紫苑が出会います。楽しみにお待ちいただけたら幸いです。
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