久しぶりに晴れ間の覗いた長屋では、天子と紫苑が部屋の片付けに取りかかることになった。
何気ない家事の合間に、いつも通り訪れる夕食の時間。
けれど、その日は天子にとって、少しばかり新しい発見があったようで……。
二人の何気ない暮らしと、いつもより少し丁寧な夕食をお楽しみください。
昼下がりの長屋には、久しぶりに静かな時間が流れていた。
雨は朝のうちに止んでいた。ここ数日、屋根を叩き続けていた雨音も、軒先から落ちる雫の音に変わっている。雲の切れ間から差し込む陽射しは、濡れた地面をゆっくりと乾かし、湿気を含んだ空気にも、ほんの少しだけ明るさを取り戻させていた。
そんな午後の一室で、天子と紫苑は昼寝をしていた。
天子は畳の上に敷いた薄い布団に横たわり、片腕を頭の下に置いている。掛け布団は腹のあたりまでずり落ち、長い髪が畳に広がっていた。寝返りを打った拍子に脱げたのか、片方の履物は部屋の隅に転がっている。
その少し離れたところでは、紫苑が壁にもたれるようにして眠っていた。背中の下には畳んだ座布団が一枚。膝の上には、途中まで畳んでいた洗濯物が置かれている。どうやら片付けの途中で眠気に負けたらしい。
二人とも、特別疲れるような仕事をしていたわけではない。
朝から洗濯を済ませたわけでも、遠くまで出かけたわけでもない。ただ、雨が止んだことを確かめて、しばらく縁側に座っていただけだった。
それでも、雨続きの数日間は思いのほか身体に堪えていたらしい。湿った布団を干すこともできず、部屋の中には傘作りの材料や道具が残ったまま。洗濯物も十分に乾かず、何をするにも少しずつ不便がつきまとっていた。
久しぶりに雨音のない午後を迎えた二人は、気が緩んだのかもしれない。
先に目を覚ましたのは天子だった。
「……ん」
小さく声を漏らし、天子はゆっくりと目を開けた。
視界に入ったのは、見慣れた天井だった。板の継ぎ目に沿って、雨漏りの跡が薄く残っている。先日、桶を置いて凌いだ場所だ。雨が止んだ今は、そこから水が落ちてくることもない。
天子はしばらく天井を眺めていた。
「……よく寝たわね」
誰に聞かせるでもなく呟き、身体を起こす。畳に手をつくと、昼間の陽射しを受けた室内は少し暖かかった。
障子の向こうから、鳥の声が聞こえる。
天子は欠伸をひとつして、首を回した。寝起きの身体にはまだ少し重さが残っていたが、外の明るさを見ているうちに、何かをしようという気分が戻ってくる。
ふと、部屋の隅に目を向けた。
そこには、傘作りに使った竹の骨や紙、糊の入った小さな容器がまとめて置かれている。雨漏りに備えて置いた桶も、まだ片付けていない。壁際には乾ききらなかった洗濯物が寄せられ、畳の上には畳みかけの布が残っていた。
「……ひどい部屋ね」
自分のことは棚に上げて、天子は呟いた。
もちろん、原因の半分ほどは自分にもある。傘作りを手伝った際に道具を片付けず、そのままにしていたのは天子だった。とはいえ、紫苑も特に何かを言わなかったのだから、お互い様ということにしておきたい。
天子は布団から出て、縁側へ向かった。
障子を開けると、乾き始めた土の匂いが鼻をくすぐった。軒先から落ちる雫が、地面に小さな跡を作っている。空にはまだ雲が残っていたが、雨が戻ってくる気配はなさそうだった。
「いい天気じゃない」
天子は両手を腰に当て、空を見上げた。
それから、部屋の中を振り返る。
「こういう日は、掃除でもするべきね」
その声に、背後から返事があった。
「……するべき、って。誰が?」
振り返ると、紫苑が目を擦りながら起き上がっていた。膝から洗濯物が一枚落ちている。紫苑はそれを拾い上げ、何度か瞬きをした。
「私よ」
「そう。じゃあ、頑張って」
「あなたもよ」
「私は今、起きたところなのだけれど」
「私だって今起きたわよ」
「それなら、もう少し寝ていてもいいでしょう」
「さっきまで寝ていたじゃない」
紫苑は答えず、手に持った洗濯物を畳み直した。どうやら、まだ眠気が抜けきっていないらしい。
天子は縁側から戻り、部屋の中央に立った。
「せっかく雨が止んだのよ。洗濯物も干せるし、部屋も片付けられる。今のうちにやっておいた方がいいわ」
「そうね。洗濯物は干したいわね」
「でしょ?」
「でも、部屋の片付けは明日でもいいんじゃない?」
「駄目よ。明日になったら、また面倒になるもの」
「その言葉、昨日も聞いた気がするわ」
「昨日は雨だったじゃない」
「雨が降っていなくても、あんたは面倒くさがるでしょう」
「……細かいことを覚えているわね」
天子は少しだけ顔を背けた。
紫苑は小さく息を吐き、畳みかけの洗濯物を脇へ置いた。それから、縁側の方へ目を向ける。
「まずは洗濯物ね。乾かないまま置いておくと、また湿っぽくなるわ」
「分かっているわ。外に干しましょう」
「物干し竿は?」
「……あるでしょう?」
「あるけれど、傘の材料がまだ掛かっているわよ」
天子は部屋の隅を見た。
確かに、竹の骨をまとめた紐や、作業に使った布が物干し竿の近くに置かれている。傘作りをしていたとき、乾燥させるために一時的に掛けていたものだった。
「じゃあ、それを片付ければいいじゃない」
「そうね。だから、片付けるのよ」
「簡単な話ね」
「簡単な話を、あんたが面倒にするのよ」
「まだ何もしていないでしょう!」
「だから言っているの」
紫苑は立ち上がり、膝についた畳の屑を払った。天子もそれに続いて、部屋の隅に置かれた道具へ向かう。
久しぶりに雨の止んだ午後。
二人の長屋では、ようやく日常の片付けが始まろうとしていた。
土間に置かれた桶を、天子が両手で持ち上げた。
中には、雨漏りを受け止めていた水が少しばかり残っている。ここ数日の雨で何度も使ったものだが、雨が止んだ今となっては、いつまでも部屋の中に置いておく必要はない。
「これは外に出しておけばいいわね」
「水を捨ててからにしてちょうだい」
「分かっているわよ」
天子は桶を持ったまま土間へ下りた。入口から外へ出て、溜まった水を地面に流す。桶の底に残った雫を振り落とし、軒先の邪魔にならないところへ伏せて置いた。
戻ってくると、紫苑は畳の端に腰を下ろし、傘作りの道具をまとめていた。
竹の骨を束ねたもの、余った紙、糊を入れていた容器。それぞれ使う場所も片付ける場所も違う。仕事が終わってから、ひとまず邪魔にならないように寄せておいたものが、いつの間にか部屋の一角を占めていた。
「それ、全部片付けるの?」
「全部使い終わったものよ。取っておくものと、処分するものを分けるの」
「また使うかもしれないじゃない」
「また使うかもしれない、で何でも残していたら、この部屋は物で埋まってしまうでしょう」
紫苑は竹の骨を一本ずつ確かめ、傷んだものを別に分けた。使えそうなものは紐でまとめ、紙の端切れは大きさごとに揃えている。
天子はその様子をしばらく眺めていたが、やがて隣にしゃがみ込んだ。
「私も手伝うわ」
「そう。じゃあ、その紙をまとめておいて」
「任せなさい」
天子は紙の束を受け取り、端を揃えようとした。
しかし、何枚かは湿気を吸って少し反り返っている。無理に重ねると端がずれ、揃え直そうとすれば別の紙が滑り落ちた。
「あら?」
「ゆっくりやればいいわ」
「分かっているわよ」
天子は紙を畳の上に広げ、一枚ずつ向きを揃え始めた。紫苑は何も言わずに、傷んだ竹の骨を紐で縛っている。
しばらくして、天子の手元にはようやく一つの束ができた。
「できたわ」
「ありがとう。そこに置いておいて」
「これで終わり?」
「まだあるわよ」
「そう……」
思っていたよりも地味な作業だった。
天子は少しばかり肩を落としたが、すぐに別の道具へ手を伸ばした。今度は糊の容器である。蓋を開けて中を確かめると、底にわずかに残っていた糊は、すでに固まり始めていた。
「これはもう使えないわね」
「水で戻せるかもしれないけれど、無理に使わない方がいいわ。捨てておいて」
「もったいないわね」
「使えないものを取っておいても仕方がないでしょう」
天子は容器を持って土間へ向かった。
土間には小さなかまどが据えられている。普段、食事を作るときに使う場所だ。かまどの脇には薪を少し置いてあり、その近くには水を汲むための桶もある。
天子は糊の容器を置き、かまどの周りを見回した。
「こっちも片付けた方がよさそうね」
「何をしているの?」
畳の間から紫苑の声が飛んでくる。
「土間よ。薪が散らかっているわ」
「それは後でいいわ。先に傘の道具を片付けてちょうだい」
「分かっているってば」
天子は薪を二、三本まとめて、かまどの脇へ寄せた。ついでに、壁際に置かれていた小さな箒を手に取り、土間に溜まった細かな屑を掃き集める。
掃除をしているうちに、かまどの周辺が少しずつ見違えてきた。
「ふふん。こっちもなかなか綺麗になったわね」
「天子」
「何よ?」
「そっちは頼んでいないわよ」
「でも、綺麗になったでしょう?」
「そうね。助かるわ。ただ、頼んだことが終わってからにしてほしかったわね」
「細かいわねえ」
紫苑は小さくため息をついた。
とはいえ、土間が片付いたのは事実だった。彼女は天子の仕事ぶりに文句を言いかけたものの、それ以上は何も言わず、畳の上に残った道具をまとめ直した。
部屋の広さは三坪ほどしかない。入口から続く土間と、畳の敷かれた居住部分。畳の一角には一畳半ほどの台所があり、布団や衣類をしまう物入れも備わっている。
そこに二人分の暮らしが収まっている。
布団を敷けば畳の間は狭くなるし、食事をするにも道具を片付けなければならない。傘作りの仕事が入れば、その材料を置く場所も必要になる。物入れに入りきらないものは、どうしても部屋の隅に寄せることになるのだった。
「ねえ、紫苑」
「何?」
「この竹の骨は、どこにしまうの?」
「物入れの横にまとめておいて。次の仕事が入ったときに使うかもしれないから」
「紙は?」
「湿気のないところに置いておきたいわね。物入れの中は布団があるから、そこには入れないで」
「じゃあ、どこに置くのよ」
「……そうね」
紫苑は部屋を見渡した。
片付ける前よりは随分とましになったものの、まだ置き場所の決まっていない道具がいくつか残っている。壁際に寄せれば布団を敷くときに邪魔になり、土間に置けば炊事の邪魔になる。
「やっぱり、少し場所が足りないわね」
「今さら?」
「今さらよ」
紫苑は竹の骨を見つめた。
「仕事道具を置く場所を決めておかないと、また同じことになるわ。使うものと使わないものを分けて、必要なときにすぐ取り出せるようにしたいのだけれど」
「だったら、物入れを整理すればいいじゃない」
「物入れには布団が入っているでしょう。あまり詰め込むと、出し入れが面倒になるわ」
「布団を減らす?」
「何を言っているのよ」
「冗談よ」
天子は笑って、竹の骨を壁際へ寄せた。
紫苑はその様子を見て、もう一度ため息をつく。けれど、今度のそれは先ほどほど呆れたものではなかった。
「まあ、今はここに置いておきましょう。次の仕事までに、もう少し考えるわ」
「そうね。部屋が広くなったら、私の場所も増えるし」
「今でも十分に場所を取っているでしょう」
「何ですって?」
「布団の話よ。あんた、寝相が悪いから」
「寝相は関係ないでしょう!」
そんな言い合いをしながらも、二人の手は止まらなかった。
桶を外へ出し、傘作りの道具をまとめ、土間のかまど周りも掃き清める。雨漏りに備えていた布も、もう必要ないものは洗って乾かすことにした。
すべてを終える頃には、部屋の中に残っていた雑然としたものも、ひとまず落ち着く場所を見つけていた。
ただ、物を片付けたからといって、部屋そのものが広くなるわけではない。
「……これで、少しはましになったかしら」
天子は畳の上に座り、部屋を見回した。
「そうね。少なくとも、足の踏み場はできたわ」
「最初からあったでしょう?」
「そうだったかしら」
「そうよ」
紫苑も隣に腰を下ろした。二人の間には、畳んだ布と、まとめられた仕事道具が置かれている。
しばらく、静かな時間が流れた。
外からは、乾き始めた地面を踏む人の足音が聞こえてくる。雨の間はあまり聞かなかった、長屋の住人たちの生活の音だった。
天子は縁側の方へ目を向けた。
「洗濯物、そろそろ乾いたかしら」
「まだでしょうね。干してからそんなに経っていないもの」
「せっかく晴れたのに」
「何日も雨が続いたんだから、すぐには乾かないわよ」
「そうねえ……」
天子は少し考えるように顎へ手を当てた。
「それより、お腹が空いたわ」
「片付けをしただけでしょう」
「片付けだって立派な仕事よ」
「そうね。じゃあ、夕飯の支度も立派な仕事だから、手伝ってもらおうかしら」
「えっ」
「何よ。自分で仕事だと言ったんでしょう?」
天子は紫苑の顔を見た。
「……夕飯の支度って、今から?」
「まだ昼過ぎよ。買い物に行くなら、少し考えておきたいわ」
「そう。なら、もう少し休んでからでもいいんじゃない?」
「さっきまで昼寝をしていたでしょう」
「それとこれとは別よ」
「別じゃないわ」
紫苑は立ち上がり、台所の方へ向かった。残っている食材を確かめるつもりらしい。
天子も立ち上がろうとしたが、ふと部屋の隅に置かれた竹の骨が目に入った。
「……これ、もう少し綺麗にまとめられそうね」
「天子」
「分かっているわよ! 今度は余計なことはしないわ!」
紫苑は振り返らずに答えた。
「その言葉、あまり信用できないわね」
雨上がりの長屋には、久しぶりに穏やかな午後が戻っていた。
部屋の片付けはひとまず終わった。あとは、夕食の支度をするだけである。
もっとも、二人の夕食が簡単に済むかどうかは、まだ分からなかった。
夕方が近づくにつれ、部屋の中に差し込む光も少しずつ傾いていった。
雨上がりの空はまだ雲を残していたものの、朝から続いていた晴れ間は崩れていない。軒先に干した洗濯物も、風に揺れながら少しずつ乾いている。
部屋の片付けを終えた二人は、しばらく畳の上で休んでいた。
天子は仰向けになり、両腕を頭の後ろで組んでいる。紫苑は物入れから布を取り出し、乾いたものとまだ湿っているものを分けていた。
「ねえ、紫苑」
「何?」
「夕飯は何にするの?」
「残っている食材を見てから決めるわ」
「まだ決めていないの?」
「食材を無駄にしたくないもの。先に献立を決めて、足りないものを買いに行くより、あるものを確認してから考えた方がいいでしょう」
「ふうん。そういうものなのね」
天子は身体を起こした。
「じゃあ、私も見ていい?」
「別に構わないわよ」
二人は土間にある台所へ向かった。
そこは、畳の間の一角に設けられた小さな炊事場だった。広さは一畳半ほど。土間には小さなかまどがあり、鍋や釜を置く場所も限られている。食材を広げておけるような大きな調理台はなく、使うものをその都度取り出して作業する必要があった。
紫苑は棚から小さな籠を取り出した。
中には、じゃがいもが二つ、玉ねぎが一つ、少しばかりのにんじんが入っている。別の包みには、前に買っておいた豚こま肉が残っていた。量は多くない。二人で食べるには、決して十分とは言い難い程度だった。
「これで何を作るの?」
「そうね……」
紫苑は食材を一つずつ手に取り、状態を確かめた。
じゃがいもは芽が出る前に使った方がいい。玉ねぎも傷んではいない。にんじんは少し細いが、煮物に使う分には問題ない。豚肉は量が少ないものの、脂身がほどよく混じっている。
「肉じゃがにしましょうか」
「肉じゃが?」
「ええ。これなら材料も足りるわ」
天子は豚肉の包みを覗き込んだ。
「お肉、これだけ?」
「これだけよ」
「二人分には少ないんじゃない?」
「野菜を多めにすればいいでしょう。お肉を食べるためだけの料理ではないもの」
「でも、肉じゃがでしょう?」
「名前に肉が入っているからって、肉ばかり食べる料理だと思っているの?」
「そういうわけじゃないけれど……」
天子は少し不満そうに口を尖らせた。
紫苑はそれを気に留めず、食材を並べていく。
「それに、ご飯も少ししか残っていないわ。今日は控えめに炊きましょう」
「ご飯まで少ないの?」
「いつものことでしょう」
「いつものことだけれど、いつも足りないわね」
「足りないからといって、増えるわけではないわ」
紫苑は米を入れた容器を取り出した。底の方に残っている米を、手近な升で量る。二人分としては少なめだが、今ある分を使い切るわけにもいかない。
米を釜に移し、水を注ぐ。
紫苑は手のひらを軽く広げ、米を傷つけないように指先でかき混ぜた。水が白く濁ると、それを捨てる。何度も強く擦るのではなく、手早く、しかし丁寧に洗っていく。
天子はその様子を横から眺めていた。
「そんなに何度も洗う必要があるの?」
「汚れや余分な糠を落とすのよ。ただ、強く擦りすぎると米が割れるから、力を入れればいいというものでもないわ」
「へえ」
「見ているだけじゃなくて、次は水を量ってちょうだい」
「私が?」
「他に誰がいるのよ」
天子は釜を覗き込んだ。
「水はこのくらい?」
「少し多いわね。指一本分という目安もあるけれど、米の量や釜によって違うから、今日はこれくらいにしておきましょう」
紫苑は天子の手を止め、釜の水加減を調整した。
「これでいいわ。炊く前に少し置いておくの。米に水を吸わせる時間が必要だから」
「すぐに火にかけるんじゃないのね」
「急いでもおいしくならないことがあるでしょう」
紫苑は釜に蓋をして、ひとまず脇に置いた。
その後、じゃがいもを洗い始める。
表面についた土を水で落とし、皮をむく。芽が出かけている部分は、包丁の角を使って丁寧に取り除いた。皮をむき終えると、じゃがいもを一口より少し大きめに切っていく。
天子はその手元を見つめた。
「ずいぶん大きく切るのね」
「煮ている間に崩れるからよ。小さく切りすぎると、最後には形がなくなってしまうわ」
「じゃあ、私が切るときは?」
「大きさを揃えてちょうだい」
紫苑は包丁を天子に渡した。
天子はじゃがいもをまな板に置き、包丁を握る。まず半分に切り、さらにそれをいくつかに分けた。
しかし、出来上がったものは大きさがまちまちだった。小さなものもあれば、明らかに大きすぎるものもある。
「……どう?」
「大きさが揃っていないわね」
「食べれば同じでしょう?」
「火の通り方が変わるのよ。小さいものは先に柔らかくなって、大きいものはまだ硬いままになるかもしれないでしょう」
紫苑は天子が切ったじゃがいもを並べ直し、必要なものだけ切り分けた。
「こうして、なるべく同じくらいにするの」
「なるほどね」
「料理は、食べるときのことを考えて作るものよ」
「それくらい分かっているわ」
天子は少しばかりむくれたが、紫苑の手元から目を離さなかった。
続いて、玉ねぎの皮をむく。
紫苑は根元を残すようにして切り、薄すぎない程度にくし形にした。にんじんは皮を薄くむき、じゃがいもより少し小さめの乱切りにする。
「にんじんは、じゃがいもより小さいのね」
「火が通るのに時間がかかるから、少し小さめにするの。それに、じゃがいもと同じ大きさにすると、口に入れたときに硬さが違ってしまうこともあるわ」
「そこまで考えているの?」
「当たり前でしょう」
紫苑は何でもないことのように答えた。
天子は、少しだけ感心したように紫苑を見た。
普段、食卓に並ぶ料理はいつも紫苑が用意していた。天子はそれを食べる側であり、時折手伝うことがあっても、食材を洗ったり器を並べたりする程度だった。
そのため、紫苑がどうやって料理を作っているのか、じっくりと見たことはなかった。
今、目の前にいる紫苑は、普段の気だるそうな様子とは少し違って見える。
必要なものを先に揃え、使う順番を考え、無駄な動きがない。包丁を持つ手にも迷いがなかった。
「……あんた、意外と几帳面なのね」
「料理のときくらいはね」
「いつもはそうでもないのに」
「聞こえているわよ」
紫苑は玉ねぎを切り終え、包丁を置いた。
次は豚肉である。
包みを開くと、薄く切られた肉が現れた。脂身の多い部分と赤身が混じっている。高級な肉ではないが、煮物に使うには十分だった。
紫苑は肉を広げ、長いものを食べやすい大きさに切り分けた。
「お肉は最後の方に入れるの?」
「最初に軽く炒めるのよ。肉の脂と旨味を鍋に残しておくの」
「焼くの?」
「表面に火を通すくらいね。完全に焼き上げる必要はないわ」
紫苑は鍋を用意し、土間のかまどに薪をくべた。
火打石を使って火を起こし、細い薪から順に燃やしていく。最初は小さな炎だったが、乾いた薪に火が移ると、かまどの中が赤く明るくなった。
天子は少し離れたところから、その様子を眺めていた。
「火を起こすのも慣れているのね」
「毎日使っているもの。慣れない方がおかしいでしょう」
紫苑は鍋をかまどに置き、少量の油を引いた。
鍋が温まると、豚肉を入れる。
じゅう、と小さな音がした。
肉の表面が熱に触れ、色が少しずつ変わっていく。脂身から油が滲み出し、鍋底に薄く広がった。紫苑は箸で肉をほぐしながら、焦げつかないように動かしている。
「いい匂いがするわね」
天子が言った。
「まだ肉を炒めているだけよ」
「それでもよ」
紫苑は玉ねぎを加えた。
肉の脂を吸った玉ねぎが、鍋の中でしんなりしていく。少し透き通ってきたところで、にんじんとじゃがいもを加えた。
木べらで鍋底からゆっくりと混ぜる。
「野菜も炒めるのね」
「先に油をまとわせておくと、煮たときに味が馴染みやすいのよ。玉ねぎからも甘みが出るしね」
紫苑は具材全体に油が行き渡ったところで、水を注いだ。
鍋の中で水が温まり始めると、肉と野菜の匂いが混じって、台所に広がっていく。
紫苑は浮いてきた灰汁を、丁寧に取り除いた。
「それは捨てるの?」
「灰汁よ。全部が悪いものというわけではないけれど、こうして取り除いた方が、煮汁が濁りにくくなるわ」
「へえ。料理って面倒なのね」
「面倒だからこそ、手を抜くところと抜かないところを決めるのよ」
紫苑はそう言いながら、鍋に砂糖を加えた。
続いて醤油を注ぐ。甘辛い香りが立ち上がった。
「みりんは使わないの?」
「今日は使わないわ。砂糖で十分よ。調味料だって、無駄に使うものではないでしょう」
「そういうところは徹底しているのね」
「使い切れないほど買える暮らしではないもの」
紫苑は鍋の中を軽く混ぜ、蓋を少しずらして置いた。
煮汁が静かに沸き、鍋の縁から小さな泡が立つ。強火で一気に煮るのではなく、火を弱めて、具材にゆっくり味を含ませていく。
「ずっと見ていなくてもいいの?」
「時々様子を見ればいいわ。煮汁が少なくなりすぎていないか、じゃがいもが崩れていないか。それを確かめるの」
「じゃあ、今は待つだけ?」
「そうね」
紫苑は鍋の蓋を少しだけ開け、湯気の具合を確かめた。
天子は、かまどの前に立つ紫苑の横顔を眺めた。
普段の紫苑は、何かにつけて面倒そうにしている。働くことも、外へ出ることも、誰かと関わることも、できるだけ避けようとするところがある。
それなのに、料理をしているときの彼女は違った。
食材を粗末にせず、火の具合を見て、少しの調味料で味を整えている。鍋の中にあるものを、どうすればおいしくできるのかを考えているようだった。
「紫苑って、料理が好きなの?」
何気なく尋ねると、紫苑は少しだけ手を止めた。
「好きというより……」
「というより?」
「食べることが好きなのよ」
「それは知っているわ」
「なら、分かるでしょう。おいしいものを食べるためなら、多少の手間くらい惜しくないもの」
紫苑は鍋の中を見つめたまま答えた。
その声には、普段の皮肉めいた調子がなかった。
天子は少し笑った。
「なるほどね。自分がおいしいものを食べたいから、料理も上手になったわけだ」
「悪いこと?」
「いいえ。むしろ、納得したわ」
紫苑は返事をせず、鍋の火加減を調整した。
その間に、天子は味噌汁の準備を手伝うことになった。
豆腐を小さく切り、わかめを水で戻す。紫苑は別の小鍋に水を張り、煮干しを入れて火にかけた。
「味噌汁にも出汁を取るのね」
「取らないと、味噌だけでは物足りなくなるでしょう」
「味噌を多く入れればいいんじゃない?」
「塩辛くなるだけよ」
紫苑は煮干しから出汁が出るのを待ち、沸騰する前に火を弱めた。しばらくして煮干しを取り出し、豆腐を加える。
わかめは最後の方に入れる。長く煮すぎると食感が悪くなるからだ。
「味噌は?」
天子が尋ねた。
「火を弱めてから入れるの。ぐらぐら煮立たせると、香りが飛んでしまうわ」
紫苑は味噌を少量の汁で溶き、鍋に戻した。
それから一度だけ味を確かめる。
「……これでいいわね」
「私にも味見させて」
「熱いわよ」
「分かっているわ」
紫苑は小さな匙に味噌汁をすくい、天子へ渡した。
天子は慎重に息を吹きかけてから口に含む。
煮干しの香りが先に広がり、味噌の塩気が後から続いた。豆腐の柔らかさと、わかめの少し滑らかな口当たりがある。
「うん。おいしい」
「まだ完成していないわよ」
「もうおいしいじゃない」
「食べるときには、もう少し落ち着いているでしょうね」
紫苑は匙を受け取り、鍋をかまどから少し離した。
続いて、きゅうりを取り出す。
一本を洗って両端を切り落とし、薄い輪切りにした。そこへ塩を振り、手で軽く揉む。少し置いて水分が出たら、余分な水を絞る。
「それだけ?」
「ええ。今日は簡単な浅漬けよ。少しだけ酢を加えておくわ」
紫苑は小さな器にきゅうりを移し、酢をほんの少し垂らした。箸で混ぜ、味を馴染ませるために脇へ置く。
「これは私にもできそうね」
「そうね。力を入れすぎなければ、あんたにもできるでしょう」
「どういう意味よ」
「きゅうりが潰れるほど揉まないでちょうだい、という意味よ」
「そこまで乱暴じゃないわよ!」
紫苑は小さく笑った。
その頃には、肉じゃがも煮上がりに近づいていた。
紫苑は蓋を開け、鍋の中を確かめる。じゃがいもには竹串がすっと通り、にんじんも十分に柔らかくなっていた。煮汁は少し減り、玉ねぎは透き通っている。
ただ、まだ少し水気が多い。
紫苑は蓋を外し、火を弱めたまま煮汁を煮詰めていく。
「もう出来たんじゃない?」
天子が尋ねる。
「もう少しよ。煮汁を少し減らして、味を落ち着かせるの」
「そんなに待つの?」
「待つのも料理のうちよ」
天子は腕を組んだ。
「料理って、思っていたより時間がかかるのね」
「手を動かしている時間だけが料理ではないもの」
紫苑は鍋の中を見ながら、木べらで具材をそっと動かした。じゃがいもを崩さないよう、鍋を揺する程度に留める。
やがて、煮汁にとろりとした艶が出てきた。
紫苑は火を止め、鍋をかまどから下ろした。
「これでいいわ」
「やっとね」
「ずっと見ていたあんたには長かったでしょうね」
「そうよ。私は何もしていないもの」
「豆腐を切ったでしょう」
「それくらいじゃない」
「十分よ。あとはご飯が炊けるのを待つだけね」
紫苑は釜の蓋を開け、米の様子を確かめた。蒸らしを終えた米は、量こそ少ないものの、ふっくらと炊き上がっている。
しゃもじで底から返すと、湯気が立った。
「……いい具合ね」
紫苑は小さく頷いた。
天子はその様子を見て、釜の中を覗き込む。
「本当に少ないわね」
「まだ言うの?」
「だって、これだけなんだもの」
「その分、肉じゃがを食べればいいでしょう」
「お肉は?」
「少ないわよ」
「じゃあ、じゃがいもを食べるしかないじゃない」
「じゃがいもだって、立派な食材よ」
紫苑は呆れたように答えながら、茶碗を二つ取り出した。
炊き上がった米を、同じくらいの量に分ける。片方だけ多くすることも、少なくすることもしない。二人分をきちんと量り、茶碗に盛った。
肉じゃがは小鉢に分け、味噌汁を椀に注ぐ。きゅうりの浅漬けも小皿に盛り付けた。
畳の間に運ぶため、紫苑は料理を一つずつ盆に載せていく。
天子はその手伝いをしようと、味噌汁の椀に手を伸ばした。
「それ、私が運ぶわ」
「熱いから気をつけてちょうだい」
「分かっているわよ」
両手で椀を持ち、ゆっくりと畳の間へ運ぶ。こぼさないように慎重に歩く天子を見て、紫苑は少しだけ口元を緩めた。
いつもなら、料理を作るのも運ぶのも、ほとんど紫苑一人で済ませていた。
けれど今日は、天子が横で見ていた。野菜を切り、味噌汁の味を確かめ、最後には料理を運んでいる。
特別なことではない。
それでも、いつもと少し違う夕食の支度だった。
「これで全部?」
天子が尋ねる。
「ええ。あとは食べるだけね」
「ようやくね」
天子は畳の上に座り、並べられた料理を見た。
少ない米に、肉じゃが、味噌汁、浅漬け。
決して豪華な食卓ではない。けれど、先ほどまで台所に漂っていた香りが、今は目の前の器から立ち上っている。
「……なかなかいいじゃない」
「そうでしょう?」
紫苑は向かい側に座った。
天子は改めて、料理を見渡した。
「ねえ、紫苑」
「何?」
「いつも、こんな風に作っていたの?」
紫苑は少し考え、それから答えた。
「いつも、というほど大したことはしていないわよ。あるものを使って、食べられるようにしているだけ」
「でも、思っていたよりずっと手間がかかっていたのね」
「食べることは毎日のことだもの。手を抜きすぎるわけにもいかないでしょう」
天子は目の前の肉じゃがへ視線を落とした。
「……いただくのが楽しみね」
「そうね。冷めないうちに食べましょう」
二人は食卓の前で姿勢を整えた。
その日の夕食は、いつもより少しだけ手間のかかったものになった。
そして天子は、これから口にする料理が、普段自分の食べていたものとは少し違って見えることに気づいていた。
二人の前には、夕食が並んでいた。
小さな茶碗に盛られた白米。豚肉とじゃがいも、にんじん、玉ねぎを煮込んだ肉じゃが。豆腐とわかめの味噌汁に、きゅうりの浅漬け。
どれも特別な料理ではない。
高価な食材を使ったわけでもなければ、普段の食卓に並ばない珍しいものがあるわけでもなかった。二人の懐事情を考えれば、むしろいつも通りの夕食に近い。
それでも、天子は目の前の料理をしばらく眺めていた。
「……なんだか、いつもと違って見えるわね」
「何が?」
「料理よ。作っているところを見たせいかしら」
紫苑は自分の茶碗を手に取った。
「食べる前からそんなことを言っていないで、冷めないうちに食べましょう」
「そうね」
二人は手を合わせた。
「いただきます」
天子はまず、肉じゃがに箸を伸ばした。
箸先でじゃがいもを割ると、表面に染み込んだ煮汁がじんわりと滲んだ。薄茶色に染まった断面は柔らかく、箸を入れただけで簡単に二つに分かれる。
口に運ぶ。
最初に感じたのは、砂糖の穏やかな甘さだった。続いて醤油の塩気が広がり、豚肉から出た脂の旨味が、じゃがいもの中にまで染み込んでいる。
煮崩れるほど柔らかくはない。けれど、噛めばほろりと崩れ、舌の上に煮汁の味が残った。
「……あら」
天子は思わず箸を止めた。
「どうしたの?」
「おいしい」
「そう」
紫苑は何でもないように答え、自分もじゃがいもを口に運んだ。
天子は今度、にんじんを食べてみる。
こちらはじゃがいもより少し歯応えが残っていた。柔らかく煮えているのに、形は崩れていない。噛むと、野菜そのものの甘みが煮汁と一緒に広がる。
続いて玉ねぎ。
こちらはすっかり透き通り、箸で持ち上げると少し形を崩すほど柔らかかった。豚肉の脂と醤油の味を吸い、口の中で静かにほどけていく。
「ねえ、紫苑」
「今度は何?」
「これ、どうしてこんなに味が染みているの?」
「煮たからよ」
「そういうことを聞いているんじゃないわ」
紫苑は少しだけ笑った。
「急いで煮込まなかったからでしょうね。火を強くしすぎず、野菜に火が通るまで待ったのよ。それに、少し冷める間にも味は馴染むもの」
「へえ……」
天子は肉じゃがをもう一口食べた。
「じゃあ、あんたはずっと鍋を見ていたの?」
「ずっとではないわ。様子を見ながら、他のものも作っていたでしょう」
「そうだったわね」
天子は自分の茶碗に目を落とした。
少ない白米が、いつもより少しだけ惜しく感じられる。
肉じゃがの煮汁を箸先につけ、じゃがいもと一緒に口へ運ぶ。甘辛い味が米の淡白な味によく合っていた。
「これ、ご飯に合うわね」
「肉じゃがはそういうものよ」
「もう少しご飯が欲しくなるわ」
「だから、少ないって最初に言ったでしょう」
「分かっているわよ。言ってみただけ」
紫苑は自分の茶碗を見た。
彼女の分も決して多くはない。けれど、肉じゃがを一口食べてから米を少し口に運び、ゆっくりと噛んでいる。
天子はその様子を見て、紫苑の茶碗に視線を移した。
「紫苑も足りないんじゃない?」
「足りるかどうかは、食べ方次第よ」
「そういう問題?」
「そういう問題よ。よく噛んで食べれば、少しは満足できるでしょう」
「それはそうだけど……」
天子は小さく息を吐き、今度は味噌汁を手に取った。
椀から立ち上る湯気には、味噌の香りと煮干しの出汁の匂いが混じっている。
一口すすると、口の中に温かさが広がった。
味噌の塩気は強すぎず、出汁の風味が後から追いかけてくる。豆腐は柔らかく、わかめには程よい歯応えが残っていた。
「これもおいしいわね」
「味噌汁まで褒めるの?」
「だって、おいしいんだもの」
「味噌汁は味噌を溶いただけよ」
「その前に出汁を取っていたじゃない」
紫苑は一瞬、言葉を止めた。
「……見ていたのね」
「見ていたわよ。ずっと隣にいたんだから」
天子はもう一口、味噌汁を飲んだ。
「出汁を取るだけで、こんなに違うのね」
「味噌だけでは、どうしても味が単調になるでしょう。煮干しを使えば、少ない具でもそれなりに満足できるわ」
「なるほどねえ」
「もっとも、毎回きちんと出汁を取れるわけでもないけれど」
「そうなの?」
「時間がないときもあるし、煮干しが切れていることだってあるもの。そういう日は、あるもので済ませるわ」
紫苑は浅漬けを一切れつまんだ。
きゅうりは薄く切られており、表面にはわずかに水気が残っている。塩味の後から、ほんの少しの酢の酸味が感じられた。
肉じゃがを食べた後の口には、ちょうどいい。
天子も一切れ口に運んだ。
「これはさっぱりしているわね」
「箸休めよ。肉じゃがばかり食べていると、味が重くなるでしょう」
「確かにね」
二人はしばらく、箸を進めた。
部屋の外では、夕方の風が軒先を通り抜けていた。干していた洗濯物が、まだ少し湿り気を残しながら揺れている。
食卓に並ぶ料理は、どれも質素なものだった。
豚肉は少し。米も少し。野菜も、買い足したものではなく、以前から残っていた食材を使っている。
それでも、天子は一つ一つの料理を確かめるように食べていた。
「ねえ、紫苑」
「今度は何?」
「私、あんたの料理を毎日食べていたのよね」
「そうでしょうね」
「でも、こんなに手間がかかっていたなんて知らなかったわ」
紫苑は箸を置き、天子の顔を見た。
「大したことはしていないわよ。食べられるものを食べられるようにしているだけ」
「それができるのがすごいんじゃない」
「……急にどうしたのよ」
「別に。ただ、そう思っただけ」
天子は照れ隠しのように、残っていたじゃがいもを口に運んだ。
紫苑はしばらく黙っていたが、やがて自分の茶碗を持ち直した。
「そう言ってくれるなら、作った甲斐もあるわね」
声はいつも通りだった。
けれど、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。
「それなら、明日もおいしいものを作ってちょうだい」
「明日の食材があるかどうかによるわね」
「そこは何とかしてよ」
「何とかするにも、お金がいるのよ」
「分かっているわよ。もう」
天子は不満そうに言いながらも、肉じゃがの残りを大切に食べた。
やがて、二人の茶碗は空になった。
味噌汁も飲み干し、浅漬けの最後の一切れまでなくなった。肉じゃがの小鉢には、わずかに煮汁が残っている。
天子はそれを眺めていたが、箸先でじゃがいもの小さな欠片を拾い、最後の煮汁と一緒に口へ運んだ。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
紫苑は器を重ね始めた。
天子も食器を片付けようと立ち上がる。
「私も運ぶわ」
「そう。じゃあ、茶碗をお願い」
「分かったわ」
二人で食器を土間へ運ぶ。
食事の後片付けまで終われば、今日の仕事はひとまずおしまいだった。
紫苑は器を洗いながら、天子に背を向けたまま尋ねた。
「どうだった?」
「何が?」
「今日の夕食よ」
天子は少し考えた。
「おいしかったわ。いつもよりね」
「いつもより?」
「いつもは、あんたが作ってくれたものを何となく食べていたから。今日は作っているところを見たでしょう。それで、少し違って感じたのよ」
「そう」
「また見ていてもいい?」
紫苑は手を止めた。
「見ているだけなら構わないわよ」
「今度は何か手伝うわ」
「そうね。野菜を切るくらいなら任せてもいいかしら」
「もちろんよ」
「ただし、大きさは揃えてちょうだい」
「……努力するわ」
紫苑は小さく笑った。
天子もそれにつられて笑う。
食器を洗い終えた頃には、外はすっかり夕暮れになっていた。
雨上がりの長屋に、夜の静けさが戻ってくる。
三坪ほどの小さな部屋には、二人分の布団と、仕事道具と、少しばかりの生活用品がある。決して広くはない。食べるものも、使えるお金も、まだ十分とは言えない。
それでも、今日の夕食は二人で作り、二人で食べた。
いつもの食卓に、ほんの少しだけ新しい発見が加わった。
天子は畳の上に座り直し、満足そうに腹をさすった。
「……明日も肉じゃががいいわね」
「残っていないでしょう」
「じゃあ、また作ればいいじゃない」
「材料を買うお金は?」
「……それは、明日考えましょう」
「まったく」
紫苑は呆れたように言った。
けれど、その声には、いつもより少しだけ柔らかさがあった。
二人の暮らしは、明日も続いていく。
第二十話を読んでいただき、ありがとうございます。
おかげさまで、この『無尽長屋記』も二十話を迎えることができました。
ここまで天子と紫苑の長屋暮らしを見守ってくださった読者の皆様に、心より感謝申し上げます。
振り返れば、二人が出会い、同じ屋根の下で暮らし始めてから、さまざまな出来事がありました。
仕事に失敗したり、借金の返済に頭を悩ませたり、ときには体調を崩したり。
決して楽な暮らしではありませんが、少しずつ自分たちなりの生活を築いてきました。
今回は、そんな二人の何気ない一日を描いてみました。
特に、紫苑の料理については、これまで食卓に並ぶ様子を描くことはあっても、実際に調理する姿を詳しく描く機会はありませんでした。
いつも何気なく食べていた料理にも、作り手の工夫や手間がある。そんな当たり前のことに、天子が改めて気づくお話になっています。
今後も、二人の暮らしや食事、長屋での人付き合いなど、何気ない日常を大切に描いていきたいと思っています。
改めまして、二十話まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
これからも『無尽長屋記』をよろしくお願いいたします。
感想やご意見なども、お気軽にお寄せください。